原罪について

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前回のあらすじ

 過去三回連載した「不安の概念」に関する記事で、私は主に第一章、第二章の説明を試みた.簡単にまとめると次のような具合になる.

 ・キルケゴールは不安の構造をキリスト教の「原罪」と自身の人生体験から理解しようとした.

 ・原罪論とは、「人類が普遍的に罪を負っている」という説明に根拠を与えるもので、創世記の伝承、アダムの堕罪に基づいている.ただ教義によって解釈が異なる.

 ・不安とは「自由のめまい」であると例えられる.不安とは、人間存在の構造が何の支えもなく揺るがされていることである.不安と恐怖は前者が対象を欠く点で大きく異なる.

 ・罪と不安は表裏一体である.無責の状態から有責の状態へと質的な変化(質的飛躍)が生じるときに不安が生じる.

 これから話す内容はアダムは人類であり、アダムは個人でもある、というキルケゴールの主張を理解する試みになる.「おれがあいつであいつがおれで」という児童文学を思い出す内容である.

 アダムの罪を説明することは原罪を説明することである.そして、アダムを説明しようとするが原罪をしようとはしない説明、あるいは原罪を説明しようとするがアダムを説明しようとしない説明は何も役にも立たないのである.このことは、全人類は個人に、個人は全人類に与るというようにして、人間は個人であり、そしてそのようなものとして自己自身であると同時に全人類でもあるということが、人間の実存における本質的規定のうちに深く根ざしているように思われる.

「不安の概念」第一章、「原罪の前提としての不安」

 「人間は個人である.そしてそのようなものとして自己自身であるとともに全人類でもあるということ、これは人間の実存にとって本質的なものであると思う」という上記を噛み砕いた文章を考えてみる.

 アダムは蛇に唆されたイヴの誘いで禁断の実を食べてしまった.美味しかったのかどうかは兎も角、「(創造主は)食べてはいけないと言われたが、食べようと思えば食べられるではないか」という自由の気づきのもとでアダムは果実を口にする.その自由とは、「食べてしまったらどうなるのだろう、死ぬとはどういうことだろう」という不安に転じる.そして、その不安は堕罪へと至るわけであるが、この罪は、創造主への無自覚な反逆とも理解できるかもしれない.創造主が作り出したアダムとイヴは全く善い人間であったはずだが、全く善いからこそ、無垢であり、無知であった.無知で、自由である故に堕罪したのであった.

 ここで伝統的教義学(ルターやアウグスティヌスの教義)と異なるのは、アダムは「禁断の果実を食べてみたい」と思ったわけではない、ということである.詳しく言えば「欲情」が生じたわけではない.「食ってはいけない」という神の禁止に対して、「禁止されたことをしてみたい」と思ったのではないのである.

「食べてしまったらどうなるのだろう、死ぬとはどういうことだろう?」

 伝統的教義学によると、アダムが堕罪したときに「欲情Concupiscentia」(生来の悪の傾性)が生まれたとする.しかし、アダムが創造されたとき、そもそも彼は無知ではなかったか.そんな彼が欲情などするだろうか.禁止されたことをしてみたい、という悪があるだろうか、とキルケゴールは考える.アダムとイヴは全く善い人間であったのだ.この堕罪の瞬間における解釈が伝統的教義学とキルケゴールで異なるのであり、「食ってはならぬ」という禁止がアダムの中に罪を生み出した過程には「欲情」ではなく、「不安」という力動が内在していたのであるという彼の論理には敬服するほかない.アダムは悪気なく罪を犯したのである.

 さらに伝承にもあるように、知恵の実を口にしてからは二人はスッポンポンであることを羞恥する.互いに木の葉で外性器を隠すキルケゴールも「堕罪によって性が措定された」と述べている.もし二人が欲情するのであれば、それは堕罪した後の話であろう.

 かくして、アダムが堕罪し、楽園を追放されてからは二人は交わる.するとカイン、アベル、セトが生まれ、セトの子孫がノアとなり、ノアの息子のセムの子孫のテラの息子がアブラハムとなり、その息子がイサク、五作、田吾作、与作……と続くわけである.アウグスティヌスから始まる伝統的教義では、原罪はアダムから上のような繁殖によってその後の人類に伝わるとし、それ故に個人は生まれながらにして罪の中にあると考えた.ルターなどプロテスタント派も、罪の原因を生来人が持つ悪の傾性によって説明しようとしている.だがこれは罪の普遍性を説明するにすぎない.我々にはもともと悪の傾性があるという言い分も納得できそうにない.

 伝統的教義学とキルケゴールの考えは次の点でも異なる.伝統的にはアダムは人類を罪に堕とした張本人かつ原因であるが、アダム以後(与作など)の個人の罪は、人類が堕罪した結果として生じるものとして解釈される.つまり、アダムとそれ以降の人間を区別してしまっている.しかし、そうではない.これでは原罪論が個人の罪性と人類の普遍的罪性両方を説明しようとする試みに反してしまう.もう一度キルケゴールの文章を思い起こしていただく.

 アダムの罪を説明することは原罪を説明することである.そして、アダムを説明しようとするが原罪をしようとはしない説明、あるいは原罪を説明しようとするがアダムを説明しようとしない説明は何も役にも立たないのである.このことは、全人類は個人に、個人は全人類に与るというようにして、人間は個人であり、そしてそのようなものとして自己自身であると同時に全人類でもあるということが、人間の実存における本質的規定のうちに深く根ざしているように思われる.

 現代に生きる我々なら理解は容易いだろうが、奇しくも私とあなたのゲノム情報は極めて類似している.どんなにあなたが嫌がったとしても.私と他の70億の人間のゲノム情報も酷似している.ボブ・マーリーもポール・マッカトニーもルーサー・ヴァンドロスもホイットニー・ヒューストンも非常によく似ている.これは我々がホモ・サピエンス・サピエンスというヒト亜族の一つであることで理解される.もとを辿ればかならずご先祖がいる.ご先祖の先祖をさらにさらに遡れば、我々はいつか生物学的「アダム」に到達する.誰でも人類の連続性がある.

 たかだか10万年程度ではゲノム情報は大きく変わらぬ.あなたとあなたの隣人の遺伝情報は99.9%以上一致しているらしい.チンパンジーでさえあなたとも1−2%程度しか変わらないのだ.故にアダムと現代の私たちの生物学的特質もさほど変わらないし、生得的な能力はほぼほぼ変わらないと見ていいだろう.生物学的な視点で、私とアダムは本質的に同じである.これは70億個ある均一な大きさのビー玉から一つ取り出すのと同じだ.セミの死骸に群れるアリを一瞥して、各々の差異に気づくことはできないように、ガルガンチュアのように巨視的な目線で見ると私たちとアダムはなんら変わりはないのだ.

 連載の最初で私は次のように触れたことを思い出す.

「これ(創世記)はもちろん神話なのであるが、多くの人が挙ってこの神話を取り上げるのは、宗教的な意義だけでなく、ある種、アダムを人類のプロトタイプとして考えたときの思考実験として捉えると興味深いからかもしれない」

 アダムもその後の人類も同じ人間である.よって本来同じ性質である両者を区別することは誤りである.前者を特別扱いしたり、例外扱いすることは議論をおかしくする、とキルケゴールは指摘する.アダムは最初の人間であり、彼は自己自身であるとともに人類である.アダムは人類の範型、典型なのだ.アダムの罪は人類の全体が堕罪した原因ではなくて、むしろ同じ人類である個々人がどのようにして堕罪するかを示す例示「Design study&Prototype」である.アダムが質的飛躍によって堕落したように、我々人類は質的に堕落している.その質的堕落とは、私達は無知ないし無垢な状態において不安の萌芽から自身の行為によって堕罪することなのである.我々は生まれつき罪の中にいるのではない.罪を犯す素質=罪性(ポテンシャル)を秘めているのである.そのポテンシャルが世代を経て伝わっていく、という意味で我々は普遍性を持つ.

 アダムが無知かつ自由故に堕罪したように、私たち人類も自らの無垢と無知で自由な行為によって罪を犯すのだと.よって罪の責任をどこに求めるべきか、それは個々人なのだ、ということは明らかになってくるように思う.

 今回の記事は以上である.私はずうっとずうっと原罪論について考えてきたが、ようやくキルケゴール兄貴が考えていたことに一定の理解を示せそうである.アダムは人類のプロトタイプである、という仮説は存外悪くない考えであったように思うが、それが自分の中で納得できるまでに大変な時間がかかった.そしてその考えを記事にして世間にお示しするにも時間がかかってしまった.牽強付会のように思われたら残念だが、私なりに錆びついた灰色の脳細胞を駆使して考えたのである.

 さて、「貴方こんなことを考えて一体なにになるの」とか「あんた暇だね」、「そんなこと考えているならもっと実学を勉強しなさい」とかいろんなお褒めの言葉が来るだろうと予想するが、私に言わせればこのような思索は臨床実践において極めて必要である.実際とても役に立っている.当たり前だが、精神医学は哲学ではない.だから精神病理学も哲学ではない.哲学ではないが、哲学の方法論を使わないことには理解できないだろうと思う.外科医にとっての手術室と同じように、私にとって哲学は精神病理を理解する思考の力場であり、外科医にとってメスが道具であるように、心理学は精神療法を実践するための道具である.ともすれば薬理学はある種飛び道具であろうか.

 不安は誰にでもある心的動きである.これがどのような機構で生じるのか、について一定の把握をしておくことは決して悪いことではない.生理学的なアプローチに基づくGABAの機能失調等の仮説も十分理解しておくべきだろう.だからと言って抗不安薬を矢鱈ぶち込めばいいかと言えば決してそうではない!!私はキルケゴールの考えを盲信するつもりはないが、「人間存在の構造が何の支えもなく揺るがされていることが、不安の原因である」という箴言には大変な共感を覚えるし、これを念頭にして面接に望めば不思議とクライエントのむつかしい言辞にも心を沿わせることはできそうなのだ.

いつもありがとうございます.

 余談ですが、当ホームページの用語集、頑張って増やしています.特に心理学関係の用語を充実させていますのでよかったらお立ち寄りください.

 

 

 

重陽の節句を前にして

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創造的便秘:Creative Constipation

 ドイツ観念論の学者の一人、フリードリヒ・シュライエルマッハー(シュライアマハー)に続くキルケゴールお兄さんの原罪論解釈が思った以上に難しい.原罪論というのは我々人類の罪的普遍性の根拠を示すことである.そしてアダムの罪が本質的に、個々人の罪と同一であることを示さなければならない.なんとなくキルケゴール兄貴が言っていることは理解できなくもないのだが、それをうまく伝えることができなくては理解したうちに入らぬ.私はずうっと原罪論について考えているのに、なかなか良い説明が思いつかなくて悩んでいる.その他現実問題で悩ましいこともある.少し時間がかかりそうである.超やばい.入浴中のアルキメデスが天啓を得たように、私もどうにかしてピピッと気づけたらよいのにと思う.以前、「うんこ」なる記事を書いたが、要するに私は創造性の便秘である.緩下薬や整腸剤をつかってどうにかなる話ではなさそうに思う.またブリブリ放り出すことができればお伝えしたい.大変申し訳無い思いで私は、悪魔ベルフェゴールの如く便座に座している.

心理学への誘い

 とある要請によって私は大学以来等閑であった心理学の勉強を再開することにした.大部分の動機は私への自己投資である.かくして妻の蔵書を拝借して臨床心理学の参考書をはらりはらりとめくると、全く私は「心理学」について何もかも知らないことに愕然とする(一方、妻は心理学にも詳しいし、教育学や人文学、生物学にも大変明るい).本当に自分でもドン引きするくらい何も知らないことに驚愕した.精神医学と心理学は重複するところはあれど、畑が違うのだと思い知らされる.

 心理学という用語は「Psychology」を西周が訳したもので、経験的事実としての意識現象と行動を研究する学問である.かつては精神についての学問として形而上学的な側面をもっていたが、現代へ続く心理学の発端はヴィルヘルム・マクシミリアン・ヴント(Wilhelm Maximilian Wundt)の実験心理研究所にある.これは1879年のことだから比較的新しい学問だ.多くの心理学者がヴントに学び、さらに学派が誕生した.また批判的立場をとる学者も出現して、これにはフランツ・ブレンターノ(Franz C. H. H. Brentano)が知られる.このお兄さんは私も度々取り上げた現象学おじさんエドムント・フッサールの師匠である.そのフッサールの弟子がハイデガーおじさんなわけで、心理学と哲学は多分に連綿と結びついている.

 同時代にジークムント・フロイト(Sigmund Freud)おじさんもいるがこちらは精神分析学の範疇に属する.精神分析学が心理学に属するという主張はおよそ誤解である.では精神分析とは何か、と問われれば現役の精神分析家の十川幸司氏をして「一つの思考の経験」と呼ぶらしい.もっと詳しく言えば、

 精神分析とは自己についての思考というより、分析家という眼前の他者を介した、より一層根源的な他者についての思考の経験なのである.その他者によって自己がどのように規定されているのか、その他者に対してどうあるべきなのかということが精神分析の中心的な問いとなる.

