英語学習についての個人的見解

楽しくやれたらいい

 自然科学において、最も根拠のある主張、すなわちエビデンスが高いものというのは、メタアナリシス研究に基づく結果だという.その下には無作為対照研究(Randomised Control Trial: RCT)がある.さらにさらに根拠の低い試験や研究があり、最も根拠のないものは、(実は)専門家の意見である.だから専門家の意見をあてにするな、とはいわないが、「自分で取捨選択せよ」ということになる.逆にメタアナリシスの結果で帰無仮説が棄却されたからといってその仮説が正しいわけではない.尤もらしいだけだ.こういった誤解は現代でも続いている.ちなみに私は自然科学の畑を出自に持つが、「尤もらしい」とかいう妙な曖昧さが好きでない.

 さて、私がこれから話すことは自然科学の領域ではない.そもそも自然科学と人文科学というのは境界不明瞭だからあまりそういう話をしても仕方がない.エジプトとリビアの間に南北の直線を引いたようなものだ.どちらかといえば人文科学の話をする.私は亀吾郎法律事務所の職員に過ぎず、英語の先生ではない.専門家でも無い.だから自然科学の序列に従えば、この話は最も信憑性がないことになってしまう.「自分から信頼度をさげるとはやはり愚か者め」とお思いの一部諸兄は、落ち着いていただきたい.この論理でいくとあらゆるYouTubeの投稿者が熱く持論を語る行為がすべて虚しくなってしまう.だがそうでは無いだろう.私は、個人的な経験を未来の他者と分有できるか、可能性に賭けてみたいだけだ.

私の話から

 私にとっての初の語学体験は、公文式の英語のときだったと記憶する.単なるCDプレーヤーから流れる英文を聞いて、適切な回答を記述するトレーニングを要請された.

 小学二年生か三年生だったか.「あぁ、今日も洒落臭えなぁ」と思って課題をこなしていたところ、全身を駆け巡る極彩色の電撃が一閃.次の英文を書いた.

The hill is high.

私は英文から並々ならぬ霊感を受けた.

「今、自分は文章を作ったぞ」

という猛烈な興奮.当時の自分にとっては第二文型などどうでもよかった.傍から見れば、「いつもぼーっとしている〇〇くんがなんだかニヤニヤしているな、大丈夫かな」くらいだ.しかし、私は独自に創造という営為を成し遂げた、ホモ・サピエンスを自称するに等しいくらいの感動と自負に満ちていた(後にホモ・サピエンスは撤回した).

 この感興は忘れがたい.私に「自分史」というものがあれば間違いなく、世紀の大事件だった.そこから私は狂ったようにCDプレーヤーを再生した.そして聞きすぎて幾つものプレーヤーを破壊した.

 中学一年生の頃にはちょうど、「生き残った魔法使いの少年」が大人気になりつつあるころだった.私は「賢者の石」を一晩で読み終えたが、生ビール中ジョッキ一つでは足りないおっさんのように物足りなかった.実に見事な翻訳だった.どうやら本国では次回作「秘密の部屋」が出ているらしい.私はウズウズした.

「そうか、原著を読めばよい」

 早速あの手この手で入手し、「Philosopher’s Stone」を読み始めた.一頁目から苦戦した.当時の自分には知らない語だらけだった.文法もよくわからない.一文、一文を辞書を引いて、引いて、引いて、引いて、引いて、引いて、引きまくった.辞書とは今でも良き友人だ.中学校では朝の十五分間に読書の時間があった.辞書と本を持ち込んで、辞書を引く作業を続けた.辞書を使い倒す習慣が始まったのはこの頃からだろう.現在辞書はほぼ電子化した.Macintoshのパソコンを使っている方は、「辞書」のアプリケーションをぜひ利用していただきたい.大変優れた名脇役だ.私がブログを書く時はこれが欠かせない.中国語、韓国語、ドイツ語、フランス語、スウェーデン語、ノルウェー語、イタリア語、ポルトガル語、アラビア語……類語辞典も一部あるのが良い.

