症例アンネ・ラウ

常識とか自明性とか

 世の中で言われている「当たり前のこと」というのは案外とらえがたいもので、わかっているふりをしているようで説明できないものが多い.「自然」だとか「常識」「自明性」というものはひどく扱いが難しい用語だ.

あるとき、私は

 「お前には常識がない」

と最近言われたことがあった.どのような背景でその言葉を言われたのかというと、詳しくはいえないが、私の人生で私が選択したことが相手にとって「非常識」な選択であったように受け止められたようだ.私の選択は少なくともその人に害する行為ではなかったはずなのに.とはいっても本当の本当に私が非常識である可能性は常に残されているが.

 その言葉は私の心をナイフで切り裂き、えぐり出すような侵襲的なものに感じられた.りんごにナイフを突き立て、グリグリと回転させると果汁が染み出してくるように私から嫌な汁がこぼれた.傷はもう閉じない.

 「常識」という普遍的価値をもつようでいて、その価値観が主体によって目まぐるしく変わる概念は、私にとって見えない強制力と暴力をもつように思った.こういうときなぜか胸の奥がざわついて重苦しくなる.不思議な現象だが心身が不分離なものであることを実感する.この胸の奥をえぐられる感覚は二度と感じたくないほど不快なものであるはずなのに、この何年か、数え切れないほど経験してしまった.

 その経験をする前から、私は「当たり前」を当たり前たらしめること、「自然」だとか「すでに明らか」なこと、というものを容赦なく使うことに対して一種の危うさを見出すようになった.

 「ちょっと待ってて」「少しでかけてくるね」

 これらの言葉にある「ちょっと」「少し」の持つ時空間の射程は話者の文脈や関係性から「自然」と浮き上がっていくものであるが、この時空間に対する感覚が「当たり前」であることというのはなかなか説明しがたいのではないか.特に、こうした言葉に対する感受性の高い方々にとってこれらの言葉はひどく不親切でわかりにくい呪詛となる.

 改めていうと「常識」は社会構成員の一人ひとりに規範的強制力を課す概念であるが、それは決して普遍的ではない.私達が全裸で外を歩き回らないのは「常識」だが一万年くらい前は全裸は「常識」だっただろう.私達が人権をもっているのは当たり前かもしれないが、つい百年くらい前までは自由は当たり前ではなかった.タバコを吸うことが害であるならば廃止されるのは当たり前かと思えば、我々は一定の年齢に達すれば無条件で喫煙ができる.必ずしも当たり前ではない.

 「当たり前」というのはひどく使いにくく難解な言葉なのに、多義的で曖昧であるために広く用いられてしまう危険性があるように私は思う.どのような文脈の中で用いられているかを明示しないことには「当たり前」は暴走し、私達のもとに馴致することはできない.そして「当たり前」や「常識」を否定することは、私達の存在を根本から否定する恐ろしさを持つ.だから私はあのとき傷ついたのだろうか.

Natürlichen Selbsterständlichkeit

 ここで「当たり前」について検討した著作を紹介したい.

 1971年のドイツで出版された本に”Der Verlust der Natürlichen Selbsterständlichkeit. Ein Beitrag zur Psychopathologie symptomarmer Schizophrenien”というものがある.なんだこの題名の長さは!と思うが日本語に直すと「自然な自明性の喪失.症状に乏しい分裂病の精神病理学への一寄与」という.この本の和訳はみすず書房から出版されており、木村敏によって1978年に紹介された.「自明性の喪失」として一部の界隈では知られている名著である.*分裂病という記載があるがこれは現在では統合失調症という呼称が適切である.当時の表現であることをここでお断りする.

 どういう本か.序文は次のように始まる.

 二つの問題領域がこの著作において扱われている.一つは人間が世界の内に根を下ろしていること(碇泊していること)一般についての現象学的解明、より厳密にはフッサールの意味での「間主観的に構成された生活世界」における人間の根のおろしかたである.もう一つは、寡症状性分裂病(単純型分裂病および症状に乏しい破瓜病)においてことにはっきりと露呈されるような、基底的な分裂病性本態変化に関わるものである.

 前者は現象学的人間学の領域、後者は臨床的精神病理学の分野に含められる.この二つの問題を一冊にまとめた理由を筆者は、二つの問題領域の間に重要な関係があり、その関係こそがこの著作の真の主題をなしている.その共通の問題点とは、「常識」(コモン・センス)の病理学であると言う.そしてコモン・センスというのはそれが月並みできわめて自明なものであるという点に目を奪われて、とかくあまりにも見逃されやすいが、哲学的にも経験的にも非常に注目すべき、独特の基底的な機能である、とする.「当たり前」を当たり前たらしむ機能を二つの学問から検討する著作である.ニッチだが、私にとってはジャストミートな問題である.

 アンネ・ラウという症例が紹介される.彼女は二十歳で睡眠薬自殺を図り、筆者であるブランケンブルク(W. Blankenburg)のいる病院に入院してくる.彼はハイデガーの弟子であるが医学に転進した.担当医師らは彼女に対して面接を行い、病歴を構成して詳細な検討を行う.その後、筆者は診断的には「寡症状性分裂病」であるのが最も適当であろう、と考察する.

