北海道走行回想録

 以下は過去に妻と旅行に出かけたときの自動車短評です.あえて略語や略称を使っていますが、ご宥恕ください.

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 いつだったか初秋にフェリーを使って北海道を訪れた.車両の前後に二人1週間分の荷物を積んでの旅行であったが、そこそこ重量感を感じる走行だった。自然吸気ゆえの立ち上がりを常に自覚する加速感であるが、今回はそれをより一層感じるものであった。かといって苦しそうな加速というわけではないのだが、普段使いの加速感をよく知っている自分としてはもう一声欲しかったのは正直なところである。しかしながら十分な働きをしてくれたのは事実で、幌を開けて20度くらいの気温で公道走行する分には風が凪いで心地良い。五感を刺激し決して速度だけが車を優越するものではないのだと気づかせてくれる。決して性能が悪いと言っているわけではない。細かい話をすると、PDKはグランドツアーには優れたシフトチェンジをした。加速が必要な時はキックダウンによって瞬時に2速まで落ち猛チャージによって、一気にスポーツカー足らしめる官能的な炸裂音を伴う。しかし、ある程度速度が達して満足すると、素早くオーバードライブになるべく7速に入るため、ある程度ギアを低く保つには積極的にパドルシフトでマニュアルにするか、スポーツモードで引っ張る必要がある。ガンガン走るのも元気がいるし、同乗者をのせてそんな走りをし過ぎても興が冷めるわけで、流石に緩急は必要だ。北海道にはいろは坂のようなタイトカーブが多いわけではなく、高速コーナーの方が多く、長いのでクロスレシオのギア比の車の方が総合的に良い。ボクスターはその辺、ケチのつけようがない。PASMを使用してみたが、推定100キロ増の車重ではすでにサスペンションは硬さをもっており、快適性が無駄に損なわれる可能性が高かった。北海道の郊外の路面はおおよそ不整であるために凹凸を拾い、ハンドルも流されるほどに敏感に路面状況を伝えてくる。決して車が悪いわけではなく、道路環境の劣悪さが大きな誘引だろう。したがって、今回の旅行ではアクティブサスペンションはほとんど使用せずノーマルライドでの走行を主とした。同乗者がいることも配慮してである。冷暖房やナビゲーションシステムの使いやすさは通常通りであった。レーダー探知機も有効活用し、一度ネズミ捕りに美瑛で遭遇した他はヒヤリハットすることはなかった。時代の潮流だろうが、煽り運転や煽られる運転に一層気を配る運転でもあった。風貌からはこちらが煽る側に立ちそうな装いなのだろうが、基本的に当方は流れに乗って適材適所で追い越しをかけるくらいだから至極真っ当な運転をしたように思う。

 かなり恐怖を抱いたのは日高峠の濃霧の中、登坂車線の追い越し側を一定の速度で巡航していたところ、一瞬にしてスイフトスポーツが後方視界に出現、よもや突かれるくらいの距離まで詰められていたことであった。酷く狼狽した、というか狼狽える隙もなく接近され、左から強引な追い越しを受けたのは衝撃であった。ポルシェがスズキに負けるなんて、という幼稚な次元ではなくて、優劣どころか、濃霧の夕方で視界不良な状況において極めて自己中心的な運転をするものがいるのかと思うと、いかに自分が気をつけていようとも事故が避けられない運命もあるのだと思った。ハンドルを握っているうちはこの恐れが付きまとうのだろうと感じるしかなかった。まして、これからの運転が一人だけではなくて、一緒に乗ってくれる人がいるものになるのだから尚更のことである。ボクスターの欠点は左後方視界の不良である。左からの接近が感じられにくいのである。ミラーでも死角が存在する。特に追越車線を走るときに左からの近接が生じると緊張感を感じないまま一寸先が暗転する可能性がある。よって、常に後方視界は気を配っている。走行の半分は後方確認といっても過言ではないくらいの配慮がいると思う。

 それ以外は心配なく時間が過ぎた。一足早い冬の訪れを肌で感じることができた。この時間が私だけのものではなく、一瞬一瞬を一緒に感じてくれた人がいたのは私の最大の喜びである。ボクスターでのグランドツアーを敢行するなら期間は1週間未満がベストだろう。パワーウェイトレシオの問題があるように思われる。SやGTSなら話は違うかもしれない。982ならではのターボだったら許容できるかもしれない。おそらく911やパナメーラの方が豪華で優雅に北海道を走行できるだろう。荷物も入るしパナメーラなら四人載せても一級の走りをするに違いない。しかし、私の身の丈にはボクスターで良い。決して速くないが、それ以上のものを感じることができると思う。異論はあるだろうが、この考えとそれに至るまで私たちが走ってきた時間は不可侵の領域である。

