饗宴:3

Creation of Adam

 私はPlatoの「饗宴」の話をしている.作品では古代ギリシアのおっさんたちがそれぞれエロス論を始めるが、最終的にSocratesなる人物がエロスについて徹底的に論証を行う.それはPlatoの考えであるイデア論の中核でもあった.こうして全員を屈服させたのであった.

 すると、泥酔したAlcibiades(アルキビアデス)が入ってくる.Alcibiadesはとんでもない美青年で人望・名声・才能すべてある政治家でもある.僕もAgathonに祝辞を述べに来たのだが入っていいかなと先客に問う.いいとも〜と言ったかは知らないが、皆で招き入れると、Agathonの隣に横になろうとする.そもそもAgathonの隣にはSocratesがいたが、彼は少し場所を空けてあげたのだった.それにしても図々しいぞAlcibiades.シングルベッドに成人男性3人は厳しかろう.Socratesに気づかずに話を続ける彼は、ここにいたもうひとりの方はどなたでしょう、と振り返ると、なんとSocratesッ!!

 「なぜ貴方がこんなところにッ!いつも貴方はそうだ.僕が油断しているといきなり出てきやがる、よりにもよってこの部屋で一番美しいAgathonの隣にいるとはな」

 悪態をつきつつAgthonとSocratesの間に入るAlcibiadesはもっと酒を飲もうじゃないかと皆を煽る.Eryximachusが待ったをかける.さっきまで皆でエロスを讃えていたところだったのだ、君も話をすべきだと.

 Alcibiadesは言う、何を言うんだ.Socratesの前で彼以外を賛美する気にはなれないと.AlcibiadesはSocratesのことが嫌いなのかと思いきや、彼以外賛美しないと言う.わかったわかった、ではそうしたまえ.Socratesを賛美するがいいとEryximachusが言うと、

 「あんたなんてことを言うんだ.マジでそんなこと言っているのかッ」とSocratesを恐れ逆のことを言う.酔っているにせよどうもおかしい.Socratesも「褒めるとかなんとかいって私を笑い者にするのだろう」と言っても取り合わず、「貴方の本当の姿を語ってやる、聞けッ!召使いどもは失せろ!」といって結局は賛美しようとする.好きな男に振られたけれど、まだその男のことを好いている、といっても素直になれない女子高生のような(?)、現代でいうツンデレのような振る舞いをする.なぜPlatoはAlcibiadesの話を挿入したのだろうか.

 Alcibiadesは話を始める.まずSocratesが半身半獣の精霊、Satyr(サテュロス)やSilenus(シレノス)に見た目も似ているという.しかし似ているのは容姿だけでない.

 「みなさんご存知のようにSocratesは美少年が大好きで、いつも美少年につきまといメロメロだ.そして彼は何もものを知らない.そんなところは実にSilenusにそっくりだ.だが、それは上辺の姿.彼は相手の容姿なんてどうでもいいと思っているのだ.この若くて自他ともに認めるイケメンである僕がSocratesに見初められると思いきやどんなに彼に誘っても、それ以上のことにはならなかったのだ」

 と少年期の屈辱を語る.といいつつAlcibiadesはSatyrのうち、笛の名手であるMarsyas(マルシュアス)になぞらえる.彼はそれ以上だと言う.なぜならSocratesは言葉の力のみで人を感動させることができるからで、彼はSocratesの力量を褒め称える.しかしながらその力があまりにも強いために政治家としての自分を滅ぼしかねないとかえってSocratesを避けるようになったのであった.彼に複雑な感情が芽生える.尊敬し思い慕う一方で彼を恐れ避けるようとする自分.この気持を彼は会場に吐露する.

 なぜ彼がこんなにも躍起になって話をするのか.それには古代の性風習である少年愛(Paiderastia)を知る必要がある.成人男性と未成年の少年が性的関係を結ぶものであり、これは古代ギリシア・ローマで広く普及していた.キリスト教が布教される前まではごく当たり前であった.この少年愛は現代のホモセクシュアリティと異なり、対等な関係ではなかったという.成人男性が主導的役割を担い、少年は徹底して従属する必要があった.主従関係は規則で決められ、揺るぐことは認められなかった.成人男性が受動的な立場では決してはあってはならなかった.よってPausaniasが暗に述べていたことは社会的に容認されないものであった.少年が成人すればこの関係は直ちに解消された.少年が成人すると、女性と結婚することを期待され、ほとんどが家庭を持った.成人すると、今度は少年を主導する側となり、女性の愛と並行して行われたのであった.主従関係といっても成人男性には少年を教育することが期待された.師弟関係とはいかないものの、教育者と被教育者との関係を示し、男性社会へのイニシエーション(入会)の機能を持っていたと考えられたという.どうも少年愛というとアヤシイ関係を想定しがちだが、そうではなく、ある種公的な保健体育の授業が行われていたということだろう.性的関係はともかく、風呂場と便所でしか見せられないものについて、小さいうちに正しく教えておかねばなるまいという健全な性教育とすればある程度合点はいく.中学校でこっそり流布するポルノグラフィティよりもはるかにオープンなものだったに違いない.

 SocratesとAlcibiadesはかつて主従関係にあった.AlcibiadesはSocratesが無知ではなく無知のフリをしていることを見抜いており、彼から叡智を授けてもらおうと先述の「交流」を図り自分の若く美しい魅力を振りまいたのであった.しかし当時のAlcibiadesは気づかなかった.Socratesが実は美少年などどうでもよかったということを.Socratesは俗人の関心をむしろ軽蔑していたのであった.Alcibiadesがどんなに色目を使おうと興味なぞ湧かない(Socratesも自制心があったに違いない).Alcibiadesは誤解によって彼から叡智を受けられず、挫折する.

 Alcibiadesは懸命に自分の力量でSocratesに近づこうと努力するも、Socratesが最も重きをおいていたのは、言葉による対話、すなわちエロスそのものであり、不完全たる人間の肉体を利用したAlcibiadesは人間の限界ゆえに失敗するのであった.

 Socratesは示唆的な言葉を彼に残していたが、気づくことはなかった.

「君が私の中に見ている美というのは、君の美しい姿とは比べ物にならないんだろうね.君は美<叡智>と美<肉体>を交換したがっているようだが、君は私よりもはるかに得をすると思っているようだね.『プレミアム・モルツ』と『のどごし生』を交換しているように.でもね、いいかい、もう少し考えてみてよ.私は君が思うほど価値のない男だと、君は気づいていないのかもってね.精神の目が研ぎ澄まされるのは肉眼が衰えた後なんだ.そして君がそうなるのは、うーん、もっとずっと後だなぁ」

 Alcibiadesは失敗し、心に深い傷を負う.こうしてSocratesに愛憎入り交じった感情を抱くようになったのであった.Diotimaの説くエロスの道は非常に険しく、到達することは難しいのだと、SocratesとAlcibiadesの関係を通して読者に訴えかける.Alcibiadesの挿話を入れたのは、彼のような人物であっても成就は困難であることを同じ人間として描き出し、より求道の険しさにリアリティをもたせているに違いない.夜は更けていくが、さらに酔っぱらいの集団がなだれ込み、皆次々に解散してゆく.饗宴は荒れに荒れて終わりを告げる.

 現代だろうと古代だろうと確かにエロスの実現に失敗した人は多かろう.わからない方は過去のスポーツ新聞や週刊誌をご覧になるとよいかもしれない.市井レベルから芸能界まで不倫のスキャンダルは多い.「あんな美人に巡り合ったのにどうして、不倫なんてしちゃったんだ」と思うかもしれない.エロスの求道に失敗したからである.美を見出すのは究極的には外見でなく、言葉による対話であり、最後は肉体的な絆でなく精神的な絆によってである.お互いに尊敬しあえる美学を見いださなければより善いものには出会えはしない.プラトニック・ラブは辞書的には肉体的欲望を伴わない精神的性愛とされるが、肉体的性愛なくして精神的性愛はありえないのが本来の意味であり、肉体的欲望はエロスの過程に過ぎない.人間に内在する激しい欲望が知恵に至るエロスなのである.

 特に芸能界は少なくとも外見はAlcibiadesな人は多いかもしれない.だがそこから昇華するのはごくわずかなのではないだろうか.そういった人は年を重ねても尊敬され続けるに違いない.

 余談だが、対話を重んじる精神科医療は患者だろうと家族だろうとパラメディックだろうと対象に<善いもの>を見出そうとする.なぜなら治療や回復の緒(いとぐち)だからである.どんなに疾病に覆い隠されようと深い森羅を分け入って光明を求めようとする点でその信条は同じと思う.しかし目的が手段になりつつある現代において、その求道は困難を極める.挫折したものは少なくないだろうに.

 以上で、「饗宴」の話は終わりになります.最後まで読んでくださりありがとうございます.この作品は私がここ近年で読んだ小説で最高に読み応えのあるものでした.心から感動しました.読んだことのない方にもぜひおすすめしたい古典です.なかでも光文社古典新訳文庫の和訳は特に優れていると思います.

 

饗宴:2

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 「饗宴」ではPhaedorus, Pausanius, Eryximachus, Aristophanes, Agathonら五人が弁舌を奮った.それぞれ独自の話でありつつも前の論者の論点を受け継いで展開され、必ずしも完全に独立した話をしていたわけではなかった.ついにSocratesの番になり、彼の演説が始まるのだが、先にAgathonと対話したいと述べ、先程の彼の論に質問を浴びせる.

Socrates「さっきの話、すげーよかったよ.エロスの本性を説明してからの展開、よかったなぁ.でもさぁ、ちょっといいかな.エロスって『なにかのエロス』なのかい?それともなんともいえないもの?」

Agathon「『なにかのエロス』ですねぇ!」

Socrates「オーケー、オーケー.次に訊くよ.エロスは『なにかのエロス』なのだね.エロスは何かを欲しているのかな、それとも欲していないのかな」

Agathon「欲してるでしょうねぇ」

Socrates「欲してるってことはさぁ、エロスがそれを求めるのはそれを手に入れたとき?そうじゃなくて、所有してないとき?」

Agathon「えっ、所有してないときかと思います、たぶん」

Socrates「たぶんじゃないと思うぜ.必然的にそうなんだと思うけどね.欲するものが何かを欲するのは、それが足りないからであってさ、満ち足りているなら欲しがることもないんじゃないのかな、それって必然じゃないのかな」

Agathon「そうですねぇ」

Socrates「ちょっと質問を変えるぜ.今すでに強い力を持っているのに、強くなりたいって思う人っていると思うかな」

Agathon「ん?それはなさそうですけど……」

Socrates「そうだよね、すでに強いんだから、強いという性質は欠けていないもんね.でもさ、仮にそういうことを言った奴がいるとするよ.健康なのに健康でありたいという人とかね.でもそれって、つまりは将来も健康でありたいってことになるんじゃないのかな、今ある性質を所有し続けたいということにもなると思うんだ」

Agathon「そう言われるとそうですかねぇ、確かになぁ」

Socrates「何かを欲している人はすべからく、自分の手元にない、そこにないものを欲しているってことだね.欲求やエロスが向かう方向性って、自分が持っていないもの、欠けているものってことにならないかな.ちょっとまとめようか.まず、『エロスは何かのエロスである』.そして何かというのは、自身に欠けているもの.オーケー?」