「精神分析」より十川幸司、岩波書店、2003年

 精神分析が思考の経験である、という主題は、嚆矢であるフロイトこそが精神分析を自己の無意識の真理に向った思考経験だと考えたからである.思考を題材にする点で哲学と似た部分はあるが、精神分析は他者を介在した営為である意味でそれと異なると思う.精神分析は別の記事でいつかまとめたい.

 なんだかんだいってフロイトは心理学に多大な影響を与えた人なので、この人は心理学上無視したくともできない.この分析畑の学派を精神力動系学派と呼ぶ.カール・グスタフ・ユング(Karl Gustav Jung)、最近人気の個人主義、アルフレッド・アドラー(Alfred Adler)、新フロイト派のエーリッヒ・フロム(Erich S. Fromm)、ハリー・サリヴァン(Harry S. Sullivan)やメラニー・クライン(Melanie Klein)やドナルド・ウィニコット(Donald W. Winnicott)に代表される対象関係論などが上記のグループに属すると考えて良い.

 その他、認知・行動に関する学派はハンス・アイゼンク(Hans J. Eysenck)やジョセフ・ウォルピ(Joseph Wolpe)などを経て認知行動療法としての技法を完成させているし、人間性心理学の立場はこれらの立場に対抗して発展した学派で、人間の肯定的で健康な側面を強調する.カール・ロジャーズ(Carl R. Rodgers)やヴィクトール・フランクル(Viktor E. Frankl)らが知られる.

 ここまで紹介しただけでも大変な数の心理学者がいる.様々な学派の心理学好きがいるということは試験勉強としては厄介ではあるが、非常に多様性に富んだ学問として魅力もあると肯定的に捉えておこう.もしかすれば、読者の皆様も知っている学者がいるかもしれない.

 改めて、なぜ私が心理学を勉強するのかといえば、私にとって臨床上の必要である.要するに、私は精神療法(心理療法とほぼ同義)を極めたいのである.精神科医は薬だけ処方してバイバイ、のような悪評を突きつけられているように思う.実際、主観だがそのような医者は少なくないのではないか.私はそのような悪評に対抗したい、という気持ちが強い.どんなに薬理が発達しようと、決して、絶対に、薬理だけでは精神疾患の改善は起こり得ない、というのが私の信条である.適切な面接が引き起こす脳内神経物質のポジティブな化学反応はあらゆる薬剤の効果をブースト(augment)する.そもそも何も入っていない錠剤を飲んだだけでも、抑うつ気分が改善するような奇妙な現象は、薬理以外の誘因が関与している.製薬会社の資料を見れば一目瞭然である.これはプラセボ効果とも言われる.「良くなりたい」「良くなるだろう」と思い込ませる、あるいは「この人が処方する薬なら良くなりそうだ」と信憑させる技量、すなわち信頼関係(Rapport)を築く技術の習得は心理学の理解なしはあり得ないだろうと思うようになった.よって、私は現在の技術のみならず、臨床心理技術職としての立場を築いていきたいと目標にしている.幸い役者は揃いつつある.そこからさらにサブスペシャリティを見つけられるならば願ったり叶ったりである.

 精神療法の手がかりとして

 2015年初版の医学書院から出されているオープンダイアローグとは何か」という書籍を私は繰り返し読んでいるが、これまたなかなか良い読書体験を得たと思っている.2021年5月18日の投稿「不確実性へ溶け込め」で紹介したばかりだ.私がライナー・マリア・リルケに出会ったのはこの書籍のおかげである.

 しかしながら私がオープンダイアローグについて語る資格はほとんどないに等しいだろう.というのも、私はこうした方法論を書籍や論文で知ったのみであり、実際に研修や講習会に参加したこともなければ、方法論を知る人から技術を教わったこともないのだから.猛威を振るう世界規模の感染症のため、どうしても外部に赴いて勉強する、ということが当面できそうにない.これは遺憾である.おそらく殆どの学術活動が停滞しているのではないか.オンラインで一応参加することはできるが、会場でポスター展示を眺めつつ、シンポジウムに片足を突っ込んで視聴するだとか、独特の空気感の中で他の講演を聴くことは現場でしかできない.だが悲観してばかりもいられない.おそらくは徐々に感染症の勢力が弱まってくれば、様々な学術活動が息を吹き返すだろう.その折に私はスーパーヴィジョンを受けるとか、認知行動療法や暴露療法・暴露妨害反応法の講習を受けることを強く希望している.いつかスーパーヴィジョンを受けることができた日にはできる範囲で報告をしてみたい.もちろん、オープンダイアローグも.

 一応、少しだけ著者斎藤の内容を引いて話をすると、どうやらオープンダイアローグは複数の音楽家による即興演奏に似ている.この面接の基本は「不確実性への耐性」「対話主義」そして「ポリフォニー」であるという.ポリフォニーに関しては「ミサ・ソレムニス」を想起していただきたい.治療者と患者、その家族や支援者らが紡ぐ音色はどのような終着へ行き着くか誰にもわからない.精神病症状が生む危機的状況は曖昧さをはらみ、治療者と患者双方にとって緊張感を生む.それは感情的負担である.ゆえに演者と聴者は常に不確実性への耐性が求められる.しかし、それに抗うことができるのが「対話」であり、「対話」こそ治療の糸口なのであるという.基本的に、精神病症状を呈する患者の幻覚・妄想には強烈なトラウマ体験がメタファーとして取り込まれている.それは私の短い経験でも十分に同意できる.症状の暗示する外傷体験が、周囲にとってどれだけ理解しがたいものであったとしても当事者はなんらかの形で現在進行形で情緒的に反応しているはずである.

 最近の私の小目標を述べれば、統合失調症が慢性に経過し人格水準が著しく低下した症例において、どのような面接が効果的なのか.思考が解体し、言語が言葉のサラダとなった人々にとってどのような態度が有効であるのか.こういったことの理解が求められている.急性期の治療や寛解・維持期の症例をどのように進めていくかについてはたくさん議論がなされているけれども、慢性期に関して私はあまり良い方法を知らない.

若き詩人への手紙

 私の中には多くの疑問が生起する.その問いはかくして上記の臨床の問題であったり、時事問題であれば、将来の身辺の問題であることもしばしばだ.あまりにも疑問が多すぎて一見壊れそうである.私は今までこうした問いに速やかに答えを出すことが必要なのだと思い込んできたが、どうやらそうでもないらしい.このような時勢において我々は感情をやたらと消費する場面が多いように思うが、このような時こそ、私達は未解決のものすべてに対して忍耐をもつべきだと.すぐに答えを探そうとしないこと.さらに、生起する疑念に対して批判かつ吟味することが必要なのだと.

 よって私は改めてリルケを引用したい.

 

 あなたはまだ本当にお若い.すべての物語のはじまる以前にいらっしゃるのですから、私はできるだけあなたにお願いしておきたいのです.あなたの心の中の未解決のものすべてに対して忍耐を持たれることを.そうして問い自身を、例えば閉ざされた部屋のように、あるいは非常に未知な言語で書物のように、愛されることを.今すぐ答えを捜さないでください.あなたはまたそれを自ら生きておいでにならないのだから、今与えられることはないのです.すべてを生きるということこそ、しかし大切なのです.今はあなたは問いを生きてください.そうすればあなたは次第に、それと気づくことなく、ある遥かな日に、答えの中に生きて行かれることになりましょう.

若き詩人への手紙、1903年、ブレーメン近郊ヴォルプスヴェーデにて、高安国世

You are so young, all still lies ahead of you, and I should like to ask you, as best as I can…to be patient towards all that is unresolved in you heart and try to love the questions themselves like locked rooms, like books written in a foreign tongue. Do not now strive to uncover answers: they cannot be given you because you have not been able to live them. And what matters is to live everything. Live the questions for now. Perhaps then you will gradually, without noticing it, live your way into the answer, one distant day in the future.

Letters to a Young Poet, 1903, Worpswede near Bremen, Translated by Charlie Louth

Sie sind so jung, so vor allem Anfang, und ich möchte Sie, so gut ich es kann, bitten, lieber Herr, Geduld zu haben gegen alles Ungelöste in Ihrem Herzen und zu versuchen, die Fragen selbst liebzuhaben wie verschlossene Stuben und wie Bücher, die in einer sehr fremden Sprache geschrieben sind. Forschen Sie jetzt nicht nach den Antworten, die Ihnen nicht gegeben werden können, weil Sie sie nicht leben könnten. Und es handelt sich darum, alles zu leben. Leben Sie jetzt die Fragen. Vielleicht leben Sie dann allmählich, ohne es zu merken, eines fernen Tages in die Antwort hinein.

Briefe an einen jungen Dichter, 1903, Worpswede bei Bremen

よく聴くこと

 あなたの懐疑も、あなたがそれを教育されたなら、一つのよい特質となることができます.それは知的なものになり、批判とならなければなりません.それがあなたの何かをそこなおうとするたびに、それに向ってなぜある物が厭わしいのかをお問いなさい.それに向って証明を求め、よく吟味してごらんなさい.そうすれば多分懐疑の方で閉口し、うろたえるのが、おそらくまた食ってかかってくるのが、おわかりになるでしょう.しかし負けてはなりません.討論をお求めになるがよろしい.こうしてそのつど、あなたは慎重に、徹底的に、同じ行動をとられるのならば、いつか、懐疑が破壊者からあなたの一番よい働き手の一人__おそらくあなたの生を築くすべての者の中で一番賢い者となる日がくるでしょう.

若き詩人への手紙、ライナー・マリア・リルケ、1904年、スウェーデン、ヨンセレート、フルボリ、高安国世訳

And your doubts can become a good quality if you school them. They must grow to be knowledgeable, they must learn to be critical. As soon as they begin to spoil something for you ask them why a thing is ugly, demand hard evidence, test them, and you will perhaps find them at a loss and short of an answer, or perhaps mutinous. But do not give in, request arguments, and act with this kind of attentiveness and consistency every single time, and the day will come when instead of being demolishers they will be among your best workers – perhaps the canniest of all those at work on the building of your life.

Letters to a Young Poet, Rainer Maria Rilke, 1904, Furuborg, Jonsered, in Sweden, translated by Charlie Louth

Ihr Zweifel kann eine gute Eigenschaft werden, wenn Sie ihn erziehen. Er muß wissend werden. er muß Kritik werden. Fragen Sie ich, sooft er Ihnen etwas verderben will, weshalb etwas häßlich ist, verlangen Sie Beweise von ihn, prüfen Sie ihn, und Sie werden ihn vielleicht ratlos und verlegen, vielleicht auch aufbegehrend finden. Aber geben Sie nicht nach, fordern Sie Argumente und handeln Sie so. aufmerksam und konsequent, jedes einzelne Mal, und der Tag wird kommen, da er aus einum Zerstörer einer Ihrer besten Arbeiter werden wird, – vielleicht der klügste von allen, die an Ihrem Leben bauen.

Briefe an einen jungen Dichter, Rainer Maria Rilke, 1904, Furuborg, Jonsered, in Schweden

 不確実性への耐性、まずはこれを実践したいと思うこの頃、もうすぐ重陽の節句である.なんでも菊の花が美しく咲く時期なのだとか.私はお酒をやらないから、菊に因んで何かするとすれば、今まで通り、よく「聴く」ことを続けることにしたい.

ご自愛ください.

八月も半ば過ぎて

 今回もカオスな献立でお送りします.

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プロアクティブ

 この時期になると戦争という出来事について、小生のような小童でも、私なりに感慨を抱く.戦争というのは無論、第二次世界大戦ないしは太平洋戦争のことだ.これに関連して、私は岩波書店から出された「思考のフロンティア」シリーズにおける高橋哲哉氏の「歴史/修正主義」を何度も興味深く読んだ.同じシリーズからは岡真理氏による「記憶/物語」がある.こちらもブログで紹介するくらい良い読書体験をした.絶版だがおすすめである.ちなみにどちらも妻の所有物で、私が勝手に拝借して読んでいるような状況にある.とは言っても互いに蔵書を好き勝手読み合うような互恵的関係である.

 八月になると、六日から順に広島・長崎の平和記念公園で県知事の演説、県を代表する生徒の演説、そして総理大臣の演説が報道される.十五日になれば、日本武道館で総理大臣と天皇、衆・参議院議長ならびに最高裁判所長官の式辞が述べられる.その中で特に、総理大臣の発言は殊更注目される.斯くの如き一連の流れが毎年毎年繰り返されるように私は理解している.もちろん六月の沖縄での出来事も忘れてはならない.