ファッション誌から普遍的道徳律を考えることもある

 少し投稿に間が空きました.梅雨が本格的で空気はジメジメしますね.菌糸にとってはうってつけの生育環境になりました.今回は私が最近読んだ本を紹介したいと思います.メンズファッション雑誌であるGQ JAPANを、私は「ほとんど自動車の記事だけ」読むようにしているのですが、およそ一月に一回程度雑誌編集長のEditor’s letterと称する記事が掲載されます.これは編集長が直々に投稿する文章で、彼自身の何にも迎合しないスタイルを私は気に入っています.

 およそ去年くらいに読んだ彼の記事ですが、平和論についてでした.私が平和について考えることはほとんどありませんでしたが、「なぜ人は自殺してはいけないのか」だとか、「なぜ人を殺してはいけないのか」、「なぜ戦争をおこしてはいけないのか」といったことを時折考えることがありました.はじめに断っておきますが、私は殺人を容認していません.極めて大多数の人が(疑問の余地なく)「人を殺してはいけない」ことを是とするでしょう.かといって親や教師から「いいかい、人を殺してはいけないんだよ」と懇切丁寧に教わることはないでしょう.少なくとも私はありませんでした.「殺してはいけない」と言われましたが、其の理由は教えられませんでした.人によっては「バカでもいいから、殺しだけはしてくれるな」といった言い方をされた人はいるかもしれません.言い方はともかく、「なぜ」という問いに説得力を以て答えることは難しそうです.私はあまり応用力が効かないのでいくつも思いつきませんが、一つの回答は「殺された人の家族や仲間の気持ちが傷つくから」という感情に基づく考え方があると思います.もう一つは「法律によって罰せられるから」という答えも当然としてあるでしょう.ですが、意地悪なクソガキやひねくれ者がいたとしましょう.「人が傷つかない殺人ならいいのでは」「敵討ちならどうだ」「法律がなかったら殺していいのか」「戦争では殺しが容認されるじゃないか」「そもそもその命題は偽ではないか」と.実にいやなやつです.しかし私の頭の中には間違いなくひねくれた同居人がいます.

 人を殺してはいけないと説く人がいる一方で、殺しを容認する社会が間違いなく存在します.世界中で戦争のない日はないでしょう.爆撃された都市の灰色の瓦礫と死者の数が報道されると、べつのにぎやかな大通りで人々がプラカードをもって戦争反対と声を挙げる.現代ではよく見る光景です.この繰り返しはいつまで経っても止みそうな気配もありません.私自身はもう十分見ました.報道は(おおよそ)事実を伝えますが、「なぜ殺し合っているか」を高い次元で伝えてくれることはありません.様々な方面へある種の不信感を感じることがあります.

 そんな中、私は鈴木正文編集長の2019年8月24日掲載の記事「カントは時計?」を目にする機会がありました.そこにはI. Kant(カント)によって1795年に著された論考である、「永遠平和のために: Zum Ewigen Frieden」について概説が記されていました.彼は光文社古典新訳から出た中山元訳を引用しており、大変おもしろく読むことができました.だいぶ彼の重複になってしまい、恐縮ですが私も訳本(岩波文庫出版、宇都宮芳明訳)を引用して、読んでみた感想を少しばかり述べてみたいと思います.

 手に取ると薄い本です.本編は一章と二章のみで、あとは本編と同じくらいの付録がついています.なんだ、結構薄いからすぐ読めちゃうじゃん、やったぜ.と思った私は愚か者です.第一章の第一条項から第六条項は次のとおりです.少し読み飛ばして頂いても構いません.

第一条項

 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない.

 なぜなら、その場合には、それは単なる休戦であり、敵対行為の延期であって、平和ではないからである.<中略>平和条約を結ぶ当事者たちですら察知していないような、将来の戦争のための諸原因がまだ残っているとしても、これらの原因は平和条約の締結によってことごとく否定されたのである.<略>

第二条項

 独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も、継承、交換、買収、または贈与によって、他の国家がこれを取得できるということはあってはならない.

