原罪について

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前回のあらすじ

 過去三回連載した「不安の概念」に関する記事で、私は主に第一章、第二章の説明を試みた.簡単にまとめると次のような具合になる.

 ・キルケゴールは不安の構造をキリスト教の「原罪」と自身の人生体験から理解しようとした.

 ・原罪論とは、「人類が普遍的に罪を負っている」という説明に根拠を与えるもので、創世記の伝承、アダムの堕罪に基づいている.ただ教義によって解釈が異なる.

 ・不安とは「自由のめまい」であると例えられる.不安とは、人間存在の構造が何の支えもなく揺るがされていることである.不安と恐怖は前者が対象を欠く点で大きく異なる.

 ・罪と不安は表裏一体である.無責の状態から有責の状態へと質的な変化(質的飛躍)が生じるときに不安が生じる.

 これから話す内容はアダムは人類であり、アダムは個人でもある、というキルケゴールの主張を理解する試みになる.「おれがあいつであいつがおれで」という児童文学を思い出す内容である.

 アダムの罪を説明することは原罪を説明することである.そして、アダムを説明しようとするが原罪をしようとはしない説明、あるいは原罪を説明しようとするがアダムを説明しようとしない説明は何も役にも立たないのである.このことは、全人類は個人に、個人は全人類に与るというようにして、人間は個人であり、そしてそのようなものとして自己自身であると同時に全人類でもあるということが、人間の実存における本質的規定のうちに深く根ざしているように思われる.

不安の概念」第一章、「原罪の前提としての不安

 「人間は個人である.そしてそのようなものとして自己自身であるとともに全人類でもあるということ、これは人間の実存にとって本質的なものであると思う」という上記を噛み砕いた文章を考えてみる.

 アダムは蛇に唆されたイヴの誘いで禁断の実を食べてしまった.美味しかったのかどうかは兎も角、「(創造主は)食べてはいけないと言われたが、食べようと思えば食べられるではないか」という自由の気づきのもとでアダムは果実を口にする.その自由とは、「食べてしまったらどうなるのだろう、死ぬとはどういうことだろう」という不安に転じる.そして、その不安は堕罪へと至るわけであるが、この罪は、創造主への無自覚な反逆とも理解できるかもしれない.創造主が作り出したアダムとイヴは全く善い人間であったはずだが、全く善いからこそ、無垢であり、無知であった.無知で、自由である故に堕罪したのであった.

 ここで伝統的教義学(ルターやアウグスティヌスの教義)と異なるのは、アダムは「禁断の果実を食べてみたい」と思ったわけではない、ということである.詳しく言えば「欲情」が生じたわけではない.「食ってはいけない」という神の禁止に対して、「禁止されたことをしてみたい」と思ったのではないのである.

「食べてしまったらどうなるのだろう、死ぬとはどういうことだろう?」

 伝統的教義学によると、アダムが堕罪したときに「欲情Concupiscentia」(生来の悪の傾性)が生まれたとする.しかし、アダムが創造されたとき、そもそも彼は無知ではなかったか.そんな彼が欲情などするだろうか.禁止されたことをしてみたい、という悪があるだろうか、とキルケゴールは考える.アダムとイヴは全く善い人間であったのだ.この堕罪の瞬間における解釈が伝統的教義学とキルケゴールで異なるのであり、「食ってはならぬ」という禁止がアダムの中に罪を生み出した過程には「欲情」ではなく、不安という力動が内在していたのであるという彼の論理には敬服するほかない.アダムは悪気なく罪を犯したのである.

 さらに伝承にもあるように、知恵の実を口にしてからは二人はスッポンポンであることを羞恥する.互いに木の葉で外性器を隠すキルケゴールも「堕罪によって性が措定された」と述べている.もし二人が欲情するのであれば、それは堕罪した後の話であろう.

