パンセ・スキゾフレニック・ボーボボ

そんなに脱毛しないとだめですか

 YouTubeの広告を見て思うことがある.正しく言えば、動画視聴中に挿入される広告の中に気になるものがある.やたらと脱毛を勧める広告が多い.漫画のようなイラストが現れ、複数の登場人物の台詞を抑揚のない調子で一人朗読、作画もお世辞には上手とはいえない.見たことがある人もいると思うが、すぐにスキップしたくなる広告に入るだろう.皆さんも同じ意見を持ってくれるだろうか.ただ最近私は敢えてちゃんと最後まで観るようにしている.色々と気づくことがあって興味深い.広告には複数のシナリオがあるものの大体のあらすじはこうだ.

 妙齢の女性が、同窓会や宴会、パーティ等に出ることになった.その会場にはかつて意中の男性がいて、主人公は心を弾ませるのだが、同席した同性の友人に、「ムダ毛が生えていてみっともない」ことを公に指摘され、大いに辱められる.

 傷心の彼女が帰宅し、友人に顛末を打ち明けると「それは指摘されて当然」という評価を受ける.そしてすぐに「医療脱毛」を勧められる.「それは高額ではないのか」と友人に問うと「今どきの医療脱毛は安い!」という理由をいくつか列挙し、想定されるデメリットに対する反論を述べる.そして友人自身が実際に体験して「やって良かった」という経験談を述べて、主人公は定型の誘い文句に乗せられてしまう.ほどなくして脱毛クリニックを訪れた彼女は友人の言う通り、何も抵抗なく脱毛を遂行.体のどこかしかがツルツルになる.

 後日、別の会食の機会が催され、懲りずに参加する主人公.どこかしか可視範囲内でツルツルになった彼女を見て浮足立つ男性たち.その中には意中の男性もおり、彼も実は彼女のことを想っていたことを知る.めでたく二人は交際に至る.彼女は脱毛を実践してよかったと確信する.その後脱毛の宣伝に入る.この話はフィクションである.男女を入れ替えたパターンも存在する.男の場合はヒゲが忌避される.ちなみに男性同士と女性同士というパターンは見たことがない.

 こういうあらすじを書いていて私は途中で気分が悪くなる.だが、このような広告はかなり高頻度で認められるのだ.アプリ内部のアクセス解析によって自動広告の内容が各々変わるらしいのだが、どうして脱毛ばかり出てくるのだろうか.脱毛の広告は電子の海だけではない.もちろん電車の中にもある.商業施設の並ぶ都市ならどこでもある.画像編集ソフトで、つややかに仕上がった女性の顔がこちらを見つめている.

 なんだかこのような風潮はいやだなぁと思ってしまう.脱毛を是とする空気感、「脱毛しないとみっともない」という圧力を感じてしまう.それはお前の感想だろ、と言われてしまえばその通りなのである.しかしこういうサブリミナル効果を思わせる広告導入は、主に若年層の審美眼や美意識に大いに影響を与えるような気がしている.例えば女性誌に載るモデルがあまりにもスレンダーすぎて、病的羸痩(BMI18未満)の姿が美しく思われるように仕掛けられると、私達はその体型を理想として意識してしまう.無意識であったとしても行動として現れることがある.摂食障碍における身体認識の歪みは社会の課す美意識と無縁ではない.脱毛を推す社会は、醜形恐怖を加速させ、美容整形を過度に受診させる構造や、非脱毛の人々を排斥する構造を作り出してしまっているような気がしてならない.美容整形はもちろん個人の自由だ.本人がやりたけりゃ好きなだけやればいい.自分が気になるから自分の意思で脱毛をするのならば止めはしない.とはいってもこれは自由診療の範囲内だから全額自己負担だ.数十万円をはらう必要があるし、ご先祖様から受け継いだ毛母細胞を徹底的に破壊するには何度も通わなければならぬ.こんなことを推す商業と自由診療の結託はなんだかずるいと思ってしまう.

 私が言いたいのは他人の身体的特徴を取り上げて自分の価値観を押し付けるのはいい加減やめてほしい、ということだ.私達はどうしても同調圧力に屈しやすい.どこかに毛髪の自由と平和を守ってくれる人はいないだろうか.

 毛の自由と平和を守る作品

 2001年から「週刊少年ジャンプ」に連載された澤井啓夫氏による漫画に「ボボボーボ・ボーボボ」がある.声調はボボボーボ・ボーボボ(Bobobōbo Bōbobo).幸運にも「週刊少年ジャンプ+」に第三話まで無料掲載されているので、雰囲気をつかみたい人はぜひ閲覧するといい.アニメ化もされ、英訳もされた.よくぞ訳したものだ.まずはあらすじを借用して紹介しよう.

