温故知新

安佚ならざる日々

 ここ数日、私にとって重苦しい時間が過ぎている.陰鬱で重苦しい一秒一秒は容赦なくて、ひたすら食べては寝てを繰り返す日常は悲しい.私の慰みであったものがそう感じられなくなる日々.かつて当たり前だったものがそうでなくなる現在.そうなっているのは私個人の問題だけでなく社会の状況も密接に関与している.似たような境遇をお過ごしの方もおられるかもしれない.

 ここ最近知られる「自粛要請」という言葉は自他の境界が不明瞭になりつつある感覚がして変な気持ちになる.「自ら粛む」ことを「(他者が)要請する」のはなんだか烏滸がましい気がする.だがそうでもしないと世間が粛然としないのは、世の中の自律機能が脆弱になっていることの裏返しなのか.とはいっても皆が粛々としている現況でもない.

 昨年の暮れから私は本当に必要最低限の事以外はでかけることがなくなってしまった.気晴らしにどこかでかけようとか、すこし寄り道しようか、そういう気概が一切ない.一医療人として人一倍気を遣っているのももちろんある.出かけるとしても、印鑑を押したものをどうしても外部に出しに行かねばならないような、私的にも公的にも重要かつ碌でもない行為であったり、生活必需品を買い出しに行くくらいだ.例えば車庫証明や車検証の手続きはほとほとうんざりする悪習だ.警察署や陸運局の喧騒にあらゆるリスクを冒して、手書きの文書を提出する行為は馬鹿馬鹿しかった.先日妻のもとに免許更新の通知が来ていたが、三十分だろうと警察署に赴いて自ら新型ウィルスの危険に身を晒さなければならないことは、奇妙な現実だ.無駄に感情を消費するだけだ.

 私にとっての救いは、やはり本を読むことに尽きる.お正月は久々に20年前のゲームをしたが、楽しかったとはいえ、懐かしさを楽しんだといったほうが正確であったように思う.ゲームをやり終えた(クリアした)あとの虚脱感は年齢を重ねるほどに大きい.その分、哲学書や随筆は心が落ち着く.己の無能さを嘆く以外は眼光紙背に徹すればよく、ひたすら真っすぐ読み込めば良いのだから.現在はマルティン・ハイデガーの「存在と時間」を光文社古典新訳文庫で読んでいる.哲人の作品を解説付きで、しかも日本語で読める幸運!なぜハイデガーか.前に読んだエドムント・フッサールときたら現象学の系譜をたどれば次はハイデガーかな、と思っただけだ.きっとその次はヤスパースかメルロ・ポンティだろうか.やはり現象学という「本質観取」、「確信形成」の理解を追求することは密かに楽しい.

 参考書として併せて「哲学用語辞典」というものを買った.パラパラ頁を繰るだけでも面白い.お高く止まっているように思えるかもしれないが、お気に入りのソファでせんべい(ばかうけ)やロッテのチョコパイを食べ、無糖のコーラを飲んだり、コーヒーをがぶ飲みしながらぐうたら読んでいるだけだ.ブルボンのシルベーヌやレザンヌも美味しくてお気に入りだ.

 ポッドキャストと仏教

 最近、私は音楽も聴かなくなった.もともとは音楽を好んで聴く方だが、最近の歌謡曲を聴いても全然ぐっとこないし、昔のヒット曲を発掘する気力もなくなってしまった.十年前のように新奇性を求めることはもはやない.歳を取るということはそんなものだろうか.その代わりにポッドキャストを聴くようになった.二人以上の司会が日本語や英語で議論を繰り広げる様子を聴くのは案外苦ではなかったことに気づいた.もちろん番組を選ぶが.私は歴史の薀蓄や語学の表現に関心があるので、そのような議題を扱う番組があることは幸運であった.

 車通勤中にポッドキャストを聴くことは私の習慣になりつつある.iPhoneがある限り無料で聴くことができるのはありがたいことだ.司会進行の発言に共感することもあれば、疑義を感じることもある.今の表現を英語で言うとしたらなんて表現するだろうか、と考えながら私の目線ははるか水平面を捉え、両手でステアリングを支えている.アクセルペダルを微調整しながら高速道路を走行するからこそできる芸当かもしれないと思う.

 そんな通勤の片手間、ある歴史番組で仏教の出自に関する議論がなされた.声色からすればおそらく私と同世代の人々で、歴史を専門にしているわけではなさそうな話しぶりだが、皆ものすごく勉強して番組を作っているのだなぁ、と感じるくらい濃厚な議論が繰り広げられ、車内一人でたまげていた.変に司会者の経歴が出ないところがいい.肩書がつくとでしゃばる人もいる.皆偉ぶらず、謙虚に各々の解説を聞くし、わからないものはわからないと素直にいう正直なところに私はものすごく好感をもった.私が聴いた議論の内容というのは、ゴータマ・シッダールタが仏教を創始するに至った経緯、仏陀とは何か、上座部仏教、大乗仏教などの分派、日本への伝来.政治哲学として仏教を利用する中央政府の狙い、中国への留学、空海や最澄の登場であったように思う.そこに「空」の概念、「唯識論」の説明すなわち、末那識、阿頼耶識の注釈が加わる.厳密な定義を外れるだろうが、彼らの説明を聴いて、末那識、阿頼耶識は無意識・潜在意識のような概念に近いと私は思った.即座に、私はジークムント・フロイトのことを想起した.無論、フロイトは無意識という概念を心理学や精神医学に応用した人物である.まったく、それよりもはるかはるか前に仏教が無意識という領域に踏み込んでいたとは!精神医学の教科書にも心理学の教科書にもそんなことは書いていなかったはずだ.自分の無知を嘆く以上に目からウロコの感動を覚えた.この感動は井上円了が迷信を打破するべく「妖怪学」を打ち立てたと知ったときと同等であった.

 仏教という、宗教と呼ぶよりもむしろ体系化された緻密な哲学といえる学問の先駆性と深淵をポッドキャストで感じてしまうとは思わなかった.仏教哲学はもしかすれば、認識論や認知科学さては精神病理学のさらなる理解の助けになるのではないか.私はそんな心持ちがした.私の考えが正しいかどうかはともかく、すでに東洋哲学に関心を抱く(精神)医学者がいても不思議ではないだろうとも思った.もはやとっくに調べつくされているかもしれない.とは言っても学会誌でそのような投稿を見ることは殆どないし、書店でも並んでいるのを私は見かけたことはない.

 この閉塞感漂うご時世での私の癒やしは結局、知的好奇心の刺激に他ならないのだろうと思う.このような時に出来ることと出来ないことの分別を明確にして、個々人の出来る範囲で好奇心を絶やさないようにすることが、有事で枯れ果てないコツなのかもしれない.

 そうはいっても長続きしなくてくよくよするし、がっかりもする.度し難い現実を突きつけられて当惑もする.最近はあまり高望みせず、出来る限り黙々と課題をこなして、かろうじて生き延びているくらいの体裁を保っている方が、今の私の身の丈に合っているように感じる.皆さんにとっても癒やしの時間があれば幸いです.

 ここまで読んでくださりありがとうございました.