原罪について

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前回のあらすじ

 過去三回連載した「不安の概念」に関する記事で、私は主に第一章、第二章の説明を試みた.簡単にまとめると次のような具合になる.

 ・キルケゴールは不安の構造をキリスト教の「原罪」と自身の人生体験から理解しようとした.

 ・原罪論とは、「人類が普遍的に罪を負っている」という説明に根拠を与えるもので、創世記の伝承、アダムの堕罪に基づいている.ただ教義によって解釈が異なる.

 ・不安とは「自由のめまい」であると例えられる.不安とは、人間存在の構造が何の支えもなく揺るがされていることである.不安と恐怖は前者が対象を欠く点で大きく異なる.

 ・罪と不安は表裏一体である.無責の状態から有責の状態へと質的な変化(質的飛躍)が生じるときに不安が生じる.

 これから話す内容はアダムは人類であり、アダムは個人でもある、というキルケゴールの主張を理解する試みになる.「おれがあいつであいつがおれで」という児童文学を思い出す内容である.

 アダムの罪を説明することは原罪を説明することである.そして、アダムを説明しようとするが原罪をしようとはしない説明、あるいは原罪を説明しようとするがアダムを説明しようとしない説明は何も役にも立たないのである.このことは、全人類は個人に、個人は全人類に与るというようにして、人間は個人であり、そしてそのようなものとして自己自身であると同時に全人類でもあるということが、人間の実存における本質的規定のうちに深く根ざしているように思われる.

「不安の概念」第一章、「原罪の前提としての不安」

 「人間は個人である.そしてそのようなものとして自己自身であるとともに全人類でもあるということ、これは人間の実存にとって本質的なものであると思う」という上記を噛み砕いた文章を考えてみる.

 アダムは蛇に唆されたイヴの誘いで禁断の実を食べてしまった.美味しかったのかどうかは兎も角、「(創造主は)食べてはいけないと言われたが、食べようと思えば食べられるではないか」という自由の気づきのもとでアダムは果実を口にする.その自由とは、「食べてしまったらどうなるのだろう、死ぬとはどういうことだろう」という不安に転じる.そして、その不安は堕罪へと至るわけであるが、この罪は、創造主への無自覚な反逆とも理解できるかもしれない.創造主が作り出したアダムとイヴは全く善い人間であったはずだが、全く善いからこそ、無垢であり、無知であった.無知で、自由である故に堕罪したのであった.

 ここで伝統的教義学(ルターやアウグスティヌスの教義)と異なるのは、アダムは「禁断の果実を食べてみたい」と思ったわけではない、ということである.詳しく言えば「欲情」が生じたわけではない.「食ってはいけない」という神の禁止に対して、「禁止されたことをしてみたい」と思ったのではないのである.

「食べてしまったらどうなるのだろう、死ぬとはどういうことだろう?」

 伝統的教義学によると、アダムが堕罪したときに「欲情Concupiscentia」(生来の悪の傾性)が生まれたとする.しかし、アダムが創造されたとき、そもそも彼は無知ではなかったか.そんな彼が欲情などするだろうか.禁止されたことをしてみたい、という悪があるだろうか、とキルケゴールは考える.アダムとイヴは全く善い人間であったのだ.この堕罪の瞬間における解釈が伝統的教義学とキルケゴールで異なるのであり、「食ってはならぬ」という禁止がアダムの中に罪を生み出した過程には「欲情」ではなく、「不安」という力動が内在していたのであるという彼の論理には敬服するほかない.アダムは悪気なく罪を犯したのである.

 さらに伝承にもあるように、知恵の実を口にしてからは二人はスッポンポンであることを羞恥する.互いに木の葉で外性器を隠すキルケゴールも「堕罪によって性が措定された」と述べている.もし二人が欲情するのであれば、それは堕罪した後の話であろう.