 かくして、アダムが堕罪し、楽園を追放されてからは二人は交わる.するとカイン、アベル、セトが生まれ、セトの子孫がノアとなり、ノアの息子のセムの子孫のテラの息子がアブラハムとなり、その息子がイサク、五作、田吾作、与作……と続くわけである.アウグスティヌスから始まる伝統的教義では、原罪はアダムから上のような繁殖によってその後の人類に伝わるとし、それ故に個人は生まれながらにして罪の中にあると考えた.ルターなどプロテスタント派も、罪の原因を生来人が持つ悪の傾性によって説明しようとしている.だがこれは罪の普遍性を説明するにすぎない.我々にはもともと悪の傾性があるという言い分も納得できそうにない.

 伝統的教義学とキルケゴールの考えは次の点でも異なる.伝統的にはアダムは人類を罪に堕とした張本人かつ原因であるが、アダム以後(与作など)の個人の罪は、人類が堕罪した結果として生じるものとして解釈される.つまり、アダムとそれ以降の人間を区別してしまっている.しかし、そうではない.これでは原罪論が個人の罪性と人類の普遍的罪性両方を説明しようとする試みに反してしまう.もう一度キルケゴールの文章を思い起こしていただく.

 アダムの罪を説明することは原罪を説明することである.そして、アダムを説明しようとするが原罪をしようとはしない説明、あるいは原罪を説明しようとするがアダムを説明しようとしない説明は何も役にも立たないのである.このことは、全人類は個人に、個人は全人類に与るというようにして、人間は個人であり、そしてそのようなものとして自己自身であると同時に全人類でもあるということが、人間の実存における本質的規定のうちに深く根ざしているように思われる.

 現代に生きる我々なら理解は容易いだろうが、奇しくも私とあなたのゲノム情報は極めて類似している.どんなにあなたが嫌がったとしても.私と他の70億の人間のゲノム情報も酷似している.ボブ・マーリーもポール・マッカトニーもルーサー・ヴァンドロスもホイットニー・ヒューストンも非常によく似ている.これは我々がホモ・サピエンス・サピエンスというヒト亜族の一つであることで理解される.もとを辿ればかならずご先祖がいる.ご先祖の先祖をさらにさらに遡れば、我々はいつか生物学的「アダム」に到達する.誰でも人類の連続性がある.

 たかだか10万年程度ではゲノム情報は大きく変わらぬ.あなたとあなたの隣人の遺伝情報は99.9%以上一致しているらしい.チンパンジーでさえあなたとも1−2%程度しか変わらないのだ.故にアダムと現代の私たちの生物学的特質もさほど変わらないし、生得的な能力はほぼほぼ変わらないと見ていいだろう.生物学的な視点で、私とアダムは本質的に同じである.これは70億個ある均一な大きさのビー玉から一つ取り出すのと同じだ.セミの死骸に群れるアリを一瞥して、各々の差異に気づくことはできないように、ガルガンチュアのように巨視的な目線で見ると私たちとアダムはなんら変わりはないのだ.

 連載の最初で私は次のように触れたことを思い出す.

「これ(創世記)はもちろん神話なのであるが、多くの人が挙ってこの神話を取り上げるのは、宗教的な意義だけでなく、ある種、アダムを人類のプロトタイプとして考えたときの思考実験として捉えると興味深いからかもしれない」

 アダムもその後の人類も同じ人間である.よって本来同じ性質である両者を区別することは誤りである.前者を特別扱いしたり、例外扱いすることは議論をおかしくする、とキルケゴールは指摘する.アダムは最初の人間であり、彼は自己自身であるとともに人類である.アダムは人類の範型、典型なのだ.アダムの罪は人類の全体が堕罪した原因ではなくて、むしろ同じ人類である個々人がどのようにして堕罪するかを示す例示「Design study&Prototype」である.アダムが質的飛躍によって堕落したように、我々人類は質的に堕落している.その質的堕落とは、私達は無知ないし無垢な状態において不安の萌芽から自身の行為によって堕罪することなのである.我々は生まれつき罪の中にいるのではない.罪を犯す素質=罪性(ポテンシャル)を秘めているのである.そのポテンシャルが世代を経て伝わっていく、という意味で我々は普遍性を持つ.

