八月も半ば過ぎて

 今回もカオスな献立でお送りします.

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プロアクティブ

 この時期になると戦争という出来事について、小生のような小童でも、私なりに感慨を抱く.戦争というのは無論、第二次世界大戦ないしは太平洋戦争のことだ.これに関連して、私は岩波書店から出された「思考のフロンティア」シリーズにおける高橋哲哉氏の「歴史/修正主義」を何度も興味深く読んだ.同じシリーズからは岡真理氏による「記憶/物語」がある.こちらもブログで紹介するくらい良い読書体験をした.絶版だがおすすめである.ちなみにどちらも妻の所有物で、私が勝手に拝借して読んでいるような状況にある.とは言っても互いに蔵書を好き勝手読み合うような互恵的関係である.

 八月になると、六日から順に広島・長崎の平和記念公園で県知事の演説、県を代表する生徒の演説、そして総理大臣の演説が報道される.十五日になれば、日本武道館で総理大臣と天皇、衆・参議院議長ならびに最高裁判所長官の式辞が述べられる.その中で特に、総理大臣の発言は殊更注目される.斯くの如き一連の流れが毎年毎年繰り返されるように私は理解している.もちろん六月の沖縄での出来事も忘れてはならない.

 多少なりとも、自国の首長がどのような発言をするかは私でも気にするし、表立って口にしなくとも、これまで気にしてきた.式辞の原稿を裏方が用意するにせよ、発言には発言者の意図が見え隠れする.歴代の総理大臣がいかなる内容をもって式辞を述べるか、ということは彼らがどのような歴史認識をしているのか、という理解の助けになると思う.十分条件として彼らが一定の歴史認識を持っていることが前提になるが…… 上記の書籍は、このような時節のお約束事となっている事象に思いを巡らすうえで価値あるものであると信じている.

 確か首相は演説で戦争を二度と繰り返さない、積極的平和主義を行う、ような趣旨を述べたように思う.彼が何を喋って何を言わなかったかについては報道の通りである.積極的平和主義というのは前の総理大臣から用いられている用語らしいが、私には語義がはっきりわからない.戦争を二度と繰り返さない、というのは誰もが願う望みとして自明だとしても、積極的平和とはなんぞや.英語では「Proactive Contributor to Peace」と言わせるようだ.「プロアクティブ」なんてニキビ用洗顔剤の商品名でしか聞いたことがなかった.

 外務省から今年の七月に公表されている「日本の安全保障政策」という資料によれば、積極的平和主義とは国際協調主義に基づく考え方のようで、「現在の世界では、どの国も一国で自らの平和と安全を維持することができない」前提に立っているらしい.ふーん.これに関連する通常国会質問主意書への回答をパラパラ見てみたが、当時の内閣総理大臣の回答は「積極的平和主義とは国際協調主義に基づく考え方である」とほとんど同じであった.このもやっとする感覚は真夏の猛暑と湿気によく似ている.皮脂で汗ばんだ私の顔は「プロアクティブ」なる洗顔剤でゴシゴシ洗ってスッキリさせられるやもしれぬが、スッキリしない疑問は以下の如く尽きない.How can be a peace contributed by such proactive attitude ?

 

 私達が過去の戦争を前にして「戦争責任」を認め、「深い反省」に立つのは、決して私達が子々孫々の末代まで「戦争犯罪」を甘受することではなくて、完全に逆に、現存在たる私がかつての国家との連続性を断ち切ることによって他者の、他国の信頼を回復・獲得してゆく積極的positiveな行為だからである.私達が日本人として引き継ぐのはあくまで法的・政治的連続体としての日本人であり、かつて戦争に加担した人々の罪性を私達があたかも生物学的に継承しているような考えは誤解である、と上述の著者、高橋哲哉は綴る.

 高橋は次のようにも述べている.私達が過去の事象を前にして抱く感情(恥や罪責)自体が問題になるのではない.そうした感情をどのように具体的に戦後責任として為してゆくかが重要なのだ、と.小生も密かに、そして強くそのように思う.もし私が異国の友人に戦争責任について議論するのであれば同じことを言うだろう.その営為の過程で「記憶の継承」はこの先も民間でも政治的次元でも要求され続ける.「記憶の義務;devoir de mémoire」は過去の凄惨な歴史から教訓を引き出し、新たな過ちを繰り返さないために要請される未来志向的意味を含む.この作業は基本的に終わりなき作業である.それだけ過去の事象は忘れがたい暴力性を秘めているのだと染み染み思う.

 

 

新しい地平へ

.مرحبا! صباح الخير أو صباح النور. أنا طبيب نفسي ياباني

 ここのところ、アラビア語の勉強が深みを増してきた.やっぱり語学の勉強は気持ちが良い.動詞を勉強しだすと、一気に扱う表現の幅が広がった感じがして少し気分が高揚する.大げさに言うと新しい世界が広がる感じである.最近の日本のとある大臣の答弁を使うと、新たな「地平」が開けた気持ちである(これはもともとは哲学の用語だと思う).

 私の知る言語(日本語、英語、わずかに仏語)だと、動詞を学ぶ時は現在形を覚えることから始まると思う.しかし、アラビア語は完了形(過去形)から覚え始めると良いと知った.なぜかと問われると、私の知る答えとして、辞書に載っている動詞の基本形が完了形だからである.それも三人称男性単数の形である.つまり、「彼は〜しました」の形が基本形になり、性別や人称によって形を変えることになる.

 例えば、

كَتَبَ(kataba)

は「書く」の動詞の基本形である.これが辞書に載っている形だが、これは「彼は書いた;he wrote」の意味である.もちろんアラビア語は右から読む.katabaと読む.

