淡い期待

果報は寝て待つ

 先日、職場でCovid-19の予防接種を受けることができた.私のような業界の末端にいる人間が、ワクチンの恩恵に預かることができて嬉しく思っている.職場の方には感謝である.三角筋にチクッと針が刺さる感覚だけで、痛みはインフルエンザの予防接種となんら変わりはしなかった.早く接種が全国に広がって感染症から解き放たれたいものだ.堂々とマスクを外せる世の中になるといいと思う.連休を使ってとある講習会を受講する予定だったが、緊急事態宣言によってお流れになってしまった.残念.

 もしコロナウィルスが収束したら何をしようか.そういう空想をすることは自由だ.皆さんは何をするだろうか.私は第一に大きな本屋に行きたいなと思う.オンラインで気軽に購入できるのは良いことだが、試し読みができない.一冊の本を巡って、実際に手に取りもっと悩んで悩んで悩み抜いてから決めたい気持ちがある.あとは温泉、スーパー銭湯に行くことくらいだろうか.良い風呂に入って飯を食うのはうまい.外食にも行きたい.焼肉屋、そば屋、ラーメン屋、中華料理屋、東南アジア料理店.嗚呼、期待は膨らむ.冬にはスキーにも行けたらいい.山登りにも行っても良いかもしれない.国内だろうと国外だろうと旅行に行くのも気力とお金はかかるが、できるとしたら楽しみだ.果報は寝て待てというので、ほどほどに寝つつ、今だからこそできることをこっそりやっておくことにしたい.

オープンダイアローグへの期待

 「オープンダイアローグ」という精神科医療における方法論が注目を浴びている.数年前から言葉だけは耳にしていたが、最近まで全く知ることはなかった.精神病理学・病跡学を専門とする斎藤環氏は本邦にこの方法論の普及に貢献した方であるが、この治療法はここ数年で始まったものではないそうだ.1980年代にはフィンランドの西ラップランド地方はトルニオ市、ケロプダス病院で始められ、統合失調症を主とする精神疾患の症状緩和に大きな効果をもたらしているという.

 「オープンダイアローグ」は患者や家族から連絡をもらうと24時間以内にスタッフが訪問し、患者・家族・友人・医師・看護師・セラピストら、患者に関係するすべての人を集めて対話を行う治療法で、基本的に患者の自宅を訪問して行う.この対話は何度も繰り返される.繰り返していくごとに症状が緩和されていくのだそうだからなかなかにびっくりだ.対話の力を信じたい私としてはとても喜ばしい.この対話に集う人々は上下関係などなく、「医師の指導」という煙たい言葉は存在しない.今の診療でも皆平等だという建前はあるが、嫌なヒエラルキーは透けて見える.皆平服で望む.白衣を着ないのは個人的に良いことだ.今までの狭い診察室で患者ー治療者という構造「クローズドモノローグ」はなくなって、「オープン」になるのは実に画期的だと思う.

 この方法論によって必要な薬剤が減り、患者に対する拘束や隔離がかなり減るとされている.適応も統合失調症に限らない.人の基本的人権を超越せずに治療ができるのだからこんなに良いことはない.いいことばかりで聞こえが良すぎると胡散臭い気もするが、もちろん批判的な指摘はあるだろう.私自身、大いに興味をそそられている方法論であるので、勉強してみたいところである.いつかしっかりとご紹介できればいい.下記の書籍はオープンダイアローグを理解する助けになるのではないかと思う.「感じるオープンダイアローグ」は読んでいる途中なのだが、いい意味で期待を裏切られる.精神科医療の曇り空に薄明かりが差していくような、そんな気持ちになる本だ.

 最後に、斎藤氏の言葉を引用しておしまいにしておく.

オープンダイアローグの思想は、ポストモダンの思想に依拠した「人間」と「主体」の復権でもある.その根底には、個人の尊厳、権利、自由の尊重こそが治療的意義を持つという透徹した倫理性がある.

「臨床精神医学」第49巻第1号109頁2020年

 なんかかっこいい.

告白

 このブログをご覧になっている人が一体どのような方々なのか、およそ検討がつかないのですが、私はここで一つの告白をしたいと思います.私の嫌な過去に対する供養の儀式だと思ってください.

 選択緘黙 Selective Mutism

DSM- 5: 313.23 (ICD-10: F94.0)

A. 他の状況で話しているにもかかわらず、話すことが期待されている特定の社会的状況(例:学校)において、話すことが一貫してできない.

B. その障碍が、学業上、職業上の成績、または対人的コミュニケーションを妨げている.

C. その障碍の持続期間は、少なくとも一ヶ月(学校の最初の一ヶ月だけに限定されない)である.

D. 話すことができないことは、その社会的状況で要求されている話し言葉の知識、または話すことに関する楽しさが不足していることによるものではない.

E. その障碍は、コミュニケーション症(例:小児期発症流暢症)ではうまく説明されず、または自閉症スペクトラム症、統合失調症、または他の精神病性障碍の経過中にのみ起こるものではない.

DSM-5 精神疾患の分類と診断の手引

 私はある特定の場面で、話すことができない状態が続いていることに苦痛と疑問を感じていました.それも小学生の小さい頃からです.それは学校ではなく、初対面の人前でもなく、新しい場面でもありませんでした.どこでなのかはご想像におまかせします.頭の中には感情が湧き上がっているのに、言葉が出てこない.ときに真っ白になって言語が創造されないのです.言葉を失う、という表現がぴったりでしう.「要領が悪い」「生きる力がない」「お前はこうなるといつも喋らなくなるな」と言われるのが常套句でした.別に喋りたくなくてそうなるんじゃない、どうすればいいんだ、ずっとそう思っていました.多少は改善されたかもしれませんが、今でも緘黙は出現してしまうでしょう.私が成人するまで、本当にしんどかったのです.ずっと自身がもてませんでした.そして怖かったのです.おそらく緘黙は恐怖と関連づいているのでしょう、不本意ながら私はそれを体験しました.いまでもその体験は無慈悲に現在へと回帰します.フラッシュバックというやつです.フラッシュバックが起こると強烈な希死念慮と、自分を傷つけたい衝動が生じます.お前はそんな状態で仕事しているが大丈夫か、と思うかもしれませんが、私は決して顔には出しませんし、傷つけることはありません.仕事をしているときは全力でペルソナを入れ替えるので、今の仕事には決して支障を来すことはありません.

 私が臨床精神医学の道に進むまで、その疑問は解決されませんでしたが、のちに私は上記の診断基準が妥当のなのではないかと思うようになりました.自分で自分を診断することは決してしませんが、もし私のドッペルゲンガーがいれば「きっとあなたは緘黙で大変なんでしょう」というはずです.それは長く思い悩んでいた現象に納得をさせる一方で、死ぬまで永遠に解かれることのない呪いでもあるように今は思ってます.これは私の感想です.病気で苦しんでいる方はどなたにも早い回復を祈っていますし、精神疾患は適切なサポート下で本当によくなるのです.誤解しないでくださいね.

なぜ精神科医を志したのか

 なぜ私は精神医学の道を志したのでしょうか.それは様々な人々から訊かれることがあります.今でもあります.一つの答えとして「人間に興味があるから」というものをよく使います.それは決して趣味が人間観察です、とか、ヘルシンキ宣言を無視するようなものではありません.もっと詳しくいうと人文科学的な立場で言えばわかりやすいでしょう.「人間の営為がいかにして行われるか、その正常性と異常性の違いとは」といったものになります.それに対する返答は「ふーん」がほとんどで、質問者の意図に沿わなかった可能性がありますが、私にはそれ以外答えようがありませんでした.患者さんを良くしたいという気持ちは当然ありますし、それに対して心血注いでいたつもりです.

 ですが、私はうつ病という病気になって気づいたことがあります.おそらく私が興味を抱いていた人間というのは「自分」だったのでしょう.最も究極的に知りたかったのは自分自身だったのではないか、自分自身を最も癒やしたかった、自分に自自信を持ちたかった、そのように感じています.つまり自己治療的な願望が根底にあった可能性が高いのです.ですがそんな医者が患者さんを助けられるかといえば、そうではないのでしょう.無意識にせよ、自己中心的な私が病魔にとらわれることになってしまうのは最悪の皮肉で、最低な結果で私は自分を癒やすことが叶ってしまいました.本当に最低です.

不条理との葛藤

 私は初期臨床研修を終えてから、精神科専門医と精神保健指定医を取得して精神科診療の王道を突き進み、究極的には精神病理学の研究をしたいと思っていました.精神病理学はこのブログでも散々取り上げている話題ですが、要するに「精神現現象の機構を追求する学問」です.唯一の本質追求の学問です.後期研修として精神病理学で名を馳せたとある大学の医局に入局し、日本精神神経学会の専門医プログラムに入るという、ごく一般的なキャリアプランにありました.

 週四日の大学勤務すなわち外来と病棟勤務、平日の一日は「研究日」と称する外勤日で、関連病院へ外来と当直をする日でした.研究とは何なのでしょうか.ずっと思っていました.研究日とは建前で、要するにバイトを課せられる日なのでした.というのは大学の給与では薄給なので、必然的に相対的に割の良い外勤をして、医者としての帳尻をあわせることが構造化されていたのです.外勤先では勤務先の常勤医にひどいパワー・ハラスメントとセクシュアル・ハラスメントを受けました.申し送りと私への了承なしに、自分の外来患者を私に送りつけるという、倫理的に常軌を逸した行動が続きました.その人物は脅迫的な文章をどうして知ったかわからりませんが私のメールアドレス宛に送りつけてくるのでした.成人以降、私の魂が傷ついたのはおそらくそれが始まりでしょう.もちろん教授や医局長、診療部長、外勤先の病院長に相談をしました.教授は真摯に対応してくださいましたが、外勤先の院長はその人物を擁護する立場に回りました.私の人間不信と権威、精神科医への失望は増していったように思います.私は大いに傷つきました.ですが悔しさと反面教師をバネに臨床に従事しました.とある先生に「あなたは精神医学の何に興味があるの」と訊かれたことがありました.「病理です」と答えると、「えっ?もうそんなの終わってるでしょ」と言われ、虚無感を感じたのを覚えています.後にその先生が開業して、ホームページの自己紹介文で「精神病理学の豊かな土壌で研修し」という文言を織り込んだのを見た時に、非常に落胆し、どいつもこいつもなんてずるいやつだ、と感じたことを覚えています.

 大学病院の当直室もお粗末なものでした.窓はなければ、常にカビの臭いと永遠に片付けられることのない誰かの汚いポルノグラフィティがロッカーにあり、シャワー室は一平米の空間でお湯がまともに出ないし、タオルや石鹸は持参しないといけない.私は贅沢は絶対に言いませんが、これまで勤めてきた病院の当直室の中で最もクソな部屋として表彰したいと思います.私のいた大学は若手を大事にしてくるところではなかったのです.それに気づくことができるにはもう遅すぎました.

 翌年は異動となり、症例経験のために措置入院施設である市中総合病院へ赴任しました.ここが私の王道キャリアプランの終焉の場でもありました.赴任初日に当直があることに驚きましたが、例の研究日に毎週大学へわざわざ出向いて、無給で外来をしないといけないことには閉口しました.労働に対する正当な対価が支払われないことは奇妙なことではないですか.これは私の先輩の先生がなんども上司に窮状を申し立てていましたが、是正されることは決してありませんでした.御恩と奉公のうち、奉公というやつでしょうか.私から言わせればこんなシステムはクソです.汚物以下の悪習です.私が労働契約を結んだのは異動先の病院だけです.大学とは契約を更新していませんし、いつの間にか無給派遣のような取り決めがなされていたのには愕然としました.現在になってこのようなシステムにしているのは私がいた大学だけではないことを知りました.おそらく日本全国でこのような御恩と奉公といった封建制度が存在しているのです.この話は大学病院医師の無賃金医療としてニュースになりましたが、それも例の感染症のもと消えてしまいました.今でも無給で多くの若手医師がこき使われている現状を考えると、悲しい気持ちになります.一日もはやくこのシステムがぶっ壊れねぇかなと祈っています.この問題を年配の医師に相談するのは無駄でした.「人がいないんだ」「俺もやったんだからさ」「患者さんとの関係を保っておくのにはいい機会じゃないか」という同調圧力と意味不明なロジックしかありませんでした.これをパラロジックというのですね.私が病気になってからこうした問題を医局にぶつけましたが、全く是正されることはありません.私が医局を去る理由になった一つです.