 かくして、アダムが堕罪し、楽園を追放されてからは二人は交わる.するとカイン、アベル、セトが生まれ、セトの子孫がノアとなり、ノアの息子のセムの子孫のテラの息子がアブラハムとなり、その息子がイサク、五作、田吾作、与作……と続くわけである.アウグスティヌスから始まる伝統的教義では、原罪はアダムから上のような繁殖によってその後の人類に伝わるとし、それ故に個人は生まれながらにして罪の中にあると考えた.ルターなどプロテスタント派も、罪の原因を生来人が持つ悪の傾性によって説明しようとしている.だがこれは罪の普遍性を説明するにすぎない.我々にはもともと悪の傾性があるという言い分も納得できそうにない.

 伝統的教義学とキルケゴールの考えは次の点でも異なる.伝統的にはアダムは人類を罪に堕とした張本人かつ原因であるが、アダム以後(与作など)の個人の罪は、人類が堕罪した結果として生じるものとして解釈される.つまり、アダムとそれ以降の人間を区別してしまっている.しかし、そうではない.これでは原罪論が個人の罪性と人類の普遍的罪性両方を説明しようとする試みに反してしまう.もう一度キルケゴールの文章を思い起こしていただく.

 アダムの罪を説明することは原罪を説明することである.そして、アダムを説明しようとするが原罪をしようとはしない説明、あるいは原罪を説明しようとするがアダムを説明しようとしない説明は何も役にも立たないのである.このことは、全人類は個人に、個人は全人類に与るというようにして、人間は個人であり、そしてそのようなものとして自己自身であると同時に全人類でもあるということが、人間の実存における本質的規定のうちに深く根ざしているように思われる.

 現代に生きる我々なら理解は容易いだろうが、奇しくも私とあなたのゲノム情報は極めて類似している.どんなにあなたが嫌がったとしても.私と他の70億の人間のゲノム情報も酷似している.ボブ・マーリーもポール・マッカトニーもルーサー・ヴァンドロスもホイットニー・ヒューストンも非常によく似ている.これは我々がホモ・サピエンス・サピエンスというヒト亜族の一つであることで理解される.もとを辿ればかならずご先祖がいる.ご先祖の先祖をさらにさらに遡れば、我々はいつか生物学的「アダム」に到達する.誰でも人類の連続性がある.

 たかだか10万年程度ではゲノム情報は大きく変わらぬ.あなたとあなたの隣人の遺伝情報は99.9%以上一致しているらしい.チンパンジーでさえあなたとも1−2%程度しか変わらないのだ.故にアダムと現代の私たちの生物学的特質もさほど変わらないし、生得的な能力はほぼほぼ変わらないと見ていいだろう.生物学的な視点で、私とアダムは本質的に同じである.これは70億個ある均一な大きさのビー玉から一つ取り出すのと同じだ.セミの死骸に群れるアリを一瞥して、各々の差異に気づくことはできないように、ガルガンチュアのように巨視的な目線で見ると私たちとアダムはなんら変わりはないのだ.

 連載の最初で私は次のように触れたことを思い出す.

「これ(創世記)はもちろん神話なのであるが、多くの人が挙ってこの神話を取り上げるのは、宗教的な意義だけでなく、ある種、アダムを人類のプロトタイプとして考えたときの思考実験として捉えると興味深いからかもしれない」

 アダムもその後の人類も同じ人間である.よって本来同じ性質である両者を区別することは誤りである.前者を特別扱いしたり、例外扱いすることは議論をおかしくする、とキルケゴールは指摘する.アダムは最初の人間であり、彼は自己自身であるとともに人類である.アダムは人類の範型、典型なのだ.アダムの罪は人類の全体が堕罪した原因ではなくて、むしろ同じ人類である個々人がどのようにして堕罪するかを示す例示「Design study&Prototype」である.アダムが質的飛躍によって堕落したように、我々人類は質的に堕落している.その質的堕落とは、私達は無知ないし無垢な状態において不安の萌芽から自身の行為によって堕罪することなのである.我々は生まれつき罪の中にいるのではない.罪を犯す素質=罪性(ポテンシャル)を秘めているのである.そのポテンシャルが世代を経て伝わっていく、という意味で我々は普遍性を持つ.

 アダムが無知かつ自由故に堕罪したように、私たち人類も自らの無垢と無知で自由な行為によって罪を犯すのだと.よって罪の責任をどこに求めるべきか、それは個々人なのだ、ということは明らかになってくるように思う.

