On Melancholy Hill

 気分障碍の歴史

Melancholia, Lucas Cranach der Ältere

 前の記事で、私は「うつ」がよくわからない、と述べた.自身の勉強のためにも、様々な書物を平積みにして少しずつ調べることにした.結果、わからないところも新たに増えた一方で、非常に興味深く理解をすることができたように思う.とはいいつつ今回お話するのは、かなり表層的なところになるので難しくはない.病理の話はそんなにしない.

 うつ、抑うつ(Depression)とは、内因性疾患としてのうつ病と、状態像ないし、症候群としての抑うつ状態の両方を指す.「ぼくはなんだか憂鬱なんです」、というのは状態像であり、「あの症例は『うつ』だと考えられます」は疾患を指す.ややこしいのは名詞と補語が混在しているからだろう.以下は弘文堂の「精神症候学:第二版」からの部分引用になる.この書籍は8200円する大変高価な書籍だが、その値打ち以上の価値がある.ありとあらゆる精神現象が解説されている.今っぽくいうと、マジでやばい.濱田秀伯という学者が著した本だが、西丸四方の「精神医学入門」並の意義がある.この二冊は傑出している.西丸四方の本には貴重な写真が掲載されている、というのも見事である.読み物としても面白い.

 まず日本語での「うつ」について触れてみると、「うつ」という言葉はそもそも「鬱蒼とした密林」の「鬱」であり、これは香草をぎゅうぎゅうに容器に入れて発酵させた、という会意文字らしい.キビヤックのような閉塞感は感じられるが、どちらかといえば、「憂鬱」の「憂」が本質を当てているように思う.角川古語辞典を参照すると、「憂ふ(うれふ)」には、①嘆き悲しみを人に訴える;「からい目を見さぶらいひて.誰にかは憂へ申し侍らむ」(枕草子)(ひどい目にあいまして.どなたに訴え申し上げましょうか)②心を悩ます.思いわずらう;「期する所なきものは、憂へながら止まり居り」(方丈記)「将来に望みのないものは、思い煩いながらとどまっている」③病気で苦しむ.わずらう;「昔は身の病を憂へき、今は人の病を癒やしぬ」(今昔物語)「昔は自身の病気で苦しんだ.今は人の病気を治している」というものがある.これ以上の資料が手元にないが、少なくとも十二世紀までには「憂ふ」という言葉が完成し広まっていたと考えていいだろう.それ以前がどうなっていたかはわからないが、中国医学に由来する用語があっただろうし、それなりの学識があったに違いない.余談だが、紀元前200年頃の文献「黄帝内経」の癲狂篇にはうつ状態、躁状態と思われる症状記載があるという.

 さて、内因うつ病は誘引のない生物学的発症をし、精神運動制止が強く、体重減少や早朝覚醒、症状の日内変動を伴うという.精神病性うつ病もこれと同義だが、幻覚・妄想、錯乱を伴う重症例に用いることがあると思う.アメリカ精神医学会の編纂したDSM-3以降では内因性うつ病を大うつ病(Major depressive disorder)と呼んでいる.では小うつ病があるかといえば、ない.いい加減である.軽度うつ病(Mild Depression)という言い方はあるようだが、なんだかタバコの銘柄みたいだ.中国ではうつ病を抑郁症、台湾では憂鬱症というらしい.

 内因性うつ病にうつ病相のみを繰り返す単極うつ病、躁のみあるいは躁うつ二つの病相を併せ持つ、双極うつ病・双極感情障碍という区別をしたのは、レオンハルトという人物が初めてで、それは1959年のことだという.以来、アングスト、ペリスらが多数例の調査から単極性・双極性の区別を確立した.双極うつ病を、躁病相を伴うⅠ型と軽躁を伴うII型に区分する見方は、ダナーの1970年の発表以来であり、後者はDSM-4以降、双極II型障碍として独立項となった.1983年発表のアキスカルという人の概念からは双極II型障碍、気分変調症、気分循環症などを連続体(スペクトラム)と見ることもある.さて、たくさんの人名が出てきて「これはブラウザバックだなァ」と辟易する人がいるかもしれないが全く気にしなくていい.音楽好きが「カート・コバーンが……、キース・リチャードが……、ポール・マッカトニーが……」と言うのと同じ次元にある.

 キールホルツは1971年の発表で、うつ病を身体因、心因、内因の三つに分け、内因を身体因と心因の間に位置づけたが、一般的にはこれを基準にして考えることが多いようだ.つまり、脳卒中のあとに抑うつをきたした場合は身体因を考えるし、軍隊に入って、厳しい教練を機に抑うつをきたせば心因を考える.ではそれ以外何も思い当たらない、いやはやわからないぞ、という場合に内因性を考える、という具合だ.すごく曖昧だから気にしなくていい.日本では1975年に発表された病前性格、発病状況、病像、治療への反応、経過を踏まえた六型に分けた、笠原・木村分類が知られている.これは、みすず書房の「うつ病臨床のエッセンス」に詳しい.良い本だ.参考までに分類をあげておくと、メランコリー性格型うつ病、循環型うつ病、葛藤反応型うつ病、偽循環病型分裂病、悲哀反応、その他にわかれる.ちなみに現在では積極的に用いられていない.メランコリー新和型が生き残っているくらいか.ではメランコリーとはなんであろうか、ということになる.

Melancholia I, Albrecht Dürer

 メランコリー(Melancholie)は抑うつ、うつ病の別名、というのが歴史的経緯を加味して考えると妥当だろう.古代ギリシアのmelancholia、μελαγχολίαから来ている.これは黒胆汁(black bile)のことであり、黒胆汁が鬱滞して症状が起こる、という体液説に基づいている.心配と悲しみの続く患者は黒い胆汁を「ぐぉお’’え’’ぇ~~~!!」と吐いたらしく、そういう人は黒胆汁ともたらす思考と感情の病気にあると考えられた(それどころではないはず).現代の認識で言うと、正常な胆汁の色は黄褐色である.ビリルビン結石ならば真っ黒な色だが、口から出ることは無い.そして胆汁の異常な色は緑や混濁したものになる.今の時代に黒いものを吐いた人がいた場合は、イカスミパスタを食べ過ぎたため…ではなくて、凝固した血液成分が混ざったものを吐いた可能性が考えられるから、医療機関への相談がよさそうだ.

 黒い色、というのは胆汁だけではなく、気分そのものを表象するようになった.おフランスでメランコリーという言葉が用いられたのは十二世紀らしいが、憂鬱をさす表現に、idees noires, broyer du noir, ドイツではSchwarz sehen, イタリアではvedere tutto neroなどがある.青も憂鬱を代表する色で「マリッジブルー」「マタニティブルー」「ブルーマンデー」はよく知られているし、音楽ジャンルの「Blues」はまさに憂いを歌っている.そしてメランコリー(Melancholie)と青い花であるオダマキ(Ancolie)の語呂合わせは詩の定番であったようだ.邦楽のポップスでも「メランコリニスタ」という曲があるし、冒頭の歌詞は「メランコリニスタ 静かなハイで眠れない」という絶妙なセンスである.

 メランコリーという言葉は次第に多義性を帯びる.悲しみだけでなく、あらゆる情熱の過剰と同義語となり、この延長としてピネルという医師の文脈では、一徹な考えに支配された部分精神病を意味し、クレペリンのいうメランコリーは、退行期うつ病の別名となり、コタール症候群や緊張病に発展する妄想性障碍の一種を示した.ややこしいのは有名なフロイトおじさんが、喪失体験の悲哀・憂いをメランコリーと呼んでいることだ.これはややこしい.なぜややこしいのかといえば、シュナイダーというおっさんによる区別のためだ.シュナイダーというのは統合失調症における一級症状というのを提案した人で有名である.メランコリーというのはこれまで述べたテクストでいう内因性のうつに相当する言葉で、原因不明なのに気持ちが晴れ晴れしない状態をいう.一方、1917年にフロイトが行ったのは、愛や依存を喪失する体験に伴う感情をメランコリーと呼んだことであった.気にしないで次へ進もう.

 では現代ではメランコリーはどのように扱うのか.多義性を帯びつつある現代のメランコリーは定義が難しいので、DSM-5の診断基準にも記載(メランコリアの特徴を伴う)がある「メランコリー親和型」を述べておこう.

 テレンバッハ(1961)や下田(1932)という人らは「うつ」になりやすい性格、とうのがあるのではないかと考えた人で、こういう人らは力動的にうつ病になると論じ、執着性性格、メランコリー型(Typus Melancholicus)という気質を挙げた.凝り性、苦労性、律儀、実直な人、秩序志向で良心的な性格が代表的で、この傾向が破綻する主体環境事情即ち状況におかれると、うつ病に至ると考えたのであった.先程述べた笠原・木村分類に出てきたメランコリー性格型うつ病は、下田・テレンバッハの文脈を踏襲している.これは結構説得的で、いまでも一般に流布するうつ病のイメージ像に近いように思う.テレンバッハの指摘したのは、こうした人は「秩序愛」が大きな特徴だ、と述べたことであった.背後には「他者との円満な関係の維持」が中核にあり、その具体的表現は、人と争わない、人と衝突しそうになるときは自分が引く、いやといえない、義理人情、慣習、挨拶を大切にする、などである.彼らは発病以前はなんら内的葛藤を経験しておらず、場合によっては過剰適応といえるくらいの「いい子ちゃん」であるという.仕事などには精力的で凝り性なエネルギーは、発病時には臨床像的には軽躁的、躁的に見えるくらいになる(躁的防衛).発病状況に関してまとめると、転勤・昇進・転職、結婚、転居、負傷、負担の増加、出産、愛するもの・財産の喪失が挙げられるそうで、多くは多重的に起こるという.一般のうつ病は一つの理由で起こるのではないことがわかる.あなたの周りにこのような人はいませんか.

 他方、「マニー」という言葉がある.Moneyのことではなくて、Manie, Maniaのことである.日本でも、何かに熱中して造詣が深いことを「マニア」というだろう.今ではオタクという言い方をするのかな.オタクもだいぶ民主化してきたように思う.「マニアックな言い方をすると……」という言い方も耳にするかもしれない.これは厳密には躁病の病相のことをいう.気分高揚と意欲増進を主徴とする状態像で、観念奔逸、誇大妄想、刺激性、転導性、抑制消失、逸脱行為を伴う.難しい言葉が並ぶがとりあえず保留しておく.マニーという言葉も古代ギリシアに由来するようで、mania, μανιαはヒポクラテス以前から慢性に経過する発熱のない精神の乱れ、隔離を要する激しい興奮状態をさしたらしい.濱田によればフランス語には十四世紀末に登場するが、十七世紀初頭からは乱暴で奇異な行動に導く、理に合わない極端な考えという意味も併せ持つようになったという.

 Areteo di Cappadocia

 さてさて、マニーとメランコリーの関連を考えてみると、どうやら「カッパドキアのアレタイオス」という人まで遡るようだ.彼は紀元後二世紀ごろの人物で、現在のトルコにあるカッパドキアの市民であったらしく、かつてはローマ帝国の属州であった.広くはギリシア人という理解で良いようだ.この人は精神に限らず様々な症状に関する考察を残しており、糖尿病やセリアック病、喘息、てんかん、肝臓悪性腫瘍に対する記述があるようである.すごいね!十七世紀のウィリス、十九世紀のホーンバウムという人は一人の患者に長短さまざまな周期で悲哀と爽快が交代する、という例を報告している.精神医学においてマニーとメランコリーが一つの疾患体系に組み入れられたのは1854年のファルレーという人物の発表が始まりで、循環狂気と名付けられていたが、バイアルジェという人は重複精神病という言い方をした.同時期に、カールバウムというおじさんが気分循環症として同様の病態を記載した.1899年にクレペリンが躁うつ病という概念を確立してからは、この呼名が現在も残っている.病院に残っている古いカルテを見ると、MDIという略語があるが、これはドイツ語でいう躁うつ病、Manisch-Depressives Irreseinの略であり、ドイツ医学の名残が感じられる.とはいっても今どきMDIという人はほとんどいないように思うから知っても仕方がない.断っておくと、現在は双極性障碍という言い方がベターだ.

 この双極性障碍という名称は1980年のDSM-3からで、これまでは統合失調症と双璧をなす精神疾患の一つとしての躁うつ病から変貌を遂げ、感情調整の障碍の症候群として位置づけられた.上述したように、DSM-4では双極性障碍はI型とII型に分けられているが、このII型という分類はかなり曖昧な枠付であり、おそらく医師の間でもII型の診断には議論が生じるであろう.I型とII型がどのように異なるかはここでは触れないでおく.少なくとも積極的に診断を下すような病名ではないと思う.現在はDSM-5が学会、臨床、法学で多く用いられているが、行政の基準はWHOの策定したICD-10である.すでにICD-11というものがバージョンアップして存在しているが、いまだにICD-10なのだ.DSM-5では双極性障碍の分類はI型、II型に分類されているのに対し、古いICD-10では分類されておらず、双極性障碍はひとくくりとなっている.行政の書類と言えば、診断書はもちろん、非自発的入院の届け出、障碍年金や障碍手帳などであるが、臨床の名称と行政での名称が異なるのは大変な不都合である.最後の方は私のただの愚痴だ.

というわけで

 こうして振り返ると実に多くの人が登場し、闊達に学説を唱えてきたように思う.紀元前から中世、近代までは大きく進歩したわけではなかったが、近代からの学問の発達が凄まじいように感じる.特にフランス・ドイツのブーストが著しいが、私のぼんやりとした感想を言えば、哲学や思想の発展が大きく関与していると思う.それだけではなく、合理主義や科学技術の進歩が宗教性・魔術性、体液説を退けたことも大きいだろう.そこで一つ私が気になっているのは、中東世界における精神医学の歩みである.古代ギリシアの学問が中東に輸入され、以来、イスラム世界はそれをユナニ医学(ギリシアの医学)として発展させたようである.確かにイスハーク・イブン・イムラン、アリー・アル・アッバース・アル・マジュスィらがメランコリーの概念をコンスタンティヌス・アフリカヌスを経て西洋に広めた功績は目覚ましいし、イブン・シーナーのような人物は十一世紀に「医学典範」を著し、この医学が十九世紀まで実践されたというのだから、なかなかあっぱれなのであるが、「本当にそんなものなのか??」という疑問が生じてしまっている.つまり、イスラム世界はずっとガレノスの体液説を信じ続けてきた、というのはにわかには信じがたい、というのが私の率直な感想である.彼らには彼らなりのロジックがあったのではないか?今で言う精神病理学があったのではないか、という気がしているのだ.狂気は悪霊ジンが取り憑いているからだ、という説明では私は満足しない.彼らには彼らの知られざる叡智があるのではないかと私は勝手に期待している.私達がアクセスできる文献で知ることができるのは、西欧と我が国の医学史がほとんどで中東やアフリカはかなり少ないように思う.インドのアーユルヴェーダももちろん気になる.だがインド世界は一度保留しておこう.ではどうするのか、と言われれば自分で調べるしかあるまい.まぁ、ひらがなとカタカナと数千文字の漢字の音訓を覚え、複雑な格助詞の使い方をマスターした我々日本人にとって、正則アラビア語はなんとかなりそうだ、という前向きな気持ちで捉えておこう.アラビア文字はたった28文字しかないのだから.まずはコツコツと地固をして、準備をしておくことにする.

 最後に

 最近はうつ病にも様々なタイプが提唱されている.アキスカル、内海らのSoft Bipolor、非定型うつ病(DSM)、現代型うつ病(松浪)、未熟型うつ病(阿部)、職場結合型うつ病(加藤)、ディスチミア新和型うつ病(樽味、神庭)など.様々な知見が増えていき、議論が活発になるのは良い.だがこれだけあるとなんだかよくわからなくなってくる.いや、ぶっちゃけよくわからない.うつ病百花繚乱にもほどがある.

