いい車とは

sea dawn landscape nature
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乗れない日々

 たまには些事を記載させていただきたい.

 最近は全く自分の車(ABA-981MA122)で走りに行くことができておらず私はブー垂れている.大変残念である.走る、というのはただの通勤ではなくて、自由な運転のことをいう.気の向くままにぶらぶら運転する、ということが最近の感染症事情のためできなくなっている.無論、走りに行くのが好きな人は痺れを切らしてあちこち出掛けているに違いないが、他所は他所、うちはうち、である.早く早くコロナウィルス感染症の収束を願うばかりで、どうもすぐには収束しそうにないのは皆さんもご存知のことかと思う.このままだとスキーにも行けないし、気楽に山岡家にも行けないし、カレー屋さんや美味しいレストランにも人気の少ない景勝地にも行けない.変にウロウロして病原を勤務先に移す訳にいかない.感染症の沈静を祈る他ない.コロナウィルスに対して我が家は既に人事は尽くした.これ以上やりようがない.

 通勤では専ら妻のDBA-NSP-130に乗っている.我が家は二台持ちだ.いつも助かっている.これはこれで結構な車である.何が良いのかといえば、街乗りの気楽さもそうだが、ベタ踏みしてもちっとも加速しない非力さにある.四気筒自然吸気エンジンの悲鳴を聴くと今にも機体がバラバラに四散するかと思うが、いつも元気に動いてくれる.まるで昔の私みたいだ.この鬼哭を聴いて、妻は購入当初、新車なのに壊れているのかと思ったらしい.先日高速道路を走っていて前輪がバーストするという恐ろしい目にあった.死ぬかと思った.よくぞ車がスピンしなかったものだ.車のせいではなく、ウェット路面はタイヤに色んなものが吸い付くらしい.雨の日は危険がいっぱいである.

 まぁ、DBA-NSP-130はなんだかんだ言って法規遵守的にも経済的にも安楽な車である.付言すると後席があって、荷物が積めることも長所だ.真夏でもぐおおおおおおおんと音を立てて冷房がよく効く.当たり前か.だが最近私はもっと経済的な車があることに気づいてしまった.その話はしない.

昨今の車のデザインについて

 DBA-NSP-130に限らず、ここ十年くらいの乗用車の意匠はどれも似てきたように思う.鋭い角度の前灯、大型の吸気口、複雑なプレスライン.もし車の前方を顔と例えるのなら、全体的に怖い顔つきになってきたような気がしている.眩しいLED電灯で照らされた険しい眼光と大きな口.全高、全幅、全長が世代交代を経るにつれ伸びてゆく形状.後ろから大きな怖い顔の車に距離を詰められると、どうもハッとしてしまう.特にかつての枢軸国側の車はどれもギラギラしている.連合国側もギラギラしている.全世界ギンギラギンにさりげなく.「アルファード」や「ヴェルファイア」、「デリカD5」なんて大根が擦りおろせそうなグリルをしている.ジョリジョリジョリ……

 私自身もデザインには好き嫌いがある.銀色に輝くクローム鍍金で加飾された造形や巨大なグリルが放つ威圧感は好きでは無い.大きなグリルの端緒はアウディ株式会社の販売する自動車のA6だと記憶しているが、どこもかしこも挙って真似しだしてグリルが大きくなってしまった.近年はバイエルン発動機製造株式会社のグリルも巨大化してしまい、もはや拡張の余地がないように思う.ここ数年のエキゾーストも見た目だけの造形であるし、角張った意匠は流行をなぞっているに過ぎないから、いずれ廃れるような気がしている。シーケンシャルウインカーも好きではない.いつか私の好きな、丸みを帯びたシンプルな造形が流行ると嬉しいなぁと思う.燃焼を不要とする電気自動車の勢力が増せばグリルの縮小は期待できそうだ.

 先進的・知的・革新的・洗練された、などという商品の飾り文句は陳腐化していて、何も沸るものはない.そもそも自社で知的、と言ってしまう所に珍妙な印象を持つ.とは言いつつ、車の性能は着実に向上する傾向にあるし、先進的かどうかは兎も角、どれを買っても特段の差異はないだろう.極端な性能の車でない限り.音声入力も先進性を謳う機能のようだが、「へい、メルセデス」なんていうのは小っ恥ずかしくて私は嫌だ.「おーけー、BMW」というのも面倒だし、認知してくれなかったときの虚しさは想像を絶する.私に言わせれば、そんなことよりも物理スイッチをきれいに並べてくれた方がはるかに便利である.「『温度を下げて』と命令したら、なんと1℃温度をさげてくれました〜賢い!パチパチ」なんて小芝居を披露する評論家はお世辞にも賢いとは言えまい.スイッチの位置さえ覚えてしまえば運転に集中しつつ操作できるのだから.ただ忘れずにいうと四肢の何らかの障碍等がある人にとっても音声入力は運転支援の重要な肝だろうし、「やめろ」というつもりは全然ない.レクサスは生身のオペレータが24時間待機して、地図設定などあれこれやってくれるようだが、深夜2時や3時にも誰かが待機しているかと思うと、その人の適切な睡眠リズムを奪っているような気持ちがして心苦しい.私には不要だ.あとはアンビエントライトも不要だ.