 今回の記事は以上である.私はずうっとずうっと原罪論について考えてきたが、ようやくキルケゴール兄貴が考えていたことに一定の理解を示せそうである.アダムは人類のプロトタイプである、という仮説は存外悪くない考えであったように思うが、それが自分の中で納得できるまでに大変な時間がかかった.そしてその考えを記事にして世間にお示しするにも時間がかかってしまった.牽強付会のように思われたら残念だが、私なりに錆びついた灰色の脳細胞を駆使して考えたのである.

 さて、「貴方こんなことを考えて一体なにになるの」とか「あんた暇だね」、「そんなこと考えているならもっと実学を勉強しなさい」とかいろんなお褒めの言葉が来るだろうと予想するが、私に言わせればこのような思索は臨床実践において極めて必要である.実際とても役に立っている.当たり前だが、精神医学は哲学ではない.だから精神病理学も哲学ではない.哲学ではないが、哲学の方法論を使わないことには理解できないだろうと思う.外科医にとっての手術室と同じように、私にとって哲学は精神病理を理解する思考の力場であり、外科医にとってメスが道具であるように、心理学は精神療法を実践するための道具である.ともすれば薬理学はある種飛び道具であろうか.

 不安は誰にでもある心的動きである.これがどのような機構で生じるのか、について一定の把握をしておくことは決して悪いことではない.生理学的なアプローチに基づくGABAの機能失調等の仮説も十分理解しておくべきだろう.だからと言って抗不安薬を矢鱈ぶち込めばいいかと言えば決してそうではない!!私はキルケゴールの考えを盲信するつもりはないが、「人間存在の構造が何の支えもなく揺るがされていることが、不安の原因である」という箴言には大変な共感を覚えるし、これを念頭にして面接に望めば不思議とクライエントのむつかしい言辞にも心を沿わせることはできそうなのだ.

いつもありがとうございます.

 余談ですが、当ホームページの用語集、頑張って増やしています.特に心理学関係の用語を充実させていますのでよかったらお立ち寄りください.

 

 

 

重陽の節句を前にして

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創造的便秘:Creative Constipation

 ドイツ観念論の学者の一人、フリードリヒ・シュライエルマッハー(シュライアマハー)に続くキルケゴールお兄さんの原罪論解釈が思った以上に難しい.原罪論というのは我々人類の罪的普遍性の根拠を示すことである.そしてアダムの罪が本質的に、個々人の罪と同一であることを示さなければならない.なんとなくキルケゴール兄貴が言っていることは理解できなくもないのだが、それをうまく伝えることができなくては理解したうちに入らぬ.私はずうっと原罪論について考えているのに、なかなか良い説明が思いつかなくて悩んでいる.その他現実問題で悩ましいこともある.少し時間がかかりそうである.超やばい.入浴中のアルキメデスが天啓を得たように、私もどうにかしてピピッと気づけたらよいのにと思う.以前、「うんこ」なる記事を書いたが、要するに私は創造性の便秘である.緩下薬や整腸剤をつかってどうにかなる話ではなさそうに思う.またブリブリ放り出すことができればお伝えしたい.大変申し訳無い思いで私は、悪魔ベルフェゴールの如く便座に座している.

心理学への誘い

 とある要請によって私は大学以来等閑であった心理学の勉強を再開することにした.大部分の動機は私への自己投資である.かくして妻の蔵書を拝借して臨床心理学の参考書をはらりはらりとめくると、全く私は「心理学」について何もかも知らないことに愕然とする(一方、妻は心理学にも詳しいし、教育学や人文学、生物学にも大変明るい).本当に自分でもドン引きするくらい何も知らないことに驚愕した.精神医学と心理学は重複するところはあれど、畑が違うのだと思い知らされる.

 心理学という用語は「Psychology」を西周が訳したもので、経験的事実としての意識現象と行動を研究する学問である.かつては精神についての学問として形而上学的な側面をもっていたが、現代へ続く心理学の発端はヴィルヘルム・マクシミリアン・ヴント(Wilhelm Maximilian Wundt)の実験心理研究所にある.これは1879年のことだから比較的新しい学問だ.多くの心理学者がヴントに学び、さらに学派が誕生した.また批判的立場をとる学者も出現して、これにはフランツ・ブレンターノ(Franz C. H. H. Brentano)が知られる.このお兄さんは私も度々取り上げた現象学おじさんエドムント・フッサールの師匠である.そのフッサールの弟子がハイデガーおじさんなわけで、心理学と哲学は多分に連綿と結びついている.

