原罪について

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前回のあらすじ

 過去三回連載した「不安の概念」に関する記事で、私は主に第一章、第二章の説明を試みた.簡単にまとめると次のような具合になる.

 ・キルケゴールは不安の構造をキリスト教の「原罪」と自身の人生体験から理解しようとした.

 ・原罪論とは、「人類が普遍的に罪を負っている」という説明に根拠を与えるもので、創世記の伝承、アダムの堕罪に基づいている.ただ教義によって解釈が異なる.

 ・不安とは「自由のめまい」であると例えられる.不安とは、人間存在の構造が何の支えもなく揺るがされていることである.不安と恐怖は前者が対象を欠く点で大きく異なる.

 ・罪と不安は表裏一体である.無責の状態から有責の状態へと質的な変化(質的飛躍)が生じるときに不安が生じる.

 これから話す内容はアダムは人類であり、アダムは個人でもある、というキルケゴールの主張を理解する試みになる.「おれがあいつであいつがおれで」という児童文学を思い出す内容である.

 アダムの罪を説明することは原罪を説明することである.そして、アダムを説明しようとするが原罪をしようとはしない説明、あるいは原罪を説明しようとするがアダムを説明しようとしない説明は何も役にも立たないのである.このことは、全人類は個人に、個人は全人類に与るというようにして、人間は個人であり、そしてそのようなものとして自己自身であると同時に全人類でもあるということが、人間の実存における本質的規定のうちに深く根ざしているように思われる.

「不安の概念」第一章、「原罪の前提としての不安」

 「人間は個人である.そしてそのようなものとして自己自身であるとともに全人類でもあるということ、これは人間の実存にとって本質的なものであると思う」という上記を噛み砕いた文章を考えてみる.

 アダムは蛇に唆されたイヴの誘いで禁断の実を食べてしまった.美味しかったのかどうかは兎も角、「(創造主は)食べてはいけないと言われたが、食べようと思えば食べられるではないか」という自由の気づきのもとでアダムは果実を口にする.その自由とは、「食べてしまったらどうなるのだろう、死ぬとはどういうことだろう」という不安に転じる.そして、その不安は堕罪へと至るわけであるが、この罪は、創造主への無自覚な反逆とも理解できるかもしれない.創造主が作り出したアダムとイヴは全く善い人間であったはずだが、全く善いからこそ、無垢であり、無知であった.無知で、自由である故に堕罪したのであった.

 ここで伝統的教義学(ルターやアウグスティヌスの教義)と異なるのは、アダムは「禁断の果実を食べてみたい」と思ったわけではない、ということである.詳しく言えば「欲情」が生じたわけではない.「食ってはいけない」という神の禁止に対して、「禁止されたことをしてみたい」と思ったのではないのである.

「食べてしまったらどうなるのだろう、死ぬとはどういうことだろう?」

 伝統的教義学によると、アダムが堕罪したときに「欲情Concupiscentia」(生来の悪の傾性)が生まれたとする.しかし、アダムが創造されたとき、そもそも彼は無知ではなかったか.そんな彼が欲情などするだろうか.禁止されたことをしてみたい、という悪があるだろうか、とキルケゴールは考える.アダムとイヴは全く善い人間であったのだ.この堕罪の瞬間における解釈が伝統的教義学とキルケゴールで異なるのであり、「食ってはならぬ」という禁止がアダムの中に罪を生み出した過程には「欲情」ではなく、「不安」という力動が内在していたのであるという彼の論理には敬服するほかない.アダムは悪気なく罪を犯したのである.

 さらに伝承にもあるように、知恵の実を口にしてからは二人はスッポンポンであることを羞恥する.互いに木の葉で外性器を隠すキルケゴールも「堕罪によって性が措定された」と述べている.もし二人が欲情するのであれば、それは堕罪した後の話であろう.

 かくして、アダムが堕罪し、楽園を追放されてからは二人は交わる.するとカイン、アベル、セトが生まれ、セトの子孫がノアとなり、ノアの息子のセムの子孫のテラの息子がアブラハムとなり、その息子がイサク、五作、田吾作、与作……と続くわけである.アウグスティヌスから始まる伝統的教義では、原罪はアダムから上のような繁殖によってその後の人類に伝わるとし、それ故に個人は生まれながらにして罪の中にあると考えた.ルターなどプロテスタント派も、罪の原因を生来人が持つ悪の傾性によって説明しようとしている.だがこれは罪の普遍性を説明するにすぎない.我々にはもともと悪の傾性があるという言い分も納得できそうにない.

 伝統的教義学とキルケゴールの考えは次の点でも異なる.伝統的にはアダムは人類を罪に堕とした張本人かつ原因であるが、アダム以後(与作など)の個人の罪は、人類が堕罪した結果として生じるものとして解釈される.つまり、アダムとそれ以降の人間を区別してしまっている.しかし、そうではない.これでは原罪論が個人の罪性と人類の普遍的罪性両方を説明しようとする試みに反してしまう.もう一度キルケゴールの文章を思い起こしていただく.

 アダムの罪を説明することは原罪を説明することである.そして、アダムを説明しようとするが原罪をしようとはしない説明、あるいは原罪を説明しようとするがアダムを説明しようとしない説明は何も役にも立たないのである.このことは、全人類は個人に、個人は全人類に与るというようにして、人間は個人であり、そしてそのようなものとして自己自身であると同時に全人類でもあるということが、人間の実存における本質的規定のうちに深く根ざしているように思われる.

 現代に生きる我々なら理解は容易いだろうが、奇しくも私とあなたのゲノム情報は極めて類似している.どんなにあなたが嫌がったとしても.私と他の70億の人間のゲノム情報も酷似している.ボブ・マーリーもポール・マッカトニーもルーサー・ヴァンドロスもホイットニー・ヒューストンも非常によく似ている.これは我々がホモ・サピエンス・サピエンスというヒト亜族の一つであることで理解される.もとを辿ればかならずご先祖がいる.ご先祖の先祖をさらにさらに遡れば、我々はいつか生物学的「アダム」に到達する.誰でも人類の連続性がある.

 たかだか10万年程度ではゲノム情報は大きく変わらぬ.あなたとあなたの隣人の遺伝情報は99.9%以上一致しているらしい.チンパンジーでさえあなたとも1−2%程度しか変わらないのだ.故にアダムと現代の私たちの生物学的特質もさほど変わらないし、生得的な能力はほぼほぼ変わらないと見ていいだろう.生物学的な視点で、私とアダムは本質的に同じである.これは70億個ある均一な大きさのビー玉から一つ取り出すのと同じだ.セミの死骸に群れるアリを一瞥して、各々の差異に気づくことはできないように、ガルガンチュアのように巨視的な目線で見ると私たちとアダムはなんら変わりはないのだ.

 連載の最初で私は次のように触れたことを思い出す.

「これ(創世記)はもちろん神話なのであるが、多くの人が挙ってこの神話を取り上げるのは、宗教的な意義だけでなく、ある種、アダムを人類のプロトタイプとして考えたときの思考実験として捉えると興味深いからかもしれない」

 アダムもその後の人類も同じ人間である.よって本来同じ性質である両者を区別することは誤りである.前者を特別扱いしたり、例外扱いすることは議論をおかしくする、とキルケゴールは指摘する.アダムは最初の人間であり、彼は自己自身であるとともに人類である.アダムは人類の範型、典型なのだ.アダムの罪は人類の全体が堕罪した原因ではなくて、むしろ同じ人類である個々人がどのようにして堕罪するかを示す例示「Design study&Prototype」である.アダムが質的飛躍によって堕落したように、我々人類は質的に堕落している.その質的堕落とは、私達は無知ないし無垢な状態において不安の萌芽から自身の行為によって堕罪することなのである.我々は生まれつき罪の中にいるのではない.罪を犯す素質=罪性(ポテンシャル)を秘めているのである.そのポテンシャルが世代を経て伝わっていく、という意味で我々は普遍性を持つ.

 アダムが無知かつ自由故に堕罪したように、私たち人類も自らの無垢と無知で自由な行為によって罪を犯すのだと.よって罪の責任をどこに求めるべきか、それは個々人なのだ、ということは明らかになってくるように思う.

 今回の記事は以上である.私はずうっとずうっと原罪論について考えてきたが、ようやくキルケゴール兄貴が考えていたことに一定の理解を示せそうである.アダムは人類のプロトタイプである、という仮説は存外悪くない考えであったように思うが、それが自分の中で納得できるまでに大変な時間がかかった.そしてその考えを記事にして世間にお示しするにも時間がかかってしまった.牽強付会のように思われたら残念だが、私なりに錆びついた灰色の脳細胞を駆使して考えたのである.

 さて、「貴方こんなことを考えて一体なにになるの」とか「あんた暇だね」、「そんなこと考えているならもっと実学を勉強しなさい」とかいろんなお褒めの言葉が来るだろうと予想するが、私に言わせればこのような思索は臨床実践において極めて必要である.実際とても役に立っている.当たり前だが、精神医学は哲学ではない.だから精神病理学も哲学ではない.哲学ではないが、哲学の方法論を使わないことには理解できないだろうと思う.外科医にとっての手術室と同じように、私にとって哲学は精神病理を理解する思考の力場であり、外科医にとってメスが道具であるように、心理学は精神療法を実践するための道具である.ともすれば薬理学はある種飛び道具であろうか.

 不安は誰にでもある心的動きである.これがどのような機構で生じるのか、について一定の把握をしておくことは決して悪いことではない.生理学的なアプローチに基づくGABAの機能失調等の仮説も十分理解しておくべきだろう.だからと言って抗不安薬を矢鱈ぶち込めばいいかと言えば決してそうではない!!私はキルケゴールの考えを盲信するつもりはないが、「人間存在の構造が何の支えもなく揺るがされていることが、不安の原因である」という箴言には大変な共感を覚えるし、これを念頭にして面接に望めば不思議とクライエントのむつかしい言辞にも心を沿わせることはできそうなのだ.

いつもありがとうございます.

 余談ですが、当ホームページの用語集、頑張って増やしています.特に心理学関係の用語を充実させていますのでよかったらお立ち寄りください.

 

 

 

重陽の節句を前にして

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創造的便秘:Creative Constipation

 ドイツ観念論の学者の一人、フリードリヒ・シュライエルマッハー(シュライアマハー)に続くキルケゴールお兄さんの原罪論解釈が思った以上に難しい.原罪論というのは我々人類の罪的普遍性の根拠を示すことである.そしてアダムの罪が本質的に、個々人の罪と同一であることを示さなければならない.なんとなくキルケゴール兄貴が言っていることは理解できなくもないのだが、それをうまく伝えることができなくては理解したうちに入らぬ.私はずうっと原罪論について考えているのに、なかなか良い説明が思いつかなくて悩んでいる.その他現実問題で悩ましいこともある.少し時間がかかりそうである.超やばい.入浴中のアルキメデスが天啓を得たように、私もどうにかしてピピッと気づけたらよいのにと思う.以前、「うんこ」なる記事を書いたが、要するに私は創造性の便秘である.緩下薬や整腸剤をつかってどうにかなる話ではなさそうに思う.またブリブリ放り出すことができればお伝えしたい.大変申し訳無い思いで私は、悪魔ベルフェゴールの如く便座に座している.

心理学への誘い

 とある要請によって私は大学以来等閑であった心理学の勉強を再開することにした.大部分の動機は私への自己投資である.かくして妻の蔵書を拝借して臨床心理学の参考書をはらりはらりとめくると、全く私は「心理学」について何もかも知らないことに愕然とする(一方、妻は心理学にも詳しいし、教育学や人文学、生物学にも大変明るい).本当に自分でもドン引きするくらい何も知らないことに驚愕した.精神医学と心理学は重複するところはあれど、畑が違うのだと思い知らされる.

 心理学という用語は「Psychology」を西周が訳したもので、経験的事実としての意識現象と行動を研究する学問である.かつては精神についての学問として形而上学的な側面をもっていたが、現代へ続く心理学の発端はヴィルヘルム・マクシミリアン・ヴント(Wilhelm Maximilian Wundt)の実験心理研究所にある.これは1879年のことだから比較的新しい学問だ.多くの心理学者がヴントに学び、さらに学派が誕生した.また批判的立場をとる学者も出現して、これにはフランツ・ブレンターノ(Franz C. H. H. Brentano)が知られる.このお兄さんは私も度々取り上げた現象学おじさんエドムント・フッサールの師匠である.そのフッサールの弟子がハイデガーおじさんなわけで、心理学と哲学は多分に連綿と結びついている.

 同時代にジークムント・フロイト(Sigmund Freud)おじさんもいるがこちらは精神分析学の範疇に属する.精神分析学が心理学に属するという主張はおよそ誤解である.では精神分析とは何か、と問われれば現役の精神分析家の十川幸司氏をして「一つの思考の経験」と呼ぶらしい.もっと詳しく言えば、

 精神分析とは自己についての思考というより、分析家という眼前の他者を介した、より一層根源的な他者についての思考の経験なのである.その他者によって自己がどのように規定されているのか、その他者に対してどうあるべきなのかということが精神分析の中心的な問いとなる.

「精神分析」より十川幸司、岩波書店、2003年

 精神分析が思考の経験である、という主題は、嚆矢であるフロイトこそが精神分析を自己の無意識の真理に向った思考経験だと考えたからである.思考を題材にする点で哲学と似た部分はあるが、精神分析は他者を介在した営為である意味でそれと異なると思う.精神分析は別の記事でいつかまとめたい.

 なんだかんだいってフロイトは心理学に多大な影響を与えた人なので、この人は心理学上無視したくともできない.この分析畑の学派を精神力動系学派と呼ぶ.カール・グスタフ・ユング(Karl Gustav Jung)、最近人気の個人主義、アルフレッド・アドラー(Alfred Adler)、新フロイト派のエーリッヒ・フロム(Erich S. Fromm)、ハリー・サリヴァン(Harry S. Sullivan)やメラニー・クライン(Melanie Klein)やドナルド・ウィニコット(Donald W. Winnicott)に代表される対象関係論などが上記のグループに属すると考えて良い.

 その他、認知・行動に関する学派はハンス・アイゼンク(Hans J. Eysenck)やジョセフ・ウォルピ(Joseph Wolpe)などを経て認知行動療法としての技法を完成させているし、人間性心理学の立場はこれらの立場に対抗して発展した学派で、人間の肯定的で健康な側面を強調する.カール・ロジャーズ(Carl R. Rodgers)やヴィクトール・フランクル(Viktor E. Frankl)らが知られる.

 ここまで紹介しただけでも大変な数の心理学者がいる.様々な学派の心理学好きがいるということは試験勉強としては厄介ではあるが、非常に多様性に富んだ学問として魅力もあると肯定的に捉えておこう.もしかすれば、読者の皆様も知っている学者がいるかもしれない.

 改めて、なぜ私が心理学を勉強するのかといえば、私にとって臨床上の必要である.要するに、私は精神療法(心理療法とほぼ同義)を極めたいのである.精神科医は薬だけ処方してバイバイ、のような悪評を突きつけられているように思う.実際、主観だがそのような医者は少なくないのではないか.私はそのような悪評に対抗したい、という気持ちが強い.どんなに薬理が発達しようと、決して、絶対に、薬理だけでは精神疾患の改善は起こり得ない、というのが私の信条である.適切な面接が引き起こす脳内神経物質のポジティブな化学反応はあらゆる薬剤の効果をブースト(augment)する.そもそも何も入っていない錠剤を飲んだだけでも、抑うつ気分が改善するような奇妙な現象は、薬理以外の誘因が関与している.製薬会社の資料を見れば一目瞭然である.これはプラセボ効果とも言われる.「良くなりたい」「良くなるだろう」と思い込ませる、あるいは「この人が処方する薬なら良くなりそうだ」と信憑させる技量、すなわち信頼関係(Rapport)を築く技術の習得は心理学の理解なしはあり得ないだろうと思うようになった.よって、私は現在の技術のみならず、臨床心理技術職としての立場を築いていきたいと目標にしている.幸い役者は揃いつつある.そこからさらにサブスペシャリティを見つけられるならば願ったり叶ったりである.

 精神療法の手がかりとして

 2015年初版の医学書院から出されているオープンダイアローグとは何か」という書籍を私は繰り返し読んでいるが、これまたなかなか良い読書体験を得たと思っている.2021年5月18日の投稿「不確実性へ溶け込め」で紹介したばかりだ.私がライナー・マリア・リルケに出会ったのはこの書籍のおかげである.

 しかしながら私がオープンダイアローグについて語る資格はほとんどないに等しいだろう.というのも、私はこうした方法論を書籍や論文で知ったのみであり、実際に研修や講習会に参加したこともなければ、方法論を知る人から技術を教わったこともないのだから.猛威を振るう世界規模の感染症のため、どうしても外部に赴いて勉強する、ということが当面できそうにない.これは遺憾である.おそらく殆どの学術活動が停滞しているのではないか.オンラインで一応参加することはできるが、会場でポスター展示を眺めつつ、シンポジウムに片足を突っ込んで視聴するだとか、独特の空気感の中で他の講演を聴くことは現場でしかできない.だが悲観してばかりもいられない.おそらくは徐々に感染症の勢力が弱まってくれば、様々な学術活動が息を吹き返すだろう.その折に私はスーパーヴィジョンを受けるとか、認知行動療法や暴露療法・暴露妨害反応法の講習を受けることを強く希望している.いつかスーパーヴィジョンを受けることができた日にはできる範囲で報告をしてみたい.もちろん、オープンダイアローグも.