 なんだかんだブーブー言っているが私としてはみんな好きなものを好きなように買ったら良いと思う.本当に.消費者の特権は大排気量だろうと大根おろしだろうと、電気自動車だろうと選ぶ自由があることだ.いろんな車があるのは喜ばしい、ということにしておこう.脱炭素等の環境への配慮や持続可能性の問題は企業や行政の責任にある.もちろん個々人が意識する分にはとても「セクシー」なのだろうが、消費者があーだこーだいうのも限りがある.自分の生活にあう車が良い車に違いない.だから何も気にせず好きな車を買ったら良い.

SUV人気

 流行といえばSport Utility Vehicle(SUV)の人気は止まらずにいる。新車の販売台数の半分はSUVだという声も聞く.何がスポーツなのかはさておいて、居住性と積載性は確かにあるし、全高が高いので視界が良いのも手伝って運転がしやすい点ではユーティリティがあるといえる。色々なSUVを運転する機会があったが確かに楽だ.なんだか運転している気がしない.メーカーも「車」として売るというよりも「ライフスタイル」を売るような宣伝をしているように思う.キャンプサイトや湖畔、雪山、渓谷、砂浜などの背景に映るSUV.見栄えはしそうだ.

 これは私の邪推ではあるが、人気の理由として比較的大型の体躯ゆえに煽られにくく、(一部にとっては)煽るのに適した車なのだろうと思う.断っておくが煽り運転が言語道断なのは当然である.だが実際に公道で大胆に煽っている姿を未だに目撃してしまう.あれだけ世間で注目された事件があったのに.この現象は、体を大きく見せて威圧する生物の本能を、鉄とアルミの塊に宿した人間の性質のそれのように考えてしまう。どうなのだろう.もう一つは、人間の「投影」という防衛機制が生じているように思う.

 車体を大きくして強度をあげればそれなりに重量は増すし、重くなれば加速は鈍る.重ければその分出力を要する.燃費や電費も悪くなる.その分48V電源(マイルドハイブリッド)や電動化などで工夫はしていると思うが、余計重くなる.特別重心が低いわけでもないから操舵するときの揺さ振りはセダンなどのそれよりも大きい.それでもSUVが人気なのは上述した利点にあるのだろう.自転車やカヤック、原付二輪やらキャンプ道具が積めて、腕白キッズも足を伸ばしてニコニコできるメリットは大きい.高価な車であれば後方にも画面がついていて、テレビやら動画を観ることができるらしい.オットマンのような足掛けもある.車中泊もできる.車両の快適性を高めることと、走破性を両立させるという、矛盾する対立項の止揚があると考えれば、いつしか車は弁証学的過程を経て、完全究極体へと近づくのだろうか.そういう意味では将来が楽しみである.

 

 こんな時でも運転を楽しむ

筑波サーキット.こんな日がまた来るといいな.

 時折、バッテリー維持や空気圧点検のために、少しだけABA-981MA122に乗ることもあるが、やはり運転はいいな、と思わせてくれる.流石に猛暑で幌をあけるわけにはいかない.しかし茜色の空にオープンドライブを敢行すると周囲の風景や匂い、音響が鋭敏に感じられる.アクセルペダルを踏み込んで後方のエンジンの乾音の周波数が高くなり、目に見えない粒が一斉にそろい出す感覚は自分の神経系にある作動をニューロモジュレート(Neuromodulate)させるに十分で、あらゆるものを地平の彼方に置き去ってくれる気がする.疲れた身体とともに渋滞を抜けて一息つきながら夕暮れを仰ぐときの感慨は私だけのものである.この時の私は無心でいて、遠く離れた空間に目をやる間だけは世間の喧騒だとか、自分の雑念がすっと抜けてしまう.美しいとか気持ちがいいという安直な形容では済ませられないのだとわかる.