 300X年、地球はマルハーゲ帝国が支配していた.マルハーゲ帝国皇帝ツル・ツルリーナ四世は自分の権力の象徴として全国民をボーズにするべく「毛刈り」を開始した.毛刈りとは頭に生えている新鮮な毛を直にぶち抜くことで、この毛刈りを行うのはマルハーゲ帝国専属部隊「毛狩り隊」だった.マルハーゲ帝国はとても強大でどの国も逆らうことはできず、全国民がこの「毛刈り」によって苦しめられていた.そんな時代に毛の自由と平和を守るため一人マルハーゲ帝国に立ち向かう男がいた……その名もボボボーボ・ボーボボ! 究極の拳法「鼻毛真拳」を使う彼こそ、救世主だといいな!? (原文ママ)

 主人公ボーボボはアフロヘアにサングラスで筋骨隆々の27歳男性という設定で、大きな鼻孔から手綱のような鼻毛をムチの如く操り相手を攻撃する「鼻毛真拳」を駆使する.この拳法を受けたものはなぜか吐血してしまうので、確かに強いのだろう.毛根をぶち抜かれた人々も吐血しているため、単なる作者なりの苦悶の表現技法に過ぎないかもしれない.とりあえず武論尊氏による「北斗の拳」を意識しているようだが、あまりこの設定が深堀りされることはない.一応ボーボボと毛狩り隊との戦いが主題ではある.しかしその対立にとどまらず終始話題が髪の毛のように散らかるのが本作の魅力だろう.

 一見、頭髪に非常に厳しい作風ではある.だがそんなに気にすることはない.作者は登場人物の全員に対して徹底的に理不尽であるからだ.本当の本当に、この作品は背景や舞台、人物の相互関係や文脈、あらゆる連関を破壊する.次から次へと意味不明な人物や偶像が出現しては意味不明な言辞を述べ、作品の全体的なまとまりや整合性が失われていく.伏線やレトリックというもの、表現技法はおそらく一切存在しない.人物描写も失礼だが単調で、特に毛狩り隊の構成員はみな同じにみえる.この圧倒的な不器用さ、極端さ、まとまりのなさ、理不尽さ、ぎこちなさが最後まで貫徹されている点は逆説的に完璧である.読んでいて苦痛はない.むしろ清々しい.仮にこれを分裂気質的と呼ぶなら、作者の脳内は一体どうなっているのだろうか.そんな「ボボボーボ・ボーボボ」は徹頭徹尾スキゾフレニックな作品だ.唯一、毛狩り隊は頭髪を根絶やしにすることに執着するパラノイアックな集団である.このような構造を頭に思い描くと、私は次のような二人を想起する.

パラノ・スキゾ

 1970年代から80年代のフランスにおける哲学のユニット、ドゥルーズ=ガタリ(ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ)の共著である「アンチ・エディプス(英題:Anti-Oedipus、仏題:L’anti Œdipe)」には「パラノ・スキゾ」という概念が登場するらしい.

 パラノというのはパラノイアParanoiaという言葉から、スキゾというのはスキゾフレニアSchizophreniaから来ている.どちらも精神医学用語で、かつて前者は偏執病、後者は分裂病という訳があてられた.偏執というのは大辞林を参照すると「かたよった考えに固執し他人の意見を受け入れないこと」とある.分裂というのはちょっと難しい.分裂というと、なにか形あるものが複数へとバラバラになるようなイメージをもつと思う.一つの考えにとらわれず、他の意見も聞き入れることもあるが不安定で落ち着きがないさまでもある.無秩序でアトランダムな動きをするブラウン運動の如き、野放図といったところか.彼らの頭髪も奇しくも対照的に見事に散らかっている.実にすばらしい.

 さて、ドゥルーズ=ガタリのいう「パラノ・スキゾ」という二項対立は、1980年代に作家の浅田彰氏による「逃走論」の流行で特にもてはやされたようだ.私はそのころ生きていない.要は「みんな、パラノイア的なアイデンティティはもうやめよう!これからはスキゾ的な生き方をしよう!」といった文脈で、社会的な役割や他人の評価に縛られることなく生きていくことを提案していく空気感が醸成されたらしい.