 一応、少しだけ著者斎藤の内容を引いて話をすると、どうやらオープンダイアローグは複数の音楽家による即興演奏に似ている.この面接の基本は「不確実性への耐性」「対話主義」そして「ポリフォニー」であるという.ポリフォニーに関しては「ミサ・ソレムニス」を想起していただきたい.治療者と患者、その家族や支援者らが紡ぐ音色はどのような終着へ行き着くか誰にもわからない.精神病症状が生む危機的状況は曖昧さをはらみ、治療者と患者双方にとって緊張感を生む.それは感情的負担である.ゆえに演者と聴者は常に不確実性への耐性が求められる.しかし、それに抗うことができるのが「対話」であり、「対話」こそ治療の糸口なのであるという.基本的に、精神病症状を呈する患者の幻覚・妄想には強烈なトラウマ体験がメタファーとして取り込まれている.それは私の短い経験でも十分に同意できる.症状の暗示する外傷体験が、周囲にとってどれだけ理解しがたいものであったとしても当事者はなんらかの形で現在進行形で情緒的に反応しているはずである.

 最近の私の小目標を述べれば、統合失調症が慢性に経過し人格水準が著しく低下した症例において、どのような面接が効果的なのか.思考が解体し、言語が言葉のサラダとなった人々にとってどのような態度が有効であるのか.こういったことの理解が求められている.急性期の治療や寛解・維持期の症例をどのように進めていくかについてはたくさん議論がなされているけれども、慢性期に関して私はあまり良い方法を知らない.

若き詩人への手紙

 私の中には多くの疑問が生起する.その問いはかくして上記の臨床の問題であったり、時事問題であれば、将来の身辺の問題であることもしばしばだ.あまりにも疑問が多すぎて一見壊れそうである.私は今までこうした問いに速やかに答えを出すことが必要なのだと思い込んできたが、どうやらそうでもないらしい.このような時勢において我々は感情をやたらと消費する場面が多いように思うが、このような時こそ、私達は未解決のものすべてに対して忍耐をもつべきだと.すぐに答えを探そうとしないこと.さらに、生起する疑念に対して批判かつ吟味することが必要なのだと.

 よって私は改めてリルケを引用したい.

 

 あなたはまだ本当にお若い.すべての物語のはじまる以前にいらっしゃるのですから、私はできるだけあなたにお願いしておきたいのです.あなたの心の中の未解決のものすべてに対して忍耐を持たれることを.そうして問い自身を、例えば閉ざされた部屋のように、あるいは非常に未知な言語で書物のように、愛されることを.今すぐ答えを捜さないでください.あなたはまたそれを自ら生きておいでにならないのだから、今与えられることはないのです.すべてを生きるということこそ、しかし大切なのです.今はあなたは問いを生きてください.そうすればあなたは次第に、それと気づくことなく、ある遥かな日に、答えの中に生きて行かれることになりましょう.

若き詩人への手紙、1903年、ブレーメン近郊ヴォルプスヴェーデにて、高安国世

You are so young, all still lies ahead of you, and I should like to ask you, as best as I can…to be patient towards all that is unresolved in you heart and try to love the questions themselves like locked rooms, like books written in a foreign tongue. Do not now strive to uncover answers: they cannot be given you because you have not been able to live them. And what matters is to live everything. Live the questions for now. Perhaps then you will gradually, without noticing it, live your way into the answer, one distant day in the future.

Letters to a Young Poet, 1903, Worpswede near Bremen, Translated by Charlie Louth

Sie sind so jung, so vor allem Anfang, und ich möchte Sie, so gut ich es kann, bitten, lieber Herr, Geduld zu haben gegen alles Ungelöste in Ihrem Herzen und zu versuchen, die Fragen selbst liebzuhaben wie verschlossene Stuben und wie Bücher, die in einer sehr fremden Sprache geschrieben sind. Forschen Sie jetzt nicht nach den Antworten, die Ihnen nicht gegeben werden können, weil Sie sie nicht leben könnten. Und es handelt sich darum, alles zu leben. Leben Sie jetzt die Fragen. Vielleicht leben Sie dann allmählich, ohne es zu merken, eines fernen Tages in die Antwort hinein.

Briefe an einen jungen Dichter, 1903, Worpswede bei Bremen

よく聴くこと

 あなたの懐疑も、あなたがそれを教育されたなら、一つのよい特質となることができます.それは知的なものになり、批判とならなければなりません.それがあなたの何かをそこなおうとするたびに、それに向ってなぜある物が厭わしいのかをお問いなさい.それに向って証明を求め、よく吟味してごらんなさい.そうすれば多分懐疑の方で閉口し、うろたえるのが、おそらくまた食ってかかってくるのが、おわかりになるでしょう.しかし負けてはなりません.討論をお求めになるがよろしい.こうしてそのつど、あなたは慎重に、徹底的に、同じ行動をとられるのならば、いつか、懐疑が破壊者からあなたの一番よい働き手の一人__おそらくあなたの生を築くすべての者の中で一番賢い者となる日がくるでしょう.

若き詩人への手紙、ライナー・マリア・リルケ、1904年、スウェーデン、ヨンセレート、フルボリ、高安国世訳

And your doubts can become a good quality if you school them. They must grow to be knowledgeable, they must learn to be critical. As soon as they begin to spoil something for you ask them why a thing is ugly, demand hard evidence, test them, and you will perhaps find them at a loss and short of an answer, or perhaps mutinous. But do not give in, request arguments, and act with this kind of attentiveness and consistency every single time, and the day will come when instead of being demolishers they will be among your best workers – perhaps the canniest of all those at work on the building of your life.

Letters to a Young Poet, Rainer Maria Rilke, 1904, Furuborg, Jonsered, in Sweden, translated by Charlie Louth

Ihr Zweifel kann eine gute Eigenschaft werden, wenn Sie ihn erziehen. Er muß wissend werden. er muß Kritik werden. Fragen Sie ich, sooft er Ihnen etwas verderben will, weshalb etwas häßlich ist, verlangen Sie Beweise von ihn, prüfen Sie ihn, und Sie werden ihn vielleicht ratlos und verlegen, vielleicht auch aufbegehrend finden. Aber geben Sie nicht nach, fordern Sie Argumente und handeln Sie so. aufmerksam und konsequent, jedes einzelne Mal, und der Tag wird kommen, da er aus einum Zerstörer einer Ihrer besten Arbeiter werden wird, – vielleicht der klügste von allen, die an Ihrem Leben bauen.

Briefe an einen jungen Dichter, Rainer Maria Rilke, 1904, Furuborg, Jonsered, in Schweden

 不確実性への耐性、まずはこれを実践したいと思うこの頃、もうすぐ重陽の節句である.なんでも菊の花が美しく咲く時期なのだとか.私はお酒をやらないから、菊に因んで何かするとすれば、今まで通り、よく「聴く」ことを続けることにしたい.

ご自愛ください.

質的飛躍

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  セーレン・キルケゴールによる「不安の概念」という著作は不安についての分析を試みたものである.これまで二回ほど彼の著書について取り上げたが、そもそも取り上げた理由は、間接的なものではあるものの臨床で生じた様々な疑問からであった.それらは過去の記事のリンクから御覧いただいて参照して欲しい.一つは、不安の現代の語義に関する話題、もう一つは、罪を「創世記」の伝承から読み解こうとした先人の紹介と、「不安とは自由のめまいである」というキルケゴールの文句を引いた.それに若干の解説を加えたものと記憶している.

 さて、「いかにして罪というものが措定されたか」「不安との関係はいかなるものか」という内容で次の記事を書くことを目標としたが、「不安の概念」の第一章、第二章の理解がとても難しく、殊更にキルケゴールの用語である「質的飛躍」を理解しないことには「堕罪」もひいては「不安」も理解できないことに気づいた.私は時間があるときに何度も何度も頁を往復した.進んでは戻り、進んでは戻り…… どうやら予定変更となりそうだ.

とある漫画から「質的飛躍」を考えてみる

 「ジョジョの奇妙な冒険」第四部、「ダイヤモンドは砕けない: Diamond is Unbreakable」という作品に出てくる広瀬康一小林玉美のやりとりが、罪の「質的飛躍;det qualitative Spring」を理解するのに良いのではないかと私はずっと考えていた.今回はその話をしようと思っている.この小話は物語の核心に迫るものではないのでネタバレはない.安心いただきたい.「ふーん、この筆者はジョジョが好きなんだ」という理解は半分誤解である.そうではなくて、たまたまグレートな例えがジョジョしか思いつかなかっただけだ.作品はまぁまぁ好きだが実際、第五部「黄金の風: Vento Aureo」までしか知らないのだ.そう断っておかないと、本物の通人に失礼だ.

 作品の大筋は以下のようなもので、大河小説(Roman-fleuve)に近い.第四部は宮城県仙台市のとある町をモデルとした架空の町(杜王町)で繰り広げられる、シリアルキラー(連続殺人犯)との戦いを描く.ところで「ジョジョの奇妙な冒険」をご存知ない方に一応、公式の紹介を載せておく.1980−1990年代の週刊漫画の黄金期を築いた作品の一つである.

代々血統が受け継がれ、主人公が交代していく物語

「『ジョジョ』って第何部だとか、主人公が何人もいたりだとか、複雑そう。コミックスも100冊くらい出てるし、タイトルが違うのもあるし、どこから読んでいいかわからない」という方は多いかもしれません。

1987年に週刊少年ジャンプで連載を開始した『ジョジョの奇妙な冒険』は、第1部の主人公ジョナサン・ジョースターと、敵対するディオ・ブランドーとの因縁から始まる物語。その戦いはジョナサンの代だけでは決着せず、その子孫たちも巻き込んで100年以上続きます。主人公や舞台が交代していくのはそういう理由なのです。

JOJO Portal site -ジョジョとは- より

 その作品を語る上で欠かせなくなる概念に「スタンド」がある(「電気スタンド」のスタンドと同じ抑揚である).「スタンド」とは「パワーを持った像」であり、持ち主の傍に出現してさまざまな超常的能力を発揮し、他人を攻撃したり持ち主を守ったりする守護霊のような存在と説明される.人や動物を模したり、飛行機や拳銃、ボディスーツのように持ち主と一体となるものだけでなく、粘体のように姿かたちを自在に変えるものもある.容姿と能力は持ち主固有のものであり、一つとして同じものはない.そして一人一体である.複数はない.基本的に第三部からこの「スタンド」能力で登場人物は戦うことになる.彼らを「スタンド使い」という.第四部も「スタンド」能力の戦いは引き継がれる.

 物語を構成する重要な性質として「スタンド使い」は引かれ合う.多分虫プロダクションに漫画家が自然と集まってくるのと似ている.よって誰かがいれば自然と能力者が集まる.能力者の信念・信条の衝突が能力を駆使した戦いとして表現される.ちなみに「ジョジョの奇妙な冒険」は異能力バトルの先駆けらしい.何を異能力とするのかは定義し難いが.

広瀬康一の災難

 *ここで嬉しい誤算があった.これから説明しようとしていた「罪の質的飛躍」を理解するのに都合の良い場面が、AmazonのKindle版でちょうど試し読みの対象となっている!読者の皆さんが私の茶番に真摯につきあってくれると信じて、以下にリンクを貼っておく.もちろん、私なりに文章に起こして、丁寧、丁寧、丁寧に描写を試みた.とはいってもSeeing is believingであるからぜひ試し読みページをご覧になっていただきたい.

 私と集英社とAmazonに利益相反はありません.下記に示すイラストは模写であり、作者及び集英社の著作権を侵す意図がないことを明記いたします.

 杜王町に住む高校生、広瀬康一は(スタンド能力を発現させるまでは)純粋でごく平凡な少年であった.そんな彼が新品の自転車にまたがり道を走っていると、急に何かが詰まった袋が路面にあることに気づく.広瀬康一は急ブレーキをかけるが間に合わず、袋を轢いてしまう.袋からは真っ赤な液体が滲み、中からはかすかに「ニャァニャァ」と弱った猫が力なく鳴いているような音が聞こえる.

 広瀬は「猫を轢いてしまった」と直観してしまう.轢くことを意図しなかったにせよ.やがて猫の鳴き声は消えてしまう.

 するとどこからか、チンピラのような男が現れる.彼は小林玉美という二十歳の青年で、どうやら強請り屋(他人を脅して無理やり金品を巻き上げる人)として杜王町にいる.彼は広瀬が行った一連の行為を目撃したと証言し、広瀬を動揺させる.そして「声が聞こえなくなったのだから猫は死んだ.おれの猫が」と付け加え、広瀬を追い詰める.広瀬は自分が轢いた猫がこのチンピラの飼い猫だと聞き、困惑する(飼い主ならば猫を袋に入れて道端に放置するなど考えられないのに).

 「おいおい!フザけてんじゃあねーぞ! 君はたしかに悪くない」

 「だがおれのネコ殺しといて無料(タダ)で行っちまうのかよ!カワイイ顔してよーっ」

 「カワイソーなネコをひき殺したのはニイチャン!おまえだ…」

模写1.漫画の一コマから.
当ブログの趣旨は作品と無関係であり、あくまで当ブログの記事内容が主、引用する作品のコマの模写はそれに従属するという認識で掲載しています.

 (実は)小林玉美は「スタンド使い」であった.その能力は「対象に生じた罪悪感に対応して、相手に『錠前』をつけて心の重圧を与える」ものであった.彼はスタンド能力が発現してからか、自身の能力を使って、言葉巧みに強請りをしていたようである.そんなことを知らない広瀬は袋に入った猫を轢いた罪の意識から、小林のスタンド能力「ザ・ロック」の術中に嵌ってしまう.

模写2.心の錠前が出現する.
当ブログの趣旨は作品と無関係であり、あくまで当ブログの記事内容が主、引用する作品のコマの模写はそれに従属するという認識で掲載しています.

  これが質的飛躍である、と私は考えている.「ザ・ロック」は「罪」が生じた瞬間に錠前として顕現するのである.錠前はこの作品でいう「罪」の表象である.「創世記」におけるアダムの堕罪、すなわち人類が無責から責を負う存在になったことこそが、「質的飛躍」なのであろう.ここでは罪の大小を問うているのではない.罪があるのか、ないのかが問題となっている.キルケゴールはおそらくそれを創世記の伝承から考えたに違いない.

 同様にして広瀬康一は無責から責を負う立場へと一転した.よって彼の心には「錠前」の形で「不安」が現れたともいえよう.なお作中では錠前は「不安」とは明言されていないが、「人によっては自責の念で死んでしまうこともある心理的重圧」と記載がある.前回の記事で「不安とは人間存在の構造を根本から揺るがすもの」と述べた.とすれば、「堕罪」が存在することが「不安」なのであるという理解は、「不安の概念」にある以下の文章とも合致するように思う.

・個体における原罪の結果、言い換えると個々人のなかに原罪が現存すること、それが不安なのである.

・罪は〈最初は〉不安のなかへ入り込んできた.が、こんどもまた罪は、不安を〈道連れ〉にたずさえてきたのである.

「不安の概念」第二章:原罪の結果としての不安、1844年、村上恭一訳

 広瀬はこれまで真面目に素行の良い少年として生きてきた.にも関わらず、突如「猫を自転車で轢く」という罪に等しい行為をしてしまったと感じたが故に、その行為が自身の人生の根本を脅かすものだと直観し「不安」となる.また、彼は袋を轢く瞬間、「これからどのようになるのかわからない」という根源的な「不安」を持っていたともいえる(結果的に猫を轢き殺すことになるが、ただの袋を轢いただけに過ぎない結果もあったかもしれない).そして袋を轢いて、中に猫が入っていたと直観したとき、彼の中に罪が芽生える(罪が措定される).要するに「罪」と「不安」は表裏一体なのだとキルケゴールは考えたのではないか.どうだろうか.

 

次回は

 さて、広瀬康一がこの難局をどのようにして切り抜けたかは、作品の醍醐味であるのでここでは述べないでおく.続きが気になった方は漫画を買うか、アニメをご覧になると良い.

 ここまでで私は広瀬康一の「罪」とアダムの「罪」が同列のような言い方をしているが、これはその通りで、本質的には同じだということである.罪が存在するようになる「質的飛躍」において、その「罪の程度=罪性」は「量的」でしかない.それはキルケゴールと同時代の神学者フリードリヒ・シュライエルマッハー先輩の言わんとする「原罪論:罪の普遍性の根拠」に基づいている.先にネタバレをしておくと、キルケゴールの考えでは「おれがアダムで、アダムがおれで」もしくは「全人類アダム(イヴ)説」のような感じである.

 「てめぇはまだわけわかんねぇことを書くつもりか」

と怒られそうなので、今回はここまでとしておこう.「おれがアダムで、アダムがおれで」とは何のことかについては次回の記事で説明を試みたい.できれば、過去三回の記事の総括を一度行い、それから三章、四章、五章の説明へと順を追って行きたいと思っている.