 車に乗っていると無条件に光と音が入ってくる.そのせいで私達は万華鏡の如く感情が揺れる.渋滞や悪質な運転に出くわしたときに抱く陰性感情はときにして避けがたい.単調な人はこうした情動に動かされていたずらにアクセルペダルを踏み込んで最高速を上げるしか無い.それでは運転を享楽することはできぬ.私なりの提案をさせてもらうと、運転を楽しむ、というのは車への信頼を高めることに直結しそうだ.逆を言えば「自分(や家族)にとって」信用できる車に乗ることが楽しむ秘訣といえよう.これは車両の金額と相関することはなくて、DBA-NSP-130でも涅槃に近づいてゆく気持ちで運転することができる.二輪車でも同じことがいえる.眼前の視界に集中しつつ周りの風土に思いを馳せていく.世俗の問題などにとらわれず、静かな気持ちでひたすら内省に徹する.そしていつしか到着地の近くに着いている.そんな車がいい車で、運転を楽しむことができる車なのだろう.その車の構成要素には優れたエンジン、シャーシ、サスペンション、トランスミッション、そして優れたデザインといったものが黒子としてある.だが、市場に出回る車の多くは優れた黒子だ.心配はいらない.要するに、「考え事しながら淡々と移動していたら、いつの間にか着いてしまっていた」ような車がいい車で、実は楽しい車なのだ.

 私にとって車内とは書斎のようなものに等しい.一冊も本はないが.車窓から季節の移ろいを感じ、風の運ぶ景色や温度、光の調度を感じて、考え事にふける.それができるのは私が車を信頼しているからに限る.信頼しているからこそ愛着が湧く.そうなって初めて車は愛車になる.

 

アダムの不安

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伝承

 こんな話が知られているらしい.

 主なる神は人であるアダムを創造し、助け手となる女性をも造った.アダムは女性をイヴと名付けた.二人はエデンという園で暮らしていたそうな.以下はその続きである.


一. さて主なる神が造られた野の⽣き物のうちで、蛇が最も狡猾であった.蛇は⼥に⾔った、「園にあるどの⽊からも取って⾷べるなと、本当に神が⾔われたのですか、マジですか」
二.⼥は蛇に⾔った、「そうなんです.私たちは園の⽊の実を⾷べることは許されていますが、
三. ただ園の中央にある⽊の実については、これを取って⾷べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は⾔われました」
四.蛇は⼥に⾔った、「へぇ〜.そうなんですね.でもあなたがたは決して死ぬことはないでしょう.
五.それを⾷べると、あなたがたの⽬が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」
六.⼥がその⽊を⾒ると、それは⾷べるに良く、⽬には美しく、賢く、インスタ映えには好ましいと思われたから、その実を取って⾷べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も⾷べた.
七.すると、二人の⽬が開け、⾃分たちがスッポンポンであることがわかったので、無花果の葉をつづり合わせて、腰に巻いた.これがはっぱ隊の起源である.
八.彼らは、⽇の涼しい⾵の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる⾳を聞いた.そこで、⼈とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の⽊の間に⾝を隠した.
九.主なる神は⼈に呼びかけて⾔われた、「あなたはどこにいるのかな」
十. 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる⾳を聞き、私はスッポンポンだったので、恐れて⾝を隠したのです」
一一. 神は⾔われた、「あなたがスッポンポンであるのを、誰が知らせたのか.⾷べるなと、命じておいた⽊から、あなたは取って⾷べちゃったのか」
一二. ⼈は答えた、「私と⼀緒にしてくださったあの⼥が、⽊から取ってくれたので、私は⾷べちゃいました」
一三.そこで主なる神は⼥に⾔われた、「ありゃりゃ~.あなたは、なんということをしたのです」⼥は答えた、「蛇が私をだましたのです.それで私は⾷べました、だから私は悪くないです」
一四. 主なる神は蛇に⾔われた、「おまえは、この事をしたので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最も呪われる.おまえは腹で這い歩き、⼀⽣、塵を⾷べるであろう.
一五.私は恨みをおく、お前と⼥との間に、お前のすえと⼥のすえとの間に.彼はお前のかしらを砕き、お前は彼の踵を砕くであろう」(蛇は塵以外にも色々食べるゾ)
一六. 次に⼥に⾔われた、「私はあなたの産みの苦しみを⼤いに増す.あなたは苦しんで⼦を産む.それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」
一七. 更に⼈に⾔われた、「あなたが妻の⾔葉を聞いて、⾷べるなと、私が命じた⽊から取って⾷べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは⼀⽣、苦しんで地から⾷物を取る.
一八.地はあなたのために、茨と薊とを⽣じ、あなたは野の草を⾷べるであろう.
一九.あなたは顔に汗してパンを⾷べ、ついに⼟に帰る、あなたは⼟から取られたのだから.あなたは、塵だから、塵に帰る」
廿.さて、⼈はその妻の名をイヴと名づけた.彼⼥がすべて⽣きた者の⺟だからである.
二一. 主なる神は⼈とその妻とのために⽪の着物を造って、彼らに着せられた.
二二.主なる神は⾔われた、「⾒よ、⼈は我々の一人のようになり、善悪を知るものとなった。彼は⼿を伸べ、命の⽊からも取って⾷べ、永久に⽣きるかも知れない」
二三.そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、⼈が造られたその⼟を耕させられた.
二四.神は⼈を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎の剣とを置いて、命の⽊の道を守らせられた.