 話を戻そう.第七巻の最終章にたどり着いたときは魂が震えたものだ.その時には大学生になっていたと思う.そこまで時間がかかったのは他にも本を読み始めたからだ.幼児のころに絵本で読んだ「ガリバー旅行記」がとてもとても面白く、原書で読んでみようか、と思い書店で買って読んだときの打ちのめされた感覚も忘れがたい.知っている方ならわかるが、初版が1726年だ.読めなくはないが、古めかしく知らない単語がこれまた並ぶ.私はスラスラ読んで、ガリバーとともにリリパット王国にたどり着き、彼が巨人として火事の宮殿に小便をかける場面を読みたいと思っていたのに、なかなかリリパットにたどり着かなかった.「ガリバー旅行記」は途中で諦めてしまった.受験勉強も差し迫ってきたという事情もあった.Johnathan Swift(ジョナサン・スウィフト)の作品に込めた真意を知るに私は青すぎた.

自分に合う参考書を選ぼう

 やはり、私にとって天啓であり革命とも言える出会いは原仙作の「英文標準問題精講」に尽きる.間違いなくRevelationでありRevolutionだった.今でもズタボロの雑巾のように大事に取っておいている.時々見返してはニヤニヤするし、英文を書く時の参考にする.ヘミングウェイ、ラッセル、エリオット、ウルフ、チャーチル、アインシュタイン、ニュートン、フィッツジェラルド、ミルン、オールビー、ミルトン.

 皆、私の心強い協力者である.故人だが.

 この本が私を受験勉強の苦しみから助けてくれたといっても良い.とはいえこの本は圧倒的に手強い.一般的な日本の大学入試のレベルを超えるだろう.だが、TOEICやTOEFLのひどくつまらない英文を読まされるよりは、はるかに気休めになる.「私が」文を読んでいる、という気にさせる.なんとか理解してみせようぞ、という気概をもたせてくれた.そして文の構造がつかめたときの心地よさといったら.当時の先達が「覚えるくらい何周もしろ」というので私も少なくとも三週はしたはずだ.一周目でつまづいた文章にまた出くわすと、まるで著者たちが「おかえり」と言っている気がしたものだ.

 私はTOEICのような共通試験のスコアで競り合うような議論は好きではない.私もTOEICやTOEFLは何度か受けたが、できればもう受けたくない.就職、入学の足がかりとして用意されるその試験は性質上、「ビジネス」に即した内容が多い.広告、新聞、メール、インタビューなどが題材になっている.どれも架空の内容で全体的に虚無感じるのは私だけか.「試験とはそういうもんだ、おとなしく口を閉じてろ、馬鹿者め」というお叱りがあるかもしれぬ.だがつまらない文をつまらないといって何が悪いのか.作成者の顔が見えない、というのがどうも気に入らない.「はいはい、委託されたのでとりあえず作っておきましたよ」というやっつけ感を感じてしまう.

 それに比べ、英文標準問題精講は、裏表紙に引用元の著者の写真が並んでいる(モノクロのせいか、遺影の様にも見えてしまう).誰某が書いている、とわかるのはとても良い.もちろん出典もある.だから後でさらに読みたくなった時に書店に行けば良いのだ.それに彼らが心血を注いだであろう、文章に見られる技巧、散文へのエネルギーが感じられる.それから編集者である原仙作・中原道喜の訳と解説に安定感がある.

 私にとって、名文や名著とそうでないものの違いを厳格に述べることは出来ない.だから上記の意見は誤解かもしれない.しかし、TOEICなどの勉強は問題の解き方を覚えるだけのような、手段が目的となってしまう危険に陥りやすいと思う.TOEICの先にある目的があれば、努力するに越したことはないだろう.楽しくやれたらいい.もし書き手の顔、意思を感じられるような時事の話題に触れたいのであれば、英字新聞をおすすめする.私は現在、Japan Timesの電子版を購読するようにしている.六ヶ月間の月額百円キャンペーンをやっている.よかったらどうぞ.もちろん利益相反はない.

