統合失調症症状機構に関する仮説

ファントム距離

a・μ=K について

 過去の記事において何度も繰り返している様に、このファントム空間論とは、体験的・空間的時間がある生理的障碍仮説をおくことによって、いかなる変化を被るかという推論である.私達の体験世界は「パターン」概念を用いることで定義された「ファントム空間」という実体的機能に担われているとする.ファントムなる呼称は幻影肢が当事者にとって全く実体的であることに由来する.ファントム空間とはいわば「こころの間合い」であり、私達は対象との「間合い」を至適距離に保つべく恒常性が機能しているのではないか、という仮説である.それが何かしらの原因によって至適距離が狂った場合すなわちファントム機能の失調が生じた場合、統合失調症をきたすのではないか、と精神科医の安永浩は考えたのであった.

 さて、安永はこのファントム空間すなわち個人の体験可能領域の距離(ABmax-ABmin)はμ(ファントム距離)として定義できるという.ABについては過去の記事で取り扱っているからここでは触れないでおく.このμは一般には一定の至適値μoptをとっている.下の図を参照されたい.

図1:ファントム距離

 なんのこっちゃ、と思うかもしれないが、ファントム空間とは何かについて安永が大真面目に考えた図である.本来人間の知覚判断は複雑多岐であるが、その系を単純化すれば、上図のようになるだろうと考えたわけである.μoptはあたかも眼球レンズが焦点をあわせるときに存在するであろう、最も見やすい一定の距離に相当する.こころの機能として考えれば「ほどよい距離」に相当するのである.眼に関して言えば、裁縫針の針穴に糸を通すときに、対象との距離は近いほどよいだろう.しかしレンズの調節にはエネルギーを要する.生理学的なレベルで言えば、毛様体筋だとか、動眼神経の機能に関係する.ずっと近いものを見てばかりでは疲れるのだから、ほどよく遠いところを見ていたほうが良いのは、見当がつくであろう.これがファントム空間でいうところの、ほどよい距離、μoptだ.その距離で、ものを見続けているときの消費エネルギー率aは、至適エネルギーaoptと呼ぶことができる.これは、個人が動員できる最大エネルギーamaxよりも小さく、その差はμoptに対応する.optとはoptimum(最適)のことである.ということは、ある範囲において、

a・μ=K (一定)

ということが成立するものと考えられる.これを二次元座標に図示すれば、縦軸をa、横軸をμにして、図1のようになる.それは双曲線を描く.μ=0の扱いは別個に考えるべき問題であるが、概略を掴むには十分である.Kという値はその個人によってそれぞれ異なる、一定の値であり、精神活動がKが一定の値をとるような範囲で営まれる基本容量のような値であるようだ.さて、この等式から何を考えるか.

 もし、何かの原因で主観的には同じ努力感であるにもかかわらず、エネルギー効率が落ちるとすれば、aの実効値はもちろん低下する.すなわちKも低下する.ただ当人にとってはaは変わらないので、見かけ上μが低下したことと同じことになる.ということは錯覚としては対象の距離がずれる体験として感じられるはずだ.先程の眼球レンズのたとえで言えば、「普段通り新聞に眼を通すも、(毛様体筋が働かずレンズが弛んで扁平となり、網膜像である)文字は小さくなる方向にぼける、つまり感じとしては文字が遠ざかる」ような体験であるという.

 「仮説体系」

図2:ミュラー・リヤ―錯視

  上記の図は錯視の一例として有名な「ミュラー・リヤー錯視」である.二本の水平線はどちらも同じ長さであるが、矢羽の方向によって長さが違うように見える.錯視の立方体である「ネッカーの図形」も平面に記された線分が構成されるとあたかも立方体のように見えてしまうことで知られている.知覚心理学者グレゴリーは、「物体仮説:object hypothesis」という概念を示しているが、どうやら私達は、日常のあるものを見るときに、その立体性や距離、大きさ等を、実は何の証拠もなく、適当に一定のものとして知覚しているようである.それは人間の生理的心理傾向といってもよいかもしれない.レビー小体型認知症の多くは幻視の症状を呈することで知られているが、その患者さんのなかには天井の模様が蜂などの虫に見えたり、人間の顔のように見えることがあると言って、他者に追い払うよう頼むことがある.筆者の経験のなかで印象深いのは、とあるレビー小体型認知症の患者さんにとって、病院のベッドの柵に貼ってある小さなオレンジ色のテープが「サーモンの寿司」に見えたといって、ナースコールを押したという出来事であった.「そんな馬鹿なことがあるか」と思ったのはスタッフだけではない.当人もそうであった.