 ここまでありがとうございました.

アダムの不安

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伝承

 こんな話が知られているらしい.

 主なる神は人であるアダムを創造し、助け手となる女性をも造った.アダムは女性をイヴと名付けた.二人はエデンという園で暮らしていたそうな.以下はその続きである.


一. さて主なる神が造られた野の⽣き物のうちで、蛇が最も狡猾であった.蛇は⼥に⾔った、「園にあるどの⽊からも取って⾷べるなと、本当に神が⾔われたのですか、マジですか」
二.⼥は蛇に⾔った、「そうなんです.私たちは園の⽊の実を⾷べることは許されていますが、
三. ただ園の中央にある⽊の実については、これを取って⾷べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は⾔われました」
四.蛇は⼥に⾔った、「へぇ〜.そうなんですね.でもあなたがたは決して死ぬことはないでしょう.
五.それを⾷べると、あなたがたの⽬が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」
六.⼥がその⽊を⾒ると、それは⾷べるに良く、⽬には美しく、賢く、インスタ映えには好ましいと思われたから、その実を取って⾷べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も⾷べた.
七.すると、二人の⽬が開け、⾃分たちがスッポンポンであることがわかったので、無花果の葉をつづり合わせて、腰に巻いた.これがはっぱ隊の起源である.
八.彼らは、⽇の涼しい⾵の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる⾳を聞いた.そこで、⼈とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の⽊の間に⾝を隠した.
九.主なる神は⼈に呼びかけて⾔われた、「あなたはどこにいるのかな」
十. 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる⾳を聞き、私はスッポンポンだったので、恐れて⾝を隠したのです」
一一. 神は⾔われた、「あなたがスッポンポンであるのを、誰が知らせたのか.⾷べるなと、命じておいた⽊から、あなたは取って⾷べちゃったのか」
一二. ⼈は答えた、「私と⼀緒にしてくださったあの⼥が、⽊から取ってくれたので、私は⾷べちゃいました」
一三.そこで主なる神は⼥に⾔われた、「ありゃりゃ~.あなたは、なんということをしたのです」⼥は答えた、「蛇が私をだましたのです.それで私は⾷べました、だから私は悪くないです」
一四. 主なる神は蛇に⾔われた、「おまえは、この事をしたので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最も呪われる.おまえは腹で這い歩き、⼀⽣、塵を⾷べるであろう.
一五.私は恨みをおく、お前と⼥との間に、お前のすえと⼥のすえとの間に.彼はお前のかしらを砕き、お前は彼の踵を砕くであろう」(蛇は塵以外にも色々食べるゾ)
一六. 次に⼥に⾔われた、「私はあなたの産みの苦しみを⼤いに増す.あなたは苦しんで⼦を産む.それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」
一七. 更に⼈に⾔われた、「あなたが妻の⾔葉を聞いて、⾷べるなと、私が命じた⽊から取って⾷べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは⼀⽣、苦しんで地から⾷物を取る.
一八.地はあなたのために、茨と薊とを⽣じ、あなたは野の草を⾷べるであろう.
一九.あなたは顔に汗してパンを⾷べ、ついに⼟に帰る、あなたは⼟から取られたのだから.あなたは、塵だから、塵に帰る」
廿.さて、⼈はその妻の名をイヴと名づけた.彼⼥がすべて⽣きた者の⺟だからである.
二一. 主なる神は⼈とその妻とのために⽪の着物を造って、彼らに着せられた.
二二.主なる神は⾔われた、「⾒よ、⼈は我々の一人のようになり、善悪を知るものとなった。彼は⼿を伸べ、命の⽊からも取って⾷べ、永久に⽣きるかも知れない」
二三.そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、⼈が造られたその⼟を耕させられた.
二四.神は⼈を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎の剣とを置いて、命の⽊の道を守らせられた.

創世記 第三章、日本聖書協会より 1955年 一部改変

 これは旧約聖書の「創世記」の一部を抜粋したものになる.クルアーンにも同じことが書いてある.色々と突っ込みたいところはある.こんな話をどこかで見聞きした人もいるのではないだろうか.私もどこかで知ったような気がするが、忘れてしまった.私は聖書教会から出ている訳文を見るのは初めてである.なぜこんな神話を冒頭に載せたのかというと、どうやらこの伝承、様々な人々が古くから興味を持って論じるテーマ「原罪Original Sin」だからである.特に「『食うな』と神から言われた果実を、蛇に唆されて食ったイヴとアダムが楽園から追い出された」という堕罪の話が哲学者や神学者の関心を惹きつけてきた.特に有名なのは、元ユダヤ教徒で改宗した使徒パウロ兄貴、アウグスティヌスという北アフリカ出身の元マニ教徒のおっさん、そしてカルタゴ出身の教父、テルトゥリアヌスくん、ブリテン島出身の神学者であるペラギウスおじさん.時は進んで、ギリシア正教会やカトリック教会、プロテスタント教会の懲りない面々.キルケゴールはそういった人々の神学上の主張を紹介する.

 パウロ、アウグスティヌスと続く原罪論は「アダムの堕罪によって、人間は普遍的な罪性をもつ」という解釈に基づいている.普遍性の根拠に、アダム以降の子孫は性交によって罪が遺伝・連鎖するという一部生物学的な考えが混ざっている.プロテスタントはパウロやアウグスティヌスの考えを概ね踏襲しているようである.(プロテスタントにも諸派があり教理が厳密には異なることを断っておく)以下、著名人の文献を紹介する.

 ひとりの人(アダム)によって、罪がこの世に入り、また罪によって死が入ってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだのである.

「ローマ信徒への手紙」パウロ

 教父アウグスティヌスによる原罪の中心は以下にある.

 神は全く善い人間を創った.ところが人間(アダム)は、自らの責めによって堕落し、それに対して神によって厳しく罰せられて、堕落した.そして罰せられた子孫を産んだ.

「神の国」アウグスティヌス、五世紀ごろ

 ルターやカルヴァンらに代表されるプロテスタントの教義でも原罪を次のように解釈している.

 アダムの堕罪以降、生まれる人間は全て罪のうちに孕まれ、生まれる.すなわち、全ての人間は、その母親の胎内にいたときから、悪しき欲望と傾向に満ちており、神への真の畏れと真の信仰を生まれながらに持つことはできないのである.さらにこの生まれつきの原罪は、真に罪であり、洗礼と聖霊によって生まれ変わることのない全ての人に対して、神の永遠の怒りを宣告する.

「アウクスブルク信仰告白」1530年

 私はキリスト教徒ではない.よって教義の深奥まで理解することはできないだろうが、生まれた時から「お前は罪深い存在だゾ」と決まってしまっているのは、どうも解せない感じがする.ちなみにペラギウスおじさんは原罪を否定し、人間の自由意志を尊重する立場を取り、神の恩寵は必要ないという説を唱えた人物であった.そこで教父アウグスティヌスと論争となり、418年カルタゴ会議で「異端でしょ」と排斥された.さらに431年エフェソス公会議でも「やっぱり異端でしょ」と退けられたようである.惨め.ペラギウスは謎の失踪を遂げる.

 だがやはり、この普遍的な罪性、というものには陥穽があるようだ.もし全ての人類が生まれながらにして罪深いのであるのなら、個々人の罪は無いだろうと考える.

俺が生まれつきワルだっていうのなら、今から俺が無銭飲食しても構わねーよな?ぶっ殺しても罪は変わらねぇんだよな?立ち小便してもいいんだよな?プールの中でおしっこしてもいいんだよな?そういうことだろ?

という変な輩が出てしまう.これでは倫理が壊れる.さらに、恩寵に対する個々人の主体的努力も不要、個々の努力を励行するものが否定されてしまう.「悪いことしてないのに、罪深いのなら頑張る気なくすわぁ」

 よって神学者らは原罪における罪の普遍性と個人性をいかに両立させるか、に相当苦心したようである.そしてもう一つの問題は、原罪とは人間の本性なのだろうか、という疑問でもある.もし罪を創造したのが神であれば、人間の責任性は回避されてしまう.「おれのせいじゃないゾ!『神は全く善い人間を創った』ってアウグスティヌスが言ってたゾ!罪が『善い』わけがないゾ」

 罪が本性に付随するもの、プラグインや拡張パーツのようなものとして付着するのであれば、罪の根源性はなくなってしまうし、ナザレの大工の息子(キリスト)が十字架を担いで丘まで登って、磔にされて、槍で突かれて死んだことが無駄になってしまう.「グエーッ、無駄死にしたンゴ」

 こうした課題を先に述べておくとして、次に「不安」について述べることとする.

不安というめまい

 前置きが長くなった.今回の記事は前回の続きである.キルケゴールの「不安の概念」における重要なテーマ「原罪」を扱いつつ、「不安」を考えていく.父親から異常なほど厳格にキリスト教を叩き込まれたキルケゴールは、度重なる家族の死に対して、「恐ろしい憂愁の重圧」のもと、「不安」を抱えるようになっていったと述懐している.彼の著作にも緒論でこのように記されている.「不安」を理解するには「罪」の理解が必要であると考えたようである.キルケゴールが罪性をどのように考えているかも気になるところである.

 本書の課題とするところは、原罪についての教義をたえず念頭におき(in mente)、かつ眼前に彷彿とさせながら、「不安」の概念を心理学的に取り扱うことにある.それはたとえ口に出さなくとも、「罪」の概念を問題にしないわけにはいかない.

「不安の概念」緒論 1844年 村上恭一訳

 アダムとその伴侶イヴは善悪を知る木の実を食べることを神によって禁じられていたが、蛇に唆されて神意に背き、エデンの園を追放される羽目になったらしい.トホホ〜.キルケゴールは「なぜアダム(とイヴ)は神意に背いたのか」と考える.堕罪に至る以前のアダムは、無垢であり無知であったはずだと.そもそもアダムは神意を理解するほど知恵があったわけではない.故に無垢で無知なアダムが責ある者に転落する(罪を犯す)ことになるとは、どういうことだろうか.(以下イヴの存在は省略する)

 キルケゴールは次のように考える.「不安」が無垢なアダムの心を捉えたのではないか、アダムは「不安」になったのではないか、と.「善悪を知る木から木の実を取って食べてはならない」という神からの言葉をアダムは無知故に理解することができなかった.この時点でアダムは善悪を知らない.神による禁止がアダムを不安がらせた.禁断がアダムの内なる自由を目覚めさせた、とキルケゴールは考えたようである.「神は『取って食うな』というが、よくわかんねぇけど取ろうと思えば取って食えるじゃないか」という自由の可能性をアダムに示唆したのだろう.不安は自由でもある.人間は精神であり、精神の本質は自由である.自由とは可能性である.

 「不安の概念」第二章でキルケゴールは「不安は、例えて言えば『めまい』のようなものである」と述べている.この言葉はよく引かれる一節として有名である.次に続く.「仮にある人がふと自分の眼で大口を開いた深淵を覗き込んだとすると、その人はめまいを覚えるであろう.ところで、その原因はいったいどこにあるだろうか.それは深淵にもあるといえるし、また当人の眼のうちにあるともいえる.というのも、彼が深淵を凝視することさえしなかったら、めまいを起こすことはなかったろうからである.これと同じようなわけで、不安は自由のめまいなのである」

 めまい、という言葉を医学的に考えず、眼がクラクラして尻込みするような、倒れそうになることだと考えると良い.底が見えないほど深い崖っぷちを覗き込むと誰でも足がすくむはずである.この視点から無限の底までの空間的距離こそが不安であり、かつ自由なのであるとキルケゴールは言っている.不安は自由と紙一重でもあるということだと.

不安と恐怖

 故に不安は恐怖とは異なる.恐怖には対象があるが、不安は対象を欠く.「あのさぁ……崖っぷちを見下ろしたら怖いに決まってるやん!恐怖やん!」とお叱りを受けるかもしれない.一見正しいようではあるが、落ち着いていただきたい.深淵というのは、無限遠の暗黒である.視線の先には対象は定まっていない.人が深淵を見て恐怖を抱くとすれば、「深淵に落ちてしまったら」、「底まで落ちて身体を打って、大怪我をしたら、死んでしまったら」ということだろう.この世の中に深淵と似たような深い裂け目があるにはあるだろうが、経験できる人はおそらく真夜中のダムの巡回をする人や、夜の登頂をする大胆な登山家、停電になったスーパーカミオカンデの点検をする人、鍾乳洞や洞窟のツアーガイド、観光地化されていない遺跡や史跡の調査にあたる学者や土木工事の業者くらいしか思いつかない.他にも「暗闇を覗き込む」に近い状況は存在するが、要するに、現実には「底がある」のである.ということは対象が存在する.それらは水底であったり、針山であったり、コンクリート床であったりする.これ以上想像はしたくないが.

 恐怖とは、ある対象に怯えることである.そして不安には恐怖する対象を欠く.では「対象なき恐怖」という言い方が適当かと言えば、そうではないとキルケゴールは言う.対象がなくなれば恐怖という心理現象は消失する.人が不安になるのは「何もないこと=虚無(Nihil)」に対してでしかない.次の例えを挙げれば、ある程度皆さんも得心してくださるのではないだろうか.

 精神疾患の中に「恐怖症」がある.「広場恐怖」「視線恐怖」「不潔恐怖」「対人恐怖」「色目恐怖」といったものがある.実際に私達の生活に息づく恐怖である.これらは文字通り恐怖の対象があるが「不安」の諸現象について言うと、「予期不安」、「全般性不安障碍」というものがある.こちらは対象が限定されておらず、未確定の事象である.何も対象が定まっていないからこそ不安になる.こうした名称は不安と恐怖を区別する際に明瞭になると思うし、精神医学もやはり(*途中までは)哲学の系譜を歩んでいるような安心した気持ちになる.私達は何の支えもない中途半端な状態にあること自体に不安を覚える.換言すると、人間存在の構造が何の支えもなく揺るがされていることが、不安の原因である、とも言える.

*「おいおい、『社交不安障碍』があるだろう」というご指摘に対して私なりの弁明をしておくと、「社交不安障碍」はもともと「社会恐怖」という名称であったようである.DSM-IV以降にPhobia(恐怖症)からAnxiety Disorder(不安障碍)に変わってしまった.残念ながらこのあたりの歴史的変遷は私にはよくわからない.不安や恐怖の腑分けができていないように思えるのは私だけではないと思うが……どうなのだろう.ところどころ精神医学にはこうした脆さがあるように思う.神経生理学的な立場での不安と恐怖の位置づけも全く異なる.ただ、名称は変わってもその疾患概念は変わっていないらしい.簡単に考えれば「社会的場面に対して恐怖する」現象といえる.実存主義に基づく考え方であれば、従来の「恐怖」の方が適切のように思う.とはいっても私はこれ以上ゴニョゴニョ言うつもりもない.ゴニョゴニョ.

  ここまで、キルケゴールによる「不安」の説明を創世記の伝承を交えて試みた.罪について過去の神学者の立場を紹介し、罪性をどのように取り扱うかという学者らの懸念に触れた.続いて話題を変えて、アダムが禁断の果実を口にしたのは「アダムが無知故に不安だったからではないか」という彼の考えを提示した.さらに「不安とは自由のめまいのようなものである」という彼の比喩を紹介し、恐怖との違いを述べた.以上を紹介するのに6000字を超えてしまったので、続きは後日投稿したいと思っている.次回の主題は「いかにして罪というものが措定されたか、不安との関係はいかなるものか」といったものになりそうである.

 読んでくださりありがとうございました.

 

不安に駆られて

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診察室で

 私が面接をする、とある患者さんはいつも決まって過去形を使う.

「こんにちは.〇〇さん.お元気ですか」

「元気でした

「何か心配なことや気がかりなことはありませんか」

「ありませんでした

 他の質問にも過去の時制で回答をするのだ.この事態が私にとっては非常に理解が難しい現象のように思えている.不思議な気持ちでいつも面接をしている.

 なぜ「元気でした」と過去形の表現なのか.なぜ過去形でしか答えてくれないのか.それが全くわからない.私は診療録に「症例の陳述に時制の不一致を認める」と書いたことがあるが、だから何なのか、それ以外何を記述すべきか、何を考えたらいいか悩んでいる状態である.いわゆる静的了解でも発生的了解の範疇ではないだろう.この方は少なくとも私と時間空間の体験様式が異なる可能性がある.ヤスパース的に言えば、了解不能なのだろうか.そして了解不能となれば、背後に病理が潜んでいることになる.どのような病理か.

 恐らく手がかりとなるのは精神病理学であったり、哲学だとか人文学なのかなぁ、という考えに基づいて、私は複数の本を読んでいる.斜め読み、というわけではないが、義経の八艘飛びのように一つの本から別の本へとあちらこちら飛び移っている始末だ.人には様々な読書の癖があるだろう.どうやら私は一度にいろんな本を読む傾向にある.これを注意散漫とか転導性の問題というのかもしれない.わからないところに当たれば、別の本に当たって了解を得ようとする方法が性に合う.今この記事を書いているとき、私はセーレン・キルケゴールの「不安の概念」、マルティン・ハイデガーの「存在と時間」を読んでいる.どちらもうんざりするほど難しくて辛くて面白い.炭酸の青汁をありがたく飲んでいるような気持ちだ.