 アダムが無知かつ自由故に堕罪したように、私たち人類も自らの無垢と無知で自由な行為によって罪を犯すのだと.よって罪の責任をどこに求めるべきか、それは個々人なのだ、ということは明らかになってくるように思う.

 今回の記事は以上である.私はずうっとずうっと原罪論について考えてきたが、ようやくキルケゴール兄貴が考えていたことに一定の理解を示せそうである.アダムは人類のプロトタイプである、という仮説は存外悪くない考えであったように思うが、それが自分の中で納得できるまでに大変な時間がかかった.そしてその考えを記事にして世間にお示しするにも時間がかかってしまった.牽強付会のように思われたら残念だが、私なりに錆びついた灰色の脳細胞を駆使して考えたのである.

 さて、「貴方こんなことを考えて一体なにになるの」とか「あんた暇だね」、「そんなこと考えているならもっと実学を勉強しなさい」とかいろんなお褒めの言葉が来るだろうと予想するが、私に言わせればこのような思索は臨床実践において極めて必要である.実際とても役に立っている.当たり前だが、精神医学は哲学ではない.だから精神病理学も哲学ではない.哲学ではないが、哲学の方法論を使わないことには理解できないだろうと思う.外科医にとっての手術室と同じように、私にとって哲学は精神病理を理解する思考の力場であり、外科医にとってメスが道具であるように、心理学は精神療法を実践するための道具である.ともすれば薬理学はある種飛び道具であろうか.

 不安は誰にでもある心的動きである.これがどのような機構で生じるのか、について一定の把握をしておくことは決して悪いことではない.生理学的なアプローチに基づくGABAの機能失調等の仮説も十分理解しておくべきだろう.だからと言って抗不安薬を矢鱈ぶち込めばいいかと言えば決してそうではない!!私はキルケゴールの考えを盲信するつもりはないが、「人間存在の構造が何の支えもなく揺るがされていることが、不安の原因である」という箴言には大変な共感を覚えるし、これを念頭にして面接に望めば不思議とクライエントのむつかしい言辞にも心を沿わせることはできそうなのだ.

いつもありがとうございます.

 余談ですが、当ホームページの用語集、頑張って増やしています.特に心理学関係の用語を充実させていますのでよかったらお立ち寄りください.

 

 

 

オパールの輝き

إن شاء إللّه

 ある日、私がいつも通り出勤前にカメたちのいる水槽を訪れて小話をしようと思い、中を覗き込もうとすると、見慣れぬ物体を認めた.白くてツヤツヤしているので、私は「あれ、丸石なんかあったっけな」と訝しんで水面に自分の顔を映した.そこには間抜けな顔をしたおっさんの顔はもとより、ひと仕事終えて疲れた様子の「吾郎ちゃん」と、その時だけはなぜか空気を読んで、吾郎ちゃんに求愛をしていない「三郎(a. k. a. さぶちゃん)」が寄り添っていて、水底にはツヤツヤした美しい卵が転がっていた.吾郎ちゃんはメスで、さぶちゃんはオスだ.

 私はすぐに妻を呼んで、現場確認を求めた.私が確か言ったのは、「卵!ある!ついに!産んだ!」だったと思う.二歳児でも言えるセリフを三十のおっさんが年甲斐もなくはしゃいで、妻とともに吾郎ちゃんが出産を終えた事実を確認し合った.中央に少し橙の帯が入っていて美しい.卵は三つ.どれも均等な大きさで大体3cmくらいだ.