「そんなはずはないと思ったのですが、どうしてもそう見えるので、おかしいなと思って呼んでしまったのです」

 決して病的な例だけでこうした錯覚が生じるわけでは無いのは、ミュラー・リヤー錯視やネッカーの立方体があることで十分な説明になるだろう.私達は「ルビンの壺」のように、下の図が顔が向き合ったようにも見えるし、大きな壺のようにも見えることを知っている.どうも私達は「見てからの判断」ではなく「見ること」自体にすでに無意識に判断が入っているようなのである.ほんのわずかな手がかりでもあれば、「適当な距離にある適当な大きさの物体」として認知する機構が働く.

 こうした判断図式をグレゴリーは物体仮説と呼ぶことにした.平たく言うと、対象を空間的存在としての「物体」として見る、強い傾向のことである.私達がものを見るときは常に物体仮説を通して、ものを見ている、ということだそうだ.「仮説」であるのは「意識以前の前提」、私達にとってアプリオリな現象であるからである.私達が事実だとして疑わないようなことが、実は全然根拠がない、という点を明示すらしている.

図3:ルビンの壺

  グレゴリーは物体仮説を視覚のみに関する認知で用いている.安永が彼を引用したのには、この物体仮説が視覚だけでなく他の感覚においても拡張できるのではないかと考えたからであった.安永はこれを「空間仮説」ないし「仮説体系」と呼ぶ.対象それぞれのもつ意味合いが主体によって直感的に解釈されるところ=フッサールでいう絶対的所与において「意味仮説」が生じている.サソリを「恐ろしく危険なもの」、青空を「清々しく心地よいもの」などと直截観取するものがそうらしい.世界全体に関する価値観は「世界仮説(体系=システム)」、自我に関するそれには「自我仮説(体系)」として考えてみる.こうした「仮説体系」はアプリオリな生理的基盤であるのに対し、その内容を形成する機能基盤はアポステリオリ、経験による構築であるはずだという.それは不変のものではなく、長期的に変形、修正が行われる.横断的に、つまりある瞬間を切り取るとそれは変わり難い「既製のもの」として機能する.芸術家の作品を横断的に観察すれば作品はみな、作者の変え難い作風として捉えられるが、縦断的にみれば、芸術家の作品群は前期や後期で作風が違う、といったことは例になるだろうか.

 現実の瞬間瞬間において、私達は遭遇する現象に対して「仮説(体系)」にそぐわないことが起きている、と知覚するだろう.これは現実と仮説のずれである.そのずれに対して、私達はさらに「仮説」を動員し、適宜応接するだろう.安永が述べるところ、「仮説体系」は物化した「しかけ」であり、「ファントム」は「仮説」を自らの媒質として形成させる触手、「殻」を分泌する粘膜、いわば意識の「肉体」である、という.ユニークなたとえである.

 なんだかイメージがつかない人がいるかもしれないが私なりに考えてみたところ、イソギンチャクのようなモデルを想起するとよいかもしれない.岩に定着する足盤、口盤は「仮説体系」であり、イソギンチャクの舞台装置である.そこから「ファントム」である触手がウニョウニョうごいて、変化、修正、成長する.(イソギンチャクに殻はないが)触手にある微小な刺胞はプランクトン性の甲殻類などを麻痺させ、口に運んで丸飲みにするのだから意識の肉体として考えても悪くはないかと思った次第である.多分、タコでもイカでもよいのかもしれない.つけ加えて言えば、「ファントム」が「仮説」なしには形をなすことがないように、足盤なしには触手はないし、触手は自らを「触手」だと意識することは(きっと)ないはずである(本当のところどうなのだろう?).

amphiprion ocellaris in exotic corals underwater
Photo by Kal Rivero on Pexels.com

 オヨギイソギンチャクとキタフウセンイソギンチャク、スナイソギンチャクで触手の長さも太さも違うように、「ファントム」は年齢や素質に応じた一定の「容量」をもつ.外圧変動に反応しつつたえずその恒常的な距離を維持しようとするところは、さながら弾性体のごとしである、と安永はいう.ゴムまりのような存在なのかもしれない.

