もう一年

green and white mountains near lake under white clouds and blue sky
Photo by Maurits Simons on Pexels.com

 分け入っても分け入っても

 このブログを開設してもうすぐ一年になる.読んでくださっている方、いつもありがとうございます.今後ともご贔屓いただければ幸いである.二年目の目標は特にないので、これまで通り淡々と書いていくことにする.変に気負ってしまうのはだめだ.

 一応、数字で振り返りをすると一年間で7065 PV(ページビュー;記事閲覧数)、 1626人が訪れたらしい.そのうちデスクトップPCユーザーは52.8% モバイルは41.8%、タブレットは5.4%であった(2021年6月2日現在).このサイトの閲覧はデスクトップPCがオススメである.ダークモードで色調を反転させるとなお良いと思う.だらだらしながら鼻をほじったり、背中を掻いたり、眼をこすりながら貧乏ゆすりをして読むとさらに良い.ブログとはそんなもので良い.89%の人が日本からのアクセスで、それ以外は国外からの閲覧であった.物好きにもほどがある.いつもありがとうございます.米領サモアやアゼルバイジャンからのアクセスがあったのは興味深い.上の数値が他のブログと比べてどうなのか、私は全く興味がないのでこれ以上の分析はしない.

 最も多く読まれた記事は「症例アンネ・ラウ」であった.この記事の底となったのはブランケンブルクによる「自明性の喪失」であるが、私にとっても革命的な著作であり、猛烈な感興を得ただけに望外の喜びとなった.実臨床においても、私は統合失調症という疾患群に「自明性と非自明性と弁証法的関係の破綻」という病理を再認識できたのであった.

 私は今までの一度も「あぁ、今回は良い記事が書けたナァ」と感慨に耽ることはなくて、「今度もうまくいかなかったナァ」という気持ちで投稿をする.一つの記事は自分なりに相当下調べをして、何度も何時間も文章を推敲しているはずなのであるが、一つとして「満足する文章」にはなった試しがない.投稿してからまもなく誤字脱字を発見するのは一種のジンクスであり、悲しみである.ともあれ、このブログを読んでいる人がどんな素性の方かさっぱりわからないので、各人がどのような感想を抱いておられるか率直に訊いてみたいところである.私にとって満足いかないものであっても、少なからず誰かを飽きさせないのであれば、筆者冥利に尽きるほかない.

 このようなインターネット記事の書き方については、多くの先達ブロガーの方法論が役に立った.まずブログを書くには「誰の、どんな問題を解決するか」という目標を設定することが重要であるらしい.界隈ではこの人称設定をなぜか「ペルソナ」と呼ぶ.これについてはかなり悩んだのだが、さんざん考えた結果、「私自身の、世界に深く根ざしている精神現象、ひいては精神病理の問題を理解すること」ということに行き着いた.いや、行き着いてしまった.私は、広く遍くすべての(日本語を解する)人々のためになるような記事を目指して書いていたつもりが、やはり、結局は自分自身のために書いていたことに気づいた.これは過去の記事「告白」に詳しい.大乗仏教を目指す僧侶が上座部仏教へ転向するような不思議な現象である.ペルソナは私なのであった.衆生救済はもちろん大切なのだが、一方で自身を研ぎ澄ますことが畢竟大切なのであって、この一種の投影とも言える心理的な動きをきちんと受容しつつ、自身の病理と対峙したいと思う.ユング的に言えば、シャドウとの対決とも言えるのかもしれない.

 ブログの広告収入(Google AdSense)に少し言及する.Googleの規約では収益の金額を詳細に述べてはいけないらしい.「株式会社やおきん」の「うまい棒」で例えることにすると、現時点で一般的な浴槽に「うまい棒」数百本以上が入るくらいになった.これではよくわからない、という方は近所のスーパーマーケットに行って、バラ売りの「うまい棒」の単価を調べていただければ金額の見積もりができるだろう.金銭収入を狙ったブログではないのでこれ以上は触れない.

 話を戻すと、精神病理学の問題とはなんだろうか、という問が次に出てくると思う.これは人によって意見が割れるだろうが、私なりの問題を提示すれば、例えば「不安」とはなんだろうか、だとか、「うつ病」とはなんだろうか、という疑問を深堀りすることにある.別の言い方をすると、より解像度を上げるとか、微分する、ということになるのかもしれない.簡単に言えば、もっとよく考えてみたい、ということになる.別に高尚なことをしているわけではない.私にとって生き延びるためには必要なのである.

「お前さぁ、そういう仕事してるんだったらさぁ、『不安』だとか『うつ』を知らないはずがないだろう」

 と誰か偉い先生からお叱りを受けそうではあるが、種田山頭火の言葉を借りれば、精神病理学は「分け入っても分け入っても青い山」であり、知ろうとすればするほどわからなくなる.これは他の学問の求道者でも同じことが言えるだろう.特に精神病理の山は鬱蒼としている.実に「うつ」というのは説明が難しい.私が実際に体験してしまったにも関わらず、である.哀哉.

 たとえ話を考えてみる.「精神医学」という途方も無い山中の道程に分かれ道があったとしよう.どれを選ぼうかと考えてガイドブックを読むと「メランコリの嚆矢、テレンバッハは左を選んだということになっている」、「力動論のヤンツァーリクは右を選んだらしい」、「笠原・木村分類で知られる木村はまっすぐ行ったとされる」、「精神分析家のラカンによれば、一度下山してからやや左向きに進路を取り、更に右に90度向いてから100メートルまっすぐ歩いていったとかそうでないとか……」 

 とにかく私の知らないような学派・学説がゴニョゴニョ存在し、グネグネ枝分かれしていて、よくわからないことになっている.この難解さをどのように形容すべきか.

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
道は僕のふみしだいて來た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何といふ曲りくねり
迷ひまよつた道だらう

高村光太郎、「美の廃墟」より「道程」、一部抜粋、1914年

 道は自分で切り拓くしか無い.しかし登りきった山からの眺望は格別である.一度でも山に登ったことのある人はわかっていただけると思う.ちなみに高村光太郎の「道程」は102行の詩も見事なのでぜひ全文を読んでいただきたい.

知らないことを知らないと言う

 国内外で知名度の高い人が精神疾患を公表する、という事象があると一定の人々はそれなりに無邪気な好奇心と関心を寄せつつ、彼らの関心領域をより広げようとする.病名を公表する、という行動が当人の自由意志に基づくのであればそれは大変勇敢なことであり、公表に至るまで葛藤と逡巡が交錯し緊張に苛まれる日々が続いたであろうと思う.この選択と決断が当事者の事態好転の契機となることを願っている.

 そのことに関して、妻とも議論をしたのだが二人で懸念していることがある.精神科医や産業医、心療内科を標榜する医師・専門家がメディアの取材に応じ、精神疾患について解説を行う場合だ.その専門家が有名人の罹患しているとされる人の疾患について説明する.特に問題なさそうではあるが、一つの陥穽があるように思う.その解説者が有名人の診察を行った人で無い限り、その人について語ることはできないはずである.あくまでも教科書的な概論しか言えないはずだ.その人がどんなに高名な専門家であろうと、その人は当人の一体何を知っているのだろうか、という疑問が生じる.付言すれば、診療に関わった人であれば、当人の守秘義務が生じるため、どの道語ることはできないはずだ.「この人のうつ病は現代人のうつだと思いますねぇ」という発言は全く根拠がない.ただの感想でしかない.その無関係な人物の無責任な発言が流言飛語となってしまうことがあれば、それは災害級の暴力性を持ちかねない.という私の文章もただの感想なのであるから、自己耽溺に陥る可能性は承知している.「語り得ないものには沈黙せねばならない」、ある人の言葉が胸を打つ.

 特に、精神現象を定量する術を知らぬ我々は、人々の病理を症候の観察と記述でしか表現できないのであるから、人が放つ一つひとつの言葉の重みは計り知れない.その計り知れない重さの重みを慮ることのできない人は、私に言わせれば卑劣漢か無能でしかない.知る由のないことは語るべきではない.まずは自身の器量が許す限り、諮問を求める人に自身の能力を注ぐべきだと考えている.一定の影響力を行使する人間はその力の射程を十分に検討しなければならないと、切に思う.

信頼できる先生はいますか

 私が以前の職場にいた頃、医局のボスが臨床実習へ来た医学生への講義で「ぜひ生涯で信頼できる精神科医と知り合いになってください」と言っていたのを盗み聞きしたことが印象に残っている.つまりは「あなた方学生が将来、内科や外科の医者になるとしても、精神科の問題は避けて通れない.だから気軽に相談できて、適切な助言をくれる精神科医と知己になっておくと良いですよ」ということだ.これを聞いた精神科側の自分としては自然と背筋が伸びるような、自律心を鼓舞されるような感覚で、自分が信頼に資するかどうかは私自身のraison d’êtreに関わっているように思った.勝手に私は極めて重要な責務を感じたのであった.

 この言葉は、のちに私にとって別の意味で重要な課題となった.自身が患者として信頼できる精神科の医者を見つける、ということはすごく難しいことであった.一期一会、という言葉よりもより現代的で俗っぽく言えば、ガチャに近い.傷心の中、重い体を引きずってなんとかたどり着いた先の診察室で、信頼できる医師に出会うことができる人は幸運だ.精神科・心療内科クリニック群雄割拠の時代に、存在するすべての精神科医が適当な助言をしてくれるかと問われれば、それは保証し難い.私の根拠なき意見を言うと、その人がどんな大学を出たとか、どんな研究をしたかとか、どんな資格を持っているかは関係がないように思う.資格は持っているに越したことがないが、その人の人情humanityを担保しない.

 *ガチャ:オンラインゲームで導入されるマイクロトランザクション;課金サービスの一つでゲームに登場するアイテムが無作為で提供される抽選の通称.カプセルトイに由来する.

 では、幸運ではない人はそのまま信頼しがたい医師のもとで絶望せよ、というのかというと、そうではないと私は思う.毎回初診料を払うことは癪かもしれないが、条件がゆるせば思い切って主治医を変えてしまった方が良さそうだ.医者への不信感を増長させて新たな神経症を宿すよりも、転医して新しい助言を得たほうが良いかもしれない.するとドクターショッピングという汚名を着せられてしまうのではと恐れる気持ちが出てくる.それはとてもわかる.だがそのような内省が働くのであれば、あまり気にしない方が良い.そんな汚名は「着こなす」くらいのスタンスで良い.初診の度に担当医を変えろとも、別に100点満点の医者を見つけろということを言っているのではない.安心していただきたい.そんな奴は絶対にいない.

