質的飛躍

silhouette of bird flying
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  セーレン・キルケゴールによる「不安の概念」という著作は不安についての分析を試みたものである.これまで二回ほど彼の著書について取り上げたが、そもそも取り上げた理由は、間接的なものではあるものの臨床で生じた様々な疑問からであった.それらは過去の記事のリンクから御覧いただいて参照して欲しい.一つは、不安の現代の語義に関する話題、もう一つは、罪を「創世記」の伝承から読み解こうとした先人の紹介と、「不安とは自由のめまいである」というキルケゴールの文句を引いた.それに若干の解説を加えたものと記憶している.

 さて、「いかにして罪というものが措定されたか」「不安との関係はいかなるものか」という内容で次の記事を書くことを目標としたが、「不安の概念」の第一章、第二章の理解がとても難しく、殊更にキルケゴールの用語である「質的飛躍」を理解しないことには「堕罪」もひいては「不安」も理解できないことに気づいた.私は時間があるときに何度も何度も頁を往復した.進んでは戻り、進んでは戻り…… どうやら予定変更となりそうだ.

とある漫画から「質的飛躍」を考えてみる

 「ジョジョの奇妙な冒険」第四部、「ダイヤモンドは砕けない: Diamond is Unbreakable」という作品に出てくる広瀬康一小林玉美のやりとりが、罪の「質的飛躍;det qualitative Spring」を理解するのに良いのではないかと私はずっと考えていた.今回はその話をしようと思っている.この小話は物語の核心に迫るものではないのでネタバレはない.安心いただきたい.「ふーん、この筆者はジョジョが好きなんだ」という理解は半分誤解である.そうではなくて、たまたまグレートな例えがジョジョしか思いつかなかっただけだ.作品はまぁまぁ好きだが実際、第五部「黄金の風: Vento Aureo」までしか知らないのだ.そう断っておかないと、本物の通人に失礼だ.

 作品の大筋は以下のようなもので、大河小説(Roman-fleuve)に近い.第四部は宮城県仙台市のとある町をモデルとした架空の町(杜王町)で繰り広げられる、シリアルキラー(連続殺人犯)との戦いを描く.ところで「ジョジョの奇妙な冒険」をご存知ない方に一応、公式の紹介を載せておく.1980−1990年代の週刊漫画の黄金期を築いた作品の一つである.

代々血統が受け継がれ、主人公が交代していく物語

「『ジョジョ』って第何部だとか、主人公が何人もいたりだとか、複雑そう。コミックスも100冊くらい出てるし、タイトルが違うのもあるし、どこから読んでいいかわからない」という方は多いかもしれません。

1987年に週刊少年ジャンプで連載を開始した『ジョジョの奇妙な冒険』は、第1部の主人公ジョナサン・ジョースターと、敵対するディオ・ブランドーとの因縁から始まる物語。その戦いはジョナサンの代だけでは決着せず、その子孫たちも巻き込んで100年以上続きます。主人公や舞台が交代していくのはそういう理由なのです。

JOJO Portal site -ジョジョとは- より

 その作品を語る上で欠かせなくなる概念に「スタンド」がある(「電気スタンド」のスタンドと同じ抑揚である).「スタンド」とは「パワーを持った像」であり、持ち主の傍に出現してさまざまな超常的能力を発揮し、他人を攻撃したり持ち主を守ったりする守護霊のような存在と説明される.人や動物を模したり、飛行機や拳銃、ボディスーツのように持ち主と一体となるものだけでなく、粘体のように姿かたちを自在に変えるものもある.容姿と能力は持ち主固有のものであり、一つとして同じものはない.そして一人一体である.複数はない.基本的に第三部からこの「スタンド」能力で登場人物は戦うことになる.彼らを「スタンド使い」という.第四部も「スタンド」能力の戦いは引き継がれる.

 物語を構成する重要な性質として「スタンド使い」は引かれ合う.多分虫プロダクションに漫画家が自然と集まってくるのと似ている.よって誰かがいれば自然と能力者が集まる.能力者の信念・信条の衝突が能力を駆使した戦いとして表現される.ちなみに「ジョジョの奇妙な冒険」は異能力バトルの先駆けらしい.何を異能力とするのかは定義し難いが.

広瀬康一の災難

 *ここで嬉しい誤算があった.これから説明しようとしていた「罪の質的飛躍」を理解するのに都合の良い場面が、AmazonのKindle版でちょうど試し読みの対象となっている!読者の皆さんが私の茶番に真摯につきあってくれると信じて、以下にリンクを貼っておく.もちろん、私なりに文章に起こして、丁寧、丁寧、丁寧に描写を試みた.とはいってもSeeing is believingであるからぜひ試し読みページをご覧になっていただきたい.

 私と集英社とAmazonに利益相反はありません.下記に示すイラストは模写であり、作者及び集英社の著作権を侵す意図がないことを明記いたします.

 杜王町に住む高校生、広瀬康一は(スタンド能力を発現させるまでは)純粋でごく平凡な少年であった.そんな彼が新品の自転車にまたがり道を走っていると、急に何かが詰まった袋が路面にあることに気づく.広瀬康一は急ブレーキをかけるが間に合わず、袋を轢いてしまう.袋からは真っ赤な液体が滲み、中からはかすかに「ニャァニャァ」と弱った猫が力なく鳴いているような音が聞こえる.

