もう一年

green and white mountains near lake under white clouds and blue sky
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 分け入っても分け入っても

 このブログを開設してもうすぐ一年になる.読んでくださっている方、いつもありがとうございます.今後ともご贔屓いただければ幸いである.二年目の目標は特にないので、これまで通り淡々と書いていくことにする.変に気負ってしまうのはだめだ.

 一応、数字で振り返りをすると一年間で7065 PV(ページビュー;記事閲覧数)、 1626人が訪れたらしい.そのうちデスクトップPCユーザーは52.8% モバイルは41.8%、タブレットは5.4%であった(2021年6月2日現在).このサイトの閲覧はデスクトップPCがオススメである.ダークモードで色調を反転させるとなお良いと思う.だらだらしながら鼻をほじったり、背中を掻いたり、眼をこすりながら貧乏ゆすりをして読むとさらに良い.ブログとはそんなもので良い.89%の人が日本からのアクセスで、それ以外は国外からの閲覧であった.物好きにもほどがある.いつもありがとうございます.米領サモアやアゼルバイジャンからのアクセスがあったのは興味深い.上の数値が他のブログと比べてどうなのか、私は全く興味がないのでこれ以上の分析はしない.

 最も多く読まれた記事は「症例アンネ・ラウ」であった.この記事の底となったのはブランケンブルクによる「自明性の喪失」であるが、私にとっても革命的な著作であり、猛烈な感興を得ただけに望外の喜びとなった.実臨床においても、私は統合失調症という疾患群に「自明性と非自明性と弁証法的関係の破綻」という病理を再認識できたのであった.

 私は今までの一度も「あぁ、今回は良い記事が書けたナァ」と感慨に耽ることはなくて、「今度もうまくいかなかったナァ」という気持ちで投稿をする.一つの記事は自分なりに相当下調べをして、何度も何時間も文章を推敲しているはずなのであるが、一つとして「満足する文章」にはなった試しがない.投稿してからまもなく誤字脱字を発見するのは一種のジンクスであり、悲しみである.ともあれ、このブログを読んでいる人がどんな素性の方かさっぱりわからないので、各人がどのような感想を抱いておられるか率直に訊いてみたいところである.私にとって満足いかないものであっても、少なからず誰かを飽きさせないのであれば、筆者冥利に尽きるほかない.

 このようなインターネット記事の書き方については、多くの先達ブロガーの方法論が役に立った.まずブログを書くには「誰の、どんな問題を解決するか」という目標を設定することが重要であるらしい.界隈ではこの人称設定をなぜか「ペルソナ」と呼ぶ.これについてはかなり悩んだのだが、さんざん考えた結果、「私自身の、世界に深く根ざしている精神現象、ひいては精神病理の問題を理解すること」ということに行き着いた.いや、行き着いてしまった.私は、広く遍くすべての(日本語を解する)人々のためになるような記事を目指して書いていたつもりが、やはり、結局は自分自身のために書いていたことに気づいた.これは過去の記事「告白」に詳しい.大乗仏教を目指す僧侶が上座部仏教へ転向するような不思議な現象である.ペルソナは私なのであった.衆生救済はもちろん大切なのだが、一方で自身を研ぎ澄ますことが畢竟大切なのであって、この一種の投影とも言える心理的な動きをきちんと受容しつつ、自身の病理と対峙したいと思う.ユング的に言えば、シャドウとの対決とも言えるのかもしれない.

 ブログの広告収入(Google AdSense)に少し言及する.Googleの規約では収益の金額を詳細に述べてはいけないらしい.「株式会社やおきん」の「うまい棒」で例えることにすると、現時点で一般的な浴槽に「うまい棒」数百本以上が入るくらいになった.これではよくわからない、という方は近所のスーパーマーケットに行って、バラ売りの「うまい棒」の単価を調べていただければ金額の見積もりができるだろう.金銭収入を狙ったブログではないのでこれ以上は触れない.