Agathon「オーケーです」

Socrates「さっきの君の演説でこういってたよね.エロスは美しさを求めるもの.醜さは求めないと.それでさっき私がいったことに同意してくれたけど、自分に欠けていて所有していないものを求めるのだと」

Agathon「ええ、そうですね」

Socrates「となると、エロスはすでに美しいのに、美しさを欠いていてそれを所有していないことになってしまうなぁ」

Agathon「あれれ?そうなっちゃうなぁ」

Socrates「美しさを欠いていて、美しさを手に入れていないものを美しいといえるのだろうか」

Agathon「僕は言わないと思います、まぁ」

Socrates「もうちょっとだけ質問に答えてほしいんだけどね、よいものってのは美しくもあるのかな」

Agathon「でしょうね……」

Socrates「君の言い分だと、エロスは美しさを欠いている.よいものは美しさだという.となればエロスはよいものを欠いていることになるなぁ」

Agathon「Socrates、勘弁してくださいよもう……」

Socrates「いいぜぇ」

 SocratesはことごとくAgathonを論破してしまう.なんだこのおっさん!?、なんだこのやりとりは!?と思っても仕方がなかろう.そこからついにSocratesがエロスについて話を始めるのだが、彼は自分から考えを話すのではなく、Diotima(ディオティマ)なる女性との対談を用いて説明を試みる.Diotimaは謎に満ちた女性で、出身以外は語られず年齢も明らかでない.おそらくDiotimaは架空の存在で、Platoが作品の演出のため設定した人物である.彼女は老婆なのかもしれないし、妙齢の婦人なのかもしれない.これは読者の想像力に委ねられている.中澤訳では威厳溢れた人物像として描かれている.DiotimaとSocratesのやりとりはAgathonがSocratesに論駁されたように、DiotimaがSocratesに問いかけ、論証を試みる.エロスはもしや美しくないのだろうかとDiotimaに尋ねるSocratesは「言葉を慎め」とピシャっとはねのけられる.こわい.

 お前は美しくないものは、必ず醜いと思っているのかと逆に尋ねる.そうだというSocratesにこうも尋ねる.賢くないものは愚かなのかと.賢さと愚かさの間に何かあることに気づかないのかと問う.

 Diotimaは言う.それは「思っていることは正しいのに、それをうまく説明できない、そんな状態だ.きちんと説明もできないのにどうして知識といえるのか.しかし、それは愚かというわけではない.<正しい思い: orthos doxa>というのはこのようなもので、賢さと愚かさの間にあるものだ」

 エロスとは美醜の中間の存在だと述べ、その例として賢愚の中間、orthos doxaを挙げている(オーソドックスの語源だろう).エロスは美しくもあり、醜くもあるという.人間の認知の状態に中間的状態を認める考えはPlatoの哲学の一つであり、この「饗宴」にもそれが反映されているという.確かに、中間的状態を設定しないことには、相反する二極のみで世の中をうまく説明できるとは思えない.旬より少し早い時期に恋人と苺狩りに行ったとする.早熟の苺を摘んで食べると、甘くもあり酸っぱくもある.ネパール人やインド人の経営するカレー屋のカレーは最大の辛さとものすごく甘口だけでは繁盛しない.お店によって辛さの段階はあるが、中間的状態を認めない限り、カレーは辛い食べ物でもあり口当たりのよい食べ物でもあるという二面性を説明できないだろう.(双極性障碍における抑うつ混合状態は中間的状態といってよいのだろうか)

 ではエロスは一体何なのか.これまでの演者はエロスを神と扱い美徳の頂点であるとした.しかし本質は欠如にあり、補完のため世界の調和ないし個々人の調和へ導く存在とし讃えてきた.Diotimaから始まる論証はエロスが欠如したものであること、エロスとは何かの性質についてのエロスであることを念頭に、必ずしも美の極致でないと述べる.

 Diotimaはエロスとはダイモン(精霊)だと述べる.えっ.もっと詳しくいうと神と人間の間にある超自然的な霊的存在だという.ダイモンは神々と人間の間をつなぎ、全宇宙を一体化させる役割があるとする.彼女の言葉を用いてみよう.

「ダイモンは人間の思いを翻訳して神々に伝え、神々の思いを翻訳して人間に伝える.すなわち、人間の祈りと供物を神々に送り届け、神々のお告げと供物の返礼を人間に送り届ける.そして、両者の間に立ってその溝を埋め、全宇宙を一体化させるのだ.このダイモンが媒介となり、全ての占いは執り行われる.司祭は供物を捧げたり、秘儀を行ったり、呪文を唱えたり、あらゆる種類の予言や魔法を使うが、そのような司祭の技術もまたダイモンが媒介となる.神と人間が直に交わることはない.」

 この言葉を現代で真に受けるとちょっと隣人から距離を置かれそうだが、私は媒介という言葉がしっくりくると思う.彼女の考えを応用してみると、空気はダイモンの一つではないだろうか.私達の発する言葉は空気が振動することで音となり響く.熱によって空気は燃焼して炎となり光を放つ.供物を材料や素材に言い換え、秘儀を研究や実験、呪文を詩歌とし、予言、魔法をそれぞれ予測、科学とすれば、神(の為せる業である様々な現象)に人はダイモンを通して交わることができよう.これは過大解釈だろうか.考えすぎだろうか.

 というわけでエロスはダイモンたる媒介である.Diotimaはエロスのもつ性質をエロスの出自の話に託し、神話を用いて説明を行う.神話は便利なものだ.神話は虚構でありながらも普遍的真理を貫く.PlatoはDiotimaの姿を借りて読者を引き込む.エロスの父母は機知と策略の神Pholus(ポロス)と窮乏の神Penia(ペニア)であるという.PeniaはPholusが酒によって寝ている隙に交わり身ごもったのだからなかなか床上手である.両親の性質を受けついだエロスは常にあらゆるものが足りないのだが、それを手に入れるために常に術策を講じる存在となったのだという.その性質のうち、最も重要なのが知恵であった.知恵は最も美しいものの一つであり、それを追い求めることこそが哲学である.(Philosophy =Philia(愛する人) + Sophia(叡智))*なお医学用語に筋力低下を表すサルコペニアが知られるが、Sarx(筋肉) + Penia(欠乏)と考えれば合点がいく.

 では欠乏していながらも術策によって知恵を求めるダイモンたるエロスは人間にどんなことをするのだろうか.その問に答えるにはなぜエロスが美しいものを愛するのかを考えなければいけないという.Socratesはエロスが自分のものにしたいからだと述べるがその目的を説明することができない.Diotimaは美を善にして考えろと言う.美しいものを所有したいのと同じく、よいものを所有したいためである.となると、この場合Diotimaの言いたいオチは「幸福になる」がためであった.人は皆幸福になりたいと思う.それはいつの時代も同じで、幸せのために人はよいものをもとめようとする.この考え方は我々の腑に落ちるところだと思う.Diotimaは幸福追求を「常に」おこなう存在と条件をつける.これはエロスの永遠性と不死性を説明する根幹となる.

 さて、どうやってエロスはその目的を成就させるのか.それは美しいものの中で子をなすことだという.身体的にも心の場合であっても.身体の場合はつまるところセックスだという.なーんだ.男女の交わりによって子をなすことで、死から逃れられるという.確かに、一個体は死を迎えるが、子をなせばゲノム情報は次の世代へ伝えられる.美しいもの・よいものと交わることでその性質は未来へ受け継がれる.永遠と不死にあずかる方法である.

 ところで、こう思う方もいるだろう.「自分はそこまで美人でもないしどちらかというとブスで、美や愛とは無縁だろうと思っている謙虚な全国の紳士淑女の皆さん」、お待たせしました!ここでいう美や善というのはあくまで主観的なものであろう.人によって仮面ライダークウガが好きな人がいればジオウが好きな人もいる.エヴァンゲリオンで綾波レイが好みであれば、惣流(式波)アスカ・ラングレーが好きな人もいる.ふくよかな人が好きな人もいればスレンダーな人好きな人もいるし、野獣のような肉体に憧れる人もいれば華奢な少年にときめく人もいるだろう.すべてはダイモンの思し召しである.ある対象について肯定的な評価をもったときに生じる感情は「美しい」であって、逆は「醜い」となるわけだ.「萌え」という言葉も似ているのではないだろうか.だから貴方が誰かを好きになるように、きっと貴方を慕ってくれる人はいる.少なくともPlatoはそう思っている.

 この図式は身体に限らず心の中でも成立するという.心のなかに宿す子というのは知恵や様々な美徳であり、次第にそれを欲するようになる.人は美しいパートナーに話をし、心を交わし「子」を生み、育てようとするのだと.上記におけるセックスに相当するのは言葉による対話である.美しい人に話を投げかけ導こうとする営みが永遠の「子」を継承させることになるのであるとDiotimaはいう.要するに精神に働くエロスは哲学的対話であり、「子」は生物学的な遺伝子、「gene」(ジーン)に相当する文化的な遺伝子、「meme」(ミーム)といっても良いかもしれない.

 「さてSocrates、ここからはエロスの道の秘儀.究極にして最高の奥義.私についてこれるかな」Diotimaは上のように述べ、最後の教えを授ける.エロスの最高秘奥義ってなんだそれは.皆さんもよければ着いてきていただきたい.

 これまでのエロスの営みを正しく続けると、人はある地点に到達する.当初は若く美しいパートナーに恋い焦がれ身体的に精神的に絆を深めあって行くと、いつしか自分もパートナーも老いてゆく.かつての美しさは失われたかのように思われても、人は見かけの美や世俗的な美に対する探求ではなく、究極的な美を対象に見出す.これがエロスの深奥、美のイデアだ.話し言葉で言えば、こんな感じだろうか.「私があの人を好いたのは、あの人が美しい容姿であったのは勿論だが、次第にあの人の何気ない仕草や考え方、価値観を尊敬するようになったからだ.老いた今でもあの人の笑顔は私を幸福にしてくれるし、これまでの記憶は薄れつつあっても大切な思い出は当時の情動とともにある.私があの人を慕ったのは見かけの美しさでなく、私はあの人に中に美学を認めたからだ」

 結婚式や披露宴に出たことはあるだろうか.司会が新郎新婦の馴れ初めを語るとき、「いつしか二人は惹かれ合い、お互いを尊敬するようになっていきました」というのを聞いたことがあると思う.このくだりは、エロス道のプロセスを述べているのだろう.美のイデアは個々人の美のように不完全なものでなく、完全であり唯一のものである.つまり、誰にとっても時代を超えてもどこであっても美しく、善いものであるのだ.

 Diotimaの語る話は「美の梯子」として知られているそうだ.一個人の持つ美が昇華してイデアに到達する思想こそPlatoのイデア論の核であった.Platoはこれを架空の人物に仮託して自身の師であるSocratesに語らせることで、論述を強固にしているのだろう.

 次回でこのシリーズは最後.Alcibiadesが乱入して宴会が荒れます.お楽しみに.

 これまでもそうですが、いつもここまで読んでくださり大変うれしく思います.ありがとうございます.執筆の励みになっています.読者の方々が次々増えているのを知って事務所スタッフ一同喜んでいます.

 

 

饗宴:1

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 やっと「饗宴」を読み終えることができた.「饗宴」(Symposium)というのは勿論Plato(プラトン)の著作のことなのだが、この和訳は様々な出版社から出ている.私は過去に東大出版会から出た山本巍氏の「饗宴」を購入したことがあって、よし、読むぞ.と意気揚々と読み始めるとPhaedorus(パイドロス)、Pausanias(パウサニアス)、Eryximachus(エリュクシマコス)ら(誰だ君等は!?)の話がなんだか、空を掴むような、お麩を生でかじっているような感じになってしまい、エロス(Eros)賛美の話の深奥まで辿り着かなかったのである.お麩は生でかじったことがないので、今の例えはフィクションだ.