 だが世界に70億人以上人間がいれば、それだけ呈する気分の波も異なって当然だ.性格や気質は人それぞれだ.似た所もあれば、似てないところもある.あなたの体にコードされている遺伝情報、一塩基がほんの少し違うだけで発病しやすさや、抗うつ薬の反応性も予後も異なるであろうことは、現代の医学が教えてくれている.だから、百年前にすでにうつ病になりやすい性格や気質を試論したテレンバッハや下田らは実に見事であるように思う.ともかく皆さんはメランコリーについてなんとなくわかっていただけただろうか.ここまでお疲れ様でした.ありがとうございました.

 

 

 

もう一年

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 分け入っても分け入っても

 このブログを開設してもうすぐ一年になる.読んでくださっている方、いつもありがとうございます.今後ともご贔屓いただければ幸いである.二年目の目標は特にないので、これまで通り淡々と書いていくことにする.変に気負ってしまうのはだめだ.

 一応、数字で振り返りをすると一年間で7065 PV(ページビュー;記事閲覧数)、 1626人が訪れたらしい.そのうちデスクトップPCユーザーは52.8% モバイルは41.8%、タブレットは5.4%であった(2021年6月2日現在).このサイトの閲覧はデスクトップPCがオススメである.ダークモードで色調を反転させるとなお良いと思う.だらだらしながら鼻をほじったり、背中を掻いたり、眼をこすりながら貧乏ゆすりをして読むとさらに良い.ブログとはそんなもので良い.89%の人が日本からのアクセスで、それ以外は国外からの閲覧であった.物好きにもほどがある.いつもありがとうございます.米領サモアやアゼルバイジャンからのアクセスがあったのは興味深い.上の数値が他のブログと比べてどうなのか、私は全く興味がないのでこれ以上の分析はしない.

 最も多く読まれた記事は「症例アンネ・ラウ」であった.この記事の底となったのはブランケンブルクによる「自明性の喪失」であるが、私にとっても革命的な著作であり、猛烈な感興を得ただけに望外の喜びとなった.実臨床においても、私は統合失調症という疾患群に「自明性と非自明性と弁証法的関係の破綻」という病理を再認識できたのであった.

 私は今までの一度も「あぁ、今回は良い記事が書けたナァ」と感慨に耽ることはなくて、「今度もうまくいかなかったナァ」という気持ちで投稿をする.一つの記事は自分なりに相当下調べをして、何度も何時間も文章を推敲しているはずなのであるが、一つとして「満足する文章」にはなった試しがない.投稿してからまもなく誤字脱字を発見するのは一種のジンクスであり、悲しみである.ともあれ、このブログを読んでいる人がどんな素性の方かさっぱりわからないので、各人がどのような感想を抱いておられるか率直に訊いてみたいところである.私にとって満足いかないものであっても、少なからず誰かを飽きさせないのであれば、筆者冥利に尽きるほかない.

 このようなインターネット記事の書き方については、多くの先達ブロガーの方法論が役に立った.まずブログを書くには「誰の、どんな問題を解決するか」という目標を設定することが重要であるらしい.界隈ではこの人称設定をなぜか「ペルソナ」と呼ぶ.これについてはかなり悩んだのだが、さんざん考えた結果、「私自身の、世界に深く根ざしている精神現象、ひいては精神病理の問題を理解すること」ということに行き着いた.いや、行き着いてしまった.私は、広く遍くすべての(日本語を解する)人々のためになるような記事を目指して書いていたつもりが、やはり、結局は自分自身のために書いていたことに気づいた.これは過去の記事「告白」に詳しい.大乗仏教を目指す僧侶が上座部仏教へ転向するような不思議な現象である.ペルソナは私なのであった.衆生救済はもちろん大切なのだが、一方で自身を研ぎ澄ますことが畢竟大切なのであって、この一種の投影とも言える心理的な動きをきちんと受容しつつ、自身の病理と対峙したいと思う.ユング的に言えば、シャドウとの対決とも言えるのかもしれない.

 ブログの広告収入(Google AdSense)に少し言及する.Googleの規約では収益の金額を詳細に述べてはいけないらしい.「株式会社やおきん」の「うまい棒」で例えることにすると、現時点で一般的な浴槽に「うまい棒」数百本以上が入るくらいになった.これではよくわからない、という方は近所のスーパーマーケットに行って、バラ売りの「うまい棒」の単価を調べていただければ金額の見積もりができるだろう.金銭収入を狙ったブログではないのでこれ以上は触れない.

 話を戻すと、精神病理学の問題とはなんだろうか、という問が次に出てくると思う.これは人によって意見が割れるだろうが、私なりの問題を提示すれば、例えば「不安」とはなんだろうか、だとか、「うつ病」とはなんだろうか、という疑問を深堀りすることにある.別の言い方をすると、より解像度を上げるとか、微分する、ということになるのかもしれない.簡単に言えば、もっとよく考えてみたい、ということになる.別に高尚なことをしているわけではない.私にとって生き延びるためには必要なのである.

「お前さぁ、そういう仕事してるんだったらさぁ、『不安』だとか『うつ』を知らないはずがないだろう」

 と誰か偉い先生からお叱りを受けそうではあるが、種田山頭火の言葉を借りれば、精神病理学は「分け入っても分け入っても青い山」であり、知ろうとすればするほどわからなくなる.これは他の学問の求道者でも同じことが言えるだろう.特に精神病理の山は鬱蒼としている.実に「うつ」というのは説明が難しい.私が実際に体験してしまったにも関わらず、である.哀哉.

 たとえ話を考えてみる.「精神医学」という途方も無い山中の道程に分かれ道があったとしよう.どれを選ぼうかと考えてガイドブックを読むと「メランコリの嚆矢、テレンバッハは左を選んだということになっている」、「力動論のヤンツァーリクは右を選んだらしい」、「笠原・木村分類で知られる木村はまっすぐ行ったとされる」、「精神分析家のラカンによれば、一度下山してからやや左向きに進路を取り、更に右に90度向いてから100メートルまっすぐ歩いていったとかそうでないとか……」 

 とにかく私の知らないような学派・学説がゴニョゴニョ存在し、グネグネ枝分かれしていて、よくわからないことになっている.この難解さをどのように形容すべきか.

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
道は僕のふみしだいて來た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何といふ曲りくねり
迷ひまよつた道だらう

高村光太郎、「美の廃墟」より「道程」、一部抜粋、1914年

 道は自分で切り拓くしか無い.しかし登りきった山からの眺望は格別である.一度でも山に登ったことのある人はわかっていただけると思う.ちなみに高村光太郎の「道程」は102行の詩も見事なのでぜひ全文を読んでいただきたい.

知らないことを知らないと言う

 国内外で知名度の高い人が精神疾患を公表する、という事象があると一定の人々はそれなりに無邪気な好奇心と関心を寄せつつ、彼らの関心領域をより広げようとする.病名を公表する、という行動が当人の自由意志に基づくのであればそれは大変勇敢なことであり、公表に至るまで葛藤と逡巡が交錯し緊張に苛まれる日々が続いたであろうと思う.この選択と決断が当事者の事態好転の契機となることを願っている.

 そのことに関して、妻とも議論をしたのだが二人で懸念していることがある.精神科医や産業医、心療内科を標榜する医師・専門家がメディアの取材に応じ、精神疾患について解説を行う場合だ.その専門家が有名人の罹患しているとされる人の疾患について説明する.特に問題なさそうではあるが、一つの陥穽があるように思う.その解説者が有名人の診察を行った人で無い限り、その人について語ることはできないはずである.あくまでも教科書的な概論しか言えないはずだ.その人がどんなに高名な専門家であろうと、その人は当人の一体何を知っているのだろうか、という疑問が生じる.付言すれば、診療に関わった人であれば、当人の守秘義務が生じるため、どの道語ることはできないはずだ.「この人のうつ病は現代人のうつだと思いますねぇ」という発言は全く根拠がない.ただの感想でしかない.その無関係な人物の無責任な発言が流言飛語となってしまうことがあれば、それは災害級の暴力性を持ちかねない.という私の文章もただの感想なのであるから、自己耽溺に陥る可能性は承知している.「語り得ないものには沈黙せねばならない」、ある人の言葉が胸を打つ.

 特に、精神現象を定量する術を知らぬ我々は、人々の病理を症候の観察と記述でしか表現できないのであるから、人が放つ一つひとつの言葉の重みは計り知れない.その計り知れない重さの重みを慮ることのできない人は、私に言わせれば卑劣漢か無能でしかない.知る由のないことは語るべきではない.まずは自身の器量が許す限り、諮問を求める人に自身の能力を注ぐべきだと考えている.一定の影響力を行使する人間はその力の射程を十分に検討しなければならないと、切に思う.

信頼できる先生はいますか

 私が以前の職場にいた頃、医局のボスが臨床実習へ来た医学生への講義で「ぜひ生涯で信頼できる精神科医と知り合いになってください」と言っていたのを盗み聞きしたことが印象に残っている.つまりは「あなた方学生が将来、内科や外科の医者になるとしても、精神科の問題は避けて通れない.だから気軽に相談できて、適切な助言をくれる精神科医と知己になっておくと良いですよ」ということだ.これを聞いた精神科側の自分としては自然と背筋が伸びるような、自律心を鼓舞されるような感覚で、自分が信頼に資するかどうかは私自身のraison d’êtreに関わっているように思った.勝手に私は極めて重要な責務を感じたのであった.

 この言葉は、のちに私にとって別の意味で重要な課題となった.自身が患者として信頼できる精神科の医者を見つける、ということはすごく難しいことであった.一期一会、という言葉よりもより現代的で俗っぽく言えば、ガチャに近い.傷心の中、重い体を引きずってなんとかたどり着いた先の診察室で、信頼できる医師に出会うことができる人は幸運だ.精神科・心療内科クリニック群雄割拠の時代に、存在するすべての精神科医が適当な助言をしてくれるかと問われれば、それは保証し難い.私の根拠なき意見を言うと、その人がどんな大学を出たとか、どんな研究をしたかとか、どんな資格を持っているかは関係がないように思う.資格は持っているに越したことがないが、その人の人情humanityを担保しない.

 *ガチャ:オンラインゲームで導入されるマイクロトランザクション;課金サービスの一つでゲームに登場するアイテムが無作為で提供される抽選の通称.カプセルトイに由来する.

 では、幸運ではない人はそのまま信頼しがたい医師のもとで絶望せよ、というのかというと、そうではないと私は思う.毎回初診料を払うことは癪かもしれないが、条件がゆるせば思い切って主治医を変えてしまった方が良さそうだ.医者への不信感を増長させて新たな神経症を宿すよりも、転医して新しい助言を得たほうが良いかもしれない.するとドクターショッピングという汚名を着せられてしまうのではと恐れる気持ちが出てくる.それはとてもわかる.だがそのような内省が働くのであれば、あまり気にしない方が良い.そんな汚名は「着こなす」くらいのスタンスで良い.初診の度に担当医を変えろとも、別に100点満点の医者を見つけろということを言っているのではない.安心していただきたい.そんな奴は絶対にいない.

 期待∝重圧

 2022年4月から高校の保健体育で40年ぶりに精神疾患に対する項目が復活するらしい.確かに自分の頃は何も教わらなかったな、という気持ちでいる.一体どのようなことを教えるのか、ということについて、平成30年度にされた学習指導要領を閲覧すると、以下のようなことを学習の狙いにしている.

精神疾患の予防と回復
 精神疾患の予防と回復には,運動,食事,休養及び睡眠の調和のとれた生活
を実践するとともに,心身の不調に気付くことが重要であること。また,疾病
の早期発見及び社会的な対策が必要であること。

高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説

 具体的な疾患には、「うつ病,統合失調症,不安症,摂食障碍など」と、四つが挙げられている.個人的な感想を言えば、どれも教えるのは大変だろうな、と心から養護教諭や保健体育の教諭の労苦が偲ばれる.これらの原因ははっきりしていない、というのが厄介だ.

 こうした精神保健衛生の項目を教育することは歓迎される一方、教育側の重圧と負担はいかばかりかと邪推してしまう.彼らは彼らで慢性的な残業を強いられ、調和のとれた実践と心身の不調への気付きが困難なキャリアにいるのだから.労働環境という社会的な対策が急務であることは現場が一番わかっているはずだ.期待や応援したい気持ちはすごくあるのだが、矛盾した命題に挟まれている人々に向かって、外部の人間がヤンヤヤンヤいうのもためらわれるし、複雑な気持ちでいる.

今後とも宜しくお願いします

 さて、いつも通り好き勝手なことを色々書いてみたところで、ここで今回はおしまいにしたいと思う.ゆっくりとダラダラしながら、二年目を過ごすことにしたい.ここまで読んでくださりありがとうございました.

 

 

 

 

 

 

 

 

語学について

英作文のコツ

 私は以前買った参考書を使って、与えられたテーマに対して賛否を明示し200から240語の小論を書く、という練習を最近やってみることにしている.正直な感想を言うと語学力に関して言えば、これは年齢とあまり逆相関せず、やっただけ成果が現れるという印象を持っている.つまるところ、二年前の自分よりも、去年の自分よりも戦闘力は増しているように思う.提示できる根拠がないのが残念だが.これはただの私の主観なので、どうか真に受けないでいただきたい.

 そもそも与えられた題材に対して、日本語でも全く書くべき内容が思いつかないという悲劇があったが、自分なりに勉強を続けてみたおかげで、とりあえずは英文で文章を完成させるというところに至った.コツはなるべく自分の意見を捨てて、書きやすい論旨で書いてみることだということに気づく.ある人のアドバイスは、経済的利益があるか、環境負荷が低いのか、それは生産性に寄与するのか、という見方で書くと書きやすいぞ、というものであったが、なるほど書きやすい.生産性ジャンキーの拝金主義かつエコロジーコンシャスなビジネスパーソンになったつもりで書くと、思ってもいないことでも多少なりとも筆が動く.例えば、以下のような感じである.よって以下の文章は私の意見を反映していない.

Should the number of weekly hours be decreased?

In Japan, there is a serious problem of labour time. Firstly, Japanese workers are suffering from “Karoshi”, which means “death from overworking”. The excessive working hours cause worsening mental health and contributes the increasing suicide rate of Japanese people. To prevent this situation, I think that we should understand the decrease of our productivity due to mental health issues, and need to know the necessity of strict control of our labour hours.

Secondly, I believe that there is a possibility that low salaries paid to labourers in general elongates the labour hours and relates to the overworking. It is necessary to improve incentives for workers in order to construct an efficient working environment and motivate the labour. If we have to clear this problem, we cannot ignore that there needs to be a proper leadership of government administration, not only just each company’s effort. In my opinion, each of us should firstly be conscious of the matters.

Finally, There may be another opinion that we should increase our labour hours. However, I am afraid that we will no longer be able to increase working time more than forty-hours per week, which will worsen the laboral productivity. I strongly think it is most important that we take good care of our work life balance. Unfortunately, there is still a lack of our self-caring mind in my country.

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Should children be allowed to own and use smartphones?

I agree with the opinion that children should own smartphones. To begin with, there is no reason to restrict the right of having their own gadget in this day and age, I believe. I think that children should have smartphones to improve their quality of life, to make the most of learning skills, and to be conscious of their health. The earlier we get new gadgets like smartphones, the more we are likely to get familiar with new technology. Nowadays we cannot live without new innovation, children are enabled to take advantage of using new devices from their young age.  

I understand that there is a big concern that children may not fully handle digital devices, or they might be involved in cybercrimes such as fraud cases, spams, and other violations. It is indeed that minors have a probability of being exposed to threats of cybercrimes, but I think that it is preventable by appropriate guidance and education of adults. 