 話を戻すと、精神病理学の問題とはなんだろうか、という問が次に出てくると思う.これは人によって意見が割れるだろうが、私なりの問題を提示すれば、例えば「不安」とはなんだろうか、だとか、「うつ病」とはなんだろうか、という疑問を深堀りすることにある.別の言い方をすると、より解像度を上げるとか、微分する、ということになるのかもしれない.簡単に言えば、もっとよく考えてみたい、ということになる.別に高尚なことをしているわけではない.私にとって生き延びるためには必要なのである.

「お前さぁ、そういう仕事してるんだったらさぁ、『不安』だとか『うつ』を知らないはずがないだろう」

 と誰か偉い先生からお叱りを受けそうではあるが、種田山頭火の言葉を借りれば、精神病理学は「分け入っても分け入っても青い山」であり、知ろうとすればするほどわからなくなる.これは他の学問の求道者でも同じことが言えるだろう.特に精神病理の山は鬱蒼としている.実に「うつ」というのは説明が難しい.私が実際に体験してしまったにも関わらず、である.哀哉.

 たとえ話を考えてみる.「精神医学」という途方も無い山中の道程に分かれ道があったとしよう.どれを選ぼうかと考えてガイドブックを読むと「メランコリの嚆矢、テレンバッハは左を選んだということになっている」、「力動論のヤンツァーリクは右を選んだらしい」、「笠原・木村分類で知られる木村はまっすぐ行ったとされる」、「精神分析家のラカンによれば、一度下山してからやや左向きに進路を取り、更に右に90度向いてから100メートルまっすぐ歩いていったとかそうでないとか……」 

 とにかく私の知らないような学派・学説がゴニョゴニョ存在し、グネグネ枝分かれしていて、よくわからないことになっている.この難解さをどのように形容すべきか.

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
道は僕のふみしだいて來た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何といふ曲りくねり
迷ひまよつた道だらう

高村光太郎、「美の廃墟」より「道程」、一部抜粋、1914年

 道は自分で切り拓くしか無い.しかし登りきった山からの眺望は格別である.一度でも山に登ったことのある人はわかっていただけると思う.ちなみに高村光太郎の「道程」は102行の詩も見事なのでぜひ全文を読んでいただきたい.

知らないことを知らないと言う

 国内外で知名度の高い人が精神疾患を公表する、という事象があると一定の人々はそれなりに無邪気な好奇心と関心を寄せつつ、彼らの関心領域をより広げようとする.病名を公表する、という行動が当人の自由意志に基づくのであればそれは大変勇敢なことであり、公表に至るまで葛藤と逡巡が交錯し緊張に苛まれる日々が続いたであろうと思う.この選択と決断が当事者の事態好転の契機となることを願っている.

 そのことに関して、妻とも議論をしたのだが二人で懸念していることがある.精神科医や産業医、心療内科を標榜する医師・専門家がメディアの取材に応じ、精神疾患について解説を行う場合だ.その専門家が有名人の罹患しているとされる人の疾患について説明する.特に問題なさそうではあるが、一つの陥穽があるように思う.その解説者が有名人の診察を行った人で無い限り、その人について語ることはできないはずである.あくまでも教科書的な概論しか言えないはずだ.その人がどんなに高名な専門家であろうと、その人は当人の一体何を知っているのだろうか、という疑問が生じる.付言すれば、診療に関わった人であれば、当人の守秘義務が生じるため、どの道語ることはできないはずだ.「この人のうつ病は現代人のうつだと思いますねぇ」という発言は全く根拠がない.ただの感想でしかない.その無関係な人物の無責任な発言が流言飛語となってしまうことがあれば、それは災害級の暴力性を持ちかねない.という私の文章もただの感想なのであるから、自己耽溺に陥る可能性は承知している.「語り得ないものには沈黙せねばならない」、ある人の言葉が胸を打つ.

 特に、精神現象を定量する術を知らぬ我々は、人々の病理を症候の観察と記述でしか表現できないのであるから、人が放つ一つひとつの言葉の重みは計り知れない.その計り知れない重さの重みを慮ることのできない人は、私に言わせれば卑劣漢か無能でしかない.知る由のないことは語るべきではない.まずは自身の器量が許す限り、諮問を求める人に自身の能力を注ぐべきだと考えている.一定の影響力を行使する人間はその力の射程を十分に検討しなければならないと、切に思う.