創世記 第三章、日本聖書協会より 1955年 一部改変

 これは旧約聖書の「創世記」の一部を抜粋したものになる.クルアーンにも同じことが書いてある.色々と突っ込みたいところはある.こんな話をどこかで見聞きした人もいるのではないだろうか.私もどこかで知ったような気がするが、忘れてしまった.私は聖書教会から出ている訳文を見るのは初めてである.なぜこんな神話を冒頭に載せたのかというと、どうやらこの伝承、様々な人々が古くから興味を持って論じるテーマ「原罪Original Sin」だからである.特に「『食うな』と神から言われた果実を、蛇に唆されて食ったイヴとアダムが楽園から追い出された」という堕罪の話が哲学者や神学者の関心を惹きつけてきた.特に有名なのは、元ユダヤ教徒で改宗した使徒パウロ兄貴、アウグスティヌスという北アフリカ出身の元マニ教徒のおっさん、そしてカルタゴ出身の教父、テルトゥリアヌスくん、ブリテン島出身の神学者であるペラギウスおじさん.時は進んで、ギリシア正教会やカトリック教会、プロテスタント教会の懲りない面々.キルケゴールはそういった人々の神学上の主張を紹介する.

 パウロ、アウグスティヌスと続く原罪論は「アダムの堕罪によって、人間は普遍的な罪性をもつ」という解釈に基づいている.普遍性の根拠に、アダム以降の子孫は性交によって罪が遺伝・連鎖するという一部生物学的な考えが混ざっている.プロテスタントはパウロやアウグスティヌスの考えを概ね踏襲しているようである.(プロテスタントにも諸派があり教理が厳密には異なることを断っておく)以下、著名人の文献を紹介する.

 ひとりの人(アダム)によって、罪がこの世に入り、また罪によって死が入ってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだのである.

「ローマ信徒への手紙」パウロ

 教父アウグスティヌスによる原罪の中心は以下にある.

 神は全く善い人間を創った.ところが人間(アダム)は、自らの責めによって堕落し、それに対して神によって厳しく罰せられて、堕落した.そして罰せられた子孫を産んだ.

「神の国」アウグスティヌス、五世紀ごろ

 ルターやカルヴァンらに代表されるプロテスタントの教義でも原罪を次のように解釈している.

 アダムの堕罪以降、生まれる人間は全て罪のうちに孕まれ、生まれる.すなわち、全ての人間は、その母親の胎内にいたときから、悪しき欲望と傾向に満ちており、神への真の畏れと真の信仰を生まれながらに持つことはできないのである.さらにこの生まれつきの原罪は、真に罪であり、洗礼と聖霊によって生まれ変わることのない全ての人に対して、神の永遠の怒りを宣告する.

「アウクスブルク信仰告白」1530年

 私はキリスト教徒ではない.よって教義の深奥まで理解することはできないだろうが、生まれた時から「お前は罪深い存在だゾ」と決まってしまっているのは、どうも解せない感じがする.ちなみにペラギウスおじさんは原罪を否定し、人間の自由意志を尊重する立場を取り、神の恩寵は必要ないという説を唱えた人物であった.そこで教父アウグスティヌスと論争となり、418年カルタゴ会議で「異端でしょ」と排斥された.さらに431年エフェソス公会議でも「やっぱり異端でしょ」と退けられたようである.惨め.ペラギウスは謎の失踪を遂げる.

 だがやはり、この普遍的な罪性、というものには陥穽があるようだ.もし全ての人類が生まれながらにして罪深いのであるのなら、個々人の罪は無いだろうと考える.