In the end, speaking of education, the new technology has contributed to our way of learning and the teaching system. Thanks to innovation, we are now able to study online, at any time, and almost anywhere. I strongly believe that this is a great opportunity to gain knowledge for children in their early time, and this chance will be definitely helpful for all of us, in the mean of future investment.

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Does the mass media have a negative effect on society?

I agree with the opinion that there is a negative effect of mass media. Nowadays, thanks to technological development, we come across plentiful media, such as television, newspapers, radio and social networks. 

Firstly, for those who have smartphones or any portable gadgets, mass media are essential tools for getting news, or making decisions for business, and sharing ideas with other people. Therefore, it is not exaggerating to say that most of us are highly dependent on mass media effects. we should pay attention to not only the contents that the media provide to us, we need to watch carefully on the information they do not broadcast. There are many important things that the media cannot tell, for reasons like political issues, so that we have to understand hidden messages from the contexts.

Secondly, it is well known but we are likely to forget that almost all media are fundamentally supported by sponsors, like huge companies, political parties and many investors. It is quite important for us to realise that some of the information delivered by the media is influenced by their patrons’ policies and ideas. So, we are sometimes unconsciously misled by secretly controlled news which results in unwanted conflicts or disputes. 

Finally, it is deplorable that some people do not think of issues which are broadcasted on the media by themselves, because there are many commentators and experts who speak of concerned matters, as representatives of the audience. People tend to just obey what commentators insist, not to have their own ideas and discuss the matters.

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 今の所、一つのテーマを書くだけでも結構骨が折れるのだが、時折適切な添削を受けつつ、この作業を繰り返してみながらさらっと英文が書けるような思考訓練をしてみたいと思う.適切な添削については別の機会で述べたい.上記に関して文法の誤りがあればぜひコメントでお寄せください.

辞書のありがたみ

 なぜ、こんなことをするのかと問われれば、おそらく理由は限られる.まずはやってて楽しい!これに勝る動機づけはない.私は英語に限らず語学が好きなのだと思う.もし私が医師でなければ、おそらく私は亡者のような姿でニコニコしながら人文系の勉強をしていた可能性が高い.そんなわけで私は同時並行でアラビア語をも学習中なわけであるが、この言語を学習するにおいて英語の知識がかなり役に立つと気づいた.現在日亜対訳の辞書は初級者向けのものを除いてまともな辞書がない.オンラインでは「アラビア語検索エンジン アラジン」というものがあるのだが、オフラインでは使えないことが難点である.日本に紙の辞書がないことが悲しい.英亜であれば、しっかりとした辞書が存在する.しかし現在日本にはあまり流通していないし、入手は極めて困難であるという.外語大生も困っているとか.これマジ?

 しかし、幸いなるかな.自分の持っているMacintoshの標準アプリには辞書がある.Oxford Arabic Dictionaryにはいつもお世話になっている.Oxford Dictionary of English, Oxford Thesaurus of English, 大辞林、ウィズダム英和辞典.これらは大変な名脇役である.なぜか.これら言語辞書が無償で使えるからである.この機能を標準で搭載する意義がわかってもらえたらすごく嬉しい.これは本当の本当に大事なことで、PCの電源が生きている限り、私は安心してどこででも語学の勉強ができる.三浦しをん氏の作品に「舟を編む」という辞書編集部の奮闘を綴ったものがあったが、題名の通りまさしく一冊の辞書は言葉の海を揺蕩う一艘の舟だと思う.Macintoshにはその舟が何艘もあるのだ.無敵艦隊かな?

 ほかのPCにこれだけの辞書機能がついているかは寡聞にして知らないが、私個人の意見を言えば、Macintoshの最も良いところはこれら辞書がついていることに限る.願わくば、iPhoneにも辞書を標準搭載してほしいくらいだ.

 話を戻すと、英語が多少ともわかれば、PCの英亜辞書を使って単語を調べることができる、ということになる.オンライン環境が許せば、Google翻訳も大活躍してくれる.特に作文する際には重宝する.この場合、日亜よりも英亜の方が比較がしやすいように感じている.おそらくは、前置詞や定冠詞が英亜では存在することが関係するのかもしれない.唯一の難点は発音なのであるが、この問題のトラブルシューティングについては前述した英作文の添削の話題と合わせて後日お伝えできれば良いと思う.

 究極的には、英亜両方の言語で作文がある程度自在にできることが目標になるだろうか.もちろんあらゆる文学作品を味わってみたいし、アラブ世界を旅行して自分たちだけの体験をしてみたいという気持ちも強い.とりあえずは現地の人とアラビア語で交渉してみて、だめなら英語に切り替える、ような選択肢ができたらいいなと思う.英語に関する当面の目標はCEFR(Common European Framework of Reference for Languages)でいうC1を目指したいと思う.アラビア語に関する目標設定は難しいところではあるが、正則アラビア語を読み書きできるようになれると最高だろう.この語学学習を私の生涯の道楽としてずっとやっていきたいと思っている今日このごろである.そしてこのブログを勉強の成果を公開する場所とし、良い緊張感を作れたらいいかなとも考えている.

 

  

不確実性へ溶け込め

フロイトの家、ロンドンで

リルケに震える

 オープンダイアローグに関する書籍を読んでいると、「不確実性への耐性」という言葉が出てくる.これはオープンダイアローグのポリフォニーが紡ぐ、対話という「不確実性」に関連している.多人数によって響き合う音色がジャズセッションのように、どのような着地点にたどり着くかは誰にもわからない.何も決まらないのかもしれないし、重要なことが決まるかもしれない.思わぬ言葉が語られるかもしれなければ、期待通りの展開で終わるかもしれぬ.私達は究極的には全関係者の最大幸福を願っているのだけれど、そこでは治療というゴールを急がないし、焦ってはいけない.大事なことはいかに語りを途絶えさせないことかにかかっている.医療者はクライエントの意見を誘導してはいけないし、できるだけ中立であり続けなければならない.こうした不確実性に耐えることができるのは、この治療が安全だと感じられる場合だ.そして安全を感じるための「アリアドネの糸」は対話を続けることなのだ.

 「オープンダイアローグとは何か」の著者・訳者である斎藤環氏は日本にこの方法論を伝えた第一人者であるが、この「不確実性への耐性」という言葉を詩人リルケを引いて表現する.

 あなたはまだ本当にお若い.すべての物語のはじまる以前にいらっしゃるのですから、私はできるだけあなたにお願いしておきたいのです.あなたの心の中の未解決のものすべてに対して忍耐を持たれることを.そうして問い自身を、例えば閉ざされた部屋のように、あるいは非常に未知な言語で書物のように、愛されることを.今すぐ答えを捜さないでください.あなたはまたそれを自ら生きておいでにならないのだから、今与えられることはないのです.すべてを生きるということこそ、しかし大切なのです.今はあなたは問いを生きてください.そうすればあなたは次第に、それと気づくことなく、ある遥かな日に、答えの中に生きて行かれることになりましょう.

リルケ「若き詩人への手紙」、Briefe an einen Jungen Dichter, 1903 高安国世訳

 そう、私達は「すべての物事のはじまる以前にいる」のだ.今すぐ答えを捜すことはせずに、問いを生きろという.まったく正鵠を射た心持ちがする.これはオープンダイアローグに限らず、すべての事象に対して重要な言葉なのではないか.殊更、今の新興感染症の災厄の中においては.

 この文章はリルケからとある若手詩人に向けられたもので、上記は長い長い手紙のほんの一節に過ぎない.彼は一人の人間を念頭に手紙を書いているはずなのに、私だけでなく、多くの人の心を掴んでいるのはなぜだろうか.言葉を超えて、時を超えて感興をかきたてるのは、彼の言葉にある深い洞察と豊穣な感性に依るのだろう.

不安とどう取り合うか

 そもそも、私達が不確実性に対して生来耐性があるのかと考えてみると、それほどなさそうである.この不確実性という言葉は「不安感」に置き換えられるだろう、もちろん不安の感じやすさは個人差があるにせよ、全く不安のない人は絶対にいない.私達は性質上、未来という時制に投企する生き物である.そして医学というのは不安との戦いともいえる.医学は如何に不安と折衝するかに尽きるのではないか.胸が苦しくなるのはどうしてなのだろう、その後どうなるのだろう、この腫れ物はどうなるのだろう、熱はいつになったら下がるのだろう、どうしたら傷が治るのだろう、いつになれば退院できるのだろう.どちらの薬をどのくらいつかえばいいのだろう、血液検査や画像検査で調べても原因が見つからないのに体が震えるのはどうしてなのだろう.最後に、私達はいつ死ぬのだろうか、と.

 科学は不安に対する一つの方策だと言えそうだ.数学や統計学、疫学は世界の公衆衛生の発展に寄与したし、化学、物理学の進歩は言わずとも外科治療や薬理治療、救急医療に貢献したはずである.科学はそうした分野における様々な不安を解消してきた.だが、それで私達の不安は和らいだかと言われると、どうだろう?医療を受ける側も提供する側も不安は尽きないのではないか.これまでの医学において不安をどう理解してきたかを考えてみると、おそらく十九世紀近くまでは、体液病理説に基づく理解が支配的で、不安の解釈も体液(血液、粘液、胆汁、黒胆汁)の不均衡に由来すると考えられたはずで、精神疾患は超自然的な現象のしわざと理解する傾向が多かった.

 二十世紀の重要人物、フロイトの理論をおさらいしてみる.彼によれば、私達は原則、現実を無視して本能的に快楽を求めようとする性質があるという(エス、イド).他方、自我というのは苦痛や苦悩を体験する情動を無意識へ追いやることによって、心の安定を図ろうとする.これをフロイトは軍事用語にあやかって、防衛機制と呼んだ.人間は防衛機制を働かせることによって、苦悩を追い払い、心の安定を得て現実の世界に適応することができると考えた.しかし、快楽を得ようとする欲動(エス、イド)と、それを押し留めようとする力(超自我)の間で葛藤が生じると不安が生じる.この不安で自分自身が崩れてしまうことを防ぐべく、防衛機制が働くのだが、これが過剰に機能したり失調が起こると精神的な症状(失声、失立失歩、解離、転換など)が生じると考えたのである.これをフロイトは「神経症」と呼んだ.ノイローゼ、というのは神経症のドイツ語読みであり、今でも慣例的に使用されている.この神経症の治療方法が精神分析と呼ばれる.

 神経生理学的な立場で不安を考えてみると、不安は「闘争か逃走」の反応の一つであり、不安症の中核的な要素は「恐怖」「憂い」だとされる.うつ病の中核的要素が「抑うつ気分」と「興味の喪失」である点で対比されることに注意だ.不安の中核要素のうち、「恐怖」とは海馬近傍に存在するアーモンド型の脳中枢、扁桃体を中心とする神経回路により調節され、「憂い」は仮説上、皮質ー線条体ー視床ー皮質(Cortico-Striato-Thalamo-Cortical、CSTC)神経回路に関係するという.不安の基礎となるこれらの神経回路の調節には多くの神経伝達物質が関与している.なかでもγ-アミノ酪酸、通称GABAは不安における鍵となる神経伝達物質で、抗不安薬はこの神経伝達系に作用する.ほかにもセロトニン、ノルアドレナリン、α2σリガンドといったものが発見されている.恐怖の条件づけと恐怖の消去という相反する概念は、不安の症状形成と維持に関与しているとされる.これら仮説は認知行動療法という精神療法と、薬物療法を組み合わせる現代の治療法の基盤となっている.

 この半世紀近くで生理学・薬理学の研究は加速度的に進行したし、精神分析療法も小規模だが行われている.神経症の名前は身体表現性障碍や解離性障碍などに姿を変えて、フロイトの理論は現在も診断体系の重要な基礎である.こうした科学や理論の進歩は不安に対する理解や解釈を行うのに極めて有益ではあるものの、これらは不安を緩和し、消退させようとする方向にある.上記で述べた不安を神経症として扱えば、全人類神経症として、ソファの上で横になり、無意識を引き出す羽目になる.あるいは皆が全般性不安症と診断され、全人類ベンゾジアゼピン系薬剤のお世話になるとすれば、滑稽を通り越してディストピア感があふれる.これではいけない.葛藤を抽出して現実的なアプローチを行い、神経回路の調節を薬剤で行うのももちろん重要なことなのだが、今後不安と折衝するにあたって肝となるのはきっと、不確実性への耐性を高めることではないだろうか.不安に対する耐性(レジリエンス)を高めるような研究はこの四半世紀で始まったばかりだと思う.だが、オープンダイアローグの方法論は必ずや、レジリエンスの獲得に寄与するはずである.参加者全員が.

不安は不安を呼ぶ

 私事で恐縮だが、つい先日、私は二回目の新型コロナウィルスワクチン接種を受けることができた.本当に、本当に、ありがたい限りだ.とは言っても接種後の副反応は予想以上に辛いものであった.二回目の接種後に予定を入れることはおすすめできない.既知の報告で知られている副反応に、倦怠感や関節痛、発熱がある.私の体験に関していうと、発熱なしに強烈なだるさと悪寒、大関節の違和感が生じたのだった.接種後半日くらい経ってからか、本当に全く何もできなくなってしまったのは久々であった.うつ病でぶっ倒れたのとはまた違う.ほとんどの人が一日くらいで回復すると知っていたので希望は持てていたが、もし万が一このまま何もできずにいたらどうしよう、仕事が続けられなくなってしまったらどうしようかと不安になっていたし、この辛い症状を感じていた瞬間がものすごく長く感じられた.上記は私の肉体に関する憂慮であるが、世間ではもっと切迫した不安にかられているし、そんな私事を述べても「あっそ」と言われるのがオチである.今、感染症によりこの苦しみのさらに途方も無い大きさで苦しんでいる方々が毎日六千人くらい日本で報告されていて、一定の割合で命を落とす方がいると思うと、遺された家族や恋人、経営縮小を余儀なくされている業界人、日々全力を尽くす医療人の全身の苦悩は計り知れない.世界規模で捉えればさらに凄まじい数の不安が計上されることになる.

 このような事実を知るとさらに健康や行政、究極は未来に対する不安は増してゆく.報道はそんな私達の不安を反映しているように映る.前回の記事では、刺激を避けて、なるべく怒らず、期待せず、日々できることに注力するのが良さそうだ、といったことを書いた.その考えは変わってはいない.とはいっても不安は尽きない人も多いだろう.私自身、大いに不安を感じている.今、この時代に生きる多くの文明人は皆、昨今の技術革新と逆相関して「不確実性への耐性」が落ちてきているのだろうか、と半信半疑になったり、耐性が落ちやすい社会構造になっているような気もしている.ひょっとして私達は脆くなっているのか.それは私だけだろうか.2017年にWHOが発表している不安障碍人口が増えていることも関係があるのだろうか?

古きを訪ねて新しきを知る

 冒頭に立ち返ろう.私達はできるだけ、忍耐を持って、未解決の問題に対して今すぐ答えを捜そうとしないこと.これが大事だ.きっとリルケの言葉はこれまでも、これからも私達の一つの真理であり、光であるように思う.だから不安を感じて疑問を抱いたとしても、結論を急がないことにしよう.