 私は不条理や理不尽な問題に対して、葛藤を処理する能力に欠けていたのかもしれません.ですが私の正義がどうしても許せませんでした.代償的行動として、私は仕事をさぼったわけではなく、利他的な行動を取りました.防衛機制の中でも高度な防衛です.目の前の症例には一つ一つ真摯に取り組んでいました.わずかに小康に至ってゆく過程、だんだん笑顔が出てくる過程を見るのが嬉しかったのです.こんな私でも役に立っている時がある、そう思えただけで頑張れるときがありました.その中で患者さんとの関わりが長くなるとどうしても転移の問題が出現し、お互いが乗り越えるまで診察室の場は緊張感を伴います.非常にストレスフルな労働環境の中で私は強力な陽性転移と陰性転移の生じた症例を対応せねばならず.私自身、逆転移が生じていることを理解しつつも、うまく折衝できていませんでした.

前駆期

 日に日に私はいらだちが隠せなくなり、当時交際していた妻にもそのことを指摘されましたが、私にはその頃自覚はありませんでした.妻には大変申し訳なく思っています.常勤先の病院でも常勤医との上下関係で大いに悩みました.そこではすでに常勤医同士で関係性が悪く、空気感が悪い職場でした.いつの間にか伝書鳩のような役割になってしまい、互いの利害調整役になってしまっていました.顕著なのは当直表を作れと命じられたことでした.当直を月に八回や九回入らないといけない状態が続き、当直明けも帰れない状態がつづくと流石に私の精神だけでなく、肉体にも障碍が出てきました.睡眠障碍です.だんだん眠れなくなりました.寝ている途中、悪夢で叫ぶこともありました.そんな馬鹿なと自分でも思いますが、夜驚というのは成人でもあるのだと、また一ついやなことを学びました.そして日中は動悸と悪心が常態化しました.食欲もなくなりました.趣味もできなくなりましたし、休日も病院から電話がかかってくるので、常に緊張感が漂っていました.

 ちょうど同時期、私は交際していた妻と同居していました.それはそれは仕事以外は素晴らしくて、このまま結婚してお互いに支え合えたらいいなと思っていました.妻のご両親には快く結婚を前提にした交際を認めていただきましたが、私の方はそうは行きませんでした.実家で報告をすれば尋問するかのように妻の身辺を延々と訊かれ嫌な気持ちになりましたし「こうでもしないとお前は話さないからな」と言われ「どうせすぐにこどもをつくるにきまっている」「興信所に頼んで身辺調査させる」と言われたときは心底血の気が引き、正直言って失望を通り越してドン引きしました.同棲も事前に話していましたが「そんなことは聞いていない」とされ、そもそも許可を取る話でもないのですがなぜか承認が必要な空気になり、私の責任問題をかなり咎められました.「そんなことだろうと思った」「やはりお前はしっかりしていない」「結婚は絶対に認めない」とされ私は心臓に鉄槌を打ち込まれました.ここで私の持病の緘黙が発動しましたが、妻を貶める発言は聞き逃さずどうしても許せませんでした.反逆の精神が沈黙を破った瞬間もありました.ですが私はもうズタズタでした.もう魂から黒い液体がドロドロと吹き出していて、鉄槌が食い込んで胸がぺしゃんこになった感覚でした.この時点で強烈な希死念慮が私を襲い、離人感を感じ家に帰りました.後に妻のメンタリティを揺さぶりました.妻を落胆させたことを本当に本当にすまなく思っています.それでも私と結婚してくれたことをありがたく嬉しく思っています.

とどめ

 同時期に私の外勤先で無給診療中に、私の車が職場駐車場で当て逃げにあったことが私の魂にとどめを刺しました.満身創痍で駐車場に向かうとフロントバンパーが惨めにもズタズタのぺしゃんこで、私の心とよく似ていました.「お前もズタズタになるなんて……」無機物の中で唯一感情を注いだ大事な大事な家族である車を当て逃げされたこと、それが自分の所属している職場の誰かであること、その人物が罪から逃げたという事実、責任感のあるはずの医療職が逃げたという事実が私の人間不信に決定打を与え、人間の潜在的な悪を心底恨みました.駐車場の監視カメラに写っているのでしょうが、私はすでに憔悴していて、犯人探しをする気力がなかったのです.警備員が目撃していたのですが「カメラに写っているか見てみます」とか行ってくれるわけでもなく、非協力的でした.私は絶望の連鎖でもうとにかく休みたくて、休みたくてしかたがなかったのです.吐き気のする職場から去って、一刻も早く妻の元に行きたかった.私にとって唯一の救いは妻でした.妻は私を慰めてくれて一緒に怒ってくれました.同時に悲しませてしまいました.

 そしてとうとう私は発病しました.これは必然でした.全身を気だるさが覆い、無気力が私を支配しました.鉄槌で打ち込まれた傷がうずくように、胸が痛みました.息が苦しいような、焦燥感と閉塞感が私を包みました.何もできない.本当に何もできなかった.とんでもないことをしてしまった.とりかえしのつかないことをしてしまった.もうだめだ.死んでしまうしかない.さてどうやって死のうか.死ぬにも死ぬ気力がわかない.そういう観念が私を無限地獄の中で延々とループしました.日本精神病理学会で発表するはずの演題も全く完成しておらず、焦りと狼狽が湧きたちました.外から見ればただの屍ですが、脳内は異常な神経伝達物質の嵐だったでしょう.冷めていて中は熱いような状態かもしれません.学会はお流れになりました.以来、私は半端ものになってしまいました.キャリアも中途半端で終わってしまいました.病気を理由に医局を辞めましたが、本意はやはり別にありました.

法律事務所を設立

 ある日、妻が、私が亀が好きだったことを覚えていてくれて、もう一度亀を飼ったらどうかと言ってくれました.それが救いでした.ようやく私は体を動かして、新しい家族に出会うことになりました.それが吾郎ちゃんです.のちに三郎、さぶちゃんが加わり、にぎやかになりました.妻とこの二頭がいてくれて私は救われました.今でも吾郎ちゃんとさぶちゃんは私の大事な大事な家族です.そんな二頭にあやかってブログ「亀吾郎法律事務所」を作り、改名して今のブログに落ち着いています.好き勝手にものを書く楽しさを知り、いろんなことを勉強する動機づけになっています.これは大変ありがたいことです.これを助言してくれたのは妻でした.感謝してもしきれませんね.

最後に

 この告白はある種の告発でもありますが、もう一つ目的があります.決して怨恨のために書いているのではないことをお伝えしたいのです.こうして定期的に過去の記憶と対峙していくことで自分の感情を整理する狙いがあります.墓参りと同じものだと思えばいいのかもしれません.私の発病した日はある意味、私の命日です.○周忌と冗談を言うこともありますが半分本気なところもあります.喪の作業をちゃんと行うこと、私の歪んだ魂の供養を定期的に繰り返すことで、いつしか私の心は癒えるのかもしれません.瘉えないかもしれません.期待はしすぎないことです.私は今は転職して今はなんとか仕事を続けられていますが、これも供養の一貫だと思っています.先に述べたように私はおそらく精神科医を続けるべきではないような気がしています.かつてのキャリアプランは私にはもはや無理な感じがするのです.あの不条理をもう二度と味わいたくない、そういう気持ちでいっぱいです.かといって転科して他の医学を勉強するモチベーションは欠けていますから、別の方向性を模索しているところです.私の心には「要領のなさ」と「生きる力のなさ」が徹底的に刷り込まれているために、なかなか自己肯定感と自尊感情(セルフ・エスティーム)が芽生えてきませんが、これからは別の方向性で自分を癒やしていきたい、そう思っています.

 もし周囲に傷ついている人がいれば、それがあなたにとって近い人であれば、ときに駆け寄って支えることも必要ですが、それがかえってその人をひどく苦しめることがあります.良かれと思ってなにか行動することが毒になるのであればそれは偽善になりうるのです.自分がもたらす影響がどれだけ大きいか、自分の言動が当人にとってどのように作用するのか、それはよく吟味する必要があると思うようになりました.寓話「北風と太陽」が象徴的かと思います.私はもし医者を辞めたとしてもやはり太陽の立場になって遠くからポカポカと旅人を照らし、暖める側になりたいものです.自戒の意味を込めて.

 

 

パンセ・スキゾフレニック・ボーボボ

そんなに脱毛しないとだめですか

 YouTubeの広告を見て思うことがある.正しく言えば、動画視聴中に挿入される広告の中に気になるものがある.やたらと脱毛を勧める広告が多い.漫画のようなイラストが現れ、複数の登場人物の台詞を抑揚のない調子で一人朗読、作画もお世辞には上手とはいえない.見たことがある人もいると思うが、すぐにスキップしたくなる広告に入るだろう.皆さんも同じ意見を持ってくれるだろうか.ただ最近私は敢えてちゃんと最後まで観るようにしている.色々と気づくことがあって興味深い.広告には複数のシナリオがあるものの大体のあらすじはこうだ.

 妙齢の女性が、同窓会や宴会、パーティ等に出ることになった.その会場にはかつて意中の男性がいて、主人公は心を弾ませるのだが、同席した同性の友人に、「ムダ毛が生えていてみっともない」ことを公に指摘され、大いに辱められる.

 傷心の彼女が帰宅し、友人に顛末を打ち明けると「それは指摘されて当然」という評価を受ける.そしてすぐに「医療脱毛」を勧められる.「それは高額ではないのか」と友人に問うと「今どきの医療脱毛は安い!」という理由をいくつか列挙し、想定されるデメリットに対する反論を述べる.そして友人自身が実際に体験して「やって良かった」という経験談を述べて、主人公は定型の誘い文句に乗せられてしまう.ほどなくして脱毛クリニックを訪れた彼女は友人の言う通り、何も抵抗なく脱毛を遂行.体のどこかしかがツルツルになる.

 後日、別の会食の機会が催され、懲りずに参加する主人公.どこかしか可視範囲内でツルツルになった彼女を見て浮足立つ男性たち.その中には意中の男性もおり、彼も実は彼女のことを想っていたことを知る.めでたく二人は交際に至る.彼女は脱毛を実践してよかったと確信する.その後脱毛の宣伝に入る.この話はフィクションである.男女を入れ替えたパターンも存在する.男の場合はヒゲが忌避される.ちなみに男性同士と女性同士というパターンは見たことがない.

 こういうあらすじを書いていて私は途中で気分が悪くなる.だが、このような広告はかなり高頻度で認められるのだ.アプリ内部のアクセス解析によって自動広告の内容が各々変わるらしいのだが、どうして脱毛ばかり出てくるのだろうか.脱毛の広告は電子の海だけではない.もちろん電車の中にもある.商業施設の並ぶ都市ならどこでもある.画像編集ソフトで、つややかに仕上がった女性の顔がこちらを見つめている.