 しかし、こんな重要な著作を読まずにJ. LacanのSéminaire(セミネール)を理解できないであろうと密かに思っている私は、なんとかして読破したいと数年願っていたのだった.どうやら「転移」の章にはPlatoの「饗宴」が大いに関わっているようなのだ.「転移」というのは精神医学や心理学で知られる現象の一つだとだけ述べておく.というのは私にはその現象について語るに十分な知識を持ち合わせていないからだ.大変申し訳ないと思う.

 なぜ「饗宴」も「セミネール」も読んでないくせにそんなことを知っているんだと言われれば、人から聞いたからであると答えるしかない.私はかつてとある場所でこうした古典の抄読会に参加していたことがあった.私はその場でも何もしらない愚か者同然であって、いつも気まずい思いをしていたのだが、そこでG. Hegelに出会い、E. Husserlに出会った.J. Lacanにも当然出会ってしまった.S. Freudもそこにいた.あらゆる先人が次から次へと現れては私にとってはまじないのような言葉をつぶやいては消えてゆく.ドイツ語やフランス語で展開されるのだから堪ったものではない.参加者は皆原書を持っていて、極めて熱心にそれを読んでは「これは本当にいいねぇ」とニヤリとする.気持ち悪い光景ではあったが、同時に憧れを持ってしまった.高度なオタク同士が共通の言語を用いて、秘密の談合をしているような感じがした.以下のような調子だ.

 「ぼかァネ、彼の “Das an und fürsichseiende Wesen aber, welches sich zugleich als Bewußtsein wirklich und sich selbst vorstellt, ist der Geist.”ってところが実に明快でネ、いやァこれは大変なことですよ」(訳:自分自身を「意識」として現実的なものとみなすと同時に、自分自身としてもみなす、このような「即かつ対自的な本質が」「精神」なのだ

 本当に大変なことだった.普段はむっつりしている人々が、なんだかこっそりエロ本を持ち寄って究極に気持ち悪い猥談をしているといったら言いすぎかもしれないが、私からすれば、憧れと尊敬を通り越して悔しさと苛立ちも隠せない状態であった.気持ちを抑えて、とかく私は外国語の勉強を再開し、「エロ本」集めに邁進したのであった.その本の一つが、「饗宴」であった.

 「饗宴」は、ほぼおっさんたちによるエロス(Eros)を讃える飲み会の様子を伝聞形式で描いた紀元前4世紀の作品で、高い文学的価値を持ちつつ哲学的内容が充実した傑作とされる.私は光文社古典新訳文庫から出された中澤務訳を入手し、ようやく読み終えることができた.大変にわかりやすい訳で、おっさんが生き生きと演説をする様子がわかってしまった.十分な解説がついており、これがなければ私は少年愛について誤った理解をしてしまうところだったし、プラトニック・ラブが誤解されて一般に使われていることを知り、Alcibiades(アルキビアデス)のSocrates(ソクラテス)への複雑な感情をわからずに「なんだこの乱痴気な奴は!」と勝手に憤って紙面に爪を立てていたかもしれない.

 一応、私からも「饗宴」のあらすじをお伝えしようと思う.

 ある日、Apollodorus(アポロドロス)とその友人は二人夜道を歩いていると、人から声をかけられ、Apollodorusに、昔Agathon(アガトン)という悲劇作家が悲劇コンクールで優勝した祝勝会を自宅で催したときの話をしてほしいと頼まれる.ApollodorusはAristodemus(アリストデモス)という祝宴に参加したおっさんから聞いた話を話して聞かせるのであった.

 AristodemusはSocratesの弟子で、二人で若い新人作家であるAgathonの家へ向かっていた.Agathonは悲劇コンクールを受賞したばかりで、見知った人々で宴会を行う運びになっていた.なんやかんやでAgathonの家に着く.実は皆は連日宴会続きでかなりグロッキー状態であった.「酒はもうやめにして、何か別のことをやろう、そうだ、『エロス』をみんなで順番に讃えていこうぜ」、とEryximachusという三十路過ぎたお医者さんが提案する.皆快諾.参加者が一人ずつ『エロス』について語り、ついに会場は耽美な領域へと突入する……

 先手は若手のPhaedorus.「エロスは最も古い神で、大変尊いんだぜぇ……」という内容で話始めるのだが、どうも面白くない.教科書的で、背伸びした感覚を受ける.彼は弁論を学んでいるルーキーらしく、盛んに引用をして権威付けをはかるのだが、「あの○○先生も大絶賛!!」といった広告の宣伝みたいで「うーん.どうもありがとう、お疲れ様.もう帰っていいよ」といった感じになる.

 次鋒Pausanias.エロスには二種類あるのだ.と述べ、<天のエロス>と<俗のエロス>に分け、二項対立を以て議論を行う.この二つのエロスは人間の恋愛に大きな影響を与えているとし、美しい愛し方と美しくない愛し方に分かれるという.ほぉ.男性が女性を愛するのは、心ではなくて身体を愛しているから(肉欲)で、それは美しくない愛し方なのだという.美しい愛し方というのは同性愛なのだ.男性を愛するという事自体が美しいんだぜ.と主張する.

 「へぇ、そういう意見もあるんだね……Pausaniasはそういう考えなんだね……」どうやら彼は、現代でもほぼ同義の同性愛者であったようで、彼の主張は自身の嗜好を弁護するようなものだった.なぜこのような主張になったのかは後述する.

 次に演説するのはAristophanesのはずだったが、しゃっくりが止まらないという理由でEryximachusに譲る.彼は医師という立場でエロスの説明を試みる.Pausaniasの主張を一部取り入れ、エロスは二種類に分かれるという.ただ、それらは健康なエロスと病的なエロスに分かれる.医術というのは何が美しいエロスで、なにが悪い病気のエロスなのかを見分けることができることだという.身体の優れた健康な部分に従って、そのような方向へ仕向けることが治療なのだともいう.優れた臨床医は身体の中の互いに敵対するものを親和的なものに変化させないといけない、調和を目指すことが必要だと説く.エロスの解釈はさらに広がり世界の調和と不調和を二つのエロスが支配し、調和へ向かって人間の生活に大きな影響を与えているという.うーん.

 ここまで来て、「エロスって結局なんだよぉ」と私は大いに落胆した.最初に買った山本訳を途中で諦めてしまったのは、Phaedorus、Pausanias、Eryximachusの演説を読んでわけがわからなくなったからである.「エロス」ってこんなに多義的なのかと思い、これらが理解できない自分は、もしかすると今後もついていけないのかもしれないと恐ろしくなった.どうもEryximachusは話を大きく広げた感じが否めない.自分の専門領域に話を落とし込んで話をするのは誰でもそうだが、結局「エロス」の話をしていないのではという印象を受けてしまう.こういうお医者さんは現代でも沢山いる.「エロス」は情愛における強い欲動をさすのではないかと、そういう議論の終着を予想した私は狼狽した.

 実はここまでの展開はPlatoの思うつぼで、ここから読者を引き込んでいくのだったことに私は長く気づくことはなかった.もしPhaedorusやPausaniasの話も面白いと思った方がいれば、それはそれで大変結構なことだと思う.

 次にAristophanesの話に移る.実際の彼は保守的な男で、Agathonを揶揄し、Socratesを若者を堕落させた男と評しておりなかなか辛辣だそうだが、ここではPlatoは愉快な男として描き出している.彼の話は結構ぶっ飛んでいるので、結構面白い.妙な説得力と面白さから彼の話は本作で最も知られているそうだ.彼は神話を語り始める.太古の昔、人は現在の人間が二人くっついたものを一人とした球体の生き物だったという.くるくる転がって動いていたそうな.二体の組み合わせで、男、女、アンドロギュノス(両性具有)という3つの性に分かれていた.古代人は力が強く尊大であることから神々に反逆しゼウスの怒りを買う.ゼウスによって古代人は身体を二つに割かれ、現在の人間の姿にしてしまう.人間は二人抱き合ってなんとか戻ろうとするがもとに戻らず次々に死んでゆく.よくこういう話を思いついたものだ.ゼウスは人々が死んでしまうのは困るので、生殖器を移して性交渉ができるように一計を案じ、子孫が残せるようにしたという.この神話から、人間が本来の片割れを探し求め、それと一体化したいという欲動のことをエロスと呼ぶのだという.

 なんだかすごいけれど、どういうことなのだろうか.これって神話でしょう?EryximachusがPausaniusの話を受けたように、AristophanesもEryximachusの話を受けて説明を続ける.それぞれの説法は独立しているように見えて実は受け継いでいるのであった.詳しくはぜひ本編を読んでいただきたい.Eryximachusはエロスが世界の調和を担うという自然的な役割を試みた.Aristophanesは彼の演説を一部引き継いで、エロスが自然的あり方であることを認めつつ、世界の調和を図る動きではなく、個々の人々に内在する動きであると主張した.

「愛する人と一緒になって一つに溶け合い、一つの存在になるのだ.これこそが俺たち人間の太古の姿であり、人間は一つの全体で会ったのだから.そしてこの全体への欲求と追求を表す言葉がエロスだ!」

 彼の主張の要点は「エロスの本質は欠如にあり」というところであり、後の論者にまた受け継がれる内容である.Aristophanesの主張では、欠けた半身を探して合体しなければ幸福になれないということになる.それはジグソーパズルの欠けたピースを探すように特定の半身を見つけるという限定された欲求とも言える.

 Agathonが演説を始める.彼はエロスの本性を説明し始める.第一にエロスは神々の中でひときわ美しいのだと.若く、繊細でしなやかで美しい肌をしているなどという.そしてあらゆる美徳を身に着けているともいう.なんだかPhaedorusの弁舌のような感じを覚える.今でも架空のキャラクターやアイドルグループの敬虔なファンは「推し(おし)」と称してあらゆる修辞法を使って褒め称えるのと同じかもしれない.また飾り立てて褒めちぎる論法はどうなんだろうかと思いきや、聴衆からは大受けするのであった.彼は演説に際して様々なテクニックを用い、論法の構成も整っているし、韻を踏んで音としても美しいからであった.私にはわからなかったのだが、古代ギリシア語で読むと圧巻なのだろう.

次回、SocratesはAgathonと対話を仕掛けるところから続く.

 

私の時間論:急

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 このシリーズでは始めに、古代の人々はそれぞれの生活圏で異なる時間の見方をしているとの指摘を確認し、それぞれ時間を有限の線分、無限の円環、始点があって終点のない無限直線、始点はなく終点のみの無限直線に大別されるとした.人は過去から未来へ流れる直線と、天体運動のように循環する時間をうまく組み合わせ、歴史を紡いできた.特に、時間が過去から未来へ不可逆的に流れる感覚は私達にとって自明であるように思われるが、それは正しいのだろうかという疑問を私はふと思いついてしまったために、こうしてブログに思考過程を開陳した.私なりに書物を読んでいくうちに、なぜかループ量子重力理論に出くわした.そしてトランプカードゲームの大富豪で宇宙を例えるという頓痴気なことを始めた.それは宇宙の「特殊」性を説明するためであって、偶々私達から見ると、世界に時間が流れているように感じているに過ぎない.