 はるかはるか昔、伊邪那岐と伊邪那美の二柱が天の沼矛で地上の混沌をコネコネすることによって大八島、すなわち日本が生まれたわけだが、どういうわけか神々は我々に試練をお与えくださった.日本は地質学的性質から天災に見舞われやすい土地だ.地震・雷・火事・親父という災害で被災する人々にとって必要なことは、いかに人々に孤立感を味合わせないようにするかが第一に重要であったと、中井久夫は述べている.中井は日本精神医学の巨人であり、彼は阪神淡路大震災の際、被災地の精神科医療に大きく貢献されている.第二には体験の分かち合いが大切だという.被災地にせよ、避難所にせよ、人々が集って語り合うということに意義があるという.自分はどういう状態だったのか、こういう事態に巻き込まれて、こういう体験を味わった、という事実を縷々として話し、どのような気持ちになったかを語る.そして最後に、どのような結果になったのか、という事実を語る.事実ー感情ー事実という順序が良いようで、感情を開きっぱなしにせず、最後にしっかり現実に帰還することが大切なのだという.私達が今味わっているこの苦痛や不安、思い出したくないのに思い出してしまう映像・記憶、感情の高ぶりや麻痺は決して異常なことではなくて、人々が異常な状況において起こす一般的な反応なのだ、ということを共有できるといいという.

 おそらく震災に限らず、このパンデミックという厄災においても、誰かと語りを交えるというのはきっと大切な作業なのではないかと思う.同じ屋根の下で食事を摂る家族や友人・同棲相手がいれば、それでいい.オープンダイアローグの本を読むと、参加者が同じ場所・同じ空気感に居合わせるのが最善だ、ということは十分わかるのだが、そこまで構造的にやらなくてもいいと思うし、感染予防上どうしても難しいこともある.今の時代ならば、双方向性のグループチャットがある.LINE、ZoomやGoogle Meet、FaceTimeはよく知られた手段だ.顔をあわせなくてもTwitterSpaceやClubhouse、その他の音声配信サービスがある.同時空間性というわけにはいかないが、百年前からあるラジオはよくあるメディアだし、最近はAnchorやSpotifyのようにPodcastを個人でラジオ番組を配信できるサービスもあれば、ニコニコ生放送やYouTube Liveのように視聴者参加型のサービスがある.どのような媒体を用いて共有をするかは個人の都合に任せるとして、どんな形であれ、語りを共有できればいいと思う.巣ごもりをしていても、孤立化しないようにできることもあるはずだ.

 一応言っておくと、昨今のメディアに親和性の低い人々や何らかの事情によりメディアが使えない人がいることは重々承知している.注意すべきはこうした孤立化のリスクが高い方々が軽んじられ、疎まれる事態だろうと思う.地域の住民、民生委員や、行政・保健・福祉の方々の力なくして彼らの可視化は難しい.いつか何らかの形で機動的に、柔軟に、迅速に対応できる精神保健福祉ネットワークの構築に携われたらいいなと思うこの頃である.まずは私自身の健康を取り戻すところから始めよう.

 人は他者と意志の伝達がはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない.それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである.

 かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にして__自分自身に語りかけることを覚えたのだ.

 自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である.

ヴァレリー「カイエ」Cahier, 1979 恒川邦夫訳

ありがとうございました.

 以下の書籍はとても素敵な内容になっています.ぜひ読んでみて下さい.

くちなしの花

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サイゼリヤ問題

 アラビア語の勉強を続けて一年近く経つのだが、思いの外面白い.空いた時間に参考書と辞書を開いて、練習問題を解きつつウンウン唸っては「ユーリカ!」と腑に落ちる感覚を味わう作業を繰り返している.見知った言葉がアラビア語に由来すると知ると、さらに詮索をしてしまって、肝心な勉強が進まなくなることもしばしばだ.最近私はとある言葉に出くわして、その言葉の音の類似性に興味を惹かれた.

 薬局のことをアラビア語で「صيدلية」( ṣaydaliyya)という.ざっくりとカタカナ表記すれば「サイダリィーヤ」と読む.初めて聞いた時は「ふーん、そうなんだ」程度に思っていたのだが、よく考えると「ん?どこかで聞いたことがあるなぁ」と考えを改めた.

 そう(?)、「イタリアンワイン&カフェレストラン」、サイゼリヤである.日本のみならず海外展開もしているサイゼリヤはリーズナブルな値段でイタリア料理を味わえるファミリーレストランの店舗名になるが、どうやら本社はこの「サイゼリヤ」の名前の由来を「くちなしの花」だとしている.それも「イタリア語(古語)」らしい.(私が再度確認しようとした所、この説明は公式ページから消えてしまった.)

 それは本当なのだろうか.と思い、くちなしを辞書で調べることにする.まずイタリア語は「gardenia」 (ɡɑːˈdiːnɪə)という.英語もgardeniaという.ロシア語でもフランス語でもドイツ語でもgardeniaという.アラビア語でも「غاردينيا」(gardiniya)という.皆一緒だ.なぜこの名前なのかをたどると、十八世紀のスコットランド生まれの米国人植物学者、アレクサンダー・ガーデン博士(Dr. Alexander Garden)に由来するようだ.家族の姓をラテン語にしたものであるという.それは良いのだが、それまでこの植物には欧風の名前がなかったのだろうか.ちょっと気になる.

 というのもくちなしの花の原産は東アジアであるからだ.中国語では梔子(zhi-zi)というので、およそサイゼリヤとほど遠い.歴史的には中国の宋朝にくちなしに関する最古の記述があるので時を経て欧州に輸出されたようである.やがて十八世紀にはアメリカまで渡った.

 そもそも「イタリア語(古語)」という説明が妙だ.古語はラテン語ではないのか.と思ったら同じような人がいて安心した.十年前のブログに同じ疑問を抱いた人がいて、その人はサイゼリヤのカスタマーサポートに問い合わせたのだそうだが、なんという行動力!これぞ行動力の化身.サポート側も大いに困惑したであろう.「イタリア語の古語はラテン語なのか」「綴りは何だ」「出典はどこだ」と尋ねるあたり私と気が合いそうな人ではあるが、大学のゼミじゃないのだから答えられる人はほとんどいまい.

 その奇特な人はさらに調べ上げ、「cytherea」という単語に行き着く.様々な植物の学名に「cytherea」がつくことがあるらしいのだと言及して力尽きてしまう.これは美の女神アフロディテの別名でもあり、ギリシア、ペロポネソス半島の南の島、キティラ島の英名でもある(Kythira).語源はもちろんギリシア語である.これをイタリアではCerigo(チェリゴ)というので元とは全く異なる.だが、これを英米では美の女神にあやかって「シセリア」「サイセリア」という女性の名前で用いることがあるようだ.実際にサイセリアという女優が実在することを確認した.「i」や「y」を「ʌɪ」と読むのは英米の習わしだろう.特に後者ならだいぶ「サイゼリヤ」に近い.「th」音を「ザ行」で当てるのも無理はない.これはなかなか良い線を行っているのではないか.

 ここでアラビア語に話を戻すと、「صيدلية」( ṣaydaliyya)という言葉は「صيدل」という四文字の語根からなる.アラビア語はヘブライ語と同じくアブジャド(単子音文字 consonantary)であるから、三、四の子音を基礎として接頭辞や接尾辞を加えて名詞や動詞にするわけである.よくわからない方は聖書における唯一神を「YHWH」とすべて子音で表記するのを思い出していただければいいと思う.もしくは一部のインターネット界隈で知られる「TDN表記」が参考になるだろう.

 さて「صيدل」という語根は「薬理」を表すようである.学問なら薬理学、場所なら薬局や調剤所、人なら薬剤師や薬理学者を表す.おそらく植物やアフロディーテとはなんら関係がない.いわんやくちなしの花をや.たまたま音が似ていただけなのだろう.(究極的に詰めるにはアラム語やフェニキア語まで頑張るしかないが)決定的に異なるのは、「サイゼリヤ」における「saizeriya」の「R」だ.日本人は「R」と「L」を区別できないが、外国の人々は明確に区別する.「صيدلية」( ṣaydaliyya)は「L」であるから語源が異なることは推察がつくのだが、もし仮にアラビア語起源説が真であるとすれば、我々のガバガバリスニングによって「saizeriya」表記が成立してしまった線は最後まで否定できなかった.私の中で以下の判断を下すのには時間がかかった.

 以上から、私は「サイゼリヤ」問題に関して次のように予想を立ててみる.まず、「サイゼリヤ」は「くちなしの花」には由来しないだろう、ということ.説明に破綻をきたす.よって私は美の女神「cytherea」から着想を得て「サイセリア」から「サイゼリヤ」へ転記した可能性を推したい.

 命名者の立場で推測をしてみよう.命名者は新しいレストランの名前の構想を練っていた.とある植物の学名に「cytherea」というのがあり、英米人経由でそれを「サイゼリア」と読むのを知る.なぜか本人の中ではそれがイタリア語で「くちなしの花」だと勘違いをする.そして新規立ち上げのレストランに「サイゼリヤ」と命名した.

 実際の真偽はわからない.公式サイトは「サイゼリヤ」の名前の由来を掲載していたのだが、いつの間にか消してしまったのだ.なぜ消してしまったのだろうか.やはりくちなしの花ではなかったのだろうか.企業側も一貫性のある説明をくちなしの花に求めることは難しいと判断したのだろうか.このような疑問を「どうでもいい」と思う人は多いと私は予想する一方、公式が消したからには何かしら理由があると思う.「どうでもよくないから」こそ消したのだと考えてしまう.皮肉にも急に口をつぐんでしまったサイゼリヤはくちなしの暗喩になってしまった.

 言葉を勉強していると、思いがけず言葉の由来や隠された意味に興味が湧くことがある.さきほどの「صيدلية」とサイゼリヤのように、アラビア語で「ポルトガル」と「オレンジ」の発音はものすごく良く似ている.似ているようで全然違うこともあれば、語源が同一のこともよくある.言葉がたどってきた変遷に思いを馳せるのは楽しい.先人が紡いだ言葉には物語があるのを切に感じる.何気なく言葉を発する時、記すとき、私たちはその物語を再構成しているのかもしれない.私がアラビア語に手を出した理由はその言語が持つ独特の物語性に惹かれたのもある.またいつかお話ができれば良い.

ここまで読んでくださりどうもありがとうございました.

  

 

淡い期待

果報は寝て待つ

 先日、職場でCovid-19の予防接種を受けることができた.私のような業界の末端にいる人間が、ワクチンの恩恵に預かることができて嬉しく思っている.職場の方には感謝である.三角筋にチクッと針が刺さる感覚だけで、痛みはインフルエンザの予防接種となんら変わりはしなかった.早く接種が全国に広がって感染症から解き放たれたいものだ.堂々とマスクを外せる世の中になるといいと思う.連休を使ってとある講習会を受講する予定だったが、緊急事態宣言によってお流れになってしまった.残念.

 もしコロナウィルスが収束したら何をしようか.そういう空想をすることは自由だ.皆さんは何をするだろうか.私は第一に大きな本屋に行きたいなと思う.オンラインで気軽に購入できるのは良いことだが、試し読みができない.一冊の本を巡って、実際に手に取りもっと悩んで悩んで悩み抜いてから決めたい気持ちがある.あとは温泉、スーパー銭湯に行くことくらいだろうか.良い風呂に入って飯を食うのはうまい.外食にも行きたい.焼肉屋、そば屋、ラーメン屋、中華料理屋、東南アジア料理店.嗚呼、期待は膨らむ.冬にはスキーにも行けたらいい.山登りにも行っても良いかもしれない.国内だろうと国外だろうと旅行に行くのも気力とお金はかかるが、できるとしたら楽しみだ.果報は寝て待てというので、ほどほどに寝つつ、今だからこそできることをこっそりやっておくことにしたい.

オープンダイアローグへの期待

 「オープンダイアローグ」という精神科医療における方法論が注目を浴びている.数年前から言葉だけは耳にしていたが、最近まで全く知ることはなかった.精神病理学・病跡学を専門とする斎藤環氏は本邦にこの方法論の普及に貢献した方であるが、この治療法はここ数年で始まったものではないそうだ.1980年代にはフィンランドの西ラップランド地方はトルニオ市、ケロプダス病院で始められ、統合失調症を主とする精神疾患の症状緩和に大きな効果をもたらしているという.

 「オープンダイアローグ」は患者や家族から連絡をもらうと24時間以内にスタッフが訪問し、患者・家族・友人・医師・看護師・セラピストら、患者に関係するすべての人を集めて対話を行う治療法で、基本的に患者の自宅を訪問して行う.この対話は何度も繰り返される.繰り返していくごとに症状が緩和されていくのだそうだからなかなかにびっくりだ.対話の力を信じたい私としてはとても喜ばしい.この対話に集う人々は上下関係などなく、「医師の指導」という煙たい言葉は存在しない.今の診療でも皆平等だという建前はあるが、嫌なヒエラルキーは透けて見える.皆平服で望む.白衣を着ないのは個人的に良いことだ.今までの狭い診察室で患者ー治療者という構造「クローズドモノローグ」はなくなって、「オープン」になるのは実に画期的だと思う.

 この方法論によって必要な薬剤が減り、患者に対する拘束や隔離がかなり減るとされている.適応も統合失調症に限らない.人の基本的人権を超越せずに治療ができるのだからこんなに良いことはない.いいことばかりで聞こえが良すぎると胡散臭い気もするが、もちろん批判的な指摘はあるだろう.私自身、大いに興味をそそられている方法論であるので、勉強してみたいところである.いつかしっかりとご紹介できればいい.下記の書籍はオープンダイアローグを理解する助けになるのではないかと思う.「感じるオープンダイアローグ」は読んでいる途中なのだが、いい意味で期待を裏切られる.精神科医療の曇り空に薄明かりが差していくような、そんな気持ちになる本だ.

 最後に、斎藤氏の言葉を引用しておしまいにしておく.

オープンダイアローグの思想は、ポストモダンの思想に依拠した「人間」と「主体」の復権でもある.その根底には、個人の尊厳、権利、自由の尊重こそが治療的意義を持つという透徹した倫理性がある.

「臨床精神医学」第49巻第1号109頁2020年

 なんかかっこいい.

パンセ・スキゾフレニック・ボーボボ

そんなに脱毛しないとだめですか

 YouTubeの広告を見て思うことがある.正しく言えば、動画視聴中に挿入される広告の中に気になるものがある.やたらと脱毛を勧める広告が多い.漫画のようなイラストが現れ、複数の登場人物の台詞を抑揚のない調子で一人朗読、作画もお世辞には上手とはいえない.見たことがある人もいると思うが、すぐにスキップしたくなる広告に入るだろう.皆さんも同じ意見を持ってくれるだろうか.ただ最近私は敢えてちゃんと最後まで観るようにしている.色々と気づくことがあって興味深い.広告には複数のシナリオがあるものの大体のあらすじはこうだ.

 妙齢の女性が、同窓会や宴会、パーティ等に出ることになった.その会場にはかつて意中の男性がいて、主人公は心を弾ませるのだが、同席した同性の友人に、「ムダ毛が生えていてみっともない」ことを公に指摘され、大いに辱められる.

 傷心の彼女が帰宅し、友人に顛末を打ち明けると「それは指摘されて当然」という評価を受ける.そしてすぐに「医療脱毛」を勧められる.「それは高額ではないのか」と友人に問うと「今どきの医療脱毛は安い!」という理由をいくつか列挙し、想定されるデメリットに対する反論を述べる.そして友人自身が実際に体験して「やって良かった」という経験談を述べて、主人公は定型の誘い文句に乗せられてしまう.ほどなくして脱毛クリニックを訪れた彼女は友人の言う通り、何も抵抗なく脱毛を遂行.体のどこかしかがツルツルになる.

 後日、別の会食の機会が催され、懲りずに参加する主人公.どこかしか可視範囲内でツルツルになった彼女を見て浮足立つ男性たち.その中には意中の男性もおり、彼も実は彼女のことを想っていたことを知る.めでたく二人は交際に至る.彼女は脱毛を実践してよかったと確信する.その後脱毛の宣伝に入る.この話はフィクションである.男女を入れ替えたパターンも存在する.男の場合はヒゲが忌避される.ちなみに男性同士と女性同士というパターンは見たことがない.

