ファントムドライブ

オキゴンドウとファントム

 冷たい夜に車を運転をしていてびっくりしたことがある.あるとき前方に巨大な車体を認めた.尾灯の形は見慣れぬもので、自動車診断学の知識を活かしてなんとかロールス・ロイスのそれだとわかったが、夜間だと車種が同定しづらい.前方100mではわからなかった.自然と近づいて追い越してゆく際に横目で見やると、ぎょぎょぎょぎょ!以前取り上げたファントムVIIIであった.なんというデカさ!車体があまりにもでかすぎる.ドレッドノート戦艦を基準にして例えられる「超弩級」という言葉はファントムにふさわしいと思った.だが誤解なくいうと私は決してその車の意匠は好きではないし、ほしいとも思わない.ではなんでそんな話をするのか.本当は好きなんじゃないのか.そう思った方は、ただの小市民が体長5mのオキゴンドウを飼育したいと思うだろうかと考えてほしい.見た目の好みもあってもいいじゃないか.とはいっても水族館で見ればワクワクするものだ.ただ私は同じようにファントムを見てワクワクしただけだ.その夜はオキゴンドウがゆったりと海遊するように、ファントムも悠々と公道を駆け抜けていた.

 同時に私は、密かにリスペクトしている安永浩の、あるエッセイの表題を思い出した.

ファントム空間は疾走する

 こういうことを書くと、中二病だとか、キザだとか、カッコマンだといじめてくる人がいる.これは安永のオリジナルであり、彼はジャン・コクトーらしさを想起して悦に浸っていると述べている.私はジャン・コクトー風情を理解しないのだが、この句が意味するところを以下の文章を引用して説明しよう.

 当時私は、停年後始めた楽しみとして、自動車運転に凝っていたので、ふとこの言葉が頭に浮かんだのである.つまり運転しているときの注意空間は、前後100メートル位、左右が各10メートル位の透明な紡錘状をしているように思えて、この目に見えない空間が、時速40−60キロで車とともに疾走している、というところをイメージしたのである.もちろんどの運転者でも同じだから、路上は無数のファントム空間が疾走し、交錯していることになり、ぶつかる音はしないが大変な混雑ぶり、とこの「目」からは見える…….

 これを見て私は歓喜した.以前の記事で紹介した意識的知覚系Rファントム機能系Ph仮設図式系HSの例えとおよそ同じでは無いか、と.どうか夕方の首都高速6号線小菅ジャンクションのことを考えていただきたい.運転が上手ではない私から言わせてもらうとあれはひどい所だ.あれは左右から無数の車が合流をしかけあう無慈悲な戦場である.まるで海中をアジやイカやカサゴやボラがヒューヒューと泳ぎ回り、お互いにぶつからないように巧みに交錯する.そして時折オキゴンドウやジンベイザメがぬぼーっと周りを威圧して泳ぎ、コバンザメが便乗して右左折をする.はぐれたイワシの身である自分としては緊張する場面である.とはいえ、私の考えていた事、車に例えていたことが同じであったのは僥倖で、一瞬安永と400%くらいシンクロしたような感覚となった.案外思索にふけるのは悪くないなと思った.

 無数の意思が、互いに干渉しないように(時として干渉してしまうが)走り抜けていくさまを見ると、私は背景にファントム機能を意識せずにはいられない.おそらく脳科学の立場からいえば「身体感覚の延長」という表現になるのだろうが、私は「ファントム空間が疾走する」方がしっくりくる.より説明的だと思っている.ではどのように説明的か、というとその説明はなかなか難しい.まずは特集「ファントム空間論」をはじめからご覧になっていただければと思う.いつか脳科学の立場から幻肢を取り上げて説明を試みたいとも思う.

ファントム短縮2.0

 なんどもなんども読み返してもわからない部分というのがあった.彼の著書に図示されているファントム短縮の説明が大変抽象的?(もしくは自分がポンコツ)なので一つの図を理解するのにものすごく時間がかかってしまって、なかなか前に進めない感覚があったのである.「ファントム短縮」というタイトルで昨年の12月25日に投稿をしたときは、その説明は割と表層をなぞるような記事に過ぎず、各論に迫りきれなかった.まずはおさらいをしておく.