もし「彼女が書いた;she wrote」になると、

كَتَبَتْ(katabat)

となる.katabatと読む.「私が書いた;I wrote」にするならば、

كَتَبْتُ(katabtu)

とする.katabtuとなる.ここではアルファベットでKTBに相当する子音كتبが語根(単語の基礎となるもの)とされ、子音にa i u の母音をつけたり、つけないことで区別する.わかりやすい例えをあげると、我々はふりがなをつけなくてもBBQはBarbequeのことだとわかるし、AKB48・NMB48という女性ユニット(?)もAkiba(秋葉原)やNamba(難波)だと察すると思う.アラビア語もおそらく似たような調子なのだと思う.これ以上うまい例えが見つからぬ.

 例で挙げた、كتبの文字の上に「^」や「。」がついているのは初学者向けの発音記号(シャクル)で、現地の人々はもちろん記号をつけずに読めるし理解できるらしい.マジですごいなぁと思う.きっと私達が漢字にルビを振らなくても読めるようなものだろうか.多分、このまま頑張れば読めるようになるのは漢字の読みより容易いはず.「東海林」と書いて「しょうじ」と読むのはズルいし、「蕎麦」を「そば」とは知っていないと読めない.私が日本語を外国語として学ぶ立場であれば、おそらく匙を投げるはずだ.「去年」は「きょねん」、「来年」は「らいねん」と読む.「今年」は「こんねん」じゃねーのかよ!!あーもうめちゃくちゃだヨ!ニポンゴおかしいヨ!

 気を取り直して、さきほどのكتبに別の文字を加えることで、語根を元にした別の単語が生まれる.例をあげると、

مكتب(maktab)

は「事務所」や「机」を表すようになる.他にも、

كتاب(kitāb)

とすると、「本」になるし、「作家」を表すのであれば、

كاتب(kātib)

となる.つまり、語根になんやかんや付け足せば、いろんな語が作れるわけだ.便利ねぇ〜!

 正直に言って、このような言語があるというのは驚き、というかよくできているなぁと思い、感動している.28文字に補助記号を組み合わせて意思疎通がはかれるのは便利だ.もちろんアルファベットもひらがなも漢字も良くできた仕組みだなぁと思っているが、アラビア語は語の性別と数を一致させるので、韻を踏む文章となり、とてもリズミカルである.ヒップホップとの親和性が高そうである.そもそも、礼拝の時に流れるクルアーンの句がすでに音楽的である.まるでお経のように抑揚がついていて、聴き応えがある.かつて私がイスタンブールを旅行した時は、大音量で流れるアザーン(礼拝)の音声が全く煩わしくなく、かえって神妙な心地がしたものだ.これがきっと異国情緒というものだろう.

 神妙な心地がしたとしても、決して私はイスラム教徒になるつもりは更々無いし、どう考えても滅茶苦茶旨いあの豚骨ラーメンやサムギョプサルを諦めるわけがない.エスカロップもカツ丼も豚キムチも捨てがたい.もし宗教に関心を寄せたとしてもそれはイスラム教という宗教の論理性に興味を示すのであって、神性だとか、ムハンマドおじさんの神秘的体験を崇めるつもりはない.私は外国人の前では仏教徒بوذيということにしている.仏教では特段超越した存在を想定しなくていいのが宗教臭くなくていい.イスラム世界では下手に無神論者と言うよりもその方が都合が良いらしい.これを便乗仏教という.

 私の「おべんきょうがすすみました」報告は以上である.趣味の範疇ではあるがさらに精進を進めて、以前触れた私の目標に達することができれば嬉しい.もちろん、臨床も哲学も健康増進も抜かりなく.

求道者たち

 アフガニスタンでの政治的動向が注目されている.日本の報道で「タリバン」と称されている集団の幹部が大統領府にぞろぞろ入って、密になりつつ記者会見に応じている様子を動画サイトで観た.私の印象をいえば全員ヒゲモジャのオッサンのせいか、なんだかむさ苦しいのと、何人か銃を携帯しているために不穏な空気が漂っていたように思う.

 政治に関する話はさておいて、おそらく我々の多くが微塵も気にしないであろう、想定しうる誤解を解いておきたい.私は新しい知識を、嬉々として(時にドヤ顔で)誰かに伝えんとする少年少女と同じ次元にいる.もしかすれば以下の内容は知る人にとっては全くの古臭い情報である.つまり香味の抜けた酒と大差はない.しかしそんな酒でも酔うことはできる.

 アフガニスタンはパシュトゥーン人やタジク人、ウズベク人などで構成される多民族国家であり、彼らは主にインド・ヨーロッパ語族に属するパシュトー語やダリー語を話す.隣国のイランで話されるペルシア語やパキスタンでのウルドゥー語に似ているらしい.ちなみにインド・ヨーロッパ語族は英語も含まれる.これらは親戚関係にあるということだ.彼らは(宗教的内容を除いて)アラビア語を話さないのである(アラビア語はアフロ・アジア語族である).ただアラビア文字とアラビア語を借用して表記しているだけだ.アラビア文字にいくつか文字を加えて独自性を出しているに過ぎない.彼らの信奉する宗教がアラビア語を基礎とするイスラム教であるせいで人々を混乱させているのだろう.