 私は出勤するところであったから、妻に卵の対応をお願いした.帰宅したときには妻はいつも通りうまくやってくれていた.思い返すと産卵前までは、全然食欲がなかったことが気がかりであった.過去に食思不振のために病院へ診察を依頼したことがあったが、その時と少し似ていたように思う.水槽の底を掘り返すような動作を何度も何度も繰り返していて、フィルタの給水ポンプが星の数くらい外れた.吾郎ちゃんは凄まじいパワーを秘めている.六歳くらいの坊っちゃんが舐め腐って指を突っ込めば、たちまちガブリとご挨拶いただくだろう.内出血不可避.鋭い爪は皮膚に食い込んで痛い.私にも容赦しない.でもかわいい.ズドン!バァン!ドン!ダァン!!!と大きな音を立てて、必死に水底を漁ろうとしていたのはおそらく、産卵する場所を探していたのかもしれない.調べてみるとこの時期はクサガメの産卵の時期らしい.どうして吾郎ちゃんはスマホも持っていないのに、暦がわかるのだろうか.本当に頭がいいなぁ、吾郎ちゃんも立派になったなぁと感慨にふけり、自分の生命を削って卵を無事に産んだことを私達は嬉しく思う.いまではバクバクとドイツ製のテトラレプトミンを食べている.私たちが近づくとすぐに察知して食餌をねだるのがとにかく愛おしい.バシャバシャバシャ!!!

 それからと言うものの、みんなで卵の未来が気になっている.カメは単独でも産卵するのである.しかし、我が家にはさぶちゃんというバチェラー?がいる.果たしてさぶちゃんは交尾をしたのだろうか?さぶちゃんが我が家に来た時は、ひどい皮膚疾患のために薬浴をしたり、光線療法をしたり、精神療法や食餌療法を行うなど集学的治療を尽くすほど、万事休すに近い状態であった.今や立派になり、時折脱走を企てて家の壁に飾っているルノワールの「雨傘」の真下で飄々としている.そして水中では事あるごとに、吾郎ちゃんに向かって頭突きを行うのである.頭突きはどうやら愛の行動であるようだ.時折吾郎ちゃんに怒られるが、それでめげるほどさぶちゃんの本能はやわではない.

  晴れの日も雨の日も、仏滅も大安も赤口でも、緊急事態宣言下であっても、さぶちゃんは繰り返し、繰り返し、生殖のために頭突いた.しかし、我々はさぶちゃんが本格的に性交渉に成功したところを目撃できていない.目撃できていないからと言って、成功していないとは限らない.我々が閨で寝静まっている頃、伊邪那岐と伊邪那美がまぐわいを行ったように、生命の営みを成し遂げたかもしれないし、仕事や買い物ででかけている間、昼下がりの情事を行っていたかもしれぬ.とにかくどうであれ、我々はワクワクしている.もし、有精卵なのであれば、二ヶ月ほどで燦々と輝く命の煌めきがふかふかの土から出てくるに違いない.出てこないこともあるだろう.それはそれで致し方ない.どうなるかはすべてان شاء إللّه(if god wills)である.ワクワクできるということは良い.

 最近ワクワクできることはほとんどなかったが、時々このような出来事があると、心の鼓動が高らかに弾む.望外の喜びはなおさら嬉しい.皆さんもなにかワクワクすることが少しでもあればいいと思う.

日々のあれこれ

茶の本について

 記事を投稿してようやく80になった.サイトの連載も少しずつ増えてきたので、伴って徐々に整理をしている.主にURLのスラッグである.それからメニューに過去連載のまとめ(記憶/物語超越・脱出現象学時間論茶の本饗宴)を設けた.ぜひ利用していただきたい.

 思った以上に「茶の本」の反響が多く、主に外国の方の訪問が多い.実に興味深いことだ.一つ、翻訳について説明をしておくと、「茶の本」の原題である「The Book of Tea」はすでに著作権が失効している.だからといって好き勝手して良いというわけではないのは知っていて、著者に敬意を払いつつ翻訳をさせてもらっているということになる.商用に使う気は毛頭なく、もし全翻訳が終わった暁には、青空文庫へのリンクを申請しようかと思っている.もちろん、翻訳に粗があるので全体を読み直して研磨するつもりだ.

アラブ文学について

 大学書林で買った「現代アラブ文学選」は、私にとって貴重なアラビア語のテキストである.現在はハリール・ジブラーンの「預言者」とアブドゥル・ラティーフ・ラアビーの「監獄の手紙」を教材にして翻訳をしながら勉強をしている.アラビア語を勉強して思うことは、アブジャドと呼ばれる子音のみによる文字表記法の普遍性である.我々のうちインターネット・ミームに明るいものは「TDN表記法」という独特の呼名法があることを知っている.これはヘブライ語やアラビア語と同じアブジャドである.この偶然の一致には恐れ入った.