 多少なりとも、自国の首長がどのような発言をするかは私でも気にするし、表立って口にしなくとも、これまで気にしてきた.式辞の原稿を裏方が用意するにせよ、発言には発言者の意図が見え隠れする.歴代の総理大臣がいかなる内容をもって式辞を述べるか、ということは彼らがどのような歴史認識をしているのか、という理解の助けになると思う.十分条件として彼らが一定の歴史認識を持っていることが前提になるが…… 上記の書籍は、このような時節のお約束事となっている事象に思いを巡らすうえで価値あるものであると信じている.

 確か首相は演説で戦争を二度と繰り返さない、積極的平和主義を行う、ような趣旨を述べたように思う.彼が何を喋って何を言わなかったかについては報道の通りである.積極的平和主義というのは前の総理大臣から用いられている用語らしいが、私には語義がはっきりわからない.戦争を二度と繰り返さない、というのは誰もが願う望みとして自明だとしても、積極的平和とはなんぞや.英語では「Proactive Contributor to Peace」と言わせるようだ.「プロアクティブ」なんてニキビ用洗顔剤の商品名でしか聞いたことがなかった.

 外務省から今年の七月に公表されている「日本の安全保障政策」という資料によれば、積極的平和主義とは国際協調主義に基づく考え方のようで、「現在の世界では、どの国も一国で自らの平和と安全を維持することができない」前提に立っているらしい.ふーん.これに関連する通常国会質問主意書への回答をパラパラ見てみたが、当時の内閣総理大臣の回答は「積極的平和主義とは国際協調主義に基づく考え方である」とほとんど同じであった.このもやっとする感覚は真夏の猛暑と湿気によく似ている.皮脂で汗ばんだ私の顔は「プロアクティブ」なる洗顔剤でゴシゴシ洗ってスッキリさせられるやもしれぬが、スッキリしない疑問は以下の如く尽きない.How can be a peace contributed by such proactive attitude ?

 

 私達が過去の戦争を前にして「戦争責任」を認め、「深い反省」に立つのは、決して私達が子々孫々の末代まで「戦争犯罪」を甘受することではなくて、完全に逆に、現存在たる私がかつての国家との連続性を断ち切ることによって他者の、他国の信頼を回復・獲得してゆく積極的positiveな行為だからである.私達が日本人として引き継ぐのはあくまで法的・政治的連続体としての日本人であり、かつて戦争に加担した人々の罪性を私達があたかも生物学的に継承しているような考えは誤解である、と上述の著者、高橋哲哉は綴る.

 高橋は次のようにも述べている.私達が過去の事象を前にして抱く感情(恥や罪責)自体が問題になるのではない.そうした感情をどのように具体的に戦後責任として為してゆくかが重要なのだ、と.小生も密かに、そして強くそのように思う.もし私が異国の友人に戦争責任について議論するのであれば同じことを言うだろう.その営為の過程で「記憶の継承」はこの先も民間でも政治的次元でも要求され続ける.「記憶の義務;devoir de mémoire」は過去の凄惨な歴史から教訓を引き出し、新たな過ちを繰り返さないために要請される未来志向的意味を含む.この作業は基本的に終わりなき作業である.それだけ過去の事象は忘れがたい暴力性を秘めているのだと染み染み思う.

 

 

新しい地平へ

.مرحبا! صباح الخير أو صباح النور. أنا طبيب نفسي ياباني

 ここのところ、アラビア語の勉強が深みを増してきた.やっぱり語学の勉強は気持ちが良い.動詞を勉強しだすと、一気に扱う表現の幅が広がった感じがして少し気分が高揚する.大げさに言うと新しい世界が広がる感じである.最近の日本のとある大臣の答弁を使うと、新たな「地平」が開けた気持ちである(これはもともとは哲学の用語だと思う).

 私の知る言語(日本語、英語、わずかに仏語)だと、動詞を学ぶ時は現在形を覚えることから始まると思う.しかし、アラビア語は完了形(過去形)から覚え始めると良いと知った.なぜかと問われると、私の知る答えとして、辞書に載っている動詞の基本形が完了形だからである.それも三人称男性単数の形である.つまり、「彼は〜しました」の形が基本形になり、性別や人称によって形を変えることになる.

 例えば、

كَتَبَ(kataba)

は「書く」の動詞の基本形である.これが辞書に載っている形だが、これは「彼は書いた;he wrote」の意味である.もちろんアラビア語は右から読む.katabaと読む.

もし「彼女が書いた;she wrote」になると、

كَتَبَتْ(katabat)

となる.katabatと読む.「私が書いた;I wrote」にするならば、

كَتَبْتُ(katabtu)

とする.katabtuとなる.ここではアルファベットでKTBに相当する子音كتبが語根(単語の基礎となるもの)とされ、子音にa i u の母音をつけたり、つけないことで区別する.わかりやすい例えをあげると、我々はふりがなをつけなくてもBBQはBarbequeのことだとわかるし、AKB48・NMB48という女性ユニット(?)もAkiba(秋葉原)やNamba(難波)だと察すると思う.アラビア語もおそらく似たような調子なのだと思う.これ以上うまい例えが見つからぬ.

 例で挙げた、كتبの文字の上に「^」や「。」がついているのは初学者向けの発音記号(シャクル)で、現地の人々はもちろん記号をつけずに読めるし理解できるらしい.マジですごいなぁと思う.きっと私達が漢字にルビを振らなくても読めるようなものだろうか.多分、このまま頑張れば読めるようになるのは漢字の読みより容易いはず.「東海林」と書いて「しょうじ」と読むのはズルいし、「蕎麦」を「そば」とは知っていないと読めない.私が日本語を外国語として学ぶ立場であれば、おそらく匙を投げるはずだ.「去年」は「きょねん」、「来年」は「らいねん」と読む.「今年」は「こんねん」じゃねーのかよ!!あーもうめちゃくちゃだヨ!ニポンゴおかしいヨ!

 気を取り直して、さきほどのكتبに別の文字を加えることで、語根を元にした別の単語が生まれる.例をあげると、

مكتب(maktab)

は「事務所」や「机」を表すようになる.他にも、

كتاب(kitāb)

とすると、「本」になるし、「作家」を表すのであれば、

كاتب(kātib)

となる.つまり、語根になんやかんや付け足せば、いろんな語が作れるわけだ.便利ねぇ〜!

 正直に言って、このような言語があるというのは驚き、というかよくできているなぁと思い、感動している.28文字に補助記号を組み合わせて意思疎通がはかれるのは便利だ.もちろんアルファベットもひらがなも漢字も良くできた仕組みだなぁと思っているが、アラビア語は語の性別と数を一致させるので、韻を踏む文章となり、とてもリズミカルである.ヒップホップとの親和性が高そうである.そもそも、礼拝の時に流れるクルアーンの句がすでに音楽的である.まるでお経のように抑揚がついていて、聴き応えがある.かつて私がイスタンブールを旅行した時は、大音量で流れるアザーン(礼拝)の音声が全く煩わしくなく、かえって神妙な心地がしたものだ.これがきっと異国情緒というものだろう.

 神妙な心地がしたとしても、決して私はイスラム教徒になるつもりは更々無いし、どう考えても滅茶苦茶旨いあの豚骨ラーメンやサムギョプサルを諦めるわけがない.エスカロップもカツ丼も豚キムチも捨てがたい.もし宗教に関心を寄せたとしてもそれはイスラム教という宗教の論理性に興味を示すのであって、神性だとか、ムハンマドおじさんの神秘的体験を崇めるつもりはない.私は外国人の前では仏教徒بوذيということにしている.仏教では特段超越した存在を想定しなくていいのが宗教臭くなくていい.イスラム世界では下手に無神論者と言うよりもその方が都合が良いらしい.これを便乗仏教という.

 私の「おべんきょうがすすみました」報告は以上である.趣味の範疇ではあるがさらに精進を進めて、以前触れた私の目標に達することができれば嬉しい.もちろん、臨床も哲学も健康増進も抜かりなく.

求道者たち

 アフガニスタンでの政治的動向が注目されている.日本の報道で「タリバン」と称されている集団の幹部が大統領府にぞろぞろ入って、密になりつつ記者会見に応じている様子を動画サイトで観た.私の印象をいえば全員ヒゲモジャのオッサンのせいか、なんだかむさ苦しいのと、何人か銃を携帯しているために不穏な空気が漂っていたように思う.

 政治に関する話はさておいて、おそらく我々の多くが微塵も気にしないであろう、想定しうる誤解を解いておきたい.私は新しい知識を、嬉々として(時にドヤ顔で)誰かに伝えんとする少年少女と同じ次元にいる.もしかすれば以下の内容は知る人にとっては全くの古臭い情報である.つまり香味の抜けた酒と大差はない.しかしそんな酒でも酔うことはできる.

 アフガニスタンはパシュトゥーン人やタジク人、ウズベク人などで構成される多民族国家であり、彼らは主にインド・ヨーロッパ語族に属するパシュトー語やダリー語を話す.隣国のイランで話されるペルシア語やパキスタンでのウルドゥー語に似ているらしい.ちなみにインド・ヨーロッパ語族は英語も含まれる.これらは親戚関係にあるということだ.彼らは(宗教的内容を除いて)アラビア語を話さないのである(アラビア語はアフロ・アジア語族である).ただアラビア文字とアラビア語を借用して表記しているだけだ.アラビア文字にいくつか文字を加えて独自性を出しているに過ぎない.彼らの信奉する宗教がアラビア語を基礎とするイスラム教であるせいで人々を混乱させているのだろう.

 アラビア語を勉強して少しわかったことをいえば「タリバン」よりも「ターリバーン」の方が近い.我々が「タリバン」と縮めていうのは英米の報道機関が「Taliban」と短く発音することに起因しているようと思う.ぶっちゃけ「タリバン」の方が言いやすいのはわかる.彼らの表記を示すと「طالبان」で「Ṭālibān」とラテン文字で当てる.どうやらパシュトー語で「学生」の複数形を指すようだ.ところがどっこい、この言葉はアラビア語の借用である.「求める」「注文する」という動詞の基本形は先に述べたように、アラビア語で、

طلب(ṭalaba)

という.Ṭ, L, Bに相当する三つの語根から成り立っている.これを人称化したものが男性単数の場合、

طالب(ṭālib)

と表記する.一応TとṬは発音が異なるので分けて表記していることを断っておく.これが一般的に「学生」と訳されるのだが、「真実を求める者」故に「学生」と訳されるわけだ.さらに格好良く言ってしまえば「求道者」である.へぇ〜、なんかいい感じじゃん.こういうのを若い世代で「エモい」とか「厨二臭い」というのかな.

 さて、時折「神学生」という訳を見かけるが、個人的には意訳か迷訳もしくは妙訳という気がする.神学生というと若干のキリスト教風味がするのは私だけか.このṬālib(ターリブ)を複数形で表記すると、

طُلاّب(ṭulaab)

と、比較的大きく化ける.「テュラアブ」と「ターリバーン」では全く表記も発音も異なるのは一目瞭然だろう.パシュトー語の名詞の複数形がどのように変化するのかは全く検討がつかないが、アラビア語ではほとんどの名詞が不規則な変化をするらしい.これが初学者に煙たがられる所以の一つである.おそらく日本語よりは遥かにマシだ.とりあえずはパシュトゥーン人なりに発音と用法が最適化された結果が「ターリバーン」なのだろうと推測する.

最後に

 今後彼らがどのような政治的決断をしてゆくかはほどほどに注視しておくとして、願わくはこれ以上、爆風で埃と血飛沫が舞い、人々が阿鼻叫喚する様を映像で観たくない.最近は不幸なニュースが多すぎる.幾多もの王朝や文明の交差した山岳地帯の要衝アフガニスタンとして、卓越した文化や価値観の交じる賑やかな風景が、報道で再び映し出されることを私は心から祈念している.

ありがとうございました.

 

 

 

Essay on my state of mind

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1. Summer greeting

What a scorching hot and humid summer we are in Japan! We cannot survive without air-conditioned room these days, or we may die from severe heat stroke. In this summer, the following passages reminds me of unforgettable chorus by cicadas’;

Our journey from Penang to Singapore began at night. We were carried in darkness through the invisible forest. The noise of the insects among the trees was like an escape of steam. It pierced the roaring of the train as needle might pierce the butter. I had thought man pre-eminent at least in the art of noise-making. But a thousand equatorial cicadas could shout down a steel works; and with reinforcements they would be a match for machine-guns.

Aldous Huxley, Jesting Pilate, 1926

 ペナンからシンガポールへの僕らの旅は夜に始まった.僕らは暗闇の中、姿の見えない森を抜けて運ばれたのだ.木々の間の虫の喧騒はまるで蒸気の発散のようだった.汽車の咆哮がいともたやすくバターを突き刺すように僕らの耳をつんざいた.人類は少なくとも騒がしくすることに於いてずば抜けていると僕は思っていた.しかし、幾千もの赤道セミは鋼鉄の音をかき消したのだった.機関銃をもって等しいくらいに.

オルダス・ハクスリー、ピラトはふざけて、1926年

I am sincerely wishing that everyone stays in good shape, and all of us get through this unprecedented disaster of pandemic.