 アラビア語を勉強して少しわかったことをいえば「タリバン」よりも「ターリバーン」の方が近い.我々が「タリバン」と縮めていうのは英米の報道機関が「Taliban」と短く発音することに起因しているようと思う.ぶっちゃけ「タリバン」の方が言いやすいのはわかる.彼らの表記を示すと「طالبان」で「Ṭālibān」とラテン文字で当てる.どうやらパシュトー語で「学生」の複数形を指すようだ.ところがどっこい、この言葉はアラビア語の借用である.「求める」「注文する」という動詞の基本形は先に述べたように、アラビア語で、

طلب(ṭalaba)

という.Ṭ, L, Bに相当する三つの語根から成り立っている.これを人称化したものが男性単数の場合、

طالب(ṭālib)

と表記する.一応TとṬは発音が異なるので分けて表記していることを断っておく.これが一般的に「学生」と訳されるのだが、「真実を求める者」故に「学生」と訳されるわけだ.さらに格好良く言ってしまえば「求道者」である.へぇ〜、なんかいい感じじゃん.こういうのを若い世代で「エモい」とか「厨二臭い」というのかな.

 さて、時折「神学生」という訳を見かけるが、個人的には意訳か迷訳もしくは妙訳という気がする.神学生というと若干のキリスト教風味がするのは私だけか.このṬālib(ターリブ)を複数形で表記すると、

طُلاّب(ṭulaab)

と、比較的大きく化ける.「テュラアブ」と「ターリバーン」では全く表記も発音も異なるのは一目瞭然だろう.パシュトー語の名詞の複数形がどのように変化するのかは全く検討がつかないが、アラビア語ではほとんどの名詞が不規則な変化をするらしい.これが初学者に煙たがられる所以の一つである.おそらく日本語よりは遥かにマシだ.とりあえずはパシュトゥーン人なりに発音と用法が最適化された結果が「ターリバーン」なのだろうと推測する.

最後に

 今後彼らがどのような政治的決断をしてゆくかはほどほどに注視しておくとして、願わくはこれ以上、爆風で埃と血飛沫が舞い、人々が阿鼻叫喚する様を映像で観たくない.最近は不幸なニュースが多すぎる.幾多もの王朝や文明の交差した山岳地帯の要衝アフガニスタンとして、卓越した文化や価値観の交じる賑やかな風景が、報道で再び映し出されることを私は心から祈念している.

ありがとうございました.

 

 

 

On Melancholy Hill

 気分障碍の歴史

Melancholia, Lucas Cranach der Ältere

 前の記事で、私は「うつ」がよくわからない、と述べた.自身の勉強のためにも、様々な書物を平積みにして少しずつ調べることにした.結果、わからないところも新たに増えた一方で、非常に興味深く理解をすることができたように思う.とはいいつつ今回お話するのは、かなり表層的なところになるので難しくはない.病理の話はそんなにしない.

 うつ、抑うつ(Depression)とは、内因性疾患としてのうつ病と、状態像ないし、症候群としての抑うつ状態の両方を指す.「ぼくはなんだか憂鬱なんです」、というのは状態像であり、「あの症例は『うつ』だと考えられます」は疾患を指す.ややこしいのは名詞と補語が混在しているからだろう.以下は弘文堂の「精神症候学:第二版」からの部分引用になる.この書籍は8200円する大変高価な書籍だが、その値打ち以上の価値がある.ありとあらゆる精神現象が解説されている.今っぽくいうと、マジでやばい.濱田秀伯という学者が著した本だが、西丸四方の「精神医学入門」並の意義がある.この二冊は傑出している.西丸四方の本には貴重な写真が掲載されている、というのも見事である.読み物としても面白い.

 まず日本語での「うつ」について触れてみると、「うつ」という言葉はそもそも「鬱蒼とした密林」の「鬱」であり、これは香草をぎゅうぎゅうに容器に入れて発酵させた、という会意文字らしい.キビヤックのような閉塞感は感じられるが、どちらかといえば、「憂鬱」の「憂」が本質を当てているように思う.角川古語辞典を参照すると、「憂ふ(うれふ)」には、①嘆き悲しみを人に訴える;「からい目を見さぶらいひて.誰にかは憂へ申し侍らむ」(枕草子)(ひどい目にあいまして.どなたに訴え申し上げましょうか)②心を悩ます.思いわずらう;「期する所なきものは、憂へながら止まり居り」(方丈記)「将来に望みのないものは、思い煩いながらとどまっている」③病気で苦しむ.わずらう;「昔は身の病を憂へき、今は人の病を癒やしぬ」(今昔物語)「昔は自身の病気で苦しんだ.今は人の病気を治している」というものがある.これ以上の資料が手元にないが、少なくとも十二世紀までには「憂ふ」という言葉が完成し広まっていたと考えていいだろう.それ以前がどうなっていたかはわからないが、中国医学に由来する用語があっただろうし、それなりの学識があったに違いない.余談だが、紀元前200年頃の文献「黄帝内経」の癲狂篇にはうつ状態、状態と思われる症状記載があるという.

 さて、内因うつ病は誘引のない生物学的発症をし、精神運動制止が強く、体重減少や早朝覚醒、症状の日内変動を伴うという.精神病性うつ病もこれと同義だが、幻覚・妄想、錯乱を伴う重症例に用いることがあると思う.アメリカ精神医学会の編纂したDSM-3以降では内因性うつ病を大うつ病(Major depressive disorder)と呼んでいる.では小うつ病があるかといえば、ない.いい加減である.軽度うつ病(Mild Depression)という言い方はあるようだが、なんだかタバコの銘柄みたいだ.中国ではうつ病を抑郁症、台湾では憂鬱症というらしい.