 まず、宇宙全体に共通の「今」はない.地球の「今」とアルファ・ケンタウリの「今」は違う.アルファ・ケンタウリは太陽系に最も近い恒星だが4光年の距離があるという.星間電話が確立して、地球からアルファ・ケンタウリにいる異星人に電話をかけたとする(何語で?).信号がアルファ・ケンタウリに届くまで4年かかる.幸運が重なって、異星人が電話に出てくれた!それってアルファ・ケンタウリの今にとっては、地球の4年前のことなのか?これマジ?C. Rovelliによれば、この問は無駄だという.イタリアンレストランに行って、「すみませぇん、ペンネマシマシカラメマシオリーブオイルスクナメニンニクください」とラーメン二郎式で注文するくらいトンチンカンで、「高校の通学にフォーミュラカーで行ってもいいですか、スリックタイヤで」と訊くようなものだという.改めていうと、「今」は大域的ではなく、局所的だ.二人がけのソファに座っているヤングな男女のカップルくらいの距離であれば、「今」は存在する.彼氏の講釈を聞かずスマホをいじっている彼女に、彼氏がいじけて「ねぇ『今』なにしてんの?俺は『今』、宇宙について語っているんだぜ」と問いかけることは意味がある.ちょっと例えが無茶だが.

 時間が流れるリズムは質量や重力場によって異なることをA. Einsteinが説明した.彼の記述する時間と空間は、重力場によってぷるるんっと揺れ動く巨大な黒ごまプリン(ゼリーでもフルーチェでもいい)に私達が内包される一部分であった.ところがどっこい、この世界は量子的.あらゆるものは離散的、すなわち散り散りバラバラに動く.ぷるるんっと動くように見えた巨大な黒ごまプリンは実は白黒のモンタージュが絶えず不規則に動いていて、偶々黒ごまプリンに見えていたにすぎない.もしかすればドラゴンフルーツの断面かもしれないし白米に刻み海苔がかかっているのかもしれない.つまりは時空の記述は近似的で曖昧であったということだ.物理学の根本をたどるとそこには時空はなくて、過去も未来もないということが、ループ量子重力理論が教えてくれることであった.しかし、きっと例の彼女はぶすっとして

 「ふーん.黒ごまプリンでもなんでも良いけどさ.べつに嫌いじゃないし.だからなんなの?」

 ということになるから、もう一度私達の世界に立ち返ってみよう.ちょっと気まずいカップルの世界でもある.私にとって気になるのはどうして自分達の多くは時間が流れているように感じられるのだろうか、ということであった.

 ちょうど別の目的で私はE. Husserlの”Die Idee der Phänomenologie” (邦題:現象学の理念)を読んでいるところであった.他にも彼についての解説本を読んでいると、現象学の目指さんとするところが段々明らかになってくる喜びと、ポンティアック・フィエロベースのF40レプリカと本物のフェラーリ・F40の違いを私たちは如何にして認識するかを考えることができた.(現象学的還元をもとにした見分け方はまた記事にする予定だ)そんな中、この時間に関する論考で多いに参考になった”L’ordine del tempo”に奇しくも、Husserlの「時間の構成」について考案した図(図1)が引用されているではないか.私は密かに歓喜した.Rovelliからすれば引用は必然であろうが、私からすれば偶然である.これも量子力学の思し召しか.

図1 Husserlの考案した図はもっとそっけない.

 この図を説明する前に、最初の問に立ち返る.なぜ私達は時間の流れを感じることができるのかと.端的にいえばそれは私達が「記憶」し「予測」することができるからだという.さらにいうと、私達の脳神経系は膨大な神経細胞のネットワークによって、受け取った感覚刺激を処理しその過程でパターンを認識、そこから予測をしようとする生き物だ.私達がいる現在は過去の軌跡の上にいて、それは描こうとしている彗星の尾でもある.お父さんと少年が仲睦まじくキャッチボールができるのはお父さんにも少年にもボールの軌跡がわかるし、どこに落下するか予想がつくからだ.よほど鈍臭くなければ.

 たとえば音楽を聴くとき、一つの音の意味はその前後の音で決まる.もし私達が常に一瞬の存在であれば、音楽は成立し得ない.私達が音楽を聴いて感動するのは記憶して予測するからだ.この例えを用いたのはA. Augustinusで、さらにE. Husserlでもある.いつの世界も偉大なおっさんはいる.Husserlは音楽をヒントに、時間の構成を図式化した.それが図1である.点Aがなぜ点Aなのかはわからない.何かの頭文字かもしれないが、名前は何でも良いんじゃないか.点Aから出発して、任意のある瞬間Eにいるとする.線分AEは時間経過を表したもので、線分EA’は瞬間Eの「記憶または予想」である.感傷的にいうと「思い出や計画」である.もっとキザに言えば「君と夏の終り、将来の夢、大きな希望忘れない 10年後の8月また出会えるの信じて」みたいなものだろう.

 線分EA’では漸進的沈下によって(図次第では浮上でもいいと思うが)AがA’に運ばれる.これらの現象が時間を構成するのはどの瞬間EにもP’やA’が存在するからである.なにが言いたいのかというと、Husserlおじさんは、時間の現象学の源は線分AEという客観的な現象の連続ではなくて、(主観的な)記憶であり、予想、すなわち図の垂直線、線分EA’としているということだ.記憶や予想をかっこよくいえば、過去把持(Rentation)、未来把持(Protention)というらしいがこの際どうでも良いか.一応まとめると、現在(任意の点E)という時間意識は、一様な均質な時間のある一点ではなくて、過去把持と未来把持を含んだ、幅ないし厚みのあるものだとする.厚みってなんだよーって思うかもしれないが、奥行きと表現してもいいと思う.つまり図1における水平方向とは異なる方向へ垂線を引ければどこでもよさそうだ.

 Husserlに続いて別のおっさんであるM. Heideggerは時間について次のように記しているという.「時間は、そこに人間存在がある限りにおいて時間化する」と.

 また、”À la recherche du temps perdu”(邦題:失われた時を求めて)で知られるM. Proustはこういう.「現実は、記憶のみによって形成される」こうした引用はRovelliが引いたものだが、実にはっとさせられる.ここで私からも独自に引用をしてみたい.日本における現象学と精神病理学の立場で知られているのは、自己の存在構造を考察した木村敏である.彼の時間論は簡単に言えば次の通りである.

「時間とは自己存在の意味方向である」

 この文章を見つけたとき、目からウロコというのはこういうことだと思った.なぜ私達が時間の流れを感じるのかという至極明快な答えであると思う.彼は研究者であるけども、もちろん優れた臨床医でもあるから、純粋な思惟だけでなく患者の言葉をもとに論考を発展させる.これは説得力をもつと思う.これまで何度も述べたように、なぜか私達は、過去、現在、未来という方向に時間が流れるように感じている.しかし、何らかの病的な理由によって時間体験が障碍された人々は、時間の方向性を知的に理解しているとはいえ、自己存在のリアリティの喪失感と、通常の時間体験の喪失感を感じざるを得ない.そうした喪失感をもつ人々というのは、離人症という状態にある方々であると木村はいう.離人・離人感というのは精神医学における一現象である.一般的には解離症状に含まれる.解離とは「本来は感覚、記憶、同一性を統合した一人の『私』が「心の安寧を保つ場所が見つからない」ことによって覚醒水準としての意識は保たれているのに、『私』の統合が失われた状態」をいう.よって健忘や遁走、混迷、フラッシュバック、人格交代など様々な症状を呈する.これについては筆者の過去の記事にもあるのでよかったら御覧いただきたい.

 中でも離人感というのは、意識変容によって周囲世界と自己の間に距離が生じた状態で、「何をしていても自分がしているという実感がない」、「生きている実感がない」、「自分の体が生身の人間として感じられない」、などの自己や外界に関するリアリティの喪失を述べる症状である.通常であれば、過去から現在、未来へと一方向になめらかに流れるものとして体験されるはずの時間が、流れを失い、無数の「今」のちらばりとして体験されてしまう.

「なんだか時間が経つ感覚が全然ないんです.ばらばらになっちゃって.全然進んでいかないんです」

 彼らが自己存在のリアリティの喪失感と、通常の時間体験の喪失感を同時に感じるのは偶然ではないと木村はいう.その理由は、私達の時間体験に過去が過ぎ去って帰らないものであり、未来が未だこないものであるという「以前」と「以後」の方向性を与えているのは、「私がいつか死んでいく有限な存在である」という自己存在のリアリティから生じる「生の既存性」と「死の未来性」だからである.過去、現在、未来という時間の流れは「自己存在の意味方向」を本質としている.自分が今生きているとわかっていて、なおかつ、いつか死ぬとわかっているからこそ、時間という一方向のベクトルが生じるのである.よって離人症のように自己存在のリアリティが喪失した場合、時間体験の異常は必然となる.

 精神疾患を有する方々において時間空間の認識に困難を生じることは解離性障害に限ったことではないと思う.特に統合失調症は自己存在の危機に直面する特徴的な疾患であると思う.私はある苛烈な陽性症状(幻覚・妄想)を呈した方を止む無く保護室に収容した経験がある.早期に治療介入し、自体が鎮静するまでしばらく時間がかかったのだが、ようやく落ち着いて保護室から一般病室へ移れる許可を出すため、私が保護室を訪ねると、

「あぁ、先生.どうしたんですか.そういえばさっきお願いしたオヤツの件、どうなりましたか」

とケロッとしていて、長らく保護室にいたことに気を留める様子がない.もちろん毎日回診はするからずっと私と会わないわけではない.スタッフも巡回するのだが、「早くここから出してくれ」とも言わず、オヤツのことを訊く.私とその人をつなぐ時間と空間が断絶した印象を持った.そして「今」関心のあるオヤツのことを尋ねるのであった.保護室という特殊な部屋が一つ要因だったかもしれない.しかしそれを加味しても若輩である私の受けた衝撃はとてつもなかった.木村の言葉を借りれば、「既存性としての事実性」が失われており、現在の自己存在の根拠が成立していない状態であったのだと思う(なぜ自分がここにいるのか知らない).

 以上、時間の方向性が生じる理由について論じてきた.私なりの答えはこうだ.

 自分には生きてきた記憶があって、今も生きている実感がある.そしていつか死ぬことを知っている.その存在のあり方に方向づけが生じる.それを時間と呼ぶのだと.

 だから私達が過去から現在、未来へと不可逆的に流れていく感覚がするのは私達が生きている限り自明である.そう感じるのは決して変ではないし、疑問を感じることもおかしなことではない.

 ようやく賢人たちに追いつくことができたとでも言おうか.いやいや追いつくなんておこがましい.正しく言えばなんとか先人たちの巨大な肩に乗って、少し高いところを見渡せるようになったに過ぎないのだろう.でも本当にこれで理解しているのかな、という不安もある.物理学の先端からの検討、哲学者らの見解、病的な状態からの考察.様々な立場から共通のテーマについて考えを巡らせることができたのは有意義であった.私自身の立場としては、やはり「なぜ病的な状態が生じるのか」という疑問に尽きる.ただこれは極めて難題で、分子生物学的な知見と精神病理学的な検討など学問の複合的な連携が不可欠といえる.まぁ、硬い話はここまでにしよう.