 期待∝重圧

 2022年4月から高校の保健体育で40年ぶりに精神疾患に対する項目が復活するらしい.確かに自分の頃は何も教わらなかったな、という気持ちでいる.一体どのようなことを教えるのか、ということについて、平成30年度にされた学習指導要領を閲覧すると、以下のようなことを学習の狙いにしている.

精神疾患の予防と回復
 精神疾患の予防と回復には,運動,食事,休養及び睡眠の調和のとれた生活
を実践するとともに,心身の不調に気付くことが重要であること。また,疾病
の早期発見及び社会的な対策が必要であること。

高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説

 具体的な疾患には、「うつ病,統合失調症,不安症,摂食障碍など」と、四つが挙げられている.個人的な感想を言えば、どれも教えるのは大変だろうな、と心から養護教諭や保健体育の教諭の労苦が偲ばれる.これらの原因ははっきりしていない、というのが厄介だ.

 こうした精神保健衛生の項目を教育することは歓迎される一方、教育側の重圧と負担はいかばかりかと邪推してしまう.彼らは彼らで慢性的な残業を強いられ、調和のとれた実践と心身の不調への気付きが困難なキャリアにいるのだから.労働環境という社会的な対策が急務であることは現場が一番わかっているはずだ.期待や応援したい気持ちはすごくあるのだが、矛盾した命題に挟まれている人々に向かって、外部の人間がヤンヤヤンヤいうのもためらわれるし、複雑な気持ちでいる.

今後とも宜しくお願いします

 さて、いつも通り好き勝手なことを色々書いてみたところで、ここで今回はおしまいにしたいと思う.ゆっくりとダラダラしながら、二年目を過ごすことにしたい.ここまで読んでくださりありがとうございました.

 

 

 

 

 

 

 

 

オパールの輝き

إن شاء إللّه

 ある日、私がいつも通り出勤前にカメたちのいる水槽を訪れて小話をしようと思い、中を覗き込もうとすると、見慣れぬ物体を認めた.白くてツヤツヤしているので、私は「あれ、丸石なんかあったっけな」と訝しんで水面に自分の顔を映した.そこには間抜けな顔をしたおっさんの顔はもとより、ひと仕事終えて疲れた様子の「吾郎ちゃん」と、その時だけはなぜか空気を読んで、吾郎ちゃんに求愛をしていない「三郎(a. k. a. さぶちゃん)」が寄り添っていて、水底にはツヤツヤした美しい卵が転がっていた.吾郎ちゃんはメスで、さぶちゃんはオスだ.

 私はすぐに妻を呼んで、現場確認を求めた.私が確か言ったのは、「卵!ある!ついに!産んだ!」だったと思う.二歳児でも言えるセリフを三十のおっさんが年甲斐もなくはしゃいで、妻とともに吾郎ちゃんが出産を終えた事実を確認し合った.中央に少し橙の帯が入っていて美しい.卵は三つ.どれも均等な大きさで大体3cmくらいだ.

 私は出勤するところであったから、妻に卵の対応をお願いした.帰宅したときには妻はいつも通りうまくやってくれていた.思い返すと産卵前までは、全然食欲がなかったことが気がかりであった.過去に食思不振のために病院へ診察を依頼したことがあったが、その時と少し似ていたように思う.水槽の底を掘り返すような動作を何度も何度も繰り返していて、フィルタの給水ポンプが星の数くらい外れた.吾郎ちゃんは凄まじいパワーを秘めている.六歳くらいの坊っちゃんが舐め腐って指を突っ込めば、たちまちガブリとご挨拶いただくだろう.内出血不可避.鋭い爪は皮膚に食い込んで痛い.私にも容赦しない.でもかわいい.ズドン!バァン!ドン!ダァン!!!と大きな音を立てて、必死に水底を漁ろうとしていたのはおそらく、産卵する場所を探していたのかもしれない.調べてみるとこの時期はクサガメの産卵の時期らしい.どうして吾郎ちゃんはスマホも持っていないのに、暦がわかるのだろうか.本当に頭がいいなぁ、吾郎ちゃんも立派になったなぁと感慨にふけり、自分の生命を削って卵を無事に産んだことを私達は嬉しく思う.いまではバクバクとドイツ製のテトラレプトミンを食べている.私たちが近づくとすぐに察知して食餌をねだるのがとにかく愛おしい.バシャバシャバシャ!!!

 それからと言うものの、みんなで卵の未来が気になっている.カメは単独でも産卵するのである.しかし、我が家にはさぶちゃんというバチェラー?がいる.果たしてさぶちゃんは交尾をしたのだろうか?さぶちゃんが我が家に来た時は、ひどい皮膚疾患のために薬浴をしたり、光線療法をしたり、精神療法や食餌療法を行うなど集学的治療を尽くすほど、万事休すに近い状態であった.今や立派になり、時折脱走を企てて家の壁に飾っているルノワールの「雨傘」の真下で飄々としている.そして水中では事あるごとに、吾郎ちゃんに向かって頭突きを行うのである.頭突きはどうやら愛の行動であるようだ.時折吾郎ちゃんに怒られるが、それでめげるほどさぶちゃんの本能はやわではない.

  晴れの日も雨の日も、仏滅も大安も赤口でも、緊急事態宣言下であっても、さぶちゃんは繰り返し、繰り返し、生殖のために頭突いた.しかし、我々はさぶちゃんが本格的に性交渉に成功したところを目撃できていない.目撃できていないからと言って、成功していないとは限らない.我々が閨で寝静まっている頃、伊邪那岐と伊邪那美がまぐわいを行ったように、生命の営みを成し遂げたかもしれないし、仕事や買い物ででかけている間、昼下がりの情事を行っていたかもしれぬ.とにかくどうであれ、我々はワクワクしている.もし、有精卵なのであれば、二ヶ月ほどで燦々と輝く命の煌めきがふかふかの土から出てくるに違いない.出てこないこともあるだろう.それはそれで致し方ない.どうなるかはすべてان شاء إللّه(if god wills)である.ワクワクできるということは良い.

 最近ワクワクできることはほとんどなかったが、時々このような出来事があると、心の鼓動が高らかに弾む.望外の喜びはなおさら嬉しい.皆さんもなにかワクワクすることが少しでもあればいいと思う.

告白

 このブログをご覧になっている人が一体どのような方々なのか、およそ検討がつかないのですが、私はここで一つの告白をしたいと思います.私の嫌な過去に対する供養の儀式だと思ってください.

 選択緘黙 Selective Mutism

DSM- 5: 313.23 (ICD-10: F94.0)

A. 他の状況で話しているにもかかわらず、話すことが期待されている特定の社会的状況(例:学校)において、話すことが一貫してできない.

B. その障碍が、学業上、職業上の成績、または対人的コミュニケーションを妨げている.

C. その障碍の持続期間は、少なくとも一ヶ月(学校の最初の一ヶ月だけに限定されない)である.

D. 話すことができないことは、その社会的状況で要求されている話し言葉の知識、または話すことに関する楽しさが不足していることによるものではない.

E. その障碍は、コミュニケーション症(例:小児期発症流暢症)ではうまく説明されず、または自閉症スペクトラム症、統合失調症、または他の精神病性障碍の経過中にのみ起こるものではない.

DSM-5 精神疾患の分類と診断の手引

 私はある特定の場面で、話すことができない状態が続いていることに苦痛と疑問を感じていました.それも小学生の小さい頃からです.それは学校ではなく、初対面の人前でもなく、新しい場面でもありませんでした.どこでなのかはご想像におまかせします.頭の中には感情が湧き上がっているのに、言葉が出てこない.ときに真っ白になって言語が創造されないのです.言葉を失う、という表現がぴったりでしう.「要領が悪い」「生きる力がない」「お前はこうなるといつも喋らなくなるな」と言われるのが常套句でした.別に喋りたくなくてそうなるんじゃない、どうすればいいんだ、ずっとそう思っていました.多少は改善されたかもしれませんが、今でも緘黙は出現してしまうでしょう.私が成人するまで、本当にしんどかったのです.ずっと自身がもてませんでした.そして怖かったのです.おそらく緘黙は恐怖と関連づいているのでしょう、不本意ながら私はそれを体験しました.いまでもその体験は無慈悲に現在へと回帰します.フラッシュバックというやつです.フラッシュバックが起こると強烈な希死念慮と、自分を傷つけたい衝動が生じます.お前はそんな状態で仕事しているが大丈夫か、と思うかもしれませんが、私は決して顔には出しませんし、傷つけることはありません.仕事をしているときは全力でペルソナを入れ替えるので、今の仕事には決して支障を来すことはありません.

 私が臨床精神医学の道に進むまで、その疑問は解決されませんでしたが、のちに私は上記の診断基準が妥当のなのではないかと思うようになりました.自分で自分を診断することは決してしませんが、もし私のドッペルゲンガーがいれば「きっとあなたは緘黙で大変なんでしょう」というはずです.それは長く思い悩んでいた現象に納得をさせる一方で、死ぬまで永遠に解かれることのない呪いでもあるように今は思ってます.これは私の感想です.病気で苦しんでいる方はどなたにも早い回復を祈っていますし、精神疾患は適切なサポート下で本当によくなるのです.誤解しないでくださいね.

なぜ精神科医を志したのか

 なぜ私は精神医学の道を志したのでしょうか.それは様々な人々から訊かれることがあります.今でもあります.一つの答えとして「人間に興味があるから」というものをよく使います.それは決して趣味が人間観察です、とか、ヘルシンキ宣言を無視するようなものではありません.もっと詳しくいうと人文科学的な立場で言えばわかりやすいでしょう.「人間の営為がいかにして行われるか、その正常性と異常性の違いとは」といったものになります.それに対する返答は「ふーん」がほとんどで、質問者の意図に沿わなかった可能性がありますが、私にはそれ以外答えようがありませんでした.患者さんを良くしたいという気持ちは当然ありますし、それに対して心血注いでいたつもりです.