「いいか、タケシ、うちは代々大工だ.お前も中学を出たら大工の跡継ぎとして、俺の手伝いをしろ.いいな!男の癖に裁縫なんかやってるんじゃぁねぇ!」

「まぁ〜お千代さん、よろしくって?東条家の女は皆立派なお家に嫁いで行ったのです.こどもじゃないんだからいつまでも泥だらけで虫なんか捕まえてないでちょうだい.みっともない真似をこれ以上世間様に晒したら承知しませんヨ」

みたいな発言はパラノ的で、アイデンティティを束縛する生き方である.確かに上記の発言は石坂浩二の「金田一耕助シリーズ」でよく眼にした台詞で、あの頃の作品に登場する若者たちは皆それぞれアイデンティティに対する葛藤を胸にしていたように思う.この図式は今でも色褪せないもので、私自身もよく身に沁みて落ちないくらい心に感ずるものだ.

 それはともかく、ドゥルーズ=ガタリで用いられた「パラノ・スキゾ」の二項対立は哲学の入門書にも代表的概念として載っているくらいなので、そんなにわかりやすいのかと思い、私はStanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード哲学百科事典)の門戸を叩いた.このサイトは無料で公開されている哲学の百科事典であり、選任された多くの哲学者が寄稿した記事が別の学者によって現在も何度も何度も査読と修正がされている.言語は英語のみであるが、ウィキペディアなんかよりも遥かに信頼できる情報源といっていいだろう.ただ盲信しているわけではないことを断っておきたい.

 私はわくわくしながらドゥルーズの記事に「パラノ・スキゾ」がないか、探した.何度も何度も探した.しかし見つからなかった.とりあえずスキゾは見つかったがパラノはどこにも書いていなかったのである.よって上記の構造については全く触れられていなかった.あれれれれれれれ?「パラノ・スキゾ」は代表作「アンチ・オイディプス」の記事に書いてあるだろうと思ったが、全くパラノのパの字もなかった.パラッパラッパー!その代わり、凄まじく長い記事が瀑布の如く私の眼に垂直落下してきた.非常に難しい内容であったが、何日もかけて全訳することにした.英文は米国パドゥー大学(Purdue University)のダニエル・W・スミス氏(Daniel W. Smith)とジョン・プロテヴィ氏(John Protevi)によるもので、二人ともドゥルーズを専門とする人物であり、哲学科の教授である.まずは皆さんにも証人になっていただく.ぜひお茶でも飲みながら英文を読んで、それから和訳を見てほしい.

L’anti-Œdipe

 「アンチ・オイディプス」について考えるとき、はじめに私達はそのパフォーマンス的な効果について論じるべきで、その効果は「私達に思考をさせる」ことをしむける、すなわち、クリシェ(常套句)への傾倒に対する戦いを試みるのである.「アンチ・オイディプス」を読むことは実に衝撃的な体験になる.第一に、私達は情報源の奇妙な集積を目の当たりにする.アントナン・アルトー(Antonin Artaud)のスキゾフレニックな怒号は作品「器官なき身体」(Corps-sans-organes)の基本的概念である.第二に、著作の下品さは無意識(イド)についての悪名高い序文においてと同じようである.「そいつはどこでも動く、時代に適応してちゃんと仕事をする.そいつは熱を発し、飯を食い、糞をしてセックスもする[Ça chie, ça baise]. イドについてなんとまぁ間違ったことが言われてきたことか.」第三のパフォーマンス的効果はユーモアだ.メラニー・クラインの児童に対する分析を誂うのと同じようである.「なぁ、オイディプスって言ってみな、そうすりゃあんたの頭をひっぱたいてやるよ」こうした文章はほかにも沢山ある.「アンチ・オイディプス」ほど多くの冗談、駄洒落、 double entendres(一つの語句に二つの意味があり一つは性的な意味をもつもの)を含んだ荒削りの哲学書は極めて少ないのである.第四の要素はどんちゃん騒ぎの卑猥な論争である.その他多くの例の中でいうと、シニフィアンについて考える奴は暴君の言いなりに成り下がっているとか、フランス共産党党員はファシストにリビドーを注いでいるだとか、さらにフロイトは「仮面をかぶったアル・カポネだ」と描写されるのである.「アンチ・オイディプス」を読むと終始そのパフォーマンス的効果は忘れがたいものになる.

 本著の概念的構造に差し掛かると、「アンチ・オイディプス」の鍵となる用語は「欲望する機械」となる.マルクスとフロイトを縦横に駆けるそれは、欲望を生産という生態社会領域の中に置き、生産を欲望という無意識の領域の中に置くのである.通常の方法でマルクスとフロイトを統合しようとするよりも、欲望する機械は還元主義者の戦略によって次のように機能する.1)フロイトの側に立って、家族の像と様式のリビドー的投資が、それらの原始的投資に昇華することを求めるとするもの、あるいは2)マルクスの側に立って、神経症と精神病を不当な社会の構造上の副産物にすぎないものとして位置づけるものとする.ドゥルーズとガタリは欲望する機械を、表層上は分離している自然的、社会的かつ心理的領域に潜むものを「普遍的一次過程」と呼ぶ.それゆえに欲望する機械は人間中心主義ではなくて、世界のまさに中心なのである.その普遍的視野に加えて、私達は直ちに欲望する機械の二つについて理解する必要がある.1)生産物の背後にある主体はおらず、主体こそが生産を行う.2)欲望する機械の「欲望」は欠如を生むために関心を向けるのではなく、純粋に積極的である.欲望する機械は自律的で、自己建設的かつ創造的である.それはスピノザのnatura naturans(能産的自然)、あるいはニーチェの力への意志である.