中東精神医学について

 私が医学を志した理由の一つに「狂気」の理解がある.つまり「おかしい」とはどういうことか、ということである.それは精神医学という分野で説明をしようとするのが現代人の理解である.さらにそれは独仏の病理学理論が大いに下地になっていて、我が国でも有数の病理学的考察が勃興した.「ファントム空間論」はその一つである.

 私が考えているのは現代の精神医学の理論体系には西洋アメリカ、一部日本のものが大変であり、そこに中東、アフリカ、アジアが含まれていない.彼らはどのような理解をしてどのようにして精神病病理を捉えているのかは大いなる疑問である.我々と同じ理論体系なのだろうか.それとも中東なりの精神病理学があるのだろうか.

 精神病における言辞として「アッラーAllah」に関する内容、「ムハンマドMuhammad」の血統妄想などはありそうだが、こうした話題は宗教上かなりタブーなはずである.彼らは狂気をどのように取り扱うのだろうか.「ジンJinn」による憑依、とでも今更言うつもりだろうか.すぐに断罪してしまうのでは無いか.

 日本における「対人恐怖症」、朝鮮の「ファビョン火病」、東アジアの「アモックamok」、「コロkoro」の他にポルトガルでは「サンゲ・ドルミドsangue dormido」、ラテンアメリカでは「アタケ・デ・ネルビオスataque de nervious」といった文化結合症候群というものがあるのだから、中東にあっても良さそうである.

 結婚は個人恋愛というより家族、部族の政治的結婚といった印象を持つ.現代であればそれほどないのかもしれないが、結納金が絡んでくる以上、結婚には政治的な権謀術数が尽きないだろう.となれば女性の意向は無視される可能性も高そうだ.フェミニストも激おこぷんぷん丸である.一部は神経症になっても無理はなかろう.だがこれは疾患なのか.彼らはどうやって事態を躱しているのか.

 私はそうしたことを勉強してみたいと思っている.たぶんこの領域でそうした人はだれもいないはずであるか、極めて少ないはずだ.玄奘三蔵のように、私はいつか留学をして文献の理解をしてみたい.いうなれば中東精神医学史、である.

運転について

 自動車の運転をすると気分が落ち着く.考え事をするにはよい空間だと思う.背中から優しく押し出す水平六気筒MA-122型エンジンの動力.サッとキックダウン、意に答えるべく猛チャージするときの美しい音色といったら.PDKは電光の速さでシフトダウンする.コーナーは無駄なブレーキを踏まずに進入し丁寧なステアリングで素早く脱出する.車内全般ものすごく静かでは無いが、なにか優しくも堅牢な殻に包まれている感がある.居心地が良い.外観も素晴らしい.メタリック塗装の光沢はきらめきではなく、ゆったりとした淡い輝きを放つ.空模様によって鈍色になれば青ざめることもある.

 私は近年のフロントグリルが醜悪な車にどうしても親近感を持てない.グリルがでかくなり周りをクロームメッキで覆う趣向はできればみたくない.所有している人には恐縮だし、皆好きな車を買えばいいのは大賛成である.だがそれらがかっこいいという人と私は話が合わないだろう.私は曲線で構成される艷やかなボディの方が好みだ.私は最近、国内の自動車の番組を見なくなった.YouTubeもそうであるが、彼らの抱えている自己欺瞞に満ちた言動が見え透いてしまって、どうも真面目に見れなくなってしまった.じゃあ見なくていいぞ、という声があるかもしれないが、私は本当に最近見ていない.安心していただきたい.YouTubeでは最近は80sや90sのポップスを聞いている.音作り、打ち込みや歌詞の雰囲気が好きだ.あとは陳建一氏と三國清三氏の料理動画、それからクサガメの日光浴動画が多い.