 ですが、私はうつ病という病気になって気づいたことがあります.おそらく私が興味を抱いていた人間というのは「自分」だったのでしょう.最も究極的に知りたかったのは自分自身だったのではないか、自分自身を最も癒やしたかった、自分に自自信を持ちたかった、そのように感じています.つまり自己治療的な願望が根底にあった可能性が高いのです.ですがそんな医者が患者さんを助けられるかといえば、そうではないのでしょう.無意識にせよ、自己中心的な私が病魔にとらわれることになってしまうのは最悪の皮肉で、最低な結果で私は自分を癒やすことが叶ってしまいました.本当に最低です.

不条理との葛藤

 私は初期臨床研修を終えてから、精神科専門医と精神保健指定医を取得して精神科診療の王道を突き進み、究極的には精神病理学の研究をしたいと思っていました.精神病理学はこのブログでも散々取り上げている話題ですが、要するに「精神現現象の機構を追求する学問」です.唯一の本質追求の学問です.後期研修として精神病理学で名を馳せたとある大学の医局に入局し、日本精神神経学会の専門医プログラムに入るという、ごく一般的なキャリアプランにありました.

 週四日の大学勤務すなわち外来と病棟勤務、平日の一日は「研究日」と称する外勤日で、関連病院へ外来と当直をする日でした.研究とは何なのでしょうか.ずっと思っていました.研究日とは建前で、要するにバイトを課せられる日なのでした.というのは大学の給与では薄給なので、必然的に相対的に割の良い外勤をして、医者としての帳尻をあわせることが構造化されていたのです.外勤先では勤務先の常勤医にひどいパワー・ハラスメントとセクシュアル・ハラスメントを受けました.申し送りと私への了承なしに、自分の外来患者を私に送りつけるという、倫理的に常軌を逸した行動が続きました.その人物は脅迫的な文章をどうして知ったかわからりませんが私のメールアドレス宛に送りつけてくるのでした.成人以降、私の魂が傷ついたのはおそらくそれが始まりでしょう.もちろん教授や医局長、診療部長、外勤先の病院長に相談をしました.教授は真摯に対応してくださいましたが、外勤先の院長はその人物を擁護する立場に回りました.私の人間不信と権威、精神科医への失望は増していったように思います.私は大いに傷つきました.ですが悔しさと反面教師をバネに臨床に従事しました.とある先生に「あなたは精神医学の何に興味があるの」と訊かれたことがありました.「病理です」と答えると、「えっ?もうそんなの終わってるでしょ」と言われ、虚無感を感じたのを覚えています.後にその先生が開業して、ホームページの自己紹介文で「精神病理学の豊かな土壌で研修し」という文言を織り込んだのを見た時に、非常に落胆し、どいつもこいつもなんてずるいやつだ、と感じたことを覚えています.

 大学病院の当直室もお粗末なものでした.窓はなければ、常にカビの臭いと永遠に片付けられることのない誰かの汚いポルノグラフィティがロッカーにあり、シャワー室は一平米の空間でお湯がまともに出ないし、タオルや石鹸は持参しないといけない.私は贅沢は絶対に言いませんが、これまで勤めてきた病院の当直室の中で最もクソな部屋として表彰したいと思います.私のいた大学は若手を大事にしてくるところではなかったのです.それに気づくことができるにはもう遅すぎました.

 翌年は異動となり、症例経験のために措置入院施設である市中総合病院へ赴任しました.ここが私の王道キャリアプランの終焉の場でもありました.赴任初日に当直があることに驚きましたが、例の研究日に毎週大学へわざわざ出向いて、無給で外来をしないといけないことには閉口しました.労働に対する正当な対価が支払われないことは奇妙なことではないですか.これは私の先輩の先生がなんども上司に窮状を申し立てていましたが、是正されることは決してありませんでした.御恩と奉公のうち、奉公というやつでしょうか.私から言わせればこんなシステムはクソです.汚物以下の悪習です.私が労働契約を結んだのは異動先の病院だけです.大学とは契約を更新していませんし、いつの間にか無給派遣のような取り決めがなされていたのには愕然としました.現在になってこのようなシステムにしているのは私がいた大学だけではないことを知りました.おそらく日本全国でこのような御恩と奉公といった封建制度が存在しているのです.この話は大学病院医師の無賃金医療としてニュースになりましたが、それも例の感染症のもと消えてしまいました.今でも無給で多くの若手医師がこき使われている現状を考えると、悲しい気持ちになります.一日もはやくこのシステムがぶっ壊れねぇかなと祈っています.この問題を年配の医師に相談するのは無駄でした.「人がいないんだ」「俺もやったんだからさ」「患者さんとの関係を保っておくのにはいい機会じゃないか」という同調圧力と意味不明なロジックしかありませんでした.これをパラロジックというのですね.私が病気になってからこうした問題を医局にぶつけましたが、全く是正されることはありません.私が医局を去る理由になった一つです.

 私は不条理や理不尽な問題に対して、葛藤を処理する能力に欠けていたのかもしれません.ですが私の正義がどうしても許せませんでした.代償的行動として、私は仕事をさぼったわけではなく、利他的な行動を取りました.防衛機制の中でも高度な防衛です.目の前の症例には一つ一つ真摯に取り組んでいました.わずかに小康に至ってゆく過程、だんだん笑顔が出てくる過程を見るのが嬉しかったのです.こんな私でも役に立っている時がある、そう思えただけで頑張れるときがありました.その中で患者さんとの関わりが長くなるとどうしても転移の問題が出現し、お互いが乗り越えるまで診察室の場は緊張感を伴います.非常にストレスフルな労働環境の中で私は強力な陽性転移と陰性転移の生じた症例を対応せねばならず.私自身、逆転移が生じていることを理解しつつも、うまく折衝できていませんでした.

前駆期

 日に日に私はいらだちが隠せなくなり、当時交際していた妻にもそのことを指摘されましたが、私にはその頃自覚はありませんでした.妻には大変申し訳なく思っています.常勤先の病院でも常勤医との上下関係で大いに悩みました.そこではすでに常勤医同士で関係性が悪く、空気感が悪い職場でした.いつの間にか伝書鳩のような役割になってしまい、互いの利害調整役になってしまっていました.顕著なのは当直表を作れと命じられたことでした.当直を月に八回や九回入らないといけない状態が続き、当直明けも帰れない状態がつづくと流石に私の精神だけでなく、肉体にも障碍が出てきました.睡眠障碍です.だんだん眠れなくなりました.寝ている途中、悪夢で叫ぶこともありました.そんな馬鹿なと自分でも思いますが、夜驚というのは成人でもあるのだと、また一ついやなことを学びました.そして日中は動悸と悪心が常態化しました.食欲もなくなりました.趣味もできなくなりましたし、休日も病院から電話がかかってくるので、常に緊張感が漂っていました.

 ちょうど同時期、私は交際していた妻と同居していました.それはそれは仕事以外は素晴らしくて、このまま結婚してお互いに支え合えたらいいなと思っていました.妻のご両親には快く結婚を前提にした交際を認めていただきましたが、私の方はそうは行きませんでした.実家で報告をすれば尋問するかのように妻の身辺を延々と訊かれ嫌な気持ちになりましたし「こうでもしないとお前は話さないからな」と言われ「どうせすぐにこどもをつくるにきまっている」「興信所に頼んで身辺調査させる」と言われたときは心底血の気が引き、正直言って失望を通り越してドン引きしました.同棲も事前に話していましたが「そんなことは聞いていない」とされ、そもそも許可を取る話でもないのですがなぜか承認が必要な空気になり、私の責任問題をかなり咎められました.「そんなことだろうと思った」「やはりお前はしっかりしていない」「結婚は絶対に認めない」とされ私は心臓に鉄槌を打ち込まれました.ここで私の持病の緘黙が発動しましたが、妻を貶める発言は聞き逃さずどうしても許せませんでした.反逆の精神が沈黙を破った瞬間もありました.ですが私はもうズタズタでした.もう魂から黒い液体がドロドロと吹き出していて、鉄槌が食い込んで胸がぺしゃんこになった感覚でした.この時点で強烈な希死念慮が私を襲い、離人感を感じ家に帰りました.後に妻のメンタリティを揺さぶりました.妻を落胆させたことを本当に本当にすまなく思っています.それでも私と結婚してくれたことをありがたく嬉しく思っています.

とどめ

 同時期に私の外勤先で無給診療中に、私の車が職場駐車場で当て逃げにあったことが私の魂にとどめを刺しました.満身創痍で駐車場に向かうとフロントバンパーが惨めにもズタズタのぺしゃんこで、私の心とよく似ていました.「お前もズタズタになるなんて……」無機物の中で唯一感情を注いだ大事な大事な家族である車を当て逃げされたこと、それが自分の所属している職場の誰かであること、その人物が罪から逃げたという事実、責任感のあるはずの医療職が逃げたという事実が私の人間不信に決定打を与え、人間の潜在的な悪を心底恨みました.駐車場の監視カメラに写っているのでしょうが、私はすでに憔悴していて、犯人探しをする気力がなかったのです.警備員が目撃していたのですが「カメラに写っているか見てみます」とか行ってくれるわけでもなく、非協力的でした.私は絶望の連鎖でもうとにかく休みたくて、休みたくてしかたがなかったのです.吐き気のする職場から去って、一刻も早く妻の元に行きたかった.私にとって唯一の救いは妻でした.妻は私を慰めてくれて一緒に怒ってくれました.同時に悲しませてしまいました.

 そしてとうとう私は発病しました.これは必然でした.全身を気だるさが覆い、無気力が私を支配しました.鉄槌で打ち込まれた傷がうずくように、胸が痛みました.息が苦しいような、焦燥感と閉塞感が私を包みました.何もできない.本当に何もできなかった.とんでもないことをしてしまった.とりかえしのつかないことをしてしまった.もうだめだ.死んでしまうしかない.さてどうやって死のうか.死ぬにも死ぬ気力がわかない.そういう観念が私を無限地獄の中で延々とループしました.日本精神病理学会で発表するはずの演題も全く完成しておらず、焦りと狼狽が湧きたちました.外から見ればただの屍ですが、脳内は異常な神経伝達物質の嵐だったでしょう.冷めていて中は熱いような状態かもしれません.学会はお流れになりました.以来、私は半端ものになってしまいました.キャリアも中途半端で終わってしまいました.病気を理由に医局を辞めましたが、本意はやはり別にありました.