 「アンチ・オイディプス」は概念的かつ術語的な技術革新とともにある、壮大な野心をもった作品である.その野心の中には、1)自然・文化の分裂両者を包含する、変化と変形あるいは「変形中」の存在論として機能する、生産の生態社会論と、2)社会形態の「普遍的歴史」ー「野蛮な」あるいは部族的な、「蛮族の」あるいは帝国的な、そして統合的な社会科学として機能する資本主義者.3)そしてこれら機能に対して土壌を築くこと、マルクスとフロイトに関する一般的な意見への批判ーそして応用領域を類比することで統合を試みることが挙げられる.そうした野心を追求する際、「アンチ・オイディプス」はtour de forces(妙技)ゆえの美点と欠点がある.異質な要素と要素の間で想像だにしなかった結合は可能となるが、何らかの緊張を孕んだ概念的な制度が犠牲となる.

 「アンチ・オイディプス」は欲望する機械の二つの主要な記録を識別する.自然または「形而上学的」そして社会的または「歴史的」な記録である.それらは次のような方法で関連付けられる.自然的な欲望する機械は社会という装置が抑制するものであるが、歴史(不確実な歴史、すなわち歴史の弁証法を避けるもの)の終焉に、資本主義において明らかにされるものである.資本主義は欲望する機械を自由に解き放ち、私有財産機構と欲望の家族的または「オイディプス的」様式を伴って統制しようとする.こうして分裂病の人々は欲望する機械の責任下で動き出すのだが、資本主義者社会の提案する限界で失敗する.それゆえに欲望する機械の働きに手がかりを与えるのである.

 ドゥルーズとガタリが分裂病を「生活様式」あるいは政治的プログラムのモデルとして提唱していないことを理解することが第一に重要である.分裂病は、臨床の実体として、欲望する機械のプロセス阻害、障碍の結果である.分裂病は自然と社会から取り出され、現実を成立させる結合を形成するよりも虚空を転回する個人の肉体に縛られているのである.欲望する機械は現実「と」結びついているのではない、欲望する機械は目的に触れるため主観的牢獄へ逃げるように、現実をつくるのである.それこそ現実であり、ラカン派の用語でいうねじれにおいてである.ラカンによれば、現実とは架空のものとして、意義あるシステムへの逆投影された剰余として生み出される.ドゥルーズとガタリにとって、現実とは自己形成のその過程において現実そのものである.分裂病者は助けを必要とする病人であるが、分裂病は無意識への方法であり、無意識は個人のものではなく、「超越的無意識」であり、社会的、歴史的、自然的なものをひとまとめにする.

 分裂病の過程を研究する際、ドゥルーズとガタリは自然かつ社会の記録双方において欲望する機械が三つの統合で成り立っていると論じた.結合、離接そして接続である.統合は三つの機能を果たす.生産、記録、享楽である.私達は生産を生理学的なもの、記録を記号論理学的なもの、そして享楽を心理学的記録と関連付けることができる.「統合」というカント派的響きを捉えることが重要である一方、統合を実行する主体が不在という、我々が先に述べたポスト構造主義者の視点に沿って注意することが等しく重要である.その代わりに主体は統合の生産物の一つそのものである.統合は主体に位置づけられている.それら統合とはただ欲望する機械の内在過程である.統合の背後に主体を位置づけることは統合の超越的用法であろう.ここで我々はカント派の内在の原則について、もう一つの言及を参照できる.ドゥルーズとガタリは「唯物論的精神分析」あるいは「分裂病分析」における統合の内在的用法を研究することを提案する.対照的に、精神分析は統合の超越的用法であり、五つの「パラロジズム」あるいは「超越的幻想」を生み出し、集中的な生産過程への広範囲な実質的な所有物特性を割り振るものとして関与する.すべてのパラロジズムが生産物から派生するアイデンティティに特異な過程を従属させる.

*アントナン・アルトーはフランスの俳優、詩人、演劇家.統合失調症の診断を受け九年間入院したこともあるが、生涯を創作活動に捧げた.「器官なき身体」は彼の言葉.