2. Settlement

As I drove across the prefectural border on the highway for some private reasons a few weeks ago, I felt a nauseous sentiment that I had sensed so long time ago, which equivalently annoyed me when I suffered from clinical depression since two years ago. The ache that I felt was just like my heart locked up by unseen power, that is commonly known as psychological stress. The damage I took from familial issues that concerned my marriage with my partner, and my career as a psychiatrist had collapsed due to the major depression that is still hard for me to approve. The place I passed by was the closest highway interchange from where I was born and brought up. I remember the uneasiness bore in my mind every time I saw the traffic sign which indicated that my birthplace was very close. And as I went far from the city, I realised that I felt better, which was an unexpected phenomena.

 先日、私的な理由で高速道路の県境を走っていると、かつて私が抱いていた悪心のようなものを感じたのでした.それは私が二年前にかかったうつ病の時と同じような不快感でした.心理的ストレスとして知られる、恰も見えない力によって、心に鍵がかかったような苦痛が私に生じたのです.私が受けた配偶者に関する家族的な諸問題からの傷や、うつ病のために精神科医としてのキャリアが閉ざされたことは未だに受け入れがたいことです.私が通り過ぎたところというのは、私が生育した場所に最も近い高速のICでして、私は標識がその場所を指し示すたびに不愉快な気持ちが芽生えたことを覚えています.そして街を通り過ぎると気持ちが楽になったことに気づいたのですが、これは予想外の現象でした.

I wondered, if the psychological stressor can be attributed to my “two years ago” matters, does this mean that my mental problem should not be diagnosed as depression, but an adaptive disorder? According to DSM-V classification, the basis of the diagnosis is the presence of a precipitating stressor and a clinical evaluation of the possibility of symptom resolution on removal of the stressor. Hmm……

 もし、心理学的なストレス因子が私の「二年前」のことに起因するのであれば、これは私の心理的問題がうつ病ではなくて、適応障碍なのではないかとふと思ったのです.DSM-Vの分類によれば、診断の基本は、気分を害するストレス因子が存在し、ストレス因子が除かれることによって症状の解消がみられる可能性の臨床的評価をすることとあります.ふむふむ.

Fortunately, now I am rather happy living with my wife, and able to go for work as a “headshrinker”. And I believe that I am good enough to maintain family finances so far. Objectively, I think I behave as a healthy person except for the truth that I am still being prescribed minor tranquilliser. However, I must say that I am not a man that I used to be. I cannot be healthier than anymore, there has been a feeling of disquiet in my mind since I got mentally ill.

 幸いにも今、私は割と幸せに妻と生活できていて、さらに精神科医として勤務できています.私は今のところ、家計を回すこともできている方だと思っています.傍から見れば、未だに抗うつ薬を処方されている事実を除いて私は元気に見えるでしょう.しかしながら私はかつての私とはやはり違うのです.これ以上元気になることもないでしょうし、私が病気になってからはずっと不穏な空気が心の中に留まっているのです.

Why would I have to be bothered with such a disgusting feeling for a long time? This is quite a troublesome psychological dynamics that I honestly don’t want to admit. But I have to keep soldier on.

 どうして私はこんなに長く忌々しい感情に悩まされなければならないのでしょうか.こいつは大変厄介な心理学的力動というもので、正直言って認めたくないものです.しかし前に進まなければならないのですね.

As a medical profession, I do not judge by myself, but I think I am getting better than before. In other words, the mental state may be in remission. Chances are that I will plan on having a few more practical licenses for my career, if the condition gets better than before. The other day, my doctor in charge and wife cheered me up with words that “You look better. But don’t be hurry-scurry, take it easy.” Much appreciated.

 医師として私は自分を診断するということはしませんが、おそらく私の体調は以前よりも良くなっているようです.換言すればこれは寛解なのかもしれません.一応機会があればキャリアに向けてより実用的な資格を取ることも検討しています.もしこのまま調子が良ければの話ですが.そういえば先日、主治医や妻が「いい感じじゃないですか、でも焦らず、気楽に」と言ってくれたのです.感謝ですね.

After all, I think that the rightness whether I have been in adaptive disorder or major depression, is quite a difficult issue to define them. Moreover, It is because so intimate the relation between weakened adaptiveness and mood disorder that the two can scarcely be thought apart. But if we take the DSM-V classification in consideration, the length of being affected by mental disorder, which had led me to severe disfunction of thought and emotion, it is rather better to say that I have been in depression disorder. This may be evident to all readers by browsing my past articles, the flows of my thought seems a bit awkward and illogical. I owe you an apology.

 結局、私が適応障碍なのかうつ病なのか、どちらが正しいのかという疑問は実に定義し難い難しい問題なのでしょう.さらに言うと、両者の関係はあまりにも密接であるからして、脆弱化した適応性と気分障碍の間は切り離して考えることが殆どできないのです.しかしながら、もしDSM-Vの分類を斟酌すれば、つまり精神障碍の罹病期間が私に与えた深刻な思考と感情の機能不全によって、むしろ私はうつ病にあると言えそうです.これは読者の皆さんにとっては過去の記事を見直すと明確かもしれません.思路がややぎこちなくて論理性を欠いているようでして.申し訳ないと思います.

In the end, I am neither angry nor upset myself for what I felt in the motorway, I must tell that I was just keen to describe the fact that occurred to my mind. Yet it was indescribable event for me to note in my native language, foreign language(English) helped me tidy up my thoughts instead. Thanks to this work of writing, probably I may be gradually reaching a settlement with my self-conflict.

 終いに、私は高速道路での体験について怒りや苛立ちを表明しているわけではなく、私は単に自分の中に生じた事象を描写したいという一心だったのです.しかし日本語では名状しがたい出来事には違いなく、その代わりに外国語が私の思考を整理する助けになりました.書くという作業のおかげでおそらくは私は次第に自分の心と折り合いを付けつつあるのかもしれません.

Thanks for reading.

ありがとうございました.

質的飛躍

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  セーレン・キルケゴールによる「不安の概念」という著作は不安についての分析を試みたものである.これまで二回ほど彼の著書について取り上げたが、そもそも取り上げた理由は、間接的なものではあるものの臨床で生じた様々な疑問からであった.それらは過去の記事のリンクから御覧いただいて参照して欲しい.一つは、不安の現代の語義に関する話題、もう一つは、罪を「創世記」の伝承から読み解こうとした先人の紹介と、「不安とは自由のめまいである」というキルケゴールの文句を引いた.それに若干の解説を加えたものと記憶している.

 さて、「いかにして罪というものが措定されたか」「不安との関係はいかなるものか」という内容で次の記事を書くことを目標としたが、「不安の概念」の第一章、第二章の理解がとても難しく、殊更にキルケゴールの用語である「質的飛躍」を理解しないことには「堕罪」もひいては「不安」も理解できないことに気づいた.私は時間があるときに何度も何度も頁を往復した.進んでは戻り、進んでは戻り…… どうやら予定変更となりそうだ.

とある漫画から「質的飛躍」を考えてみる

 「ジョジョの奇妙な冒険」第四部、「ダイヤモンドは砕けない: Diamond is Unbreakable」という作品に出てくる広瀬康一小林玉美のやりとりが、罪の「質的飛躍;det qualitative Spring」を理解するのに良いのではないかと私はずっと考えていた.今回はその話をしようと思っている.この小話は物語の核心に迫るものではないのでネタバレはない.安心いただきたい.「ふーん、この筆者はジョジョが好きなんだ」という理解は半分誤解である.そうではなくて、たまたまグレートな例えがジョジョしか思いつかなかっただけだ.作品はまぁまぁ好きだが実際、第五部「黄金の風: Vento Aureo」までしか知らないのだ.そう断っておかないと、本物の通人に失礼だ.

 作品の大筋は以下のようなもので、大河小説(Roman-fleuve)に近い.第四部は宮城県仙台市のとある町をモデルとした架空の町(杜王町)で繰り広げられる、シリアルキラー(連続殺人犯)との戦いを描く.ところで「ジョジョの奇妙な冒険」をご存知ない方に一応、公式の紹介を載せておく.1980−1990年代の週刊漫画の黄金期を築いた作品の一つである.

代々血統が受け継がれ、主人公が交代していく物語

「『ジョジョ』って第何部だとか、主人公が何人もいたりだとか、複雑そう。コミックスも100冊くらい出てるし、タイトルが違うのもあるし、どこから読んでいいかわからない」という方は多いかもしれません。

1987年に週刊少年ジャンプで連載を開始した『ジョジョの奇妙な冒険』は、第1部の主人公ジョナサン・ジョースターと、敵対するディオ・ブランドーとの因縁から始まる物語。その戦いはジョナサンの代だけでは決着せず、その子孫たちも巻き込んで100年以上続きます。主人公や舞台が交代していくのはそういう理由なのです。

JOJO Portal site -ジョジョとは- より

 その作品を語る上で欠かせなくなる概念に「スタンド」がある(「電気スタンド」のスタンドと同じ抑揚である).「スタンド」とは「パワーを持った像」であり、持ち主の傍に出現してさまざまな超常的能力を発揮し、他人を攻撃したり持ち主を守ったりする守護霊のような存在と説明される.人や動物を模したり、飛行機や拳銃、ボディスーツのように持ち主と一体となるものだけでなく、粘体のように姿かたちを自在に変えるものもある.容姿と能力は持ち主固有のものであり、一つとして同じものはない.そして一人一体である.複数はない.基本的に第三部からこの「スタンド」能力で登場人物は戦うことになる.彼らを「スタンド使い」という.第四部も「スタンド」能力の戦いは引き継がれる.

 物語を構成する重要な性質として「スタンド使い」は引かれ合う.多分虫プロダクションに漫画家が自然と集まってくるのと似ている.よって誰かがいれば自然と能力者が集まる.能力者の信念・信条の衝突が能力を駆使した戦いとして表現される.ちなみに「ジョジョの奇妙な冒険」は異能力バトルの先駆けらしい.何を異能力とするのかは定義し難いが.

広瀬康一の災難

 *ここで嬉しい誤算があった.これから説明しようとしていた「罪の質的飛躍」を理解するのに都合の良い場面が、AmazonのKindle版でちょうど試し読みの対象となっている!読者の皆さんが私の茶番に真摯につきあってくれると信じて、以下にリンクを貼っておく.もちろん、私なりに文章に起こして、丁寧、丁寧、丁寧に描写を試みた.とはいってもSeeing is believingであるからぜひ試し読みページをご覧になっていただきたい.

 私と集英社とAmazonに利益相反はありません.下記に示すイラストは模写であり、作者及び集英社の著作権を侵す意図がないことを明記いたします.

 杜王町に住む高校生、広瀬康一は(スタンド能力を発現させるまでは)純粋でごく平凡な少年であった.そんな彼が新品の自転車にまたがり道を走っていると、急に何かが詰まった袋が路面にあることに気づく.広瀬康一は急ブレーキをかけるが間に合わず、袋を轢いてしまう.袋からは真っ赤な液体が滲み、中からはかすかに「ニャァニャァ」と弱った猫が力なく鳴いているような音が聞こえる.

 広瀬は「猫を轢いてしまった」と直観してしまう.轢くことを意図しなかったにせよ.やがて猫の鳴き声は消えてしまう.

 するとどこからか、チンピラのような男が現れる.彼は小林玉美という二十歳の青年で、どうやら強請り屋(他人を脅して無理やり金品を巻き上げる人)として杜王町にいる.彼は広瀬が行った一連の行為を目撃したと証言し、広瀬を動揺させる.そして「声が聞こえなくなったのだから猫は死んだ.おれの猫が」と付け加え、広瀬を追い詰める.広瀬は自分が轢いた猫がこのチンピラの飼い猫だと聞き、困惑する(飼い主ならば猫を袋に入れて道端に放置するなど考えられないのに).

 「おいおい!フザけてんじゃあねーぞ! 君はたしかに悪くない」

 「だがおれのネコ殺しといて無料(タダ)で行っちまうのかよ!カワイイ顔してよーっ」

 「カワイソーなネコをひき殺したのはニイチャン!おまえだ…」

模写1.漫画の一コマから.
当ブログの趣旨は作品と無関係であり、あくまで当ブログの記事内容が主、引用する作品のコマの模写はそれに従属するという認識で掲載しています.

 (実は)小林玉美は「スタンド使い」であった.その能力は「対象に生じた罪悪感に対応して、相手に『錠前』をつけて心の重圧を与える」ものであった.彼はスタンド能力が発現してからか、自身の能力を使って、言葉巧みに強請りをしていたようである.そんなことを知らない広瀬は袋に入った猫を轢いた罪の意識から、小林のスタンド能力「ザ・ロック」の術中に嵌ってしまう.

模写2.心の錠前が出現する.
当ブログの趣旨は作品と無関係であり、あくまで当ブログの記事内容が主、引用する作品のコマの模写はそれに従属するという認識で掲載しています.