 つまり、国家は所有物ではない.国家は、国家それ自身なにものにも支配されたり、処理されたりしてはならない人間社会である.ところがそれ自身が幹として自分自身の根を持っている国家を、接ぎ木としてほかの国家に接合することは、道徳的人格である国家の存在を廃棄し、道徳的人格を物件にしてしまうことで、したがってこうした接合は、民族についてのいかなる法もそれなしには考えられないような、根源的契約の理念に矛盾する.

第三条項

 常備軍は時とともに全廃されなければならない.

 なぜなら、常備軍はいつでも武装して出撃する準備を備えていることによって、他の諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである.常備軍が刺戟となって、たがいに無際限な軍備の拡大を競うようになると、それに費やされる軍事費の増大で、ついには平和のほうが短期の戦争よりも一層重荷となり、この重荷を逃れるために、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである.そのうえ、人を殺したり人に殺されたりするために雇われることは、人間がたんなる機械や道具として他のものの手で使用されることを含んでいると思われるが、こうした使用は、我々自身の人格における人間性の権利とおよそ調和しないであろう.だが、国民が自発的に一定期間にわたって武器使用を練習し、自分や祖国を外からの攻撃に対して防備することは、これとはまったく別の事柄である.<略>

第四条項

 国家の対外紛争に関しては、いかなる国債も発行されてはならない.

 国内経済のために国の内外に助力を求めるとしても、こうした方策は嫌疑の対象とはならない.しかし借款精度は、国家権力が互いに競い合うための道具としては、果てしなく増大し、しかもつねに当座の請求を受けないですむ安全な負債であるが<中略>これは危険な金力、つまり戦争遂行のための宝庫であって、宝庫はすべての国の財貨の総量をしのぎ、しかも税収の不足に直面しない限りは空になることもない.したがって、こうした戦争遂行の気安さは、人間の本性に生来備わっているかに見える権力者の戦争癖と結びつき、永遠平和の最大の生涯となるもので、これを禁止することは、次の理由からしても益々永遠平和の予備条項の一つに数えられる必要があろう.その理由とは、最後にはどうしても避けられない国家の破産が、負債のないほかの諸国をも一緒に損害に巻き込むことは必定で、これはこれらの国々の国家に関わる障害となろう、というのがそれである.したがってすくなくとも他の諸国はこのような国家とその僭越に対抗して、同盟を結ぶ権利がある.

第五条項

 いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない.

 なぜなら、いったい何が国家にそうした干渉の権利を与えることができるというのであろうか.一国家が他国家の臣民たちに与える騒乱の種のたぐいがそれである、というのであろうか.だが一国家に生じた騒乱は、一民族がみずからの無法によって招いた大きな厄災の実例として、むしろ他民族にとって戒めになるはずである.一般にある自由な人格が他の人格に悪い実例を示しても、それは他の人格を傷つけることにはならない.ーもっとも、一つの国家が国内の不和によって二つの部分に分裂し、それぞれが個別に独立国家を称して、全体を支配しようとする場合は、事情は別かもしれない.その際、その一方に他国が援助を与えても、これはその国の体制への干渉とみなすことはできないであろう.だが、こうした内部の争いがまだ決着していないのに、外部の力が干渉するのは、内部の病気と格闘しているだけで、他国に依存しているわけではない一民族の権利を侵害するもので、この干渉自体がその国を傷つける醜行であるし、あらゆる国家の自律をあやうくするものであろう.

第六条項

 いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない.例えば、暗殺者や毒殺者を雇ったり、降伏条約を破ったり、敵国内での裏切りをそそのかしたりすることが、これに当たる.

 これらの行為は、卑劣な戦略である.なぜなら、戦争のさなかでも的の志操に対するなんらかの信頼がなお残っているはずで、そうでなければ、平和を締結することも不可能であろうし、敵対行為は殲滅戦に至るであろう.ところで戦争は、自然状態において、暴力によって自分の正義を主張するといった、悲しむべき非常手段に過ぎない.またこの状態においては、両国のいずれも不正な的と宣告されることはありえないし、どちらの側が正義であるかを決定するのは、戦争の結果でしかない.だがまた、国家の間には、いかなる懲罰戦争も考えられない.以上の理由から、次のことが帰結する.すなわち、殲滅戦では、双方が同時に滅亡し、それとともにあらゆる正義も滅亡するから、永遠平和は人類の巨大な墓地の上のみにのみ築かれることになろう、ということである.それゆえ、このような戦争は、したがってまたそうした戦争に導く手段の使用は、絶対に禁止されなければならない.<中略>かの悪逆なたくらみは、それ自体が卑劣なものであるから、それが用いられると、他人の無節操だけが利用されるようなスパイの使用とは違って、もはや戦争の継続期間内に限定されず、平和状態のうちに持ち越され、その結果、平和実現の意図をまったく破壊することになろう、というのがその理由である.