 そして何より、彼らは「実存」を扱う哲人であり「不安」を解明しようとし「時間」について論じた人物で共通している.きっと、上述した症例の言辞を理解する一助になるのではないか、と私は期待を寄せている.

不安とは

 さて、私は以前の記事で、「不安」や「うつ」がわからない、と述べたのだった.「うつ」に関しては「メランコリー」を取り上げてみたが、これで綺麗サッパリわかりました、というわけにはいかない.表層的な話しかしていないのだから.こちらはひとまず保留にするとして、私は「不安」という現象ないし心理的状態についても大きな関心を寄せている.なぜ関心があるのか、といえば私自身の職務上の要請にある.私自身がある程度、不安という概念について通じていない以上、面接を要する人々の「不安」に対して一定の助言を行うことが果てしなく難しいと感じたからである.

 こちらも別の記事で取り上げ、生理学的な立場とフロイトの古典的立場で「不安」を紹介したが、未だによくわからずにいる.そこでキルケゴールの「不安の概念」という本を読んでみることにしたわけだ.そして現象学という興味深い学問に足を踏み入れた私は、フッサールを継承し、より深化させたハイデガーの実存主義の考え方に惹かれるようになった.奇しくもキルケゴールは実存主義の代表的な人物であるし、精神病理学の嚆矢、カール・ヤスパースも医師兼実存主義哲学者の一人だ.私の思い込みにせよ、奇妙な引力が働いているような心持ちがする.私の思想はようやく二十世紀の大陸哲学に差し掛かってきた.

 

 まずはいつもの「精神症候学」を開いて「不安」を調べると、次のようにある.掻い摘んで記そう.

 不安anxietyは、対処不決定の漠然とした恐れの感情で、一般に対象のある恐怖に対して、対象を欠くものを指す.十三世紀のトマス・アクィナスは予測できない恐怖をアゴニアagoniaと呼んだ.フランス語ではリトレによると延髄的・身体的な苦悶angoisseと皮質・精神的な不安anxiétéを使い分けるという.後者のanxiétéもしくはラテン語のanxiusが十六世紀初期には英語のanxietyに訳された.正常な不安としては、生きている限り避けることのできない病や死への恐れ、生活、経済上の諸々の不安があり、原不安Urangst、現実不安Realangst、被造物の不安Angst der Kreaturなどという.キルケゴールによれば、物事や価値を知り、分別をもつと、むしろ不安も増える.これを客観的不安という.ゴールドスタインは、破局状況におかれた生体の主観的経験を不安と呼んだ.

 病的な不安とは、刺激が主体の内部で歪曲・肥大化されるために、客観的な危険に比して不釣り合いに強く反復してあらわれる不安のこと.その処理に神経症的防衛機制を要するので、神経症性不安ともいう.正常な不安との差が量的か質的かについては議論が多い.予期不安とは、未来を先取りして恐れる空想的な不安で、将来起きてほしくないことが起こるのではないかとする.

精神症候学 第二版およびOxford English Dictionaryから引用

 要するに、不安というのは対象なき恐れ、ということらしい.しかし、少し考えてみると「明日のプレゼン、うまくいくか不安なんです」というときは、もちろん対象が定まっている.よって対象なき恐れという語義に反してしまうように思われる.そこで、よくよく考えながら、大辞林を参照すると、以下のように書いてある.

①気がかりなこと.心配なこと.これから起こる事態に対する恐れから、気持ちが落ち着かないこと.また、そのさま.

②(哲学)人間存在の根底にある虚無からくる危機的気分.原因や対象がわからない点で恐れと異なる.実存主義など現代哲学の主要概念.

③(心理学)漠とした恐れの感情.動悸、発汗などの身体的兆候を伴うことが多い.

大辞林 第四版

 生理学的な立場で不安を考えてみると、不安は「闘争か逃走」の反応の一つであり、不安症の中核的な要素は「恐怖」「憂い」であるという.(ストール精神薬理学エセンシャルズ第四版)もう少し詳しい話は以前の記事にある.

 正直言って、学問の立場によってこんなにも割れるとは思わなかった.特に恐怖をどのように位置づけるかが異なるようである.恐怖の腑分けが異なる、とでも呼ぶべきか.さて、「不安」をどのように考えたものか.

 二つの書籍について

 光文社古典新訳文庫から出ている「存在と時間」の訳本は中山元氏によるものだが、膨大な注釈と解説がついているにも関わらず、いきなりアタックするのは苦痛を伴うことがわかった.(八巻まであるし……)訳の巧拙がどうこうではなくて、純粋にクッソ難しいのである.しかし、この著作が出された経緯や背景だとかを知れば、ある程度気楽に読める気がしてくる.事実、経緯を知ることは極めて重要であった.「存在と時間」がアリストテレス哲学と、当時最先端の哲学である現象学を融合させたものであることを知らずして著作の意義を理解できそうにないと思う.ハイデガー以前に「存在論」を扱ったのはアリストテレスが最後であり、その間、全く人々は「存在の意味を問うこと」をしなかった、と斬り捨てる彼のキレキレ具合には脱帽であった.この論文の入門書・解説書を読んで、私は漸く彼の代表作である「存在と時間」は未完であることや教授昇進のために提出された突貫工事的論文であり、出版までに紆余曲折のある作品であったことを知ったのだった.ちなみに入門書、というのは講談社現代新書から出ている「ハイデガー『存在と時間』入門」のことで、著者の轟孝夫氏はハイデガー一筋三十年の哲学者である.

 「なぁ〜んだ、未完なのか、マルティンおじさんも色々あったんだネ」と思うと、巨大な哲人として立ちはだかるハイデガーも急に人間くさくなってくるし、伝統的な西洋哲学における「存在」の先入観を捨てて「真の存在」を解明しようとする三七歳、マジ気合入ってるっすね、と称賛を贈りたくなる.

 他方、キルケゴールの著作「不安の概念」は1844年に書かれたものだが、1927年の「存在と時間」から随分前の作品である.彼の作品も残念ながら難解だ.いきなり訳本に当たると、それはそれで面白いのだが、「質的飛躍」などの彼独自の術語が使われてしまうと、解釈が大変になってしまう.よって入門書を探してみたが、パッと見てもどうもなさそうである.そして、彼のロジックはキリスト教の教義学や倫理学などの学問を織り交ぜたものになっているため、事前知識として他にも仕入れる必要がありそうである.なんだか哲学の迷宮に入り込んでいるような、いないような.少なくとも創世記のアダムとイブの原罪は、よく理解しておく必要がありそうだ.これはもちろん神話なのであるが、多くの人が挙ってこの神話を取り上げるのは、宗教的な意義だけでなく、ある種、アダムを人類のプロトタイプとして考えたときの思考実験として捉えると興味深いからかもしれない.ただの気の所為かもしれない.

本記事の最終的なねらい

 この記事を大々的に書いた理由は実はもう一つある.安永浩の「ファントム空間論」に関する連載が途中となっているのだが、今の知識では理解が不十分であるという直感から、連載を保留にしている.できればなるべく早く投稿したいと思いつつも、なかなか知識を仕入れる作業に時間がかかってしまい、うまくまとめきれていない.そこでまずは先に紹介した著書を足がかりに、「不安」に関する小連載を行ってから、改めて「ファントム空間論」を完成させたいと思っている.何のためか、と言われれば無論、自身のためである.このブログを投稿する、という作業を通じて(精錬できるかどうかは兎も角)自分の思考を整理して、職務上の必要に還元したいと企んでいるわけである.とは言っても、結局はブログなのだから、こうして偶然目に留めてくださった方にも、お裾分けして、冷やかすなり、面白がるなりして、何かしら感じ取っていただければ良いなと考えている次第である.

 ところどころ雑記を載せつつ、まずは「不安」の構造について自分なりに理解に努めるべく、新連載を開始する予定である.よろしくお願いします.

 

 

枇杷の木

Loquats and a Mountain Bird, by an anonymous Chinese artist of the Southern Song Dynasty (1127–1279).

  勤務先の病院には居心地の良い中庭があって、そこには背の高い枇杷の木がゆさゆさと揺れている.枇杷の木だとわかったのは小ぶりの橙の実が地面にいくつも落ちているからで、多くは鳥や虫が食べたあとがついていた.回診を終えて中庭を歩くと、涼しい夜風が病棟の隙間の空間を通り抜けて気持ちが良い.こういうときは考え事が捗る.夜皆が寝静まったときには集中力が自然と高まるのを感じる.降り続く雨が屋根を打つ音、湿ったコンクリートの匂い、軋む古い当直室.

 そんな夜にふと、とある症例のことを考えた.

 「わたしは、悪いことはなにもしていません.コロナの犯人なんかじゃありません.キムラタクヤさんがそうやってわたしのことを犯罪者だとか、悪いものにしたてるんです.キムラタクヤさんはお金持ちで有名だからいろんな人に言いふらして、悪いもの扱いするんです.わたしはこうやってがんばってやっているのに、みんなが悪いって言うんです.がんばってるのに、よくならないんです.さっきも○○さんがわたしのせいにしようとしてたんです.わたしは悪くないんです.犯罪もしていません.人殺しも、万引も、いやらしいこともしていません.仕事もせずただ精神科で入院しているだけの……わたしのこと精神病だって言うんです.悪いもの扱いするんです」

 実際の症例に基づいて大幅な改変をしていることを断っておく.よってこの人物は実際に存在しないが、複数の症例を混在させた一人格として話を進めてみたい.この人は常に自分が危害を受けているという確信でいっぱいであるように見える.キムラタクヤ、ときおりフクヤママサハルといった人物が自身の悪評を流している、という空前の状況にあり当人は困惑している.自分は無関係であるのに、コロナウィルス拡散の汚名を着せられて、あらゆる犯罪の冤罪を被っていると感じてしまっている.この架空症例の病歴において犯罪行為・素行不良はない.一般的な家庭で生育し、定型発達のちに青年期にて、とある疾病に罹患したとする.頭部およびその他の器質的病因は指摘されていない.考えられる診断は想像の通りであろう.

 この人物との面接では常に自己不全感、空虚感を顕にする内容が主となる.会話からは被害妄想が推察される.なぜ妄想だといえるのか.それは本人を除く周囲の支援者、医療者が収集した情報によれば、本人の述べる被害内容はまったく事実無根であることが明らかであることが根拠になりうるか.誰もコロナウィルスを発生させた犯人だなどとよもや思いもしないだろう.他方、本人は確信の水準でそれらを物語っていることにある.確信であるからこそ訂正はできない.

 フランスの精神科医、ピエール・ジャネは自分の不全、空虚、強制などの感覚を、他人に客観外在化(Objectivation)することによって被害妄想が生じると考えた人物である.それは人間の社会活動が、つねに命令と服従を基礎にした能動と受動を、自他が互いのなかに表象しながら行うことによるからだ、と記している.保崎秀夫という医師は、おのれを見失った主体が自他の対立関係を明瞭化させておのれを見出そうとする努力が被害妄想をつくるのではないか、としている.

 「妄想の臨床」というグレートな書物がある.新興医学出版社というところから出ている妙な本で、妄想についてその筋の大家が寄稿している珍しい本だ.その中で、以前紹介した「精神症候学」の著者、濱田秀伯という医師がルサンチマンと妄想について大変興味深い記述をしている.

  被害妄想は何の前触れもなく生じるわけではない.統合失調症ないし妄想性障碍の患者には、被害妄想が現れる前に、自分には価値がない、他人に迷惑をかけていると訴える微小妄想、罪業妄想を抱く無力性の段階がある.他人と比較して低い自己評価に苦しむ患者は、ルサンチマンを用いて内面の価値を転倒させ、「わたしは悪くない」、本当は他人から迷惑をかけられていると確信する被害妄想へ転じるのではないか、と濱田は述べる.

 主体は被害妄想を抱くことで、責任を他者(それが実在しようとしまいと)に転嫁し、自責を軽くすることができる.患者が病識を欠くのは、価値の転倒を自らに気づかせてはその目的を達成できないからだ、という論理である.

 この仮説は私にとって非常に得心のいくものであり、上記の症例が語る「わたしは悪くない」という徹底した主張の背後には、自己不全感、無力感が根底にあるのではないか、自身が精神疾患という病魔によって、長期入院を余儀なくされ、行動の自由も制限されている強制力と服従が強力な自己評価の低さを顕にするのではないか.本人も気づかぬ恨み、怨恨、反感といったルサンチマンがいつしか醸成され、内面の価値を転倒させることになるのではないだろうか、と考えてしまう.その際生じる他者は、主体にとって関係のある人物であれば、そうでない全く無縁の他者であることもしばしばである.この「他者」の設定には本人の生活史と思考障碍の程度が影響するのだろうと思う.

 これをもう少し整理してみよう.

  1. わたしは、病気で仕事もできず迷惑をかけている、わたしは何も社会に貢献できない無力な人間だ.わたしは自分を責める.(微小妄想、解釈妄想)
  2. わたしは、「キムラタクヤ」や「みんな」から迷惑をかけられている.わたしこそが被害者なんだ.(被害妄想)
  3. わたしには、自分の権利を守り、「キムラタクヤ」を責める正当な理由がある.「みんな」が悪いんだ.

 このように考えてみると、一部の妄想形成にはルサンチマンが関わっているようにも思われる.これを見出した学者らは実に卓見だと言わざるを得ない.こうした説明ができるのは精神病理学の真髄だと思う.そしてそのようなロジックが仮に真なのであれば、上記の陳述をした人に向けて行うべき精神療法はやはり支持的精神療法なのではないかと率直に思う.自尊心を高め、自我機能を維持することを目的として、非合理的な思考に陥っていることをさり気なく気づかせていくことが重要なのだろうと思う.

 精神疾患の一部は価値秩序の惑乱であり、妄想というのは主体がそれを病的な方法で転倒させてしまうことで自らの内的安定を図る自助努力である、と濱田は結ぶ.至言であろう.ならば、その自助努力を病的でない方法で修正できるように導くことが医療の務めなのだろうと考える.やはり医療人が患者を治すのではなくて、我々は、主体が自ら治すきっかけを手伝うに過ぎない存在なのだと、しみじみ思う.根気よく、辛抱づよく続けていくことが大事なのだろう.

 木から木の実が落ちるのを見て世紀の大発見をした人もいるようだが、少なくとも凡庸な私は、いくら枇杷の木を眺めても、自分のわずかな経験を追想して先人の知恵を重ね合わせることしかできない.そうであったとしても私が関与できる人に対して能う限りの時間と才能を注ぐための良い心象風景になればそれでいいと心から思った次第である.

 

ルサンチマン

  

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離脱症状という邪悪さ

罵詈雑言

 処方薬の薬の離脱症状で気分が悪い.吐き気がする.これは邪悪だ.脳に分厚い鉄板を押し付けられている.ぎゅうぎゅうに圧をかけられて「くたばれ」と言われている.だからくたばっている.飲み忘れたのは自分が悪いのだ.それがいけないのは知っている.私は夜勤明けで疲れていた.だがこの仕打はひどすぎる.私だって多分人間だ.間違いは犯す.あらゆる光が眩しい.すべての感覚が不愉快だ.自分がこの感覚を覚えていることが嫌になる.この五感が自分の身体に基づく知覚だと思うと自分自身が心底不愉快だ.このような肉体にした、このような目に合わせた奴らが憎たらしくて、憎たらしくて、心底嫌悪する.軽蔑する.反吐が出る.吐き気がする.この苦しみは知る人以外絶対に味わうことはできない.味わったことのあるものしか感じ得ない苦痛だ.難民の気持ちは難民になってみないとわからないというのは本当にそのとおりで、ビョーキの苦しみというのは、ビョーキにならないとわからない.だがこんな苦しみ、わかりたくなかった!!難民だって、事件の被害者だって、コロナウィルスの罹患者だって、絶対になりたくなかったに決まっている.俺が地獄に行く時は必ず関係者を全員地獄に引きずり込んでやると、自分に誓っている.ちなみに自分が地獄に行くのは確定している.すでに特等席も用意してある.

価値が転倒する

 ある日、私は懊悩とした気分で過ごしていた.間違いなくこの時は神経伝達物質の嵐が起きていて、激烈な感情が私を狂わせ、憎しみをほとばしらせ、怒りに身を窶し、彼らを呪った.これはあとから気づいたが、ルサンチマン(ressentiment)に似ている.私は弱者であり、他者は強者である.ルサンチマンは弱者が強者に抱く、価値を転倒させた感情だ.怨恨、反感、逆恨みという言葉が対応する.ドイツの哲学者マックス・シェーラー(Max Scheler)という男は1913年から1916年に「倫理学における形式主義と実質的価値倫理学」において知性や意志に対する感情 ・情緒の優位性を主張した.彼は現象学の志向性の概念によって、志向感受(Intentionalität)とそうでない感情状態(Gefühlzustände)を区別したという.前者は四段階に分けられるとされ、彼の考え方は、クルト・シュナイダー(Kurt Schneider)により精神病理学に取り入れられた.シェーラーはイマヌエル・カントの形式主義倫理学とフリードリヒ・ニーチェ、アンリ・ベルグソンらの哲学を統合し、感情が知的作用に先行する実質的かつアプリオリな情緒的価値倫理学というものを構想したという.私達が世界と接点をもつのは、知的認識ではなくて、何かしらの価値を感受することによるとのことだ.