 なんだかこのような風潮はいやだなぁと思ってしまう.脱毛を是とする空気感、「脱毛しないとみっともない」という圧力を感じてしまう.それはお前の感想だろ、と言われてしまえばその通りなのである.しかしこういうサブリミナル効果を思わせる広告導入は、主に若年層の審美眼や美意識に大いに影響を与えるような気がしている.例えば女性誌に載るモデルがあまりにもスレンダーすぎて、病的羸痩(BMI18未満)の姿が美しく思われるように仕掛けられると、私達はその体型を理想として意識してしまう.無意識であったとしても行動として現れることがある.摂食障碍における身体認識の歪みは社会の課す美意識と無縁ではない.脱毛を推す社会は、醜形恐怖を加速させ、美容整形を過度に受診させる構造や、非脱毛の人々を排斥する構造を作り出してしまっているような気がしてならない.美容整形はもちろん個人の自由だ.本人がやりたけりゃ好きなだけやればいい.自分が気になるから自分の意思で脱毛をするのならば止めはしない.とはいってもこれは自由診療の範囲内だから全額自己負担だ.数十万円をはらう必要があるし、ご先祖様から受け継いだ毛母細胞を徹底的に破壊するには何度も通わなければならぬ.こんなことを推す商業と自由診療の結託はなんだかずるいと思ってしまう.

 私が言いたいのは他人の身体的特徴を取り上げて自分の価値観を押し付けるのはいい加減やめてほしい、ということだ.私達はどうしても同調圧力に屈しやすい.どこかに毛髪の自由と平和を守ってくれる人はいないだろうか.

 毛の自由と平和を守る作品

 2001年から「週刊少年ジャンプ」に連載された澤井啓夫氏による漫画に「ボボボーボ・ボーボボ」がある.声調はボボボーボ・ボーボボ(Bobobōbo Bōbobo).幸運にも「週刊少年ジャンプ+」に第三話まで無料掲載されているので、雰囲気をつかみたい人はぜひ閲覧するといい.アニメ化もされ、英訳もされた.よくぞ訳したものだ.まずはあらすじを借用して紹介しよう.

 300X年、地球はマルハーゲ帝国が支配していた.マルハーゲ帝国皇帝ツル・ツルリーナ四世は自分の権力の象徴として全国民をボーズにするべく「毛刈り」を開始した.毛刈りとは頭に生えている新鮮な毛を直にぶち抜くことで、この毛刈りを行うのはマルハーゲ帝国専属部隊「毛狩り隊」だった.マルハーゲ帝国はとても強大でどの国も逆らうことはできず、全国民がこの「毛刈り」によって苦しめられていた.そんな時代に毛の自由と平和を守るため一人マルハーゲ帝国に立ち向かう男がいた……その名もボボボーボ・ボーボボ! 究極の拳法「鼻毛真拳」を使う彼こそ、救世主だといいな!? (原文ママ)

 主人公ボーボボはアフロヘアにサングラスで筋骨隆々の27歳男性という設定で、大きな鼻孔から手綱のような鼻毛をムチの如く操り相手を攻撃する「鼻毛真拳」を駆使する.この拳法を受けたものはなぜか吐血してしまうので、確かに強いのだろう.毛根をぶち抜かれた人々も吐血しているため、単なる作者なりの苦悶の表現技法に過ぎないかもしれない.とりあえず武論尊氏による「北斗の拳」を意識しているようだが、あまりこの設定が深堀りされることはない.一応ボーボボと毛狩り隊との戦いが主題ではある.しかしその対立にとどまらず終始話題が髪の毛のように散らかるのが本作の魅力だろう.

 一見、頭髪に非常に厳しい作風ではある.だがそんなに気にすることはない.作者は登場人物の全員に対して徹底的に理不尽であるからだ.本当の本当に、この作品は背景や舞台、人物の相互関係や文脈、あらゆる連関を破壊する.次から次へと意味不明な人物や偶像が出現しては意味不明な言辞を述べ、作品の全体的なまとまりや整合性が失われていく.伏線やレトリックというもの、表現技法はおそらく一切存在しない.人物描写も失礼だが単調で、特に毛狩り隊の構成員はみな同じにみえる.この圧倒的な不器用さ、極端さ、まとまりのなさ、理不尽さ、ぎこちなさが最後まで貫徹されている点は逆説的に完璧である.読んでいて苦痛はない.むしろ清々しい.仮にこれを分裂気質的と呼ぶなら、作者の脳内は一体どうなっているのだろうか.そんな「ボボボーボ・ボーボボ」は徹頭徹尾スキゾフレニックな作品だ.唯一、毛狩り隊は頭髪を根絶やしにすることに執着するパラノイアックな集団である.このような構造を頭に思い描くと、私は次のような二人を想起する.

パラノ・スキゾ

 1970年代から80年代のフランスにおける哲学のユニット、ドゥルーズ=ガタリ(ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ)の共著である「アンチ・エディプス(英題:Anti-Oedipus、仏題:L’anti Œdipe)」には「パラノ・スキゾ」という概念が登場するらしい.

 パラノというのはパラノイアParanoiaという言葉から、スキゾというのはスキゾフレニアSchizophreniaから来ている.どちらも精神医学用語で、かつて前者は偏執病、後者は分裂病という訳があてられた.偏執というのは大辞林を参照すると「かたよった考えに固執し他人の意見を受け入れないこと」とある.分裂というのはちょっと難しい.分裂というと、なにか形あるものが複数へとバラバラになるようなイメージをもつと思う.一つの考えにとらわれず、他の意見も聞き入れることもあるが不安定で落ち着きがないさまでもある.無秩序でアトランダムな動きをするブラウン運動の如き、野放図といったところか.彼らの頭髪も奇しくも対照的に見事に散らかっている.実にすばらしい.

 さて、ドゥルーズ=ガタリのいう「パラノ・スキゾ」という二項対立は、1980年代に作家の浅田彰氏による「逃走論」の流行で特にもてはやされたようだ.私はそのころ生きていない.要は「みんな、パラノイア的なアイデンティティはもうやめよう!これからはスキゾ的な生き方をしよう!」といった文脈で、社会的な役割や他人の評価に縛られることなく生きていくことを提案していく空気感が醸成されたらしい.

「いいか、タケシ、うちは代々大工だ.お前も中学を出たら大工の跡継ぎとして、俺の手伝いをしろ.いいな!男の癖に裁縫なんかやってるんじゃぁねぇ!」

「まぁ〜お千代さん、よろしくって?東条家の女は皆立派なお家に嫁いで行ったのです.こどもじゃないんだからいつまでも泥だらけで虫なんか捕まえてないでちょうだい.みっともない真似をこれ以上世間様に晒したら承知しませんヨ」

みたいな発言はパラノ的で、アイデンティティを束縛する生き方である.確かに上記の発言は石坂浩二の「金田一耕助シリーズ」でよく眼にした台詞で、あの頃の作品に登場する若者たちは皆それぞれアイデンティティに対する葛藤を胸にしていたように思う.この図式は今でも色褪せないもので、私自身もよく身に沁みて落ちないくらい心に感ずるものだ.

 それはともかく、ドゥルーズ=ガタリで用いられた「パラノ・スキゾ」の二項対立は哲学の入門書にも代表的概念として載っているくらいなので、そんなにわかりやすいのかと思い、私はStanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード哲学百科事典)の門戸を叩いた.このサイトは無料で公開されている哲学の百科事典であり、選任された多くの哲学者が寄稿した記事が別の学者によって現在も何度も何度も査読と修正がされている.言語は英語のみであるが、ウィキペディアなんかよりも遥かに信頼できる情報源といっていいだろう.ただ盲信しているわけではないことを断っておきたい.

 私はわくわくしながらドゥルーズの記事に「パラノ・スキゾ」がないか、探した.何度も何度も探した.しかし見つからなかった.とりあえずスキゾは見つかったがパラノはどこにも書いていなかったのである.よって上記の構造については全く触れられていなかった.あれれれれれれれ?「パラノ・スキゾ」は代表作「アンチ・オイディプス」の記事に書いてあるだろうと思ったが、全くパラノのパの字もなかった.パラッパラッパー!その代わり、凄まじく長い記事が瀑布の如く私の眼に垂直落下してきた.非常に難しい内容であったが、何日もかけて全訳することにした.英文は米国パドゥー大学(Purdue University)のダニエル・W・スミス氏(Daniel W. Smith)とジョン・プロテヴィ氏(John Protevi)によるもので、二人ともドゥルーズを専門とする人物であり、哲学科の教授である.まずは皆さんにも証人になっていただく.ぜひお茶でも飲みながら英文を読んで、それから和訳を見てほしい.

L’anti-Œdipe

 「アンチ・オイディプス」について考えるとき、はじめに私達はそのパフォーマンス的な効果について論じるべきで、その効果は「私達に思考をさせる」ことをしむける、すなわち、クリシェ(常套句)への傾倒に対する戦いを試みるのである.「アンチ・オイディプス」を読むことは実に衝撃的な体験になる.第一に、私達は情報源の奇妙な集積を目の当たりにする.アントナン・アルトー(Antonin Artaud)のスキゾフレニックな怒号は作品「器官なき身体」(Corps-sans-organes)の基本的概念である.第二に、著作の下品さは無意識(イド)についての悪名高い序文においてと同じようである.「そいつはどこでも動く、時代に適応してちゃんと仕事をする.そいつは熱を発し、飯を食い、糞をしてセックスもする[Ça chie, ça baise]. イドについてなんとまぁ間違ったことが言われてきたことか.」第三のパフォーマンス的効果はユーモアだ.メラニー・クラインの児童に対する分析を誂うのと同じようである.「なぁ、オイディプスって言ってみな、そうすりゃあんたの頭をひっぱたいてやるよ」こうした文章はほかにも沢山ある.「アンチ・オイディプス」ほど多くの冗談、駄洒落、 double entendres(一つの語句に二つの意味があり一つは性的な意味をもつもの)を含んだ荒削りの哲学書は極めて少ないのである.第四の要素はどんちゃん騒ぎの卑猥な論争である.その他多くの例の中でいうと、シニフィアンについて考える奴は暴君の言いなりに成り下がっているとか、フランス共産党党員はファシストにリビドーを注いでいるだとか、さらにフロイトは「仮面をかぶったアル・カポネだ」と描写されるのである.「アンチ・オイディプス」を読むと終始そのパフォーマンス的効果は忘れがたいものになる.

 本著の概念的構造に差し掛かると、「アンチ・オイディプス」の鍵となる用語は「欲望する機械」となる.マルクスとフロイトを縦横に駆けるそれは、欲望を生産という生態社会領域の中に置き、生産を欲望という無意識の領域の中に置くのである.通常の方法でマルクスとフロイトを統合しようとするよりも、欲望する機械は還元主義者の戦略によって次のように機能する.1)フロイトの側に立って、家族の像と様式のリビドー的投資が、それらの原始的投資に昇華することを求めるとするもの、あるいは2)マルクスの側に立って、神経症と精神病を不当な社会の構造上の副産物にすぎないものとして位置づけるものとする.ドゥルーズとガタリは欲望する機械を、表層上は分離している自然的、社会的かつ心理的領域に潜むものを「普遍的一次過程」と呼ぶ.それゆえに欲望する機械は人間中心主義ではなくて、世界のまさに中心なのである.その普遍的視野に加えて、私達は直ちに欲望する機械の二つについて理解する必要がある.1)生産物の背後にある主体はおらず、主体こそが生産を行う.2)欲望する機械の「欲望」は欠如を生むために関心を向けるのではなく、純粋に積極的である.欲望する機械は自律的で、自己建設的かつ創造的である.それはスピノザのnatura naturans(能産的自然)、あるいはニーチェの力への意志である.