  これが質的飛躍である、と私は考えている.「ザ・ロック」は「罪」が生じた瞬間に錠前として顕現するのである.錠前はこの作品でいう「罪」の表象である.「創世記」におけるアダムの堕罪、すなわち人類が無責から責を負う存在になったことこそが、「質的飛躍」なのであろう.ここでは罪の大小を問うているのではない.罪があるのか、ないのかが問題となっている.キルケゴールはおそらくそれを創世記の伝承から考えたに違いない.

 同様にして広瀬康一は無責から責を負う立場へと一転した.よって彼の心には「錠前」の形で「不安」が現れたともいえよう.なお作中では錠前は「不安」とは明言されていないが、「人によっては自責の念で死んでしまうこともある心理的重圧」と記載がある.前回の記事で「不安とは人間存在の構造を根本から揺るがすもの」と述べた.とすれば、「堕罪」が存在することが「不安」なのであるという理解は、「不安の概念」にある以下の文章とも合致するように思う.

・個体における原罪の結果、言い換えると個々人のなかに原罪が現存すること、それが不安なのである.

・罪は〈最初は〉不安のなかへ入り込んできた.が、こんどもまた罪は、不安を〈道連れ〉にたずさえてきたのである.

「不安の概念」第二章:原罪の結果としての不安、1844年、村上恭一訳

 広瀬はこれまで真面目に素行の良い少年として生きてきた.にも関わらず、突如「猫を自転車で轢く」という罪に等しい行為をしてしまったと感じたが故に、その行為が自身の人生の根本を脅かすものだと直観し「不安」となる.また、彼は袋を轢く瞬間、「これからどのようになるのかわからない」という根源的な「不安」を持っていたともいえる(結果的に猫を轢き殺すことになるが、ただの袋を轢いただけに過ぎない結果もあったかもしれない).そして袋を轢いて、中に猫が入っていたと直観したとき、彼の中に罪が芽生える(罪が措定される).要するに「罪」と「不安」は表裏一体なのだとキルケゴールは考えたのではないか.どうだろうか.

 

次回は

 さて、広瀬康一がこの難局をどのようにして切り抜けたかは、作品の醍醐味であるのでここでは述べないでおく.続きが気になった方は漫画を買うか、アニメをご覧になると良い.

 ここまでで私は広瀬康一の「罪」とアダムの「罪」が同列のような言い方をしているが、これはその通りで、本質的には同じだということである.罪が存在するようになる「質的飛躍」において、その「罪の程度=罪性」は「量的」でしかない.それはキルケゴールと同時代の神学者フリードリヒ・シュライエルマッハー先輩の言わんとする「原罪論:罪の普遍性の根拠」に基づいている.先にネタバレをしておくと、キルケゴールの考えでは「おれがアダムで、アダムがおれで」もしくは「全人類アダム(イヴ)説」のような感じである.

 「てめぇはまだわけわかんねぇことを書くつもりか」

と怒られそうなので、今回はここまでとしておこう.「おれがアダムで、アダムがおれで」とは何のことかについては次回の記事で説明を試みたい.できれば、過去三回の記事の総括を一度行い、それから三章、四章、五章の説明へと順を追って行きたいと思っている.

 ここまでありがとうございました.

いい車とは

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乗れない日々

 たまには些事を記載させていただきたい.

 最近は全く自分の車(ABA-981MA122)で走りに行くことができておらず私はブー垂れている.大変残念である.走る、というのはただの通勤ではなくて、自由な運転のことをいう.気の向くままにぶらぶら運転する、ということが最近の感染症事情のためできなくなっている.無論、走りに行くのが好きな人は痺れを切らしてあちこち出掛けているに違いないが、他所は他所、うちはうち、である.早く早くコロナウィルス感染症の収束を願うばかりで、どうもすぐには収束しそうにないのは皆さんもご存知のことかと思う.このままだとスキーにも行けないし、気楽に山岡家にも行けないし、カレー屋さんや美味しいレストランにも人気の少ない景勝地にも行けない.変にウロウロして病原を勤務先に移す訳にいかない.感染症の沈静を祈る他ない.コロナウィルスに対して我が家は既に人事は尽くした.これ以上やりようがない.

 通勤では専ら妻のDBA-NSP-130に乗っている.我が家は二台持ちだ.いつも助かっている.これはこれで結構な車である.何が良いのかといえば、街乗りの気楽さもそうだが、ベタ踏みしてもちっとも加速しない非力さにある.四気筒自然吸気エンジンの悲鳴を聴くと今にも機体がバラバラに四散するかと思うが、いつも元気に動いてくれる.まるで昔の私みたいだ.この鬼哭を聴いて、妻は購入当初、新車なのに壊れているのかと思ったらしい.先日高速道路を走っていて前輪がバーストするという恐ろしい目にあった.死ぬかと思った.よくぞ車がスピンしなかったものだ.車のせいではなく、ウェット路面はタイヤに色んなものが吸い付くらしい.雨の日は危険がいっぱいである.

 まぁ、DBA-NSP-130はなんだかんだ言って法規遵守的にも経済的にも安楽な車である.付言すると後席があって、荷物が積めることも長所だ.真夏でもぐおおおおおおおんと音を立てて冷房がよく効く.当たり前か.だが最近私はもっと経済的な車があることに気づいてしまった.その話はしない.

昨今の車のデザインについて

 DBA-NSP-130に限らず、ここ十年くらいの乗用車の意匠はどれも似てきたように思う.鋭い角度の前灯、大型の吸気口、複雑なプレスライン.もし車の前方を顔と例えるのなら、全体的に怖い顔つきになってきたような気がしている.眩しいLED電灯で照らされた険しい眼光と大きな口.全高、全幅、全長が世代交代を経るにつれ伸びてゆく形状.後ろから大きな怖い顔の車に距離を詰められると、どうもハッとしてしまう.特にかつての枢軸国側の車はどれもギラギラしている.連合国側もギラギラしている.全世界ギンギラギンにさりげなく.「アルファード」や「ヴェルファイア」、「デリカD5」なんて大根が擦りおろせそうなグリルをしている.ジョリジョリジョリ……

 私自身もデザインには好き嫌いがある.銀色に輝くクローム鍍金で加飾された造形や巨大なグリルが放つ威圧感は好きでは無い.大きなグリルの端緒はアウディ株式会社の販売する自動車のA6だと記憶しているが、どこもかしこも挙って真似しだしてグリルが大きくなってしまった.近年はバイエルン発動機製造株式会社のグリルも巨大化してしまい、もはや拡張の余地がないように思う.ここ数年のエキゾーストも見た目だけの造形であるし、角張った意匠は流行をなぞっているに過ぎないから、いずれ廃れるような気がしている。シーケンシャルウインカーも好きではない.いつか私の好きな、丸みを帯びたシンプルな造形が流行ると嬉しいなぁと思う.燃焼を不要とする電気自動車の勢力が増せばグリルの縮小は期待できそうだ.

 先進的・知的・革新的・洗練された、などという商品の飾り文句は陳腐化していて、何も沸るものはない.そもそも自社で知的、と言ってしまう所に珍妙な印象を持つ.とは言いつつ、車の性能は着実に向上する傾向にあるし、先進的かどうかは兎も角、どれを買っても特段の差異はないだろう.極端な性能の車でない限り.音声入力も先進性を謳う機能のようだが、「へい、メルセデス」なんていうのは小っ恥ずかしくて私は嫌だ.「おーけー、BMW」というのも面倒だし、認知してくれなかったときの虚しさは想像を絶する.私に言わせれば、そんなことよりも物理スイッチをきれいに並べてくれた方がはるかに便利である.「『温度を下げて』と命令したら、なんと1℃温度をさげてくれました〜賢い!パチパチ」なんて小芝居を披露する評論家はお世辞にも賢いとは言えまい.スイッチの位置さえ覚えてしまえば運転に集中しつつ操作できるのだから.ただ忘れずにいうと四肢の何らかの障碍等がある人にとっても音声入力は運転支援の重要な肝だろうし、「やめろ」というつもりは全然ない.レクサスは生身のオペレータが24時間待機して、地図設定などあれこれやってくれるようだが、深夜2時や3時にも誰かが待機しているかと思うと、その人の適切な睡眠リズムを奪っているような気持ちがして心苦しい.私には不要だ.あとはアンビエントライトも不要だ.

 なんだかんだブーブー言っているが私としてはみんな好きなものを好きなように買ったら良いと思う.本当に.消費者の特権は大排気量だろうと大根おろしだろうと、電気自動車だろうと選ぶ自由があることだ.いろんな車があるのは喜ばしい、ということにしておこう.脱炭素等の環境への配慮や持続可能性の問題は企業や行政の責任にある.もちろん個々人が意識する分にはとても「セクシー」なのだろうが、消費者があーだこーだいうのも限りがある.自分の生活にあう車が良い車に違いない.だから何も気にせず好きな車を買ったら良い.

SUV人気

 流行といえばSport Utility Vehicle(SUV)の人気は止まらずにいる。新車の販売台数の半分はSUVだという声も聞く.何がスポーツなのかはさておいて、居住性と積載性は確かにあるし、全高が高いので視界が良いのも手伝って運転がしやすい点ではユーティリティがあるといえる。色々なSUVを運転する機会があったが確かに楽だ.なんだか運転している気がしない.メーカーも「車」として売るというよりも「ライフスタイル」を売るような宣伝をしているように思う.キャンプサイトや湖畔、雪山、渓谷、砂浜などの背景に映るSUV.見栄えはしそうだ.

 これは私の邪推ではあるが、人気の理由として比較的大型の体躯ゆえに煽られにくく、(一部にとっては)煽るのに適した車なのだろうと思う.断っておくが煽り運転が言語道断なのは当然である.だが実際に公道で大胆に煽っている姿を未だに目撃してしまう.あれだけ世間で注目された事件があったのに.この現象は、体を大きく見せて威圧する生物の本能を、鉄とアルミの塊に宿した人間の性質のそれのように考えてしまう。どうなのだろう.もう一つは、人間の「投影」という防衛機制が生じているように思う.

 車体を大きくして強度をあげればそれなりに重量は増すし、重くなれば加速は鈍る.重ければその分出力を要する.燃費や電費も悪くなる.その分48V電源(マイルドハイブリッド)や電動化などで工夫はしていると思うが、余計重くなる.特別重心が低いわけでもないから操舵するときの揺さ振りはセダンなどのそれよりも大きい.それでもSUVが人気なのは上述した利点にあるのだろう.自転車やカヤック、原付二輪やらキャンプ道具が積めて、腕白キッズも足を伸ばしてニコニコできるメリットは大きい.高価な車であれば後方にも画面がついていて、テレビやら動画を観ることができるらしい.オットマンのような足掛けもある.車中泊もできる.車両の快適性を高めることと、走破性を両立させるという、矛盾する対立項の止揚があると考えれば、いつしか車は弁証学的過程を経て、完全究極体へと近づくのだろうか.そういう意味では将来が楽しみである.

 

 こんな時でも運転を楽しむ

筑波サーキット.こんな日がまた来るといいな.

 時折、バッテリー維持や空気圧点検のために、少しだけABA-981MA122に乗ることもあるが、やはり運転はいいな、と思わせてくれる.流石に猛暑で幌をあけるわけにはいかない.しかし茜色の空にオープンドライブを敢行すると周囲の風景や匂い、音響が鋭敏に感じられる.アクセルペダルを踏み込んで後方のエンジンの乾音の周波数が高くなり、目に見えない粒が一斉にそろい出す感覚は自分の神経系にある作動をニューロモジュレート(Neuromodulate)させるに十分で、あらゆるものを地平の彼方に置き去ってくれる気がする.疲れた身体とともに渋滞を抜けて一息つきながら夕暮れを仰ぐときの感慨は私だけのものである.この時の私は無心でいて、遠く離れた空間に目をやる間だけは世間の喧騒だとか、自分の雑念がすっと抜けてしまう.美しいとか気持ちがいいという安直な形容では済ませられないのだとわかる.

 車に乗っていると無条件に光と音が入ってくる.そのせいで私達は万華鏡の如く感情が揺れる.渋滞や悪質な運転に出くわしたときに抱く陰性感情はときにして避けがたい.単調な人はこうした情動に動かされていたずらにアクセルペダルを踏み込んで最高速を上げるしか無い.それでは運転を享楽することはできぬ.私なりの提案をさせてもらうと、運転を楽しむ、というのは車への信頼を高めることに直結しそうだ.逆を言えば「自分(や家族)にとって」信用できる車に乗ることが楽しむ秘訣といえよう.これは車両の金額と相関することはなくて、DBA-NSP-130でも涅槃に近づいてゆく気持ちで運転することができる.二輪車でも同じことがいえる.眼前の視界に集中しつつ周りの風土に思いを馳せていく.世俗の問題などにとらわれず、静かな気持ちでひたすら内省に徹する.そしていつしか到着地の近くに着いている.そんな車がいい車で、運転を楽しむことができる車なのだろう.その車の構成要素には優れたエンジン、シャーシ、サスペンション、トランスミッション、そして優れたデザインといったものが黒子としてある.だが、市場に出回る車の多くは優れた黒子だ.心配はいらない.要するに、「考え事しながら淡々と移動していたら、いつの間にか着いてしまっていた」ような車がいい車で、実は楽しい車なのだ.