 先に述べた志向感受は「①感覚感受」「②生命感受」「③心的感受」「④霊的感受」の順番で高次となるようで、この序列は、価値の序列とも対応しているという.①は快・不快、愉快・不愉快といった、感覚に伴っておこる低次元の感情であり、②は健康、生命、病気、老化、生死といった個人や共同体の幸福に関わる価値と位置づける.③は人間の日常生活に伴う感情で、悲しみ、喜び、怒り、苦しみ、羞恥のように自我全体に広がり、自分自身に直接結びつくとともに、世界を志向し、他者との共同感情や愛を育む感情を指す.美醜の美的価値、正不正の法的価値などの哲学的価値などを含む.④の霊的感受とは、絶望、至福、憧憬、帰依などの特定の対象を持たない高次な感情だ.最上位の価値は超越的、神聖なもの、絶対的な存在に対する価値のことだ.価値の序列は持続するほど、分割されにくいほど、基礎に置かれるほど高くなる.高いほど満足が深く、相対的なものから絶対的なものへ向かう.これら価値の序列は予め決まっているとして、シェーラーはアプリオリな普遍的妥当性をもつことを主張している.

 どうやら、より高い価値を実現する意志が善であり、より低い価値を選ぶ意志は悪であるという.つまり、肉体的快楽、束の間の快楽、小顔メイクをしてインスタ映えを狙うのは悪だという.ときには肉体的快楽を犠牲にして、健康や幸福を求めることは必要である.家系ラーメンを控えて、低糖質の食事を食べるのは大切だ.さらに、時には社会的な幸福も、より高い真理、正義のために失うこともいとわない.玄奘三蔵や空海、最澄、ゴータマ・シッダールタは典型だろう.ということは人間は本質的に、より高い価値を求めて生きようとする存在である.そして時代の要請や状況に応じて、価値の優先順序を変えて、新しい価値を発見する存在でもある、とシェーラーはまとめる.

 さて、ルサンチマンは価値の転倒、である.ニーチェが「道徳の系譜」で取り上げたものらしい.彼によれば、良質(gut)とは強者、高貴な人々が自らに与えた評価であり、その対局は劣悪(schlecht)とされてきた.弱者は強者を憎悪する.現実にはその上下関係を逆転できない.よって強者を悪い(böse)、弱者を良い「gut」と互いの価値を転倒させ、報復しない無力さを善良とし、臆病な卑劣を謙虚として、憎む相手への服従を恭順へすりかえた、という論理である.うーん、今のご時世にある「上級国民」という言葉はルサンチマンを感じる代表格だなぁ.

 これに続いて、さきほどのシェーラーは上記のニーチェに少し批判を加え、「道徳の構造におけるルサンチマン」においてルサンチマンを「魂の自家中毒」「愛の秩序の惑乱現象」としている.ルサンチマンは他者の行為への反感、存在への反感であるが私達は、ただちに手出しできない状況にあるために、これを心のなかに押し込めようとする.これはフロイトのいう無意識の抑圧、という防衛機制であり、どうしても変えられない世界の秩序を内面で価値を転倒させることで自らを騙し、倒錯した復讐を遂げる対処行動ないし自助努力ともいえる、という.

妄想とルサンチマン

 ある学者たちはルサンチマンと妄想というのはとても関連がありそうだ、ということを考えた.妄想というのは、簡単にいうと自己と関連した、誤った確信、である.ということは妄想はすべて関係妄想でもある.妄想という現象が生じる精神疾患のなかに、統合失調症がある.妄想は多くは侵襲的で、被害を与えるものである.被害妄想というのは自分が危害を加えられていると確信するものだ.なぜ、妄想というのはそんなテーマなのだろうか.なぜ「あなたは本当にすてきですね」「お前は実に立派なやつだ、誇らしいよ」と褒めるような妄想がないのか、こうした疑問ははるか昔からあるように思うが、いくつかの解釈があるようだ.どのような説があるかは、次でお話したいと思う.

 

On Melancholy Hill

 気分障碍の歴史

Melancholia, Lucas Cranach der Ältere

 前の記事で、私は「うつ」がよくわからない、と述べた.自身の勉強のためにも、様々な書物を平積みにして少しずつ調べることにした.結果、わからないところも新たに増えた一方で、非常に興味深く理解をすることができたように思う.とはいいつつ今回お話するのは、かなり表層的なところになるので難しくはない.病理の話はそんなにしない.

 うつ、抑うつ(Depression)とは、内因性疾患としてのうつ病と、状態像ないし、症候群としての抑うつ状態の両方を指す.「ぼくはなんだか憂鬱なんです」、というのは状態像であり、「あの症例は『うつ』だと考えられます」は疾患を指す.ややこしいのは名詞と補語が混在しているからだろう.以下は弘文堂の「精神症候学:第二版」からの部分引用になる.この書籍は8200円する大変高価な書籍だが、その値打ち以上の価値がある.ありとあらゆる精神現象が解説されている.今っぽくいうと、マジでやばい.濱田秀伯という学者が著した本だが、西丸四方の「精神医学入門」並の意義がある.この二冊は傑出している.西丸四方の本には貴重な写真が掲載されている、というのも見事である.読み物としても面白い.

 まず日本語での「うつ」について触れてみると、「うつ」という言葉はそもそも「鬱蒼とした密林」の「鬱」であり、これは香草をぎゅうぎゅうに容器に入れて発酵させた、という会意文字らしい.キビヤックのような閉塞感は感じられるが、どちらかといえば、「憂鬱」の「憂」が本質を当てているように思う.角川古語辞典を参照すると、「憂ふ(うれふ)」には、①嘆き悲しみを人に訴える;「からい目を見さぶらいひて.誰にかは憂へ申し侍らむ」(枕草子)(ひどい目にあいまして.どなたに訴え申し上げましょうか)②心を悩ます.思いわずらう;「期する所なきものは、憂へながら止まり居り」(方丈記)「将来に望みのないものは、思い煩いながらとどまっている」③病気で苦しむ.わずらう;「昔は身の病を憂へき、今は人の病を癒やしぬ」(今昔物語)「昔は自身の病気で苦しんだ.今は人の病気を治している」というものがある.これ以上の資料が手元にないが、少なくとも十二世紀までには「憂ふ」という言葉が完成し広まっていたと考えていいだろう.それ以前がどうなっていたかはわからないが、中国医学に由来する用語があっただろうし、それなりの学識があったに違いない.余談だが、紀元前200年頃の文献「黄帝内経」の癲狂篇にはうつ状態、躁状態と思われる症状記載があるという.

 さて、内因うつ病は誘引のない生物学的発症をし、精神運動制止が強く、体重減少や早朝覚醒、症状の日内変動を伴うという.精神病性うつ病もこれと同義だが、幻覚・妄想、錯乱を伴う重症例に用いることがあると思う.アメリカ精神医学会の編纂したDSM-3以降では内因性うつ病を大うつ病(Major depressive disorder)と呼んでいる.では小うつ病があるかといえば、ない.いい加減である.軽度うつ病(Mild Depression)という言い方はあるようだが、なんだかタバコの銘柄みたいだ.中国ではうつ病を抑郁症、台湾では憂鬱症というらしい.

 内因性うつ病にうつ病相のみを繰り返す単極うつ病、躁のみあるいは躁うつ二つの病相を併せ持つ、双極うつ病・双極感情障碍という区別をしたのは、レオンハルトという人物が初めてで、それは1959年のことだという.以来、アングスト、ペリスらが多数例の調査から単極性・双極性の区別を確立した.双極うつ病を、躁病相を伴うⅠ型と軽躁を伴うII型に区分する見方は、ダナーの1970年の発表以来であり、後者はDSM-4以降、双極II型障碍として独立項となった.1983年発表のアキスカルという人の概念からは双極II型障碍、気分変調症、気分循環症などを連続体(スペクトラム)と見ることもある.さて、たくさんの人名が出てきて「これはブラウザバックだなァ」と辟易する人がいるかもしれないが全く気にしなくていい.音楽好きが「カート・コバーンが……、キース・リチャードが……、ポール・マッカトニーが……」と言うのと同じ次元にある.

 キールホルツは1971年の発表で、うつ病を身体因、心因、内因の三つに分け、内因を身体因と心因の間に位置づけたが、一般的にはこれを基準にして考えることが多いようだ.つまり、脳卒中のあとに抑うつをきたした場合は身体因を考えるし、軍隊に入って、厳しい教練を機に抑うつをきたせば心因を考える.ではそれ以外何も思い当たらない、いやはやわからないぞ、という場合に内因性を考える、という具合だ.すごく曖昧だから気にしなくていい.日本では1975年に発表された病前性格、発病状況、病像、治療への反応、経過を踏まえた六型に分けた、笠原・木村分類が知られている.これは、みすず書房の「うつ病臨床のエッセンス」に詳しい.良い本だ.参考までに分類をあげておくと、メランコリー性格型うつ病、循環型うつ病、葛藤反応型うつ病、偽循環病型分裂病、悲哀反応、その他にわかれる.ちなみに現在では積極的に用いられていない.メランコリー新和型が生き残っているくらいか.ではメランコリーとはなんであろうか、ということになる.

Melancholia I, Albrecht Dürer

 メランコリー(Melancholie)は抑うつ、うつ病の別名、というのが歴史的経緯を加味して考えると妥当だろう.古代ギリシアのmelancholia、μελαγχολίαから来ている.これは黒胆汁(black bile)のことであり、黒胆汁が鬱滞して症状が起こる、という体液説に基づいている.心配と悲しみの続く患者は黒い胆汁を「ぐぉお’’え’’ぇ~~~!!」と吐いたらしく、そういう人は黒胆汁ともたらす思考と感情の病気にあると考えられた(それどころではないはず).現代の認識で言うと、正常な胆汁の色は黄褐色である.ビリルビン結石ならば真っ黒な色だが、口から出ることは無い.そして胆汁の異常な色は緑や混濁したものになる.今の時代に黒いものを吐いた人がいた場合は、イカスミパスタを食べ過ぎたため…ではなくて、凝固した血液成分が混ざったものを吐いた可能性が考えられるから、医療機関への相談がよさそうだ.

 黒い色、というのは胆汁だけではなく、気分そのものを表象するようになった.おフランスでメランコリーという言葉が用いられたのは十二世紀らしいが、憂鬱をさす表現に、idees noires, broyer du noir, ドイツではSchwarz sehen, イタリアではvedere tutto neroなどがある.青も憂鬱を代表する色で「マリッジブルー」「マタニティブルー」「ブルーマンデー」はよく知られているし、音楽ジャンルの「Blues」はまさに憂いを歌っている.そしてメランコリー(Melancholie)と青い花であるオダマキ(Ancolie)の語呂合わせは詩の定番であったようだ.邦楽のポップスでも「メランコリニスタ」という曲があるし、冒頭の歌詞は「メランコリニスタ 静かなハイで眠れない」という絶妙なセンスである.

 メランコリーという言葉は次第に多義性を帯びる.悲しみだけでなく、あらゆる情熱の過剰と同義語となり、この延長としてピネルという医師の文脈では、一徹な考えに支配された部分精神病を意味し、クレペリンのいうメランコリーは、退行期うつ病の別名となり、コタール症候群や緊張病に発展する妄想性障碍の一種を示した.ややこしいのは有名なフロイトおじさんが、喪失体験の悲哀・憂いをメランコリーと呼んでいることだ.これはややこしい.なぜややこしいのかといえば、シュナイダーというおっさんによる区別のためだ.シュナイダーというのは統合失調症における一級症状というのを提案した人で有名である.メランコリーというのはこれまで述べたテクストでいう内因性のうつに相当する言葉で、原因不明なのに気持ちが晴れ晴れしない状態をいう.一方、1917年にフロイトが行ったのは、愛や依存を喪失する体験に伴う感情をメランコリーと呼んだことであった.気にしないで次へ進もう.

 では現代ではメランコリーはどのように扱うのか.多義性を帯びつつある現代のメランコリーは定義が難しいので、DSM-5の診断基準にも記載(メランコリアの特徴を伴う)がある「メランコリー親和型」を述べておこう.

 テレンバッハ(1961)や下田(1932)という人らは「うつ」になりやすい性格、とうのがあるのではないかと考えた人で、こういう人らは力動的にうつ病になると論じ、執着性性格、メランコリー型(Typus Melancholicus)という気質を挙げた.凝り性、苦労性、律儀、実直な人、秩序志向で良心的な性格が代表的で、この傾向が破綻する主体環境事情即ち状況におかれると、うつ病に至ると考えたのであった.先程述べた笠原・木村分類に出てきたメランコリー性格型うつ病は、下田・テレンバッハの文脈を踏襲している.これは結構説得的で、いまでも一般に流布するうつ病のイメージ像に近いように思う.テレンバッハの指摘したのは、こうした人は「秩序愛」が大きな特徴だ、と述べたことであった.背後には「他者との円満な関係の維持」が中核にあり、その具体的表現は、人と争わない、人と衝突しそうになるときは自分が引く、いやといえない、義理人情、慣習、挨拶を大切にする、などである.彼らは発病以前はなんら内的葛藤を経験しておらず、場合によっては過剰適応といえるくらいの「いい子ちゃん」であるという.仕事などには精力的で凝り性なエネルギーは、発病時には臨床像的には軽躁的、躁的に見えるくらいになる(躁的防衛).発病状況に関してまとめると、転勤・昇進・転職、結婚、転居、負傷、負担の増加、出産、愛するもの・財産の喪失が挙げられるそうで、多くは多重的に起こるという.一般のうつ病は一つの理由で起こるのではないことがわかる.あなたの周りにこのような人はいませんか.

 他方、「マニー」という言葉がある.Moneyのことではなくて、Manie, Maniaのことである.日本でも、何かに熱中して造詣が深いことを「マニア」というだろう.今ではオタクという言い方をするのかな.オタクもだいぶ民主化してきたように思う.「マニアックな言い方をすると……」という言い方も耳にするかもしれない.これは厳密には躁病の病相のことをいう.気分高揚と意欲増進を主徴とする状態像で、観念奔逸、誇大妄想、刺激性、転導性、抑制消失、逸脱行為を伴う.難しい言葉が並ぶがとりあえず保留しておく.マニーという言葉も古代ギリシアに由来するようで、mania, μανιαはヒポクラテス以前から慢性に経過する発熱のない精神の乱れ、隔離を要する激しい興奮状態をさしたらしい.濱田によればフランス語には十四世紀末に登場するが、十七世紀初頭からは乱暴で奇異な行動に導く、理に合わない極端な考えという意味も併せ持つようになったという.

 Areteo di Cappadocia

 さてさて、マニーとメランコリーの関連を考えてみると、どうやら「カッパドキアのアレタイオス」という人まで遡るようだ.彼は紀元後二世紀ごろの人物で、現在のトルコにあるカッパドキアの市民であったらしく、かつてはローマ帝国の属州であった.広くはギリシア人という理解で良いようだ.この人は精神に限らず様々な症状に関する考察を残しており、糖尿病やセリアック病、喘息、てんかん、肝臓悪性腫瘍に対する記述があるようである.すごいね!十七世紀のウィリス、十九世紀のホーンバウムという人は一人の患者に長短さまざまな周期で悲哀と爽快が交代する、という例を報告している.精神医学においてマニーとメランコリーが一つの疾患体系に組み入れられたのは1854年のファルレーという人物の発表が始まりで、循環狂気と名付けられていたが、バイアルジェという人は重複精神病という言い方をした.同時期に、カールバウムというおじさんが気分循環症として同様の病態を記載した.1899年にクレペリンが躁うつ病という概念を確立してからは、この呼名が現在も残っている.病院に残っている古いカルテを見ると、MDIという略語があるが、これはドイツ語でいう躁うつ病、Manisch-Depressives Irreseinの略であり、ドイツ医学の名残が感じられる.とはいっても今どきMDIという人はほとんどいないように思うから知っても仕方がない.断っておくと、現在は双極性障碍という言い方がベターだ.

 この双極性障碍という名称は1980年のDSM-3からで、これまでは統合失調症と双璧をなす精神疾患の一つとしての躁うつ病から変貌を遂げ、感情調整の障碍の症候群として位置づけられた.上述したように、DSM-4では双極性障碍はI型とII型に分けられているが、このII型という分類はかなり曖昧な枠付であり、おそらく医師の間でもII型の診断には議論が生じるであろう.I型とII型がどのように異なるかはここでは触れないでおく.少なくとも積極的に診断を下すような病名ではないと思う.現在はDSM-5が学会、臨床、法学で多く用いられているが、行政の基準はWHOの策定したICD-10である.すでにICD-11というものがバージョンアップして存在しているが、いまだにICD-10なのだ.DSM-5では双極性障碍の分類はI型、II型に分類されているのに対し、古いICD-10では分類されておらず、双極性障碍はひとくくりとなっている.行政の書類と言えば、診断書はもちろん、非自発的入院の届け出、障碍年金や障碍手帳などであるが、臨床の名称と行政での名称が異なるのは大変な不都合である.最後の方は私のただの愚痴だ.

