赤の現象学:IV

九月以来

 現象学のコーナーを立ち上げて、最後に投稿をしたのは去年の九月であった.私の体調があまり良くなくて、ひたすらにクシャクシャな気持ちの方向をブログに向けてなんとか食いしばっていた時期であった.冷たい季節が再び訪れる頃には私の気持ちも少しばかりおとなしくなって、好きな勉強の成果が感じられるようになった.前回の記事、「症例アンネ・ラウ」は思ったよりも沢山の方に読んでいただいた.とても嬉しいことだ.記事は私なりの精神医学へのリスペクトと、患者さんへの敬意を表したのだが、皆さんにはアンネのどのような言葉が琴線に触れただろうか.今回の記事はこれまでとは形式を変えて、いくつか随想を散りばめてから解説を試みたい.

暖かさを感じて

 週末の暖かい日は二月らしからぬ陽気な時間が関東を包んでいた.春のおとずれをますます期待させるような、ワクワクするような日だったと思う.私も早く暖かい季節が来てくれたらいいなと思う.花粉には閉口してしまうが、車の幌は積極的に開けるつもりだ.可怪しいと言われても私には数少ない楽しみなのだから大目に見てほしい.

眩しい声

 以前、別の記事で紹介したラジオ番組の全エピソードを聴き終えた.改めて感想を述べると、稀有で良質な番組だと思っている.COTEN RADIOという番組だ.歴史のデータベースを構築している「株式会社コテン」の代表二人と、福岡県の地域創生を目指している「株式会社BOOK」の代表、計三人が一コマあたり二、三十分程度の放送を毎週放送している.主に世界史の人物・事象に焦点を当てて、「なぜその人物・事象が歴史的に意義があるのか」を固い雰囲気なく楽しそうに深堀りしてゆく.「株式会社コテン」の二人は歴史が好きで大変な物知りである一方、MC役の「株式会社BOOK」代表は歴史に詳しくない立場「歴史弱者」を自称し、謙虚に二人の解説を聴きながら軽妙な合いの手を入れ、核心をついた質問をする.この三人のバランスが良いと私はとても良いと思っている.仲の良い友人が好きな話題で盛り上がるという底抜けに明るい番組かと思えば、歴史上の出来事一つひとつを「一つのケース・スタディ(事例研究)」と捉え、冷静に現代社会にフィードバックする.

 あるエピソードで三人のうち一人が「歴史を学ぶと、個々人の意志とは無関係に社会は変わってゆくことを痛感する、それでも自分は自分のできることをやるしかない」と述べる場面があったように思う.私はこの考えに深く共感したのであった.一歩引いた立場、少し冷めた目線で物事を捉えるような考え方は、自身の被投性を自覚しても先駆的決意で突き進んでいく矜持のように感じられた.ラジオ番組のはずなのに、彼らの存在がとても眩しく感じた.

特別席

 私という存在は社会の中では徹底的に無力であることを自覚するに至ったのは本当につい最近のことである.私という一個体が深刻な機能不全に陥ってから、漸く自分の身の上を理解できた.自分が病気になってからは、この病気の回復を期待しすぎないようにしているし、このまま墓場までに連れ添って一緒に地獄に行けたら良い.

「俺が死んだら、あの世で先生に特別席を用意しておくよ」

 私の担当する、とある患者さんはいつも私に気を遣ってこう言ってくれる.「その時はよろしくお願いします」と私は返す.その方は貴方が考えているよりも遥かに長く入院している方で、五体は満足ではない.痩せた母指球筋が彼の衰弱を物語る.彼の片眼が自身によって失明していることがかつての病態の凄まじさを感じさせる.彼の紡ぐ言葉は文法的に破綻していて、文脈も飛び飛びで前後の連関をなさない.こうした言辞は連合弛緩などで片付けられてしまうかもしれない.しかし彼には彼なりの哲学があることを面接のたびに知る.彼は自分が死にゆく存在であることを常に意識して生きていると思う.彼の言葉には生の諦観と死への期待があるのかもしれない.そうだとしてもその眼差しは会うたびに力強く、私に対する温かみを感じる.なのに私は全く気の利いた言葉を返すことができてさえいない.