俺が生まれつきワルだっていうのなら、今から俺が無銭飲食しても構わねーよな?ぶっ殺しても罪は変わらねぇんだよな?立ち小便してもいいんだよな?プールの中でおしっこしてもいいんだよな?そういうことだろ?

という変な輩が出てしまう.これでは倫理が壊れる.さらに、恩寵に対する個々人の主体的努力も不要、個々の努力を励行するものが否定されてしまう.「悪いことしてないのに、罪深いのなら頑張る気なくすわぁ」

 よって神学者らは原罪における罪の普遍性と個人性をいかに両立させるか、に相当苦心したようである.そしてもう一つの問題は、原罪とは人間の本性なのだろうか、という疑問でもある.もし罪を創造したのが神であれば、人間の責任性は回避されてしまう.「おれのせいじゃないゾ!『神は全く善い人間を創った』ってアウグスティヌスが言ってたゾ!罪が『善い』わけがないゾ」

 罪が本性に付随するもの、プラグインや拡張パーツのようなものとして付着するのであれば、罪の根源性はなくなってしまうし、ナザレの大工の息子(キリスト)が十字架を担いで丘まで登って、磔にされて、槍で突かれて死んだことが無駄になってしまう.「グエーッ、無駄死にしたンゴ」

 こうした課題を先に述べておくとして、次に「不安」について述べることとする.

不安というめまい

 前置きが長くなった.今回の記事は前回の続きである.キルケゴールの「不安の概念」における重要なテーマ「原罪」を扱いつつ、「不安」を考えていく.父親から異常なほど厳格にキリスト教を叩き込まれたキルケゴールは、度重なる家族の死に対して、「恐ろしい憂愁の重圧」のもと、「不安」を抱えるようになっていったと述懐している.彼の著作にも緒論でこのように記されている.「不安」を理解するには「罪」の理解が必要であると考えたようである.キルケゴールが罪性をどのように考えているかも気になるところである.

 本書の課題とするところは、原罪についての教義をたえず念頭におき(in mente)、かつ眼前に彷彿とさせながら、「不安」の概念を心理学的に取り扱うことにある.それはたとえ口に出さなくとも、「罪」の概念を問題にしないわけにはいかない.

「不安の概念」緒論 1844年 村上恭一訳

 アダムとその伴侶イヴは善悪を知る木の実を食べることを神によって禁じられていたが、蛇に唆されて神意に背き、エデンの園を追放される羽目になったらしい.トホホ〜.キルケゴールは「なぜアダム(とイヴ)は神意に背いたのか」と考える.堕罪に至る以前のアダムは、無垢であり無知であったはずだと.そもそもアダムは神意を理解するほど知恵があったわけではない.故に無垢で無知なアダムが責ある者に転落する(罪を犯す)ことになるとは、どういうことだろうか.(以下イヴの存在は省略する)

 キルケゴールは次のように考える.「不安」が無垢なアダムの心を捉えたのではないか、アダムは「不安」になったのではないか、と.「善悪を知る木から木の実を取って食べてはならない」という神からの言葉をアダムは無知故に理解することができなかった.この時点でアダムは善悪を知らない.神による禁止がアダムを不安がらせた.禁断がアダムの内なる自由を目覚めさせた、とキルケゴールは考えたようである.「神は『取って食うな』というが、よくわかんねぇけど取ろうと思えば取って食えるじゃないか」という自由の可能性をアダムに示唆したのだろう.不安は自由でもある.人間は精神であり、精神の本質は自由である.自由とは可能性である.

 「不安の概念」第二章でキルケゴールは「不安は、例えて言えば『めまい』のようなものである」と述べている.この言葉はよく引かれる一節として有名である.次に続く.「仮にある人がふと自分の眼で大口を開いた深淵を覗き込んだとすると、その人はめまいを覚えるであろう.ところで、その原因はいったいどこにあるだろうか.それは深淵にもあるといえるし、また当人の眼のうちにあるともいえる.というのも、彼が深淵を凝視することさえしなかったら、めまいを起こすことはなかったろうからである.これと同じようなわけで、不安は自由のめまいなのである」

 めまい、という言葉を医学的に考えず、眼がクラクラして尻込みするような、倒れそうになることだと考えると良い.底が見えないほど深い崖っぷちを覗き込むと誰でも足がすくむはずである.この視点から無限の底までの空間的距離こそが不安であり、かつ自由なのであるとキルケゴールは言っている.不安は自由と紙一重でもあるということだと.