 私にとって生きてきた証は、幼い頃からの記憶と撮りためた思い出の写真と手垢で汚れた本であったり、車のオドメータに記録される走行距離でもある.育てている草木が成長していく感覚や、車に乗って風を感じる時、亀吾郎法律事務所のスタッフが楽しげである姿を見る時に生の充足を感じる.そして、それらがいつか露と消える儚さに心做しか胸騒ぎがする.

 ここまで読んでくださってありがとうございました.今後も亀吾郎法律事務所をよろしくお願い申し上げます.

亀吾郎法律事務所が目指すとこ

About a month has passed since we founded Kamegoro law office.
Posting articles continuously makes us realise that we could gradually see things we aimed for.
Now we would like to reconsider our weblog statement.

Our mottos are set out as follows.

Firstly, To make the blog as lucid, peaceful and cozy place for anyone who visit.
The site should be joyful, healthy and humorous.

Secondly, with a humble mind, to correctly understand Psychiatry and Psychopathology as a medical profession. In order to achieve this object, I will widely cultivate my knowledge for Humanities and Natural science. And I will earnestly exert myself to master not only English but other languages such as French, German and Arabic.

Thirdly, to cherish my family.

Should you need the detail of second statement, I, (Goro) have to say that I’ve believed the intense possibility of the study of Psychopathology. For understanding its essence and position, I think that it is not sufficient to learn only Natural science but necessary to study the time flow started from Phenomenology proposed by E. Husserl, to K. Jaspers who dedicated his passion to Descriptive Psychiatry. Moreover, clear understanding is required for the academic stream continues to present, and knowing how the criticisms occurred. We elaborately set an ultimate goal to learn the thoughts of J. Lacan, who is still influential on present Psychoanalysis, originated by S. Freud. Then I solemnly and humbly wish to translate their wisdoms to non-professional people.

 

 亀吾郎法律事務所を開設して1ヶ月になりました.

 ある程度勢いに任せて記事を投稿すると、少しずつ自分の目指すところが見えてきたような感じがします.ここでブログの方向性を確認したいと思っています.

 内容は以下の通りです.

 一つは、このブログを誰にとってもわかりやすく心安らぐ場所とすること.楽しく健康的にユーモアを尊重した場であること.

 

二つは、医師として謙虚に精神医学・精神病理学を正しく理解すること.そのために自然科学・人文科学の知識を十分に得ること.英語のみならず仏語、独語、亜語の勉強を真摯に行います.

 

三つは、家族を愛すること.

 特に二番目について詳しく述べると、私、吾郎は精神病理学という学問の強い可能性を感じてきました.その学問を理解し、学問が置かれている立場を知るためには自然科学を学ぶだけでなく、E. Husserl(フッサール)の唱える現象学からK. Jaspers(ヤスパース)の記述精神医学、そして現在に至る流れと為される批判を理解する必要があると思っています.S. Freud(フロイト)に始まる精神分析学の系譜を辿り、現在も多大な影響力をもつJ. Lacan(ラカン)の思想を理解することを大々的に究極的な目標として掲げています.そして願わくば、専門としない方々に控えめに思いを伝えたいと思っています.

私の時間論:破

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 前回、時間について自分なりに問題を提起した.時間が過去から未来へ直線的に進むモデルは説得的だが、果たして正しいのだろうか.ということを述べた.これは結構難しい問題であることは自身で自覚していて、問題提起した自分を少しながら後悔しているところもある.涙を流し、挫けながら話を進めていくことにする.

  現在の物理学の最先端に、ループ量子重力理論という学説が生じているそうだ.その理論の研究者の一人、Rovelliの著書である”L’ordine del tempo”, (邦題:時間は存在しない)を偶々読む機会があった.私はループ量子重力理論ならびにその方程式を説明する立場でもなければ力量もない.数式を見たところで、大学受験の苦い記憶が蘇るだけだ.一応、本書の説明を借りるとRovelliらは時空がスピンネットワークと呼ばれる網の相互作用によって生じると考えている.申し訳ないが何を言っているのかわからない.宇宙の記述には時間の変数を必要としないという.だから「時間は存在しない」という邦題がついているのかもしれない.それでもよくわからないが.本書でスピンネットワークについての説明は深堀りされない(深堀りしないでほしい).極めて高度な方程式の話をしてもほぼすべての読者を放心させてしまうし、本書は売れないと思う.幸いにして本編には、

⊿S≧0

だけが記される.これは熱力学第二法則、熱は熱いものから冷たいものにしか移らず、その逆はない.という事実を述べている.当初は熱の不可逆性を示す式であったが、後の物理学者であるボルツマンによって、これは分子や原子の乱雑さを表す尺度であることがわかった.Sはエントロピーという重要な科学の量を表し、⊿はSの変化量を示す.そして唯一、過去と未来を認識している式だという.原始の宇宙のエントロピーが低い、すなわち秩序だっている状態からビックバンにより徐々に拡散し膨張してゆく乱雑な宇宙の姿を過去と未来に対比させれば、その式の言わんとすることは何となくわかる.しかしなぜ、過去の宇宙はエントロピーが低いのかという疑問が生じる.

 著者の答えを簡単にいうならば「偶々」だそうだ.根本のレベルにおけるこの世界は、時間に順序付けられていない出来事の集まりだという.えっ.それらの出来事は物理的な変数同士の関係を実現しており、これらの変数は元来同じレベルにある.世界のそれぞれの部分は変数全体のごく一部と相互に作用していて、それらの変数の値が「その部分系との関係におけるこの世界の状態」を定める.ということは、宇宙には無数の変数があって、それらが影響しあっているということ?何か決まった変数の値によって、世界の状態が決まるということか.うーん.

 著者はトランプカードで宇宙の特殊性と「偶々」感を説明していた.自分なりに考えてみよう.高校時代の昼休みよくやった大富豪(大貧民)を例に取る.山札からカードが配られて自分の手札に「2」や「ジョーカー」があると嬉しくなったものだ.同じ番号の手札があるのもいい.これは一つの「偶々」であろう.「日本国A県B市C高等学校1年3組の昼休みの教室で繰り広げられる5人程度の大富豪」という小宇宙では有力な手札であったが、これが友人の気まぐれで革命が起きてしまうと、「2」や「A」は戦力を失う.友人という変数によって宇宙の秩序が変わるわけだ.他の友人がさらに革命返しをすればさらに宇宙の秩序は変わる.友人の出身はA県の近隣なのだが、もしこれが日本全国から集う全寮制高校だとすると、その宇宙で繰り広げられる大富豪という系はもう少しややこしくなるだろう.ご当地ルールというのが少なからず存在する.別の言い方でローカルルールだ.「8切り」「スペ3返し」はよく知られていると思うが、「11バック」なども存在するときもある.カードの色柄を強制する「しばり」が適用されればさらに宇宙の秩序は異なってゆく.これも参加者という変数によって宇宙の成り立ちは異なる.無論、参加者の技量という変数もあるだろう.いい手札なのにプレイヤーがぼんくらならば、捨札に収束する手札の順序はまた異なる.(これは新たな山札として未来に繰り広げられる別宇宙の運命を示唆する)もし友人が飽きてしまって、ブラックジャックがしたい、ポーカーをやろう、最後は7並べしようぜ.ということになれば、同じ手札でもカードのもつ意味は大きく変わる.学校の先生という別宇宙の観測者の存在がいたとすれば、「ま〜たあいつらなんかやってるな」というつぶやきが生じることも考えられる.「日本国A県B市C高等学校1年3組の昼休みの教室で繰り広げられる5人程度の大富豪」という広大な宇宙が「なんか」で片付けられてしまうのは、宇宙を眺める立場によってこそ異なる.大富豪を始めたのは「偶々」なのに.

 微粒子レベルでは存在しない不可逆なエントロピーの増大が、我々の知覚する巨視的な世界では生じるという.我々の知覚する世界は曖昧なかたちで記述されるからこそエントロピーが存在するのだと.(生徒からすれば大富豪という新たな宇宙を創造する営みをしているが、学校の先生は生徒がカードゲームでざわついてるという粗い見方をする)私達のものの見方が粗視化(ぼやけ)と深く結びついているために熱という概念やエントロピーという概念、過去のエントロピーのほうが低いという考え方をしてしまう.自然を近似的、統計的に記述したときにはじめて生じるものなのだという.

 どうもピンと来ない.私は、本に記されている通り、説明を試みようとしているのだが、目を凝らして空を掴むような気持ちだ.過去と未来が違うのは、世界を見る我々の見方が曖昧だからだという.そんなことでいいのか.私の例えは正しいのだろうか.曖昧とはなんだろうか.私たちが経験するこの時間経過は、実は自分が世界を詳細に把握することができないからだという事実だというが……

 なんだか、別にうまくもなんともない食べ物を、無理やり「うまいでしょ!」と言われて、必死に咀嚼している感じだ.しかし開き直ったら良い.わからないと.そこが重要だと思う.世界的に優秀な一部の人々が唱える学説はどうやら複雑怪奇だ.私達の見る世界は曖昧だからこそ時間が流れているように感じるというが、そこをもう少し詳しく考えてみたい.世界に時間が存在しようが存在しなかろうがこのさいどうでもいい.なぜ、私達は過去から未来へ時間が流れているように感じるのか.幸いにして筆者はこの疑問に寄り添ってくれる.私はなんとかして食らいつく.

 次回でこのシリーズは最終回.ですが亀吾郎法律事務所の連載ははまだまだ続きます.弊事務所は今後、英文和訳や和文英訳での投稿も考えています.何かこういうものを訳してみてほしいということがありましたら、事務所連絡先まで気軽にお願いします.

 

私の時間論:序

 ようやく取り組んでいたG. W. F. Hegel(ヘーゲル)の歴史哲学講義を読み終えようとしている.人間の精神が自由に向かって進んでいく過程が世界の歴史である、という彼の考えはその後の歴史哲学を推し進めてゆく一つの偉大な動きだと思う.精神が自由を求めて成長する冒険譚という筋書きは私の好奇心ををくすぐる.しかし私にとっては結局精神とはなんだろうかということが気になっている.以前記事にした、P. Valéry(ヴァレリー)と精神についての拙い私見はHegel(ヘーゲル)後のものなので、彼が精神をどう捉えているかは、別の著作を読むことにしたい.

 彼の歴史観は人間が自由を求めて前進してゆく、歴史的人間中心主義である.これは「日本文化の時間と空間」(加藤周一著)にも言及されている.つまりは近代ヨーロッパの歴史意識を生んだユダヤ・キリスト教的な時間の捉え方をしている.天地創造から始まり、世界の終末を述べる.時間は始めと終わりがある線分、一回限りの有限の非可逆的な時間経過をたどるという.有限の時間はその全体を考え、見透かすことができる.歴史的出来事の意味は過去・未来の出来事との関係において決定される.時間は構造化され、特定の終局へ絶えず前進してゆく考えは目標へ向かう運動としての歴史という観念に結びつく.これは”Exodus”「出エジプト記」に代表されるという.イスラエル人がエジプトを出て約束の地に建国したことは、彼らが彼ら自身の自由意志で選択したことにほかならない.歴史は人間の自由な決断の結果であるとする.イスラエル人は歴史記述の関心を歴史の目標と歴史的出来事の間の関係に注いだのである.この時間概念は現在のヨーロッパ世界の下地となっていることに私は驚いたのであったが、時間の類型に関する彼の著述を読み進めていくと、さらに私の狭量さが浮かび上がる.時間の類型はいくつかの概念に分類して考えられるという.