 広瀬は「猫を轢いてしまった」と直観してしまう.轢くことを意図しなかったにせよ.やがて猫の鳴き声は消えてしまう.

 するとどこからか、チンピラのような男が現れる.彼は小林玉美という二十歳の青年で、どうやら強請り屋(他人を脅して無理やり金品を巻き上げる人)として杜王町にいる.彼は広瀬が行った一連の行為を目撃したと証言し、広瀬を動揺させる.そして「声が聞こえなくなったのだから猫は死んだ.おれの猫が」と付け加え、広瀬を追い詰める.広瀬は自分が轢いた猫がこのチンピラの飼い猫だと聞き、困惑する(飼い主ならば猫を袋に入れて道端に放置するなど考えられないのに).

 「おいおい!フザけてんじゃあねーぞ! 君はたしかに悪くない」

 「だがおれのネコ殺しといて無料(タダ)で行っちまうのかよ!カワイイ顔してよーっ」

 「カワイソーなネコをひき殺したのはニイチャン!おまえだ…」

模写1.漫画の一コマから.
当ブログの趣旨は作品と無関係であり、あくまで当ブログの記事内容が主、引用する作品のコマの模写はそれに従属するという認識で掲載しています.

 (実は)小林玉美は「スタンド使い」であった.その能力は「対象に生じた罪悪感に対応して、相手に『錠前』をつけて心の重圧を与える」ものであった.彼はスタンド能力が発現してからか、自身の能力を使って、言葉巧みに強請りをしていたようである.そんなことを知らない広瀬は袋に入った猫を轢いた罪の意識から、小林のスタンド能力「ザ・ロック」の術中に嵌ってしまう.

模写2.心の錠前が出現する.
当ブログの趣旨は作品と無関係であり、あくまで当ブログの記事内容が主、引用する作品のコマの模写はそれに従属するという認識で掲載しています.

  これが質的飛躍である、と私は考えている.「ザ・ロック」は「罪」が生じた瞬間に錠前として顕現するのである.錠前はこの作品でいう「罪」の表象である.「創世記」におけるアダムの堕罪、すなわち人類が無責から責を負う存在になったことこそが、「質的飛躍」なのであろう.ここでは罪の大小を問うているのではない.罪があるのか、ないのかが問題となっている.キルケゴールはおそらくそれを創世記の伝承から考えたに違いない.

 同様にして広瀬康一は無責から責を負う立場へと一転した.よって彼の心には「錠前」の形で「不安」が現れたともいえよう.なお作中では錠前は「不安」とは明言されていないが、「人によっては自責の念で死んでしまうこともある心理的重圧」と記載がある.前回の記事で「不安とは人間存在の構造を根本から揺るがすもの」と述べた.とすれば、「堕罪」が存在することが「不安」なのであるという理解は、「不安の概念」にある以下の文章とも合致するように思う.

・個体における原罪の結果、言い換えると個々人のなかに原罪が現存すること、それが不安なのである.

・罪は〈最初は〉不安のなかへ入り込んできた.が、こんどもまた罪は、不安を〈道連れ〉にたずさえてきたのである.

「不安の概念」第二章:原罪の結果としての不安、1844年、村上恭一訳

 広瀬はこれまで真面目に素行の良い少年として生きてきた.にも関わらず、突如「猫を自転車で轢く」という罪に等しい行為をしてしまったと感じたが故に、その行為が自身の人生の根本を脅かすものだと直観し「不安」となる.また、彼は袋を轢く瞬間、「これからどのようになるのかわからない」という根源的な「不安」を持っていたともいえる(結果的に猫を轢き殺すことになるが、ただの袋を轢いただけに過ぎない結果もあったかもしれない).そして袋を轢いて、中に猫が入っていたと直観したとき、彼の中に罪が芽生える(罪が措定される).要するに「罪」と「不安」は表裏一体なのだとキルケゴールは考えたのではないか.どうだろうか.

 

次回は

 さて、広瀬康一がこの難局をどのようにして切り抜けたかは、作品の醍醐味であるのでここでは述べないでおく.続きが気になった方は漫画を買うか、アニメをご覧になると良い.

 ここまでで私は広瀬康一の「罪」とアダムの「罪」が同列のような言い方をしているが、これはその通りで、本質的には同じだということである.罪が存在するようになる「質的飛躍」において、その「罪の程度=罪性」は「量的」でしかない.それはキルケゴールと同時代の神学者フリードリヒ・シュライエルマッハー先輩の言わんとする「原罪論:罪の普遍性の根拠」に基づいている.先にネタバレをしておくと、キルケゴールの考えでは「おれがアダムで、アダムがおれで」もしくは「全人類アダム(イヴ)説」のような感じである.

 「てめぇはまだわけわかんねぇことを書くつもりか」

と怒られそうなので、今回はここまでとしておこう.「おれがアダムで、アダムがおれで」とは何のことかについては次回の記事で説明を試みたい.できれば、過去三回の記事の総括を一度行い、それから三章、四章、五章の説明へと順を追って行きたいと思っている.

 ここまでありがとうございました.