不安と恐怖

 故に不安は恐怖とは異なる.恐怖には対象があるが、不安は対象を欠く.「あのさぁ……崖っぷちを見下ろしたら怖いに決まってるやん!恐怖やん!」とお叱りを受けるかもしれない.一見正しいようではあるが、落ち着いていただきたい.深淵というのは、無限遠の暗黒である.視線の先には対象は定まっていない.人が深淵を見て恐怖を抱くとすれば、「深淵に落ちてしまったら」、「底まで落ちて身体を打って、大怪我をしたら、死んでしまったら」ということだろう.この世の中に深淵と似たような深い裂け目があるにはあるだろうが、経験できる人はおそらく真夜中のダムの巡回をする人や、夜の登頂をする大胆な登山家、停電になったスーパーカミオカンデの点検をする人、鍾乳洞や洞窟のツアーガイド、観光地化されていない遺跡や史跡の調査にあたる学者や土木工事の業者くらいしか思いつかない.他にも「暗闇を覗き込む」に近い状況は存在するが、要するに、現実には「底がある」のである.ということは対象が存在する.それらは水底であったり、針山であったり、コンクリート床であったりする.これ以上想像はしたくないが.

 恐怖とは、ある対象に怯えることである.そして不安には恐怖する対象を欠く.では「対象なき恐怖」という言い方が適当かと言えば、そうではないとキルケゴールは言う.対象がなくなれば恐怖という心理現象は消失する.人が不安になるのは「何もないこと=虚無(Nihil)」に対してでしかない.次の例えを挙げれば、ある程度皆さんも得心してくださるのではないだろうか.

 精神疾患の中に「恐怖症」がある.「広場恐怖」「視線恐怖」「不潔恐怖」「対人恐怖」「色目恐怖」といったものがある.実際に私達の生活に息づく恐怖である.これらは文字通り恐怖の対象があるが「不安」の諸現象について言うと、「予期不安」、「全般性不安障碍」というものがある.こちらは対象が限定されておらず、未確定の事象である.何も対象が定まっていないからこそ不安になる.こうした名称は不安と恐怖を区別する際に明瞭になると思うし、精神医学もやはり(*途中までは)哲学の系譜を歩んでいるような安心した気持ちになる.私達は何の支えもない中途半端な状態にあること自体に不安を覚える.換言すると、人間存在の構造が何の支えもなく揺るがされていることが、不安の原因である、とも言える.

*「おいおい、『社交不安障碍』があるだろう」というご指摘に対して私なりの弁明をしておくと、「社交不安障碍」はもともと「社会恐怖」という名称であったようである.DSM-IV以降にPhobia(恐怖症)からAnxiety Disorder(不安障碍)に変わってしまった.残念ながらこのあたりの歴史的変遷は私にはよくわからない.不安や恐怖の腑分けができていないように思えるのは私だけではないと思うが……どうなのだろう.ところどころ精神医学にはこうした脆さがあるように思う.神経生理学的な立場での不安と恐怖の位置づけも全く異なる.ただ、名称は変わってもその疾患概念は変わっていないらしい.簡単に考えれば「社会的場面に対して恐怖する」現象といえる.実存主義に基づく考え方であれば、従来の「恐怖」の方が適切のように思う.とはいっても私はこれ以上ゴニョゴニョ言うつもりもない.ゴニョゴニョ.

  ここまで、キルケゴールによる「不安」の説明を創世記の伝承を交えて試みた.罪について過去の神学者の立場を紹介し、罪性をどのように取り扱うかという学者らの懸念に触れた.続いて話題を変えて、アダムが禁断の果実を口にしたのは「アダムが無知故に不安だったからではないか」という彼の考えを提示した.さらに「不安とは自由のめまいのようなものである」という彼の比喩を紹介し、恐怖との違いを述べた.以上を紹介するのに6000字を超えてしまったので、続きは後日投稿したいと思っている.次回の主題は「いかにして罪というものが措定されたか、不安との関係はいかなるものか」といったものになりそうである.

 読んでくださりありがとうございました.

 

不安に駆られて

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診察室で

 私が面接をする、とある患者さんはいつも決まって過去形を使う.

「こんにちは.〇〇さん.お元気ですか」

「元気でした

「何か心配なことや気がかりなことはありませんか」

「ありませんでした

 他の質問にも過去の時制で回答をするのだ.この事態が私にとっては非常に理解が難しい現象のように思えている.不思議な気持ちでいつも面接をしている.