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 以上が第一章の条項すべてになります.第二章には国際連盟や国際連合の指導理念に影響を与える連合制度に言及がありますが、今回は触れないで起きます.文章の引用が多くなってしまいましたが、本著の中核となる文章はこれのみであると考えると、極めて簡潔と考えてもよいと思います.この論考が出された1795年はフランス革命戦争の真っ只中で、プロイセンと革命政府との間で結ばれたバーゼルの和約が結ばれた年でした.この条約は第一条項で危惧された、休戦を前提とした仮初の条約であり(結局十年後には再戦した)、到底平和にほど遠い条約に対するKantの強い不信があったようです.こうして条項を見ると、200年以上前にこのようなことを真剣に考える人がいたという感動を覚えました.おそらくもっと前にもいたのでしょうが、私の不甲斐なさでお伝えすることはできません.この中で私の目を特に引いたのは第六条項で、背信、裏切りをしてはならない理由が鋭く、明確に述べられています.これらが認められると、ゆくゆくはお互いが滅びあうまで殺し合うこととなり、平和を達成するには絶滅するしかない、平和のための武力が容認されてしまいます.これは「人を殺してはいけない」という命題にも同じことが言えるでしょう.もし万が一人を殺してもよいことになったとしましょう.貴方は昔から恨みのある人物がいて、あいつをついに殺せるぞ!と意気揚々と何らかの方法で血祭りに上げたとします.しかしその人物は地元では名の知れた有力者で、支持者が復讐のために貴方に襲いかかってきてしまう.よもや殺されると思ったその時、素性の知らない誰かが興味本位で貴方と復讐にきた人々ともども殺しに来る.復讐者は死んでしまうが、貴方は幸い生き延びる.どこかに逃げようと思ったその時、街中で次々と火事が起こり、自分の家も燃えている.警官は職務を忘れ銃を乱射して道の前は死屍累々・・・

 もういいでしょうね.もし、殺人を正当化すると、誰しもが潜在的な殺人者となり、自身の欲求を満足すべく殺人を行うし、自分も殺害の対象となりうる.おぞましい社会が生まれる.これは万人の万人に対する闘争のような状態ともいっていいのかもしれません.第三条項にある常備軍廃止の理由について、Kantはこう言います.国家が人を殺したり人に殺されるために人間を雇うことは、人間性の権利に反すると.Kantがいう定言命法(無条件に従わなければならない命題)によれば、人間は自他の人格をつねに目的それ自体として扱うべきであって、たんなる手段として扱ってはならない、と.つまり殺人をしてはならないことは、絶対的な道徳律であり、人間を手段として用いることを強く退けています.

 こうした論説は理想に過ぎない、あくまで机上の空論だろう、実際戦争は絶えないじゃないか、殺人も身近に起きているじゃないかという批判はたしかにあるでしょう.Kantは上記のように条項に続いて、その論証を明確に上げていますが、もし平和が空論であれば、誰も従わないであろう、論証は空虚なものになると考えているようです.Kantは、決して、永遠平和はおのずから成就するものではなく、人々が完成に向かって努力し、平和の実現を義務としなければならないといいます.しかし永遠平和は自然の摂理でもあり、人間が平和を希求する方向は合目的だとして、自然が永遠平和の到来を保証するとも言います.なかなか直感的にはピンときませんね.このことはもう少し考えてみたいと思います.ただ人間が誕生して以来、闘争を繰り広げ幾多の犠牲が生じ、それらの上に我々が立っていると言っても過言ではありませんが、その途上で秩序を構成し、統治体系を形成すべく政治哲学が生まれ、人を目的として営まれる社会が作られてきたのは事実でしょう.Kantが提言したように国際連合は形成されたし、常備軍の撤廃を行った奇特な国も確かに存在しています.僅かですが、平和に至る歩みは少しずつ進んでいるようにも思います.

  ファッション誌はどうも浮世離れして好きではないですが、時々こういう記事があると、なんだかワクワクします.実はまだちゃんとこの論考を読み切れていないのが正直なところです.なんにせよ.付録のボリュームがでかすぎる.それだけ読み応えがあるのでしょうが、なんどもなんども行間を往復してよく咀嚼しないといけません.また何かあれば追記しようと思います. 