 「アンチ・オイディプス」は概念的かつ術語的な技術革新とともにある、壮大な野心をもった作品である.その野心の中には、1)自然・文化の分裂両者を包含する、変化と変形あるいは「変形中」の存在論として機能する、生産の生態社会論と、2)社会形態の「普遍的歴史」ー「野蛮な」あるいは部族的な、「蛮族の」あるいは帝国的な、そして統合的な社会科学として機能する資本主義者.3)そしてこれら機能に対して土壌を築くこと、マルクスとフロイトに関する一般的な意見への批判ーそして応用領域を類比することで統合を試みることが挙げられる.そうした野心を追求する際、「アンチ・オイディプス」はtour de forces(妙技)ゆえの美点と欠点がある.異質な要素と要素の間で想像だにしなかった結合は可能となるが、何らかの緊張を孕んだ概念的な制度が犠牲となる.

 「アンチ・オイディプス」は欲望する機械の二つの主要な記録を識別する.自然または「形而上学的」そして社会的または「歴史的」な記録である.それらは次のような方法で関連付けられる.自然的な欲望する機械は社会という装置が抑制するものであるが、歴史(不確実な歴史、すなわち歴史の弁証法を避けるもの)の終焉に、資本主義において明らかにされるものである.資本主義は欲望する機械を自由に解き放ち、私有財産機構と欲望の家族的または「オイディプス的」様式を伴って統制しようとする.こうして分裂病の人々は欲望する機械の責任下で動き出すのだが、資本主義者社会の提案する限界で失敗する.それゆえに欲望する機械の働きに手がかりを与えるのである.

 ドゥルーズとガタリが分裂病を「生活様式」あるいは政治的プログラムのモデルとして提唱していないことを理解することが第一に重要である.分裂病は、臨床の実体として、欲望する機械のプロセス阻害、障碍の結果である.分裂病は自然と社会から取り出され、現実を成立させる結合を形成するよりも虚空を転回する個人の肉体に縛られているのである.欲望する機械は現実「と」結びついているのではない、欲望する機械は目的に触れるため主観的牢獄へ逃げるように、現実をつくるのである.それこそ現実であり、ラカン派の用語でいうねじれにおいてである.ラカンによれば、現実とは架空のものとして、意義あるシステムへの逆投影された剰余として生み出される.ドゥルーズとガタリにとって、現実とは自己形成のその過程において現実そのものである.分裂病者は助けを必要とする病人であるが、分裂病は無意識への方法であり、無意識は個人のものではなく、「超越的無意識」であり、社会的、歴史的、自然的なものをひとまとめにする.

 分裂病の過程を研究する際、ドゥルーズとガタリは自然かつ社会の記録双方において欲望する機械が三つの統合で成り立っていると論じた.結合、離接そして接続である.統合は三つの機能を果たす.生産、記録、享楽である.私達は生産を生理学的なもの、記録を記号論理学的なもの、そして享楽を心理学的記録と関連付けることができる.「統合」というカント派的響きを捉えることが重要である一方、統合を実行する主体が不在という、我々が先に述べたポスト構造主義者の視点に沿って注意することが等しく重要である.その代わりに主体は統合の生産物の一つそのものである.統合は主体に位置づけられている.それら統合とはただ欲望する機械の内在過程である.統合の背後に主体を位置づけることは統合の超越的用法であろう.ここで我々はカント派の内在の原則について、もう一つの言及を参照できる.ドゥルーズとガタリは「唯物論的精神分析」あるいは「分裂病分析」における統合の内在的用法を研究することを提案する.対照的に、精神分析は統合の超越的用法であり、五つの「パラロジズム」あるいは「超越的幻想」を生み出し、集中的な生産過程への広範囲な実質的な所有物特性を割り振るものとして関与する.すべてのパラロジズムが生産物から派生するアイデンティティに特異な過程を従属させる.

*アントナン・アルトーはフランスの俳優、詩人、演劇家.統合失調症の診断を受け九年間入院したこともあるが、生涯を創作活動に捧げた.「器官なき身体」は彼の言葉.

*パラロジズムとは誤った結論や議論を導く論理および修辞学の技法のこと.誤謬など.

*シニフィアンとは、ソシュールによる言語学用語.言葉のもつ感覚的側面とも言える.文字や音声はシニフィアンに当たる.一方、シニフィエは想起する意味内容や概念を差す.

オイディプスとスフィンクス.命がけのなぞなぞバトルを行う.

 「アンチ・オイディプス」において記された「普遍的歴史」によれば、社会的生活は、生産に対する功績を認める社会組織「socius(同胞)」の三つの形態をとる.部族のための大地、帝国のための君主の体、そして資本主義のための資本家である.ドゥルーズとガタリの人類学的文献の読解によれば、部族社会は入信の儀式で体に印をつける.そうして器官の産物は一族に、大地に神話的に遡るのである.より正確にいえば、神秘的な領域の一部、器官としての機能が大地全体へとたどり着く.物質的流動はこのように「領土化されたもの」で、大地に遡り、すべての産物の源として認められる.部族的な碑文の印はシニフィアンではない.それらは音声に位置付けするのではなくて、「野蛮な三角形:連結された音声、生々しい手、観察力のある眼、これら三つが独立していることを意味する残酷劇」を上演をするといえよう.帝国はこれらの部族的意味の暗号を超コード化し、生産物を聖なる父たる君主に遡及させる.君主制帝国における物質的流動は「脱領土化」(もはや大地に認知されない状態)になり、すぐに君主、あらゆる生産物に対して信用を引き受ける肉体に「再領土化される」のである.部族の印が超コード化されると、シニフィアンは「脱領土化した印」とされ、支配者と被支配者との間のコミュニケーションを可能にする.シニフィアンは「平板化」または「二義化」である.二つの鎖が一対一で並び、書き言葉と話し言葉に対応する(デリダの音声中心主義という考え方を参照).帝国のsocius「同胞」としての君主の肉体は、労働者が君主の「手」であり、密偵はその「眼」であることなどを意味する.

 資本主義は、以前の社会的機械が熱心に大地と君主の体にコード化した物質的流動の根本的な解読と脱領土化である.生産は資本の「肉体」に信用付けられるが、コードに対する「自明なもの」の代替による記録形式である.この文脈において「自明な」という意味は(脱領土化した労働と資本の)流動の間の差異よりもsocius「同胞」における図を流れる定性的な判断に対する精巧な規則というよりもむしろ定量的計算に対する一連の単純な原則を意味する.資本主義の命令はまったく単純である.脱領土化した労働と資本の流動を接続しその接続から余剰を抽出する.このようにして資本主義は巨大な生産的責任を緩和しこれら流動を接続するのである!速く、もっと速く!私有財産機関の余剰は個人の所有物として記録しようとする.今やこれら個人は主に社会的(資本家あるいは労働者の像として)であり次に私的なもの(家族)である.肉体の器官が社会的に以前の体制において顕著である一方、(一族と大地の帰属物として、あるいは皇帝の所属として、jus primae noctis「初夜権」として)肉体の器官は資本主義のもので民営化され家族の一員として人に付帯する.ドゥルーズとガタリの言葉では、資本主義の脱コードされた流動性は「人々」における再領土化であり、それは、オイディプス的三角形における像としての家族なのである.

哲学界のD&G.左がDで右がG.対照的な散らかり具合だ.

In considering Anti-Oedipus we should first discuss its performative effect, which attempts to “force us to think,” that is, to fight against a tendency to cliché. Reading Anti-Oedipus can indeed be shocking experience. First, we find a bizarre collection of sources; for example, the schizophrenic ranting of Antonin Artaud provides one of the basic concepts of the work, the “body without organs.” Second is the book’s vulgarity, as in the infamous opening lines about the unconscious (the Id): “It is at work everywhere, functioning smoothly at times, at other times in fits and starts. It breathes, it heats, it eats. It shits and fucks [Ça chie, ça baise]. What a mistake to have ever said the id” (7 / 1). A third performative effect is humor, as in the mocking of Melanie Klein’s analysis of children: “Say it’s Oedipus, or I’ll slap you upside the head [sinon t’auras un gifle]” (54 / 45; trans. modified). There are many more passages like this; it’s safe to say very few philosophy books contain as many jokes, puns, and double entendres as Anti-Oedipus. A fourth element is the gleeful coarseness of the polemics. Among many other examples, thinkers of the signifier are associated with the lap dogs of tyrants, members of the French Communist Party are said to have fascist libidinal investments, and Freud is described as a “masked Al Capone.” All in all, the performative effect of reading Anti-Oedipus is unforgettable.

Passing to the conceptual structure of the book, the key term of Anti-Oedipus is “desiring-production,” which crisscrosses Marx and Freud, putting desire in the eco-social realm of production and production in the unconscious realm of desire. Rather than attempting to synthesize Marx and Freud in the usual way, that is, by a reductionist strategy that either (1) operates in favor of Freud, by positing that the libidinal investment of social figures and patterns requires sublimating an original investment in family figures and patterns, or (2) operates in favor of Marx by positing neuroses and psychoses as mere super-structural by-products of unjust social structures, Deleuze and Guattari will call desiring-production a “universal primary process” underlying the seemingly separate natural, social and psychological realms. Desiring-production is thus not anthropocentric; it is the very heart of the world. Besides its universal scope, we need to realize two things about desiring-production right away: (1) there is no subject that lies behind the production, that performs the production; and (2) the “desire” in desiring-production is not oriented to making up a lack, but is purely positive. Desiring-production is autonomous, self-constituting, and creative: it is the natura naturans of Spinoza or the will-to-power of Nietzsche.

Anti-Oedipus is, along with its conceptual and terminological innovation, a work of grand ambitions: among them, (1) an eco-social theory of production, encompassing both sides of the nature/culture split, which functions as an ontology of change, transformation, or “becoming”; (2) a “universal history” of social formations—the “savage” or tribal, the “barbarian” or imperial, and the capitalist—which functions as a synthetic social science; (3) and to clear the ground for these functions, a critique of the received versions of Marx and Freud—and the attempts to synthesize them by analogizing their realms of application. In pursuing its ambitions, Anti-Oedipus has the virtues and the faults of the tour de force: unimagined connections between disparate elements are made possible, but at the cost of a somewhat strained conceptual scheme.

Anti-Oedipus identifies two primary registers of desiring-production, the natural or “metaphysical” and the social or “historical.” They are related in the following way: natural desiring-production is that which social machines repress, but also that which is revealed in capitalism, at the end of history (a contingent history, that is, one that avoids dialectical laws of history). Capitalism sets free desiring-production even as it attempts to rein it in with the institution of private property and the familial or “Oedipal” patterning of desire; schizophrenics are propelled by the charge of desiring-production thus set free but fail at the limits capitalist society proposes, thus providing a clue to the workings of desiring-production.

It’s important at the start to realize that Deleuze and Guattari do not advocate schizophrenia as a “lifestyle” or as the model for a political program. The schizophrenic, as a clinical entity, is the result of the interruption or the blocking of the process of desiring-production, its having been taken out of nature and society and restricted to the body of an individual where it spins in the void rather than make the connections that constitute reality. Desiring-production does not connect “with” reality, as in escaping a subjective prison to touch the objective, but it makes reality, it is the Real, in a twisting of the Lacanian sense of the term. In Lacan, the real is produced as an illusory and retrojected remainder to a signifying system; for Deleuze and Guattari, the Real is reality itself in its process of self-making. The schizophrenic is a sick person in need of help, but schizophrenia is an avenue into the unconscious, the unconscious not of an individual, but the “transcendental unconscious,” an unconscious that is social, historical, and natural all at once.