 内因性うつ病にうつ病相のみを繰り返す単極うつ病、のみあるいはうつ二つの病相を併せ持つ、双極うつ病・双極感情障碍という区別をしたのは、レオンハルトという人物が初めてで、それは1959年のことだという.以来、アングスト、ペリスらが多数例の調査から単極性・双極性の区別を確立した.双極うつ病を、病相を伴うⅠ型と軽を伴うII型に区分する見方は、ダナーの1970年の発表以来であり、後者はDSM-4以降、双極II型障碍として独立項となった.1983年発表のアキスカルという人の概念からは双極II型障碍、気分変調症、気分循環症などを連続体(スペクトラム)と見ることもある.さて、たくさんの人名が出てきて「これはブラウザバックだなァ」と辟易する人がいるかもしれないが全く気にしなくていい.音楽好きが「カート・コバーンが……、キース・リチャードが……、ポール・マッカトニーが……」と言うのと同じ次元にある.

 キールホルツは1971年の発表で、うつ病を身体因、心因、内因の三つに分け、内因を身体因と心因の間に位置づけたが、一般的にはこれを基準にして考えることが多いようだ.つまり、脳卒中のあとに抑うつをきたした場合は身体因を考えるし、軍隊に入って、厳しい教練を機に抑うつをきたせば心因を考える.ではそれ以外何も思い当たらない、いやはやわからないぞ、という場合に内因性を考える、という具合だ.すごく曖昧だから気にしなくていい.日本では1975年に発表された病前性格、発病状況、病像、治療への反応、経過を踏まえた六型に分けた、笠原・木村分類が知られている.これは、みすず書房の「うつ病臨床のエッセンス」に詳しい.良い本だ.参考までに分類をあげておくと、メランコリー性格型うつ病、循環型うつ病、葛藤反応型うつ病、偽循環病型分裂病、悲哀反応、その他にわかれる.ちなみに現在では積極的に用いられていない.メランコリー新和型が生き残っているくらいか.ではメランコリーとはなんであろうか、ということになる.

Melancholia I, Albrecht Dürer

 メランコリー(Melancholie)は抑うつ、うつ病の別名、というのが歴史的経緯を加味して考えると妥当だろう.古代ギリシアのmelancholia、μελαγχολίαから来ている.これは黒胆汁(black bile)のことであり、黒胆汁が鬱滞して症状が起こる、という体液説に基づいている.心配と悲しみの続く患者は黒い胆汁を「ぐぉお’’え’’ぇ~~~!!」と吐いたらしく、そういう人は黒胆汁ともたらす思考と感情の病気にあると考えられた(それどころではないはず).現代の認識で言うと、正常な胆汁の色は黄褐色である.ビリルビン結石ならば真っ黒な色だが、口から出ることは無い.そして胆汁の異常な色は緑や混濁したものになる.今の時代に黒いものを吐いた人がいた場合は、イカスミパスタを食べ過ぎたため…ではなくて、凝固した血液成分が混ざったものを吐いた可能性が考えられるから、医療機関への相談がよさそうだ.

 黒い色、というのは胆汁だけではなく、気分そのものを表象するようになった.おフランスでメランコリーという言葉が用いられたのは十二世紀らしいが、憂鬱をさす表現に、idees noires, broyer du noir, ドイツではSchwarz sehen, イタリアではvedere tutto neroなどがある.青も憂鬱を代表する色で「マリッジブルー」「マタニティブルー」「ブルーマンデー」はよく知られているし、音楽ジャンルの「Blues」はまさに憂いを歌っている.そしてメランコリー(Melancholie)と青い花であるオダマキ(Ancolie)の語呂合わせは詩の定番であったようだ.邦楽のポップスでも「メランコリニスタ」という曲があるし、冒頭の歌詞は「メランコリニスタ 静かなハイで眠れない」という絶妙なセンスである.

 メランコリーという言葉は次第に多義性を帯びる.悲しみだけでなく、あらゆる情熱の過剰と同義語となり、この延長としてピネルという医師の文脈では、一徹な考えに支配された部分精神病を意味し、クレペリンのいうメランコリーは、退行期うつ病の別名となり、コタール症候群や緊張病に発展する妄想性障碍の一種を示した.ややこしいのは有名なフロイトおじさんが、喪失体験の悲哀・憂いをメランコリーと呼んでいることだ.これはややこしい.なぜややこしいのかといえば、シュナイダーというおっさんによる区別のためだ.シュナイダーというのは統合失調症における一級症状というのを提案した人で有名である.メランコリーというのはこれまで述べたテクストでいう内因性のうつに相当する言葉で、原因不明なのに気持ちが晴れ晴れしない状態をいう.一方、1917年にフロイトが行ったのは、愛や依存を喪失する体験に伴う感情をメランコリーと呼んだことであった.気にしないで次へ進もう.

 では現代ではメランコリーはどのように扱うのか.多義性を帯びつつある現代のメランコリーは定義が難しいので、DSM-5の診断基準にも記載(メランコリアの特徴を伴う)がある「メランコリー親和型」を述べておこう.

 テレンバッハ(1961)や下田(1932)という人らは「うつ」になりやすい性格、とうのがあるのではないかと考えた人で、こういう人らは力動的にうつ病になると論じ、執着性性格、メランコリー型(Typus Melancholicus)という気質を挙げた.凝り性、苦労性、律儀、実直な人、秩序志向で良心的な性格が代表的で、この傾向が破綻する主体環境事情即ち状況におかれると、うつ病に至ると考えたのであった.先程述べた笠原・木村分類に出てきたメランコリー性格型うつ病は、下田・テレンバッハの文脈を踏襲している.これは結構説得的で、いまでも一般に流布するうつ病のイメージ像に近いように思う.テレンバッハの指摘したのは、こうした人は「秩序愛」が大きな特徴だ、と述べたことであった.背後には「他者との円満な関係の維持」が中核にあり、その具体的表現は、人と争わない、人と衝突しそうになるときは自分が引く、いやといえない、義理人情、慣習、挨拶を大切にする、などである.彼らは発病以前はなんら内的葛藤を経験しておらず、場合によっては過剰適応といえるくらいの「いい子ちゃん」であるという.仕事などには精力的で凝り性なエネルギーは、発病時には臨床像的には軽的、的に見えるくらいになる(的防衛).発病状況に関してまとめると、転勤・昇進・転職、結婚、転居、負傷、負担の増加、出産、愛するもの・財産の喪失が挙げられるそうで、多くは多重的に起こるという.一般のうつ病は一つの理由で起こるのではないことがわかる.あなたの周りにこのような人はいませんか.