 「俺は食べることと眠ることしかできません」(大変立派なことです)

「先生は死後の世界に行ったことある?」「どんなところなんだろうなァ」(案外悪くないのではないですか)

「先生はそばが好きなんだろ?死後の世界で用意しておくよ」(いつもすみません、覚えてくださってありがとうございます)

 私が彼より先に死ぬ可能性は十分ある.誰でもそうだろう.もし彼のあとであったとしても、私にはどうやら特別席があるらしい.だから私はあまり心配していない.特別席にざるそば大盛りで、とろろと蕎麦湯と天ぷらがあればなお嬉しい.

とりあえずエポケーしてみる

 過去に述べた現象学における用語を整理してみる.そもそも現象学というのは、私達が世界の実在をいかにして確信しているかを解明する学問であった.そのために私達は、主体と客観が一致しているということを究明するのではく、近代哲学までの「主客一致」の図式を捨て去る.そして確信している事物に対して、判断停止<エポケー>することで、存在を一旦疑うことを提唱する、すなわち現象学的還元を行うべきだとフッサールは述べた.

 そうすると、貴方の目の前にある、この記事は幻<ファントム>かもしれない.しかし、貴方がこれを見て観取する「白い」「黒い」という知覚的感覚(知覚直観)、「文章だ」「つまらない」「退屈だ」という知識に基づく感覚(本質直観)は貴方の意識に必ずのぼる.眼前の存在は超越であり、どこまでも疑わしい存在だとしても、貴方の感覚は不可疑なのだ.眼前の存在によって貴方の意識にのぼったこれらの感覚は、ブログのごく一部であり、すべてではない.なのに貴方は上記の直観で、文章の存在を、ブログの存在を確信している.知覚直観・本質直観はともに内在と呼び、直観から構成される対象を超越(構成的内在)と呼ぶ.その働きをノエシス、超越そのものをノエマという.こうした意識・思念の性質を志向性とフッサールは呼んだのだった.以上の議論を私は自動車で例えたり、コーヒーに例えもした.ここまでが以前の記事の内容であった.ノエシス・ノエマについて触れていなかったことはお詫びする.

 ここから話す内容はいままでお伝えしていない内容である.先に述べた四つの小論は私の随感である.これは現象学的言い方をすれば、私にとって不可疑な直観に基づく記述である.このブログの存在はどこまでも疑わしいし、読者の存在も疑わしい.私が確信している自身の身体を使って入力した文章も構成的内在に過ぎず、果てしなく疑わしい.しかしながらくどいようだが、私が「嬉しく感じた」こと、「季節外れの暖かさを感じた」こと、「Podcastの番組をいいなと思ったこと」、「患者さんの暖かみを感じた」ことは絶対に疑いようのない確信なのだ.これが貴方にとって超越であろうと.

 

 私と一部の患者さんとの面接は自我と他我を理解する貴重な経験である.なぜか.まずフッサールは、世界が主観の外に実際に存在しているかはわからないし保証できないという.しかし私は何度でもいうが、私は意識にのぼる内在を知り、感動を確信し、志向するノエマを確信している.すなわちこの世界を確信している.世界を確信している、ということは私以外の意思の存在を確信していることでもある.この内在は間主観性とフッサールは呼ぶ.要するに、「お前がそう思っているんだろうと(同じように)私は思う」である.今風にいえば「わかりみが深い」感覚に似ているかもしれない.この対象確信の条件と構造は、誰が内省しても、表現の違いを別として、必ず同じものとして取り外せるはずだ、という理屈である.この確信形成の共通性が自然科学のもつ「客観性」の根拠でもある.