実存について

 最近、亀吾郎法律事務所の三郎(さぶちゃん)が吾郎(ごろうちゃん)に発情していることを知る.お尻の匂いをクンクン嗅いだり、頭突きを食らわせている.なぜ頭突きをするか.私が知りたい.学問的理解でいえば求愛であろう.頭突きをされたメスは性交渉合意のサインを出すと、オスはメスの後方に周り、動物界の例ポージングで交尾を始める.

 さぶちゃんはいささか性急で合意形成が出来ていないのに、交尾をしようとするものだから凸が凹に入らなくて困った顔をしている.ごろうちゃんもごろうちゃんで、無頓着で全く気づく素振りがない.恋愛マンガにおける鈍感な立場だ.頭突きをされてるのだから気づいても良さそうである.頭突きを喰らいすぎて流石にキレているときもある.我々としてはさぶちゃんの恋路を応援したい.

頭突き

 もう一つの応援したい恋路は、某国の王女である.婚約者の母親に関する金銭がらみのスキャンダルが知られ、人々は結婚に反対しているとか.していないとか.少なくともメディアでは結婚に好意的でない印象を持つ.醜聞への食いつきは凄まじい.

 私が当事者であれば、溜まったものでは無い.しょーがねぇだろ好きなんだから.といった具合で、J. P. Sartre によれば実存は本質に先行するようである.好きになった理由を語る術はない.王女の家系をたどるとどうやら伝説級の血脈であるから、権威付けが高まるのだろう、それに媚びる人やそれで生きている人にとって反感を買うのかもしれない.ともかく王室、王家というのは神経症の巣窟のような気がしてならない.侍医は何というのだろうか.「姫、これは試練ですぞ」

 どうか心安らかに万事がうまくいくことを願っているばかりである.

 

陽の光

雑然とした中に思わぬ秩序があったりする.

 あくる夏らしい日.それは燦々と降り注ぐ陽光を身に浴びる日でもあり、冷えたビールを飲みたくなる日でもあり、バーベキュー日和ともいえる日.どこかドライブしてもいい.砂浜で日焼けしたくなるような穏やかな日だった.

 私の借りている家には小さな庭がある.庭と言ってもこじんまりとした、砂利の敷き詰めてある平面を言う.ところが嬉しいことにどんどん草が芽生えてきている.蔦は砂利を這い回るかのように伸び、自然発生のようにいつしか立派な植物がもこもこ生えてきて、妙な植生をなしてきている.私は植物の名前をこれっぽっちも知らない.だが、とても気分の良い空間で、私なりに庭らしくなってきた.実はこの庭には何も植えてはならないと契約書に書いてある.しかも生えてきたものは抜いて美化に務めろという.余計な面倒を起こしてほしくないので賃貸物件はこういうことになるのだろう.というわけで決して何かを植えることはしない.そもそも砂利に種を蒔く人は寡聞にして知らない.

 一般的に雑草といわれるものが、我々の思いに反して、立派に生育していく.何もしなくても好きにやってくれている.今では1/3くらいの面積を覆い尽くすようになった.なぜ抜かないのかと言われれば、私なりに美化に努めているからだというのが答えだ.ひねくれているなと言われればそうだが、一面砂利よりも趣があってよろしい.隣の家の人は定期的にまめまめしく抜くので、私も見習って同じことをしてみたが、抜いたところで平面は美しくなるわけでないし、そもそも容易に抜けるものではない。

 私はこれらを抜くことを諦めた。抜いても次々と生えてくるからだ。よく見ればそれぞれ愛嬌があるし、葉の上に佇むカエルを認めるだけでなく、アリがいそいそと歩哨にでかけているのを見る。カメムシは邪魔さえしなければ臭くないのだ.彼らの生活圏を侵すことはどうも心苦しい。生活を脅かしたところでどうせ徒労に終わる.であればありのままにしておいてこれからどのように繁ていくか見ていくほうが楽しそうだ.すでに私は楽しんでいる.勿論、洗濯物を干す場所や公共の空間は逸脱しないようにする.私の生活圏と小さな隣人の生活圏を共有しあい相互不可侵に務めるのが私の考えるところだ.他者からすればさぞかし無精者と思われるかもしれない.それは恒久平和のためには仕方ない.