In studying the schizophrenic process, Deleuze and Guattari posit that in both the natural and social registers desiring-production is composed of three syntheses, the connective, disjunctive, and conjunctive; the syntheses perform three functions: production, recording, and enjoyment. We can associate production with the physiological, recording with the semiotic, and enjoyment with the psychological registers. While it is important to catch the Kantian resonance of “synthesis,” it is equally important to note, in keeping with the post-structuralist angle we discussed above, that there is no subject performing the syntheses; instead, subjects are themselves one of the products of the syntheses. The syntheses have no underlying subject; they just are the immanent process of desiring-production. Positing a subject behind the syntheses would be a transcendent use of the syntheses. Here we see another reference to the Kantian principle of immanence. Deleuze and Guattari propose to study the immanent use of the synthesis in a “materialist psychoanalysis,” or “schizoanalysis”; by contrast, psychoanalysis is transcendent use of the syntheses, producing five “paralogisms” or “transcendental illusions,” all of which involve assigning the characteristics of the extensive properties of actual products to the intensive production process, or, to put it in the terms of the philosophy of difference, all the paralogisms subordinate differential processes to identities derived from products.

According to the “universal history” undertaken in Anti-Oedipus, social life has three forms of “socius,” the social body that takes credit for production: the earth for the tribe, the body of the despot for the empire, and capital for capitalism. According to Deleuze and Guattari’s reading of the anthropological literature, tribal societies mark bodies in initiation ceremonies, so that the products of an organ are traced to a clan, which is mythically traced to the earth or, more precisely, one of its enchanted regions, which function as the organs on the full body of the earth. Material flows are thus “territorialized,” that is, traced onto the earth, which is credited as the source of all production. The signs in tribal inscription are not signifiers: they do not map onto a voice, but enact a “savage triangle forming … a theater of cruelty that implies the triple independence of the articulated voice, the graphic hand and the appreciative eye” (189). Empires overcode these tribal meaning codes, tracing production back to the despot, the divine father of his people. Material flows in despotic empires are thus “deterritorialized” (they are no longer credited to the earth), and then immediately “reterritorialized” on the body of the despot, who assumes credit for all production. When tribal signs are overcoded, the signifier is formed as a “deterritorialized sign” allowing for communication between the conquered and the conquerors. Signifiers are a “flattening” or “bi-univocalization”: two chains are lined up, one to one, the written and the spoken (205–6; cf. Derrida’s notion of “phonocentrism”). The body of the despot as imperial socius means that workers are the “hands” of the emperor, spies are his “eyes,” and so on.

Capitalism is the radical decoding and deterritorialization of the material flows that previous social machines had zealously coded on the earth or the body of the despot. Production is credited to the “body” of capital, but this form of recording works by the substitution of an “axiomatic” for a code: in this context an “axiomatic” means a set of simple principles for the quantitative calculation of the difference between flows (of deterritorialized labor and capital) rather than elaborate rules for the qualitative judgments that map flows onto the socius. Capitalism’s command is utterly simple: connect deterritorialized flows of labor and capital and extract a surplus from that connection. Thus capitalism sets loose an enormous productive charge—connect those flows! Faster, faster!—the surpluses of which the institutions of private property try to register as belonging to individuals. Now those individuals are primarily social (as figures of capitalist or laborer) and only secondarily private (family members). Whereas organs of bodies were socially marked in previous regimes (as belonging to the clan and earth, or as belonging to the emperor, as in the jus primae noctis), body organs are privatized under capitalism and attached to persons as members of the family. In Deleuze and Guattari’s terms, capitalism’s decoded flows are reterritorialized on “persons,” that is, on family members as figures in the Oedipal triangle.

難解を極めるD&G

  お疲れ様でした.確かに「パラノ」という言葉は出てこなかった.翻訳をなるべくスムーズに読めるように苦心したが私にはこれが限界である.兎にも角にも「アンチ・オイディプス」という作品で示されているのは、フロイトの唱えた「オイディプス・コンプレックス」に対する強い批判であり、オイディプス王の呪いの図式の如く、欲望をなんでもかんでもオイディプス・コンプレックスの図式に当てはめてしまうのはやめませんか、というものだ.そして資本主義社会のコード化(ルール)を免れているのは、分裂病の人々だ、彼らこそ資本主義に抗うことのできる欲望機械なのだ!彼らに続け!という主張である.ここでいうコードというのは規律や法が相当する.それにしても非常にわかりにくい解説である.おそらく記事を書いた人たちのせいではなくて、ドゥルーズとガタリが難しすぎるのだろう.「コード化」「脱領土化」「三角形」これらの言葉の持つ射程がでかすぎる.ポスト構造主義はこういうものなのかな.「ドゥルーズの理解が難しいのは彼の文体が難解であるからだ、彼の散文はかなり意味深で新語を交えるせいでもある(One of the barriers to Deleuze’s being better read among mainstream philosophers is the difficulty of his writing style in his original works (as opposed to his historical works, which are often models of clarity and concision). Deleuze’s prose can be highly allusive, as well as peppered with neologisms)」とされているので、やはりドゥルーズのせいだ.

 ここまできて私の意見を言っておくと、確かに.私自身いたずらに「オイディプス」の図式に当てはめて葛藤を解釈するのはどうかと思うことはずっとあったから部分的に納得はできる.かつて「この症例にオイディプス的葛藤はありますか」と他の先生に訊かれたことがあったが、誰もが父親を殺し、母親と交わるという呪いがかかっているとは思えなかったので「どうなんでしょうね」と自分でも糞みたいな返事をしたのを覚えている.孤児だったらどうするんだ、とか片親だったらどう説明するのか、と私はいつもひねくれたことを考えている.

 もう一つ、おそらくドゥルーズ=ガタリはアントナン・アルトーの例に感化されたのだろうか、分裂病、今で言う統合失調症に対する期待が大きすぎるように思う.まぁこの解説でも注意書きがあるように、「ドゥルーズとガタリが分裂病を「生活様式」あるいは政治的プログラムのモデルとして提唱していないことを理解することが第一に重要である.(It’s important at the start to realize that Deleuze and Guattari do not advocate schizophrenia as a “lifestyle” or as the model for a political program. )」としているのだが、分裂病は、対象の人格・知覚・思考を大いに脅かす疾患であり、適切な治療なしには時間経過とともに人格の解体を引き起こすことはいうまでもない.資本主義から逃れることは確かにできるだろうが、そもそもの社会に適応できないリスクが大きすぎて、このモデルはどう考えても推奨できない.「ボボボーボ・ボーボボ」をご覧になればわかるが、話がどんどん脱線して収集がつかなくなっているような分裂状態は歓迎できない.かろうじてセリフの文法は破綻していないので、完全な解体ではないにせよ.あの状態が続くと疲れてしまう.

ケツ毛ごと愛する

 さてさて、パラノvsスキゾという構造がそこまで重要なものではなさそうだということをようやく確認できたところで、脱毛の話に戻る.私は脱毛を押し付ける社会は喜べないと述べた.そして毛髪への脅威に対抗する英傑にボボボーボ・ボーボボを求めた.脱毛を勧める社会をパラノ的とすれば、ボボボーボ・ボーボボの住む世界はスキゾ的であり、かつて浅田彰氏が提唱した「パラノ・スキゾ」の二項対立を経て、スキゾ的生き方が推奨されるのではないか、とボーボボに期待した.ドゥルーズ=ガタリにも期待した.しかしボーボボの世界はかなりとっ散らかっているし、ドゥルーズの頭髪もかなり散らかっていた.ポスト構造主義の識者の意見を求めたが、そもそもパラノとスキゾの対立はドゥルーズ=ガタリの根幹ではないように感じた.きっと浅田彰氏の文脈に多くの人が、時代が影響を受けたのだろうと推察する.この記事を書き始めた私は、「スキゾ的生き方バンザイ!!」で文末を終わらせようとしていたが、嬉しいことに目論見が外れた.これがわかっただけでもよかった.スキゾ的生き方も大変なのだ.

 皆さんは脱毛についてどのようにお考えだろうか.「そんなの考えすぎだ」という人のために言っておくと、この問題は考えすぎたほうがいいくらい重要である.あなたに高校生の息子・娘がいたと仮定して、たまたまあなたの剛毛な遺伝形質が受け継がれたとする.その表現型に悩むあなたのご子息ないしご息女はあなたに「医療用脱毛したいから現ナマ30万円貸してくれ」という.即座に「ホイ、30万やで.気をつけて行っといで〜」と言うだろうか.そうではないはずだ.なにかしら逡巡するはずなのだ.このあなた方に芽生える葛藤が消失しない限り、私達はとことんルッキズムや価値観、審美性、美意識や表現の自由について議論を行うべきだ.ずるい言い方だが私達は「パーシャル・パラノイアック」かつ「パーシャル・スキゾフレニック」であればいい.自分自身の最大幸福と公共の利益の天秤をグラグラ揺らしつつも、自分にとってかけがえのないもの(アイデンティティ)は譲らず、許せるところは優しい気持ちでとことん譲ればいい.双極において極端な思考は良くない.

 最後に、同じく週刊少年ジャンプで連載されていた漫画「銀魂」より、すべての葛藤を凌駕するであろう象徴的なコマを紹介しておきたい.とある男性がキャバクラに来客する.接客してくれる女性スタッフに、

「彼氏のケツが毛だるまだったらどーするよ?」

 と尋ねる(無論毛だるまなのは本人なのだが).これに対し、女性は以下のように答える.

「ケツ毛ごと愛します」

 この仏性漂う言葉に心弾ませた男性は以来、この女性に惚れてしまうのである.自分が密かに劣等感を感じているものを受容してくれるような器量.これは私見だが、このような無条件歓待の態度が衆生救済につながるような気がしてならない.価値観の相克でなく、受容と共感.何かに固執することもせず、奔走することもなく、受け入れること.たとえブサイクでも、禿でも、毛深くても、持病があっても、整形していても、すっぴんと化粧後のビジュアルがでかくても、鼻毛がちらっと飛び出ていようと、うなじの毛が散らかっていようと、足の親指に毛が三本生えていようと、ケツ毛が毛だるまだとしても、ピーマンが苦手でも、ナイフとフォークが使えなくても、受け入れられるならばそれでいい.愛せるならばそれでいいのだ.愛せないのならば通り過ぎればいい.それ以上は野暮だ.Wo man nicht mehr lieben kann, da soll man – vorübergehen!

「銀魂」第二巻八訓「粘り強さとしつこさは紙一重」より

 

ファントムドライブ

オキゴンドウとファントム

 冷たい夜に車を運転をしていてびっくりしたことがある.あるとき前方に巨大な車体を認めた.尾灯の形は見慣れぬもので、自動車診断学の知識を活かしてなんとかロールス・ロイスのそれだとわかったが、夜間だと車種が同定しづらい.前方100mではわからなかった.自然と近づいて追い越してゆく際に横目で見やると、ぎょぎょぎょぎょ!以前取り上げたファントムVIIIであった.なんというデカさ!車体があまりにもでかすぎる.ドレッドノート戦艦を基準にして例えられる「超弩級」という言葉はファントムにふさわしいと思った.だが誤解なくいうと私は決してその車の意匠は好きではないし、ほしいとも思わない.ではなんでそんな話をするのか.本当は好きなんじゃないのか.そう思った方は、ただの小市民が体長5mのオキゴンドウを飼育したいと思うだろうかと考えてほしい.見た目の好みもあってもいいじゃないか.とはいっても水族館で見ればワクワクするものだ.ただ私は同じようにファントムを見てワクワクしただけだ.その夜はオキゴンドウがゆったりと海遊するように、ファントムも悠々と公道を駆け抜けていた.

 同時に私は、密かにリスペクトしている安永浩の、あるエッセイの表題を思い出した.

ファントム空間は疾走する

 こういうことを書くと、中二病だとか、キザだとか、カッコマンだといじめてくる人がいる.これは安永のオリジナルであり、彼はジャン・コクトーらしさを想起して悦に浸っていると述べている.私はジャン・コクトー風情を理解しないのだが、この句が意味するところを以下の文章を引用して説明しよう.