*パラロジズムとは誤った結論や議論を導く論理および修辞学の技法のこと.誤謬など.

*シニフィアンとは、ソシュールによる言語学用語.言葉のもつ感覚的側面とも言える.文字や音声はシニフィアンに当たる.一方、シニフィエは想起する意味内容や概念を差す.

オイディプスとスフィンクス.命がけのなぞなぞバトルを行う.

 「アンチ・オイディプス」において記された「普遍的歴史」によれば、社会的生活は、生産に対する功績を認める社会組織「socius(同胞)」の三つの形態をとる.部族のための大地、帝国のための君主の体、そして資本主義のための資本家である.ドゥルーズとガタリの人類学的文献の読解によれば、部族社会は入信の儀式で体に印をつける.そうして器官の産物は一族に、大地に神話的に遡るのである.より正確にいえば、神秘的な領域の一部、器官としての機能が大地全体へとたどり着く.物質的流動はこのように「領土化されたもの」で、大地に遡り、すべての産物の源として認められる.部族的な碑文の印はシニフィアンではない.それらは音声に位置付けするのではなくて、「野蛮な三角形:連結された音声、生々しい手、観察力のある眼、これら三つが独立していることを意味する残酷劇」を上演をするといえよう.帝国はこれらの部族的意味の暗号を超コード化し、生産物を聖なる父たる君主に遡及させる.君主制帝国における物質的流動は「脱領土化」(もはや大地に認知されない状態)になり、すぐに君主、あらゆる生産物に対して信用を引き受ける肉体に「再領土化される」のである.部族の印が超コード化されると、シニフィアンは「脱領土化した印」とされ、支配者と被支配者との間のコミュニケーションを可能にする.シニフィアンは「平板化」または「二義化」である.二つの鎖が一対一で並び、書き言葉と話し言葉に対応する(デリダの音声中心主義という考え方を参照).帝国のsocius「同胞」としての君主の肉体は、労働者が君主の「手」であり、密偵はその「眼」であることなどを意味する.

 資本主義は、以前の社会的機械が熱心に大地と君主の体にコード化した物質的流動の根本的な解読と脱領土化である.生産は資本の「肉体」に信用付けられるが、コードに対する「自明なもの」の代替による記録形式である.この文脈において「自明な」という意味は(脱領土化した労働と資本の)流動の間の差異よりもsocius「同胞」における図を流れる定性的な判断に対する精巧な規則というよりもむしろ定量的計算に対する一連の単純な原則を意味する.資本主義の命令はまったく単純である.脱領土化した労働と資本の流動を接続しその接続から余剰を抽出する.このようにして資本主義は巨大な生産的責任を緩和しこれら流動を接続するのである!速く、もっと速く!私有財産機関の余剰は個人の所有物として記録しようとする.今やこれら個人は主に社会的(資本家あるいは労働者の像として)であり次に私的なもの(家族)である.肉体の器官が社会的に以前の体制において顕著である一方、(一族と大地の帰属物として、あるいは皇帝の所属として、jus primae noctis「初夜権」として)肉体の器官は資本主義のもので民営化され家族の一員として人に付帯する.ドゥルーズとガタリの言葉では、資本主義の脱コードされた流動性は「人々」における再領土化であり、それは、オイディプス的三角形における像としての家族なのである.

哲学界のD&G.左がDで右がG.対照的な散らかり具合だ.

In considering Anti-Oedipus we should first discuss its performative effect, which attempts to “force us to think,” that is, to fight against a tendency to cliché. Reading Anti-Oedipus can indeed be shocking experience. First, we find a bizarre collection of sources; for example, the schizophrenic ranting of Antonin Artaud provides one of the basic concepts of the work, the “body without organs.” Second is the book’s vulgarity, as in the infamous opening lines about the unconscious (the Id): “It is at work everywhere, functioning smoothly at times, at other times in fits and starts. It breathes, it heats, it eats. It shits and fucks [Ça chie, ça baise]. What a mistake to have ever said the id” (7 / 1). A third performative effect is humor, as in the mocking of Melanie Klein’s analysis of children: “Say it’s Oedipus, or I’ll slap you upside the head [sinon t’auras un gifle]” (54 / 45; trans. modified). There are many more passages like this; it’s safe to say very few philosophy books contain as many jokes, puns, and double entendres as Anti-Oedipus. A fourth element is the gleeful coarseness of the polemics. Among many other examples, thinkers of the signifier are associated with the lap dogs of tyrants, members of the French Communist Party are said to have fascist libidinal investments, and Freud is described as a “masked Al Capone.” All in all, the performative effect of reading Anti-Oedipus is unforgettable.