 他方、「マニー」という言葉がある.Moneyのことではなくて、Manie, Maniaのことである.日本でも、何かに熱中して造詣が深いことを「マニア」というだろう.今ではオタクという言い方をするのかな.オタクもだいぶ民主化してきたように思う.「マニアックな言い方をすると……」という言い方も耳にするかもしれない.これは厳密には病の病相のことをいう.気分高揚と意欲増進を主徴とする状態像で、観念奔逸、誇大妄想、刺激性、転導性、抑制消失、逸脱行為を伴う.難しい言葉が並ぶがとりあえず保留しておく.マニーという言葉も古代ギリシアに由来するようで、mania, μανιαはヒポクラテス以前から慢性に経過する発熱のない精神の乱れ、隔離を要する激しい興奮状態をさしたらしい.濱田によればフランス語には十四世紀末に登場するが、十七世紀初頭からは乱暴で奇異な行動に導く、理に合わない極端な考えという意味も併せ持つようになったという.

 Areteo di Cappadocia

 さてさて、マニーとメランコリーの関連を考えてみると、どうやら「カッパドキアのアレタイオス」という人まで遡るようだ.彼は紀元後二世紀ごろの人物で、現在のトルコにあるカッパドキアの市民であったらしく、かつてはローマ帝国の属州であった.広くはギリシア人という理解で良いようだ.この人は精神に限らず様々な症状に関する考察を残しており、糖尿病やセリアック病、喘息、てんかん、肝臓悪性腫瘍に対する記述があるようである.すごいね!十七世紀のウィリス、十九世紀のホーンバウムという人は一人の患者に長短さまざまな周期で悲哀と爽快が交代する、という例を報告している.精神医学においてマニーとメランコリーが一つの疾患体系に組み入れられたのは1854年のファルレーという人物の発表が始まりで、循環狂気と名付けられていたが、バイアルジェという人は重複精神病という言い方をした.同時期に、カールバウムというおじさんが気分循環症として同様の病態を記載した.1899年にクレペリンがうつ病という概念を確立してからは、この呼名が現在も残っている.病院に残っている古いカルテを見ると、MDIという略語があるが、これはドイツ語でいううつ病、Manisch-Depressives Irreseinの略であり、ドイツ医学の名残が感じられる.とはいっても今どきMDIという人はほとんどいないように思うから知っても仕方がない.断っておくと、現在は双極性障碍という言い方がベターだ.

 この双極性障碍という名称は1980年のDSM-3からで、これまでは統合失調症と双璧をなす精神疾患の一つとしてのうつ病から変貌を遂げ、感情調整の障碍の症候群として位置づけられた.上述したように、DSM-4では双極性障碍はI型とII型に分けられているが、このII型という分類はかなり曖昧な枠付であり、おそらく医師の間でもII型の診断には議論が生じるであろう.I型とII型がどのように異なるかはここでは触れないでおく.少なくとも積極的に診断を下すような病名ではないと思う.現在はDSM-5が学会、臨床、法学で多く用いられているが、行政の基準はWHOの策定したICD-10である.すでにICD-11というものがバージョンアップして存在しているが、いまだにICD-10なのだ.DSM-5では双極性障碍の分類はI型、II型に分類されているのに対し、古いICD-10では分類されておらず、双極性障碍はひとくくりとなっている.行政の書類と言えば、診断書はもちろん、非自発的入院の届け出、障碍年金や障碍手帳などであるが、臨床の名称と行政での名称が異なるのは大変な不都合である.最後の方は私のただの愚痴だ.

というわけで

 こうして振り返ると実に多くの人が登場し、闊達に学説を唱えてきたように思う.紀元前から中世、近代までは大きく進歩したわけではなかったが、近代からの学問の発達が凄まじいように感じる.特にフランス・ドイツのブーストが著しいが、私のぼんやりとした感想を言えば、哲学や思想の発展が大きく関与していると思う.それだけではなく、合理主義や科学技術の進歩が宗教性・魔術性、体液説を退けたことも大きいだろう.そこで一つ私が気になっているのは、中東世界における精神医学の歩みである.古代ギリシアの学問が中東に輸入され、以来、イスラム世界はそれをユナニ医学(ギリシアの医学)として発展させたようである.確かにイスハーク・イブン・イムラン、アリー・アル・アッバース・アル・マジュスィらがメランコリーの概念をコンスタンティヌス・アフリカヌスを経て西洋に広めた功績は目覚ましいし、イブン・シーナーのような人物は十一世紀に「医学典範」を著し、この医学が十九世紀まで実践されたというのだから、なかなかあっぱれなのであるが、「本当にそんなものなのか??」という疑問が生じてしまっている.つまり、イスラム世界はずっとガレノスの体液説を信じ続けてきた、というのはにわかには信じがたい、というのが私の率直な感想である.彼らには彼らなりのロジックがあったのではないか?今で言う精神病理学があったのではないか、という気がしているのだ.狂気は悪霊ジンが取り憑いているからだ、という説明では私は満足しない.彼らには彼らの知られざる叡智があるのではないかと私は勝手に期待している.私達がアクセスできる文献で知ることができるのは、西欧と我が国の医学史がほとんどで中東やアフリカはかなり少ないように思う.インドのアーユルヴェーダももちろん気になる.だがインド世界は一度保留しておこう.ではどうするのか、と言われれば自分で調べるしかあるまい.まぁ、ひらがなとカタカナと数千文字の漢字の音訓を覚え、複雑な格助詞の使い方をマスターした我々日本人にとって、正則アラビア語はなんとかなりそうだ、という前向きな気持ちで捉えておこう.アラビア文字はたった28文字しかないのだから.まずはコツコツと地固をして、準備をしておくことにする.