 さて、寡症状性分裂病とはなんぞや.今日の臨床ではもはや使われない用語である.現代の用語でいえば統合失調症なのだが、寡症状性、つまり症状に乏しいという意味の性質は現在の診断基準(DSM)では存在しない.そもそも症状を当てはめるためには症状ありきなのだから、寡症状というのは今の操作性診断基準にふさわしくないだろう.統合失調症の診断基準を参照すれば、妄想、幻覚、まとまりのない言葉と行動、陰性症状が主なもので、五つのうち二つを満たせば、期間や除外診断を検討した上で診断が確定できるものになっている.寡症状性分裂症はそういった症状に乏しい分裂病であるというのが端的な表現であろう.かつては破瓜型、緊張病型、妄想型、単純型といった病型分類による診断は多かったが、DSMでもはやこのような病型分類存在しない.なぜか.それは本旨を大きく外れることになるのでここでは触れない.まずはアンネの言葉を引用してみよう.彼女の言葉に妄想はないことがわかるだろう.

 私に欠けているのはなんでしょう.ほんのちょっとしたこと、ほんとにおかしなこと、大切なこと、それがなければ生きていけないこと…….家ではお母さんとは人間的にやっていけません.それだけの力がないのです.そこにいるというだけで、ただその家の人だというだけで、ほんとにそこにいあわせているのではないのです.___<中略>___私に欠けているのはきっと、自然な自明さということなのでしょう.

≪それはどういう意味?≫

 だれでも、どうふるまうかを知っているはずです.だれもが道筋を、考え方を持っています.動作とか人間らしさとか対人的関係とか、そこにはすべてルールがあって、だれもがそれを守っているのです.でも私にはそのルールがまだはっきりわからないのです.私には基本が欠けていたのです.

 彼女の言葉は数頁にわたって記載されている.大方は「ごく当たり前のことがわからない」という愁訴が続く.入院時の所見からは一見したところ、外面的には、問題のない、気立てのよい東独生まれの女の子のように思われた、という記載があるが、この印象は誤りであったと続く.鈍重といってもいいほどの平凡な外観の背後に、極度に敏感でもろい精神構造と、人格の著名な部分的未熟さが潜んでいると評している.彼女の話し方は一生懸命に言葉を探そうとし、同じことを繰り返したり途切れたりで、まるで支離滅裂に近いものになる.一定のテーマでまとまった文章をつくることはできなかった.自分では考えが途切れる、急に何もわからなくなるといっていたが、真の意味の思考奪取は確認できなかったとされる.知能検査(ウェクスラー式)では言語性107,動作性98,総指数103で年齢相応の平均的な知能を示した.しかし、行動の緩慢化、要領の悪さ、情熱的な囚われのために成績は悪くなっていたという.ロールシャッハ・テストでは解釈意欲の低下を示した.反応数は115と異常な多さだが、明らかな保続傾向があり、コンプレックス反応の典型的なものがほとんどみられなかった.この検査では診断はできなかったと記載がある.

 要するにこうした所見からは、患者は自分の力では対処できない状況につねにあるということが示された.知能や想像力は優れている一方、実生活での対処能力が全般に及んで低下していること、周囲とのつながりが表層的で非人格的なものになってしまっていること、人生とのあらゆる種類とのつながりがひどく貧困化していることが記述された.

 当初ブランケンブルクは、彼女が人格の発達遅滞に伴う異常な体験反応であるか、神経症圏の範囲で理解されるものと考えていたが、精神病圏なかでも統合失調症を鑑別に考えるようになったのは、経過から唐突でしばしば不適切な感じのする感情の動き、移り気な振る舞い、軽度の衒奇症、著しい思考障碍が見られたからだという.治療について述べれば1970年代における薬物療法をはじめとする医療は有効でなかった.電気けいれん療法も有効でなかったとされる.精神療法も支持的なものを除けば、彼女はひどく抵抗し自殺念慮を増すばかりであった.彼女は部分寛解を経て一年後に退院した.デイケアでの作業療法を行ってから家政婦として働くまでになったが、根本的な変化は生じていなかったと担当医は考えたようである.やがて急激な病状の悪化、彼女は自殺念慮が増していき、家人の目を盗んで自殺した.

 惜しむらくは彼女を救命できなかったこと、寛解に導けなかったことであろうと私は思う.もし、アンネ・ラウのような症例が現代の日本に現れたとするならば、私達はどのような考察を行うだろうか.どのような診断を下すだろうか.もしかすれば彼女の振る舞いからアンネは発達障碍という広義な篩の上にかけられて、その診断に基づく治療がなされたかもしれない.統合失調症の診断を下す医師は少ないのではないかという印象ももつ.彼女は現代においてリカバリーに導くことができるだろうか.こういう問いかけは歴史のIFのような、「もし高杉晋作が病死していなかったら」といった反則技にあたるので、考えすぎるのもよくない.だが現代においてアンネ・ラウの病理に接近することができる医師はどれだけいるだろうか、という疑問を持たざるをえない.「自然な自明性の喪失」という言葉を診療録に書き留めて、それを検討するだけの精神的余裕があるだろうか.彼女を癒せるだろうか?