というわけで

 こうして振り返ると実に多くの人が登場し、闊達に学説を唱えてきたように思う.紀元前から中世、近代までは大きく進歩したわけではなかったが、近代からの学問の発達が凄まじいように感じる.特にフランス・ドイツのブーストが著しいが、私のぼんやりとした感想を言えば、哲学や思想の発展が大きく関与していると思う.それだけではなく、合理主義や科学技術の進歩が宗教性・魔術性、体液説を退けたことも大きいだろう.そこで一つ私が気になっているのは、中東世界における精神医学の歩みである.古代ギリシアの学問が中東に輸入され、以来、イスラム世界はそれをユナニ医学(ギリシアの医学)として発展させたようである.確かにイスハーク・イブン・イムラン、アリー・アル・アッバース・アル・マジュスィらがメランコリーの概念をコンスタンティヌス・アフリカヌスを経て西洋に広めた功績は目覚ましいし、イブン・シーナーのような人物は十一世紀に「医学典範」を著し、この医学が十九世紀まで実践されたというのだから、なかなかあっぱれなのであるが、「本当にそんなものなのか??」という疑問が生じてしまっている.つまり、イスラム世界はずっとガレノスの体液説を信じ続けてきた、というのはにわかには信じがたい、というのが私の率直な感想である.彼らには彼らなりのロジックがあったのではないか?今で言う精神病理学があったのではないか、という気がしているのだ.狂気は悪霊ジンが取り憑いているからだ、という説明では私は満足しない.彼らには彼らの知られざる叡智があるのではないかと私は勝手に期待している.私達がアクセスできる文献で知ることができるのは、西欧と我が国の医学史がほとんどで中東やアフリカはかなり少ないように思う.インドのアーユルヴェーダももちろん気になる.だがインド世界は一度保留しておこう.ではどうするのか、と言われれば自分で調べるしかあるまい.まぁ、ひらがなとカタカナと数千文字の漢字の音訓を覚え、複雑な格助詞の使い方をマスターした我々日本人にとって、正則アラビア語はなんとかなりそうだ、という前向きな気持ちで捉えておこう.アラビア文字はたった28文字しかないのだから.まずはコツコツと地固をして、準備をしておくことにする.

 最後に

 最近はうつ病にも様々なタイプが提唱されている.アキスカル、内海らのSoft Bipolor、非定型うつ病(DSM)、現代型うつ病(松浪)、未熟型うつ病(阿部)、職場結合型うつ病(加藤)、ディスチミア新和型うつ病(樽味、神庭)など.様々な知見が増えていき、議論が活発になるのは良い.だがこれだけあるとなんだかよくわからなくなってくる.いや、ぶっちゃけよくわからない.うつ病百花繚乱にもほどがある.

 だが世界に70億人以上人間がいれば、それだけ呈する気分の波も異なって当然だ.性格や気質は人それぞれだ.似た所もあれば、似てないところもある.あなたの体にコードされている遺伝情報、一塩基がほんの少し違うだけで発病しやすさや、抗うつ薬の反応性も予後も異なるであろうことは、現代の医学が教えてくれている.だから、百年前にすでにうつ病になりやすい性格や気質を試論したテレンバッハや下田らは実に見事であるように思う.ともかく皆さんはメランコリーについてなんとなくわかっていただけただろうか.ここまでお疲れ様でした.ありがとうございました.

 

 

 

パンセ・スキゾフレニック・ボーボボ

そんなに脱毛しないとだめですか

 YouTubeの広告を見て思うことがある.正しく言えば、動画視聴中に挿入される広告の中に気になるものがある.やたらと脱毛を勧める広告が多い.漫画のようなイラストが現れ、複数の登場人物の台詞を抑揚のない調子で一人朗読、作画もお世辞には上手とはいえない.見たことがある人もいると思うが、すぐにスキップしたくなる広告に入るだろう.皆さんも同じ意見を持ってくれるだろうか.ただ最近私は敢えてちゃんと最後まで観るようにしている.色々と気づくことがあって興味深い.広告には複数のシナリオがあるものの大体のあらすじはこうだ.

 妙齢の女性が、同窓会や宴会、パーティ等に出ることになった.その会場にはかつて意中の男性がいて、主人公は心を弾ませるのだが、同席した同性の友人に、「ムダ毛が生えていてみっともない」ことを公に指摘され、大いに辱められる.

 傷心の彼女が帰宅し、友人に顛末を打ち明けると「それは指摘されて当然」という評価を受ける.そしてすぐに「医療脱毛」を勧められる.「それは高額ではないのか」と友人に問うと「今どきの医療脱毛は安い!」という理由をいくつか列挙し、想定されるデメリットに対する反論を述べる.そして友人自身が実際に体験して「やって良かった」という経験談を述べて、主人公は定型の誘い文句に乗せられてしまう.ほどなくして脱毛クリニックを訪れた彼女は友人の言う通り、何も抵抗なく脱毛を遂行.体のどこかしかがツルツルになる.

 後日、別の会食の機会が催され、懲りずに参加する主人公.どこかしか可視範囲内でツルツルになった彼女を見て浮足立つ男性たち.その中には意中の男性もおり、彼も実は彼女のことを想っていたことを知る.めでたく二人は交際に至る.彼女は脱毛を実践してよかったと確信する.その後脱毛の宣伝に入る.この話はフィクションである.男女を入れ替えたパターンも存在する.男の場合はヒゲが忌避される.ちなみに男性同士と女性同士というパターンは見たことがない.

 こういうあらすじを書いていて私は途中で気分が悪くなる.だが、このような広告はかなり高頻度で認められるのだ.アプリ内部のアクセス解析によって自動広告の内容が各々変わるらしいのだが、どうして脱毛ばかり出てくるのだろうか.脱毛の広告は電子の海だけではない.もちろん電車の中にもある.商業施設の並ぶ都市ならどこでもある.画像編集ソフトで、つややかに仕上がった女性の顔がこちらを見つめている.

 なんだかこのような風潮はいやだなぁと思ってしまう.脱毛を是とする空気感、「脱毛しないとみっともない」という圧力を感じてしまう.それはお前の感想だろ、と言われてしまえばその通りなのである.しかしこういうサブリミナル効果を思わせる広告導入は、主に若年層の審美眼や美意識に大いに影響を与えるような気がしている.例えば女性誌に載るモデルがあまりにもスレンダーすぎて、病的羸痩(BMI18未満)の姿が美しく思われるように仕掛けられると、私達はその体型を理想として意識してしまう.無意識であったとしても行動として現れることがある.摂食障碍における身体認識の歪みは社会の課す美意識と無縁ではない.脱毛を推す社会は、醜形恐怖を加速させ、美容整形を過度に受診させる構造や、非脱毛の人々を排斥する構造を作り出してしまっているような気がしてならない.美容整形はもちろん個人の自由だ.本人がやりたけりゃ好きなだけやればいい.自分が気になるから自分の意思で脱毛をするのならば止めはしない.とはいってもこれは自由診療の範囲内だから全額自己負担だ.数十万円をはらう必要があるし、ご先祖様から受け継いだ毛母細胞を徹底的に破壊するには何度も通わなければならぬ.こんなことを推す商業と自由診療の結託はなんだかずるいと思ってしまう.

 私が言いたいのは他人の身体的特徴を取り上げて自分の価値観を押し付けるのはいい加減やめてほしい、ということだ.私達はどうしても同調圧力に屈しやすい.どこかに毛髪の自由と平和を守ってくれる人はいないだろうか.

 毛の自由と平和を守る作品

 2001年から「週刊少年ジャンプ」に連載された澤井啓夫氏による漫画に「ボボボーボ・ボーボボ」がある.声調はボボボーボ・ボーボボ(Bobobōbo Bōbobo).幸運にも「週刊少年ジャンプ+」に第三話まで無料掲載されているので、雰囲気をつかみたい人はぜひ閲覧するといい.アニメ化もされ、英訳もされた.よくぞ訳したものだ.まずはあらすじを借用して紹介しよう.

 300X年、地球はマルハーゲ帝国が支配していた.マルハーゲ帝国皇帝ツル・ツルリーナ四世は自分の権力の象徴として全国民をボーズにするべく「毛刈り」を開始した.毛刈りとは頭に生えている新鮮な毛を直にぶち抜くことで、この毛刈りを行うのはマルハーゲ帝国専属部隊「毛狩り隊」だった.マルハーゲ帝国はとても強大でどの国も逆らうことはできず、全国民がこの「毛刈り」によって苦しめられていた.そんな時代に毛の自由と平和を守るため一人マルハーゲ帝国に立ち向かう男がいた……その名もボボボーボ・ボーボボ! 究極の拳法「鼻毛真拳」を使う彼こそ、救世主だといいな!? (原文ママ)

 主人公ボーボボはアフロヘアにサングラスで筋骨隆々の27歳男性という設定で、大きな鼻孔から手綱のような鼻毛をムチの如く操り相手を攻撃する「鼻毛真拳」を駆使する.この拳法を受けたものはなぜか吐血してしまうので、確かに強いのだろう.毛根をぶち抜かれた人々も吐血しているため、単なる作者なりの苦悶の表現技法に過ぎないかもしれない.とりあえず武論尊氏による「北斗の拳」を意識しているようだが、あまりこの設定が深堀りされることはない.一応ボーボボと毛狩り隊との戦いが主題ではある.しかしその対立にとどまらず終始話題が髪の毛のように散らかるのが本作の魅力だろう.

 一見、頭髪に非常に厳しい作風ではある.だがそんなに気にすることはない.作者は登場人物の全員に対して徹底的に理不尽であるからだ.本当の本当に、この作品は背景や舞台、人物の相互関係や文脈、あらゆる連関を破壊する.次から次へと意味不明な人物や偶像が出現しては意味不明な言辞を述べ、作品の全体的なまとまりや整合性が失われていく.伏線やレトリックというもの、表現技法はおそらく一切存在しない.人物描写も失礼だが単調で、特に毛狩り隊の構成員はみな同じにみえる.この圧倒的な不器用さ、極端さ、まとまりのなさ、理不尽さ、ぎこちなさが最後まで貫徹されている点は逆説的に完璧である.読んでいて苦痛はない.むしろ清々しい.仮にこれを分裂気質的と呼ぶなら、作者の脳内は一体どうなっているのだろうか.そんな「ボボボーボ・ボーボボ」は徹頭徹尾スキゾフレニックな作品だ.唯一、毛狩り隊は頭髪を根絶やしにすることに執着するパラノイアックな集団である.このような構造を頭に思い描くと、私は次のような二人を想起する.

パラノ・スキゾ

 1970年代から80年代のフランスにおける哲学のユニット、ドゥルーズ=ガタリ(ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ)の共著である「アンチ・エディプス(英題:Anti-Oedipus、仏題:L’anti Œdipe)」には「パラノ・スキゾ」という概念が登場するらしい.

 パラノというのはパラノイアParanoiaという言葉から、スキゾというのはスキゾフレニアSchizophreniaから来ている.どちらも精神医学用語で、かつて前者は偏執病、後者は分裂病という訳があてられた.偏執というのは大辞林を参照すると「かたよった考えに固執し他人の意見を受け入れないこと」とある.分裂というのはちょっと難しい.分裂というと、なにか形あるものが複数へとバラバラになるようなイメージをもつと思う.一つの考えにとらわれず、他の意見も聞き入れることもあるが不安定で落ち着きがないさまでもある.無秩序でアトランダムな動きをするブラウン運動の如き、野放図といったところか.彼らの頭髪も奇しくも対照的に見事に散らかっている.実にすばらしい.

 さて、ドゥルーズ=ガタリのいう「パラノ・スキゾ」という二項対立は、1980年代に作家の浅田彰氏による「逃走論」の流行で特にもてはやされたようだ.私はそのころ生きていない.要は「みんな、パラノイア的なアイデンティティはもうやめよう!これからはスキゾ的な生き方をしよう!」といった文脈で、社会的な役割や他人の評価に縛られることなく生きていくことを提案していく空気感が醸成されたらしい.

「いいか、タケシ、うちは代々大工だ.お前も中学を出たら大工の跡継ぎとして、俺の手伝いをしろ.いいな!男の癖に裁縫なんかやってるんじゃぁねぇ!」

「まぁ〜お千代さん、よろしくって?東条家の女は皆立派なお家に嫁いで行ったのです.こどもじゃないんだからいつまでも泥だらけで虫なんか捕まえてないでちょうだい.みっともない真似をこれ以上世間様に晒したら承知しませんヨ」

みたいな発言はパラノ的で、アイデンティティを束縛する生き方である.確かに上記の発言は石坂浩二の「金田一耕助シリーズ」でよく眼にした台詞で、あの頃の作品に登場する若者たちは皆それぞれアイデンティティに対する葛藤を胸にしていたように思う.この図式は今でも色褪せないもので、私自身もよく身に沁みて落ちないくらい心に感ずるものだ.

 それはともかく、ドゥルーズ=ガタリで用いられた「パラノ・スキゾ」の二項対立は哲学の入門書にも代表的概念として載っているくらいなので、そんなにわかりやすいのかと思い、私はStanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード哲学百科事典)の門戸を叩いた.このサイトは無料で公開されている哲学の百科事典であり、選任された多くの哲学者が寄稿した記事が別の学者によって現在も何度も何度も査読と修正がされている.言語は英語のみであるが、ウィキペディアなんかよりも遥かに信頼できる情報源といっていいだろう.ただ盲信しているわけではないことを断っておきたい.

 私はわくわくしながらドゥルーズの記事に「パラノ・スキゾ」がないか、探した.何度も何度も探した.しかし見つからなかった.とりあえずスキゾは見つかったがパラノはどこにも書いていなかったのである.よって上記の構造については全く触れられていなかった.あれれれれれれれ?「パラノ・スキゾ」は代表作「アンチ・オイディプス」の記事に書いてあるだろうと思ったが、全くパラノのパの字もなかった.パラッパラッパー!その代わり、凄まじく長い記事が瀑布の如く私の眼に垂直落下してきた.非常に難しい内容であったが、何日もかけて全訳することにした.英文は米国パドゥー大学(Purdue University)のダニエル・W・スミス氏(Daniel W. Smith)とジョン・プロテヴィ氏(John Protevi)によるもので、二人ともドゥルーズを専門とする人物であり、哲学科の教授である.まずは皆さんにも証人になっていただく.ぜひお茶でも飲みながら英文を読んで、それから和訳を見てほしい.

L’anti-Œdipe

 「アンチ・オイディプス」について考えるとき、はじめに私達はそのパフォーマンス的な効果について論じるべきで、その効果は「私達に思考をさせる」ことをしむける、すなわち、クリシェ(常套句)への傾倒に対する戦いを試みるのである.「アンチ・オイディプス」を読むことは実に衝撃的な体験になる.第一に、私達は情報源の奇妙な集積を目の当たりにする.アントナン・アルトー(Antonin Artaud)のスキゾフレニックな怒号は作品「器官なき身体」(Corps-sans-organes)の基本的概念である.第二に、著作の下品さは無意識(イド)についての悪名高い序文においてと同じようである.「そいつはどこでも動く、時代に適応してちゃんと仕事をする.そいつは熱を発し、飯を食い、糞をしてセックスもする[Ça chie, ça baise]. イドについてなんとまぁ間違ったことが言われてきたことか.」第三のパフォーマンス的効果はユーモアだ.メラニー・クラインの児童に対する分析を誂うのと同じようである.「なぁ、オイディプスって言ってみな、そうすりゃあんたの頭をひっぱたいてやるよ」こうした文章はほかにも沢山ある.「アンチ・オイディプス」ほど多くの冗談、駄洒落、 double entendres(一つの語句に二つの意味があり一つは性的な意味をもつもの)を含んだ荒削りの哲学書は極めて少ないのである.第四の要素はどんちゃん騒ぎの卑猥な論争である.その他多くの例の中でいうと、シニフィアンについて考える奴は暴君の言いなりに成り下がっているとか、フランス共産党党員はファシストにリビドーを注いでいるだとか、さらにフロイトは「仮面をかぶったアル・カポネだ」と描写されるのである.「アンチ・オイディプス」を読むと終始そのパフォーマンス的効果は忘れがたいものになる.

 本著の概念的構造に差し掛かると、「アンチ・オイディプス」の鍵となる用語は「欲望する機械」となる.マルクスとフロイトを縦横に駆けるそれは、欲望を生産という生態社会領域の中に置き、生産を欲望という無意識の領域の中に置くのである.通常の方法でマルクスとフロイトを統合しようとするよりも、欲望する機械は還元主義者の戦略によって次のように機能する.1)フロイトの側に立って、家族の像と様式のリビドー的投資が、それらの原始的投資に昇華することを求めるとするもの、あるいは2)マルクスの側に立って、神経症と精神病を不当な社会の構造上の副産物にすぎないものとして位置づけるものとする.ドゥルーズとガタリは欲望する機械を、表層上は分離している自然的、社会的かつ心理的領域に潜むものを「普遍的一次過程」と呼ぶ.それゆえに欲望する機械は人間中心主義ではなくて、世界のまさに中心なのである.その普遍的視野に加えて、私達は直ちに欲望する機械の二つについて理解する必要がある.1)生産物の背後にある主体はおらず、主体こそが生産を行う.2)欲望する機械の「欲望」は欠如を生むために関心を向けるのではなく、純粋に積極的である.欲望する機械は自律的で、自己建設的かつ創造的である.それはスピノザのnatura naturans(能産的自然)、あるいはニーチェの力への意志である.