 なぜ「元気でした」と過去形の表現なのか.なぜ過去形でしか答えてくれないのか.それが全くわからない.私は診療録に「症例の陳述に時制の不一致を認める」と書いたことがあるが、だから何なのか、それ以外何を記述すべきか、何を考えたらいいか悩んでいる状態である.いわゆる静的了解でも発生的了解の範疇ではないだろう.この方は少なくとも私と時間空間の体験様式が異なる可能性がある.ヤスパース的に言えば、了解不能なのだろうか.そして了解不能となれば、背後に病理が潜んでいることになる.どのような病理か.

 恐らく手がかりとなるのは精神病理学であったり、哲学だとか人文学なのかなぁ、という考えに基づいて、私は複数の本を読んでいる.斜め読み、というわけではないが、義経の八艘飛びのように一つの本から別の本へとあちらこちら飛び移っている始末だ.人には様々な読書の癖があるだろう.どうやら私は一度にいろんな本を読む傾向にある.これを注意散漫とか転導性の問題というのかもしれない.わからないところに当たれば、別の本に当たって了解を得ようとする方法が性に合う.今この記事を書いているとき、私はセーレン・キルケゴールの「不安の概念」、マルティン・ハイデガーの「存在と時間」を読んでいる.どちらもうんざりするほど難しくて辛くて面白い.炭酸の青汁をありがたく飲んでいるような気持ちだ.

 そして何より、彼らは「実存」を扱う哲人であり「不安」を解明しようとし「時間」について論じた人物で共通している.きっと、上述した症例の言辞を理解する一助になるのではないか、と私は期待を寄せている.

不安とは

 さて、私は以前の記事で、「不安」や「うつ」がわからない、と述べたのだった.「うつ」に関しては「メランコリー」を取り上げてみたが、これで綺麗サッパリわかりました、というわけにはいかない.表層的な話しかしていないのだから.こちらはひとまず保留にするとして、私は「不安」という現象ないし心理的状態についても大きな関心を寄せている.なぜ関心があるのか、といえば私自身の職務上の要請にある.私自身がある程度、不安という概念について通じていない以上、面接を要する人々の「不安」に対して一定の助言を行うことが果てしなく難しいと感じたからである.

 こちらも別の記事で取り上げ、生理学的な立場とフロイトの古典的立場で「不安」を紹介したが、未だによくわからずにいる.そこでキルケゴールの「不安の概念」という本を読んでみることにしたわけだ.そして現象学という興味深い学問に足を踏み入れた私は、フッサールを継承し、より深化させたハイデガーの実存主義の考え方に惹かれるようになった.奇しくもキルケゴールは実存主義の代表的な人物であるし、精神病理学の嚆矢、カール・ヤスパースも医師兼実存主義哲学者の一人だ.私の思い込みにせよ、奇妙な引力が働いているような心持ちがする.私の思想はようやく二十世紀の大陸哲学に差し掛かってきた.

 

 まずはいつもの「精神症候学」を開いて「不安」を調べると、次のようにある.掻い摘んで記そう.

 不安anxietyは、対処不決定の漠然とした恐れの感情で、一般に対象のある恐怖に対して、対象を欠くものを指す.十三世紀のトマス・アクィナスは予測できない恐怖をアゴニアagoniaと呼んだ.フランス語ではリトレによると延髄的・身体的な苦悶angoisseと皮質・精神的な不安anxiétéを使い分けるという.後者のanxiétéもしくはラテン語のanxiusが十六世紀初期には英語のanxietyに訳された.正常な不安としては、生きている限り避けることのできない病や死への恐れ、生活、経済上の諸々の不安があり、原不安Urangst、現実不安Realangst、被造物の不安Angst der Kreaturなどという.キルケゴールによれば、物事や価値を知り、分別をもつと、むしろ不安も増える.これを客観的不安という.ゴールドスタインは、破局状況におかれた生体の主観的経験を不安と呼んだ.

 病的な不安とは、刺激が主体の内部で歪曲・肥大化されるために、客観的な危険に比して不釣り合いに強く反復してあらわれる不安のこと.その処理に神経症的防衛機制を要するので、神経症性不安ともいう.正常な不安との差が量的か質的かについては議論が多い.予期不安とは、未来を先取りして恐れる空想的な不安で、将来起きてほしくないことが起こるのではないかとする.

精神症候学 第二版およびOxford English Dictionaryから引用

 要するに、不安というのは対象なき恐れ、ということらしい.しかし、少し考えてみると「明日のプレゼン、うまくいくか不安なんです」というときは、もちろん対象が定まっている.よって対象なき恐れという語義に反してしまうように思われる.そこで、よくよく考えながら、大辞林を参照すると、以下のように書いてある.

①気がかりなこと.心配なこと.これから起こる事態に対する恐れから、気持ちが落ち着かないこと.また、そのさま.