 私にとって車内とは書斎のようなものに等しい.一冊も本はないが.車窓から季節の移ろいを感じ、風の運ぶ景色や温度、光の調度を感じて、考え事にふける.それができるのは私が車を信頼しているからに限る.信頼しているからこそ愛着が湧く.そうなって初めて車は愛車になる.

 

不安に駆られて

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診察室で

 私が面接をする、とある患者さんはいつも決まって過去形を使う.

「こんにちは.〇〇さん.お元気ですか」

「元気でした

「何か心配なことや気がかりなことはありませんか」

「ありませんでした

 他の質問にも過去の時制で回答をするのだ.この事態が私にとっては非常に理解が難しい現象のように思えている.不思議な気持ちでいつも面接をしている.

 なぜ「元気でした」と過去形の表現なのか.なぜ過去形でしか答えてくれないのか.それが全くわからない.私は診療録に「症例の陳述に時制の不一致を認める」と書いたことがあるが、だから何なのか、それ以外何を記述すべきか、何を考えたらいいか悩んでいる状態である.いわゆる静的了解でも発生的了解の範疇ではないだろう.この方は少なくとも私と時間空間の体験様式が異なる可能性がある.ヤスパース的に言えば、了解不能なのだろうか.そして了解不能となれば、背後に病理が潜んでいることになる.どのような病理か.

 恐らく手がかりとなるのは精神病理学であったり、哲学だとか人文学なのかなぁ、という考えに基づいて、私は複数の本を読んでいる.斜め読み、というわけではないが、義経の八艘飛びのように一つの本から別の本へとあちらこちら飛び移っている始末だ.人には様々な読書の癖があるだろう.どうやら私は一度にいろんな本を読む傾向にある.これを注意散漫とか転導性の問題というのかもしれない.わからないところに当たれば、別の本に当たって了解を得ようとする方法が性に合う.今この記事を書いているとき、私はセーレン・キルケゴールの「不安の概念」、マルティン・ハイデガーの「存在と時間」を読んでいる.どちらもうんざりするほど難しくて辛くて面白い.炭酸の青汁をありがたく飲んでいるような気持ちだ.

 そして何より、彼らは「実存」を扱う哲人であり「不安」を解明しようとし「時間」について論じた人物で共通している.きっと、上述した症例の言辞を理解する一助になるのではないか、と私は期待を寄せている.

不安とは

 さて、私は以前の記事で、「不安」や「うつ」がわからない、と述べたのだった.「うつ」に関しては「メランコリー」を取り上げてみたが、これで綺麗サッパリわかりました、というわけにはいかない.表層的な話しかしていないのだから.こちらはひとまず保留にするとして、私は「不安」という現象ないし心理的状態についても大きな関心を寄せている.なぜ関心があるのか、といえば私自身の職務上の要請にある.私自身がある程度、不安という概念について通じていない以上、面接を要する人々の「不安」に対して一定の助言を行うことが果てしなく難しいと感じたからである.

 こちらも別の記事で取り上げ、生理学的な立場とフロイトの古典的立場で「不安」を紹介したが、未だによくわからずにいる.そこでキルケゴールの「不安の概念」という本を読んでみることにしたわけだ.そして現象学という興味深い学問に足を踏み入れた私は、フッサールを継承し、より深化させたハイデガーの実存主義の考え方に惹かれるようになった.奇しくもキルケゴールは実存主義の代表的な人物であるし、精神病理学の嚆矢、カール・ヤスパースも医師兼実存主義哲学者の一人だ.私の思い込みにせよ、奇妙な引力が働いているような心持ちがする.私の思想はようやく二十世紀の大陸哲学に差し掛かってきた.

 

 まずはいつもの「精神症候学」を開いて「不安」を調べると、次のようにある.掻い摘んで記そう.

 不安anxietyは、対処不決定の漠然とした恐れの感情で、一般に対象のある恐怖に対して、対象を欠くものを指す.十三世紀のトマス・アクィナスは予測できない恐怖をアゴニアagoniaと呼んだ.フランス語ではリトレによると延髄的・身体的な苦悶angoisseと皮質・精神的な不安anxiétéを使い分けるという.後者のanxiétéもしくはラテン語のanxiusが十六世紀初期には英語のanxietyに訳された.正常な不安としては、生きている限り避けることのできない病や死への恐れ、生活、経済上の諸々の不安があり、原不安Urangst、現実不安Realangst、被造物の不安Angst der Kreaturなどという.キルケゴールによれば、物事や価値を知り、分別をもつと、むしろ不安も増える.これを客観的不安という.ゴールドスタインは、破局状況におかれた生体の主観的経験を不安と呼んだ.

 病的な不安とは、刺激が主体の内部で歪曲・肥大化されるために、客観的な危険に比して不釣り合いに強く反復してあらわれる不安のこと.その処理に神経症的防衛機制を要するので、神経症性不安ともいう.正常な不安との差が量的か質的かについては議論が多い.予期不安とは、未来を先取りして恐れる空想的な不安で、将来起きてほしくないことが起こるのではないかとする.

精神症候学 第二版およびOxford English Dictionaryから引用

 要するに、不安というのは対象なき恐れ、ということらしい.しかし、少し考えてみると「明日のプレゼン、うまくいくか不安なんです」というときは、もちろん対象が定まっている.よって対象なき恐れという語義に反してしまうように思われる.そこで、よくよく考えながら、大辞林を参照すると、以下のように書いてある.

①気がかりなこと.心配なこと.これから起こる事態に対する恐れから、気持ちが落ち着かないこと.また、そのさま.

②(哲学)人間存在の根底にある虚無からくる危機的気分.原因や対象がわからない点で恐れと異なる.実存主義など現代哲学の主要概念.

③(心理学)漠とした恐れの感情.動悸、発汗などの身体的兆候を伴うことが多い.

大辞林 第四版

 生理学的な立場で不安を考えてみると、不安は「闘争か逃走」の反応の一つであり、不安症の中核的な要素は「恐怖」「憂い」であるという.(ストール精神薬理学エセンシャルズ第四版)もう少し詳しい話は以前の記事にある.

 正直言って、学問の立場によってこんなにも割れるとは思わなかった.特に恐怖をどのように位置づけるかが異なるようである.恐怖の腑分けが異なる、とでも呼ぶべきか.さて、「不安」をどのように考えたものか.

 二つの書籍について

 光文社古典新訳文庫から出ている「存在と時間」の訳本は中山元氏によるものだが、膨大な注釈と解説がついているにも関わらず、いきなりアタックするのは苦痛を伴うことがわかった.(八巻まであるし……)訳の巧拙がどうこうではなくて、純粋にクッソ難しいのである.しかし、この著作が出された経緯や背景だとかを知れば、ある程度気楽に読める気がしてくる.事実、経緯を知ることは極めて重要であった.「存在と時間」がアリストテレス哲学と、当時最先端の哲学である現象学を融合させたものであることを知らずして著作の意義を理解できそうにないと思う.ハイデガー以前に「存在論」を扱ったのはアリストテレスが最後であり、その間、全く人々は「存在の意味を問うこと」をしなかった、と斬り捨てる彼のキレキレ具合には脱帽であった.この論文の入門書・解説書を読んで、私は漸く彼の代表作である「存在と時間」は未完であることや教授昇進のために提出された突貫工事的論文であり、出版までに紆余曲折のある作品であったことを知ったのだった.ちなみに入門書、というのは講談社現代新書から出ている「ハイデガー『存在と時間』入門」のことで、著者の轟孝夫氏はハイデガー一筋三十年の哲学者である.

 「なぁ〜んだ、未完なのか、マルティンおじさんも色々あったんだネ」と思うと、巨大な哲人として立ちはだかるハイデガーも急に人間くさくなってくるし、伝統的な西洋哲学における「存在」の先入観を捨てて「真の存在」を解明しようとする三七歳、マジ気合入ってるっすね、と称賛を贈りたくなる.

 他方、キルケゴールの著作「不安の概念」は1844年に書かれたものだが、1927年の「存在と時間」から随分前の作品である.彼の作品も残念ながら難解だ.いきなり訳本に当たると、それはそれで面白いのだが、「質的飛躍」などの彼独自の術語が使われてしまうと、解釈が大変になってしまう.よって入門書を探してみたが、パッと見てもどうもなさそうである.そして、彼のロジックはキリスト教の教義学や倫理学などの学問を織り交ぜたものになっているため、事前知識として他にも仕入れる必要がありそうである.なんだか哲学の迷宮に入り込んでいるような、いないような.少なくとも創世記のアダムとイブの原罪は、よく理解しておく必要がありそうだ.これはもちろん神話なのであるが、多くの人が挙ってこの神話を取り上げるのは、宗教的な意義だけでなく、ある種、アダムを人類のプロトタイプとして考えたときの思考実験として捉えると興味深いからかもしれない.ただの気の所為かもしれない.

本記事の最終的なねらい

 この記事を大々的に書いた理由は実はもう一つある.安永浩の「ファントム空間論」に関する連載が途中となっているのだが、今の知識では理解が不十分であるという直感から、連載を保留にしている.できればなるべく早く投稿したいと思いつつも、なかなか知識を仕入れる作業に時間がかかってしまい、うまくまとめきれていない.そこでまずは先に紹介した著書を足がかりに、「不安」に関する小連載を行ってから、改めて「ファントム空間論」を完成させたいと思っている.何のためか、と言われれば無論、自身のためである.このブログを投稿する、という作業を通じて(精錬できるかどうかは兎も角)自分の思考を整理して、職務上の必要に還元したいと企んでいるわけである.とは言っても、結局はブログなのだから、こうして偶然目に留めてくださった方にも、お裾分けして、冷やかすなり、面白がるなりして、何かしら感じ取っていただければ良いなと考えている次第である.

 ところどころ雑記を載せつつ、まずは「不安」の構造について自分なりに理解に努めるべく、新連載を開始する予定である.よろしくお願いします.

 

 

枇杷の木

Loquats and a Mountain Bird, by an anonymous Chinese artist of the Southern Song Dynasty (1127–1279).

  勤務先の病院には居心地の良い中庭があって、そこには背の高い枇杷の木がゆさゆさと揺れている.枇杷の木だとわかったのは小ぶりの橙の実が地面にいくつも落ちているからで、多くは鳥や虫が食べたあとがついていた.回診を終えて中庭を歩くと、涼しい夜風が病棟の隙間の空間を通り抜けて気持ちが良い.こういうときは考え事が捗る.夜皆が寝静まったときには集中力が自然と高まるのを感じる.降り続く雨が屋根を打つ音、湿ったコンクリートの匂い、軋む古い当直室.

 そんな夜にふと、とある症例のことを考えた.

 「わたしは、悪いことはなにもしていません.コロナの犯人なんかじゃありません.キムラタクヤさんがそうやってわたしのことを犯罪者だとか、悪いものにしたてるんです.キムラタクヤさんはお金持ちで有名だからいろんな人に言いふらして、悪いもの扱いするんです.わたしはこうやってがんばってやっているのに、みんなが悪いって言うんです.がんばってるのに、よくならないんです.さっきも○○さんがわたしのせいにしようとしてたんです.わたしは悪くないんです.犯罪もしていません.人殺しも、万引も、いやらしいこともしていません.仕事もせずただ精神科で入院しているだけの……わたしのこと精神病だって言うんです.悪いもの扱いするんです」

 実際の症例に基づいて大幅な改変をしていることを断っておく.よってこの人物は実際に存在しないが、複数の症例を混在させた一人格として話を進めてみたい.この人は常に自分が危害を受けているという確信でいっぱいであるように見える.キムラタクヤ、ときおりフクヤママサハルといった人物が自身の悪評を流している、という空前の状況にあり当人は困惑している.自分は無関係であるのに、コロナウィルス拡散の汚名を着せられて、あらゆる犯罪の冤罪を被っていると感じてしまっている.この架空症例の病歴において犯罪行為・素行不良はない.一般的な家庭で生育し、定型発達のちに青年期にて、とある疾病に罹患したとする.頭部およびその他の器質的病因は指摘されていない.考えられる診断は想像の通りであろう.

 この人物との面接では常に自己不全感、空虚感を顕にする内容が主となる.会話からは被害妄想が推察される.なぜ妄想だといえるのか.それは本人を除く周囲の支援者、医療者が収集した情報によれば、本人の述べる被害内容はまったく事実無根であることが明らかであることが根拠になりうるか.誰もコロナウィルスを発生させた犯人だなどとよもや思いもしないだろう.他方、本人は確信の水準でそれらを物語っていることにある.確信であるからこそ訂正はできない.