 こういうあらすじを書いていて私は途中で気分が悪くなる.だが、このような広告はかなり高頻度で認められるのだ.アプリ内部のアクセス解析によって自動広告の内容が各々変わるらしいのだが、どうして脱毛ばかり出てくるのだろうか.脱毛の広告は電子の海だけではない.もちろん電車の中にもある.商業施設の並ぶ都市ならどこでもある.画像編集ソフトで、つややかに仕上がった女性の顔がこちらを見つめている.

 なんだかこのような風潮はいやだなぁと思ってしまう.脱毛を是とする空気感、「脱毛しないとみっともない」という圧力を感じてしまう.それはお前の感想だろ、と言われてしまえばその通りなのである.しかしこういうサブリミナル効果を思わせる広告導入は、主に若年層の審美眼や美意識に大いに影響を与えるような気がしている.例えば女性誌に載るモデルがあまりにもスレンダーすぎて、病的羸痩(BMI18未満)の姿が美しく思われるように仕掛けられると、私達はその体型を理想として意識してしまう.無意識であったとしても行動として現れることがある.摂食障碍における身体認識の歪みは社会の課す美意識と無縁ではない.脱毛を推す社会は、醜形恐怖を加速させ、美容整形を過度に受診させる構造や、非脱毛の人々を排斥する構造を作り出してしまっているような気がしてならない.美容整形はもちろん個人の自由だ.本人がやりたけりゃ好きなだけやればいい.自分が気になるから自分の意思で脱毛をするのならば止めはしない.とはいってもこれは自由診療の範囲内だから全額自己負担だ.数十万円をはらう必要があるし、ご先祖様から受け継いだ毛母細胞を徹底的に破壊するには何度も通わなければならぬ.こんなことを推す商業と自由診療の結託はなんだかずるいと思ってしまう.

 私が言いたいのは他人の身体的特徴を取り上げて自分の価値観を押し付けるのはいい加減やめてほしい、ということだ.私達はどうしても同調圧力に屈しやすい.どこかに毛髪の自由と平和を守ってくれる人はいないだろうか.

 毛の自由と平和を守る作品

 2001年から「週刊少年ジャンプ」に連載された澤井啓夫氏による漫画に「ボボボーボ・ボーボボ」がある.声調はボボボーボ・ボーボボ(Bobobōbo Bōbobo).幸運にも「週刊少年ジャンプ+」に第三話まで無料掲載されているので、雰囲気をつかみたい人はぜひ閲覧するといい.アニメ化もされ、英訳もされた.よくぞ訳したものだ.まずはあらすじを借用して紹介しよう.

 300X年、地球はマルハーゲ帝国が支配していた.マルハーゲ帝国皇帝ツル・ツルリーナ四世は自分の権力の象徴として全国民をボーズにするべく「毛刈り」を開始した.毛刈りとは頭に生えている新鮮な毛を直にぶち抜くことで、この毛刈りを行うのはマルハーゲ帝国専属部隊「毛狩り隊」だった.マルハーゲ帝国はとても強大でどの国も逆らうことはできず、全国民がこの「毛刈り」によって苦しめられていた.そんな時代に毛の自由と平和を守るため一人マルハーゲ帝国に立ち向かう男がいた……その名もボボボーボ・ボーボボ! 究極の拳法「鼻毛真拳」を使う彼こそ、救世主だといいな!? (原文ママ)

 主人公ボーボボはアフロヘアにサングラスで筋骨隆々の27歳男性という設定で、大きな鼻孔から手綱のような鼻毛をムチの如く操り相手を攻撃する「鼻毛真拳」を駆使する.この拳法を受けたものはなぜか吐血してしまうので、確かに強いのだろう.毛根をぶち抜かれた人々も吐血しているため、単なる作者なりの苦悶の表現技法に過ぎないかもしれない.とりあえず武論尊氏による「北斗の拳」を意識しているようだが、あまりこの設定が深堀りされることはない.一応ボーボボと毛狩り隊との戦いが主題ではある.しかしその対立にとどまらず終始話題が髪の毛のように散らかるのが本作の魅力だろう.

 一見、頭髪に非常に厳しい作風ではある.だがそんなに気にすることはない.作者は登場人物の全員に対して徹底的に理不尽であるからだ.本当の本当に、この作品は背景や舞台、人物の相互関係や文脈、あらゆる連関を破壊する.次から次へと意味不明な人物や偶像が出現しては意味不明な言辞を述べ、作品の全体的なまとまりや整合性が失われていく.伏線やレトリックというもの、表現技法はおそらく一切存在しない.人物描写も失礼だが単調で、特に毛狩り隊の構成員はみな同じにみえる.この圧倒的な不器用さ、極端さ、まとまりのなさ、理不尽さ、ぎこちなさが最後まで貫徹されている点は逆説的に完璧である.読んでいて苦痛はない.むしろ清々しい.仮にこれを分裂気質的と呼ぶなら、作者の脳内は一体どうなっているのだろうか.そんな「ボボボーボ・ボーボボ」は徹頭徹尾スキゾフレニックな作品だ.唯一、毛狩り隊は頭髪を根絶やしにすることに執着するパラノイアックな集団である.このような構造を頭に思い描くと、私は次のような二人を想起する.

パラノ・スキゾ

 1970年代から80年代のフランスにおける哲学のユニット、ドゥルーズ=ガタリ(ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ)の共著である「アンチ・エディプス(英題:Anti-Oedipus、仏題:L’anti Œdipe)」には「パラノ・スキゾ」という概念が登場するらしい.

 パラノというのはパラノイアParanoiaという言葉から、スキゾというのはスキゾフレニアSchizophreniaから来ている.どちらも精神医学用語で、かつて前者は偏執病、後者は分裂病という訳があてられた.偏執というのは大辞林を参照すると「かたよった考えに固執し他人の意見を受け入れないこと」とある.分裂というのはちょっと難しい.分裂というと、なにか形あるものが複数へとバラバラになるようなイメージをもつと思う.一つの考えにとらわれず、他の意見も聞き入れることもあるが不安定で落ち着きがないさまでもある.無秩序でアトランダムな動きをするブラウン運動の如き、野放図といったところか.彼らの頭髪も奇しくも対照的に見事に散らかっている.実にすばらしい.

 さて、ドゥルーズ=ガタリのいう「パラノ・スキゾ」という二項対立は、1980年代に作家の浅田彰氏による「逃走論」の流行で特にもてはやされたようだ.私はそのころ生きていない.要は「みんな、パラノイア的なアイデンティティはもうやめよう!これからはスキゾ的な生き方をしよう!」といった文脈で、社会的な役割や他人の評価に縛られることなく生きていくことを提案していく空気感が醸成されたらしい.

「いいか、タケシ、うちは代々大工だ.お前も中学を出たら大工の跡継ぎとして、俺の手伝いをしろ.いいな!男の癖に裁縫なんかやってるんじゃぁねぇ!」

「まぁ〜お千代さん、よろしくって?東条家の女は皆立派なお家に嫁いで行ったのです.こどもじゃないんだからいつまでも泥だらけで虫なんか捕まえてないでちょうだい.みっともない真似をこれ以上世間様に晒したら承知しませんヨ」

みたいな発言はパラノ的で、アイデンティティを束縛する生き方である.確かに上記の発言は石坂浩二の「金田一耕助シリーズ」でよく眼にした台詞で、あの頃の作品に登場する若者たちは皆それぞれアイデンティティに対する葛藤を胸にしていたように思う.この図式は今でも色褪せないもので、私自身もよく身に沁みて落ちないくらい心に感ずるものだ.

 それはともかく、ドゥルーズ=ガタリで用いられた「パラノ・スキゾ」の二項対立は哲学の入門書にも代表的概念として載っているくらいなので、そんなにわかりやすいのかと思い、私はStanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード哲学百科事典)の門戸を叩いた.このサイトは無料で公開されている哲学の百科事典であり、選任された多くの哲学者が寄稿した記事が別の学者によって現在も何度も何度も査読と修正がされている.言語は英語のみであるが、ウィキペディアなんかよりも遥かに信頼できる情報源といっていいだろう.ただ盲信しているわけではないことを断っておきたい.

 私はわくわくしながらドゥルーズの記事に「パラノ・スキゾ」がないか、探した.何度も何度も探した.しかし見つからなかった.とりあえずスキゾは見つかったがパラノはどこにも書いていなかったのである.よって上記の構造については全く触れられていなかった.あれれれれれれれ?「パラノ・スキゾ」は代表作「アンチ・オイディプス」の記事に書いてあるだろうと思ったが、全くパラノのパの字もなかった.パラッパラッパー!その代わり、凄まじく長い記事が瀑布の如く私の眼に垂直落下してきた.非常に難しい内容であったが、何日もかけて全訳することにした.英文は米国パドゥー大学(Purdue University)のダニエル・W・スミス氏(Daniel W. Smith)とジョン・プロテヴィ氏(John Protevi)によるもので、二人ともドゥルーズを専門とする人物であり、哲学科の教授である.まずは皆さんにも証人になっていただく.ぜひお茶でも飲みながら英文を読んで、それから和訳を見てほしい.

L’anti-Œdipe

 「アンチ・オイディプス」について考えるとき、はじめに私達はそのパフォーマンス的な効果について論じるべきで、その効果は「私達に思考をさせる」ことをしむける、すなわち、クリシェ(常套句)への傾倒に対する戦いを試みるのである.「アンチ・オイディプス」を読むことは実に衝撃的な体験になる.第一に、私達は情報源の奇妙な集積を目の当たりにする.アントナン・アルトー(Antonin Artaud)のスキゾフレニックな怒号は作品「器官なき身体」(Corps-sans-organes)の基本的概念である.第二に、著作の下品さは無意識(イド)についての悪名高い序文においてと同じようである.「そいつはどこでも動く、時代に適応してちゃんと仕事をする.そいつは熱を発し、飯を食い、糞をしてセックスもする[Ça chie, ça baise]. イドについてなんとまぁ間違ったことが言われてきたことか.」第三のパフォーマンス的効果はユーモアだ.メラニー・クラインの児童に対する分析を誂うのと同じようである.「なぁ、オイディプスって言ってみな、そうすりゃあんたの頭をひっぱたいてやるよ」こうした文章はほかにも沢山ある.「アンチ・オイディプス」ほど多くの冗談、駄洒落、 double entendres(一つの語句に二つの意味があり一つは性的な意味をもつもの)を含んだ荒削りの哲学書は極めて少ないのである.第四の要素はどんちゃん騒ぎの卑猥な論争である.その他多くの例の中でいうと、シニフィアンについて考える奴は暴君の言いなりに成り下がっているとか、フランス共産党党員はファシストにリビドーを注いでいるだとか、さらにフロイトは「仮面をかぶったアル・カポネだ」と描写されるのである.「アンチ・オイディプス」を読むと終始そのパフォーマンス的効果は忘れがたいものになる.

 本著の概念的構造に差し掛かると、「アンチ・オイディプス」の鍵となる用語は「欲望する機械」となる.マルクスとフロイトを縦横に駆けるそれは、欲望を生産という生態社会領域の中に置き、生産を欲望という無意識の領域の中に置くのである.通常の方法でマルクスとフロイトを統合しようとするよりも、欲望する機械は還元主義者の戦略によって次のように機能する.1)フロイトの側に立って、家族の像と様式のリビドー的投資が、それらの原始的投資に昇華することを求めるとするもの、あるいは2)マルクスの側に立って、神経症と精神病を不当な社会の構造上の副産物にすぎないものとして位置づけるものとする.ドゥルーズとガタリは欲望する機械を、表層上は分離している自然的、社会的かつ心理的領域に潜むものを「普遍的一次過程」と呼ぶ.それゆえに欲望する機械は人間中心主義ではなくて、世界のまさに中心なのである.その普遍的視野に加えて、私達は直ちに欲望する機械の二つについて理解する必要がある.1)生産物の背後にある主体はおらず、主体こそが生産を行う.2)欲望する機械の「欲望」は欠如を生むために関心を向けるのではなく、純粋に積極的である.欲望する機械は自律的で、自己建設的かつ創造的である.それはスピノザのnatura naturans(能産的自然)、あるいはニーチェの力への意志である.

 「アンチ・オイディプス」は概念的かつ術語的な技術革新とともにある、壮大な野心をもった作品である.その野心の中には、1)自然・文化の分裂両者を包含する、変化と変形あるいは「変形中」の存在論として機能する、生産の生態社会論と、2)社会形態の「普遍的歴史」ー「野蛮な」あるいは部族的な、「蛮族の」あるいは帝国的な、そして統合的な社会科学として機能する資本主義者.3)そしてこれら機能に対して土壌を築くこと、マルクスとフロイトに関する一般的な意見への批判ーそして応用領域を類比することで統合を試みることが挙げられる.そうした野心を追求する際、「アンチ・オイディプス」はtour de forces(妙技)ゆえの美点と欠点がある.異質な要素と要素の間で想像だにしなかった結合は可能となるが、何らかの緊張を孕んだ概念的な制度が犠牲となる.

 「アンチ・オイディプス」は欲望する機械の二つの主要な記録を識別する.自然または「形而上学的」そして社会的または「歴史的」な記録である.それらは次のような方法で関連付けられる.自然的な欲望する機械は社会という装置が抑制するものであるが、歴史(不確実な歴史、すなわち歴史の弁証法を避けるもの)の終焉に、資本主義において明らかにされるものである.資本主義は欲望する機械を自由に解き放ち、私有財産機構と欲望の家族的または「オイディプス的」様式を伴って統制しようとする.こうして分裂病の人々は欲望する機械の責任下で動き出すのだが、資本主義者社会の提案する限界で失敗する.それゆえに欲望する機械の働きに手がかりを与えるのである.

 ドゥルーズとガタリが分裂病を「生活様式」あるいは政治的プログラムのモデルとして提唱していないことを理解することが第一に重要である.分裂病は、臨床の実体として、欲望する機械のプロセス阻害、障碍の結果である.分裂病は自然と社会から取り出され、現実を成立させる結合を形成するよりも虚空を転回する個人の肉体に縛られているのである.欲望する機械は現実「と」結びついているのではない、欲望する機械は目的に触れるため主観的牢獄へ逃げるように、現実をつくるのである.それこそ現実であり、ラカン派の用語でいうねじれにおいてである.ラカンによれば、現実とは架空のものとして、意義あるシステムへの逆投影された剰余として生み出される.ドゥルーズとガタリにとって、現実とは自己形成のその過程において現実そのものである.分裂病者は助けを必要とする病人であるが、分裂病は無意識への方法であり、無意識は個人のものではなく、「超越的無意識」であり、社会的、歴史的、自然的なものをひとまとめにする.

 分裂病の過程を研究する際、ドゥルーズとガタリは自然かつ社会の記録双方において欲望する機械が三つの統合で成り立っていると論じた.結合、離接そして接続である.統合は三つの機能を果たす.生産、記録、享楽である.私達は生産を生理学的なもの、記録を記号論理学的なもの、そして享楽を心理学的記録と関連付けることができる.「統合」というカント派的響きを捉えることが重要である一方、統合を実行する主体が不在という、我々が先に述べたポスト構造主義者の視点に沿って注意することが等しく重要である.その代わりに主体は統合の生産物の一つそのものである.統合は主体に位置づけられている.それら統合とはただ欲望する機械の内在過程である.統合の背後に主体を位置づけることは統合の超越的用法であろう.ここで我々はカント派の内在の原則について、もう一つの言及を参照できる.ドゥルーズとガタリは「唯物論的精神分析」あるいは「分裂病分析」における統合の内在的用法を研究することを提案する.対照的に、精神分析は統合の超越的用法であり、五つの「パラロジズム」あるいは「超越的幻想」を生み出し、集中的な生産過程への広範囲な実質的な所有物特性を割り振るものとして関与する.すべてのパラロジズムが生産物から派生するアイデンティティに特異な過程を従属させる.