信頼できる先生はいますか

 私が以前の職場にいた頃、医局のボスが臨床実習へ来た医学生への講義で「ぜひ生涯で信頼できる精神科医と知り合いになってください」と言っていたのを盗み聞きしたことが印象に残っている.つまりは「あなた方学生が将来、内科や外科の医者になるとしても、精神科の問題は避けて通れない.だから気軽に相談できて、適切な助言をくれる精神科医と知己になっておくと良いですよ」ということだ.これを聞いた精神科側の自分としては自然と背筋が伸びるような、自律心を鼓舞されるような感覚で、自分が信頼に資するかどうかは私自身のraison d’êtreに関わっているように思った.勝手に私は極めて重要な責務を感じたのであった.

 この言葉は、のちに私にとって別の意味で重要な課題となった.自身が患者として信頼できる精神科の医者を見つける、ということはすごく難しいことであった.一期一会、という言葉よりもより現代的で俗っぽく言えば、ガチャに近い.傷心の中、重い体を引きずってなんとかたどり着いた先の診察室で、信頼できる医師に出会うことができる人は幸運だ.精神科・心療内科クリニック群雄割拠の時代に、存在するすべての精神科医が適当な助言をしてくれるかと問われれば、それは保証し難い.私の根拠なき意見を言うと、その人がどんな大学を出たとか、どんな研究をしたかとか、どんな資格を持っているかは関係がないように思う.資格は持っているに越したことがないが、その人の人情humanityを担保しない.

 *ガチャ:オンラインゲームで導入されるマイクロトランザクション;課金サービスの一つでゲームに登場するアイテムが無作為で提供される抽選の通称.カプセルトイに由来する.

 では、幸運ではない人はそのまま信頼しがたい医師のもとで絶望せよ、というのかというと、そうではないと私は思う.毎回初診料を払うことは癪かもしれないが、条件がゆるせば思い切って主治医を変えてしまった方が良さそうだ.医者への不信感を増長させて新たな神経症を宿すよりも、転医して新しい助言を得たほうが良いかもしれない.するとドクターショッピングという汚名を着せられてしまうのではと恐れる気持ちが出てくる.それはとてもわかる.だがそのような内省が働くのであれば、あまり気にしない方が良い.そんな汚名は「着こなす」くらいのスタンスで良い.初診の度に担当医を変えろとも、別に100点満点の医者を見つけろということを言っているのではない.安心していただきたい.そんな奴は絶対にいない.

 期待∝重圧

 2022年4月から高校の保健体育で40年ぶりに精神疾患に対する項目が復活するらしい.確かに自分の頃は何も教わらなかったな、という気持ちでいる.一体どのようなことを教えるのか、ということについて、平成30年度にされた学習指導要領を閲覧すると、以下のようなことを学習の狙いにしている.

精神疾患の予防と回復
 精神疾患の予防と回復には,運動,食事,休養及び睡眠の調和のとれた生活
を実践するとともに,心身の不調に気付くことが重要であること。また,疾病
の早期発見及び社会的な対策が必要であること。

高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説

 具体的な疾患には、「うつ病,統合失調症,不安症,摂食障碍など」と、四つが挙げられている.個人的な感想を言えば、どれも教えるのは大変だろうな、と心から養護教諭や保健体育の教諭の労苦が偲ばれる.これらの原因ははっきりしていない、というのが厄介だ.

 こうした精神保健衛生の項目を教育することは歓迎される一方、教育側の重圧と負担はいかばかりかと邪推してしまう.彼らは彼らで慢性的な残業を強いられ、調和のとれた実践と心身の不調への気付きが困難なキャリアにいるのだから.労働環境という社会的な対策が急務であることは現場が一番わかっているはずだ.期待や応援したい気持ちはすごくあるのだが、矛盾した命題に挟まれている人々に向かって、外部の人間がヤンヤヤンヤいうのもためらわれるし、複雑な気持ちでいる.

今後とも宜しくお願いします

 さて、いつも通り好き勝手なことを色々書いてみたところで、ここで今回はおしまいにしたいと思う.ゆっくりとダラダラしながら、二年目を過ごすことにしたい.ここまで読んでくださりありがとうございました.

 

 

 

 

 

 

 

 

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