 自分の思い通りにしたくてもそうはならないのは世の常.どんなに厳しく取り締まっても追い払っても、自分だけの世界でない限り決して思い通りにはならない.それは私の庭だけでなく世界で起きてきたことを見れば自ずから明らかだろう.北風は旅人の衣服を吹き飛ばすことはできなかった.私はやはりあの夏の太陽が好きだ.

気づけばグリーンイグアナ

 先日、妻と淡水魚の水族館を訪ねました.大きな敷地の中には大きな池が会って、その中心にガラス張りのルーブル美術館のような建物があります.水族館の入口には鯉のぼりを模した、何百もの鮎のぼりが風を吸って、元気よく泳いでいました.見物人は少ないのでゆったりと静かな空間で集中して魚を観察することができました.マス、ヤマメ、タナゴ、フナ、オイカワ、コイ、ドジョウ、ウナギ、カエル、イモリ、ザリガニ、サワガニなど淡水でよく観られる生物がゆったり暮らしていて、少し羨ましく思いました.ガラスから差し込む日光が眩しくて、蓮の葉は大きく葉を広げるのとは対称に、我々は瞳孔を小さくして少し暗い館内を探索します.淡水魚だけでなくて海水魚や汽水域の魚も少し展示してあって飽きることがありません.アジ、タイ、マグロ、サメ、ヒラメ、フグ、ウツボ.正直にいうと時々美味しそうだな思うときと、この魚、あな恐ろしと思うことが多かったです.読者諸兄には私の見識の狭さに呆れるかもしれませんね.しかし背びれ尾びれが動くときの一切の無駄の無さと優雅さ、光に反射するウロコ.しなるように動く細長い流線.そしてそれら形態へと至らしめた進化の道筋あるいは万象の妙技にはただただ感嘆するばかりでした.

 水族館や動物園を訪ねるときは、自分(の世界)と動物(の世界)の対比を行うことがもっぱらかと思います.自分の知識と実物を照らし合わせて違いを感じ取り、そこに感動する、思いを共有する、新たな情報を得ることが多いのではないでしょうか.水族館はそれが面白いのです.マリンスポーツをやる人は水中生物の知る力学に感動し競技への新たな着想を掴むのか、芸術家は生き物の息遣いや水と光が作り出す不可思議な空間に魅せられるのか、いずれもどうなのかはわかりませんが、私が少し考えたのは妻とのやり取りを介した以下のようなことです.

 砂場に潜って両眼だけを出しているヒラメを見て私はこう言いました.

「あのヒラメのように、平べったく砂の色とほとんど同じ色合いで景観に潜るというのは全く信じがたい技ではありませんか.ということはヒラメは砂の色と自分が砂に潜るときの体の形をよく理解している、自分が隠れたときにどのような姿になるかをおおよそ知っていて、まるで他者からの眼差しを意識して姿を発展させたかとしか思えないような造形です」

 妻は少し考えて言います.

「私は自然選択説というものを学んだことがあります」

「ほう」

「進化を説明するとき、自然環境が生物に無目的に起きる変異を選択し、進化に方向性を与えると」

「つまり、ヒラメは意識せずにあのようになったと」

「ええ、学者はそういいます、私はそう教わりました」

 妻はいつも冷静です.

「では、ヒラメの擬態と同じように、イカもタツノオトシゴが岩陰や海藻に紛れて身を隠すようになったのは、彼らの意識するところではない.しかし数ある子孫に現れた個性のうち生存に適さなかったものが、長い歴史の中で徐々に淘汰され、適したものがいつしか形質として選択される、と」「あんなに見事なのに.ナナフシの節足やハナカマキリの色彩もガの紋様は自身の体躯を客観的に認知せずにああなるだろうかねぇ」

「貴方の言いたいことはわかります、でも私はそういう知識を持っていると言ったに過ぎません」

「すごいねぇ」

 私は少し気まずくなって、妻の顔を見ずにガラス越しのヒラメと目を合わせようとしたのですが、ヒラメはじっと考え事をしているようで私にとりあってくれませんでした.