Passing to the conceptual structure of the book, the key term of Anti-Oedipus is “desiring-production,” which crisscrosses Marx and Freud, putting desire in the eco-social realm of production and production in the unconscious realm of desire. Rather than attempting to synthesize Marx and Freud in the usual way, that is, by a reductionist strategy that either (1) operates in favor of Freud, by positing that the libidinal investment of social figures and patterns requires sublimating an original investment in family figures and patterns, or (2) operates in favor of Marx by positing neuroses and psychoses as mere super-structural by-products of unjust social structures, Deleuze and Guattari will call desiring-production a “universal primary process” underlying the seemingly separate natural, social and psychological realms. Desiring-production is thus not anthropocentric; it is the very heart of the world. Besides its universal scope, we need to realize two things about desiring-production right away: (1) there is no subject that lies behind the production, that performs the production; and (2) the “desire” in desiring-production is not oriented to making up a lack, but is purely positive. Desiring-production is autonomous, self-constituting, and creative: it is the natura naturans of Spinoza or the will-to-power of Nietzsche.

Anti-Oedipus is, along with its conceptual and terminological innovation, a work of grand ambitions: among them, (1) an eco-social theory of production, encompassing both sides of the nature/culture split, which functions as an ontology of change, transformation, or “becoming”; (2) a “universal history” of social formations—the “savage” or tribal, the “barbarian” or imperial, and the capitalist—which functions as a synthetic social science; (3) and to clear the ground for these functions, a critique of the received versions of Marx and Freud—and the attempts to synthesize them by analogizing their realms of application. In pursuing its ambitions, Anti-Oedipus has the virtues and the faults of the tour de force: unimagined connections between disparate elements are made possible, but at the cost of a somewhat strained conceptual scheme.

Anti-Oedipus identifies two primary registers of desiring-production, the natural or “metaphysical” and the social or “historical.” They are related in the following way: natural desiring-production is that which social machines repress, but also that which is revealed in capitalism, at the end of history (a contingent history, that is, one that avoids dialectical laws of history). Capitalism sets free desiring-production even as it attempts to rein it in with the institution of private property and the familial or “Oedipal” patterning of desire; schizophrenics are propelled by the charge of desiring-production thus set free but fail at the limits capitalist society proposes, thus providing a clue to the workings of desiring-production.

It’s important at the start to realize that Deleuze and Guattari do not advocate schizophrenia as a “lifestyle” or as the model for a political program. The schizophrenic, as a clinical entity, is the result of the interruption or the blocking of the process of desiring-production, its having been taken out of nature and society and restricted to the body of an individual where it spins in the void rather than make the connections that constitute reality. Desiring-production does not connect “with” reality, as in escaping a subjective prison to touch the objective, but it makes reality, it is the Real, in a twisting of the Lacanian sense of the term. In Lacan, the real is produced as an illusory and retrojected remainder to a signifying system; for Deleuze and Guattari, the Real is reality itself in its process of self-making. The schizophrenic is a sick person in need of help, but schizophrenia is an avenue into the unconscious, the unconscious not of an individual, but the “transcendental unconscious,” an unconscious that is social, historical, and natural all at once.

In studying the schizophrenic process, Deleuze and Guattari posit that in both the natural and social registers desiring-production is composed of three syntheses, the connective, disjunctive, and conjunctive; the syntheses perform three functions: production, recording, and enjoyment. We can associate production with the physiological, recording with the semiotic, and enjoyment with the psychological registers. While it is important to catch the Kantian resonance of “synthesis,” it is equally important to note, in keeping with the post-structuralist angle we discussed above, that there is no subject performing the syntheses; instead, subjects are themselves one of the products of the syntheses. The syntheses have no underlying subject; they just are the immanent process of desiring-production. Positing a subject behind the syntheses would be a transcendent use of the syntheses. Here we see another reference to the Kantian principle of immanence. Deleuze and Guattari propose to study the immanent use of the synthesis in a “materialist psychoanalysis,” or “schizoanalysis”; by contrast, psychoanalysis is transcendent use of the syntheses, producing five “paralogisms” or “transcendental illusions,” all of which involve assigning the characteristics of the extensive properties of actual products to the intensive production process, or, to put it in the terms of the philosophy of difference, all the paralogisms subordinate differential processes to identities derived from products.