 フランスの精神科医、ピエール・ジャネは自分の不全、空虚、強制などの感覚を、他人に客観外在化(Objectivation)することによって被害妄想が生じると考えた人物である.それは人間の社会活動が、つねに命令と服従を基礎にした能動と受動を、自他が互いのなかに表象しながら行うことによるからだ、と記している.保崎秀夫という医師は、おのれを見失った主体が自他の対立関係を明瞭化させておのれを見出そうとする努力が被害妄想をつくるのではないか、としている.

 「妄想の臨床」というグレートな書物がある.新興医学出版社というところから出ている妙な本で、妄想についてその筋の大家が寄稿している珍しい本だ.その中で、以前紹介した「精神症候学」の著者、濱田秀伯という医師がルサンチマンと妄想について大変興味深い記述をしている.

  被害妄想は何の前触れもなく生じるわけではない.統合失調症ないし妄想性障碍の患者には、被害妄想が現れる前に、自分には価値がない、他人に迷惑をかけていると訴える微小妄想、罪業妄想を抱く無力性の段階がある.他人と比較して低い自己評価に苦しむ患者は、ルサンチマンを用いて内面の価値を転倒させ、「わたしは悪くない」、本当は他人から迷惑をかけられていると確信する被害妄想へ転じるのではないか、と濱田は述べる.

 主体は被害妄想を抱くことで、責任を他者(それが実在しようとしまいと)に転嫁し、自責を軽くすることができる.患者が病識を欠くのは、価値の転倒を自らに気づかせてはその目的を達成できないからだ、という論理である.

 この仮説は私にとって非常に得心のいくものであり、上記の症例が語る「わたしは悪くない」という徹底した主張の背後には、自己不全感、無力感が根底にあるのではないか、自身が精神疾患という病魔によって、長期入院を余儀なくされ、行動の自由も制限されている強制力と服従が強力な自己評価の低さを顕にするのではないか.本人も気づかぬ恨み、怨恨、反感といったルサンチマンがいつしか醸成され、内面の価値を転倒させることになるのではないだろうか、と考えてしまう.その際生じる他者は、主体にとって関係のある人物であれば、そうでない全く無縁の他者であることもしばしばである.この「他者」の設定には本人の生活史と思考障碍の程度が影響するのだろうと思う.

 これをもう少し整理してみよう.

  1. わたしは、病気で仕事もできず迷惑をかけている、わたしは何も社会に貢献できない無力な人間だ.わたしは自分を責める.(微小妄想、解釈妄想)
  2. わたしは、「キムラタクヤ」や「みんな」から迷惑をかけられている.わたしこそが被害者なんだ.(被害妄想)
  3. わたしには、自分の権利を守り、「キムラタクヤ」を責める正当な理由がある.「みんな」が悪いんだ.

 このように考えてみると、一部の妄想形成にはルサンチマンが関わっているようにも思われる.これを見出した学者らは実に卓見だと言わざるを得ない.こうした説明ができるのは精神病理学の真髄だと思う.そしてそのようなロジックが仮に真なのであれば、上記の陳述をした人に向けて行うべき精神療法はやはり支持的精神療法なのではないかと率直に思う.自尊心を高め、自我機能を維持することを目的として、非合理的な思考に陥っていることをさり気なく気づかせていくことが重要なのだろうと思う.

 精神疾患の一部は価値秩序の惑乱であり、妄想というのは主体がそれを病的な方法で転倒させてしまうことで自らの内的安定を図る自助努力である、と濱田は結ぶ.至言であろう.ならば、その自助努力を病的でない方法で修正できるように導くことが医療の務めなのだろうと考える.やはり医療人が患者を治すのではなくて、我々は、主体が自ら治すきっかけを手伝うに過ぎない存在なのだと、しみじみ思う.根気よく、辛抱づよく続けていくことが大事なのだろう.

 木から木の実が落ちるのを見て世紀の大発見をした人もいるようだが、少なくとも凡庸な私は、いくら枇杷の木を眺めても、自分のわずかな経験を追想して先人の知恵を重ね合わせることしかできない.そうであったとしても私が関与できる人に対して能う限りの時間と才能を注ぐための良い心象風景になればそれでいいと心から思った次第である.

 

ルサンチマン

  

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離脱症状という邪悪さ

罵詈雑言

 処方薬の薬の離脱症状で気分が悪い.吐き気がする.これは邪悪だ.脳に分厚い鉄板を押し付けられている.ぎゅうぎゅうに圧をかけられて「くたばれ」と言われている.だからくたばっている.飲み忘れたのは自分が悪いのだ.それがいけないのは知っている.私は夜勤明けで疲れていた.だがこの仕打はひどすぎる.私だって多分人間だ.間違いは犯す.あらゆる光が眩しい.すべての感覚が不愉快だ.自分がこの感覚を覚えていることが嫌になる.この五感が自分の身体に基づく知覚だと思うと自分自身が心底不愉快だ.このような肉体にした、このような目に合わせた奴らが憎たらしくて、憎たらしくて、心底嫌悪する.軽蔑する.反吐が出る.吐き気がする.この苦しみは知る人以外絶対に味わうことはできない.味わったことのあるものしか感じ得ない苦痛だ.難民の気持ちは難民になってみないとわからないというのは本当にそのとおりで、ビョーキの苦しみというのは、ビョーキにならないとわからない.だがこんな苦しみ、わかりたくなかった!!難民だって、事件の被害者だって、コロナウィルスの罹患者だって、絶対になりたくなかったに決まっている.俺が地獄に行く時は必ず関係者を全員地獄に引きずり込んでやると、自分に誓っている.ちなみに自分が地獄に行くのは確定している.すでに特等席も用意してある.

価値が転倒する

 ある日、私は懊悩とした気分で過ごしていた.間違いなくこの時は神経伝達物質の嵐が起きていて、激烈な感情が私を狂わせ、憎しみをほとばしらせ、怒りに身を窶し、彼らを呪った.これはあとから気づいたが、ルサンチマン(ressentiment)に似ている.私は弱者であり、他者は強者である.ルサンチマンは弱者が強者に抱く、価値を転倒させた感情だ.怨恨、反感、逆恨みという言葉が対応する.ドイツの哲学者マックス・シェーラー(Max Scheler)という男は1913年から1916年に「倫理学における形式主義と実質的価値倫理学」において知性や意志に対する感情 ・情緒の優位性を主張した.彼は現象学の志向性の概念によって、志向感受(Intentionalität)とそうでない感情状態(Gefühlzustände)を区別したという.前者は四段階に分けられるとされ、彼の考え方は、クルト・シュナイダー(Kurt Schneider)により精神病理学に取り入れられた.シェーラーはイマヌエル・カントの形式主義倫理学とフリードリヒ・ニーチェ、アンリ・ベルグソンらの哲学を統合し、感情が知的作用に先行する実質的かつアプリオリな情緒的価値倫理学というものを構想したという.私達が世界と接点をもつのは、知的認識ではなくて、何かしらの価値を感受することによるとのことだ.

 先に述べた志向感受は「①感覚感受」「②生命感受」「③心的感受」「④霊的感受」の順番で高次となるようで、この序列は、価値の序列とも対応しているという.①は快・不快、愉快・不愉快といった、感覚に伴っておこる低次元の感情であり、②は健康、生命、病気、老化、生死といった個人や共同体の幸福に関わる価値と位置づける.③は人間の日常生活に伴う感情で、悲しみ、喜び、怒り、苦しみ、羞恥のように自我全体に広がり、自分自身に直接結びつくとともに、世界を志向し、他者との共同感情や愛を育む感情を指す.美醜の美的価値、正不正の法的価値などの哲学的価値などを含む.④の霊的感受とは、絶望、至福、憧憬、帰依などの特定の対象を持たない高次な感情だ.最上位の価値は超越的、神聖なもの、絶対的な存在に対する価値のことだ.価値の序列は持続するほど、分割されにくいほど、基礎に置かれるほど高くなる.高いほど満足が深く、相対的なものから絶対的なものへ向かう.これら価値の序列は予め決まっているとして、シェーラーはアプリオリな普遍的妥当性をもつことを主張している.

 どうやら、より高い価値を実現する意志が善であり、より低い価値を選ぶ意志は悪であるという.つまり、肉体的快楽、束の間の快楽、小顔メイクをしてインスタ映えを狙うのは悪だという.ときには肉体的快楽を犠牲にして、健康や幸福を求めることは必要である.家系ラーメンを控えて、低糖質の食事を食べるのは大切だ.さらに、時には社会的な幸福も、より高い真理、正義のために失うこともいとわない.玄奘三蔵や空海、最澄、ゴータマ・シッダールタは典型だろう.ということは人間は本質的に、より高い価値を求めて生きようとする存在である.そして時代の要請や状況に応じて、価値の優先順序を変えて、新しい価値を発見する存在でもある、とシェーラーはまとめる.

 さて、ルサンチマンは価値の転倒、である.ニーチェが「道徳の系譜」で取り上げたものらしい.彼によれば、良質(gut)とは強者、高貴な人々が自らに与えた評価であり、その対局は劣悪(schlecht)とされてきた.弱者は強者を憎悪する.現実にはその上下関係を逆転できない.よって強者を悪い(böse)、弱者を良い「gut」と互いの価値を転倒させ、報復しない無力さを善良とし、臆病な卑劣を謙虚として、憎む相手への服従を恭順へすりかえた、という論理である.うーん、今のご時世にある「上級国民」という言葉はルサンチマンを感じる代表格だなぁ.

 これに続いて、さきほどのシェーラーは上記のニーチェに少し批判を加え、「道徳の構造におけるルサンチマン」においてルサンチマンを「魂の自家中毒」「愛の秩序の惑乱現象」としている.ルサンチマンは他者の行為への反感、存在への反感であるが私達は、ただちに手出しできない状況にあるために、これを心のなかに押し込めようとする.これはフロイトのいう無意識の抑圧、という防衛機制であり、どうしても変えられない世界の秩序を内面で価値を転倒させることで自らを騙し、倒錯した復讐を遂げる対処行動ないし自助努力ともいえる、という.

妄想とルサンチマン

 ある学者たちはルサンチマンと妄想というのはとても関連がありそうだ、ということを考えた.妄想というのは、簡単にいうと自己と関連した、誤った確信、である.ということは妄想はすべて関係妄想でもある.妄想という現象が生じる精神疾患のなかに、統合失調症がある.妄想は多くは侵襲的で、被害を与えるものである.被害妄想というのは自分が危害を加えられていると確信するものだ.なぜ、妄想というのはそんなテーマなのだろうか.なぜ「あなたは本当にすてきですね」「お前は実に立派なやつだ、誇らしいよ」と褒めるような妄想がないのか、こうした疑問ははるか昔からあるように思うが、いくつかの解釈があるようだ.どのような説があるかは、次でお話したいと思う.

 

ゲーム小話

良いゲームの条件とは

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 今回は普段よりもゆるふわな話をしようと思う.皆さんはゲームはお好きですか.私はまぁまぁ好きだ.ゲームといってもビデオゲームの話だ.バックギャモンや麻雀のような卓上ゲームももはやビデオゲームで再現できてしまうので、ビデオゲーム⊇ゲームということで包摂してしまおうと思う.異論は認めたい.

 良いゲームの条件とはなんだろうか.これをどう考えるかはなかなか楽しい.ソフトの単純な売上数で考えると圧倒的な大差で「Minecraft」が一位である.このゲームを知らない人のために言っておくと(知らない人がいるのか??)、レゴのような立方体のブロック(ボクセル)で構成された世界を自由に散策できるサンドボックスゲームである.自由度は極めて高い.確かに楽しい.この自由度の高さとユニークなデザインが支持されている理由だろうと思う.ちなみに二位は「Grand Theft Auto V」だがこちらは題名からして年齢制限が存在する.お父さんやお母さんのいない間にこっそりやるゲームの代表格かもしれない.こちらも自由度は高い.三位はWii Sportsである.こちらはゲームに親和性のなかった家族をターゲットにした任天堂の戦略の賜物であろう.

 では自由度が高いゲームは優れたゲームなのだろうか.自由度は一つの条件になるかもしれない.しかしマリオシリーズの初期は純粋に赤帽のおっさんがキノコを食べつつひたすら左から右へ走り、ぴょんぴょん飛び跳ねてゴールを目指すだけのゲームであった.なのにシリーズ累計では世界で最も売れた作品群だ.まぁシリーズで考えるとマリオはモータースポーツに、テニス、サッカーしつつバスケして、すごろくゲームに興じ、殴り合うかと思えばRPGの主役を張るので厳密に言えば内容は作品でかなり違う.一つひとつの作品に自由度が高いわけではなく、登場するジャンルのフリ幅が広い.