  ここまで読んでくださったこと、感謝申し上げます.

 

気づけばグリーンイグアナ

 先日、妻と淡水魚の水族館を訪ねました.大きな敷地の中には大きな池が会って、その中心にガラス張りのルーブル美術館のような建物があります.水族館の入口には鯉のぼりを模した、何百もの鮎のぼりが風を吸って、元気よく泳いでいました.見物人は少ないのでゆったりと静かな空間で集中して魚を観察することができました.マス、ヤマメ、タナゴ、フナ、オイカワ、コイ、ドジョウ、ウナギ、カエル、イモリ、ザリガニ、サワガニなど淡水でよく観られる生物がゆったり暮らしていて、少し羨ましく思いました.ガラスから差し込む日光が眩しくて、蓮の葉は大きく葉を広げるのとは対称に、我々は瞳孔を小さくして少し暗い館内を探索します.淡水魚だけでなくて海水魚や汽水域の魚も少し展示してあって飽きることがありません.アジ、タイ、マグロ、サメ、ヒラメ、フグ、ウツボ.正直にいうと時々美味しそうだな思うときと、この魚、あな恐ろしと思うことが多かったです.読者諸兄には私の見識の狭さに呆れるかもしれませんね.しかし背びれ尾びれが動くときの一切の無駄の無さと優雅さ、光に反射するウロコ.しなるように動く細長い流線.そしてそれら形態へと至らしめた進化の道筋あるいは万象の妙技にはただただ感嘆するばかりでした.

 水族館や動物園を訪ねるときは、自分(の世界)と動物(の世界)の対比を行うことがもっぱらかと思います.自分の知識と実物を照らし合わせて違いを感じ取り、そこに感動する、思いを共有する、新たな情報を得ることが多いのではないでしょうか.水族館はそれが面白いのです.マリンスポーツをやる人は水中生物の知る力学に感動し競技への新たな着想を掴むのか、芸術家は生き物の息遣いや水と光が作り出す不可思議な空間に魅せられるのか、いずれもどうなのかはわかりませんが、私が少し考えたのは妻とのやり取りを介した以下のようなことです.

 砂場に潜って両眼だけを出しているヒラメを見て私はこう言いました.

「あのヒラメのように、平べったく砂の色とほとんど同じ色合いで景観に潜るというのは全く信じがたい技ではありませんか.ということはヒラメは砂の色と自分が砂に潜るときの体の形をよく理解している、自分が隠れたときにどのような姿になるかをおおよそ知っていて、まるで他者からの眼差しを意識して姿を発展させたかとしか思えないような造形です」

 妻は少し考えて言います.

「私は自然選択説というものを学んだことがあります」

「ほう」

「進化を説明するとき、自然環境が生物に無目的に起きる変異を選択し、進化に方向性を与えると」

「つまり、ヒラメは意識せずにあのようになったと」

「ええ、学者はそういいます、私はそう教わりました」

 妻はいつも冷静です.

「では、ヒラメの擬態と同じように、イカもタツノオトシゴが岩陰や海藻に紛れて身を隠すようになったのは、彼らの意識するところではない.しかし数ある子孫に現れた個性のうち生存に適さなかったものが、長い歴史の中で徐々に淘汰され、適したものがいつしか形質として選択される、と」「あんなに見事なのに.ナナフシの節足やハナカマキリの色彩もガの紋様は自身の体躯を客観的に認知せずにああなるだろうかねぇ」

「貴方の言いたいことはわかります、でも私はそういう知識を持っていると言ったに過ぎません」

「すごいねぇ」

 私は少し気まずくなって、妻の顔を見ずにガラス越しのヒラメと目を合わせようとしたのですが、ヒラメはじっと考え事をしているようで私にとりあってくれませんでした.