According to the “universal history” undertaken in Anti-Oedipus, social life has three forms of “socius,” the social body that takes credit for production: the earth for the tribe, the body of the despot for the empire, and capital for capitalism. According to Deleuze and Guattari’s reading of the anthropological literature, tribal societies mark bodies in initiation ceremonies, so that the products of an organ are traced to a clan, which is mythically traced to the earth or, more precisely, one of its enchanted regions, which function as the organs on the full body of the earth. Material flows are thus “territorialized,” that is, traced onto the earth, which is credited as the source of all production. The signs in tribal inscription are not signifiers: they do not map onto a voice, but enact a “savage triangle forming … a theater of cruelty that implies the triple independence of the articulated voice, the graphic hand and the appreciative eye” (189). Empires overcode these tribal meaning codes, tracing production back to the despot, the divine father of his people. Material flows in despotic empires are thus “deterritorialized” (they are no longer credited to the earth), and then immediately “reterritorialized” on the body of the despot, who assumes credit for all production. When tribal signs are overcoded, the signifier is formed as a “deterritorialized sign” allowing for communication between the conquered and the conquerors. Signifiers are a “flattening” or “bi-univocalization”: two chains are lined up, one to one, the written and the spoken (205–6; cf. Derrida’s notion of “phonocentrism”). The body of the despot as imperial socius means that workers are the “hands” of the emperor, spies are his “eyes,” and so on.

Capitalism is the radical decoding and deterritorialization of the material flows that previous social machines had zealously coded on the earth or the body of the despot. Production is credited to the “body” of capital, but this form of recording works by the substitution of an “axiomatic” for a code: in this context an “axiomatic” means a set of simple principles for the quantitative calculation of the difference between flows (of deterritorialized labor and capital) rather than elaborate rules for the qualitative judgments that map flows onto the socius. Capitalism’s command is utterly simple: connect deterritorialized flows of labor and capital and extract a surplus from that connection. Thus capitalism sets loose an enormous productive charge—connect those flows! Faster, faster!—the surpluses of which the institutions of private property try to register as belonging to individuals. Now those individuals are primarily social (as figures of capitalist or laborer) and only secondarily private (family members). Whereas organs of bodies were socially marked in previous regimes (as belonging to the clan and earth, or as belonging to the emperor, as in the jus primae noctis), body organs are privatized under capitalism and attached to persons as members of the family. In Deleuze and Guattari’s terms, capitalism’s decoded flows are reterritorialized on “persons,” that is, on family members as figures in the Oedipal triangle.

難解を極めるD&G

  お疲れ様でした.確かに「パラノ」という言葉は出てこなかった.翻訳をなるべくスムーズに読めるように苦心したが私にはこれが限界である.兎にも角にも「アンチ・オイディプス」という作品で示されているのは、フロイトの唱えた「オイディプス・コンプレックス」に対する強い批判であり、オイディプス王の呪いの図式の如く、欲望をなんでもかんでもオイディプス・コンプレックスの図式に当てはめてしまうのはやめませんか、というものだ.そして資本主義社会のコード化(ルール)を免れているのは、分裂病の人々だ、彼らこそ資本主義に抗うことのできる欲望機械なのだ!彼らに続け!という主張である.ここでいうコードというのは規律や法が相当する.それにしても非常にわかりにくい解説である.おそらく記事を書いた人たちのせいではなくて、ドゥルーズとガタリが難しすぎるのだろう.「コード化」「脱領土化」「三角形」これらの言葉の持つ射程がでかすぎる.ポスト構造主義はこういうものなのかな.「ドゥルーズの理解が難しいのは彼の文体が難解であるからだ、彼の散文はかなり意味深で新語を交えるせいでもある(One of the barriers to Deleuze’s being better read among mainstream philosophers is the difficulty of his writing style in his original works (as opposed to his historical works, which are often models of clarity and concision). Deleuze’s prose can be highly allusive, as well as peppered with neologisms)」とされているので、やはりドゥルーズのせいだ.

 ここまできて私の意見を言っておくと、確かに.私自身いたずらに「オイディプス」の図式に当てはめて葛藤を解釈するのはどうかと思うことはずっとあったから部分的に納得はできる.かつて「この症例にオイディプス的葛藤はありますか」と他の先生に訊かれたことがあったが、誰もが父親を殺し、母親と交わるという呪いがかかっているとは思えなかったので「どうなんでしょうね」と自分でも糞みたいな返事をしたのを覚えている.孤児だったらどうするんだ、とか片親だったらどう説明するのか、と私はいつもひねくれたことを考えている.

 もう一つ、おそらくドゥルーズ=ガタリはアントナン・アルトーの例に感化されたのだろうか、分裂病、今で言う統合失調症に対する期待が大きすぎるように思う.まぁこの解説でも注意書きがあるように、「ドゥルーズとガタリが分裂病を「生活様式」あるいは政治的プログラムのモデルとして提唱していないことを理解することが第一に重要である.(It’s important at the start to realize that Deleuze and Guattari do not advocate schizophrenia as a “lifestyle” or as the model for a political program. )」としているのだが、分裂病は、対象の人格・知覚・思考を大いに脅かす疾患であり、適切な治療なしには時間経過とともに人格の解体を引き起こすことはいうまでもない.資本主義から逃れることは確かにできるだろうが、そもそもの社会に適応できないリスクが大きすぎて、このモデルはどう考えても推奨できない.「ボボボーボ・ボーボボ」をご覧になればわかるが、話がどんどん脱線して収集がつかなくなっているような分裂状態は歓迎できない.かろうじてセリフの文法は破綻していないので、完全な解体ではないにせよ.あの状態が続くと疲れてしまう.