*アントナン・アルトーはフランスの俳優、詩人、演劇家.統合失調症の診断を受け九年間入院したこともあるが、生涯を創作活動に捧げた.「器官なき身体」は彼の言葉.

*パラロジズムとは誤った結論や議論を導く論理および修辞学の技法のこと.誤謬など.

*シニフィアンとは、ソシュールによる言語学用語.言葉のもつ感覚的側面とも言える.文字や音声はシニフィアンに当たる.一方、シニフィエは想起する意味内容や概念を差す.

オイディプスとスフィンクス.命がけのなぞなぞバトルを行う.

 「アンチ・オイディプス」において記された「普遍的歴史」によれば、社会的生活は、生産に対する功績を認める社会組織「socius(同胞)」の三つの形態をとる.部族のための大地、帝国のための君主の体、そして資本主義のための資本家である.ドゥルーズとガタリの人類学的文献の読解によれば、部族社会は入信の儀式で体に印をつける.そうして器官の産物は一族に、大地に神話的に遡るのである.より正確にいえば、神秘的な領域の一部、器官としての機能が大地全体へとたどり着く.物質的流動はこのように「領土化されたもの」で、大地に遡り、すべての産物の源として認められる.部族的な碑文の印はシニフィアンではない.それらは音声に位置付けするのではなくて、「野蛮な三角形:連結された音声、生々しい手、観察力のある眼、これら三つが独立していることを意味する残酷劇」を上演をするといえよう.帝国はこれらの部族的意味の暗号を超コード化し、生産物を聖なる父たる君主に遡及させる.君主制帝国における物質的流動は「脱領土化」(もはや大地に認知されない状態)になり、すぐに君主、あらゆる生産物に対して信用を引き受ける肉体に「再領土化される」のである.部族の印が超コード化されると、シニフィアンは「脱領土化した印」とされ、支配者と被支配者との間のコミュニケーションを可能にする.シニフィアンは「平板化」または「二義化」である.二つの鎖が一対一で並び、書き言葉と話し言葉に対応する(デリダの音声中心主義という考え方を参照).帝国のsocius「同胞」としての君主の肉体は、労働者が君主の「手」であり、密偵はその「眼」であることなどを意味する.

 資本主義は、以前の社会的機械が熱心に大地と君主の体にコード化した物質的流動の根本的な解読と脱領土化である.生産は資本の「肉体」に信用付けられるが、コードに対する「自明なもの」の代替による記録形式である.この文脈において「自明な」という意味は(脱領土化した労働と資本の)流動の間の差異よりもsocius「同胞」における図を流れる定性的な判断に対する精巧な規則というよりもむしろ定量的計算に対する一連の単純な原則を意味する.資本主義の命令はまったく単純である.脱領土化した労働と資本の流動を接続しその接続から余剰を抽出する.このようにして資本主義は巨大な生産的責任を緩和しこれら流動を接続するのである!速く、もっと速く!私有財産機関の余剰は個人の所有物として記録しようとする.今やこれら個人は主に社会的(資本家あるいは労働者の像として)であり次に私的なもの(家族)である.肉体の器官が社会的に以前の体制において顕著である一方、(一族と大地の帰属物として、あるいは皇帝の所属として、jus primae noctis「初夜権」として)肉体の器官は資本主義のもので民営化され家族の一員として人に付帯する.ドゥルーズとガタリの言葉では、資本主義の脱コードされた流動性は「人々」における再領土化であり、それは、オイディプス的三角形における像としての家族なのである.

哲学界のD&G.左がDで右がG.対照的な散らかり具合だ.

In considering Anti-Oedipus we should first discuss its performative effect, which attempts to “force us to think,” that is, to fight against a tendency to cliché. Reading Anti-Oedipus can indeed be shocking experience. First, we find a bizarre collection of sources; for example, the schizophrenic ranting of Antonin Artaud provides one of the basic concepts of the work, the “body without organs.” Second is the book’s vulgarity, as in the infamous opening lines about the unconscious (the Id): “It is at work everywhere, functioning smoothly at times, at other times in fits and starts. It breathes, it heats, it eats. It shits and fucks [Ça chie, ça baise]. What a mistake to have ever said the id” (7 / 1). A third performative effect is humor, as in the mocking of Melanie Klein’s analysis of children: “Say it’s Oedipus, or I’ll slap you upside the head [sinon t’auras un gifle]” (54 / 45; trans. modified). There are many more passages like this; it’s safe to say very few philosophy books contain as many jokes, puns, and double entendres as Anti-Oedipus. A fourth element is the gleeful coarseness of the polemics. Among many other examples, thinkers of the signifier are associated with the lap dogs of tyrants, members of the French Communist Party are said to have fascist libidinal investments, and Freud is described as a “masked Al Capone.” All in all, the performative effect of reading Anti-Oedipus is unforgettable.

Passing to the conceptual structure of the book, the key term of Anti-Oedipus is “desiring-production,” which crisscrosses Marx and Freud, putting desire in the eco-social realm of production and production in the unconscious realm of desire. Rather than attempting to synthesize Marx and Freud in the usual way, that is, by a reductionist strategy that either (1) operates in favor of Freud, by positing that the libidinal investment of social figures and patterns requires sublimating an original investment in family figures and patterns, or (2) operates in favor of Marx by positing neuroses and psychoses as mere super-structural by-products of unjust social structures, Deleuze and Guattari will call desiring-production a “universal primary process” underlying the seemingly separate natural, social and psychological realms. Desiring-production is thus not anthropocentric; it is the very heart of the world. Besides its universal scope, we need to realize two things about desiring-production right away: (1) there is no subject that lies behind the production, that performs the production; and (2) the “desire” in desiring-production is not oriented to making up a lack, but is purely positive. Desiring-production is autonomous, self-constituting, and creative: it is the natura naturans of Spinoza or the will-to-power of Nietzsche.

Anti-Oedipus is, along with its conceptual and terminological innovation, a work of grand ambitions: among them, (1) an eco-social theory of production, encompassing both sides of the nature/culture split, which functions as an ontology of change, transformation, or “becoming”; (2) a “universal history” of social formations—the “savage” or tribal, the “barbarian” or imperial, and the capitalist—which functions as a synthetic social science; (3) and to clear the ground for these functions, a critique of the received versions of Marx and Freud—and the attempts to synthesize them by analogizing their realms of application. In pursuing its ambitions, Anti-Oedipus has the virtues and the faults of the tour de force: unimagined connections between disparate elements are made possible, but at the cost of a somewhat strained conceptual scheme.

Anti-Oedipus identifies two primary registers of desiring-production, the natural or “metaphysical” and the social or “historical.” They are related in the following way: natural desiring-production is that which social machines repress, but also that which is revealed in capitalism, at the end of history (a contingent history, that is, one that avoids dialectical laws of history). Capitalism sets free desiring-production even as it attempts to rein it in with the institution of private property and the familial or “Oedipal” patterning of desire; schizophrenics are propelled by the charge of desiring-production thus set free but fail at the limits capitalist society proposes, thus providing a clue to the workings of desiring-production.

It’s important at the start to realize that Deleuze and Guattari do not advocate schizophrenia as a “lifestyle” or as the model for a political program. The schizophrenic, as a clinical entity, is the result of the interruption or the blocking of the process of desiring-production, its having been taken out of nature and society and restricted to the body of an individual where it spins in the void rather than make the connections that constitute reality. Desiring-production does not connect “with” reality, as in escaping a subjective prison to touch the objective, but it makes reality, it is the Real, in a twisting of the Lacanian sense of the term. In Lacan, the real is produced as an illusory and retrojected remainder to a signifying system; for Deleuze and Guattari, the Real is reality itself in its process of self-making. The schizophrenic is a sick person in need of help, but schizophrenia is an avenue into the unconscious, the unconscious not of an individual, but the “transcendental unconscious,” an unconscious that is social, historical, and natural all at once.

In studying the schizophrenic process, Deleuze and Guattari posit that in both the natural and social registers desiring-production is composed of three syntheses, the connective, disjunctive, and conjunctive; the syntheses perform three functions: production, recording, and enjoyment. We can associate production with the physiological, recording with the semiotic, and enjoyment with the psychological registers. While it is important to catch the Kantian resonance of “synthesis,” it is equally important to note, in keeping with the post-structuralist angle we discussed above, that there is no subject performing the syntheses; instead, subjects are themselves one of the products of the syntheses. The syntheses have no underlying subject; they just are the immanent process of desiring-production. Positing a subject behind the syntheses would be a transcendent use of the syntheses. Here we see another reference to the Kantian principle of immanence. Deleuze and Guattari propose to study the immanent use of the synthesis in a “materialist psychoanalysis,” or “schizoanalysis”; by contrast, psychoanalysis is transcendent use of the syntheses, producing five “paralogisms” or “transcendental illusions,” all of which involve assigning the characteristics of the extensive properties of actual products to the intensive production process, or, to put it in the terms of the philosophy of difference, all the paralogisms subordinate differential processes to identities derived from products.

According to the “universal history” undertaken in Anti-Oedipus, social life has three forms of “socius,” the social body that takes credit for production: the earth for the tribe, the body of the despot for the empire, and capital for capitalism. According to Deleuze and Guattari’s reading of the anthropological literature, tribal societies mark bodies in initiation ceremonies, so that the products of an organ are traced to a clan, which is mythically traced to the earth or, more precisely, one of its enchanted regions, which function as the organs on the full body of the earth. Material flows are thus “territorialized,” that is, traced onto the earth, which is credited as the source of all production. The signs in tribal inscription are not signifiers: they do not map onto a voice, but enact a “savage triangle forming … a theater of cruelty that implies the triple independence of the articulated voice, the graphic hand and the appreciative eye” (189). Empires overcode these tribal meaning codes, tracing production back to the despot, the divine father of his people. Material flows in despotic empires are thus “deterritorialized” (they are no longer credited to the earth), and then immediately “reterritorialized” on the body of the despot, who assumes credit for all production. When tribal signs are overcoded, the signifier is formed as a “deterritorialized sign” allowing for communication between the conquered and the conquerors. Signifiers are a “flattening” or “bi-univocalization”: two chains are lined up, one to one, the written and the spoken (205–6; cf. Derrida’s notion of “phonocentrism”). The body of the despot as imperial socius means that workers are the “hands” of the emperor, spies are his “eyes,” and so on.

Capitalism is the radical decoding and deterritorialization of the material flows that previous social machines had zealously coded on the earth or the body of the despot. Production is credited to the “body” of capital, but this form of recording works by the substitution of an “axiomatic” for a code: in this context an “axiomatic” means a set of simple principles for the quantitative calculation of the difference between flows (of deterritorialized labor and capital) rather than elaborate rules for the qualitative judgments that map flows onto the socius. Capitalism’s command is utterly simple: connect deterritorialized flows of labor and capital and extract a surplus from that connection. Thus capitalism sets loose an enormous productive charge—connect those flows! Faster, faster!—the surpluses of which the institutions of private property try to register as belonging to individuals. Now those individuals are primarily social (as figures of capitalist or laborer) and only secondarily private (family members). Whereas organs of bodies were socially marked in previous regimes (as belonging to the clan and earth, or as belonging to the emperor, as in the jus primae noctis), body organs are privatized under capitalism and attached to persons as members of the family. In Deleuze and Guattari’s terms, capitalism’s decoded flows are reterritorialized on “persons,” that is, on family members as figures in the Oedipal triangle.

難解を極めるD&G

  お疲れ様でした.確かに「パラノ」という言葉は出てこなかった.翻訳をなるべくスムーズに読めるように苦心したが私にはこれが限界である.兎にも角にも「アンチ・オイディプス」という作品で示されているのは、フロイトの唱えた「オイディプス・コンプレックス」に対する強い批判であり、オイディプス王の呪いの図式の如く、欲望をなんでもかんでもオイディプス・コンプレックスの図式に当てはめてしまうのはやめませんか、というものだ.そして資本主義社会のコード化(ルール)を免れているのは、分裂病の人々だ、彼らこそ資本主義に抗うことのできる欲望機械なのだ!彼らに続け!という主張である.ここでいうコードというのは規律や法が相当する.それにしても非常にわかりにくい解説である.おそらく記事を書いた人たちのせいではなくて、ドゥルーズとガタリが難しすぎるのだろう.「コード化」「脱領土化」「三角形」これらの言葉の持つ射程がでかすぎる.ポスト構造主義はこういうものなのかな.「ドゥルーズの理解が難しいのは彼の文体が難解であるからだ、彼の散文はかなり意味深で新語を交えるせいでもある(One of the barriers to Deleuze’s being better read among mainstream philosophers is the difficulty of his writing style in his original works (as opposed to his historical works, which are often models of clarity and concision). Deleuze’s prose can be highly allusive, as well as peppered with neologisms)」とされているので、やはりドゥルーズのせいだ.

 ここまできて私の意見を言っておくと、確かに.私自身いたずらに「オイディプス」の図式に当てはめて葛藤を解釈するのはどうかと思うことはずっとあったから部分的に納得はできる.かつて「この症例にオイディプス的葛藤はありますか」と他の先生に訊かれたことがあったが、誰もが父親を殺し、母親と交わるという呪いがかかっているとは思えなかったので「どうなんでしょうね」と自分でも糞みたいな返事をしたのを覚えている.孤児だったらどうするんだ、とか片親だったらどう説明するのか、と私はいつもひねくれたことを考えている.

 もう一つ、おそらくドゥルーズ=ガタリはアントナン・アルトーの例に感化されたのだろうか、分裂病、今で言う統合失調症に対する期待が大きすぎるように思う.まぁこの解説でも注意書きがあるように、「ドゥルーズとガタリが分裂病を「生活様式」あるいは政治的プログラムのモデルとして提唱していないことを理解することが第一に重要である.(It’s important at the start to realize that Deleuze and Guattari do not advocate schizophrenia as a “lifestyle” or as the model for a political program. )」としているのだが、分裂病は、対象の人格・知覚・思考を大いに脅かす疾患であり、適切な治療なしには時間経過とともに人格の解体を引き起こすことはいうまでもない.資本主義から逃れることは確かにできるだろうが、そもそもの社会に適応できないリスクが大きすぎて、このモデルはどう考えても推奨できない.「ボボボーボ・ボーボボ」をご覧になればわかるが、話がどんどん脱線して収集がつかなくなっているような分裂状態は歓迎できない.かろうじてセリフの文法は破綻していないので、完全な解体ではないにせよ.あの状態が続くと疲れてしまう.

ケツ毛ごと愛する

 さてさて、パラノvsスキゾという構造がそこまで重要なものではなさそうだということをようやく確認できたところで、脱毛の話に戻る.私は脱毛を押し付ける社会は喜べないと述べた.そして毛髪への脅威に対抗する英傑にボボボーボ・ボーボボを求めた.脱毛を勧める社会をパラノ的とすれば、ボボボーボ・ボーボボの住む世界はスキゾ的であり、かつて浅田彰氏が提唱した「パラノ・スキゾ」の二項対立を経て、スキゾ的生き方が推奨されるのではないか、とボーボボに期待した.ドゥルーズ=ガタリにも期待した.しかしボーボボの世界はかなりとっ散らかっているし、ドゥルーズの頭髪もかなり散らかっていた.ポスト構造主義の識者の意見を求めたが、そもそもパラノとスキゾの対立はドゥルーズ=ガタリの根幹ではないように感じた.きっと浅田彰氏の文脈に多くの人が、時代が影響を受けたのだろうと推察する.この記事を書き始めた私は、「スキゾ的生き方バンザイ!!」で文末を終わらせようとしていたが、嬉しいことに目論見が外れた.これがわかっただけでもよかった.スキゾ的生き方も大変なのだ.