「少し喉が乾いたね、休憩しようか」「あすこのベンチがいい」「ええ」

 私達は日光が燦々と輝く外の景色を眺めながら休むことにしました.燕がヒューッと急降下して勢いよく高く揚がるのを見て、近くに巣があるんだね、帰りに見に行ってみようか、などと話をしました.蓮の花が咲き乱れ、アメンボがスイーッスイーッと水面を揺らします.実にのどかな光景に目を見張りました.ずっとこういう時間がつづくことはないと思いながらそれぞれヒラメのようにじっと考え事をしていたように思います.少し時が経って奥に進むと世界の淡水魚コーナーと称して、主に南米の熱帯に生息する巨大魚が展示されていました.いや、どちらかというと我々が見られていたのかもしれません.ピラルクーが悠々と泳ぎ、近くにはポルカドットスティングレイが張り付き、カンディルやピラニアがちょこちょこ水の中をかけっこしています.自分が水の中にいたら堪らないだろうと思いながら水中に設置されたガラスチューブを歩き、地上に上がります.外から見てルーブルの四面体のように見えたのは熱帯雨林を模した環境を保つためのガラスだったのです.鬱蒼とした森の中を歩いている気分で、なかなかおもしろいものでした.目の前にオウムのような鳥がいるのもびっくりしました.あとから知るとインコのようでしたが、妻は息が早くてあまり調子がよくなさそうだと心配していました.ほかにも何かいるかとキョロキョロしてみてもなかなか見つからないので立ち止まっていると、妻が

「ねぇちょっと、あれ」

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 2mくらいの近さでそれは大きなイグアナが日光浴をしていたではありませんか.まったく物音せずにずっと林の定位置にいたのです.あんなに近くでイグアナを見ることはなかったし、気づかなかったこともびっくりです.かといって向こうは何かこちらに気を使うわけでもなく自分のことをしていたので、あたりに漂う空気は穏やかなものでした.怖いと思う気持ちは全然なくて、なんだか昔から知っている仲間に偶然出くわしたような嬉しい気持ちがしました.イグアナがそこにいてくれてよかったなと.

 帰ってから妻と話したことを調べてみました.もしかしたら私がヒラメを見て言ったことはJ. Lamarck(1744-1829) の唱えた用不用説に近いのかもしれません.現在進化論の潮流は妻が教えてくれたC. Darwinによる自然選択説にあるようですが、素人ながら確かによく観察と熟考を経て得られた学説だと思います.この自然選択説は変異は自然が淘汰し、偶然が支配するサバサバした学説であって、進化の過程において生物がああしよう、こうなりたいという密かな思いを排除したものとも考えられます.私自身、もっと知らなければならないことが沢山あるのを承知で言いますが、どんな生き物でも個々なりの密やかな思いがあっていいはずだと思います.これを主体性といえば少しすっきりした言い方になりますが、各々が形態・機能変化へ向かう何らかの力動が働いている、究極的には進化へと至る推進力<精神といっていいのだろうか?>が存在しているように感じるのです.私はロマンチックな話が好きなのでこういう考え方になりますが、この世界が確率や偶然だけでできているのではあまりにつまらなくありませんか.運命がきまぐれによって決まってしまうような考えはある意味単純明快ですが、我々がみな運命の囚われになるのは惨めでしょう.何か私達にとって捉えがたい生命固有の志向性が働いているだとか、運命に抗うベクトルが備わっているような、そんなある種の不可思議な方向づけがあるとしたら、僕らはカメレオンやタコともっと寄り添っていける気がするのです.

 こんな話、うちの事務所のスタッフくらいしか聞いてくれないかと思いましたが、あとで定向進化説(Orthogenesis)やNeo-Lamarckismといった生命の内的方向性を考える学説があると知りました.私よりずっと前に似たようなことを考えている人がいると知って、自分の凡庸さに気づきつつ、共感してくれそうな人が少しでもいるのだと思うとほっとしました.イグアナがそこにいてくれてよかったなと思う気持ちと同じでした.