 最後に

 最近はうつ病にも様々なタイプが提唱されている.アキスカル、内海らのSoft Bipolor、非定型うつ病(DSM)、現代型うつ病(松浪)、未熟型うつ病(阿部)、職場結合型うつ病(加藤)、ディスチミア新和型うつ病(樽味、神庭)など.様々な知見が増えていき、議論が活発になるのは良い.だがこれだけあるとなんだかよくわからなくなってくる.いや、ぶっちゃけよくわからない.うつ病百花繚乱にもほどがある.

 だが世界に70億人以上人間がいれば、それだけ呈する気分の波も異なって当然だ.性格や気質は人それぞれだ.似た所もあれば、似てないところもある.あなたの体にコードされている遺伝情報、一塩基がほんの少し違うだけで発病しやすさや、抗うつ薬の反応性も予後も異なるであろうことは、現代の医学が教えてくれている.だから、百年前にすでにうつ病になりやすい性格や気質を試論したテレンバッハや下田らは実に見事であるように思う.ともかく皆さんはメランコリーについてなんとなくわかっていただけただろうか.ここまでお疲れ様でした.ありがとうございました.

 

 

 

語学について

英作文のコツ

 私は以前買った参考書を使って、与えられたテーマに対して賛否を明示し200から240語の小論を書く、という練習を最近やってみることにしている.正直な感想を言うと語学力に関して言えば、これは年齢とあまり逆相関せず、やっただけ成果が現れるという印象を持っている.つまるところ、二年前の自分よりも、去年の自分よりも戦闘力は増しているように思う.提示できる根拠がないのが残念だが.これはただの私の主観なので、どうか真に受けないでいただきたい.

 そもそも与えられた題材に対して、日本語でも全く書くべき内容が思いつかないという悲劇があったが、自分なりに勉強を続けてみたおかげで、とりあえずは英文で文章を完成させるというところに至った.コツはなるべく自分の意見を捨てて、書きやすい論旨で書いてみることだということに気づく.ある人のアドバイスは、経済的利益があるか、環境負荷が低いのか、それは生産性に寄与するのか、という見方で書くと書きやすいぞ、というものであったが、なるほど書きやすい.生産性ジャンキーの拝金主義かつエコロジーコンシャスなビジネスパーソンになったつもりで書くと、思ってもいないことでも多少なりとも筆が動く.例えば、以下のような感じである.よって以下の文章は私の意見を反映していない.

Should the number of weekly hours be decreased?

In Japan, there is a serious problem of labour time. Firstly, Japanese workers are suffering from “Karoshi”, which means “death from overworking”. The excessive working hours cause worsening mental health and contributes the increasing suicide rate of Japanese people. To prevent this situation, I think that we should understand the decrease of our productivity due to mental health issues, and need to know the necessity of strict control of our labour hours.

Secondly, I believe that there is a possibility that low salaries paid to labourers in general elongates the labour hours and relates to the overworking. It is necessary to improve incentives for workers in order to construct an efficient working environment and motivate the labour. If we have to clear this problem, we cannot ignore that there needs to be a proper leadership of government administration, not only just each company’s effort. In my opinion, each of us should firstly be conscious of the matters.

Finally, There may be another opinion that we should increase our labour hours. However, I am afraid that we will no longer be able to increase working time more than forty-hours per week, which will worsen the laboral productivity. I strongly think it is most important that we take good care of our work life balance. Unfortunately, there is still a lack of our self-caring mind in my country.

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Should children be allowed to own and use smartphones?

I agree with the opinion that children should own smartphones. To begin with, there is no reason to restrict the right of having their own gadget in this day and age, I believe. I think that children should have smartphones to improve their quality of life, to make the most of learning skills, and to be conscious of their health. The earlier we get new gadgets like smartphones, the more we are likely to get familiar with new technology. Nowadays we cannot live without new innovation, children are enabled to take advantage of using new devices from their young age.  

I understand that there is a big concern that children may not fully handle digital devices, or they might be involved in cybercrimes such as fraud cases, spams, and other violations. It is indeed that minors have a probability of being exposed to threats of cybercrimes, but I think that it is preventable by appropriate guidance and education of adults. 

In the end, speaking of education, the new technology has contributed to our way of learning and the teaching system. Thanks to innovation, we are now able to study online, at any time, and almost anywhere. I strongly believe that this is a great opportunity to gain knowledge for children in their early time, and this chance will be definitely helpful for all of us, in the mean of future investment.

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Does the mass media have a negative effect on society?

I agree with the opinion that there is a negative effect of mass media. Nowadays, thanks to technological development, we come across plentiful media, such as television, newspapers, radio and social networks. 

Firstly, for those who have smartphones or any portable gadgets, mass media are essential tools for getting news, or making decisions for business, and sharing ideas with other people. Therefore, it is not exaggerating to say that most of us are highly dependent on mass media effects. we should pay attention to not only the contents that the media provide to us, we need to watch carefully on the information they do not broadcast. There are many important things that the media cannot tell, for reasons like political issues, so that we have to understand hidden messages from the contexts.