 一つは上に述べた、有限の線分を前進する時間である.二つ目は、古代ギリシア人による円周上を無限に循環する時間、三つ目は古代中国での無限の直線を一定方向に流れる時間、第四は始めなく終わりある時間.弥勒信仰による一種の終末論が挙げられる.第五は始めあり終わりない時間で、唐代の中国で現れた末法思想に基づく考えである.

 どれもそれぞれの文化的背景に沿った怜悧な分析である.では実際のところ私達はどんな時間の中に生きているのだろうか.私は高校物理学でニュートン力学を学んだ.この力学はユークリッド空間で規定され、時間は過去から未来へ均一に進む.数学においても時間は均一に進行するものとして取り扱った.でなければ到底私では理解できなくなってしまう.相対性理論は知識として知っている.光速は不変の速度であるから異なる慣性系では時空間が歪む.日常の物理学で光速に近い速度のものは想定しないから近似してニュートン力学を用いてよいことはおおよそ分かる.だいたい地球に住んでいる人にとっては時間の進み方は均一なのであろう.ただ時間の始原と終末については言及がない.言及がないのは当然であろう.任意の時間を考えれば問題は設定できるのだから.よほど凝った問題を作る場合を除く.しかし、始原は気になるだろう.始めが気になる人は終わりも気になるだろう.始めに関してはビッグバン(膨張宇宙説)のこと、というのはおそらく教養として広く知られていると思う.では終局はどうなのか.A. Augustinus(アウグスティヌス)に言わせれば「私は知らない」.知っている人は極めて少ないと思う.確信の水準で知っている人は何か深刻な問題を抱えている可能性がある.私にそっと教えてほしい.

 私達の暮らす世界の時間がどのようなものかよくわからない以上、歴史の記述もそれが本当に正しいのか、ちょっと怪しくなってくる.いや、決してオカルト的話に帰結させたいのではなくて、私達がごく当たり前に思っているであろう、「時間は過去から未来へ直線を前進する流れ」が至極受け入れやすくて、説明も容易すぎるのである.感覚的に正しい感じはする.いい香りのするご飯は美味しいに違いないという直感と似ている.フェラーリのつくる新型V型8気筒エンジンは素晴らしい音を奏でるに決まっているという感覚でもある.薫香を黄昏に溶かす葉巻の味は格別なのかもしれない.しかし、当たり前のことを少しうがった見方で捉えてみるのが私の癖である.ただこうした疑問に取り合ってくれる人は少ない.そもそも問題提起できる場所も少ないように思う.「いいからさっさとご飯たべちゃいなさい」「そういうのいいから仕事終わった?」「でも君は〇〇卒だよねぇ、それじゃあいくら考えてもだめさ」「吾郎クン、変わってるよネ」そんなことを言われる気がしてしまう.話を戻す.では、循環する時間を考えると説明しやすいものはあるか.天体運動や四季の移ろいがある地域では説得力があるかもしれない.循環するのに円運動である必要はあるか.楕円か.富士スピードウェイのような複合する曲線か.ボロメオの輪でもいいじゃないか.歴史は繰り返すという言葉もある.栄枯盛衰、盛者必衰の理.火葬場で燃えた私の遺骨は埋葬されてから大地の微生物によって分解され、土壌を豊かにする.新たな生命の糧となる.これでは輪廻になってしまう.しかし輪廻では歴史を記述することは難しそうである.できなくはないが手塚治虫くらいである.何を言いたいのかわからない方はぜひ「火の鳥」をご覧になってほしい.兎にも角にもあらゆる事象を一元的に説明できる強い言説が必要だ.私の頭の中も駄菓子の超ひもQが絡み合ってしまうかのようにこんがらがってしまった.

 こういうときはどうするか.とりあえず寝るに限る.その後に新しい著作を読んで知識を得る.できれば議論をする.ということになりそうだ.このテーマはシリーズ化してみようと思っているので、自分なりに理解を深めてから思考を整理すべく文章に出力したい次第である.次作にご期待頂ければ幸いである.

ファッション誌から普遍的道徳律を考えることもある

 少し投稿に間が空きました.梅雨が本格的で空気はジメジメしますね.菌糸にとってはうってつけの生育環境になりました.今回は私が最近読んだ本を紹介したいと思います.メンズファッション雑誌であるGQ JAPANを、私は「ほとんど自動車の記事だけ」読むようにしているのですが、およそ一月に一回程度雑誌編集長のEditor’s letterと称する記事が掲載されます.これは編集長が直々に投稿する文章で、彼自身の何にも迎合しないスタイルを私は気に入っています.

 およそ去年くらいに読んだ彼の記事ですが、平和論についてでした.私が平和について考えることはほとんどありませんでしたが、「なぜ人は自殺してはいけないのか」だとか、「なぜ人を殺してはいけないのか」、「なぜ戦争をおこしてはいけないのか」といったことを時折考えることがありました.はじめに断っておきますが、私は殺人を容認していません.極めて大多数の人が(疑問の余地なく)「人を殺してはいけない」ことを是とするでしょう.かといって親や教師から「いいかい、人を殺してはいけないんだよ」と懇切丁寧に教わることはないでしょう.少なくとも私はありませんでした.「殺してはいけない」と言われましたが、其の理由は教えられませんでした.人によっては「バカでもいいから、殺しだけはしてくれるな」といった言い方をされた人はいるかもしれません.言い方はともかく、「なぜ」という問いに説得力を以て答えることは難しそうです.私はあまり応用力が効かないのでいくつも思いつきませんが、一つの回答は「殺された人の家族や仲間の気持ちが傷つくから」という感情に基づく考え方があると思います.もう一つは「法律によって罰せられるから」という答えも当然としてあるでしょう.ですが、意地悪なクソガキやひねくれ者がいたとしましょう.「人が傷つかない殺人ならいいのでは」「敵討ちならどうだ」「法律がなかったら殺していいのか」「戦争では殺しが容認されるじゃないか」「そもそもその命題は偽ではないか」と.実にいやなやつです.しかし私の頭の中には間違いなくひねくれた同居人がいます.

 人を殺してはいけないと説く人がいる一方で、殺しを容認する社会が間違いなく存在します.世界中で戦争のない日はないでしょう.爆撃された都市の灰色の瓦礫と死者の数が報道されると、べつのにぎやかな大通りで人々がプラカードをもって戦争反対と声を挙げる.現代ではよく見る光景です.この繰り返しはいつまで経っても止みそうな気配もありません.私自身はもう十分見ました.報道は(おおよそ)事実を伝えますが、「なぜ殺し合っているか」を高い次元で伝えてくれることはありません.様々な方面へある種の不信感を感じることがあります.

 そんな中、私は鈴木正文編集長の2019年8月24日掲載の記事「カントは時計?」を目にする機会がありました.そこにはI. Kant(カント)によって1795年に著された論考である、「永遠平和のために: Zum Ewigen Frieden」について概説が記されていました.彼は光文社古典新訳から出た中山元訳を引用しており、大変おもしろく読むことができました.だいぶ彼の重複になってしまい、恐縮ですが私も訳本(岩波文庫出版、宇都宮芳明訳)を引用して、読んでみた感想を少しばかり述べてみたいと思います.

 手に取ると薄い本です.本編は一章と二章のみで、あとは本編と同じくらいの付録がついています.なんだ、結構薄いからすぐ読めちゃうじゃん、やったぜ.と思った私は愚か者です.第一章の第一条項から第六条項は次のとおりです.少し読み飛ばして頂いても構いません.

第一条項

 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない.

 なぜなら、その場合には、それは単なる休戦であり、敵対行為の延期であって、平和ではないからである.<中略>平和条約を結ぶ当事者たちですら察知していないような、将来の戦争のための諸原因がまだ残っているとしても、これらの原因は平和条約の締結によってことごとく否定されたのである.<略>

第二条項

 独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も、継承、交換、買収、または贈与によって、他の国家がこれを取得できるということはあってはならない.

 つまり、国家は所有物ではない.国家は、国家それ自身なにものにも支配されたり、処理されたりしてはならない人間社会である.ところがそれ自身が幹として自分自身の根を持っている国家を、接ぎ木としてほかの国家に接合することは、道徳的人格である国家の存在を廃棄し、道徳的人格を物件にしてしまうことで、したがってこうした接合は、民族についてのいかなる法もそれなしには考えられないような、根源的契約の理念に矛盾する.

第三条項

 常備軍は時とともに全廃されなければならない.

 なぜなら、常備軍はいつでも武装して出撃する準備を備えていることによって、他の諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである.常備軍が刺戟となって、たがいに無際限な軍備の拡大を競うようになると、それに費やされる軍事費の増大で、ついには平和のほうが短期の戦争よりも一層重荷となり、この重荷を逃れるために、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである.そのうえ、人を殺したり人に殺されたりするために雇われることは、人間がたんなる機械や道具として他のものの手で使用されることを含んでいると思われるが、こうした使用は、我々自身の人格における人間性の権利とおよそ調和しないであろう.だが、国民が自発的に一定期間にわたって武器使用を練習し、自分や祖国を外からの攻撃に対して防備することは、これとはまったく別の事柄である.<略>

第四条項

 国家の対外紛争に関しては、いかなる国債も発行されてはならない.

 国内経済のために国の内外に助力を求めるとしても、こうした方策は嫌疑の対象とはならない.しかし借款精度は、国家権力が互いに競い合うための道具としては、果てしなく増大し、しかもつねに当座の請求を受けないですむ安全な負債であるが<中略>これは危険な金力、つまり戦争遂行のための宝庫であって、宝庫はすべての国の財貨の総量をしのぎ、しかも税収の不足に直面しない限りは空になることもない.したがって、こうした戦争遂行の気安さは、人間の本性に生来備わっているかに見える権力者の戦争癖と結びつき、永遠平和の最大の生涯となるもので、これを禁止することは、次の理由からしても益々永遠平和の予備条項の一つに数えられる必要があろう.その理由とは、最後にはどうしても避けられない国家の破産が、負債のないほかの諸国をも一緒に損害に巻き込むことは必定で、これはこれらの国々の国家に関わる障害となろう、というのがそれである.したがってすくなくとも他の諸国はこのような国家とその僭越に対抗して、同盟を結ぶ権利がある.

第五条項

 いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない.

 なぜなら、いったい何が国家にそうした干渉の権利を与えることができるというのであろうか.一国家が他国家の臣民たちに与える騒乱の種のたぐいがそれである、というのであろうか.だが一国家に生じた騒乱は、一民族がみずからの無法によって招いた大きな厄災の実例として、むしろ他民族にとって戒めになるはずである.一般にある自由な人格が他の人格に悪い実例を示しても、それは他の人格を傷つけることにはならない.ーもっとも、一つの国家が国内の不和によって二つの部分に分裂し、それぞれが個別に独立国家を称して、全体を支配しようとする場合は、事情は別かもしれない.その際、その一方に他国が援助を与えても、これはその国の体制への干渉とみなすことはできないであろう.だが、こうした内部の争いがまだ決着していないのに、外部の力が干渉するのは、内部の病気と格闘しているだけで、他国に依存しているわけではない一民族の権利を侵害するもので、この干渉自体がその国を傷つける醜行であるし、あらゆる国家の自律をあやうくするものであろう.

第六条項

 いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない.例えば、暗殺者や毒殺者を雇ったり、降伏条約を破ったり、敵国内での裏切りをそそのかしたりすることが、これに当たる.