法律事務所を設立

 ある日、妻が、私が亀が好きだったことを覚えていてくれて、もう一度亀を飼ったらどうかと言ってくれました.それが救いでした.ようやく私は体を動かして、新しい家族に出会うことになりました.それが吾郎ちゃんです.のちに三郎、さぶちゃんが加わり、にぎやかになりました.妻とこの二頭がいてくれて私は救われました.今でも吾郎ちゃんとさぶちゃんは私の大事な大事な家族です.そんな二頭にあやかってブログ「亀吾郎法律事務所」を作り、改名して今のブログに落ち着いています.好き勝手にものを書く楽しさを知り、いろんなことを勉強する動機づけになっています.これは大変ありがたいことです.これを助言してくれたのは妻でした.感謝してもしきれませんね.

最後に

 この告白はある種の告発でもありますが、もう一つ目的があります.決して怨恨のために書いているのではないことをお伝えしたいのです.こうして定期的に過去の記憶と対峙していくことで自分の感情を整理する狙いがあります.墓参りと同じものだと思えばいいのかもしれません.私の発病した日はある意味、私の命日です.○周忌と冗談を言うこともありますが半分本気なところもあります.喪の作業をちゃんと行うこと、私の歪んだ魂の供養を定期的に繰り返すことで、いつしか私の心は癒えるのかもしれません.瘉えないかもしれません.期待はしすぎないことです.私は今は転職して今はなんとか仕事を続けられていますが、これも供養の一貫だと思っています.先に述べたように私はおそらく精神科医を続けるべきではないような気がしています.かつてのキャリアプランは私にはもはや無理な感じがするのです.あの不条理をもう二度と味わいたくない、そういう気持ちでいっぱいです.かといって転科して他の医学を勉強するモチベーションは欠けていますから、別の方向性を模索しているところです.私の心には「要領のなさ」と「生きる力のなさ」が徹底的に刷り込まれているために、なかなか自己肯定感と自尊感情(セルフ・エスティーム)が芽生えてきませんが、これからは別の方向性で自分を癒やしていきたい、そう思っています.

 もし周囲に傷ついている人がいれば、それがあなたにとって近い人であれば、ときに駆け寄って支えることも必要ですが、それがかえってその人をひどく苦しめることがあります.良かれと思ってなにか行動することが毒になるのであればそれは偽善になりうるのです.自分がもたらす影響がどれだけ大きいか、自分の言動が当人にとってどのように作用するのか、それはよく吟味する必要があると思うようになりました.寓話「北風と太陽」が象徴的かと思います.私はもし医者を辞めたとしてもやはり太陽の立場になって遠くからポカポカと旅人を照らし、暖める側になりたいものです.自戒の意味を込めて.

 

 

投稿百回目に思うこと

Photo by Jonas Ferlin on Pexels.com

誰のどんな問題を解決するのか

 実は亀吾郎法律事務所のブログを開設して今回で百回目の投稿になる.これまでの間、何を書こうかなと考えているうちに身構えてしまい、なかなか記事を書くことができなかった.変に気負ってしまってはいけない.なにを書けばよいのかと事務所のスタッフに訊いてみたら「百回目はおめでたいのだから、めでたいことを書けばよい」という.うーむ.めでたいことが思いつかない.世の中で報道される時事でめでたいことも少ないように思う.やはり世界中がウィルス感染症の話題でもちきりだ.ウィルスの話はたくさんだ.亀吾郎法律事務所は誰にとっても平穏で心安らかに過ごせる場所であるべきだ.だからウィルスの話はしない.

 最近、私、吾郎が考えている話をしたいと思う.私が何を考えているかというと「亀吾郎法律事務所」の方向性に関する問題である.ブログを開設してから実にたくさんの方々に来ていただいた.まずこのことについてお礼申し上げたいと思う.いつもありがとうございます!亀吾郎法律事務所は「法律に門外漢」といういい加減な副題を掲げて精神医学、哲学、語学や一部社会学、芸術について自分の考えを論じてきた.放埒と言われてはやや閉口してしまうのだが、私達自身は自由奔放に記述することができ、スタッフの精神の安定に大きく寄与したように思っている.今後もこの奔放さを継続して自由に言論活動を行っていきたい次第である.

 その方向性の中で私がこの頃気にしているのは「このブログの需要とはなんぞや」という問題である.「いやいや、こんな弱小ブログ、だれも求めてないぞ」という辛辣なご意見は当然あるだろう.それはそうかもしれない.さきほど述べたように、この記事は好き勝手に筆を走らせて記載したにすぎないのだから「このブログの記事が向かう先は画面の向こうの読者」とうそぶいて実は自分のために書いているのだ、と指摘されても否定はできない.ブログの志向性が自己に向かっているというわけだ.記事を書いてカタルシスに浸るのも、読者に志向しているのではなく、実は深層で自分に向けて記事を書いていたのだから究極は自慰的な要素があったわけだ.

「なんという卑劣漢.人非人!なんだかんだいって貴様は自分の事しか考えていないわけか.人でなしめ!悪辣な屑よ」

と罵るのも結構であるが、前述を踏まえたうえで内省を深めてみると、次のようなことを思いつく.確実ではないのだが、間主観的(広く言えば客観的)に考えてみれば、我々と同じブログを書く人々や、物書きというのは文章が他者へ開かれている一方で、それが志向するところはすべからく自己を向いているのではないだろうか、ということだ.それはときに自己治療的であったり、自己愛であったり、自己耽溺、自己欺瞞でもあるように思う.私達が広告を貼り付けてブログを投稿するのは、内心広告収入を得たいという利己主義に基づく行為であるし、たまたま広告主と利益が一致しているだけだ.誰でもやっぱりお金はほしいのだ.誰が読むかわからないのに、誰も来ないかもしれないのに、私のような三文記事を延々と書き連ねるのは、真の利他的な聖人か、平凡で利己的な俗人でしかない.

 こういうことを書くと、他のブロガーの顰蹙を買ってしまって「いいね」がもらえなくなってしまうかもしれないのだが、それはそれで結構なことだと思う.ある意味私の企てが成功したといえる.

 もう一度話をもどそう.私達スタッフは「このブログは誰のどんな問題を解決するのか」ということを考えている.しかしつまるところ志向性は自己の欲望へと行き着くのだという見解に我々は達した.とはいってもその中間項に他者=読者がいるのだから、仮に建前であったとしても、自己の欲望が他者を介在してでも、「誰かの問題」を解決できればいいな、と思っている.本当に.

 そこで亀吾郎法律事務所は以下の二点について考えた.このブログの目指すところ、すなわち理念といったところである.まずは「誰のどんな問題を解決するか」という問に対して、私達は次のように考える.

「社会から疎外感を感じる人々、居場所をなくして困っている人、生きづらさを抱えている人」の、「自分の弱さを冷静かつ真摯に受け入れたい、学術的に理解したいという願い」をユーモアとともに解決するブログ

と銘打つことにしたい.そしてもう一つは、

(社会通念上健全と思われる方向性において)圧倒的に個性的で突き抜けた記事を目指すこと

である.いかがだろうか.このようにした理由の一つに、自分自身もそのような思いを体感していること、広い意味で類似した思いを抱えている人々がどのような心情を抱いているかをよく理解したいという考えがある.それを扱うことによって、単なるブログ執筆に終始しないという自律心が芽生えるし、自身の勉強、記事執筆の動機づけにもなる.そして記事の内容は自分の信条を貫いたものかつ、超絶怒涛、個性あふれるものを目指したいという野心に基づいている.私は医学の出自であるものの、人文科学寄りのテーマに親和的な傾向があると思っている.精神医学という分野の中でとりわけ自然科学とはいえない領域を扱うことによって、インターネットの世界でも明るみにでなかった部分に光を照らすことができるのではないかと思っている.特に精神病理学の役割は大きいのではないかと思う.私が知る限り、精神病理学の文献は非常に難解で文章が硬い.こうしたところがこの学問を高潔にする一方で、とっつきにくさを出してしまっている印象がある.私は私なりにこの学問に理解を示しつつ、若気の至によって何らかの方法で茶化してみたり、現代の流行や事象を例えを用いてこの学問への抵抗を減らして行ければよいかと思っている.また、英語を主とする外国語の翻訳や鑑賞を通して、語学の勉強を行うことや、文学の紹介と通じて、亀吾郎法律事務所の新境地を開拓できたら嬉しい.実際、以前投稿したエジプトのポップ音楽はなかなか好評だったように思う.また、「フォン・ドマルスの原理」の紹介も思いの外、表示数が多かった.

 記事を百書いて、ようやくブログの方向性が見えてきたように思う.先達のブロガーたちが「つべこべ言わず記事を百は書け」という理由もなんとなくわかるような気がする.私達、亀吾郎法律事務所はスタートラインに立ったばかりだということを知る.

 事務所スタッフは「めでたいことを書けば良い」ということだったが、「目出度い」記事ではなく、「愛でたい」記事になってしまった.期せずしてブログ投稿百回目の内容はこれから私達がどのような記事を書いてゆくか、という所信表明のようなものになった.

 これからも亀吾郎法律事務所をよろしくお願いします.私達は「社会から疎外感を感じる人々、居場所をなくして困っている人、生きづらさを抱えている人」の、「自分の弱さを冷静かつ真摯に受け入れたい、学術的に理解したいという願い」に応えられるよう、日々面白おかしく、楽しく記事を投稿し続ける所存です、私達は旅人を吹き飛ばす北風ではなく、ぬくぬくと暖かく旅人を照らす太陽でありたいと心から思っています.

 

英語学習についての個人的見解

楽しくやれたらいい

 自然科学において、最も根拠のある主張、すなわちエビデンスが高いものというのは、メタアナリシス研究に基づく結果だという.その下には無作為対照研究(Randomised Control Trial: RCT)がある.さらにさらに根拠の低い試験や研究があり、最も根拠のないものは、(実は)専門家の意見である.だから専門家の意見をあてにするな、とはいわないが、「自分で取捨選択せよ」ということになる.逆にメタアナリシスの結果で帰無仮説が棄却されたからといってその仮説が正しいわけではない.尤もらしいだけだ.こういった誤解は現代でも続いている.ちなみに私は自然科学の畑を出自に持つが、「尤もらしい」とかいう妙な曖昧さが好きでない.