ケツ毛ごと愛する

 さてさて、パラノvsスキゾという構造がそこまで重要なものではなさそうだということをようやく確認できたところで、脱毛の話に戻る.私は脱毛を押し付ける社会は喜べないと述べた.そして毛髪への脅威に対抗する英傑にボボボーボ・ボーボボを求めた.脱毛を勧める社会をパラノ的とすれば、ボボボーボ・ボーボボの住む世界はスキゾ的であり、かつて浅田彰氏が提唱した「パラノ・スキゾ」の二項対立を経て、スキゾ的生き方が推奨されるのではないか、とボーボボに期待した.ドゥルーズ=ガタリにも期待した.しかしボーボボの世界はかなりとっ散らかっているし、ドゥルーズの頭髪もかなり散らかっていた.ポスト構造主義の識者の意見を求めたが、そもそもパラノとスキゾの対立はドゥルーズ=ガタリの根幹ではないように感じた.きっと浅田彰氏の文脈に多くの人が、時代が影響を受けたのだろうと推察する.この記事を書き始めた私は、「スキゾ的生き方バンザイ!!」で文末を終わらせようとしていたが、嬉しいことに目論見が外れた.これがわかっただけでもよかった.スキゾ的生き方も大変なのだ.

 皆さんは脱毛についてどのようにお考えだろうか.「そんなの考えすぎだ」という人のために言っておくと、この問題は考えすぎたほうがいいくらい重要である.あなたに高校生の息子・娘がいたと仮定して、たまたまあなたの剛毛な遺伝形質が受け継がれたとする.その表現型に悩むあなたのご子息ないしご息女はあなたに「医療用脱毛したいから現ナマ30万円貸してくれ」という.即座に「ホイ、30万やで.気をつけて行っといで〜」と言うだろうか.そうではないはずだ.なにかしら逡巡するはずなのだ.このあなた方に芽生える葛藤が消失しない限り、私達はとことんルッキズムや価値観、審美性、美意識や表現の自由について議論を行うべきだ.ずるい言い方だが私達は「パーシャル・パラノイアック」かつ「パーシャル・スキゾフレニック」であればいい.自分自身の最大幸福と公共の利益の天秤をグラグラ揺らしつつも、自分にとってかけがえのないもの(アイデンティティ)は譲らず、許せるところは優しい気持ちでとことん譲ればいい.双極において極端な思考は良くない.

 最後に、同じく週刊少年ジャンプで連載されていた漫画「銀魂」より、すべての葛藤を凌駕するであろう象徴的なコマを紹介しておきたい.とある男性がキャバクラに来客する.接客してくれる女性スタッフに、

「彼氏のケツが毛だるまだったらどーするよ?」

 と尋ねる(無論毛だるまなのは本人なのだが).これに対し、女性は以下のように答える.

「ケツ毛ごと愛します」

 この仏性漂う言葉に心弾ませた男性は以来、この女性に惚れてしまうのである.自分が密かに劣等感を感じているものを受容してくれるような器量.これは私見だが、このような無条件歓待の態度が衆生救済につながるような気がしてならない.価値観の相克でなく、受容と共感.何かに固執することもせず、奔走することもなく、受け入れること.たとえブサイクでも、禿でも、毛深くても、持病があっても、整形していても、すっぴんと化粧後のビジュアルがでかくても、鼻毛がちらっと飛び出ていようと、うなじの毛が散らかっていようと、足の親指に毛が三本生えていようと、ケツ毛が毛だるまだとしても、ピーマンが苦手でも、ナイフとフォークが使えなくても、受け入れられるならばそれでいい.愛せるならばそれでいいのだ.愛せないのならば通り過ぎればいい.それ以上は野暮だ.Wo man nicht mehr lieben kann, da soll man – vorübergehen!

「銀魂」第二巻八訓「粘り強さとしつこさは紙一重」より

 

投稿者:

吾郎

2020年6月にブログ開設.生き延びるための様々な問題を精神病理学に基づいて取り扱っています!ぜひぜひ気軽に遊びに来て下さいね.Our articles include essay, translation, study about literature, psychiatry(psychopathology), humanities.