 同時代にジークムント・フロイト(Sigmund Freud)おじさんもいるがこちらは精神分析学の範疇に属する.精神分析学が心理学に属するという主張はおよそ誤解である.では精神分析とは何か、と問われれば現役の精神分析家の十川幸司氏をして「一つの思考の経験」と呼ぶらしい.もっと詳しく言えば、

 精神分析とは自己についての思考というより、分析家という眼前の他者を介した、より一層根源的な他者についての思考の経験なのである.その他者によって自己がどのように規定されているのか、その他者に対してどうあるべきなのかということが精神分析の中心的な問いとなる.

「精神分析」より十川幸司、岩波書店、2003年

 精神分析が思考の経験である、という主題は、嚆矢であるフロイトこそが精神分析を自己の無意識の真理に向った思考経験だと考えたからである.思考を題材にする点で哲学と似た部分はあるが、精神分析は他者を介在した営為である意味でそれと異なると思う.精神分析は別の記事でいつかまとめたい.

 なんだかんだいってフロイトは心理学に多大な影響を与えた人なので、この人は心理学上無視したくともできない.この分析畑の学派を精神力動系学派と呼ぶ.カール・グスタフ・ユング(Karl Gustav Jung)、最近人気の個人主義、アルフレッド・アドラー(Alfred Adler)、新フロイト派のエーリッヒ・フロム(Erich S. Fromm)、ハリー・サリヴァン(Harry S. Sullivan)やメラニー・クライン(Melanie Klein)やドナルド・ウィニコット(Donald W. Winnicott)に代表される対象関係論などが上記のグループに属すると考えて良い.

 その他、認知・行動に関する学派はハンス・アイゼンク(Hans J. Eysenck)やジョセフ・ウォルピ(Joseph Wolpe)などを経て認知行動療法としての技法を完成させているし、人間性心理学の立場はこれらの立場に対抗して発展した学派で、人間の肯定的で健康な側面を強調する.カール・ロジャーズ(Carl R. Rodgers)やヴィクトール・フランクル(Viktor E. Frankl)らが知られる.

 ここまで紹介しただけでも大変な数の心理学者がいる.様々な学派の心理学好きがいるということは試験勉強としては厄介ではあるが、非常に多様性に富んだ学問として魅力もあると肯定的に捉えておこう.もしかすれば、読者の皆様も知っている学者がいるかもしれない.

 改めて、なぜ私が心理学を勉強するのかといえば、私にとって臨床上の必要である.要するに、私は精神療法(心理療法とほぼ同義)を極めたいのである.精神科医は薬だけ処方してバイバイ、のような悪評を突きつけられているように思う.実際、主観だがそのような医者は少なくないのではないか.私はそのような悪評に対抗したい、という気持ちが強い.どんなに薬理が発達しようと、決して、絶対に、薬理だけでは精神疾患の改善は起こり得ない、というのが私の信条である.適切な面接が引き起こす脳内神経物質のポジティブな化学反応はあらゆる薬剤の効果をブースト(augment)する.そもそも何も入っていない錠剤を飲んだだけでも、抑うつ気分が改善するような奇妙な現象は、薬理以外の誘因が関与している.製薬会社の資料を見れば一目瞭然である.これはプラセボ効果とも言われる.「良くなりたい」「良くなるだろう」と思い込ませる、あるいは「この人が処方する薬なら良くなりそうだ」と信憑させる技量、すなわち信頼関係(Rapport)を築く技術の習得は心理学の理解なしはあり得ないだろうと思うようになった.よって、私は現在の技術のみならず、臨床心理技術職としての立場を築いていきたいと目標にしている.幸い役者は揃いつつある.そこからさらにサブスペシャリティを見つけられるならば願ったり叶ったりである.