 ルートヴィヒ・ビンスワンガー(L. Binswanger)のような立場から述べると、私達はもともと自明性と非自明性の弁証法的な動きが備わっている存在だという.自明性が止揚することによって新たな自明性に取って代わる.そうして私達現存在はその単一性を保つことができる.これを人間学的均衡という.それは常に弁証法的関係性を意味する.不均衡はその均衡の破綻である.「自然な自明性の喪失」というのは現存在「Dasein」における自明性と非自明性との弁証法が後者の側に引き寄せられることと同義である.つまり、私達を取り囲むすべての事物とのかかわりを根本的に支えている自明性が、疑わしいものとなる、ということになる.

なにもかも、ほんとになにもかもがとても疑わしいのです.私にはなにがなんだかちっともわからないのです…….なんとなく生きることなんてできないことですもの……なんとなく生きることということにすっぽり浸かっているなんて、とてもできないことです.

ブランケンブルクは現象学的検討において、「自然な自明性の喪失」を以下の四つの観点から究明できると述べた.

・世界との関わりの変化(世界の意味指示性が全体に不確実になる)

 いまはもう、いろんな感じが痛く感じられるだけになってしまいました……いろんなことのつながりというのか、ほかの人たちと同じ一つの感じを__世界の感じというようなものでしょうか__もっているというそんな感じがしないんです.以前はなんにもできないっていう感じだったのです.

・時熟の変化(時間構成の問題、時間を経験するということができない)

 現実のうちにとどまることがとてもむつかしいのです.毎日毎日、新たに、はじめからやりなおさなければなりません.

・自我構成の変化.(自然な自明性と自立の弁証法的関係の破綻)

 ここの生活の流れに自分をどのようにあわせたらいいのかわかりません.私にはピンとこないんです……作業療法のときも病棟でも、自主的に働くということができません.

・間主観的構成の変化.他者との関わり.

 どうしてほかの人もやはりそうであるのかが、全然感じられないんです.なにもかも、ほんとになにもかもがとても疑わしいのです__生きているということも!

 繰り返しになるが、私達は自明性と非自明性の弁証学的な動きによって存在している.止揚(アウフヘーベン)というヘーゲルでいう、否定・保存・揚上という三つの意味を含んだ機能があって、新たな自明性を作り出す.これは「疑問をもつ」ということによって現存在を統合させる一つの契機でもある.だが、アンネのような統合失調症において、この疑問が過剰になりすぎる<何もかもが疑問になる>と、それは侵襲となり、身体と心と精神とからなる人間存在の全体へ向かって入り込んでくる.これは私達には大変な侵襲であり、現存在を脅かす根本的な、荒々しい身体に迫るような形で起こる.アンネのいう「痛み」というのはメルロ・ポンティ的<受肉化した主観性としての身体>が知覚する侵襲なのであろう.私が傷ついたときも、私という現存在を脅かす侵襲に対する反応なのかもしれない.

 統合失調症というと、表層的な人々はやれ妄想だ、やれ幻覚だという.現代の診断基準をことさら否定するつもりはないが、ブランケンブルクが本著で言わんとしたことは極めて重要なことであり、私達を私達として確かに存在せしめているものこそ、統合失調症の患者にとってはそれが自身を危機に晒すものなのだということだと私は思う.一臨床の立場として感服の思いである.分裂病、現代における統合失調症は人間的な疾患であり、現存在の根幹に関わってくる病である.自明性というのはそれ自身が間主観的に構築されるものだから、自明性が喪失するということは、必ず自己と世界との関係性に関わってくる.統合失調症において、自明性が喪失するという問題は「コモン・センス」に対する判断の動揺である.

 「当たり前」だとか「常識」、「コモン・センス」というのは虚ろな空のように移り変わるエピステーメー的な言葉であることを今一度考えることができた.その性質ゆえに、「コモン・センス」は自身に対して脅威になることもあれば、止揚を経て新たな自明性を築く機会にもなる.近年、「自分らしさ」という実存的な言葉が大手を振って世界中に浸透しつつあるような気配がするが、それは自明性の喪失に対する恐れの裏返しなのかもしれない.きっとアンネ・ラウのような症例は決して少なくないはずであって、もしかすると隆盛を極める発達障碍という診断の影に埋没し、声なき声を上げているのだろうか.私にできることは極めて限られているが、謙虚に自分の力量を超えずに、静かに耳を澄ますことはかろうじてなんとかできそうである.

 ここまでありがとうございました.「自明性の喪失」を買った当初は全くもって本書の内容のがわからないという苦しい思いをしましたが、フッサールやハイデガーといった現象学者の理解に努めることでようやく本書の全体的俯瞰ができたと思っています.とはいっても理解は微々たるものですが.こうした知識の獲得は私の数少ない喜びです.この美しい風景は私だけのもの!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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