Secondly, it is well known but we are likely to forget that almost all media are fundamentally supported by sponsors, like huge companies, political parties and many investors. It is quite important for us to realise that some of the information delivered by the media is influenced by their patrons’ policies and ideas. So, we are sometimes unconsciously misled by secretly controlled news which results in unwanted conflicts or disputes. 

Finally, it is deplorable that some people do not think of issues which are broadcasted on the media by themselves, because there are many commentators and experts who speak of concerned matters, as representatives of the audience. People tend to just obey what commentators insist, not to have their own ideas and discuss the matters.

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 今の所、一つのテーマを書くだけでも結構骨が折れるのだが、時折適切な添削を受けつつ、この作業を繰り返してみながらさらっと英文が書けるような思考訓練をしてみたいと思う.適切な添削については別の機会で述べたい.上記に関して文法の誤りがあればぜひコメントでお寄せください.

辞書のありがたみ

 なぜ、こんなことをするのかと問われれば、おそらく理由は限られる.まずはやってて楽しい!これに勝る動機づけはない.私は英語に限らず語学が好きなのだと思う.もし私が医師でなければ、おそらく私は亡者のような姿でニコニコしながら人文系の勉強をしていた可能性が高い.そんなわけで私は同時並行でアラビア語をも学習中なわけであるが、この言語を学習するにおいて英語の知識がかなり役に立つと気づいた.現在日亜対訳の辞書は初級者向けのものを除いてまともな辞書がない.オンラインでは「アラビア語検索エンジン アラジン」というものがあるのだが、オフラインでは使えないことが難点である.日本に紙の辞書がないことが悲しい.英亜であれば、しっかりとした辞書が存在する.しかし現在日本にはあまり流通していないし、入手は極めて困難であるという.外語大生も困っているとか.これマジ?

 しかし、幸いなるかな.自分の持っているMacintoshの標準アプリには辞書がある.Oxford Arabic Dictionaryにはいつもお世話になっている.Oxford Dictionary of English, Oxford Thesaurus of English, 大辞林、ウィズダム英和辞典.これらは大変な名脇役である.なぜか.これら言語辞書が無償で使えるからである.この機能を標準で搭載する意義がわかってもらえたらすごく嬉しい.これは本当の本当に大事なことで、PCの電源が生きている限り、私は安心してどこででも語学の勉強ができる.三浦しをん氏の作品に「舟を編む」という辞書編集部の奮闘を綴ったものがあったが、題名の通りまさしく一冊の辞書は言葉の海を揺蕩う一艘の舟だと思う.Macintoshにはその舟が何艘もあるのだ.無敵艦隊かな?

 ほかのPCにこれだけの辞書機能がついているかは寡聞にして知らないが、私個人の意見を言えば、Macintoshの最も良いところはこれら辞書がついていることに限る.願わくば、iPhoneにも辞書を標準搭載してほしいくらいだ.

 話を戻すと、英語が多少ともわかれば、PCの英亜辞書を使って単語を調べることができる、ということになる.オンライン環境が許せば、Google翻訳も大活躍してくれる.特に作文する際には重宝する.この場合、日亜よりも英亜の方が比較がしやすいように感じている.おそらくは、前置詞や定冠詞が英亜では存在することが関係するのかもしれない.唯一の難点は発音なのであるが、この問題のトラブルシューティングについては前述した英作文の添削の話題と合わせて後日お伝えできれば良いと思う.

 究極的には、英亜両方の言語で作文がある程度自在にできることが目標になるだろうか.もちろんあらゆる文学作品を味わってみたいし、アラブ世界を旅行して自分たちだけの体験をしてみたいという気持ちも強い.とりあえずは現地の人とアラビア語で交渉してみて、だめなら英語に切り替える、ような選択肢ができたらいいなと思う.英語に関する当面の目標はCEFR(Common European Framework of Reference for Languages)でいうC1を目指したいと思う.アラビア語に関する目標設定は難しいところではあるが、正則アラビア語を読み書きできるようになれると最高だろう.この語学学習を私の生涯の道楽としてずっとやっていきたいと思っている今日このごろである.そしてこのブログを勉強の成果を公開する場所とし、良い緊張感を作れたらいいかなとも考えている.

 

  

くちなしの花

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サイゼリヤ問題

 アラビア語の勉強を続けて一年近く経つのだが、思いの外面白い.空いた時間に参考書と辞書を開いて、練習問題を解きつつウンウン唸っては「ユーリカ!」と腑に落ちる感覚を味わう作業を繰り返している.見知った言葉がアラビア語に由来すると知ると、さらに詮索をしてしまって、肝心な勉強が進まなくなることもしばしばだ.最近私はとある言葉に出くわして、その言葉の音の類似性に興味を惹かれた.

 薬局のことをアラビア語で「صيدلية」( ṣaydaliyya)という.ざっくりとカタカナ表記すれば「サイダリィーヤ」と読む.初めて聞いた時は「ふーん、そうなんだ」程度に思っていたのだが、よく考えると「ん?どこかで聞いたことがあるなぁ」と考えを改めた.

 そう(?)、「イタリアンワイン&カフェレストラン」、サイゼリヤである.日本のみならず海外展開もしているサイゼリヤはリーズナブルな値段でイタリア料理を味わえるファミリーレストランの店舗名になるが、どうやら本社はこの「サイゼリヤ」の名前の由来を「くちなしの花」だとしている.それも「イタリア語(古語)」らしい.(私が再度確認しようとした所、この説明は公式ページから消えてしまった.)