 これらの行為は、卑劣な戦略である.なぜなら、戦争のさなかでも的の志操に対するなんらかの信頼がなお残っているはずで、そうでなければ、平和を締結することも不可能であろうし、敵対行為は殲滅戦に至るであろう.ところで戦争は、自然状態において、暴力によって自分の正義を主張するといった、悲しむべき非常手段に過ぎない.またこの状態においては、両国のいずれも不正な的と宣告されることはありえないし、どちらの側が正義であるかを決定するのは、戦争の結果でしかない.だがまた、国家の間には、いかなる懲罰戦争も考えられない.以上の理由から、次のことが帰結する.すなわち、殲滅戦では、双方が同時に滅亡し、それとともにあらゆる正義も滅亡するから、永遠平和は人類の巨大な墓地の上のみにのみ築かれることになろう、ということである.それゆえ、このような戦争は、したがってまたそうした戦争に導く手段の使用は、絶対に禁止されなければならない.<中略>かの悪逆なたくらみは、それ自体が卑劣なものであるから、それが用いられると、他人の無節操だけが利用されるようなスパイの使用とは違って、もはや戦争の継続期間内に限定されず、平和状態のうちに持ち越され、その結果、平和実現の意図をまったく破壊することになろう、というのがその理由である.

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 以上が第一章の条項すべてになります.第二章には国際連盟や国際連合の指導理念に影響を与える連合制度に言及がありますが、今回は触れないで起きます.文章の引用が多くなってしまいましたが、本著の中核となる文章はこれのみであると考えると、極めて簡潔と考えてもよいと思います.この論考が出された1795年はフランス革命戦争の真っ只中で、プロイセンと革命政府との間で結ばれたバーゼルの和約が結ばれた年でした.この条約は第一条項で危惧された、休戦を前提とした仮初の条約であり(結局十年後には再戦した)、到底平和にほど遠い条約に対するKantの強い不信があったようです.こうして条項を見ると、200年以上前にこのようなことを真剣に考える人がいたという感動を覚えました.おそらくもっと前にもいたのでしょうが、私の不甲斐なさでお伝えすることはできません.この中で私の目を特に引いたのは第六条項で、背信、裏切りをしてはならない理由が鋭く、明確に述べられています.これらが認められると、ゆくゆくはお互いが滅びあうまで殺し合うこととなり、平和を達成するには絶滅するしかない、平和のための武力が容認されてしまいます.これは「人を殺してはいけない」という命題にも同じことが言えるでしょう.もし万が一人を殺してもよいことになったとしましょう.貴方は昔から恨みのある人物がいて、あいつをついに殺せるぞ!と意気揚々と何らかの方法で血祭りに上げたとします.しかしその人物は地元では名の知れた有力者で、支持者が復讐のために貴方に襲いかかってきてしまう.よもや殺されると思ったその時、素性の知らない誰かが興味本位で貴方と復讐にきた人々ともども殺しに来る.復讐者は死んでしまうが、貴方は幸い生き延びる.どこかに逃げようと思ったその時、街中で次々と火事が起こり、自分の家も燃えている.警官は職務を忘れ銃を乱射して道の前は死屍累々・・・

 もういいでしょうね.もし、殺人を正当化すると、誰しもが潜在的な殺人者となり、自身の欲求を満足すべく殺人を行うし、自分も殺害の対象となりうる.おぞましい社会が生まれる.これは万人の万人に対する闘争のような状態ともいっていいのかもしれません.第三条項にある常備軍廃止の理由について、Kantはこう言います.国家が人を殺したり人に殺されるために人間を雇うことは、人間性の権利に反すると.Kantがいう定言命法(無条件に従わなければならない命題)によれば、人間は自他の人格をつねに目的それ自体として扱うべきであって、たんなる手段として扱ってはならない、と.つまり殺人をしてはならないことは、絶対的な道徳律であり、人間を手段として用いることを強く退けています.

 こうした論説は理想に過ぎない、あくまで机上の空論だろう、実際戦争は絶えないじゃないか、殺人も身近に起きているじゃないかという批判はたしかにあるでしょう.Kantは上記のように条項に続いて、その論証を明確に上げていますが、もし平和が空論であれば、誰も従わないであろう、論証は空虚なものになると考えているようです.Kantは、決して、永遠平和はおのずから成就するものではなく、人々が完成に向かって努力し、平和の実現を義務としなければならないといいます.しかし永遠平和は自然の摂理でもあり、人間が平和を希求する方向は合目的だとして、自然が永遠平和の到来を保証するとも言います.なかなか直感的にはピンときませんね.このことはもう少し考えてみたいと思います.ただ人間が誕生して以来、闘争を繰り広げ幾多の犠牲が生じ、それらの上に我々が立っていると言っても過言ではありませんが、その途上で秩序を構成し、統治体系を形成すべく政治哲学が生まれ、人を目的として営まれる社会が作られてきたのは事実でしょう.Kantが提言したように国際連合は形成されたし、常備軍の撤廃を行った奇特な国も確かに存在しています.僅かですが、平和に至る歩みは少しずつ進んでいるようにも思います.

  ファッション誌はどうも浮世離れして好きではないですが、時々こういう記事があると、なんだかワクワクします.実はまだちゃんとこの論考を読み切れていないのが正直なところです.なんにせよ.付録のボリュームがでかすぎる.それだけ読み応えがあるのでしょうが、なんどもなんども行間を往復してよく咀嚼しないといけません.また何かあれば追記しようと思います. 

  ここまで読んでくださったこと、感謝申し上げます.

 

気づけばグリーンイグアナ

 先日、妻と淡水魚の水族館を訪ねました.大きな敷地の中には大きな池が会って、その中心にガラス張りのルーブル美術館のような建物があります.水族館の入口には鯉のぼりを模した、何百もの鮎のぼりが風を吸って、元気よく泳いでいました.見物人は少ないのでゆったりと静かな空間で集中して魚を観察することができました.マス、ヤマメ、タナゴ、フナ、オイカワ、コイ、ドジョウ、ウナギ、カエル、イモリ、ザリガニ、サワガニなど淡水でよく観られる生物がゆったり暮らしていて、少し羨ましく思いました.ガラスから差し込む日光が眩しくて、蓮の葉は大きく葉を広げるのとは対称に、我々は瞳孔を小さくして少し暗い館内を探索します.淡水魚だけでなくて海水魚や汽水域の魚も少し展示してあって飽きることがありません.アジ、タイ、マグロ、サメ、ヒラメ、フグ、ウツボ.正直にいうと時々美味しそうだな思うときと、この魚、あな恐ろしと思うことが多かったです.読者諸兄には私の見識の狭さに呆れるかもしれませんね.しかし背びれ尾びれが動くときの一切の無駄の無さと優雅さ、光に反射するウロコ.しなるように動く細長い流線.そしてそれら形態へと至らしめた進化の道筋あるいは万象の妙技にはただただ感嘆するばかりでした.

 水族館や動物園を訪ねるときは、自分(の世界)と動物(の世界)の対比を行うことがもっぱらかと思います.自分の知識と実物を照らし合わせて違いを感じ取り、そこに感動する、思いを共有する、新たな情報を得ることが多いのではないでしょうか.水族館はそれが面白いのです.マリンスポーツをやる人は水中生物の知る力学に感動し競技への新たな着想を掴むのか、芸術家は生き物の息遣いや水と光が作り出す不可思議な空間に魅せられるのか、いずれもどうなのかはわかりませんが、私が少し考えたのは妻とのやり取りを介した以下のようなことです.

 砂場に潜って両眼だけを出しているヒラメを見て私はこう言いました.

「あのヒラメのように、平べったく砂の色とほとんど同じ色合いで景観に潜るというのは全く信じがたい技ではありませんか.ということはヒラメは砂の色と自分が砂に潜るときの体の形をよく理解している、自分が隠れたときにどのような姿になるかをおおよそ知っていて、まるで他者からの眼差しを意識して姿を発展させたかとしか思えないような造形です」

 妻は少し考えて言います.

「私は自然選択説というものを学んだことがあります」

「ほう」

「進化を説明するとき、自然環境が生物に無目的に起きる変異を選択し、進化に方向性を与えると」

「つまり、ヒラメは意識せずにあのようになったと」

「ええ、学者はそういいます、私はそう教わりました」

 妻はいつも冷静です.

「では、ヒラメの擬態と同じように、イカもタツノオトシゴが岩陰や海藻に紛れて身を隠すようになったのは、彼らの意識するところではない.しかし数ある子孫に現れた個性のうち生存に適さなかったものが、長い歴史の中で徐々に淘汰され、適したものがいつしか形質として選択される、と」「あんなに見事なのに.ナナフシの節足やハナカマキリの色彩もガの紋様は自身の体躯を客観的に認知せずにああなるだろうかねぇ」

「貴方の言いたいことはわかります、でも私はそういう知識を持っていると言ったに過ぎません」

「すごいねぇ」

 私は少し気まずくなって、妻の顔を見ずにガラス越しのヒラメと目を合わせようとしたのですが、ヒラメはじっと考え事をしているようで私にとりあってくれませんでした.

「少し喉が乾いたね、休憩しようか」「あすこのベンチがいい」「ええ」

 私達は日光が燦々と輝く外の景色を眺めながら休むことにしました.燕がヒューッと急降下して勢いよく高く揚がるのを見て、近くに巣があるんだね、帰りに見に行ってみようか、などと話をしました.蓮の花が咲き乱れ、アメンボがスイーッスイーッと水面を揺らします.実にのどかな光景に目を見張りました.ずっとこういう時間がつづくことはないと思いながらそれぞれヒラメのようにじっと考え事をしていたように思います.少し時が経って奥に進むと世界の淡水魚コーナーと称して、主に南米の熱帯に生息する巨大魚が展示されていました.いや、どちらかというと我々が見られていたのかもしれません.ピラルクーが悠々と泳ぎ、近くにはポルカドットスティングレイが張り付き、カンディルやピラニアがちょこちょこ水の中をかけっこしています.自分が水の中にいたら堪らないだろうと思いながら水中に設置されたガラスチューブを歩き、地上に上がります.外から見てルーブルの四面体のように見えたのは熱帯雨林を模した環境を保つためのガラスだったのです.鬱蒼とした森の中を歩いている気分で、なかなかおもしろいものでした.目の前にオウムのような鳥がいるのもびっくりしました.あとから知るとインコのようでしたが、妻は息が早くてあまり調子がよくなさそうだと心配していました.ほかにも何かいるかとキョロキョロしてみてもなかなか見つからないので立ち止まっていると、妻が

「ねぇちょっと、あれ」

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 2mくらいの近さでそれは大きなイグアナが日光浴をしていたではありませんか.まったく物音せずにずっと林の定位置にいたのです.あんなに近くでイグアナを見ることはなかったし、気づかなかったこともびっくりです.かといって向こうは何かこちらに気を使うわけでもなく自分のことをしていたので、あたりに漂う空気は穏やかなものでした.怖いと思う気持ちは全然なくて、なんだか昔から知っている仲間に偶然出くわしたような嬉しい気持ちがしました.イグアナがそこにいてくれてよかったなと.