精神の危機について

 私が仕事を初めて数年経ってから「精神」という言葉を強く考えるようになった.しかし考えるよりも優先しないといけないことが多く、以前は取り組むのが難しい課題であった.今でもとてもとても難しいことに違いないが、私自身少しましになった.改めて考えるだけのものでもあると思う.さて、少しだけ考えてみよう.建学の精神、精神論、精神的、精神病、精神と肉体.言葉は一緒なのにどれ一つ意味合いが何となく異なる.この何となくが引っかかる.人間にとって精神とは何だろうか、動物の精神という言葉はあまり聞かない.建学の精神.学校の入学式や卒業式で聞いたり額縁に飾ってある言葉だ.たとえば私の学校は質実剛健、文武両道であった.精神論.あの人はいつも精神論ばかり説く.ではあの人は肉体論ばかり言う、という用法があるだろうか.殆ど聞いたことがない.敬虔な筋肉の信奉者か.そもそも精神と肉体を対立させていいのか.昔から議論されている命題だ.精神的.この言葉は日常的によく使う.精神的にきついだとか、精神的に強い、といった使い方をする.しかし精神的な強さとはなんだろう.精神病.精神の病気というと色々あるが精神病というとおおよそ統合失調症を主とする一つの疾患群を指すだろう.とはいっても精神が病むというのはどういう状況だろうか.そもそも精神という臓器はないが、精神は人間のどこで働いているか、すなわち精神の座を探求する取り組みは有史以来行われてきた.結局は脳ということになり、大体の人が納得している.もちろん、脳が一義的に精神の機能を果たしているわけでもないことは承知しているが、大多数の人と会話するときには上記を念頭において私は言葉を選ぶ.精神は人間の生活において大きく存在するものだとも考える.建学の精神という言葉は人間が学び舎を建てるときに精神的支柱として掲げるものであろう.わざと精神的という言葉を用いたが、建学の精神という言葉を引くと、自立、知性、社会、滋養などといった単語を学是としているところが多い.どれも目に見えなくて捉えどころのないものを大切にしている、機能させているといって良さそうだ.掴み難くて難解な言葉を私はどのように理解したら良いのだろうか.

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 亀吾郎法律事務所に上記のような問い合わせが来た.当事務所はこのような相談を受けることもある.私は何冊かの書物を選んで次のような返答を行った.

 最近、私はP. Valéryの著したLa Cries de l’esprit(邦題:精神の危機)なる作品集を読んだ.彼は多くの戦争を経験し、人々が切迫した時代と混乱に飲み込まれる状況を見て危機感を抱いた.ヨーロッパは果たしてあらゆる分野における優位性を保つことができるのかと.有史から世界中で賛嘆すべき幾多の文明が栄え、また滅びた.そのような淘汰の中で最強の入力と最強の出力という物理的特性を備えた領域はヨーロッパを除いて存在しなかったと彼は序文で述べる.地球儀でも世界地図でもご覧になっていただきたいが、これは人間が住む土地の総体が描かれており、天然資源、豊穣な土地、豊かな地下資源、様々な特性が観察される.ここから彼は、「人間が住む地球の現状は、人間が居住する諸地域を対象とした一つの不平等系によって、定義することができる」という.Sid Meier’s Civilization という世界文明史ゲームをやったことがある人であれば、1ターン目で砂漠ばかりの土地や、氾濫原の広がる初期立地に嘆息することはよくある話であり、土地の不平等性には一定の納得を示していただけるだろう.荒涼とした山岳地帯よりも河川の流れる盆地のほうが文明は栄えやすかろう.かといってヨーロッパがそこまで資源豊かではないし地形的にも狭溢している.ヨーロッパが優位性を保ってきた一例についてValéryはギリシアの存在を挙げる.ギリシアによって発展を遂げた思想を例に、少しずつすべての学問が幾何学のように論理を厳密にし、即時的な敷衍可能性、徹底した夾雑物の排除を行うことを余儀なくされたとし、近代科学はそこから生まれたと指摘する.Hegelも似たようなことを述べている. 科学が発展し、その物質面の応用が進むと、どちらかというと、資本活用の刺激剤として科学は商品や貿易品と化する.学者の研究材料に過ぎなかった硝石がいつしか化学エネルギーを爆発に換えて火薬となりマスケット銃の弾丸を発射する手段となる.商品は模倣され、世界中で作られる.資源が採れる土地のほうが生産は容易い.人口が多ければその分力は富む.ヨーロッパが占めていた優位性は科学水準等の地域格差がなくなっていくごとに失われてゆく.パワーバランスが逆転しつつある.Valéryはここで拡散という物理現象を用いてさらなる説明を試みる.インクを水に垂らすとそれは一瞬色づいて忽ち消えてゆく.これが拡散である.しかし、もし水槽の中に垂らしたはずのインクが姿を現したら・・・といって物理学でありえない話をするが、この現象は人間においてはありえないことではない.我々は液体系が、自然発生的に、均質系から不均質系に移行しているのを目の当たりしているという.この逆説的なイメージこそ、私達が何千年も前から「精神」の世界における役割であると.ヨーロッパの奇妙な優位性はその「精神」によって、軽い方の秤が傾くように働かしむのであった.なかなか難しい説明であるが、別の小論、La liberté de l’esprit (精神の自由)を参照してみる.そこでは「精神」という言葉を我々の体の動きに必要な、身体機能の最適化を目指すようなものではない思想や行為を分離・発展させる可能性、あるいは欲求、あるいはエネルギーとしている.すでに私達の生命はある種の変形力、すなわち我々の体と周囲の環境が我々に課す生命維持に必要な問題を解決するための能力を持っている.これは他の動物もそうである.しかし、なぜか我々は生命維持の不可欠な欲求が満足してしまうと生命保存とは別の作業を自分に課そうと思うようになる.彼の表現を借りればこれは途方もない冒険である.彼が「精神」と呼ぶものはその冒険に瞬間的な方向づけ、行動の指針、刺激、推進力を与えると同時に行動に必要な口実、幻想のすべてを与える.口実や幻想は時代とともに変わる.この精神的な力と動物的力(生命維持の能力)はよく似ている.同じ歩行であっても、ただ歩くのと踊るのは、同じ器官、同じ神経回路の産物で、ちょうど私達の言語能力が欲求や観念を表現するのに役立つと同時に同じ言葉・形式が詩をつくるにも役立つのと同じであると.両者は同じメカニズムであるが、目的は全く異なる.生命維持か大いなる冒険か.もう少し別の簡潔な文章を引用してみる.彼のCahier (カイエ)の冒頭は、「精神とは作業である.それは運動状態でしか存在しない」から始まる.またこうも述べている.「精神は一度には一つのことしか見ることができない」「精神にはきっと然るべきメカニズムがあると私は確信している.精神のすべてがそのメカニズムに還元されるとは言わない.私が言いたいのはそうした基本的メカニズムが解明されない限り、それより先へ行こうとしても無駄ということである」Politique de l’esprit(精神の政策)からも引用しよう.おそらくこれが最も端的な表現であろう.「私の意味するところはごく単純に、一つの変換する力のことである」、「精神はまさに賢者の石、物心両面にわたる一切のものを変換させる動因である」と.そして先に述べたような叙述が続く.「精神は我々の周囲にある影響を及ぼし、我々を取り巻く環境を変化させるものであるが、其の働きは既知の自然エネルギーの作用とはかなり違ったところに求めるべきものであると.その働きは、与えられたエネルギーを対立させたり、結集させたりすることに存するものだからである.この対立あるいは結集の結果として、時間の節約ができたり、我々自身の力の節約ができたり、力や精度、自由や生命時間の増大がはかられるのである.〈中略〉かく見れば、精神とは、純粋に客観的な観察の総体をいわば象徴的に表したものの謂いである」