 もし確信条件が違うならどうなるだろうか.それは私と他者の確信構造が異なるにほかならない.「世界の現実性と秩序」=世界・内・存在(ハイデガー)を共有していないことになる.私と他者で生きている世界が異なるのである.これは決してレトリックではない.私と赤ん坊の対象確信は異なるだろうし、統合失調症や高次機能障害などとそうでない方々の確信形成の条件が異なるだろうことは理解できるのではないか.アンネ・ラウという好例を先日示したばかりだ.もう一度、ブランケンブルクの考察を引用しよう.

・世界との関わりの変化(世界の意味指示性が全体に不確実になる)

 いまはもう、いろんな感じが痛く感じられるだけになってしまいました……いろんなことのつながりというのか、ほかの人たちと同じ一つの感じを__世界の感じというようなものでしょうか__もっているというそんな感じがしないんです.以前はなんにもできないっていう感じだったのです.

・時熟の変化(時間構成の問題、時間を経験するということができない)

 現実のうちにとどまることがとてもむつかしいのです.毎日毎日、新たに、はじめからやりなおさなければなりません.

・自我構成の変化.(自然な自明性と自立の弁証法的関係の破綻)

 ここの生活の流れに自分をどのようにあわせたらいいのかわかりません.私にはピンとこないんです……作業療法のときも病棟でも、自主的に働くということができません.

・間主観的構成の変化.他者との関わり.

どうしてほかの人もやはりそうであるのかが、全然感じられないんです.なにもかも、ほんとになにもかもがとても疑わしいのです__生きているということも!

 アンネが他者との間に世界の深い断絶を感じたように、私は医療面接において私と一部の患者さんらの両者に「世界の現実性と秩序」を共有していないであろうことを理解する.ノエマに対する連続的調和が保たれていないのだ.断っておくがそれは正常とか異常とかいう馬鹿に野蛮な手続きで済ませてはいけないと思う.もし貴方が彼らを異常と呼ぶのであれば、それはあまりにも失礼である.だれが好きで精神を病むというのか.面接において私にできる唯一の方法は古典的手法だが、やはり今のところ精神療法しかないと思う.薬物治療は大々前提の治療法であるからここでは述べないことにする.

 私と他者の間に世界確信の断絶を感じた場合、私は私なりになんとか彼らの体験世界を理解しようと努める.いわゆる妄想とされる言辞は彼らなりの世界を構成する要素なのであるから、これを否定することは彼らの存在を脅かすことになる.可能な限り共感と歓待の気持ちで歩み寄ろうとする.それははてしてなく困難である.転移の問題もあるのかもしれない.転移についてはいつか触れたい.

 間主観性こそが世界の存在を基礎づける、というフッサールの考えは私にとって非常に新鮮であった.現象学的還元という方法は本質解明の唯一の強力な手法であり、とりあえずエポケーして疑ってみることは誰でもできる美しい考えであると思う.現象学的な方法で精神病理学を理解する意義も徐々に納得できるようになったし、現在も悪戦苦闘している「ファントム空間論」の最終章の理解に役立つだろうと思う.安永も述べていたが、求められるは精神病理学と神経生理学の架け橋となるものである.この二つの学問をクロスオーバーする何かが、いわばミッシング・リンクのように欠けているのかもしれない.

 と、私はいままで思ってきたが、それは実は大きな誤解なのかもしれないと今では考えている.精神病理学と神経生理学という学問の二項対立の図式で考えるからこそ解明できないのあって、一旦判断中止してみて別の切り口で考えてみることによって新たな突破口ができる可能性が残されている.それは今後の課題に残しておくとして、私はコツコツと精神療法の修練に邁進したいと思う.私にとってはこの現象学という学問は、精神療法を行ううえでの患者さんとの架橋を行うためのかけがえのない橋頭堡であると思っている.

ここまでありがとうございました.