 帰ってから妻と話したことを調べてみました.もしかしたら私がヒラメを見て言ったことはJ. Lamarck(1744-1829) の唱えた用不用説に近いのかもしれません.現在進化論の潮流は妻が教えてくれたC. Darwinによる自然選択説にあるようですが、素人ながら確かによく観察と熟考を経て得られた学説だと思います.この自然選択説は変異は自然が淘汰し、偶然が支配するサバサバした学説であって、進化の過程において生物がああしよう、こうなりたいという密かな思いを排除したものとも考えられます.私自身、もっと知らなければならないことが沢山あるのを承知で言いますが、どんな生き物でも個々なりの密やかな思いがあっていいはずだと思います.これを主体性といえば少しすっきりした言い方になりますが、各々が形態・機能変化へ向かう何らかの力動が働いている、究極的には進化へと至る推進力<精神といっていいのだろうか?>が存在しているように感じるのです.私はロマンチックな話が好きなのでこういう考え方になりますが、この世界が確率や偶然だけでできているのではあまりにつまらなくありませんか.運命がきまぐれによって決まってしまうような考えはある意味単純明快ですが、我々がみな運命の囚われになるのは惨めでしょう.何か私達にとって捉えがたい生命固有の志向性が働いているだとか、運命に抗うベクトルが備わっているような、そんなある種の不可思議な方向づけがあるとしたら、僕らはカメレオンやタコともっと寄り添っていける気がするのです.

 こんな話、うちの事務所のスタッフくらいしか聞いてくれないかと思いましたが、あとで定向進化説(Orthogenesis)やNeo-Lamarckismといった生命の内的方向性を考える学説があると知りました.私よりずっと前に似たようなことを考えている人がいると知って、自分の凡庸さに気づきつつ、共感してくれそうな人が少しでもいるのだと思うとほっとしました.イグアナがそこにいてくれてよかったなと思う気持ちと同じでした.

精神の危機について

 私が仕事を初めて数年経ってから「精神」という言葉を強く考えるようになった.しかし考えるよりも優先しないといけないことが多く、以前は取り組むのが難しい課題であった.今でもとてもとても難しいことに違いないが、私自身少しましになった.改めて考えるだけのものでもあると思う.さて、少しだけ考えてみよう.建学の精神、精神論、精神的、精神病、精神と肉体.言葉は一緒なのにどれ一つ意味合いが何となく異なる.この何となくが引っかかる.人間にとって精神とは何だろうか、動物の精神という言葉はあまり聞かない.建学の精神.学校の入学式や卒業式で聞いたり額縁に飾ってある言葉だ.たとえば私の学校は質実剛健、文武両道であった.精神論.あの人はいつも精神論ばかり説く.ではあの人は肉体論ばかり言う、という用法があるだろうか.殆ど聞いたことがない.敬虔な筋肉の信奉者か.そもそも精神と肉体を対立させていいのか.昔から議論されている命題だ.精神的.この言葉は日常的によく使う.精神的にきついだとか、精神的に強い、といった使い方をする.しかし精神的な強さとはなんだろう.精神病.精神の病気というと色々あるが精神病というとおおよそ統合失調症を主とする一つの疾患群を指すだろう.とはいっても精神が病むというのはどういう状況だろうか.そもそも精神という臓器はないが、精神は人間のどこで働いているか、すなわち精神の座を探求する取り組みは有史以来行われてきた.結局は脳ということになり、大体の人が納得している.もちろん、脳が一義的に精神の機能を果たしているわけでもないことは承知しているが、大多数の人と会話するときには上記を念頭において私は言葉を選ぶ.精神は人間の生活において大きく存在するものだとも考える.建学の精神という言葉は人間が学び舎を建てるときに精神的支柱として掲げるものであろう.わざと精神的という言葉を用いたが、建学の精神という言葉を引くと、自立、知性、社会、滋養などといった単語を学是としているところが多い.どれも目に見えなくて捉えどころのないものを大切にしている、機能させているといって良さそうだ.掴み難くて難解な言葉を私はどのように理解したら良いのだろうか.

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 亀吾郎法律事務所に上記のような問い合わせが来た.当事務所はこのような相談を受けることもある.私は何冊かの書物を選んで次のような返答を行った.

 最近、私はP. Valéryの著したLa Cries de l’esprit(邦題:精神の危機)なる作品集を読んだ.彼は多くの戦争を経験し、人々が切迫した時代と混乱に飲み込まれる状況を見て危機感を抱いた.ヨーロッパは果たしてあらゆる分野における優位性を保つことができるのかと.有史から世界中で賛嘆すべき幾多の文明が栄え、また滅びた.そのような淘汰の中で最強の入力と最強の出力という物理的特性を備えた領域はヨーロッパを除いて存在しなかったと彼は序文で述べる.地球儀でも世界地図でもご覧になっていただきたいが、これは人間が住む土地の総体が描かれており、天然資源、豊穣な土地、豊かな地下資源、様々な特性が観察される.ここから彼は、「人間が住む地球の現状は、人間が居住する諸地域を対象とした一つの不平等系によって、定義することができる」という.Sid Meier’s Civilization という世界文明史ゲームをやったことがある人であれば、1ターン目で砂漠ばかりの土地や、氾濫原の広がる初期立地に嘆息することはよくある話であり、土地の不平等性には一定の納得を示していただけるだろう.荒涼とした山岳地帯よりも河川の流れる盆地のほうが文明は栄えやすかろう.かといってヨーロッパがそこまで資源豊かではないし地形的にも狭溢している.ヨーロッパが優位性を保ってきた一例についてValéryはギリシアの存在を挙げる.ギリシアによって発展を遂げた思想を例に、少しずつすべての学問が幾何学のように論理を厳密にし、即時的な敷衍可能性、徹底した夾雑物の排除を行うことを余儀なくされたとし、近代科学はそこから生まれたと指摘する.Hegelも似たようなことを述べている. 科学が発展し、その物質面の応用が進むと、どちらかというと、資本活用の刺激剤として科学は商品や貿易品と化する.学者の研究材料に過ぎなかった硝石がいつしか化学エネルギーを爆発に換えて火薬となりマスケット銃の弾丸を発射する手段となる.商品は模倣され、世界中で作られる.資源が採れる土地のほうが生産は容易い.人口が多ければその分力は富む.ヨーロッパが占めていた優位性は科学水準等の地域格差がなくなっていくごとに失われてゆく.パワーバランスが逆転しつつある.Valéryはここで拡散という物理現象を用いてさらなる説明を試みる.インクを水に垂らすとそれは一瞬色づいて忽ち消えてゆく.これが拡散である.しかし、もし水槽の中に垂らしたはずのインクが姿を現したら・・・といって物理学でありえない話をするが、この現象は人間においてはありえないことではない.我々は液体系が、自然発生的に、均質系から不均質系に移行しているのを目の当たりしているという.この逆説的なイメージこそ、私達が何千年も前から「精神」の世界における役割であると.ヨーロッパの奇妙な優位性はその「精神」によって、軽い方の秤が傾くように働かしむのであった.なかなか難しい説明であるが、別の小論、La liberté de l’esprit (精神の自由)を参照してみる.そこでは「精神」という言葉を我々の体の動きに必要な、身体機能の最適化を目指すようなものではない思想や行為を分離・発展させる可能性、あるいは欲求、あるいはエネルギーとしている.すでに私達の生命はある種の変形力、すなわち我々の体と周囲の環境が我々に課す生命維持に必要な問題を解決するための能力を持っている.これは他の動物もそうである.しかし、なぜか我々は生命維持の不可欠な欲求が満足してしまうと生命保存とは別の作業を自分に課そうと思うようになる.彼の表現を借りればこれは途方もない冒険である.彼が「精神」と呼ぶものはその冒険に瞬間的な方向づけ、行動の指針、刺激、推進力を与えると同時に行動に必要な口実、幻想のすべてを与える.口実や幻想は時代とともに変わる.この精神的な力と動物的力(生命維持の能力)はよく似ている.同じ歩行であっても、ただ歩くのと踊るのは、同じ器官、同じ神経回路の産物で、ちょうど私達の言語能力が欲求や観念を表現するのに役立つと同時に同じ言葉・形式が詩をつくるにも役立つのと同じであると.両者は同じメカニズムであるが、目的は全く異なる.生命維持か大いなる冒険か.もう少し別の簡潔な文章を引用してみる.彼のCahier (カイエ)の冒頭は、「精神とは作業である.それは運動状態でしか存在しない」から始まる.またこうも述べている.「精神は一度には一つのことしか見ることができない」「精神にはきっと然るべきメカニズムがあると私は確信している.精神のすべてがそのメカニズムに還元されるとは言わない.私が言いたいのはそうした基本的メカニズムが解明されない限り、それより先へ行こうとしても無駄ということである」Politique de l’esprit(精神の政策)からも引用しよう.おそらくこれが最も端的な表現であろう.「私の意味するところはごく単純に、一つの変換する力のことである」、「精神はまさに賢者の石、物心両面にわたる一切のものを変換させる動因である」と.そして先に述べたような叙述が続く.「精神は我々の周囲にある影響を及ぼし、我々を取り巻く環境を変化させるものであるが、其の働きは既知の自然エネルギーの作用とはかなり違ったところに求めるべきものであると.その働きは、与えられたエネルギーを対立させたり、結集させたりすることに存するものだからである.この対立あるいは結集の結果として、時間の節約ができたり、我々自身の力の節約ができたり、力や精度、自由や生命時間の増大がはかられるのである.〈中略〉かく見れば、精神とは、純粋に客観的な観察の総体をいわば象徴的に表したものの謂いである」

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 ここで少しまとめてみたい.精神とは一つの変形力であり、作業でもある.それは動的な状態である.それは自然の営みに逆らうこともできれば収束させることが可能な推進力である.例えば文字を書くということを考えてみる.薄っぺらい物体の表面に異なる物質を一定の浸透力で染み込ませ、これを規則的に延々と続ける.これは生命維持とは関係のない動的な状態と考えられる.さらに一定の様式で平面にインクなり墨なりを染み込ませるためには、「書く」主体の意志、すなわち推進力や行動の指針、もしかすれば冒険心が必要である.この営みによって、主体の思考は収束するかもしれないし、同じ文字を認識することのできる客体すなわち読み手がいれば自然の法則に則らない思考の伝達が行われるともいえよう.考えは収束するかもしれないが、読み手がどのように刺激を受けるかによってそれはさらに他者に伝播する可能性も持つ.もし扇動的であったり挑発的であればその思想に抗おうとする別の推進力が出現することも考えられる.音楽や絵画にも同じことがいえるだろう.こうしたところで、冒頭の問に答えられただろうか.建学の精神は、学び舎を興すときに創設者たちが掲げた教育の原動力(motive)となるキーワードとでもいえばよいだろうか.精神論とは主体に与えられたエネルギーに依拠すれば艱難辛苦に耐えうることができるであろう考え方と言えそうだ.精神を病むとすれば、何かを起こすための推進力に問題のある状態を考える.動的な状態を前提とすれば、それが緩慢な状態に陥ったり静止すればいわゆるうつ状態、暴走ないし危険な冒険を選ぶのは躁状態とも考えられる.このように彼の主張を演繹すると実に明快である.

 ValéryがLa Cries de l’espritを著したのは1919年だから今から100年以上前になる.彼の著作を読んでいてあまりそういう気がしなかったせいか抵抗なく読みすすめることができた.おそらく翻訳が優れていることが大きいのだろう.まだ自分の中でうまく落とし込めていない部分はあるが、一応の読了と総括をすることで、別の著作に取り組みたいと思う.