 シリーズ二位はテトリスである.落ち物パズルの先駆けといえる.これはもともと教育目的で作られた旧ソビエトの作品だったが、様々な会社にライセンスを渡したこともありヒットとなった.筆者もよく遊んだが、そこまで好きでもない.とはいいつつ、T-spinを決めたときは気持ちがいい.自由度の高い前者と比べ、こちらはシンプルなルールにとことん徹している.

 三位はポケットモンスターシリーズ、縮めてポケモンシリーズであるが、単なるポケモンを愛玩するだけのゲームに成り下がっておらず、純粋なターン制バトルゲームとして作品を追うごとに洗練されている.相手の手の内を読んで、いかに最適な一手を出すかは年齢を問わず楽しめるはずだ.最新作においてポケモンは890体近くいるので、集めるのもよし、屈強な戦士に育てるのもよい、お気に入りの意匠のポケモンが見つかればなおさら愛着がわく.このゲームの奥深さはやってみないとわからない.

 四位はFIFAシリーズ、要するにサッカーゲームである.実在する選手を自分で動かして試合に勝つ、というのはよくよく考えると、ロボットを動かして相手を倒すとか、ヒーローになりきって敵を倒す、ような構図と同じように思う.これが世界的に有名なスポーツだからこそ多くの人の心を掴むのだろう.スーパースターとの同一化、もしくはナショナルチームやクラブチームとの連帯感は一人ひとりにとって特別なものになるかもしれない.私は学生のときに少しやらせてもらうことがあったが、これも非情に楽しいゲームの一つである.

 五位はGrand Theft Autoシリーズである.速度違反、窃盗、暴行、殺害、警察からの逃走……人々はそんなに刺激がほしいのかな?ギャングがはびこる大都会で青年が一旗揚げるべく、周囲のチンピラと時には協力し、時には対立する、というシナリオが設けられているがそれを活かすも殺すもプレイヤーの操作次第な作品.やはりギャングスタものは倫理的な問題のために常に批判にさらされるし、ゲーム害悪説の格好の餌食となる.民家にロケット弾を打ち込めるのはこの作品くらいだろう.

 こうした例をもとに考えてみると結構難しい.自由度、デザイン、戦略性、操作性・快適性どれも重要だと思う.どれか一つでも欠けてしまえば辛辣なユーザーからは「クソゲー」と罵倒されかねない.(一方「クソゲー」をこよなく愛する好事家もいる.これを倒錯と呼ぶかはわからないが楽しみ方の一つであろう)自由度を高めれば操作性や快適性に差し支える可能性もあるし、倫理観についても考えさせられる.デザインに力を注ぎすぎればゲームそのものや戦略性に支障がでてしまう恐れもある.

Sid Meier’s Civilization

 少し話を変えよう.

 「Sid Meier’s Civilization」という私の好きな米国のゲームがある.最近は全然やっていないが、かつては時間が溶けるくらい熱中したものだった.これは文明をモチーフにしたターン制ストラテジーゲームであり、プレイヤーは一つの文明を発展させながら特定の勝利条件に向かっていくため、他のプレイヤーとしのぎを削るのが醍醐味だ.あなたは一国の国政の意思決定を担う最重要人物であり、文明の興亡はあなたの手に委ねられる.Minecraftとは異なる高い自由度が存在する.人を選ぶが実に良いゲームだと思う.知育玩具にもなる.ウィリアム・マクニールの「世界史」やユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」を読むのもいいが、飽きたらCivをやろう!核開発もできるが年齢制限はない.ちびっこにも安心してオススメできる.今作から日本語対応になった.多言語でも遊べるから言葉の勉強にもなる.

 Civilizationシリーズは1982年に第一作が登場してから現在は第六作まで出ている.単純に他国と戦争をして相手を打ち負かすのではなく、外交手腕を活かして国際秩序を守ることも極めて重要になる.戦争をやたら仕掛ければ他国から煙たがられ、「世界の敵」となり総スカンになることもあるし、何もせずに内政に注力しすぎると、「お前の国はへなちょこだな(笑)」と煽られ、いつの間にか宣戦布告されてしまい自分の文明が滅ぶこともある.一手一手を長考し、最善手を導き出すプロセスがプレイヤーの人気を集めている.それだけでなく、史実とはかけ離れた世界を作り出すこともできてしまうのが、歴史好きな人の心をくすぐる.例えば、アメリカが枢軸国として戦う、だとか、ドイツがテングリ教の宗主国となり、16世紀に共産主義政治を成功させつつ核開発を行う、ようなメチャクチャな展開が起こる.「やっぱただのゲームじゃん!」と思うかもしれないが、私に言わせればこのゲームでの「ドイツ」「アメリカ」「シュメール」などは単なるシニフィアン(記号表現)に過ぎないし、実際にやってみればハチャメチャ楽しい.実際のところ、史実の歴史の方がひどい.

 特定の勝利条件とはなにか、といえば最新作について言うと六種類ある.「制覇勝利;他国のすべての首都を武力で制圧する」、「科学勝利;科学力を高め、地球外惑星に入植するため惑星探査機を送る」、「外交勝利;国際会議で他国から『世界の指導者』に選ばれる」、「文化勝利;文化芸術に力を入れ、自国の文化力が他国の文化を圧倒する」「宗教勝利;自国創始した宗教が世界の過半数の信者を獲得する」、「スコア勝利;規定のターン数に達した際に獲得したスコアが最も高い」といった具合だ.プレイヤーは紀元前4000年の太古からスタートする.降り立つ地形はゲームの度にランダムで生成され、内陸のこともあれば、海洋にある諸島のこともある.各文明のもつ長所を活かしながら文明を発展させていくのだが、あとは完全にプレイヤーの腕が試される.ちなみに私は最小限の自衛戦力を持つだけで、国力が弱いうちは外交では媚を売りつつ、ひたすら内政をし、最後に逆転するスタイルが好きだ.遊び方は人それぞれの癖が出ると思うし、それなりにプレイヤーのパーソナリティが露見するが、所詮はゲームなのだから楽しい.強大な武力による平和(?)を目指すこともできる.棍棒を携えて市民に「みんな、幸せかな?」と尋ねてまわるような恐怖政治を敷くこともできる.どこかの場面であなたが習ったであろう、知ったであろう歴史上の人物が登場する.「あぁ、こんな人いたなぁ」「この人、どんな人なんだろう」と興味が湧く人にはうってつけだ.背景の音楽もどこかで聴いたことのある曲が流れる.絵画・著作、思想、建築物への入り口になるかもしれない.

 プレイヤーに求められるのは、シューティングゲームやアクションゲームのような高い操作性や瞬時の判断ではなく、長期的な見通しを立て、一つひとつの意思決定を大事にすることだ.ゲームの上手さと言ってもジャンルで違う好例だ.「今、攻めたほうがいいのか、待ったほうがいいのか」.これは他の事象にも共通するリスク管理「あるある」だろう.そのような意味で、意思決定を楽しむのにこのゲームは非常に完成度が高いように思う.そして忍耐と煽り耐性も高くなれる.

 私が考えるこのゲームの面白さの一つは、「AI(コンピュータ)が憎たらしいほどにずる賢く、まるで人間のようなところ」にあると思う.かつてこのゲームにて凄腕プレイヤーが界隈で知られていたが、その人曰くAIには「強いAIと良いAI」がいる.「強いAI」は勝つためには何でもやるよう設計されているAIで、プレイヤーを容赦なく叩きのめすAIである.他方「良いAI」は長所があれば短所もあるような人間のような動きをする.凡ミスをするときもあれば信じられない動きをしてプレイヤーを翻弄する.このゲームの高難易度AIは「強くて良いAI」であると思う.プレイヤーが劣勢である場合は、盛んに煽ってくるし、友好条約を結んで仲良くしたかと思えば次のターンに平気で裏切る.そしてこちらが有利だとわかると手のひらを返したかのようにプレイヤーに媚びてくる.うーん、嫌な奴!反吐が出るぜッ!!だが一番嫌な奴はプレイヤー自身である.

激おこギルガメシュ.戦うのに理由はいらない.

 このゲームの難易度は八段階あるのだが、最高難易度は全プレイヤー(550万人)のうち5%しかクリアしていない.それだけ難しいと考えてよいだろう.それでも最新作は過去作よりも易しくなった.難易度が高くなるにつれ、AIには初期の拡張が有利になるように下駄を履かせている.この下駄がえげつない.その他の細かい数値もAIが有利になるように調整されている.将棋で言えば、飛車角落ちのようなものだ.そんな有利な条件で舐め腐った態度をとるAIなんて、ボコボコにするしかないじゃないか.もちろん、有人でプレイすることはできる.オンラインでもオフラインでも.一応家族で「桃鉄」みたい?に遊ぶことができる.そんな家族がいれば一度お邪魔してみたいが、そんな家族いるのか?おすすめはAIを相手にすることだ.

 ゲーム性を奥深くするものに、文明の指導者の多様さがあるだろう.史実に実在した(とされる)偉人・奇人がプレイヤーのアバターとして世界を創造するのだが、彼らには一人ひとり個性がある.武力に特化した指導者、外交に長けた人、内政屋、宗教家などがおり、先に述べた勝利条件のどれかに適した特性になっていることが多い.その特性を活かして勝ちに行くことが大切となる.

 また、彼らにはアジェンダ(行動規範)というものがあり、要するに好き嫌いがある.「科学・文化の発展に勤しむものを好む」、「領土拡張を好む」、「奇襲戦争を好む」、といったものがある.指導者を相手にするときはこうしたアジェンダを参照しながらご機嫌をとりつつ、最後に裏切ることが重要である.このゲームでは非情にならなければならない.だがこのゲームなら非情になれる!

 目まぐるしく進化するゲーム業界の中において、この作品は今でも燦然と輝く.なんとNintendo Switchでも発売されている!.このゲームは文明史を扱う都合上、政治的、宗教的なタブーやグレーゾーンに触れるのではないかと危ぶむ人もいるかもしれない.しかし安心していただきたい.この作品で嫌悪感を抱くことはほとんどない.あったとしても狡猾なAIの挙動くらいだ.あらゆるデリケートゾーンはクリアされている.それでもとやかくいう人には厳しいかもしれないが、ややコミカルに描写される指導者やゲームデザインは巧みに史実の歴史の凄惨さを躱している.さらにゲームは少しずつアップデートされ、ゲームバランスの調整がなされている.最新作は2016年に出されたゲームだが、今年の四月になっても無償のアップデートを設けている手厚さは素晴らしいと思う.一部課金することで追加される文明・指導者もあるが、そんなことをしなくても十分楽しい.もう一度言うと、課金なんかしなくても十分楽しい.そして、課金をしても誰も強くならない、というのが最高に良い.近年のゲームは課金をさせるマイクロトランザクションサービスが本当に多すぎる.それもゲームバランスを揺るがす課金は好ましくない.丸亀製麺のように、とり天を追加、かき揚げも追加、というトッピング程度ならいいと思う立場で私はいる.

 良いゲームとは

 まとめてみよう.私の考える良いゲームの十分条件とは、「意思決定のプロセスが楽しい」ゲームであることだ.そのプロセスの時間・空間的長短は問わない.レーシングゲーム、格闘ゲームとターン制ストラテジーゲームでは意思決定の過程は全く異なる.それでも楽しいのは、自分で導き出した答え・決定が、ある程度不確実性をもって反映されることにある.加えて言えば、その選択が簡単に取り消せないものが良いように思う.リスクベネフィットを天秤にかける緊張感、勝負に出る瞬間の興奮は娯楽の重要な要素だ.そのような意味でいえば、市場に出回っている多くのゲームは間違いなく、良いゲームだ.この世界は幸いにして、良いゲームで溢れている.あとは上手に付き合うだけだ.付け足しておくと、良いAIがいることも大切だ.

 ゲームは時間と金を費やして興じる娯楽.それが無駄なのかというと決してそうではない.本を読むのも同じく何かを消費する.食事もそうだ.旅行だってそうだ.スポーツもそうだろう.ゲームが一概に悪いわけではない.世界には良いゲームの方が多い.そういえばゲーム障碍というカテゴリをWHOはICD-11に組み込んだが、ゲームが臨床・社会の苦痛になる場合というのは、ゲーム障碍が主座なのではなくて、前景に何か深刻なものが見え隠れしていることが多いのではないか、と思う.つまり二次的な健康上の問題、という印象がある.何が見え隠れしているかはともかく、強烈な射幸心を煽るゲームシステム、課金サービスという市場側の加担ももちろん検討されるべきだ.もしゲーム障碍を考えるのであれば、我々は嗜癖の問題について、物質使用の問題について、依存の問題についても考えなければならないと思う.非情に難しい課題であるが、生理学的な視点と社会学的な視点、そして願わくば私の立場としては精神病理学の視座からも考えてみるべきだろう.

 最後に一ついっておくと、もしCivilizationをやってみたいと思うなら、Steamのプラットフォームでやるのが一番良いですよ〜.時々値引きをしていますからね〜.ここまでどうもありがとうございました.利益相反はありません.