 精神療法の手がかりとして

 2015年初版の医学書院から出されているオープンダイアローグとは何か」という書籍を私は繰り返し読んでいるが、これまたなかなか良い読書体験を得たと思っている.2021年5月18日の投稿「不確実性へ溶け込め」で紹介したばかりだ.私がライナー・マリア・リルケに出会ったのはこの書籍のおかげである.

 しかしながら私がオープンダイアローグについて語る資格はほとんどないに等しいだろう.というのも、私はこうした方法論を書籍や論文で知ったのみであり、実際に研修や講習会に参加したこともなければ、方法論を知る人から技術を教わったこともないのだから.猛威を振るう世界規模の感染症のため、どうしても外部に赴いて勉強する、ということが当面できそうにない.これは遺憾である.おそらく殆どの学術活動が停滞しているのではないか.オンラインで一応参加することはできるが、会場でポスター展示を眺めつつ、シンポジウムに片足を突っ込んで視聴するだとか、独特の空気感の中で他の講演を聴くことは現場でしかできない.だが悲観してばかりもいられない.おそらくは徐々に感染症の勢力が弱まってくれば、様々な学術活動が息を吹き返すだろう.その折に私はスーパーヴィジョンを受けるとか、認知行動療法や暴露療法・暴露妨害反応法の講習を受けることを強く希望している.いつかスーパーヴィジョンを受けることができた日にはできる範囲で報告をしてみたい.もちろん、オープンダイアローグも.

 一応、少しだけ著者斎藤の内容を引いて話をすると、どうやらオープンダイアローグは複数の音楽家による即興演奏に似ている.この面接の基本は「不確実性への耐性」「対話主義」そして「ポリフォニー」であるという.ポリフォニーに関しては「ミサ・ソレムニス」を想起していただきたい.治療者と患者、その家族や支援者らが紡ぐ音色はどのような終着へ行き着くか誰にもわからない.精神病症状が生む危機的状況は曖昧さをはらみ、治療者と患者双方にとって緊張感を生む.それは感情的負担である.ゆえに演者と聴者は常に不確実性への耐性が求められる.しかし、それに抗うことができるのが「対話」であり、「対話」こそ治療の糸口なのであるという.基本的に、精神病症状を呈する患者の幻覚・妄想には強烈なトラウマ体験がメタファーとして取り込まれている.それは私の短い経験でも十分に同意できる.症状の暗示する外傷体験が、周囲にとってどれだけ理解しがたいものであったとしても当事者はなんらかの形で現在進行形で情緒的に反応しているはずである.

 最近の私の小目標を述べれば、統合失調症が慢性に経過し人格水準が著しく低下した症例において、どのような面接が効果的なのか.思考が解体し、言語が言葉のサラダとなった人々にとってどのような態度が有効であるのか.こういったことの理解が求められている.急性期の治療や寛解・維持期の症例をどのように進めていくかについてはたくさん議論がなされているけれども、慢性期に関して私はあまり良い方法を知らない.

若き詩人への手紙

 私の中には多くの疑問が生起する.その問いはかくして上記の臨床の問題であったり、時事問題であれば、将来の身辺の問題であることもしばしばだ.あまりにも疑問が多すぎて一見壊れそうである.私は今までこうした問いに速やかに答えを出すことが必要なのだと思い込んできたが、どうやらそうでもないらしい.このような時勢において我々は感情をやたらと消費する場面が多いように思うが、このような時こそ、私達は未解決のものすべてに対して忍耐をもつべきだと.すぐに答えを探そうとしないこと.さらに、生起する疑念に対して批判かつ吟味することが必要なのだと.

 よって私は改めてリルケを引用したい.

 

 あなたはまだ本当にお若い.すべての物語のはじまる以前にいらっしゃるのですから、私はできるだけあなたにお願いしておきたいのです.あなたの心の中の未解決のものすべてに対して忍耐を持たれることを.そうして問い自身を、例えば閉ざされた部屋のように、あるいは非常に未知な言語で書物のように、愛されることを.今すぐ答えを捜さないでください.あなたはまたそれを自ら生きておいでにならないのだから、今与えられることはないのです.すべてを生きるということこそ、しかし大切なのです.今はあなたは問いを生きてください.そうすればあなたは次第に、それと気づくことなく、ある遥かな日に、答えの中に生きて行かれることになりましょう.