文法について

 非専門家である私から、英文法について述べられることを挙げるとすれば、一つは、「文型」を意識して読むことだ.これはかなり重要な要素で、おろそかにしている人が多い.もう一つは「これは口語的だとか、文語だからあまり使わない方が良い」という意識を持ちすぎないことだと思う.この軛のせいで損をしている人は多いように思う.文語で書いて何が悪い.会話も文語を基礎にして何がいけないと言うのか.「表現が固いじゃん」固くて何がいけないのか.「もっとCasualな表現あるからそっちのほうがいいよ」という指摘は、表現の幅を自ら狭めているCasualtyに過ぎないと思う.それからまともな文法書を買うことが大切だ.私はロイヤル英文法を持っているが、単色刷りのシンプルな構成と大きな字、索引の充実は好感が持てる.一冊あれば一生使える.これで二度と買わなくて良いのだ.作文や文法について参考書を紹介するならば、さきほどの中原道喜や佐々木高政を挙げる.

聞くことについて

 聞こえた文章を書き取る訓練が最も良いように思う.これは筆記の練習にもなる.かつて私はディクテーションの鬼となったことがあった.「The Phantom of the Opera:オペラ座の怪人」という映像作品がある.小説や劇でも有名だ.Andrew Lloyd Webber という作曲家が映画に向けて書いた曲(どれも壮大だ)があり、私は当時、高校生の頃、自宅にオペラを響かせて歌詞を聞き取り、自作で歌詞カードを作ったことがあった.何百回か、延々とオペラが鳴り響いていたので頭がおかしくなりかけたが、語と語の連結を推測したり、発音と抑揚、文章の構造を考える上で良い訓練になった.オペラの歌詞を聞き取るだけで難易度が高いので、後々流行りのポップスやロック・ミュージックを聴いて歌詞を書き出しては、後日公開されている歌詞と照合する、という遊びをやっていた.高校生にしてはそこそこ狂っていた(やっぱりおかしくなっていたじゃないか!)方だが、自分は楽しんでいたと思う.この訓練は多言語でも応用が効く.今度はアラビア語でやってみようか.

話すことについて

 話すことは不肖あまり自信がない.発音と抑揚の付け方は幾分か指南できると思う.ただし私は非専門家だから、最も信頼におけない人材であることを断った上で話をする.発音に関して、海外で暮らしていないと発音が上手にならないのではないか、そう思っている人が多すぎて気の毒である.そんなことはない.小林克也という反例がいる.彼は大変きれいな英語を話すラジオDJで、彼は実に堂々と、崩れた英語を話す海外の連中と会話を成立させる.あっぱれである.彼の流暢さは抑揚の置き方にある.山下達郎もきれいな英語を話すと思う.Ride on Time〜

 また、RとLの違いにこだわりすぎる人が多い.聞き取れるに越したことはないが、初学者には酷だ.そういう人はイギリス英語を身に着けたら良いのではないか.Rの発音があまり気にならなくなる.それに子音をしっかり発音するので、文字と発音が一致して、きれいに聞こえる.私は中学生くらいに気づいてそうすることにした.かつてユース・ホステルの相部屋にいた英国人の青年と話をしたときに「君はいいイギリス英語を話すね」とお世辞を言われたのは良い思い出だった.あれは世辞だ.自慢話はこれくらいにしよう.

 先天的なバイリンガル、すなわち幼少期に外国に滞在したという、外国語のOSをインストールできた人々は外国語を話す時に脳内言語設定が切り替わるようだが、私はそうはいかない.だが、切り替わらなくたって良いじゃないか.言語体系の異なる我々が頑張って、別の言語を覚えようとしているのだ、文法がわかるだけでも素晴らしいと自信に思ったほうがいい.私だったら頭の中でおちおち英作文をする.ゆっくり丁寧に考えたら良い.

まとめ

 大した話はできなかったが、自分の主張は伝えられたのでこれでよしとする.結局は「学問に王道はなし」、ということになる.しかしながら原仙作によれば捷径はある.だから嘆かないでほしい.楽しく突き抜けるのがいいと思う.自分にとって親和性の良い題材を選ぶことが良いだろう.

 最後にミルトンの詩を紹介して締めよう.これは以前の亀吾郎語学教室でも引用した.語学を勉強する時はいつもこれを意識する.我々は地獄から這い出ようとする魔王サタンと同じだ.

Long is the way

And hard, that out of Hell leads up to Light.

Gates of adamant,

Barring us out, prohibit all ingress.

–John Milton, Paradise Lost

私の小論にお付き合いくださりありがとうございました.

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