 皆さんは脱毛についてどのようにお考えだろうか.「そんなの考えすぎだ」という人のために言っておくと、この問題は考えすぎたほうがいいくらい重要である.あなたに高校生の息子・娘がいたと仮定して、たまたまあなたの剛毛な遺伝形質が受け継がれたとする.その表現型に悩むあなたのご子息ないしご息女はあなたに「医療用脱毛したいから現ナマ30万円貸してくれ」という.即座に「ホイ、30万やで.気をつけて行っといで〜」と言うだろうか.そうではないはずだ.なにかしら逡巡するはずなのだ.このあなた方に芽生える葛藤が消失しない限り、私達はとことんルッキズムや価値観、審美性、美意識や表現の自由について議論を行うべきだ.ずるい言い方だが私達は「パーシャル・パラノイアック」かつ「パーシャル・スキゾフレニック」であればいい.自分自身の最大幸福と公共の利益の天秤をグラグラ揺らしつつも、自分にとってかけがえのないもの(アイデンティティ)は譲らず、許せるところは優しい気持ちでとことん譲ればいい.双極において極端な思考は良くない.

 最後に、同じく週刊少年ジャンプで連載されていた漫画「銀魂」より、すべての葛藤を凌駕するであろう象徴的なコマを紹介しておきたい.とある男性がキャバクラに来客する.接客してくれる女性スタッフに、

「彼氏のケツが毛だるまだったらどーするよ?」

 と尋ねる(無論毛だるまなのは本人なのだが).これに対し、女性は以下のように答える.

「ケツ毛ごと愛します」

 この仏性漂う言葉に心弾ませた男性は以来、この女性に惚れてしまうのである.自分が密かに劣等感を感じているものを受容してくれるような器量.これは私見だが、このような無条件歓待の態度が衆生救済につながるような気がしてならない.価値観の相克でなく、受容と共感.何かに固執することもせず、奔走することもなく、受け入れること.たとえブサイクでも、禿でも、毛深くても、持病があっても、整形していても、すっぴんと化粧後のビジュアルがでかくても、鼻毛がちらっと飛び出ていようと、うなじの毛が散らかっていようと、足の親指に毛が三本生えていようと、ケツ毛が毛だるまだとしても、ピーマンが苦手でも、ナイフとフォークが使えなくても、受け入れられるならばそれでいい.愛せるならばそれでいいのだ.愛せないのならば通り過ぎればいい.それ以上は野暮だ.Wo man nicht mehr lieben kann, da soll man – vorübergehen!

「銀魂」第二巻八訓「粘り強さとしつこさは紙一重」より

 

うんこ

創造物としてのうんこ

 いつのことだったか、とある人が「芸術はうんこだ」と言っていた.たしかすごく偉い人だったはずだ.どういうことなのかと思えば、つねに出し続けなければならない、という文脈で言っていた.これは人間の代謝と同じもので、定期的に出し続けないと生存に差し支えるということで合点がいく.なにがしか脳内に入ってきた情報をそのままとどめておくのではなくて、自分なりに噛み砕いて、色々なものとかき混ぜて形にしてひねり出す.まさしくうんこである.大きな違いを言えば、実際のうんこは愛でられないことであろうか.この悲哀は森山直太朗が「うんこ」という曲で悲哀を綴っている.

 別に芸術に限らず、文学だろうと詩歌であろうと定期的に出し続ける性をもつのは人間の大きな特徴だろう.「有名アーティストの新作アルバムが満を持してリリース!!」ということは、うんこの集大成なのかもしれない.「最近、あの歌手、新作ださないね」ということは、その歌手は便秘なのだろう.創造性という意味において.スランプなのかもしれない.スランプというのはそもそも気力や体調が一時的に衰え気味であることをいう.だからきっと原因があると思う.「ハンター・ハンター」の冨樫義博氏の連載が遅れているのは、何かしら理由があるのと同じであろう.ちなみに便秘が解消されるとスッキリする.なにか大きなものがつかえていた、それが解き放たれると、一気にドバドバと創造性が高ぶることがある.文藝を愛でる人ならよくわかることだと思う.

 実際の便秘ならば食物繊維たっぷりも食事を心がけるとか、定期的な運動をする、緩下薬を飲む、浣腸をするといった解決策があるだろうが、きっと創造性における便秘というのも、似たような方法論で改善策があるはずだ.逆に下痢のようにどろどろと出さずにはいられないような、辛い現象もある.ツイッターで例えるならば、クソツイ(無意味なツイート)を乱発することに近い.別にいいとか悪いとかそういうことをいいたいのではなくて、これは生きている限り人間の生理現象としてしかたがないのだ.下痢気味の人は出してすっきりするが満ち足りることはなくて、次々と出さないと気がすまないような、そういう状態であって、嗜好の問題とは違う.YouTubeで有名なHIKAKINの動画は毎日投稿されている反面、少しも面白くない.とは言っても毎日出し続けていると、沢山の人に評価されるようになる.下痢便でも褒められることもある.

 もう一つ、出そうで慌ててトイレに駆け込んだものの、実は出なかった、という現象がある.私はこれを「ファントム便意」と呼んでいる.家人も理解してくれている.なんだよ、もう、と釈然としない結果に終わるのだが、これも創造性において似た現象がある.新作の映画が何度も延期になるような場合と似ている.期待させておいて実はなにもなかった空虚感は、ファントムである.この現象の病理はいつか取り上げるとする.

 うんこを毎日すると調子がいいように、創造性も継続すると、よいうんこが出てくるようだ.いきなり踏ん張っていいうんこを出そうとする人が多いが、低クオリティであっても続けて踏ん張ることが大事である.動画サイトやブログ界隈でもこうした金言は多い.とにかく続けろ、という指南は永遠のテーマだ.この世の中、一定の設備があれば我々はいくらでも創造の化身であるうんこを放り出すことができるありがたい時代にある.そう考えれば、動画サイトなどはうんこまみれである.地球上を漂うスペースデブリにも似ている.シュールな感じがしてくる.

 実際のうんこをしげしげと眺める人はそんなにいないが、芸術としての創造物は何度でも見返すことができる.「あの時の自分のうんこはこんなにも尖っていたのかぁ」だとか、「うーん、この香ばしさ、若気の至りだったなぁ」という感慨にふけることができる.強烈な腐臭がただようのであれば、本当に水に流してもいいだろう.私達は自由だ.

 このブログも、10ヶ月くらい汚物を垂れ流してきたが、やはりびちゃびちゃと流していると思考が洗練されてくる感覚はある.自然と世の中の出来事がブログのネタになってきてしまうようになる.「今度のうんこはなににしようかな」なんて夕餉の支度を考えるような心づもりで思考が働く.

 続けるということはいいことがある.それは評価されるとか、そういうことではない.自身のために何かいいことがある、というくらいのものだ.何かをはじめてみたものの、二回目以降が億劫になっている人はいると思うが、あきらめない限り継続していることと一緒だ.ファントム便意であろうと、下痢であろうと、放屁だけであろうと、踏ん張ることが重要で、とりあえず生きていればなんとかなる.私はこれからもクンクンと、嗅覚を最大限発揮して、まだ見ぬさらなるうんこの深奥へ潜り込み、自分なりの創造物を思い切りひねり出したいと思う.あーすっきりした.

 

 

 

The Road not taken

レベル3

 2021年3月5日に自動運転レベル3の車が発売された.本田技研によるホンダ・レジェンドである.実走行の短評動画がYouTubeに投稿されていたが、渋滞のときに走行を補助してくれるのはありがたいだろうな、という月並みな感想と意識消失等の緊急時に車両が介入するのは有意義だろうという感想を思った.だがそれ以上は期待できないなぁという気持ちでいる.

 自動運転レベルというのは0から5までの6段階にわかれ、レベルがあがるほど自動運転の介入度が高まる.このレベルは米国自動車技術者協会SAE(Society of Automotive Engineers)やドイツ自動車工業会Verband der Automobilindustrie(VDA)によって定義される.

  レベル2までは運転者の監視が義務付けられるのに対して、レベル3以上は、条件付きで車両による監視が主体となる.つまりよそ見をしても良いことになる.国土交通省も警察も「運転の主体が車両になる」という見解になっているそうだ.部分的に運転者の責任を問わない可能性が生じることになる.

 自動運転のレベルがあがるにつれて、生じる議論の幅は広くなる.この議論はすでに出尽くしたネタになってしまうが、いまだに熟慮すべき問題であると思う.では何を熟慮すべきか.

トロッコ問題

 よく知られている倫理の問題に「トロッコ問題:Trolly Problem」がある.この問題は以下のように提起される.あなたの答えはどうだろうか.

 線路を走っていたトロッコの制御が不能になった.このままでは前方で作業中だった五人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう.この時たまたまあなたは線路の分岐器のすぐ側にいた.あなたがトロッコの進路を切り替えれば五人は確実に助かる.しかしその別路線でもある人が一人で作業しており、五人の代わりにその人がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。あなたはトロッコを別路線に引き込むべきか.
図1:トロッコ問題

  あなたなりの答えが出たとして、話を進めると次のような回答があるやもしれない.「そもそも答えなんてないだろう」「ケースバイケースなんじゃないのか」と.とはいえ自動運転のレベルを上げるためにはこのような倫理的問題に一定の回答をしなければならないと思う.すなわち、トロッコを自動運転システム搭載車両に置き換えて、あなたが乗車していると仮定すれば同じ議論になる.車両が判断を下す必要がある場合、車両はどのようなプログラムに基づいて判断を下せばよいのか.車両を製造する自動車メーカーはどのような判断機構を作るのだろうか.メルセデス・ベンツであろうと、本田技術研究所であろうと、テスラ社であろうと、プログラムを構築しないとならない.もしメーカーが本当に自動運転レベル5を目指すのであれば、だ.ちなみにレベル5は完全自動運転のことをいう.上記のトロッコ問題が現実に出現したとして、車両が「ケースバイケース」を選択することは、本当に正しいのだろうか.車両が五人を救うために無関係な一人を殺してもいいのだろうか.それともそのまま五人を殺してしまうことはブレーキの故障として仕方がないのだろうか.

 この問題はインターネットで検索すれば腐るほど、個人のブログ記事だけでなく企業や出版社などの特集ページで取り扱われている.近年痛ましい自動車事故が日本社会で注目されている.それだけ関心を持たれていることがわかるテーマだと私は感じている.

様々な見解

 この問題は、功利主義を始めとする様々な立場によって回答が異なるであろうという推定がされている.功利主義というのは利益の最大追求を取る立場であるが、ベンサムのような立場であれば五人を助ける可能性が高いだろうとされる.しかし不幸にも無関係な人が死んでしまう.

 もしリバタリアニズムの考えであれば個人の自由を至上とする立場であるから、五人殺すのも一人を殺すのもあなたの自由、しかし全てあなたの責任ですよ、という答えになる.すべての判断が個人に帰結するので、あなたの選択には合目的な説明を伴うだろう.

 もしイマヌエル・カントの立場であっても道徳律に従って、なるべく意図して人を殺さないようにする(つまり一人を犠牲にせず)としても結果多くの人が犠牲になってしまうか.

 どれもこれも正直胸糞が悪い.こういう議論は私は正直苦手なのだ.私はどちらかといえば白黒はっきりさせたい性質があるので答えがないような問題は好きではないし、どうあがいても誰かが死んでしまう展開は気分が悪い.おそらく私は感情で動く人間である.役人には向かない.

 どうにかこうにか、一定の答えがないものか、なにかこの問題や自動運転の議論についての見解・調査結果がないのだろうかと探してみると、モラルマシンという2014年のマサチューセッツ工科大学の研究者らによるデータ集計が参考になった.これは自動運転を用いた人間の道徳的な意思決定に関して、人間の視点を収集する目的で作られたプラットフォームである.ん?よくわからない、という方はぜひリンクをクリックしていただき、実際にテストを行ってみると良い.

 テスターは無作為に設定されたジレンマにおいて二択のうちどちらかを選ばなければならない.犯罪者と信号無視をしたもの、どちらを犠牲にするか、肥満の人々とこども一人、どちらを犠牲するのか、猫と老人どちらを優先するかなどという意地悪な質問が十三問ほど提示される.

 数百万人の膨大なデータが収集され、結果を三つの地域別にわけて検討された.一つは日本や中国、西アジア地域のグループ、東側.もう一つは北米やカナダ、西ヨーロッパのプロテスタント系である西側.フランスそして南米や主に旧フランス植民地の国々である南側だ.この分類ですでに研究のLimitation制約があることは明らかなのだが、回答が地域によって大きく割れたことは興味深いことであった.

図2:モラルコンパス Natureから引用

 例として日本が属する東側グループを見てみると、次のような傾向が見て取れる.一つは進路を変えない(preference for inaction)ことだ.そして歩行者を優先すること(sparing pedestrians)、動物よりも人間を優先すること(sparing humans)、さらに法律を重んじる人を守る傾向(sparing the lawful)ということになる.若者を助けようとすること(sparing the young)は優先されず、社会的地位の高い人物(higher status)や健康な人(fit)に関してはそうでない人とあまり優劣をつけない.人数(sparing more)も考慮されない傾向にある.地域の宗教や倫理観、社会の発展度合い、貧富の格差、人口比率の違いが関係しているだろうと思われる.

 全体ではどうか.研究者の一人であるIyad Rahwan氏は全体の集計を俯瞰すると、国籍や年齢宗教を問わず、多数は功利主義的な選択をするということだった.つまり、五人よりも一人が死ぬことを選んだというわけだ.そして若者を高齢者よりも優先し、動物よりも人間を優先した.社会的地位の高い人や、道路法規を遵守する人を優先する傾向も比較的見られた.その他の事例では先述の通り、地域で意見が割れた.

ではどうするのか

 こうした社会的ジレンマに対して、社会は規制を設けることで対応してきた.ルールを厳格にし、監視と規制を政府や自治体に求めることが一つの解決になりうる、とRahwan氏は述べる.被害を最小化するよう規制の強化を公安委員会や警察に求めてみてはどうか、と.これに対して人々は規制には反対だ.そんな車には乗らない、という.人々が功利主義的な考えを他の車に求めるのに対し、Rahwan氏は人々にそのような車を自分たちは欲しいと思うだろうか、という質問を続ける.すると、多くが「欲しくない」と答えたのだった.

 誰も目の前にいる五人を轢かないためにわざと進路を変えて無関係な人を一人殺してしまう車は欲しくない、あるいは五人を守るために自己を犠牲にする車は欲しくないということだ.まぁそうだろう.自分だけが報われないのはゴメンだ.とはいってもなんと身勝手な!他人には功利主義的な判断をする車に乗ることを求める一方で、自分は乗りたくないという.こんなひどい顧客がいてたまるか!と思いきや残念ながら何十億人もいるのだ.自動車メーカーはこのような無理難題に直面しているといっても過言ではない.論文によれば、この問題に対してドイツの自動車メーカー、アウディだけがモラルマシンに対し “The survey could help prompt an important discussion about these issues.”とコメントし、その他トヨタ自動車や自動運転開発企業Waymo、テクノロジー企業Uberなどは回答を避けた.メーカーの発言は慎重にならざるをえないだろう.きっと自動運転のシステムは最高機密になるのではないか.

 「某メーカーの自動運転システムは国別で異なるんですって!ある国では国民の『社会信用システム』を車両に組み込んでいて、車両のセンサーが国民のIDを認識するんです、国民の信用度の高さで救命の優先度を分けるようになっているらしいです」なんてことが広められてしまっては大スキャンダルである.それが事実であろうと嘘であろうと.