 ファントム空間(こころの空間)とは、体験可能な至近点(自分の身近なところ)から至遠点(赤の他人)までの空間のことをいう.その至近極からその時のイメージまでの体験距離をファントム距離、といい(こころの距離)、これを保っている特殊エネルギー実態の働きをファントム機能(こころの機能)と呼称する.ファントム距離はビヨヨ〜ンとゴムまりのように多少伸び縮みする.だがたいていは至適定常距離にある.つまりほどほどの距離感を保つことができている.知的イメージはその端に現れる.知的イメージというのは、「家族」、「友人」、「職場の人間」といった他者の存在と考えてよい.それなりの距離感を自分なりに掴んでいる.それがファントム機能だ.この機能が正常であれば、習慣的に作られた世界の距離的構造の認識図式とファントム機能とはそのファントム距離測定において全く一致している.

 ところがファントム機能のなんらかの失調により、ファントムエネルギーが低下してしまったとする.だが、自身はそれに気づかない.当人にとって実際のイメージはその「予期された距離」にはなかった.自身はよろめき、錯覚運動が起こる.どのような錯覚運動か.前回の記事で例えたエレベータをもとに考えてみる.エレベータにおいて自分が完全な静止系にいると思っていたら実は自分が等速運動する慣性系にいて、なおかつ突如急制動し、自分が浮き上がるような感覚である.これは「不意打ち」に近い仕打ちだ.当然狼狽するだろう.安永はこのような「不意打ち」をファントム短縮と呼んだ.

 

 この議論はもう少し深堀りすることができるようだ.安永は以下のように議論を進める.知覚体験における意識全体のあり方と、表象体験における意識全体のあり方と、表象体験における意識全体のあり方は異なっている、と.ではどう異なるのか.彼はジャン・ポール・サルトルの現象学的考察を取り上げている.残念ながら私にはサルトルの考えはよくわからない.だが、要するに知覚体験には「外界から流入するたえざる充実」という激しい緊張関係がある一方で、表象世界にはそれがない.おそらくは、視覚のような知覚体験は、失明するか後頭葉を損傷するなどして、神経系を遮断しない限り、無条件に情報が入ってくる.嗅細胞が破壊されなければ、うなぎの蒲焼きの薫香から逃れることができない.それらに対して主体は何らかの想起をする.イメージする、というと曖昧だし、せっかくなので現象学用語のノエシスを使おう.ノエシスが作用してなにがしかのノエマが生じる.つまり、インプットとアウトプットという二つの方向性が生じている.一方、表象というのは、そもそもが抽象的なものだから、知覚情報として入ってくるものではなく、あくまで思念するものである.これは脳内でアウトプットするのみであり、一方向的である.そんなに間違ったことは言っていないだろう.この話は錯視の話にも通ずる.

 ファントム的にいえば、(ファントム的、という表現は安永らしくて好きだ)表象空間は、現実にはないものを指向する、という意味でまさにファントム空間である、と安永はいう.知覚空間では主観的ファントム空間は、さらに現実知覚の流入と充実によって二重の枠付を受けている.この現実の枠付は主観で左右するわけにはいかない独自の源泉をもっている.

 このような相違は「ファントム短縮」の仮定を導入した場合、どのような結果に、どのような現象として現れるだろうか、という問題提起をする.一つは「遠ざかり」、もう一つは「自我収縮」である.ファントム短縮が主観的には、世界自体の錯覚運動=対象距離感の異様の離隔として体験される場合が、「遠ざかり」、自分自身について体験する場合は「自我収縮」となる.……らしいのだが、どうにもこうにもよくわからない.さらに、彼が追補するのは「ファントム短縮」は対象の「遠ざかり」だけでなく、自身の「遠ざかり」が現れてもよいはずだ、という論である.このあたりで私はしばらく躓いていた.

 「この図(図1)を見ていただければわかると思うが」と本には記してあるのだが、私には何度見直してもよくわからなかったことが大きい.何百回見直しただろうか.別に著者を責めるつもりはない.私の理解力を嘆くほかないのか、それとも他の読者にも難解なのか.これは感想を聞いてみたいところだ.