 当時私は、停年後始めた楽しみとして、自動車運転に凝っていたので、ふとこの言葉が頭に浮かんだのである.つまり運転しているときの注意空間は、前後100メートル位、左右が各10メートル位の透明な紡錘状をしているように思えて、この目に見えない空間が、時速40−60キロで車とともに疾走している、というところをイメージしたのである.もちろんどの運転者でも同じだから、路上は無数のファントム空間が疾走し、交錯していることになり、ぶつかる音はしないが大変な混雑ぶり、とこの「目」からは見える…….

 これを見て私は歓喜した.以前の記事で紹介した意識的知覚系Rファントム機能系Ph仮設図式系HSの例えとおよそ同じでは無いか、と.どうか夕方の首都高速6号線小菅ジャンクションのことを考えていただきたい.運転が上手ではない私から言わせてもらうとあれはひどい所だ.あれは左右から無数の車が合流をしかけあう無慈悲な戦場である.まるで海中をアジやイカやカサゴやボラがヒューヒューと泳ぎ回り、お互いにぶつからないように巧みに交錯する.そして時折オキゴンドウやジンベイザメがぬぼーっと周りを威圧して泳ぎ、コバンザメが便乗して右左折をする.はぐれたイワシの身である自分としては緊張する場面である.とはいえ、私の考えていた事、車に例えていたことが同じであったのは僥倖で、一瞬安永と400%くらいシンクロしたような感覚となった.案外思索にふけるのは悪くないなと思った.

 無数の意思が、互いに干渉しないように(時として干渉してしまうが)走り抜けていくさまを見ると、私は背景にファントム機能を意識せずにはいられない.おそらく脳科学の立場からいえば「身体感覚の延長」という表現になるのだろうが、私は「ファントム空間が疾走する」方がしっくりくる.より説明的だと思っている.ではどのように説明的か、というとその説明はなかなか難しい.まずは特集「ファントム空間論」をはじめからご覧になっていただければと思う.いつか脳科学の立場から幻肢を取り上げて説明を試みたいとも思う.

ファントム短縮2.0

 なんどもなんども読み返してもわからない部分というのがあった.彼の著書に図示されているファントム短縮の説明が大変抽象的?(もしくは自分がポンコツ)なので一つの図を理解するのにものすごく時間がかかってしまって、なかなか前に進めない感覚があったのである.「ファントム短縮」というタイトルで昨年の12月25日に投稿をしたときは、その説明は割と表層をなぞるような記事に過ぎず、各論に迫りきれなかった.まずはおさらいをしておく.

 ファントム空間(こころの空間)とは、体験可能な至近点(自分の身近なところ)から至遠点(赤の他人)までの空間のことをいう.その至近極からその時のイメージまでの体験距離をファントム距離、といい(こころの距離)、これを保っている特殊エネルギー実態の働きをファントム機能(こころの機能)と呼称する.ファントム距離はビヨヨ〜ンとゴムまりのように多少伸び縮みする.だがたいていは至適定常距離にある.つまりほどほどの距離感を保つことができている.知的イメージはその端に現れる.知的イメージというのは、「家族」、「友人」、「職場の人間」といった他者の存在と考えてよい.それなりの距離感を自分なりに掴んでいる.それがファントム機能だ.この機能が正常であれば、習慣的に作られた世界の距離的構造の認識図式とファントム機能とはそのファントム距離測定において全く一致している.

 ところがファントム機能のなんらかの失調により、ファントムエネルギーが低下してしまったとする.だが、自身はそれに気づかない.当人にとって実際のイメージはその「予期された距離」にはなかった.自身はよろめき、錯覚運動が起こる.どのような錯覚運動か.前回の記事で例えたエレベータをもとに考えてみる.エレベータにおいて自分が完全な静止系にいると思っていたら実は自分が等速運動する慣性系にいて、なおかつ突如急制動し、自分が浮き上がるような感覚である.これは「不意打ち」に近い仕打ちだ.当然狼狽するだろう.安永はこのような「不意打ち」をファントム短縮と呼んだ.

 

 この議論はもう少し深堀りすることができるようだ.安永は以下のように議論を進める.知覚体験における意識全体のあり方と、表象体験における意識全体のあり方と、表象体験における意識全体のあり方は異なっている、と.ではどう異なるのか.彼はジャン・ポール・サルトルの現象学的考察を取り上げている.残念ながら私にはサルトルの考えはよくわからない.だが、要するに知覚体験には「外界から流入するたえざる充実」という激しい緊張関係がある一方で、表象世界にはそれがない.おそらくは、視覚のような知覚体験は、失明するか後頭葉を損傷するなどして、神経系を遮断しない限り、無条件に情報が入ってくる.嗅細胞が破壊されなければ、うなぎの蒲焼きの薫香から逃れることができない.それらに対して主体は何らかの想起をする.イメージする、というと曖昧だし、せっかくなので現象学用語のノエシスを使おう.ノエシスが作用してなにがしかのノエマが生じる.つまり、インプットとアウトプットという二つの方向性が生じている.一方、表象というのは、そもそもが抽象的なものだから、知覚情報として入ってくるものではなく、あくまで思念するものである.これは脳内でアウトプットするのみであり、一方向的である.そんなに間違ったことは言っていないだろう.この話は錯視の話にも通ずる.

 ファントム的にいえば、(ファントム的、という表現は安永らしくて好きだ)表象空間は、現実にはないものを指向する、という意味でまさにファントム空間である、と安永はいう.知覚空間では主観的ファントム空間は、さらに現実知覚の流入と充実によって二重の枠付を受けている.この現実の枠付は主観で左右するわけにはいかない独自の源泉をもっている.

 このような相違は「ファントム短縮」の仮定を導入した場合、どのような結果に、どのような現象として現れるだろうか、という問題提起をする.一つは「遠ざかり」、もう一つは「自我収縮」である.ファントム短縮が主観的には、世界自体の錯覚運動=対象距離感の異様の離隔として体験される場合が、「遠ざかり」、自分自身について体験する場合は「自我収縮」となる.……らしいのだが、どうにもこうにもよくわからない.さらに、彼が追補するのは「ファントム短縮」は対象の「遠ざかり」だけでなく、自身の「遠ざかり」が現れてもよいはずだ、という論である.このあたりで私はしばらく躓いていた.

 「この図(図1)を見ていただければわかると思うが」と本には記してあるのだが、私には何度見直してもよくわからなかったことが大きい.何百回見直しただろうか.別に著者を責めるつもりはない.私の理解力を嘆くほかないのか、それとも他の読者にも難解なのか.これは感想を聞いてみたいところだ.

 

図1:置き去りと自我収縮、その両方について安永が考案した図

  あれから幾星霜、なんとかわかったような気がしてきた.自分なりに紙に書いて図示するのが一番良かった.おそらく以下の二つの図として再構成あるいは再解釈すると、わかりやすいのではないかと思う.

 図2を取り上げる.自分と他者がいる.その間は物理的な距離が存在しているとしよう.つまり5メートルや、6フィートだとか、六尺といった具合である.では5メートルとしよう.もしファントム機能が健全であれば、自分と他者の間には5メートルと等しい体感的な距離(ファントム距離)が生成される.通常、ファントムと現実の距離が一致している.そして主体はそのことは自明だとしている.これが健常例である.

 もし、ファントム機能が破綻したとすると、これは無自覚に生じるので、常に主体(R)は気づかないことが前提になる.ファントム空間の射程が文字通り短縮すると、体感可能な空間は他者まで及ぶことはない.及ぶことができない.この場合ファントム距離はそのまま5メートルだと錯覚したままなのであるから、相対的に物理的距離は(そもそもが5メートルにもかかわらず)遠く空虚に感じられる.他者が「他極」から抜け出すような見え方にもなる.この距離感は決して届くことのないもので、たどり着くことのない空隙である.

 もう一つの例は、自己(R)が自極(HS)から「抜け出す」場合である.最初の例は「対象が次第に遠くに離れていく」図式であったが、次の例は「自分(R)」が「自極(HS)から遠ざかっていく」体験といえる.幽体離脱という怪奇現象に似ていると思う.イメージとして「ジョジョの奇妙な冒険」第三部以降に出現するスタンド:幽波紋にも似ている.それから例1と同じように、自身はこのファントム短縮を自覚しない.しかに背後に誰か(HS)がいる感覚.もちろん自分と他人との距離は変わらず5メートルなのだが、自分自身の位置感覚が奇妙に感じられる.

「えっなんで俺が後ろにいんの?」

 最後は混合例である.この場合は、ファントム空間が自他ともに展開されていない場合で、「置き去り」と「自我収縮」を同時にくらってしまったと考える.自分(R)の背後には自分(に似たような誰か; HS)がいる感覚.そして周りの人々は妙によそよそしい.みんな遠巻きに自分を見ている.この感覚は恐ろしい.

図2:健常のファントムとファントム短縮の一例、置き去り
図3:ファントム短縮の例、自我収縮と混合

 このような体験はあくまで仮定であって、安永は何度も繰り返しているのだが、このように考えると症例が語る言葉が実にTheoreticalに理解できるという.私はようやく同意できる立場になった.症例提示を行おう.安永の症例を原文通り引用してみる.

<症例1>

「私がいましゃべっているのはの声です(自分の後頭部を順々に指しながら)大脳、中脳、小脳、中枢、この中枢の声です.中枢がしゃべらせているのです.私の声ではありません」

あなたの声はどんな声なの?>と治療者がきくと

「ちょっと待って下さい.……(と一息ととのえる感じであらたまって)○○君(自分の名前)しゃべりなさい!……(と自らに向かっていう.)父の墓まいりに行きたいので外泊させて下さい.……(云々)いまの声は私の声です……」

(しかし次の瞬間には)

いましゃべっているのは(もう)私の声ではありません.これは脳の声です……」

 この症例は「脳(HS)の意思が自分(R)をしゃべらせる」という様式になっている.専門用語を用いれば、作為体験やさせられ体験という.もちろん、喋っているのは自分自身にほかならないのだが、その背後に他者であるところの何者(HS)かがあって、これがすべての源泉である.この症例は自我収縮の好例と考えてよいだろう.この症例は自分の後頭部を差すのが象徴的である.自極から抜け出して「他」化する自己.前述した「パターン」の逆転すなわち、A<Bがおきていると考えているのではないか.だんだんつながってきた.

安永あんたすげぇな.あんた何なんだ……

 

ここまで読んでくださりありがとうございます.実のところ彼の著作はまだ半分.続きます.

占い師に出会った話と薬の話

占い師の面接技術

 私が北海道にいた頃、札幌市の雑居ビルで占い師に手相と相性占いをしてもらったことがある.私は決して占いを信じているわけではない.かといって信憑していないわけでなく、まずは実際に受けてみてから判断をすべきだと思ったのだった.そして彼らの面接テクニックを盗めるのであれば盗んでみたいと思ったのである.記憶が正しければ、相手は初老の男性で、愛想よく対応してくれた.

 確か九星気学という理論に基づく方法で占術を行っていたように思う.生年月日と自分の氏名を述べたあと、彼は分厚い本をめくり、「貴方は南に行くといいでしょう」、貴方より年上の異性には気をつけなさい」という言葉を私は頂戴したように思う.とりあえず現在は北海道よりも南下したので方角的には吉である.それに年上の異性には職業柄出会うことが多いが、困ることはなく過ごせている.病棟のスタッフとは仲良く付き合うことが兎にも角にも大切だ.

 占いの最中は何気ない世間話で盛り上がり、全く退屈しなかったことを覚えている.いつの間にか情報を相手にペラペラと話しており、なんだか問診をされているような感覚は全然しなかったのであった.こういう気持ちのいい面接ができるのはかなりテクニックがいることだろう.アドバイスをくれるときも全く説教じみた感じは受けず、これぞ面接の極意か、と密かに感銘を受けたものだった.