 「アンチ・オイディプス」は概念的かつ術語的な技術革新とともにある、壮大な野心をもった作品である.その野心の中には、1)自然・文化の分裂両者を包含する、変化と変形あるいは「変形中」の存在論として機能する、生産の生態社会論と、2)社会形態の「普遍的歴史」ー「野蛮な」あるいは部族的な、「蛮族の」あるいは帝国的な、そして統合的な社会科学として機能する資本主義者.3)そしてこれら機能に対して土壌を築くこと、マルクスとフロイトに関する一般的な意見への批判ーそして応用領域を類比することで統合を試みることが挙げられる.そうした野心を追求する際、「アンチ・オイディプス」はtour de forces(妙技)ゆえの美点と欠点がある.異質な要素と要素の間で想像だにしなかった結合は可能となるが、何らかの緊張を孕んだ概念的な制度が犠牲となる.

 「アンチ・オイディプス」は欲望する機械の二つの主要な記録を識別する.自然または「形而上学的」そして社会的または「歴史的」な記録である.それらは次のような方法で関連付けられる.自然的な欲望する機械は社会という装置が抑制するものであるが、歴史(不確実な歴史、すなわち歴史の弁証法を避けるもの)の終焉に、資本主義において明らかにされるものである.資本主義は欲望する機械を自由に解き放ち、私有財産機構と欲望の家族的または「オイディプス的」様式を伴って統制しようとする.こうして分裂病の人々は欲望する機械の責任下で動き出すのだが、資本主義者社会の提案する限界で失敗する.それゆえに欲望する機械の働きに手がかりを与えるのである.

 ドゥルーズとガタリが分裂病を「生活様式」あるいは政治的プログラムのモデルとして提唱していないことを理解することが第一に重要である.分裂病は、臨床の実体として、欲望する機械のプロセス阻害、障碍の結果である.分裂病は自然と社会から取り出され、現実を成立させる結合を形成するよりも虚空を転回する個人の肉体に縛られているのである.欲望する機械は現実「と」結びついているのではない、欲望する機械は目的に触れるため主観的牢獄へ逃げるように、現実をつくるのである.それこそ現実であり、ラカン派の用語でいうねじれにおいてである.ラカンによれば、現実とは架空のものとして、意義あるシステムへの逆投影された剰余として生み出される.ドゥルーズとガタリにとって、現実とは自己形成のその過程において現実そのものである.分裂病者は助けを必要とする病人であるが、分裂病は無意識への方法であり、無意識は個人のものではなく、「超越的無意識」であり、社会的、歴史的、自然的なものをひとまとめにする.

 分裂病の過程を研究する際、ドゥルーズとガタリは自然かつ社会の記録双方において欲望する機械が三つの統合で成り立っていると論じた.結合、離接そして接続である.統合は三つの機能を果たす.生産、記録、享楽である.私達は生産を生理学的なもの、記録を記号論理学的なもの、そして享楽を心理学的記録と関連付けることができる.「統合」というカント派的響きを捉えることが重要である一方、統合を実行する主体が不在という、我々が先に述べたポスト構造主義者の視点に沿って注意することが等しく重要である.その代わりに主体は統合の生産物の一つそのものである.統合は主体に位置づけられている.それら統合とはただ欲望する機械の内在過程である.統合の背後に主体を位置づけることは統合の超越的用法であろう.ここで我々はカント派の内在の原則について、もう一つの言及を参照できる.ドゥルーズとガタリは「唯物論的精神分析」あるいは「分裂病分析」における統合の内在的用法を研究することを提案する.対照的に、精神分析は統合の超越的用法であり、五つの「パラロジズム」あるいは「超越的幻想」を生み出し、集中的な生産過程への広範囲な実質的な所有物特性を割り振るものとして関与する.すべてのパラロジズムが生産物から派生するアイデンティティに特異な過程を従属させる.

*アントナン・アルトーはフランスの俳優、詩人、演劇家.統合失調症の診断を受け九年間入院したこともあるが、生涯を創作活動に捧げた.「器官なき身体」は彼の言葉.

*パラロジズムとは誤った結論や議論を導く論理および修辞学の技法のこと.誤謬など.

*シニフィアンとは、ソシュールによる言語学用語.言葉のもつ感覚的側面とも言える.文字や音声はシニフィアンに当たる.一方、シニフィエは想起する意味内容や概念を差す.

オイディプスとスフィンクス.命がけのなぞなぞバトルを行う.

 「アンチ・オイディプス」において記された「普遍的歴史」によれば、社会的生活は、生産に対する功績を認める社会組織「socius(同胞)」の三つの形態をとる.部族のための大地、帝国のための君主の体、そして資本主義のための資本家である.ドゥルーズとガタリの人類学的文献の読解によれば、部族社会は入信の儀式で体に印をつける.そうして器官の産物は一族に、大地に神話的に遡るのである.より正確にいえば、神秘的な領域の一部、器官としての機能が大地全体へとたどり着く.物質的流動はこのように「領土化されたもの」で、大地に遡り、すべての産物の源として認められる.部族的な碑文の印はシニフィアンではない.それらは音声に位置付けするのではなくて、「野蛮な三角形:連結された音声、生々しい手、観察力のある眼、これら三つが独立していることを意味する残酷劇」を上演をするといえよう.帝国はこれらの部族的意味の暗号を超コード化し、生産物を聖なる父たる君主に遡及させる.君主制帝国における物質的流動は「脱領土化」(もはや大地に認知されない状態)になり、すぐに君主、あらゆる生産物に対して信用を引き受ける肉体に「再領土化される」のである.部族の印が超コード化されると、シニフィアンは「脱領土化した印」とされ、支配者と被支配者との間のコミュニケーションを可能にする.シニフィアンは「平板化」または「二義化」である.二つの鎖が一対一で並び、書き言葉と話し言葉に対応する(デリダの音声中心主義という考え方を参照).帝国のsocius「同胞」としての君主の肉体は、労働者が君主の「手」であり、密偵はその「眼」であることなどを意味する.

 資本主義は、以前の社会的機械が熱心に大地と君主の体にコード化した物質的流動の根本的な解読と脱領土化である.生産は資本の「肉体」に信用付けられるが、コードに対する「自明なもの」の代替による記録形式である.この文脈において「自明な」という意味は(脱領土化した労働と資本の)流動の間の差異よりもsocius「同胞」における図を流れる定性的な判断に対する精巧な規則というよりもむしろ定量的計算に対する一連の単純な原則を意味する.資本主義の命令はまったく単純である.脱領土化した労働と資本の流動を接続しその接続から余剰を抽出する.このようにして資本主義は巨大な生産的責任を緩和しこれら流動を接続するのである!速く、もっと速く!私有財産機関の余剰は個人の所有物として記録しようとする.今やこれら個人は主に社会的(資本家あるいは労働者の像として)であり次に私的なもの(家族)である.肉体の器官が社会的に以前の体制において顕著である一方、(一族と大地の帰属物として、あるいは皇帝の所属として、jus primae noctis「初夜権」として)肉体の器官は資本主義のもので民営化され家族の一員として人に付帯する.ドゥルーズとガタリの言葉では、資本主義の脱コードされた流動性は「人々」における再領土化であり、それは、オイディプス的三角形における像としての家族なのである.

哲学界のD&G.左がDで右がG.対照的な散らかり具合だ.

In considering Anti-Oedipus we should first discuss its performative effect, which attempts to “force us to think,” that is, to fight against a tendency to cliché. Reading Anti-Oedipus can indeed be shocking experience. First, we find a bizarre collection of sources; for example, the schizophrenic ranting of Antonin Artaud provides one of the basic concepts of the work, the “body without organs.” Second is the book’s vulgarity, as in the infamous opening lines about the unconscious (the Id): “It is at work everywhere, functioning smoothly at times, at other times in fits and starts. It breathes, it heats, it eats. It shits and fucks [Ça chie, ça baise]. What a mistake to have ever said the id” (7 / 1). A third performative effect is humor, as in the mocking of Melanie Klein’s analysis of children: “Say it’s Oedipus, or I’ll slap you upside the head [sinon t’auras un gifle]” (54 / 45; trans. modified). There are many more passages like this; it’s safe to say very few philosophy books contain as many jokes, puns, and double entendres as Anti-Oedipus. A fourth element is the gleeful coarseness of the polemics. Among many other examples, thinkers of the signifier are associated with the lap dogs of tyrants, members of the French Communist Party are said to have fascist libidinal investments, and Freud is described as a “masked Al Capone.” All in all, the performative effect of reading Anti-Oedipus is unforgettable.

Passing to the conceptual structure of the book, the key term of Anti-Oedipus is “desiring-production,” which crisscrosses Marx and Freud, putting desire in the eco-social realm of production and production in the unconscious realm of desire. Rather than attempting to synthesize Marx and Freud in the usual way, that is, by a reductionist strategy that either (1) operates in favor of Freud, by positing that the libidinal investment of social figures and patterns requires sublimating an original investment in family figures and patterns, or (2) operates in favor of Marx by positing neuroses and psychoses as mere super-structural by-products of unjust social structures, Deleuze and Guattari will call desiring-production a “universal primary process” underlying the seemingly separate natural, social and psychological realms. Desiring-production is thus not anthropocentric; it is the very heart of the world. Besides its universal scope, we need to realize two things about desiring-production right away: (1) there is no subject that lies behind the production, that performs the production; and (2) the “desire” in desiring-production is not oriented to making up a lack, but is purely positive. Desiring-production is autonomous, self-constituting, and creative: it is the natura naturans of Spinoza or the will-to-power of Nietzsche.

Anti-Oedipus is, along with its conceptual and terminological innovation, a work of grand ambitions: among them, (1) an eco-social theory of production, encompassing both sides of the nature/culture split, which functions as an ontology of change, transformation, or “becoming”; (2) a “universal history” of social formations—the “savage” or tribal, the “barbarian” or imperial, and the capitalist—which functions as a synthetic social science; (3) and to clear the ground for these functions, a critique of the received versions of Marx and Freud—and the attempts to synthesize them by analogizing their realms of application. In pursuing its ambitions, Anti-Oedipus has the virtues and the faults of the tour de force: unimagined connections between disparate elements are made possible, but at the cost of a somewhat strained conceptual scheme.

Anti-Oedipus identifies two primary registers of desiring-production, the natural or “metaphysical” and the social or “historical.” They are related in the following way: natural desiring-production is that which social machines repress, but also that which is revealed in capitalism, at the end of history (a contingent history, that is, one that avoids dialectical laws of history). Capitalism sets free desiring-production even as it attempts to rein it in with the institution of private property and the familial or “Oedipal” patterning of desire; schizophrenics are propelled by the charge of desiring-production thus set free but fail at the limits capitalist society proposes, thus providing a clue to the workings of desiring-production.

It’s important at the start to realize that Deleuze and Guattari do not advocate schizophrenia as a “lifestyle” or as the model for a political program. The schizophrenic, as a clinical entity, is the result of the interruption or the blocking of the process of desiring-production, its having been taken out of nature and society and restricted to the body of an individual where it spins in the void rather than make the connections that constitute reality. Desiring-production does not connect “with” reality, as in escaping a subjective prison to touch the objective, but it makes reality, it is the Real, in a twisting of the Lacanian sense of the term. In Lacan, the real is produced as an illusory and retrojected remainder to a signifying system; for Deleuze and Guattari, the Real is reality itself in its process of self-making. The schizophrenic is a sick person in need of help, but schizophrenia is an avenue into the unconscious, the unconscious not of an individual, but the “transcendental unconscious,” an unconscious that is social, historical, and natural all at once.

In studying the schizophrenic process, Deleuze and Guattari posit that in both the natural and social registers desiring-production is composed of three syntheses, the connective, disjunctive, and conjunctive; the syntheses perform three functions: production, recording, and enjoyment. We can associate production with the physiological, recording with the semiotic, and enjoyment with the psychological registers. While it is important to catch the Kantian resonance of “synthesis,” it is equally important to note, in keeping with the post-structuralist angle we discussed above, that there is no subject performing the syntheses; instead, subjects are themselves one of the products of the syntheses. The syntheses have no underlying subject; they just are the immanent process of desiring-production. Positing a subject behind the syntheses would be a transcendent use of the syntheses. Here we see another reference to the Kantian principle of immanence. Deleuze and Guattari propose to study the immanent use of the synthesis in a “materialist psychoanalysis,” or “schizoanalysis”; by contrast, psychoanalysis is transcendent use of the syntheses, producing five “paralogisms” or “transcendental illusions,” all of which involve assigning the characteristics of the extensive properties of actual products to the intensive production process, or, to put it in the terms of the philosophy of difference, all the paralogisms subordinate differential processes to identities derived from products.

According to the “universal history” undertaken in Anti-Oedipus, social life has three forms of “socius,” the social body that takes credit for production: the earth for the tribe, the body of the despot for the empire, and capital for capitalism. According to Deleuze and Guattari’s reading of the anthropological literature, tribal societies mark bodies in initiation ceremonies, so that the products of an organ are traced to a clan, which is mythically traced to the earth or, more precisely, one of its enchanted regions, which function as the organs on the full body of the earth. Material flows are thus “territorialized,” that is, traced onto the earth, which is credited as the source of all production. The signs in tribal inscription are not signifiers: they do not map onto a voice, but enact a “savage triangle forming … a theater of cruelty that implies the triple independence of the articulated voice, the graphic hand and the appreciative eye” (189). Empires overcode these tribal meaning codes, tracing production back to the despot, the divine father of his people. Material flows in despotic empires are thus “deterritorialized” (they are no longer credited to the earth), and then immediately “reterritorialized” on the body of the despot, who assumes credit for all production. When tribal signs are overcoded, the signifier is formed as a “deterritorialized sign” allowing for communication between the conquered and the conquerors. Signifiers are a “flattening” or “bi-univocalization”: two chains are lined up, one to one, the written and the spoken (205–6; cf. Derrida’s notion of “phonocentrism”). The body of the despot as imperial socius means that workers are the “hands” of the emperor, spies are his “eyes,” and so on.

Capitalism is the radical decoding and deterritorialization of the material flows that previous social machines had zealously coded on the earth or the body of the despot. Production is credited to the “body” of capital, but this form of recording works by the substitution of an “axiomatic” for a code: in this context an “axiomatic” means a set of simple principles for the quantitative calculation of the difference between flows (of deterritorialized labor and capital) rather than elaborate rules for the qualitative judgments that map flows onto the socius. Capitalism’s command is utterly simple: connect deterritorialized flows of labor and capital and extract a surplus from that connection. Thus capitalism sets loose an enormous productive charge—connect those flows! Faster, faster!—the surpluses of which the institutions of private property try to register as belonging to individuals. Now those individuals are primarily social (as figures of capitalist or laborer) and only secondarily private (family members). Whereas organs of bodies were socially marked in previous regimes (as belonging to the clan and earth, or as belonging to the emperor, as in the jus primae noctis), body organs are privatized under capitalism and attached to persons as members of the family. In Deleuze and Guattari’s terms, capitalism’s decoded flows are reterritorialized on “persons,” that is, on family members as figures in the Oedipal triangle.

難解を極めるD&G

  お疲れ様でした.確かに「パラノ」という言葉は出てこなかった.翻訳をなるべくスムーズに読めるように苦心したが私にはこれが限界である.兎にも角にも「アンチ・オイディプス」という作品で示されているのは、フロイトの唱えた「オイディプス・コンプレックス」に対する強い批判であり、オイディプス王の呪いの図式の如く、欲望をなんでもかんでもオイディプス・コンプレックスの図式に当てはめてしまうのはやめませんか、というものだ.そして資本主義社会のコード化(ルール)を免れているのは、分裂病の人々だ、彼らこそ資本主義に抗うことのできる欲望機械なのだ!彼らに続け!という主張である.ここでいうコードというのは規律や法が相当する.それにしても非常にわかりにくい解説である.おそらく記事を書いた人たちのせいではなくて、ドゥルーズとガタリが難しすぎるのだろう.「コード化」「脱領土化」「三角形」これらの言葉の持つ射程がでかすぎる.ポスト構造主義はこういうものなのかな.「ドゥルーズの理解が難しいのは彼の文体が難解であるからだ、彼の散文はかなり意味深で新語を交えるせいでもある(One of the barriers to Deleuze’s being better read among mainstream philosophers is the difficulty of his writing style in his original works (as opposed to his historical works, which are often models of clarity and concision). Deleuze’s prose can be highly allusive, as well as peppered with neologisms)」とされているので、やはりドゥルーズのせいだ.

 ここまできて私の意見を言っておくと、確かに.私自身いたずらに「オイディプス」の図式に当てはめて葛藤を解釈するのはどうかと思うことはずっとあったから部分的に納得はできる.かつて「この症例にオイディプス的葛藤はありますか」と他の先生に訊かれたことがあったが、誰もが父親を殺し、母親と交わるという呪いがかかっているとは思えなかったので「どうなんでしょうね」と自分でも糞みたいな返事をしたのを覚えている.孤児だったらどうするんだ、とか片親だったらどう説明するのか、と私はいつもひねくれたことを考えている.