 もうひとつ別の例をだそう.こちらのほうがしっくりするかもしれぬ.貴方が要人のお抱え運転手であると仮定して、ロールス・ロイス・「ファントム」VIIIの運転席にいるとする.この車は巨大で全長5605mm、幅1985mmである.大体5000万円くらいするので、コツンとぶつけるだけでも肝を冷やす.だが運転に手慣れた貴方は、その巨体を都心の中でも見事に操るとしよう.縦列駐車をするときも後方の死角に配慮して、決して側面をゴリゴリこすることはないし、幅寄せも得意だ.どうして「ファントム」は自分の体でないのに、貴方はその車体感覚がわかるのだろうか.

Phantom VIII
Login or Sign up | 初号機, 新世紀エヴァンゲリオン, エヴァンゲリオン イラスト
エヴァンゲリオン初号機

 それは安永風にいえば「ファントム機能」が働いているからだろう.決してロールス・ロイスの「ファントム」に限らず、自分で車を運転する方であれば、インプレッサであろうと、スカイラインであろうと、大特トラックにのる運転手だって「幅や長さはだいたいこんな感じだろうな」という感覚が働くはずである.例えばそれは駐車券を取るときに右に車体を寄せる時にハンドルを右にどのくらい舵角するか、という入力に反映される.

 ここでいう車体は安永の「仮説体系」である.「ファントム」は「仮説」である車体を媒質として身体感覚を拡張させる意識の肉体である.公道において貴方の意思は車体の運動と同期する.路面状況、カーブの曲率、周囲の車両の密度に従って貴方は「ファントム」を巧みに機能させる.「ファントム」が「仮説」なしに形をなすことがないのは、車がなければ運転しようがないのと同義である.

 さらにいえば、80mくらいの戦闘ロボットは「仮説体系」であり、身長が170cmくらいのパイロットは「ファントム」を拡張させて正義を行使するだろう.人造人間エヴァンゲリオンは「仮説体系」であり、搭乗員の碇シンジはエヴァンゲリオンと「シンクロ(同期)」させて「ファントム」を延長する.もういいだろうか.

 搭乗員たる主体は外なる無限に広がりのある現実を、自らのファントムの及ぶ範囲で切り取るものであるし、現実とファントムの相互限定の軌跡として、様々な構造をもった「仮説図式」が定着される.安永は以下の三つを因子にあげる.

 意識知覚系(R):現実外界から及ぼす限定の源泉となる.
 ファントム機能系(Ph):精神の「肉体」であり、「媒質」である.
 「仮説図式」の体系(HS):RとPhを媒介する形で定着される.

Rは私、主体であり、運転手やパイロットである.HSは車体や機械であり、RはHSを媒介にPhを機能させる.この三者がうまく機能している時は私達はそれほど意識しない.

 もし、Rだけが失調すると(肢体の切断、意識障碍)、幻影肢や夢幻状態が生じる.HSが損傷すると、装置は動かない.医学では失行や失認が生じる.もし、Phが障碍されれば、離人症や統合失調症のような体験が生じるのではないか、という発想に至る.

 ということは過去の記事で述べた「ファントム短縮」はRとHS体系の間にずれを生じ、R=HS複合体の「遠ざかり」の錯覚として結果する.どういうことか.車を運転していて右に軽くハンドルを切ったつもりが実際はものすごく曲がってしまい、脱輪やスピンをするようなものだ.車両感覚のバグである.初めて車を運転する時、教習場で脱輪ばかりしていてもやがて上手になって免許が取れるように、現実でも「ファントム短縮」が起きていてもファントムは変形し、拡張して、成長する.健康な時は私達のファントムの実体距離と「仮説図式」および知覚される現実の構造、三者は原則よく一致して機能するようである.

 次回はこうした安永の説がどのように、病態と照合するか見ていくことにする.

  いつもありがとうございます.