 さて、私がこれから話すことは自然科学の領域ではない.そもそも自然科学と人文科学というのは境界不明瞭だからあまりそういう話をしても仕方がない.エジプトとリビアの間に南北の直線を引いたようなものだ.どちらかといえば人文科学の話をする.私は亀吾郎法律事務所の職員に過ぎず、英語の先生ではない.専門家でも無い.だから自然科学の序列に従えば、この話は最も信憑性がないことになってしまう.「自分から信頼度をさげるとはやはり愚か者め」とお思いの一部諸兄は、落ち着いていただきたい.この論理でいくとあらゆるYouTubeの投稿者が熱く持論を語る行為がすべて虚しくなってしまう.だがそうでは無いだろう.私は、個人的な経験を未来の他者と分有できるか、可能性に賭けてみたいだけだ.

私の話から

 私にとっての初の語学体験は、公文式の英語のときだったと記憶する.単なるCDプレーヤーから流れる英文を聞いて、適切な回答を記述するトレーニングを要請された.

 小学二年生か三年生だったか.「あぁ、今日も洒落臭えなぁ」と思って課題をこなしていたところ、全身を駆け巡る極彩色の電撃が一閃.次の英文を書いた.

The hill is high.

私は英文から並々ならぬ霊感を受けた.

「今、自分は文章を作ったぞ」

という猛烈な興奮.当時の自分にとっては第二文型などどうでもよかった.傍から見れば、「いつもぼーっとしている〇〇くんがなんだかニヤニヤしているな、大丈夫かな」くらいだ.しかし、私は独自に創造という営為を成し遂げた、ホモ・サピエンスを自称するに等しいくらいの感動と自負に満ちていた(後にホモ・サピエンスは撤回した).

 この感興は忘れがたい.私に「自分史」というものがあれば間違いなく、世紀の大事件だった.そこから私は狂ったようにCDプレーヤーを再生した.そして聞きすぎて幾つものプレーヤーを破壊した.

 中学一年生の頃にはちょうど、「生き残った魔法使いの少年」が大人気になりつつあるころだった.私は「賢者の石」を一晩で読み終えたが、生ビール中ジョッキ一つでは足りないおっさんのように物足りなかった.実に見事な翻訳だった.どうやら本国では次回作「秘密の部屋」が出ているらしい.私はウズウズした.

「そうか、原著を読めばよい」

 早速あの手この手で入手し、「Philosopher’s Stone」を読み始めた.一頁目から苦戦した.当時の自分には知らない語だらけだった.文法もよくわからない.一文、一文を辞書を引いて、引いて、引いて、引いて、引いて、引いて、引きまくった.辞書とは今でも良き友人だ.中学校では朝の十五分間に読書の時間があった.辞書と本を持ち込んで、辞書を引く作業を続けた.辞書を使い倒す習慣が始まったのはこの頃からだろう.現在辞書はほぼ電子化した.Macintoshのパソコンを使っている方は、「辞書」のアプリケーションをぜひ利用していただきたい.大変優れた名脇役だ.私がブログを書く時はこれが欠かせない.中国語、韓国語、ドイツ語、フランス語、スウェーデン語、ノルウェー語、イタリア語、ポルトガル語、アラビア語……類語辞典も一部あるのが良い.

 話を戻そう.第七巻の最終章にたどり着いたときは魂が震えたものだ.その時には大学生になっていたと思う.そこまで時間がかかったのは他にも本を読み始めたからだ.幼児のころに絵本で読んだ「ガリバー旅行記」がとてもとても面白く、原書で読んでみようか、と思い書店で買って読んだときの打ちのめされた感覚も忘れがたい.知っている方ならわかるが、初版が1726年だ.読めなくはないが、古めかしく知らない単語がこれまた並ぶ.私はスラスラ読んで、ガリバーとともにリリパット王国にたどり着き、彼が巨人として火事の宮殿に小便をかける場面を読みたいと思っていたのに、なかなかリリパットにたどり着かなかった.「ガリバー旅行記」は途中で諦めてしまった.受験勉強も差し迫ってきたという事情もあった.Johnathan Swift(ジョナサン・スウィフト)の作品に込めた真意を知るに私は青すぎた.

自分に合う参考書を選ぼう

 やはり、私にとって天啓であり革命とも言える出会いは原仙作の「英文標準問題精講」に尽きる.間違いなくRevelationでありRevolutionだった.今でもズタボロの雑巾のように大事に取っておいている.時々見返してはニヤニヤするし、英文を書く時の参考にする.ヘミングウェイ、ラッセル、エリオット、ウルフ、チャーチル、アインシュタイン、ニュートン、フィッツジェラルド、ミルン、オールビー、ミルトン.

 皆、私の心強い協力者である.故人だが.

 この本が私を受験勉強の苦しみから助けてくれたといっても良い.とはいえこの本は圧倒的に手強い.一般的な日本の大学入試のレベルを超えるだろう.だが、TOEICやTOEFLのひどくつまらない英文を読まされるよりは、はるかに気休めになる.「私が」文を読んでいる、という気にさせる.なんとか理解してみせようぞ、という気概をもたせてくれた.そして文の構造がつかめたときの心地よさといったら.当時の先達が「覚えるくらい何周もしろ」というので私も少なくとも三週はしたはずだ.一周目でつまづいた文章にまた出くわすと、まるで著者たちが「おかえり」と言っている気がしたものだ.

 私はTOEICのような共通試験のスコアで競り合うような議論は好きではない.私もTOEICやTOEFLは何度か受けたが、できればもう受けたくない.就職、入学の足がかりとして用意されるその試験は性質上、「ビジネス」に即した内容が多い.広告、新聞、メール、インタビューなどが題材になっている.どれも架空の内容で全体的に虚無感じるのは私だけか.「試験とはそういうもんだ、おとなしく口を閉じてろ、馬鹿者め」というお叱りがあるかもしれぬ.だがつまらない文をつまらないといって何が悪いのか.作成者の顔が見えない、というのがどうも気に入らない.「はいはい、委託されたのでとりあえず作っておきましたよ」というやっつけ感を感じてしまう.

 それに比べ、英文標準問題精講は、裏表紙に引用元の著者の写真が並んでいる(モノクロのせいか、遺影の様にも見えてしまう).誰某が書いている、とわかるのはとても良い.もちろん出典もある.だから後でさらに読みたくなった時に書店に行けば良いのだ.それに彼らが心血を注いだであろう、文章に見られる技巧、散文へのエネルギーが感じられる.それから編集者である原仙作・中原道喜の訳と解説に安定感がある.

 私にとって、名文や名著とそうでないものの違いを厳格に述べることは出来ない.だから上記の意見は誤解かもしれない.しかし、TOEICなどの勉強は問題の解き方を覚えるだけのような、手段が目的となってしまう危険に陥りやすいと思う.TOEICの先にある目的があれば、努力するに越したことはないだろう.楽しくやれたらいい.もし書き手の顔、意思を感じられるような時事の話題に触れたいのであれば、英字新聞をおすすめする.私は現在、Japan Timesの電子版を購読するようにしている.六ヶ月間の月額百円キャンペーンをやっている.よかったらどうぞ.もちろん利益相反はない.

文法について

 非専門家である私から、英文法について述べられることを挙げるとすれば、一つは、「文型」を意識して読むことだ.これはかなり重要な要素で、おろそかにしている人が多い.もう一つは「これは口語的だとか、文語だからあまり使わない方が良い」という意識を持ちすぎないことだと思う.この軛のせいで損をしている人は多いように思う.文語で書いて何が悪い.会話も文語を基礎にして何がいけないと言うのか.「表現が固いじゃん」固くて何がいけないのか.「もっとCasualな表現あるからそっちのほうがいいよ」という指摘は、表現の幅を自ら狭めているCasualtyに過ぎないと思う.それからまともな文法書を買うことが大切だ.私はロイヤル英文法を持っているが、単色刷りのシンプルな構成と大きな字、索引の充実は好感が持てる.一冊あれば一生使える.これで二度と買わなくて良いのだ.作文や文法について参考書を紹介するならば、さきほどの中原道喜や佐々木高政を挙げる.

聞くことについて

 聞こえた文章を書き取る訓練が最も良いように思う.これは筆記の練習にもなる.かつて私はディクテーションの鬼となったことがあった.「The Phantom of the Opera:オペラ座の怪人」という映像作品がある.小説や劇でも有名だ.Andrew Lloyd Webber という作曲家が映画に向けて書いた曲(どれも壮大だ)があり、私は当時、高校生の頃、自宅にオペラを響かせて歌詞を聞き取り、自作で歌詞カードを作ったことがあった.何百回か、延々とオペラが鳴り響いていたので頭がおかしくなりかけたが、語と語の連結を推測したり、発音と抑揚、文章の構造を考える上で良い訓練になった.オペラの歌詞を聞き取るだけで難易度が高いので、後々流行りのポップスやロック・ミュージックを聴いて歌詞を書き出しては、後日公開されている歌詞と照合する、という遊びをやっていた.高校生にしてはそこそこ狂っていた(やっぱりおかしくなっていたじゃないか!)方だが、自分は楽しんでいたと思う.この訓練は多言語でも応用が効く.今度はアラビア語でやってみようか.

話すことについて

 話すことは不肖あまり自信がない.発音と抑揚の付け方は幾分か指南できると思う.ただし私は非専門家だから、最も信頼におけない人材であることを断った上で話をする.発音に関して、海外で暮らしていないと発音が上手にならないのではないか、そう思っている人が多すぎて気の毒である.そんなことはない.小林克也という反例がいる.彼は大変きれいな英語を話すラジオDJで、彼は実に堂々と、崩れた英語を話す海外の連中と会話を成立させる.あっぱれである.彼の流暢さは抑揚の置き方にある.山下達郎もきれいな英語を話すと思う.Ride on Time〜

 また、RとLの違いにこだわりすぎる人が多い.聞き取れるに越したことはないが、初学者には酷だ.そういう人はイギリス英語を身に着けたら良いのではないか.Rの発音があまり気にならなくなる.それに子音をしっかり発音するので、文字と発音が一致して、きれいに聞こえる.私は中学生くらいに気づいてそうすることにした.かつてユース・ホステルの相部屋にいた英国人の青年と話をしたときに「君はいいイギリス英語を話すね」とお世辞を言われたのは良い思い出だった.あれは世辞だ.自慢話はこれくらいにしよう.