②(哲学)人間存在の根底にある虚無からくる危機的気分.原因や対象がわからない点で恐れと異なる.実存主義など現代哲学の主要概念.

③(心理学)漠とした恐れの感情.動悸、発汗などの身体的兆候を伴うことが多い.

大辞林 第四版

 生理学的な立場で不安を考えてみると、不安は「闘争か逃走」の反応の一つであり、不安症の中核的な要素は「恐怖」「憂い」であるという.(ストール精神薬理学エセンシャルズ第四版)もう少し詳しい話は以前の記事にある.

 正直言って、学問の立場によってこんなにも割れるとは思わなかった.特に恐怖をどのように位置づけるかが異なるようである.恐怖の腑分けが異なる、とでも呼ぶべきか.さて、「不安」をどのように考えたものか.

 二つの書籍について

 光文社古典新訳文庫から出ている「存在と時間」の訳本は中山元氏によるものだが、膨大な注釈と解説がついているにも関わらず、いきなりアタックするのは苦痛を伴うことがわかった.(八巻まであるし……)訳の巧拙がどうこうではなくて、純粋にクッソ難しいのである.しかし、この著作が出された経緯や背景だとかを知れば、ある程度気楽に読める気がしてくる.事実、経緯を知ることは極めて重要であった.「存在と時間」がアリストテレス哲学と、当時最先端の哲学である現象学を融合させたものであることを知らずして著作の意義を理解できそうにないと思う.ハイデガー以前に「存在論」を扱ったのはアリストテレスが最後であり、その間、全く人々は「存在の意味を問うこと」をしなかった、と斬り捨てる彼のキレキレ具合には脱帽であった.この論文の入門書・解説書を読んで、私は漸く彼の代表作である「存在と時間」は未完であることや教授昇進のために提出された突貫工事的論文であり、出版までに紆余曲折のある作品であったことを知ったのだった.ちなみに入門書、というのは講談社現代新書から出ている「ハイデガー『存在と時間』入門」のことで、著者の轟孝夫氏はハイデガー一筋三十年の哲学者である.

 「なぁ〜んだ、未完なのか、マルティンおじさんも色々あったんだネ」と思うと、巨大な哲人として立ちはだかるハイデガーも急に人間くさくなってくるし、伝統的な西洋哲学における「存在」の先入観を捨てて「真の存在」を解明しようとする三七歳、マジ気合入ってるっすね、と称賛を贈りたくなる.

 他方、キルケゴールの著作「不安の概念」は1844年に書かれたものだが、1927年の「存在と時間」から随分前の作品である.彼の作品も残念ながら難解だ.いきなり訳本に当たると、それはそれで面白いのだが、「質的飛躍」などの彼独自の術語が使われてしまうと、解釈が大変になってしまう.よって入門書を探してみたが、パッと見てもどうもなさそうである.そして、彼のロジックはキリスト教の教義学や倫理学などの学問を織り交ぜたものになっているため、事前知識として他にも仕入れる必要がありそうである.なんだか哲学の迷宮に入り込んでいるような、いないような.少なくとも創世記のアダムとイブの原罪は、よく理解しておく必要がありそうだ.これはもちろん神話なのであるが、多くの人が挙ってこの神話を取り上げるのは、宗教的な意義だけでなく、ある種、アダムを人類のプロトタイプとして考えたときの思考実験として捉えると興味深いからかもしれない.ただの気の所為かもしれない.

本記事の最終的なねらい

 この記事を大々的に書いた理由は実はもう一つある.安永浩の「ファントム空間論」に関する連載が途中となっているのだが、今の知識では理解が不十分であるという直感から、連載を保留にしている.できればなるべく早く投稿したいと思いつつも、なかなか知識を仕入れる作業に時間がかかってしまい、うまくまとめきれていない.そこでまずは先に紹介した著書を足がかりに、「不安」に関する小連載を行ってから、改めて「ファントム空間論」を完成させたいと思っている.何のためか、と言われれば無論、自身のためである.このブログを投稿する、という作業を通じて(精錬できるかどうかは兎も角)自分の思考を整理して、職務上の必要に還元したいと企んでいるわけである.とは言っても、結局はブログなのだから、こうして偶然目に留めてくださった方にも、お裾分けして、冷やかすなり、面白がるなりして、何かしら感じ取っていただければ良いなと考えている次第である.

 ところどころ雑記を載せつつ、まずは「不安」の構造について自分なりに理解に努めるべく、新連載を開始する予定である.よろしくお願いします.