 どういう理屈で「南がいい」のか、「年上の異性に気をつける」のか、「何を気をつけたらいい」のかはすっかり覚えていない.ただただ雑談をして愉しい雰囲気であっという間に終わってしまった.気持ちよく鑑定料を払って占いは終わった.占いを受けることは存外悪くなかった.むしろ面白くて、何年かしてもう一度受けてみたいと思っていた.面接から学ぶことは多かった.まったく分野が違う業界かと思えば、根幹は私と同じように感じた.本当に優秀な面接者は質問の意図を気づかせずに問診を行うという.私は今までそのような神業をその占い師以外に見たことがない.

 数年して、休暇で北海道を訪れたことがあった.札幌を訪れたときにもう一度、あの占い師にあって鑑定を依頼しようと思ったのだが、北海道胆振東部地震のためにすべて台無しになり計画が頓挫してしまった.私も被災した.あれから何年か経っているが、息災なのだろうか.ふと思い出した.無事に悩める人々を導いてくれていたら良いなと思う.

薬物治療の難しさについて

 私は隠さずにいえば、治療をする立場でありつつ、治療を受ける立場である.無論こんなはずではなかったのだが、なかなか内服をやめるわけにはいかない.一回でも飲み忘れると薬の半減期が短いせいで急激に離脱症状が訪れる.それはもう気分が悪くて、吐き気がする.頭は痛くなるわ、だるくなるわ、陰鬱になる.本当に何もできなくなる.脳内でセロトニンの再取り込み阻害が急速に途絶えたために生じることはわかっても、これはひどい副作用である.ついうっかり飲み忘れるということはある.私だってほとんど飲み忘れることはないのだが、夜勤での急な呼び出しやひどく疲れた夜なんかは忘れてしまう.だから沢山薬を飲んでいる方で飲み忘れず続けている方は本当に、本当に立派だと思う.忘れずに飲んで当たり前ではなくて、飲み忘れて当たり前なのだ.

 一方で、薬があるから仕事ができるのかもしれない.そういう意味ではありがたいことだが、本当だったら、働かずにもっと休息できたら良かった.だがそうは問屋がおろさぬ.

 自分の面接のときに「以前と比べてどうですか」という質問をされたことがあったが、正直に言って「そんなのことはわからない」.これを表現するのは難しいが私達はご存知の通り、現在を生きている連続体であるので、今と昔の気分の違いを述べるのはかなり難しい、というほかない.私はデジタルではないのだ.今、元気ですかと訊かれたとしたら「元気ではありません」と答えるだろう.去年の自分だって「元気ではありません」といった.では「かわりありません」というのが正解なのだろうか.めんどくさいやつだと思われるかもしれないがそれは正解ではない気がする.

 そんなこんなでうつ病の増強療法としてアリピプラゾールが少量出されたことがあった.これは抗うつ薬に加えて、パーシャルアゴニストを加えると、抗うつ作用が増強するという理屈に基づいている.去年の十二月がまさにそれで、そのときの私は妙に「キマって」いた.頭の中が妙に冴えてしまうのである.常にアイドリングで2000回転くらいエンジンが回転しているようなものだ.これは結局だめだった.頭が良くなったとか、そういうものではない.気分がよくなったとかそんなことでもない.頭の中にブクブクと浮かんでくる言葉や疑問、観念は絶え間なく、無限の思念の源泉が明確に感じられてしまう.自分自身に突き動かされる感覚で、落ち着いているのに落ち着かない自分がいる.その結果がブログに反映されている.「キマって」いたときは月に20件投稿していたが、やめてからは月2件になった.後者の方が断然いい.当時の先生には悪いがもうこんな経験はゴメンだ.おそらく私にとってアリピプラゾールは1.5mgであったとしても「大きなクマ」のお粥であった.先生は「飲んでいるときの貴方のほうがハキハキしてていいと思います」と言われたのだが、私はとにかくやめてほしい陳情を訴えるべく熱心だったに過ぎない.先生を非難するつもりはない.薬物治療は難しい.当事者の身になってなおさら感ずる.

 過去の文章を読み返すと、たしかに「キマって」いた.そんな感じがする.それは決して心地良いものではなかった.今も好き好んで飲んでいるわけではない.できることなら飲みたくない.飲まないと離脱症状が襲う.金はかかる.自分で自分につけたスティグマを嫌悪している.この嫌悪感を自覚している自分が一番嫌だ.

ゴルディロックスの原理

消えた老婆

 前回の記事で触れたが、「三匹のクマ」に出てくる老婆は、教育上の観点から少女に差し替えられている.差し替えの理由は、しつけやマナーを教え込む目的があるからだ、という説が通説のようだが、もともとは老婆であった.当初の人物が老婆であったのはどういうことなのだろうか.ぜひ前回の記事を読んでから以下の小論を進めていただければ私にとってもあなたにとっても幸いである.

 この老婆、ただものではない.少なくとも住居侵入、器物損壊の悪行が指摘できると思う.窓と鍵を確認してから堂々と侵入する手口はおそらく初犯ではないのだろう.身なりが汚く、朝からふらふらしていたことから定住できる場所がない可能性を考える.浮浪者であったのだろうか.

 さらに家主がいつ戻って来るかわからないというのに、他人のベッドでぐうぐう寝る姿は大胆かつ無警戒だ.備品を破壊し、食事を平らげ、寝台を汚したにもかかわらず詫びもせず逃走するのは、その行為に呵責があるかともかく、常習的に行っていた可能性をさらに裏付ける.子グマの声で覚醒した老婆は、目の前にクマが三匹いるのを見て、即座に窓から飛び降り脱出する.その思い切りの良さは度肝を抜く.確かに目の前にクマが複数いれば、誰でもビビる.とはいっても高所から飛び降りる判断は賢明とはいえない.外傷のリスクは高いし、栄養状態が悪く筋力低下が示唆される高齢者が飛び降りれば、無傷では済まないはずだ.飛び降りた老婆の行方は不明となる.語り手の憶測が少し記述されて物語は終わる.

 悪事を働いた老婆はこれで懲りたろう.めでたしめでたし.悪霊退散、セーマン・ドーマン.……本当だろうか?なんだかオチにしっくりこないのは私だけだろうか?この物語はオチが釈然としないのである.この話の人物が老婆から金髪の少女、ゴルディロックス(Goldilocks)に差し替えたとしても、オチは変わらない.結局少女はクマの家を荒らし、逃走する.そして物語は唐突に終わる.本当に教訓は「無銭飲食、住居侵入、器物損壊をしてはいけません」というもので良いのだろうか.オチが落ち着かない.

邪悪さの彼方に

 老婆が完全な悪なのかというと、そういうわけではないのかもしれない.老婆にとって日常はその日暮らしのぎりぎりの生活で、窃盗をせずには生きていけない極限の環境にいたとすれば、道徳律を超越してやりくりする必要があったのかもしれない.しかし同情の余地はない.彼女に関する描写は少なくこれ以上の憶測を無限に呼ぶばかりだ.

 「三匹のクマ」の非人称の語り手は老婆を悪とし、クマを善良な性格としている.汚らしい老婆は、読者の陰性感情を掻き立て、老婆の邪悪性を浮き彫りにし、対照的に純粋無垢で善良なクマの立ち位置を明瞭にする.あまりに見え透いた明らかな善悪の二項対立は、人物を少女に置き換えて児童文学に着地点を置くしかないのかもしれない.だが今ひとつ収斂しきれていない.老婆が姿をくらまして話は終わり、クマたちは部屋をめちゃめちゃにされ途方に暮れて終わる.オチがすっきりしないのに、なぜこの物語は有名になったのだろうか.

ゴルディロックスはちょうど良い

 老婆にとって、少女ゴルディロックスにとって、子グマのお粥の温度はちょうどよくて、椅子の座り心地もベッドの寝心地もちょうど良かった.しかし大きなクマと中くらいのクマのそれらは熱すぎたり冷たすぎたり、硬すぎたり柔らかすぎたのだった.この物語を有名にしたのは、老婆とゴルディロックスの選択そのものなのであった.

 相反する二極の性質において、「ちょうどいい」適当な性質、傾向を表すものをゴルディロックスの原理:Goldilocks Principle」と呼ぶ.この「ちょうどいい」表現は、様々な分野で使われている.例えば、天文学の領域で地球は「ゴルディロックス惑星」という.経済学では「ゴルディロックス価格」、「ゴルディロックス市場」という表現を使うそうだ.発達心理学にも「ゴルディロックスの原理」が存在し、薬理学の分野でも「ゴルディロックスの原理」がある.私はこの原理を社会に出てしばらくしてから知るようになった.日本でこの表現はあまり流布していないように思うが、皆さんはご存知だろうか.ようやく本題に入ろう.天文学や経済学でのゴルディロックスは他の専門にゆずるとして、私の話しやすい分野で説明を試みたい.

 ここでクエチアピンが登場する

  世の中には様々な医薬品がある.容量用法が薬によって異なるのは、薬理や医学、生理学などを専門としない方でもなんとなくわかって頂けると思う.ここでクエチアピンという薬は薬理におけるゴルディロックスの一つであることをご紹介したい.

 クエチアピンは向精神薬である.その中でも抗精神病薬という分類に入る.抗精神病薬というのは主に統合失調症の治療薬、という意味で使われる.「精神病に抗う薬」という理解でいいと思う.では統合失調症にだけ使うのかというと、決してそういうわけではない.容量によって効能が変わるのが興味深く、使いようによっては大変便利な薬だ.少なくとも私はそう理解をしている.統合失調症だけでなく、双極性障碍のうつ病相、応用としてせん妄や睡眠の問題にも使うことができる.

 クエチアピンという薬剤は多様な神経伝達物質に働く.神経伝達物質はドパミン、ノルアドレナリン、セロトニン、ヒスタミン、ムスカリンといった名前がよく知られている.神経伝達物質の機能、というのは例えばドパミンという物質がドパミン受容体と呼ばれる部位に結合することで発揮される.鍵と鍵穴のような関係の理解で良いのかもしれない.ドパミンという鍵はドパミン受容体の鍵穴にのみ刺さって、解錠することができる、という感覚だ.解錠する、という例を作動とするなら、施錠は拮抗、という意味として理解できると思う.クエチアピンには、解錠と施錠の働きを持つ、いわば「合鍵」がたくさん付いていると考えていただきたい.たくさん合鍵を持っているお屋敷の執事を連想してもいいし、複数の通行手形を持っている商人、偽造パスポートをいくつも持っている諜報員でもいい.

 この「合鍵」のうち解錠専門を、アゴニストという.施錠専門を「アンタゴニスト」と呼ぶ.合鍵ではないドパミンやノルアドレナリンなど、生体内そのものの物質は「リガンド」という.これらの言葉は試験前の学生さん以外は忘れてしまっていい.鍵の比喩で例えづらいのは「パーシャルアゴニスト」という「合鍵」で、頑張って例えるなら、「ちょっとだけ開ける」作用である.鍵穴に半分くらい差すと、少しだけ扉が開くような意味合いと考えていただければ良い.「ちょっとだけ開ける」というのは「ちょっとだけ閉じる」のと同じ意味合いを持つ.なので「パーシャルアンタゴニスト」とは言わない.「パーシャルアゴニスト」は部分作動薬ともいう.これで役者の説明が整った.

 クエチアピンには、たくさんの合鍵がある.解錠専門の合鍵と、施錠専門の合鍵、ちょい開けの鍵.つまりは、複数の受容体に対してアゴニスト、アンタゴニストとパーシャルアゴニストの作用を持つ.この薬理学的特性がクエチアピンを「ゴルディロックス」足らしめているのだ.とはいってもまだピンとこないかもしれない.もう少し話を続けよう.