 

図1:置き去りと自我収縮、その両方について安永が考案した図

  あれから幾星霜、なんとかわかったような気がしてきた.自分なりに紙に書いて図示するのが一番良かった.おそらく以下の二つの図として再構成あるいは再解釈すると、わかりやすいのではないかと思う.

 図2を取り上げる.自分と他者がいる.その間は物理的な距離が存在しているとしよう.つまり5メートルや、6フィートだとか、六尺といった具合である.では5メートルとしよう.もしファントム機能が健全であれば、自分と他者の間には5メートルと等しい体感的な距離(ファントム距離)が生成される.通常、ファントムと現実の距離が一致している.そして主体はそのことは自明だとしている.これが健常例である.

 もし、ファントム機能が破綻したとすると、これは無自覚に生じるので、常に主体(R)は気づかないことが前提になる.ファントム空間の射程が文字通り短縮すると、体感可能な空間は他者まで及ぶことはない.及ぶことができない.この場合ファントム距離はそのまま5メートルだと錯覚したままなのであるから、相対的に物理的距離は(そもそもが5メートルにもかかわらず)遠く空虚に感じられる.他者が「他極」から抜け出すような見え方にもなる.この距離感は決して届くことのないもので、たどり着くことのない空隙である.

 もう一つの例は、自己(R)が自極(HS)から「抜け出す」場合である.最初の例は「対象が次第に遠くに離れていく」図式であったが、次の例は「自分(R)」が「自極(HS)から遠ざかっていく」体験といえる.幽体離脱という怪奇現象に似ていると思う.イメージとして「ジョジョの奇妙な冒険」第三部以降に出現するスタンド:幽波紋にも似ている.それから例1と同じように、自身はこのファントム短縮を自覚しない.しかに背後に誰か(HS)がいる感覚.もちろん自分と他人との距離は変わらず5メートルなのだが、自分自身の位置感覚が奇妙に感じられる.

「えっなんで俺が後ろにいんの?」

 最後は混合例である.この場合は、ファントム空間が自他ともに展開されていない場合で、「置き去り」と「自我収縮」を同時にくらってしまったと考える.自分(R)の背後には自分(に似たような誰か; HS)がいる感覚.そして周りの人々は妙によそよそしい.みんな遠巻きに自分を見ている.この感覚は恐ろしい.

図2:健常のファントムとファントム短縮の一例、置き去り
図3:ファントム短縮の例、自我収縮と混合

 このような体験はあくまで仮定であって、安永は何度も繰り返しているのだが、このように考えると症例が語る言葉が実にTheoreticalに理解できるという.私はようやく同意できる立場になった.症例提示を行おう.安永の症例を原文通り引用してみる.

<症例1>

「私がいましゃべっているのはの声です(自分の後頭部を順々に指しながら)大脳、中脳、小脳、中枢、この中枢の声です.中枢がしゃべらせているのです.私の声ではありません」

あなたの声はどんな声なの?>と治療者がきくと

「ちょっと待って下さい.……(と一息ととのえる感じであらたまって)○○君(自分の名前)しゃべりなさい!……(と自らに向かっていう.)父の墓まいりに行きたいので外泊させて下さい.……(云々)いまの声は私の声です……」

(しかし次の瞬間には)

いましゃべっているのは(もう)私の声ではありません.これは脳の声です……」

 この症例は「脳(HS)の意思が自分(R)をしゃべらせる」という様式になっている.専門用語を用いれば、作為体験やさせられ体験という.もちろん、喋っているのは自分自身にほかならないのだが、その背後に他者であるところの何者(HS)かがあって、これがすべての源泉である.この症例は自我収縮の好例と考えてよいだろう.この症例は自分の後頭部を差すのが象徴的である.自極から抜け出して「他」化する自己.前述した「パターン」の逆転すなわち、A<Bがおきていると考えているのではないか.だんだんつながってきた.

安永あんたすげぇな.あんた何なんだ……

 

ここまで読んでくださりありがとうございます.実のところ彼の著作はまだ半分.続きます.