 それは本当なのだろうか.と思い、くちなしを辞書で調べることにする.まずイタリア語は「gardenia」 (ɡɑːˈdiːnɪə)という.英語もgardeniaという.ロシア語でもフランス語でもドイツ語でもgardeniaという.アラビア語でも「غاردينيا」(gardiniya)という.皆一緒だ.なぜこの名前なのかをたどると、十八世紀のスコットランド生まれの米国人植物学者、アレクサンダー・ガーデン博士(Dr. Alexander Garden)に由来するようだ.家族の姓をラテン語にしたものであるという.それは良いのだが、それまでこの植物には欧風の名前がなかったのだろうか.ちょっと気になる.

 というのもくちなしの花の原産は東アジアであるからだ.中国語では梔子(zhi-zi)というので、およそサイゼリヤとほど遠い.歴史的には中国の宋朝にくちなしに関する最古の記述があるので時を経て欧州に輸出されたようである.やがて十八世紀にはアメリカまで渡った.

 そもそも「イタリア語(古語)」という説明が妙だ.古語はラテン語ではないのか.と思ったら同じような人がいて安心した.十年前のブログに同じ疑問を抱いた人がいて、その人はサイゼリヤのカスタマーサポートに問い合わせたのだそうだが、なんという行動力!これぞ行動力の化身.サポート側も大いに困惑したであろう.「イタリア語の古語はラテン語なのか」「綴りは何だ」「出典はどこだ」と尋ねるあたり私と気が合いそうな人ではあるが、大学のゼミじゃないのだから答えられる人はほとんどいまい.

 その奇特な人はさらに調べ上げ、「cytherea」という単語に行き着く.様々な植物の学名に「cytherea」がつくことがあるらしいのだと言及して力尽きてしまう.これは美の女神アフロディテの別名でもあり、ギリシア、ペロポネソス半島の南の島、キティラ島の英名でもある(Kythira).語源はもちろんギリシア語である.これをイタリアではCerigo(チェリゴ)というので元とは全く異なる.だが、これを英米では美の女神にあやかって「シセリア」「サイセリア」という女性の名前で用いることがあるようだ.実際にサイセリアという女優が実在することを確認した.「i」や「y」を「ʌɪ」と読むのは英米の習わしだろう.特に後者ならだいぶ「サイゼリヤ」に近い.「th」音を「ザ行」で当てるのも無理はない.これはなかなか良い線を行っているのではないか.

 ここでアラビア語に話を戻すと、「صيدلية」( ṣaydaliyya)という言葉は「صيدل」という四文字の語根からなる.アラビア語はヘブライ語と同じくアブジャド(単子音文字 consonantary)であるから、三、四の子音を基礎として接頭辞や接尾辞を加えて名詞や動詞にするわけである.よくわからない方は聖書における唯一神を「YHWH」とすべて子音で表記するのを思い出していただければいいと思う.もしくは一部のインターネット界隈で知られる「TDN表記」が参考になるだろう.

 さて「صيدل」という語根は「薬理」を表すようである.学問なら薬理学、場所なら薬局や調剤所、人なら薬剤師や薬理学者を表す.おそらく植物やアフロディーテとはなんら関係がない.いわんやくちなしの花をや.たまたま音が似ていただけなのだろう.(究極的に詰めるにはアラム語やフェニキア語まで頑張るしかないが)決定的に異なるのは、「サイゼリヤ」における「saizeriya」の「R」だ.日本人は「R」と「L」を区別できないが、外国の人々は明確に区別する.「صيدلية」( ṣaydaliyya)は「L」であるから語源が異なることは推察がつくのだが、もし仮にアラビア語起源説が真であるとすれば、我々のガバガバリスニングによって「saizeriya」表記が成立してしまった線は最後まで否定できなかった.私の中で以下の判断を下すのには時間がかかった.

 以上から、私は「サイゼリヤ」問題に関して次のように予想を立ててみる.まず、「サイゼリヤ」は「くちなしの花」には由来しないだろう、ということ.説明に破綻をきたす.よって私は美の女神「cytherea」から着想を得て「サイセリア」から「サイゼリヤ」へ転記した可能性を推したい.

 命名者の立場で推測をしてみよう.命名者は新しいレストランの名前の構想を練っていた.とある植物の学名に「cytherea」というのがあり、英米人経由でそれを「サイゼリア」と読むのを知る.なぜか本人の中ではそれがイタリア語で「くちなしの花」だと勘違いをする.そして新規立ち上げのレストランに「サイゼリヤ」と命名した.

 実際の真偽はわからない.公式サイトは「サイゼリヤ」の名前の由来を掲載していたのだが、いつの間にか消してしまったのだ.なぜ消してしまったのだろうか.やはりくちなしの花ではなかったのだろうか.企業側も一貫性のある説明をくちなしの花に求めることは難しいと判断したのだろうか.このような疑問を「どうでもいい」と思う人は多いと私は予想する一方、公式が消したからには何かしら理由があると思う.「どうでもよくないから」こそ消したのだと考えてしまう.皮肉にも急に口をつぐんでしまったサイゼリヤはくちなしの暗喩になってしまった.

 言葉を勉強していると、思いがけず言葉の由来や隠された意味に興味が湧くことがある.さきほどの「صيدلية」とサイゼリヤのように、アラビア語で「ポルトガル」と「オレンジ」の発音はものすごく良く似ている.似ているようで全然違うこともあれば、語源が同一のこともよくある.言葉がたどってきた変遷に思いを馳せるのは楽しい.先人が紡いだ言葉には物語があるのを切に感じる.何気なく言葉を発する時、記すとき、私たちはその物語を再構成しているのかもしれない.私がアラビア語に手を出した理由はその言語が持つ独特の物語性に惹かれたのもある.またいつかお話ができれば良い.

ここまで読んでくださりどうもありがとうございました.