 先天的なバイリンガル、すなわち幼少期に外国に滞在したという、外国語のOSをインストールできた人々は外国語を話す時に脳内言語設定が切り替わるようだが、私はそうはいかない.だが、切り替わらなくたって良いじゃないか.言語体系の異なる我々が頑張って、別の言語を覚えようとしているのだ、文法がわかるだけでも素晴らしいと自信に思ったほうがいい.私だったら頭の中でおちおち英作文をする.ゆっくり丁寧に考えたら良い.

まとめ

 大した話はできなかったが、自分の主張は伝えられたのでこれでよしとする.結局は「学問に王道はなし」、ということになる.しかしながら原仙作によれば捷径はある.だから嘆かないでほしい.楽しく突き抜けるのがいいと思う.自分にとって親和性の良い題材を選ぶことが良いだろう.

 最後にミルトンの詩を紹介して締めよう.これは以前の亀吾郎語学教室でも引用した.語学を勉強する時はいつもこれを意識する.我々は地獄から這い出ようとする魔王サタンと同じだ.

Long is the way

And hard, that out of Hell leads up to Light.

Gates of adamant,

Barring us out, prohibit all ingress.

–John Milton, Paradise Lost

私の小論にお付き合いくださりありがとうございました.

The Book of Tea: 20

Acknowledgement

謝辞

訳者あとがき

 かねがね私は「訳者あとがき」というものを書きたいと思っていた.ついにその日が来るとは!私にとって初の長編翻訳の完成だ.訳者あとがき、と記すことができ、大変光栄に思う.すごく嬉しくて感慨深い.

 読者の方はどのように感じてくださっただろうか.拙い翻訳だと思われるのも無理はない.天心の英文が素晴らしいと感じてくださったなら、訳者冥利に尽きる.私の目的はほとんど成就したと言ってよいだろう.彼の「茶の本」は七章に分かれている.どれも彼の知識の奥深さを語り、日本文化が海外に正しく評価されていない怒りと、自国ですらも理解されていない嘆きを冷静に、しかし情熱的に語る.

 天心は若くして英文に親しんだ.Ernest Fenollosa(アーネスト・フェノロサ)と知り合い、助手として彼の美術品収集に助力したことはよく知られている.英語との親和性が高い彼の描く文学世界は、美しく格調高く、しめやかであると思う.特に最終章は圧巻である.利休の死を描く最期の茶会は私にとって、彼がやはり日本人なのだと強く思う特徴があった.

 利休が門弟を招いて、彼らが待合に入った瞬間.時制が現在に回帰するのだ.詳しくいえばAs they look into–からである.これまでの評論はもっぱら過去形で説明を行ってきたのだが、この利休の最期の描写は、弟子たちの悲しみと緊張感に溢れる空気感をリアルタイムで説明するものである.

 この時制に関する日本語の特性は、以前の記事で紹介した.せっかくのなので再度掲載しておこう.

 敢えて出来事を時制変化を用いずに表現することは、特に我が国の文学的物語(narrative)の特徴として、多いに知られているものである.日本語について述べれば、そもそも日本語の文法は現在、過去、未来を鋭く区別しない.

 心のうちに祈念して、目を見ひらいひたれば、風も少し吹よはり、扇も射よげにぞなったりける.与一鏑をとってつがひ、よっぴいてひやうどはなつ.

 上記は「平家物語」において、那須与一が沖の波間に揺れる小舟に差し出した扇を海岸から射落とす場面である.過ぎ去った出来事を語りながら、現在形の文を混入させて臨場感を作り出す技法ははるか以前から知られている.矢を放つ主人公の動作のみが現在形である.神仏への祈念と風の静まりから決定的行動へ移る描写の現在形は際立ち、その一瞬の光景を浮かび上がらせる.これは決して暴力的というわけにはいかないだろうが、一気に読み手、聞き手を引き込むという点で、強力な誘導である.強制力を持つわけである.

 一方、近代ヨーロッパ語の場合は、動詞の語尾変化や助動詞と動詞の併用により、出来事の過去・現在・未来を、文法的に明示する.その中でも厳格な文法から一定の緩みを見ることができる.以下の例文を示す.

Alors, une idée l’exaspéra. C’était une saleté que ces dames voulaient lui faire en se conduisant mal chez elle. Oh! Elle voyait clair! …

Émile Zola, Vuillaume, 1876

 その時、一つの考えが頭をよぎって彼女は激しく苛立った.このご婦人方は、彼女の家で無作法に振る舞って、嫌がらせをしたんだ.ああ、はっきりわかるわ.

Dora stopped listening because a dreadful thought had struck her. She ought to give up her seat. She rejected the thought, but it came back. There was no doubt about it. 

Iris Murdoch, The Bell, 1958

 ドーラは恐ろしい考えが急に頭に浮かんできて、会話に耳を傾けるのをやめた.私が席をゆずるのが当然だわ.ドーラはその考えを打ち消したが、再び考えは戻ってきた.譲らなければならない.

 上記はいずれも登場人物の意識にのぼった考えを描出した文である.仏文では自由間接話法(Discours Indirect Libre/Style Indirect Libre)とよび、英文では描出話法(Represented Speech)ともいう.こうした技法を意識の流れ手法(Stream of Consciousness Technique)と呼ぶようである.このような技法は伝達動詞の支配から自由になる話法であるが、時制は必ず間接話法と同様に照応を求められる.時制は自由にはならず、時制が日本語のように読者を現在へ引き込むのではない.読者・聴者の意識が、あたかも作中の登場人物の意識であるかのように、過去へ誘うのであろう.強い言い方をすれば過去へ引きずり込むのだろう.

「記憶/物語」を読んで 2

 寡聞にして私は、時制のゆるい英文表現をこれ以外に知らない.おそらくあるのだろうが、限定的なのだろうと思われる.岡倉天心が日本人であるからこそ、彼以外に為し得ない日英ハイブリッドとも言える文学的表現の醍醐味を私達は味わうことができる.少なくとも私はそのように理解し、心躍らせながら作品を読み、翻訳をした.もう一度是非ご覧いただこう.In art the Present is the eternal.という句が沁みる.

–On the day destined for his self-immolation, Rikiu invited his chief disciples to a last tea-ceremony. Mournfully at the appointed time the guests met at the portico. As they look into the garden path trees seem to shudder, and in the rustling of their leaves are heard the whispers of homeless ghosts. Like solemn sentinels before the gates of Hades stand the grey stone lanterns. A wave of rare incense is wafted from the tea-room; it is the summons which bids the guests to enter. One by one they advance and take their places. In the tokonoma hangs a kakenoma, –a wonderful writing by an ancient monk dealing with the evanescence of all earthly things. The singing kettle, as it boils over the brazier, sounds like some cicada pouring forth this woes to departing summer. Soon the host enters the rooms. Each in turn is served with tea, and each in turn silently drains his cup, the host last of all. According to established etiquette, the chief guest now asks permission to examine the tea-equipage. Rikiu places the various articles before them, with the kakemono. After all have expressed admiration of their beauty, Rikiu presents one of them to each of the assembled company as a souvenir. The bowl alone he keeps. ‘Never again shall this cup, polluted by the lips of misfortune, be used by man.” He speaks, and breaks the vessel into fragments.

The ceremony is over; the guest with difficulty restraining their tears, take their last farewell and leave the room. One one only, the nearest and dearest, is requested to remain and the end. Rikiu then removes his tea-gown and carefully folds it upon the mat, thereby disclosing the immaculate white death robe which it had hitherto concealed. Tenderly he gazes on the shining blade of the fatal dagger, and in exquisite verse thus addresses it:

 すべて時制は現在形なのだ.天心はおそらく、このことを意図して書いたのではないか.だとすれば天心は大変な才覚を忍ばせている.ずるいというか恨めしいというか.利休の門弟が入室した瞬間に、時制が現在に回帰するのだ.私達は、利休とその門弟との最期の茶会に参席しているような臨場感に包まれる.ぐいと一気に引き込まれる.そして利休が自刃する瞬間までもが、現在にある.そう、自刃し、辞世の句を読むまでは.

“Welcome to thee,

O sword of eternity!

Through Buddha

And through Dharma alike

Thou hast cleft thy way.”

With a smile upon his face Rikiu passed forth into the unknown.

 利休の絶唱は原文では以下のものとなる.

人生七十 力囲希咄 吾這宝剣 祖仏共殺提る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛

「力囲希咄」(りきいきとつ)とは「腸をしぼって思わず発する一喝、一声」を言う.唐木順三をして「㘞地一声の怒電」というようである.静かな諦念とは相容れない激しい気負いなのだという.

「㘞地一声の怒電はまさに対立の頂点であったが故に、その故を以て対立を超える」

 これはヘーゲルの弁証法的な考えに通ずる命題である.

 あまりイメージがつかない人は、武論尊による「北斗の拳」が大いに参考になるだろう.ケンシロウに経絡秘孔を突かれ敗北する人々は「あべし」、「ひでぶ」といった声をあげて死亡する.これこそ力囲希咄、㘞地一声の怒電であろう.形容しがたい声とでもいうのか.断末魔の叫びともいえる.この声を以て人は死を、諦念を超越しようとする.

 だが、天心の英文にはその「力囲希咄」に相応するものがない.なぜか.様々な訳者のあとがきにもその考察がある.決して、天心にとって利休の死は弁証法的な対立がテーマではなかった.止揚することが本意ではない.利休が彼岸へ渡ることで、

Harmony with the great rhythm of the universe

となることが重要なのであったという.私も強く同調する.天心にとって死の超克などどうでもよかった.従容として死を受け入れ、永遠の世界へ潔く旅立つことを良しとした.それが日本人の、日本文化の真髄なのだと.これは手塚治虫による「火の鳥」が理解の参考になる.登場人物は皆生への希求が甚だしく、死を恐れる.しかし、火の鳥は死を恐れず、一つの超生命体ともいうべき「コスモゾーン」への融合を受け入れるよう優しくも厳しく諭す.おそらく、天心の思い描く世界はこの「コスモゾーン」への融合、死との融和であった.幸いにして、この思想は引き継がれた.