「少し喉が乾いたね、休憩しようか」「あすこのベンチがいい」「ええ」

 私達は日光が燦々と輝く外の景色を眺めながら休むことにしました.燕がヒューッと急降下して勢いよく高く揚がるのを見て、近くに巣があるんだね、帰りに見に行ってみようか、などと話をしました.蓮の花が咲き乱れ、アメンボがスイーッスイーッと水面を揺らします.実にのどかな光景に目を見張りました.ずっとこういう時間がつづくことはないと思いながらそれぞれヒラメのようにじっと考え事をしていたように思います.少し時が経って奥に進むと世界の淡水魚コーナーと称して、主に南米の熱帯に生息する巨大魚が展示されていました.いや、どちらかというと我々が見られていたのかもしれません.ピラルクーが悠々と泳ぎ、近くにはポルカドットスティングレイが張り付き、カンディルやピラニアがちょこちょこ水の中をかけっこしています.自分が水の中にいたら堪らないだろうと思いながら水中に設置されたガラスチューブを歩き、地上に上がります.外から見てルーブルの四面体のように見えたのは熱帯雨林を模した環境を保つためのガラスだったのです.鬱蒼とした森の中を歩いている気分で、なかなかおもしろいものでした.目の前にオウムのような鳥がいるのもびっくりしました.あとから知るとインコのようでしたが、妻は息が早くてあまり調子がよくなさそうだと心配していました.ほかにも何かいるかとキョロキョロしてみてもなかなか見つからないので立ち止まっていると、妻が

「ねぇちょっと、あれ」

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 2mくらいの近さでそれは大きなイグアナが日光浴をしていたではありませんか.まったく物音せずにずっと林の定位置にいたのです.あんなに近くでイグアナを見ることはなかったし、気づかなかったこともびっくりです.かといって向こうは何かこちらに気を使うわけでもなく自分のことをしていたので、あたりに漂う空気は穏やかなものでした.怖いと思う気持ちは全然なくて、なんだか昔から知っている仲間に偶然出くわしたような嬉しい気持ちがしました.イグアナがそこにいてくれてよかったなと.

 帰ってから妻と話したことを調べてみました.もしかしたら私がヒラメを見て言ったことはJ. Lamarck(1744-1829) の唱えた用不用説に近いのかもしれません.現在進化論の潮流は妻が教えてくれたC. Darwinによる自然選択説にあるようですが、素人ながら確かによく観察と熟考を経て得られた学説だと思います.この自然選択説は変異は自然が淘汰し、偶然が支配するサバサバした学説であって、進化の過程において生物がああしよう、こうなりたいという密かな思いを排除したものとも考えられます.私自身、もっと知らなければならないことが沢山あるのを承知で言いますが、どんな生き物でも個々なりの密やかな思いがあっていいはずだと思います.これを主体性といえば少しすっきりした言い方になりますが、各々が形態・機能変化へ向かう何らかの力動が働いている、究極的には進化へと至る推進力<精神といっていいのだろうか?>が存在しているように感じるのです.私はロマンチックな話が好きなのでこういう考え方になりますが、この世界が確率や偶然だけでできているのではあまりにつまらなくありませんか.運命がきまぐれによって決まってしまうような考えはある意味単純明快ですが、我々がみな運命の囚われになるのは惨めでしょう.何か私達にとって捉えがたい生命固有の志向性が働いているだとか、運命に抗うベクトルが備わっているような、そんなある種の不可思議な方向づけがあるとしたら、僕らはカメレオンやタコともっと寄り添っていける気がするのです.

 こんな話、うちの事務所のスタッフくらいしか聞いてくれないかと思いましたが、あとで定向進化説(Orthogenesis)やNeo-Lamarckismといった生命の内的方向性を考える学説があると知りました.私よりずっと前に似たようなことを考えている人がいると知って、自分の凡庸さに気づきつつ、共感してくれそうな人が少しでもいるのだと思うとほっとしました.イグアナがそこにいてくれてよかったなと思う気持ちと同じでした.