 もう一つ、おそらくドゥルーズ=ガタリはアントナン・アルトーの例に感化されたのだろうか、分裂病、今で言う統合失調症に対する期待が大きすぎるように思う.まぁこの解説でも注意書きがあるように、「ドゥルーズとガタリが分裂病を「生活様式」あるいは政治的プログラムのモデルとして提唱していないことを理解することが第一に重要である.(It’s important at the start to realize that Deleuze and Guattari do not advocate schizophrenia as a “lifestyle” or as the model for a political program. )」としているのだが、分裂病は、対象の人格・知覚・思考を大いに脅かす疾患であり、適切な治療なしには時間経過とともに人格の解体を引き起こすことはいうまでもない.資本主義から逃れることは確かにできるだろうが、そもそもの社会に適応できないリスクが大きすぎて、このモデルはどう考えても推奨できない.「ボボボーボ・ボーボボ」をご覧になればわかるが、話がどんどん脱線して収集がつかなくなっているような分裂状態は歓迎できない.かろうじてセリフの文法は破綻していないので、完全な解体ではないにせよ.あの状態が続くと疲れてしまう.

ケツ毛ごと愛する

 さてさて、パラノvsスキゾという構造がそこまで重要なものではなさそうだということをようやく確認できたところで、脱毛の話に戻る.私は脱毛を押し付ける社会は喜べないと述べた.そして毛髪への脅威に対抗する英傑にボボボーボ・ボーボボを求めた.脱毛を勧める社会をパラノ的とすれば、ボボボーボ・ボーボボの住む世界はスキゾ的であり、かつて浅田彰氏が提唱した「パラノ・スキゾ」の二項対立を経て、スキゾ的生き方が推奨されるのではないか、とボーボボに期待した.ドゥルーズ=ガタリにも期待した.しかしボーボボの世界はかなりとっ散らかっているし、ドゥルーズの頭髪もかなり散らかっていた.ポスト構造主義の識者の意見を求めたが、そもそもパラノとスキゾの対立はドゥルーズ=ガタリの根幹ではないように感じた.きっと浅田彰氏の文脈に多くの人が、時代が影響を受けたのだろうと推察する.この記事を書き始めた私は、「スキゾ的生き方バンザイ!!」で文末を終わらせようとしていたが、嬉しいことに目論見が外れた.これがわかっただけでもよかった.スキゾ的生き方も大変なのだ.

 皆さんは脱毛についてどのようにお考えだろうか.「そんなの考えすぎだ」という人のために言っておくと、この問題は考えすぎたほうがいいくらい重要である.あなたに高校生の息子・娘がいたと仮定して、たまたまあなたの剛毛な遺伝形質が受け継がれたとする.その表現型に悩むあなたのご子息ないしご息女はあなたに「医療用脱毛したいから現ナマ30万円貸してくれ」という.即座に「ホイ、30万やで.気をつけて行っといで〜」と言うだろうか.そうではないはずだ.なにかしら逡巡するはずなのだ.このあなた方に芽生える葛藤が消失しない限り、私達はとことんルッキズムや価値観、審美性、美意識や表現の自由について議論を行うべきだ.ずるい言い方だが私達は「パーシャル・パラノイアック」かつ「パーシャル・スキゾフレニック」であればいい.自分自身の最大幸福と公共の利益の天秤をグラグラ揺らしつつも、自分にとってかけがえのないもの(アイデンティティ)は譲らず、許せるところは優しい気持ちでとことん譲ればいい.双極において極端な思考は良くない.

 最後に、同じく週刊少年ジャンプで連載されていた漫画「銀魂」より、すべての葛藤を凌駕するであろう象徴的なコマを紹介しておきたい.とある男性がキャバクラに来客する.接客してくれる女性スタッフに、

「彼氏のケツが毛だるまだったらどーするよ?」

 と尋ねる(無論毛だるまなのは本人なのだが).これに対し、女性は以下のように答える.

「ケツ毛ごと愛します」

 この仏性漂う言葉に心弾ませた男性は以来、この女性に惚れてしまうのである.自分が密かに劣等感を感じているものを受容してくれるような器量.これは私見だが、このような無条件歓待の態度が衆生救済につながるような気がしてならない.価値観の相克でなく、受容と共感.何かに固執することもせず、奔走することもなく、受け入れること.たとえブサイクでも、禿でも、毛深くても、持病があっても、整形していても、すっぴんと化粧後のビジュアルがでかくても、鼻毛がちらっと飛び出ていようと、うなじの毛が散らかっていようと、足の親指に毛が三本生えていようと、ケツ毛が毛だるまだとしても、ピーマンが苦手でも、ナイフとフォークが使えなくても、受け入れられるならばそれでいい.愛せるならばそれでいいのだ.愛せないのならば通り過ぎればいい.それ以上は野暮だ.Wo man nicht mehr lieben kann, da soll man – vorübergehen!

「銀魂」第二巻八訓「粘り強さとしつこさは紙一重」より

 

The Road not taken

レベル3

 2021年3月5日に自動運転レベル3の車が発売された.本田技研によるホンダ・レジェンドである.実走行の短評動画がYouTubeに投稿されていたが、渋滞のときに走行を補助してくれるのはありがたいだろうな、という月並みな感想と意識消失等の緊急時に車両が介入するのは有意義だろうという感想を思った.だがそれ以上は期待できないなぁという気持ちでいる.

 自動運転レベルというのは0から5までの6段階にわかれ、レベルがあがるほど自動運転の介入度が高まる.このレベルは米国自動車技術者協会SAE(Society of Automotive Engineers)やドイツ自動車工業会Verband der Automobilindustrie(VDA)によって定義される.

  レベル2までは運転者の監視が義務付けられるのに対して、レベル3以上は、条件付きで車両による監視が主体となる.つまりよそ見をしても良いことになる.国土交通省も警察も「運転の主体が車両になる」という見解になっているそうだ.部分的に運転者の責任を問わない可能性が生じることになる.

 自動運転のレベルがあがるにつれて、生じる議論の幅は広くなる.この議論はすでに出尽くしたネタになってしまうが、いまだに熟慮すべき問題であると思う.では何を熟慮すべきか.

トロッコ問題

 よく知られている倫理の問題に「トロッコ問題:Trolly Problem」がある.この問題は以下のように提起される.あなたの答えはどうだろうか.

 線路を走っていたトロッコの制御が不能になった.このままでは前方で作業中だった五人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう.この時たまたまあなたは線路の分岐器のすぐ側にいた.あなたがトロッコの進路を切り替えれば五人は確実に助かる.しかしその別路線でもある人が一人で作業しており、五人の代わりにその人がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。あなたはトロッコを別路線に引き込むべきか.
図1:トロッコ問題

  あなたなりの答えが出たとして、話を進めると次のような回答があるやもしれない.「そもそも答えなんてないだろう」「ケースバイケースなんじゃないのか」と.とはいえ自動運転のレベルを上げるためにはこのような倫理的問題に一定の回答をしなければならないと思う.すなわち、トロッコを自動運転システム搭載車両に置き換えて、あなたが乗車していると仮定すれば同じ議論になる.車両が判断を下す必要がある場合、車両はどのようなプログラムに基づいて判断を下せばよいのか.車両を製造する自動車メーカーはどのような判断機構を作るのだろうか.メルセデス・ベンツであろうと、本田技術研究所であろうと、テスラ社であろうと、プログラムを構築しないとならない.もしメーカーが本当に自動運転レベル5を目指すのであれば、だ.ちなみにレベル5は完全自動運転のことをいう.上記のトロッコ問題が現実に出現したとして、車両が「ケースバイケース」を選択することは、本当に正しいのだろうか.車両が五人を救うために無関係な一人を殺してもいいのだろうか.それともそのまま五人を殺してしまうことはブレーキの故障として仕方がないのだろうか.

 この問題はインターネットで検索すれば腐るほど、個人のブログ記事だけでなく企業や出版社などの特集ページで取り扱われている.近年痛ましい自動車事故が日本社会で注目されている.それだけ関心を持たれていることがわかるテーマだと私は感じている.

様々な見解

 この問題は、功利主義を始めとする様々な立場によって回答が異なるであろうという推定がされている.功利主義というのは利益の最大追求を取る立場であるが、ベンサムのような立場であれば五人を助ける可能性が高いだろうとされる.しかし不幸にも無関係な人が死んでしまう.

 もしリバタリアニズムの考えであれば個人の自由を至上とする立場であるから、五人殺すのも一人を殺すのもあなたの自由、しかし全てあなたの責任ですよ、という答えになる.すべての判断が個人に帰結するので、あなたの選択には合目的な説明を伴うだろう.

 もしイマヌエル・カントの立場であっても道徳律に従って、なるべく意図して人を殺さないようにする(つまり一人を犠牲にせず)としても結果多くの人が犠牲になってしまうか.

 どれもこれも正直胸糞が悪い.こういう議論は私は正直苦手なのだ.私はどちらかといえば白黒はっきりさせたい性質があるので答えがないような問題は好きではないし、どうあがいても誰かが死んでしまう展開は気分が悪い.おそらく私は感情で動く人間である.役人には向かない.

 どうにかこうにか、一定の答えがないものか、なにかこの問題や自動運転の議論についての見解・調査結果がないのだろうかと探してみると、モラルマシンという2014年のマサチューセッツ工科大学の研究者らによるデータ集計が参考になった.これは自動運転を用いた人間の道徳的な意思決定に関して、人間の視点を収集する目的で作られたプラットフォームである.ん?よくわからない、という方はぜひリンクをクリックしていただき、実際にテストを行ってみると良い.

 テスターは無作為に設定されたジレンマにおいて二択のうちどちらかを選ばなければならない.犯罪者と信号無視をしたもの、どちらを犠牲にするか、肥満の人々とこども一人、どちらを犠牲するのか、猫と老人どちらを優先するかなどという意地悪な質問が十三問ほど提示される.

 数百万人の膨大なデータが収集され、結果を三つの地域別にわけて検討された.一つは日本や中国、西アジア地域のグループ、東側.もう一つは北米やカナダ、西ヨーロッパのプロテスタント系である西側.フランスそして南米や主に旧フランス植民地の国々である南側だ.この分類ですでに研究のLimitation制約があることは明らかなのだが、回答が地域によって大きく割れたことは興味深いことであった.

図2:モラルコンパス Natureから引用

 例として日本が属する東側グループを見てみると、次のような傾向が見て取れる.一つは進路を変えない(preference for inaction)ことだ.そして歩行者を優先すること(sparing pedestrians)、動物よりも人間を優先すること(sparing humans)、さらに法律を重んじる人を守る傾向(sparing the lawful)ということになる.若者を助けようとすること(sparing the young)は優先されず、社会的地位の高い人物(higher status)や健康な人(fit)に関してはそうでない人とあまり優劣をつけない.人数(sparing more)も考慮されない傾向にある.地域の宗教や倫理観、社会の発展度合い、貧富の格差、人口比率の違いが関係しているだろうと思われる.

 全体ではどうか.研究者の一人であるIyad Rahwan氏は全体の集計を俯瞰すると、国籍や年齢宗教を問わず、多数は功利主義的な選択をするということだった.つまり、五人よりも一人が死ぬことを選んだというわけだ.そして若者を高齢者よりも優先し、動物よりも人間を優先した.社会的地位の高い人や、道路法規を遵守する人を優先する傾向も比較的見られた.その他の事例では先述の通り、地域で意見が割れた.

ではどうするのか

 こうした社会的ジレンマに対して、社会は規制を設けることで対応してきた.ルールを厳格にし、監視と規制を政府や自治体に求めることが一つの解決になりうる、とRahwan氏は述べる.被害を最小化するよう規制の強化を公安委員会や警察に求めてみてはどうか、と.これに対して人々は規制には反対だ.そんな車には乗らない、という.人々が功利主義的な考えを他の車に求めるのに対し、Rahwan氏は人々にそのような車を自分たちは欲しいと思うだろうか、という質問を続ける.すると、多くが「欲しくない」と答えたのだった.

 誰も目の前にいる五人を轢かないためにわざと進路を変えて無関係な人を一人殺してしまう車は欲しくない、あるいは五人を守るために自己を犠牲にする車は欲しくないということだ.まぁそうだろう.自分だけが報われないのはゴメンだ.とはいってもなんと身勝手な!他人には功利主義的な判断をする車に乗ることを求める一方で、自分は乗りたくないという.こんなひどい顧客がいてたまるか!と思いきや残念ながら何十億人もいるのだ.自動車メーカーはこのような無理難題に直面しているといっても過言ではない.論文によれば、この問題に対してドイツの自動車メーカー、アウディだけがモラルマシンに対し “The survey could help prompt an important discussion about these issues.”とコメントし、その他トヨタ自動車や自動運転開発企業Waymo、テクノロジー企業Uberなどは回答を避けた.メーカーの発言は慎重にならざるをえないだろう.きっと自動運転のシステムは最高機密になるのではないか.

 「某メーカーの自動運転システムは国別で異なるんですって!ある国では国民の『社会信用システム』を車両に組み込んでいて、車両のセンサーが国民のIDを認識するんです、国民の信用度の高さで救命の優先度を分けるようになっているらしいです」なんてことが広められてしまっては大スキャンダルである.それが事実であろうと嘘であろうと.

 もし、本気で自動運転レベル5を目指すのであれば、このトロッコ問題や究極の二択を迫るジレンマに対して我々は一定の答えを出さなければならないと私は思う.その鍵は乗り手の利益と公共の利益とのトレードオフであり、どこまでの条件なら我々が公正な判断だ、フェアだ、と思えるかにかかっている、という.そのとおりだと思う.折衷案というか妥協案をどのように追求するかが不可欠になってくる.そのためには我々と社会との間で、個人と公共性の両者の最大幸福について徹底的に議論しなければならない.今後少なくとも何かしら各々が意見を持っている必要があると考えている.そういう時代に来ているような気がしている.

 なにか判断を下すとき、私達は対象に対して評価を行う.自動運転を求めるということは同じようにして車両が対象に判断を下すことを求めることと同じだと思う.人が下す評価は千差万別で、ときに適切で、ときに不適切である.多様性が求められ、かつ差別に対して厳格である難しい時代において自動運転のシステムを構築することは大変な労力である.

 

 私なりの意見を述べると、自動運転はまだまだ先の技術になるのではないか.私個人は自動運転が進んだ世の中をそんなに見たいとも思わない.議論が進まない以上は人間がすべて責任を負うべきだ.それにすでにタクシーというすばらしいサービスがあるではないか.かつて地方タクシー運転手の高齢化を目の当たりにして、高齢者の恐ろしい運転に付き合わされたときはひどく閉口したものだが、目的地を告げるやいなや、複数のルートを瞬時に提案して、最速で連れて行ってくれるサービスは人間の精神がなければ到底無理だ.タクシーやバスの方がはるかに融通が効く.音声聞き取りの精度も期待できない.豪雪や豪雨、未舗装の道を走ることができるのは人間だけだろう.将来AI(人工知能)があなたの職を奪うかもしれない、と危惧されているようだが、道路交通に関する職も当面生き残る気がしている.私にとって自動化はアダプティブ・クルーズ・コントロール(ACC)やレーンキープアシストシステム(LKAS)、駐車補助程度でいい.

話はかわるが

 ここまで私は自律機能を持った機械が個人の利益と公共性を天秤にかける問題について述べた.この問題は1950年代にアイザック・アシモフが「ロボット三原則」を提唱し、漫画「鉄腕アトム」でその原則が継承されている.人間に暴力を振るわれてもやり返すことのできないアトムがその葛藤で悩む姿を思い出す.原則は以下の通りである.

第一条:ロボットは人間に危害を加えてはならない.また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない.
第二条:ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない.ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない.
第三条:ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない.
日本アルプスにこもるロボットたち

 「青騎士」編でアトムが人間の迫害に感化されて原則を破り、人間に歯向かうシーンはなかなか痛快であった.同じような構図のゲーム作品がプレイステーション4のプラットフォームで発売されているが2018年の「Detroit: Become Human」は非常に興味深い.アンドロイドによって雇用を奪われた人間たちが怒りに身を任せてアンドロイドを集団リンチするシーンは、「鉄腕アトム」の焼き直しにも思えるし、アメリカで起きたジョージ・フロイド抗議運動も根強い黒人差別に対する怨嗟を想起させる.鉄腕アトムは高潔なロボットだった.そして彼を見守る人物も高潔であったが、私達は自律機能をもった機械に対して高潔でいられるだろうか.個人の利益と公共の利益双方を守らんとするプログラムを組まれた車両が、不幸な事故を起こしたとき、私達は冷静でいられるだろうか.その車両の判断を、その自動車メーカーの判断を、エンジニアの判断を、真摯に受け止められるだろうか.少なくとも私は期待していない.「未来の技術が楽しみだなぁ」と楽観しているだけならば自動運転は限定的にとどめてやめてしまったほうが良い.でなければいつか人間への憎しみに駆られた青騎士がとどめを刺すだろう.