 しかし、不幸にして天心は敗北した.西洋文明の怒涛のロジックに負けた.もちろん、我々も負けた.死をいたずらに美化する我が国の虚飾が作られた.圧倒的な敗北だ.作品には天心の諦観が、ペシミズムが浮かばれる.そして、我々の中に、私のようなものが天心の心情に投影を果たす.だから、天心の労苦は無駄ではない.天心は負けたが、彼の理念は生き続けている.この作品も宇宙の偉大な調律に調和し、世界中で愛され続けているのだ.私もこの調律に調和すべく、拙い翻訳を行ったわけである.翻訳の質としては敗北だが、これはこれでよい.こうして皆さんにお届けできたのだから.

本当にありがとうございました.

帰納と演繹、アイデンティティ

音楽の嗜好について

 亀吾郎法律事務所のごろうちゃんとさぶちゃんの間で、奇しくも一致した見解がある.今回はそれについて話をするとともに、世の中の難しい質問に対するトラブルシューティングを試みたい.


「好きな音楽は何ですか」「最近何聴いているの」

と訊かれるとやや返答に困ってしまうことがないだろうか.

「ウ~ン、IncognitoやJamiroquaiのようなアシッド・ジャズかなぁ」「何聴いているって言われても新旧の曲だからなぁ」「Nile Rodgersのような楽曲もいいかも」「うん」

 熱烈なファンや説明がうまい人でない限り、「好きな音楽」を説明することは難しいのではないか.ジャンルを答えればいいのか、アーティストを答えればいいのか.曲名なのか.演奏のとあるパートなのか、声なのか.

 例えば、さぶちゃんはPost Maloneの”The Circles”という曲が気に入っているが、決して他の曲が好きなわけではない.ごろうちゃんはHiroshi Watanabeの“Get it by your hands”という曲がフェイバリットなのだが、他の曲に詳しいわけではない.

 要するに「へぇ、Post Maloneが好きなんだ」と誤解されたくないのである.せっかくのいい声なのにライブ中も喫煙しているので、肺がんや喉頭がんなどの発がんリスクが高くて医療人としてヒヤヒヤする.歌手生命が危ぶまれる.さらにはいつの間にか入れ墨だらけになってしまい容姿も正直に言えば、怖い系の人になってしまった.発言の途中に必ず、Fで始まる用語を使うので、無作法な人なのかなと心配になる.つまり、人柄には惹かれない.歌唱力は抜群だが、他の曲に対する感動はそこまでとはいかない.とはいっても、”The Circles”は歌詞もメロディも郷愁を誘う美しいロック・ミュージックだと思う.

 つまり、もっと簡単にいうと、質問者が勝手に帰納的結論を導かないでほしいと思うことがある.前提が真だからといって、結論が真では無いのだ.ごろうちゃんが「虹」が好きだからと言って、「電気グルーヴ」が好き、ということにはならない.

 では、「ロック」が好きなのか、と言われるとこれまた難しい.ロック・ミュージックは多義的過ぎる.ごろうちゃんとさぶちゃんは、面倒くさがりなので「そうです」と答えるそうだ.相手がどのような文脈で言っているかわからない場合は、「そうです」といってそうそうに議論を切り上げることにする事が多い.

 ロックにもグラム・ロックや、グランジ・ロック、メタル、カントリーなど様々だ.一つのジャンルのなかに複数の下位分類があることは我々はよく知っている.しかし私達は日常の会話でそれを無意識に忘れてしまうことがあるのかもしれない.

 つまり、これらから何を述べたいのかといえば、「好きな音楽はなにか」という問いに対して、「〇〇です」という回答は難しいということ、そして私達亀吾郎法律事務所のスタッフは「曲一つひとつに対して愛着を持つのであって、よほどその音楽家に通じていない限り、どのアーティストが好きだ、とはいえない」ということだ.

 この議論は他のカテゴリについてもいえると思う.文学もそうかもしれない.好きな旅行先、好きな車、好きな衣服のブランド.皆さんはうまく説明できるだろうか.

 我々、亀吾郎法律事務所が提案するこうした質問に対する回答は、

「うーん、一概に言えないですね」「あなたはいかがですか」

というものである.あぁ、なんと凡庸なのだろうか.だが聞き手の意図を、文脈を確認するためにはこれが無難だ.相手がどのような答え方をするかで、自分の態度を決めればよい.答えがある人は自分の言葉を紡げば良い.このテーマは答えをもたない人のためにある.J. Lacanによれば、自分の欲望は他者の欲望だ、という.自分が何を欲しているかは、他者が何を求めているかを知ればよい.

 会話はひどく難しい.

ここまでありがとうございました.

Does the scorpion venom make us dream bright side of Electric vehicle?

Venomous Expect

There are a few things I am curious about. According to the requirement of world society, the internal combustion engines are got rid of as unfit cars these days. As a way of dealing with the environmental issues, I personally think that this is owing to an unavoidable circumstance. However, what worries me is that by this situation suggest that the delight of driving a petrol-powered car may be lost forever. Would I forget the rapturous moment, when throttling an engine the tachometer jumps up high revolution and my sensation when the engine cries with joy? Would I lose memories of the excitement that car and myself accelerates together continuously?

I love the way I insert a key in dashboard and set a starter, then wakes up my partner. For me, it is a bit boring only to push a button, which is quite an easy though. This ritual of starting an engine may gradually fades away, like the sadness that coloured leaves fall from their branch, apart from some automobile manufacturer. But we take for granted that from the tree branch there sprouts young leaves. We are looking forward to see future sprouts. This time, I would like to write about a one of new leaves.

There is an automobile manufacturer in Italy called FIAT. the car maker also known for building “Cinquecento”. We also call it 500 as well. FIAT announced that they produced the brand-new 500. It is a pure electric vehicle. The design very resembles with former 500. I believe that their policy of A segment city car does not change by comparing the width and length of former one and the new one. It is a bit wider and longer than previous model. The body colours shown us were sensual deep navy, pearly shiny sky-blue and sparkling blossom of rose, etcetera. They are all my favourite colours. I am relieved to see its tender design by contrast to the modern car design of sharp gaze like front light, gigantic grill and insensitive angular shape. The new 500 remains coupé! Good-looking car is essential to our mentality. Needless to say that comfy seat, seat position easy to adjust my body are important for me, but I do not care for an ottoman, nor do I need table and television. All I want is just cupholders and battery charging equipment for smartphone, and cruise control. I think that the new 500 is matured and well sophisticated with its price. She is a chic as a whole. My taste for car fit nicely with the electrified 500 in this point of view. I fancy driving a tiny briskly nimble cars. The former one had these characteristics(I will not write about the primary 500 which is known as the car that grandson of Arsène Lupin drove in the japanese film). Cinquecento novantacinque; 595 by Abarth & C. S.p.A has been a spectacularly awesome car. I love the lowest rumbling noise like the stomach groans when drinking down a cup of cooled milk, the machine accelerates with incurable pressure of sounds. The car reminds me of the sense that makes me feel the harmony and unity when changing gears roughly, which share the same perception with us who are naturally brutal, and feels like that the machine car controls its fuel injection system with boldness.

Perhaps I cannot help thinking that the debut of new 500 suggests that Abarth will produce its high performance version of the 500 in the future. But, in order to unleash the power, the more batteries are needed. The more batteries it contains the more weight it has. The lightness gives advantage of driving performance. If it weighs too much, all the goodness of 500 would be spoiled. Internal combustion engine cannot be applied so far. How will they try to modify the vehicle? I must confess that there are a few pessimism in my mind though I am almost looking forward to see the electrified version. There is also an anxiety that my expectation will not come true. If the product will be announced and introduced to Japan, Would the driving pleasure of EV be nice as well as that of petrol vehicle? The one thing, the overwhelming acceleration due to the EV, which can be easily imagined. However, I am not sure about the lingering sensation, which I expect, when stepping on the accelerator.

The symbol of Abarth is the scorpion. Owners and enthusiasts happily speaks “I got poisoned”, The harshness of machine compares with a poison of scorpion. The venom brings us pleasant effects by revving up the rpm with low gear, or groaning sound of idling like troubled intestine. These are our honour to the glories of motorsport legend. So, we would be unhealthily detoxed if these turn to the sound of silence. Otherwise, there might be another venomous effect that is brought by electrification. Is that a new poison that makes us to think we would not need any petrol engines. If it may be true, that would be nice. Polar bears living on the thin ice would also agree with me. It is not true to say that I have no anxiety with electrified vehicle, but I am also expecting the new wave coming with new stimulant. If it is spicy as the Japanese pepper, which is pungent and lingering aroma sprouts in the spring, that must be superb.

I wish that some works which make me think to own someday will arrive in the world.

Thank you for reading so far.

肌寒い雨の日

Photo by revac film’s&photography on Pexels.com

ブログ開設七ヶ月目を迎えて

 2020年6月4日に亀吾郎法律事務所を立ち上げて半年がたった.12月5日現在で七ヶ月目となる.まだまだ七ヶ月か.という気持ちと、もう七ヶ月かという気持ちが4:6くらいで混合し一つの名状しがたい感慨となっている.

 半年が経過したところで、簡単にこれまでを振り返ってみることにする.以下は亀吾郎法律事務所を訪れた人、表示数(PV)、記事投稿数である.

JuneJulyAugustSeptemberOctoberNovemberDecemberTotal
Page Views1206345085596437882233475
Visitors2576808113917054625
Blog Posts141414141014383
Table 1

 基本的に各項目は右肩あがりで表示数が増えている.フォロワーもWordpressだけで32人、ソーシャルメディアで10人.純粋に嬉しく思う.特に驚いているのが海外からの訪問数が安定して増えていることである.カナダ、アメリカ、オーストラリア、インド、中国あたりが特に多い.やはり英語での記事投稿が貢献しているのだろうか、それとも翻訳記事が目を引くのだろうか.この辺の考察はもうしばらく時間をかけてみないとわからないが、良い兆候のように思うので、このまま外国語記事も増やしてみたいと思う.目指すはオリエント世界である.アッサラーム・アライクム.