若き詩人への手紙、1903年、ブレーメン近郊ヴォルプスヴェーデにて、高安国世

You are so young, all still lies ahead of you, and I should like to ask you, as best as I can…to be patient towards all that is unresolved in you heart and try to love the questions themselves like locked rooms, like books written in a foreign tongue. Do not now strive to uncover answers: they cannot be given you because you have not been able to live them. And what matters is to live everything. Live the questions for now. Perhaps then you will gradually, without noticing it, live your way into the answer, one distant day in the future.

Letters to a Young Poet, 1903, Worpswede near Bremen, Translated by Charlie Louth

Sie sind so jung, so vor allem Anfang, und ich möchte Sie, so gut ich es kann, bitten, lieber Herr, Geduld zu haben gegen alles Ungelöste in Ihrem Herzen und zu versuchen, die Fragen selbst liebzuhaben wie verschlossene Stuben und wie Bücher, die in einer sehr fremden Sprache geschrieben sind. Forschen Sie jetzt nicht nach den Antworten, die Ihnen nicht gegeben werden können, weil Sie sie nicht leben könnten. Und es handelt sich darum, alles zu leben. Leben Sie jetzt die Fragen. Vielleicht leben Sie dann allmählich, ohne es zu merken, eines fernen Tages in die Antwort hinein.

Briefe an einen jungen Dichter, 1903, Worpswede bei Bremen

よく聴くこと

 あなたの懐疑も、あなたがそれを教育されたなら、一つのよい特質となることができます.それは知的なものになり、批判とならなければなりません.それがあなたの何かをそこなおうとするたびに、それに向ってなぜある物が厭わしいのかをお問いなさい.それに向って証明を求め、よく吟味してごらんなさい.そうすれば多分懐疑の方で閉口し、うろたえるのが、おそらくまた食ってかかってくるのが、おわかりになるでしょう.しかし負けてはなりません.討論をお求めになるがよろしい.こうしてそのつど、あなたは慎重に、徹底的に、同じ行動をとられるのならば、いつか、懐疑が破壊者からあなたの一番よい働き手の一人__おそらくあなたの生を築くすべての者の中で一番賢い者となる日がくるでしょう.

若き詩人への手紙、ライナー・マリア・リルケ、1904年、スウェーデン、ヨンセレート、フルボリ、高安国世訳

And your doubts can become a good quality if you school them. They must grow to be knowledgeable, they must learn to be critical. As soon as they begin to spoil something for you ask them why a thing is ugly, demand hard evidence, test them, and you will perhaps find them at a loss and short of an answer, or perhaps mutinous. But do not give in, request arguments, and act with this kind of attentiveness and consistency every single time, and the day will come when instead of being demolishers they will be among your best workers – perhaps the canniest of all those at work on the building of your life.

Letters to a Young Poet, Rainer Maria Rilke, 1904, Furuborg, Jonsered, in Sweden, translated by Charlie Louth

Ihr Zweifel kann eine gute Eigenschaft werden, wenn Sie ihn erziehen. Er muß wissend werden. er muß Kritik werden. Fragen Sie ich, sooft er Ihnen etwas verderben will, weshalb etwas häßlich ist, verlangen Sie Beweise von ihn, prüfen Sie ihn, und Sie werden ihn vielleicht ratlos und verlegen, vielleicht auch aufbegehrend finden. Aber geben Sie nicht nach, fordern Sie Argumente und handeln Sie so. aufmerksam und konsequent, jedes einzelne Mal, und der Tag wird kommen, da er aus einum Zerstörer einer Ihrer besten Arbeiter werden wird, – vielleicht der klügste von allen, die an Ihrem Leben bauen.

Briefe an einen jungen Dichter, Rainer Maria Rilke, 1904, Furuborg, Jonsered, in Schweden

 不確実性への耐性、まずはこれを実践したいと思うこの頃、もうすぐ重陽の節句である.なんでも菊の花が美しく咲く時期なのだとか.私はお酒をやらないから、菊に因んで何かするとすれば、今まで通り、よく「聴く」ことを続けることにしたい.

ご自愛ください.