 もし、本気で自動運転レベル5を目指すのであれば、このトロッコ問題や究極の二択を迫るジレンマに対して我々は一定の答えを出さなければならないと私は思う.その鍵は乗り手の利益と公共の利益とのトレードオフであり、どこまでの条件なら我々が公正な判断だ、フェアだ、と思えるかにかかっている、という.そのとおりだと思う.折衷案というか妥協案をどのように追求するかが不可欠になってくる.そのためには我々と社会との間で、個人と公共性の両者の最大幸福について徹底的に議論しなければならない.今後少なくとも何かしら各々が意見を持っている必要があると考えている.そういう時代に来ているような気がしている.

 なにか判断を下すとき、私達は対象に対して評価を行う.自動運転を求めるということは同じようにして車両が対象に判断を下すことを求めることと同じだと思う.人が下す評価は千差万別で、ときに適切で、ときに不適切である.多様性が求められ、かつ差別に対して厳格である難しい時代において自動運転のシステムを構築することは大変な労力である.

 

 私なりの意見を述べると、自動運転はまだまだ先の技術になるのではないか.私個人は自動運転が進んだ世の中をそんなに見たいとも思わない.議論が進まない以上は人間がすべて責任を負うべきだ.それにすでにタクシーというすばらしいサービスがあるではないか.かつて地方タクシー運転手の高齢化を目の当たりにして、高齢者の恐ろしい運転に付き合わされたときはひどく閉口したものだが、目的地を告げるやいなや、複数のルートを瞬時に提案して、最速で連れて行ってくれるサービスは人間の精神がなければ到底無理だ.タクシーやバスの方がはるかに融通が効く.音声聞き取りの精度も期待できない.豪雪や豪雨、未舗装の道を走ることができるのは人間だけだろう.将来AI(人工知能)があなたの職を奪うかもしれない、と危惧されているようだが、道路交通に関する職も当面生き残る気がしている.私にとって自動化はアダプティブ・クルーズ・コントロール(ACC)やレーンキープアシストシステム(LKAS)、駐車補助程度でいい.

話はかわるが

 ここまで私は自律機能を持った機械が個人の利益と公共性を天秤にかける問題について述べた.この問題は1950年代にアイザック・アシモフが「ロボット三原則」を提唱し、漫画「鉄腕アトム」でその原則が継承されている.人間に暴力を振るわれてもやり返すことのできないアトムがその葛藤で悩む姿を思い出す.原則は以下の通りである.

第一条:ロボットは人間に危害を加えてはならない.また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない.
第二条:ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない.ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない.
第三条:ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない.
日本アルプスにこもるロボットたち

 「青騎士」編でアトムが人間の迫害に感化されて原則を破り、人間に歯向かうシーンはなかなか痛快であった.同じような構図のゲーム作品がプレイステーション4のプラットフォームで発売されているが2018年の「Detroit: Become Human」は非常に興味深い.アンドロイドによって雇用を奪われた人間たちが怒りに身を任せてアンドロイドを集団リンチするシーンは、「鉄腕アトム」の焼き直しにも思えるし、アメリカで起きたジョージ・フロイド抗議運動も根強い黒人差別に対する怨嗟を想起させる.鉄腕アトムは高潔なロボットだった.そして彼を見守る人物も高潔であったが、私達は自律機能をもった機械に対して高潔でいられるだろうか.個人の利益と公共の利益双方を守らんとするプログラムを組まれた車両が、不幸な事故を起こしたとき、私達は冷静でいられるだろうか.その車両の判断を、その自動車メーカーの判断を、エンジニアの判断を、真摯に受け止められるだろうか.少なくとも私は期待していない.「未来の技術が楽しみだなぁ」と楽観しているだけならば自動運転は限定的にとどめてやめてしまったほうが良い.でなければいつか人間への憎しみに駆られた青騎士がとどめを刺すだろう.

 

  

 

 

 

 

 

 

ファントムドライブ

オキゴンドウとファントム

 冷たい夜に車を運転をしていてびっくりしたことがある.あるとき前方に巨大な車体を認めた.尾灯の形は見慣れぬもので、自動車診断学の知識を活かしてなんとかロールス・ロイスのそれだとわかったが、夜間だと車種が同定しづらい.前方100mではわからなかった.自然と近づいて追い越してゆく際に横目で見やると、ぎょぎょぎょぎょ!以前取り上げたファントムVIIIであった.なんというデカさ!車体があまりにもでかすぎる.ドレッドノート戦艦を基準にして例えられる「超弩級」という言葉はファントムにふさわしいと思った.だが誤解なくいうと私は決してその車の意匠は好きではないし、ほしいとも思わない.ではなんでそんな話をするのか.本当は好きなんじゃないのか.そう思った方は、ただの小市民が体長5mのオキゴンドウを飼育したいと思うだろうかと考えてほしい.見た目の好みもあってもいいじゃないか.とはいっても水族館で見ればワクワクするものだ.ただ私は同じようにファントムを見てワクワクしただけだ.その夜はオキゴンドウがゆったりと海遊するように、ファントムも悠々と公道を駆け抜けていた.

 同時に私は、密かにリスペクトしている安永浩の、あるエッセイの表題を思い出した.

ファントム空間は疾走する

 こういうことを書くと、中二病だとか、キザだとか、カッコマンだといじめてくる人がいる.これは安永のオリジナルであり、彼はジャン・コクトーらしさを想起して悦に浸っていると述べている.私はジャン・コクトー風情を理解しないのだが、この句が意味するところを以下の文章を引用して説明しよう.

 当時私は、停年後始めた楽しみとして、自動車運転に凝っていたので、ふとこの言葉が頭に浮かんだのである.つまり運転しているときの注意空間は、前後100メートル位、左右が各10メートル位の透明な紡錘状をしているように思えて、この目に見えない空間が、時速40−60キロで車とともに疾走している、というところをイメージしたのである.もちろんどの運転者でも同じだから、路上は無数のファントム空間が疾走し、交錯していることになり、ぶつかる音はしないが大変な混雑ぶり、とこの「目」からは見える…….

 これを見て私は歓喜した.以前の記事で紹介した意識的知覚系Rファントム機能系Ph仮設図式系HSの例えとおよそ同じでは無いか、と.どうか夕方の首都高速6号線小菅ジャンクションのことを考えていただきたい.運転が上手ではない私から言わせてもらうとあれはひどい所だ.あれは左右から無数の車が合流をしかけあう無慈悲な戦場である.まるで海中をアジやイカやカサゴやボラがヒューヒューと泳ぎ回り、お互いにぶつからないように巧みに交錯する.そして時折オキゴンドウやジンベイザメがぬぼーっと周りを威圧して泳ぎ、コバンザメが便乗して右左折をする.はぐれたイワシの身である自分としては緊張する場面である.とはいえ、私の考えていた事、車に例えていたことが同じであったのは僥倖で、一瞬安永と400%くらいシンクロしたような感覚となった.案外思索にふけるのは悪くないなと思った.

 無数の意思が、互いに干渉しないように(時として干渉してしまうが)走り抜けていくさまを見ると、私は背景にファントム機能を意識せずにはいられない.おそらく脳科学の立場からいえば「身体感覚の延長」という表現になるのだろうが、私は「ファントム空間が疾走する」方がしっくりくる.より説明的だと思っている.ではどのように説明的か、というとその説明はなかなか難しい.まずは特集「ファントム空間論」をはじめからご覧になっていただければと思う.いつか脳科学の立場から幻肢を取り上げて説明を試みたいとも思う.

ファントム短縮2.0

 なんどもなんども読み返してもわからない部分というのがあった.彼の著書に図示されているファントム短縮の説明が大変抽象的?(もしくは自分がポンコツ)なので一つの図を理解するのにものすごく時間がかかってしまって、なかなか前に進めない感覚があったのである.「ファントム短縮」というタイトルで昨年の12月25日に投稿をしたときは、その説明は割と表層をなぞるような記事に過ぎず、各論に迫りきれなかった.まずはおさらいをしておく.

 ファントム空間(こころの空間)とは、体験可能な至近点(自分の身近なところ)から至遠点(赤の他人)までの空間のことをいう.その至近極からその時のイメージまでの体験距離をファントム距離、といい(こころの距離)、これを保っている特殊エネルギー実態の働きをファントム機能(こころの機能)と呼称する.ファントム距離はビヨヨ〜ンとゴムまりのように多少伸び縮みする.だがたいていは至適定常距離にある.つまりほどほどの距離感を保つことができている.知的イメージはその端に現れる.知的イメージというのは、「家族」、「友人」、「職場の人間」といった他者の存在と考えてよい.それなりの距離感を自分なりに掴んでいる.それがファントム機能だ.この機能が正常であれば、習慣的に作られた世界の距離的構造の認識図式とファントム機能とはそのファントム距離測定において全く一致している.

 ところがファントム機能のなんらかの失調により、ファントムエネルギーが低下してしまったとする.だが、自身はそれに気づかない.当人にとって実際のイメージはその「予期された距離」にはなかった.自身はよろめき、錯覚運動が起こる.どのような錯覚運動か.前回の記事で例えたエレベータをもとに考えてみる.エレベータにおいて自分が完全な静止系にいると思っていたら実は自分が等速運動する慣性系にいて、なおかつ突如急制動し、自分が浮き上がるような感覚である.これは「不意打ち」に近い仕打ちだ.当然狼狽するだろう.安永はこのような「不意打ち」をファントム短縮と呼んだ.

 

 この議論はもう少し深堀りすることができるようだ.安永は以下のように議論を進める.知覚体験における意識全体のあり方と、表象体験における意識全体のあり方と、表象体験における意識全体のあり方は異なっている、と.ではどう異なるのか.彼はジャン・ポール・サルトルの現象学的考察を取り上げている.残念ながら私にはサルトルの考えはよくわからない.だが、要するに知覚体験には「外界から流入するたえざる充実」という激しい緊張関係がある一方で、表象世界にはそれがない.おそらくは、視覚のような知覚体験は、失明するか後頭葉を損傷するなどして、神経系を遮断しない限り、無条件に情報が入ってくる.嗅細胞が破壊されなければ、うなぎの蒲焼きの薫香から逃れることができない.それらに対して主体は何らかの想起をする.イメージする、というと曖昧だし、せっかくなので現象学用語のノエシスを使おう.ノエシスが作用してなにがしかのノエマが生じる.つまり、インプットとアウトプットという二つの方向性が生じている.一方、表象というのは、そもそもが抽象的なものだから、知覚情報として入ってくるものではなく、あくまで思念するものである.これは脳内でアウトプットするのみであり、一方向的である.そんなに間違ったことは言っていないだろう.この話は錯視の話にも通ずる.

 ファントム的にいえば、(ファントム的、という表現は安永らしくて好きだ)表象空間は、現実にはないものを指向する、という意味でまさにファントム空間である、と安永はいう.知覚空間では主観的ファントム空間は、さらに現実知覚の流入と充実によって二重の枠付を受けている.この現実の枠付は主観で左右するわけにはいかない独自の源泉をもっている.

 このような相違は「ファントム短縮」の仮定を導入した場合、どのような結果に、どのような現象として現れるだろうか、という問題提起をする.一つは「遠ざかり」、もう一つは「自我収縮」である.ファントム短縮が主観的には、世界自体の錯覚運動=対象距離感の異様の離隔として体験される場合が、「遠ざかり」、自分自身について体験する場合は「自我収縮」となる.……らしいのだが、どうにもこうにもよくわからない.さらに、彼が追補するのは「ファントム短縮」は対象の「遠ざかり」だけでなく、自身の「遠ざかり」が現れてもよいはずだ、という論である.このあたりで私はしばらく躓いていた.

 「この図(図1)を見ていただければわかると思うが」と本には記してあるのだが、私には何度見直してもよくわからなかったことが大きい.何百回見直しただろうか.別に著者を責めるつもりはない.私の理解力を嘆くほかないのか、それとも他の読者にも難解なのか.これは感想を聞いてみたいところだ.

 

図1:置き去りと自我収縮、その両方について安永が考案した図

  あれから幾星霜、なんとかわかったような気がしてきた.自分なりに紙に書いて図示するのが一番良かった.おそらく以下の二つの図として再構成あるいは再解釈すると、わかりやすいのではないかと思う.

 図2を取り上げる.自分と他者がいる.その間は物理的な距離が存在しているとしよう.つまり5メートルや、6フィートだとか、六尺といった具合である.では5メートルとしよう.もしファントム機能が健全であれば、自分と他者の間には5メートルと等しい体感的な距離(ファントム距離)が生成される.通常、ファントムと現実の距離が一致している.そして主体はそのことは自明だとしている.これが健常例である.

 もし、ファントム機能が破綻したとすると、これは無自覚に生じるので、常に主体(R)は気づかないことが前提になる.ファントム空間の射程が文字通り短縮すると、体感可能な空間は他者まで及ぶことはない.及ぶことができない.この場合ファントム距離はそのまま5メートルだと錯覚したままなのであるから、相対的に物理的距離は(そもそもが5メートルにもかかわらず)遠く空虚に感じられる.他者が「他極」から抜け出すような見え方にもなる.この距離感は決して届くことのないもので、たどり着くことのない空隙である.

 もう一つの例は、自己(R)が自極(HS)から「抜け出す」場合である.最初の例は「対象が次第に遠くに離れていく」図式であったが、次の例は「自分(R)」が「自極(HS)から遠ざかっていく」体験といえる.幽体離脱という怪奇現象に似ていると思う.イメージとして「ジョジョの奇妙な冒険」第三部以降に出現するスタンド:幽波紋にも似ている.それから例1と同じように、自身はこのファントム短縮を自覚しない.しかに背後に誰か(HS)がいる感覚.もちろん自分と他人との距離は変わらず5メートルなのだが、自分自身の位置感覚が奇妙に感じられる.

「えっなんで俺が後ろにいんの?」

 最後は混合例である.この場合は、ファントム空間が自他ともに展開されていない場合で、「置き去り」と「自我収縮」を同時にくらってしまったと考える.自分(R)の背後には自分(に似たような誰か; HS)がいる感覚.そして周りの人々は妙によそよそしい.みんな遠巻きに自分を見ている.この感覚は恐ろしい.

図2:健常のファントムとファントム短縮の一例、置き去り
図3:ファントム短縮の例、自我収縮と混合

 このような体験はあくまで仮定であって、安永は何度も繰り返しているのだが、このように考えると症例が語る言葉が実にTheoreticalに理解できるという.私はようやく同意できる立場になった.症例提示を行おう.安永の症例を原文通り引用してみる.

<症例1>

「私がいましゃべっているのはの声です(自分の後頭部を順々に指しながら)大脳、中脳、小脳、中枢、この中枢の声です.中枢がしゃべらせているのです.私の声ではありません」

あなたの声はどんな声なの?>と治療者がきくと

「ちょっと待って下さい.……(と一息ととのえる感じであらたまって)○○君(自分の名前)しゃべりなさい!……(と自らに向かっていう.)父の墓まいりに行きたいので外泊させて下さい.……(云々)いまの声は私の声です……」

(しかし次の瞬間には)

いましゃべっているのは(もう)私の声ではありません.これは脳の声です……」

 この症例は「脳(HS)の意思が自分(R)をしゃべらせる」という様式になっている.専門用語を用いれば、作為体験やさせられ体験という.もちろん、喋っているのは自分自身にほかならないのだが、その背後に他者であるところの何者(HS)かがあって、これがすべての源泉である.この症例は自我収縮の好例と考えてよいだろう.この症例は自分の後頭部を差すのが象徴的である.自極から抜け出して「他」化する自己.前述した「パターン」の逆転すなわち、A<Bがおきていると考えているのではないか.だんだんつながってきた.

安永あんたすげぇな.あんた何なんだ……

 

ここまで読んでくださりありがとうございます.実のところ彼の著作はまだ半分.続きます.