 投稿数は10月を除けば、一応は一ヶ月に14記事投稿している.概算すれば5000〜6000文字の記事をコンスタントに書いているので、記事の質はさておき、厚みとしては適当なものを続けられているように思う.このままのペースで淡々と続けられれば良い.

成功報酬型広告について

 亀吾郎法律事務所は広告を掲載して報酬を得る仕組みとして、Google Adsenseというものを申請している.掲載を始めたのは10月くらいだったか、当時50記事も満たなかった状態だったが、幸運にも審査は一度で通過することができた.あまりにも個性が強すぎたせいかもしれない.ちなみに広告収入の総計は$1.31(邦貨換算で136円)である.これならば駄菓子が買えるのだから、なかなか文章の力というのはすごいものだと驚かされる. 広告収入は二次的な目的である.私の真の企ては、自分の思考の整理と自分が勉強したことや考察の可視化である.そこにちょっとしたお小遣いが入るのであれば、様々な脳内報酬系が刺激されるのだから、決して悪くはない.広告が邪魔だと思う方は面目ないと思う.AdBlockなどを導入して広告を消していただくのは自由である.

 さらに弊事務所は成功報酬型広告にも足を突っ込むことにした.通常の法律事務所にはできないことをするのが、亀吾郎法律事務所の圧倒的な強みである.つまりは事務所の記事にAmazon Japanの広告を掲載、広告を通じて購買に至った顧客がいた場合に、吾郎ちゃんとさぶちゃんに成功報酬が支払われる、という具合である.実はこれはまだ始めたばかりで、180日以内に一定の実績を積まないと継続できないため、正式な運用では無い.広告とはいってもその形式はこちらである程度選べるので、主張が強くないものを記事の最後にまとめて掲載するようにしている.ほとんどは書籍である.亀吾郎法律事務所が選んだ主題に関連する書籍を掲載している程度であり、視覚的な邪魔にはあまりならないと思う.書籍の画像をクリックするとAmazon.co.jpにジャンプする.他の読者の批評、値段、関連書籍を見比べてぜひ参考にしていただければと思っている.弊事務所では成功報酬型広告を文末の参考文献程度に扱っていると考えてほしい.

今後の連載について

 初見以外の読者の方ならご存知だろうが、そろそろ「The Book of Tea」の翻訳が終焉を迎える.最後は千利休が力囲希咄の〇〇をするようだからぜひ楽しみにしてほしいと思っている.

 私が考えているのは、次回作のことだ.次の翻訳は何にしようかな、と思案している最中で、既に翻訳されたものよりは、未翻訳の珍品を発掘して翻訳したいという邪な考えが私の脳内を占拠している.Rabindranath Tagoreも良いのだが既に高良とみによる優れた翻訳がある.Iris Murdochもなかなか面白そうであるが、長編小説の翻訳であるとこちらの気力が持たない可能性がある.う〜ん、難しい.

 おいおい、現象学ファントム空間論が残ってるじゃないか、という熱心な読者もいるかもしれない.その通りである.こちらは同時進行でちびちびやっていく.現象学がご無沙汰であるのは、やはり扱うテーマが重厚だからで、決してサボりではない.Edmund Husserlのみで現象学を扱うのはいささか無理があるように思っていて、ネタを収集するべく現在渉猟に出かけているのである.まずはMartin Heideggerの「存在と時間」を読んでから構想を練るつもりだ.決して中途半端にはしないのでどうか楽しみに待ってもらえれば幸いだ.そもそも「確信成立条件」をブログで示そうなどという目的は壮大にもほどがあるだろう.時間がかかるに決まっている.

記事の英訳について

 翻訳といえば、岡真理による「記憶/物語」の評論を英訳してみようと思って、すでに一話は英訳してみたのだった.正直にいえば自信がない.突然聖人君子のような人がスッと現れて無償で添削してくれる、なんてことがあればいいが、あるわけないので、どんどん突き進むのみである.この特集も最後まで完結させて、日英の記事として海外にも分有したいと思う.

 というわけで、私にとっては書きたいことが土山のようにある.ネタがつきることはないだろう.書くことも辛くない.むしろ作品が完成すると一種のカタルシスすら感じる.だが、私の凡庸な頭脳ではこれ以上の投稿スピードは出せないし、記事をまとめる力もそこまでない.千手観音くらい手があればなぁ、なんてことも考えたが、それはそれで大変だろう.

最後に 

 本記事はとある楽曲を紹介して締めくくりたい.私にとって今日のような肌寒い冬の曇天には宇多田ヒカルの曲が特にしっくりくるのである.

♪心の電波 届いてますか 罪人たちの Heart Station

 亀吾郎法律事務所が皆さんのHeart Stationであればいいなと密かに願っております.ここまで読んでくださりありがとうございました.

 

 

An Elephant in Japan

Photo by Pixabay on Pexels.com

了解不能に出くわすとき

A major problem or controversial issue which is obviously present but is avoided as a subject for discussion.

The Elephant in the room

 初めに断っておくと、亀吾郎法律事務所の理念は「法律に門外漢」である.実際のところは政治にも門外漢である.だから以下の論考に政治の話は無しである.クサガメの吾郎、三郎には政治がわからぬ.

 「Go To キャンペーン」は日本の経済政策の一つだという.その政策の是非を巡って議論がなされているのはご周知の通りだ.その中で私を躓かせ、悩ませていることがある.無論、政策のことではない.

 「Go To 〇〇」という呼称そのもののことだ.どうして「Go To TRAVEL」などという英文法を破壊する名称を採用したのだろうか.この「Go To」シリーズは他にもEAT、EVENT、商店街で構成されるようだが、(商店街も含めて)おかしい.何がおかしいのかわからない方がいないことを願って話を続ける.

 「Go」という動詞は自動詞という扱いだ.よって第一文型のS+Vを取ることがほとんどだろう.The Sun goes down. のような用法になる.つまりsunが主語、goesが述語、downは副詞である.He goes to Lebanon.であれば、to は前置詞であり、Lebanonは名詞だ.自動詞には副詞や前置詞があとにつくことを我々は知っているはずだ.そしてgo to と来れば、場所に関する名詞が来る、そういう想定をすべき、と自然と頭はスタンバイする.

 だのに、to のあとが、さらに動詞とはどういう了見なのだろうか.商店街を除いて.そもそも商店街は日本語だ.eat, travel には名詞の意味もあるが、まず使わない.eventは事象であり、場所ではない.

 八百萬歩譲って、to以下の動詞が to不定詞だとしよう.(この仮定がすでに破綻しているのだが)すると、「Go to eat」は「食べに行け」ということになる.なんだか偉そうな言い方になる.だがそれでも言い訳として苦しい.「Go to travel」は「旅立ちに行け」なのか.こんな無茶苦茶を通すのは無理だろう.Commaで区切りでもしないと意味が通らない.そもそもCommaで区切ったところで意味不明である.event は名詞なので、to不定詞の定義から外れる.前提が「Go to キャンペーン」である.to不定詞なら区切りがおかしい.

 「まぁまぁ、そんな硬いこと言わないでさぁ.景気刺激策ってことで.キャッチーなコピーがほしかったんだよ.なんとなくわかりそうなやつ、って感じ」

といった擁護が出てくるのはわかる.一応、和製英語なりの言葉の伝達力を理解しているつもりだ.だが、それでいいのかという躓きが私を悩ませる.

 貴方は自分の子供や近くの学童、学生から「Go toトラベルって言い方おかしくないの」と指摘されたときに合理的な説明ができるだろうか.

 「あれはね、和製英語なんだ.政府も英文としては間違っているって知っているんだ、あはははは、君は賢いねぇ」

 という返答は欺罔でしかない.間違った用法をそのまま使う馬鹿がいてたまるか.国民を統制するトップが外国の文法を誤用する事態があってよいのか.しかも世界の大多数が使う言語の文法を誤用している.学校教育では正しい文法を指導し、理解するよう教育された我々が、なんと景気刺激策の呼称に英文法の誤用を公称するという奇妙奇天烈な事態が生じているのだ.そして、その呼称が採用される過程で(異を唱えたものがいたと信じたいが)誰かの発案でそのまま通ってしまったであろうという悲劇である.日本語を使えばいいのに.

 さらに極めつけは、それが報道で国民に伝えられてもその呼称に違和感を感じる反応が少なく感じる、ということである.そもそも報道もそのまま伝えているのだから、聞いている身としては、なんだか気味が悪い.目の前に巨大な糞があってものすごく激臭がしているはずなのに、みんな知らん顔をしているような感じである.このような状況を、”The elephant in the room”という.手持ちの辞書であるOxford Dictionary of Englishによれば、

A major problem or controversial issue which is obviously present but is avoided as a subject for discussion.(明らかに存在している大きな問題或いは賛否両論の話題が、議論の主題として避けられている)

とある.面白い表現である.これも否認の一つなのだろう.日本人の感覚でいえば、空気を読むということと縁がありそうだ.だが否認だとすればなぜ、そうするのか.それを考える必要がある.

 哲学者であり、精神病理学の嚆矢であるK. Jaspersは「了解不能な精神現象は、背後に病的な身体的過程を想定し、因果的な説明を想定する」といった.つまり、わからないものに対して我々は背景に何かしらの病理を感じ取り、徹底的にロジカルに現象を説明するしかない.

 Go to Eat, Go to Travel, Go to Event, Go to 商店街はいずれも私にとって、了解不能である.そして文法的異論がほとんどみられない事態も了解しがたい.このような状況がなにかの因果律で起きているのだとしたら、実に興味深い.ぜひ一刻も早く知りたいと思う.なぜならそうでないと我々は、この状況が了解不能なものとして日本中にはびこる病理を想定しないといけないのだから.

 皆さんの周りにゾウはいないだろうか.もし、見えているのだとしたらそれは幻覚ではなくて、貴方が気づいているけれど気づいていないふりをしているモノの正体かもしれない.

 

ここまで読んでくださりありがとうございました.