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 ここで少しまとめてみたい.精神とは一つの変形力であり、作業でもある.それは動的な状態である.それは自然の営みに逆らうこともできれば収束させることが可能な推進力である.例えば文字を書くということを考えてみる.薄っぺらい物体の表面に異なる物質を一定の浸透力で染み込ませ、これを規則的に延々と続ける.これは生命維持とは関係のない動的な状態と考えられる.さらに一定の様式で平面にインクなり墨なりを染み込ませるためには、「書く」主体の意志、すなわち推進力や行動の指針、もしかすれば冒険心が必要である.この営みによって、主体の思考は収束するかもしれないし、同じ文字を認識することのできる客体すなわち読み手がいれば自然の法則に則らない思考の伝達が行われるともいえよう.考えは収束するかもしれないが、読み手がどのように刺激を受けるかによってそれはさらに他者に伝播する可能性も持つ.もし扇動的であったり挑発的であればその思想に抗おうとする別の推進力が出現することも考えられる.音楽や絵画にも同じことがいえるだろう.こうしたところで、冒頭の問に答えられただろうか.建学の精神は、学び舎を興すときに創設者たちが掲げた教育の原動力(motive)となるキーワードとでもいえばよいだろうか.精神論とは主体に与えられたエネルギーに依拠すれば艱難辛苦に耐えうることができるであろう考え方と言えそうだ.精神を病むとすれば、何かを起こすための推進力に問題のある状態を考える.動的な状態を前提とすれば、それが緩慢な状態に陥ったり静止すればいわゆるうつ状態、暴走ないし危険な冒険を選ぶのは躁状態とも考えられる.このように彼の主張を演繹すると実に明快である.

 ValéryがLa Cries de l’espritを著したのは1919年だから今から100年以上前になる.彼の著作を読んでいてあまりそういう気がしなかったせいか抵抗なく読みすすめることができた.おそらく翻訳が優れていることが大きいのだろう.まだ自分の中でうまく落とし込めていない部分はあるが、一応の読了と総括をすることで、別の著作に取り組みたいと思う.