 ドパミン仮説とモノアミン仮説

 統合失調症の原因の一つにドパミンの機能異常が指摘されている.ドパミンが過剰に(中脳辺縁系の)ドパミン受容体に結合して作用することで、幻覚妄想などが生じると考えられている.だがドパミンだけではないとされているのが定説である.それのみでは極彩色の精神現象は説明出来ない.そして、うつ病の原因の一つにドパミン、セロトニンやノルアドレナリンといったモノアミンの機能異常が考えられている.詳しい説明をかなり省くが、例えばセロトニンが枯渇すると、抑うつを呈しやすい仮説が知られている.あくまで仮説である.これ以上の説明は論旨からずれてしまう.多くの精神疾患は未だに原因が明らかでない!

 よって治療はシンプルに考えると、過剰なものにはブレーキを、足りないものは補充をすればよい、それか代謝されるモノアミンを少なくすれば良い.ここでブレーキとなるのが、施錠専門の合鍵、アンタゴニストである.補充を促すのはモノアミンに関して「再取込み阻害」という表現が適切となる.古い薬剤は強力なブレーキと、強力なセロトニン・ノルアドレナリンの再取込み阻害が売りだったが、その分、反動となる副作用が目立ったために、改良が続けられたという経緯がある.そこで、パーシャルアゴニストという部分的なアゴニストの有用性が注目されてきた.部分的に解錠を行うことで、ブレーキを適度にかけつつ、副作用を低減することができるとされている.そのような考えのもとで、新薬が開発されている.

 そんな中、クエチアピンはゼネカ社(現アストラゼネカ社)によって1985年に開発、1997年から米国で使用、日本では2001年から承認されている薬剤だ.大きな特徴にドパミンD2受容体アンタゴニスト作用と、セロトニン(5HT)受容体のサブファミリーの一つ、5HT2Aのアンタゴニスト作用を持つ.活性代謝物のノルクエチアピンはさらに5HT1Aパーシャルアゴニスト作用や、5HT7、5HT2c、H1(ヒスタミン)受容体アンタゴニスト作用、ノルアドレナリン再取り込み阻害をもつ.ごちゃごちゃしてお腹いっぱいになってしまうだろうが、要するにたくさんの合鍵を持っているということだ.

 

図1:主要な抗精神病薬の受容体結合親和性.引用元:Expert Review of Neurotherapeutics 15(10) Page:1219-1229 (2015)
図2:クエチアピンの受容体結合親和性(Ki)を対数で図示.数値が小さいほど結合親和性が高く、アンタゴニストとして作用する.

 一応、図を二つ提示する.図1は各抗精神病薬によって、結合親和性が違う=合鍵によって閉めやすさが異なる、ということを示している.図2はクエチアピンの結合親和性の数値、Kiを対数レーダーチャートで図示したものである.受容体によってかなり親和性が異なるということがパッと見でわかれば良い.

 日本におけるクエチアピンの処方可能最大量は一日750mgである.もし、統合失調症治療をクエチアピンだけでやろうとすると(そんなことはほとんどないはずだが)300mg-400mg以上使用する必要がある.仮に600mg使用したとしよう.その場合、クエチアピンのドパミンD2受容体占拠率が80%以上を占める.もちろん他の受容体の遮断(施錠)も生じるのだが、D2受容体が顕著となる.この600mgのクエチアピンを大きなクマに例えてみよう.

 もし、うつ病(正確には双極性障碍のうつ病相)の治療で用いるとすれば、300mg相当を使う必要がある.双極性障碍のうつ病相に適応があるクエチアピンの徐放剤(商品名ビプレッソ)は300mgまで使用することが推奨される.この場合、5HT2c受容体アンタゴニスト、ノルアドレナリン受容体再取り込み阻害作用が目立って発揮される.この300mgのクエチアピンを中くらいのクマに例えることにする.

 鎮静や催眠を促すための量は25mgや50mgが適当なことが多い.この場合、H1受容体拮抗(施錠)作用だけが現れる.つまり、すごく眠くなる.不穏で落ち着かないような場合、従来の睡眠薬ではなかなか眠れないような強固な睡眠障碍があるような場合にこのクエチアピンは宵の明星のような輝きを放つ.この50mgのクエチアピンを子グマに例えることにしよう.

 だんだん、薬理におけるゴルディロックスの意味合いがわかってきただろうか.

 ゴルディロックスの選択

 ここで、前回の「三匹のクマ」の話をもう一度思い出していただきたい.もしゴルディロックスが二十歳くらいの女性になったとしよう.彼女は不運にも悩める魂を持っていて、幻覚に怯え、得体の知れぬ声が聞こえるとしよう.姿なき声に導かれて深い森に入っていった彼女はとある一軒家を見つけ、家の中で大きなクマクエチアピンフマル酸錠600mgを発見した!この場合、彼女にとって、この容量は幻覚妄想といった陽性症状に効果てきめんである.

 あるいは、活発であった少女ゴルディロックスがひどく憂鬱でふさぎ込んでいた場合、彼女にとって中くらいのクマのクエチアピン300mgは救済になるであろう.5HT2c受容体アンタゴニスト、ノルアドレナリン受容体再取り込み阻害作用が暗鬱な魂に潤いを与えてくれる.

 最後に老年期を迎え、少しずつ見当識がぼんやりしてきた老女ゴルディロックスがふらふらと彷徨い、三匹のクマの一軒家に侵入してしまったとしよう.彼女は夜になると眠れず急にそわそわ落ち着かなくなってしまっている.このような場合、ふと彼女が口にした子グマのクエチアピン50mgはまさにちょうどよい睡眠薬として機能して、ついでに子グマのベッドでぐーすか寝てしまうのである.(もしかして寝起きの老女が見たクマの姿は幻覚だったのだろうか)

 以上がざっくりとした精神薬理学としての「ゴルディロックスの原理」の説明になる.これを要約すると以下のようになるだろう.

 ある特定の疾患に対して「ちょうどいい」となる薬剤は、その薬剤の用量によって異なる.薬理におけるゴルディロックスの原理とは、薬効が強すぎることもなく、弱すぎることのない「ちょうどいい」程度で薬剤が受容体と結合した状態をいうもしその用量が多すぎたり、少なすぎたりすると、その効能は他の疾患にとっての「ちょうどいい」となる可能性がある.

 こうした「ちょうどいい」状態は臨床場面によってまちまちで、アゴニストとアンタゴニストの間の絶妙なバランスをどのようにとるかにかかっている.そしてそのバランスをいかにして取るかは、臨床家の絶え間ない悩みであり、挑戦でもある.

最後に

 「ゴルディロックスの原理」の話はこれでおしまいとなる.いかがだっただろうか.童話や民間伝承、神話がもとになっている用語やことわざ、例えというのは意外と多いようだ.その中でも「ゴルディロックスの原理」は群を抜いて特殊かつ広範な用法をされるのではないかと思う.相反する二極の性質において「ちょうどいい」適当なものというのは、多くの人が求めるのに対して、各々によって程度が異なる絶妙な難しさを持つ.このような葛藤は臨床の立場だけでなく、あらゆる学問で存在することから、おそらく全宇宙の次元において通ずる問題なのかもしれない.

 改めて原作を考えてみると、老婆にとって子グマのお粥も椅子もベッドも「ちょうどいい」ものだったがどれもつかの間の状態に過ぎなかった.クエチアピンの疾患に対する至適濃度も一時的なものに過ぎない.地球と太陽の位置関係も時間が経てばいつか崩れる.老婆の電光石火の逃走と、崩れ落ちる物語のオチは、この世界の均衡が刹那的であることを暗に示しているのだろうか.考えすぎだろうか.

ここまで読んでくださりありがとうございました.

 

 

 

 

 

虚しさに包まれて

They shall not grow old

 つい最近「They shall not grow old」という映画を観た.ニュージーランド・英国の合作であるこの映画はThe Great War、つまり第一次世界大戦のさなかに撮影された映像を現代に再編集したドキュメンタリーである.監督はPeter Jackson氏.「指輪物語」の映像化で有名な人物である.氏の祖父が大戦に従軍したことも大きいのか、かなりの資料から抽出した映像と音声は語り得ぬものと語り得るものをうまく融合させ、当時の空気感を現代に再帰させている.なにかと「AIでフルカラーに、当時の映像を再現!!」ということばかりに関心が行きがちだが、着色技術は今に始まったことではない.ただ、我々視聴者の映像に対する没入感を一層強化していることに違いは無い.

 戦争の直前から映画は始まる.戦争の始まりは人々にとって唐突であった.戦争と聞いても皆ポカンとせざるを得ない、現実味の薄さがインタビューから伺われる.やがて戦争へ行くことは一種の冒険であるかのように、欧州の青年たちの心を掻き立てた.「クリスマスまでには終わるさ」という淡い期待を粉微塵に破壊する機関銃と毒ガスと塹壕戦が彼らを待っていた.このような台詞はよく知られているだろう.勇み足で戦地へ赴く若者の姿は数多く記録されている.皆ニコニコしているのだ.若者がじゃれ合いふざけ合う姿は軍服を除けば、世界中でどこでもありそうな光景である.

 渡仏した英国兵は戦線が膠着していることを知る.各国が開発した新兵器は、いかに効率的に素早く敵を抹殺するかを考えて作られたはずだった.しかし、これらはかえって戦線が停滞する要因となった.ライフリング機構によって射程と命中率が向上し、弾道学の研究は砲弾の軌道を計算することに寄与した.だから皆塹壕を掘って防ぐことにした.雨でぬかるんだ塹壕は悪質な衛生環境で、凍傷と感染症が兵士を襲い、足が真っ黒になって壊死してしまうものも多くいた.黄色い毒ガスも兵士の恐怖を駆り立てた.繰り返し響く砲弾の爆発音はシェルショックと呼ばれる現象を引き起こし、激しい痙攣と失立失歩の症状は、いわばヒステリーの一つとされた.これは後の戦争神経症や心的外傷の研究の嚆矢となった.いまでもYouTubeでシェルショックの症状を観ることができるが、この症状の苛烈さは凄まじい.

 やがて戦争は終わり、生き残ったものはようやく故郷に帰ることができた.だが証言から語られる言葉は切ない.故郷の人からは一体どの面をさげて帰ってきたのか、というような心無い言葉をかけられ、復員した兵士たちは就労につくことを断られたものもいた.暖かく迎えてくれると思いきや、もはや自分の居場所はなかったのだった.銃後の世界ではまったく戦地の様子は知られなかった.知ろうともしなかったのかもしれない.もちろん歓待した家族も合っただろう.だが全員がそうではなかった.国のため、正義のためという名目で命がけで戦ったはずなのに、どういうわけか何もかもが虚しい.戦争における一つの核心を浮き上がらせているように思う.

 哀愁に満ちて映画は終わる.エンディングで流れる当時の流行曲「Mademoiselle from Armentière」は底抜けに明るい陽気な音楽ではあるが、映像を一通り観終えた直後には「Mademoiselle from Armentière, parlez-vous?」とひたすら繰り返す歌詞に当時の空虚感を感じてしまう.しつこいほどに繰り返されるこの英語とフランス語のごちゃまぜのフレーズは、深い意味もなく延々と続く.

 そういうわけで私は、戦争を題材にした映画を年末年始に続き、胸糞悪い後味とともに興味深く観ることができたのだった.この映画を手放しで賛美するつもりは無いが、いわゆるリアリズムを追求したどこぞの戦争映画よりも見応えがある.

臓躁病

この映画を観て私は日本における、ある特集を思い出した.2018年にNHKスペシャルで放映された番組は私の中で強く印象深い.「隠された日本兵のトラウマ〜陸軍病院8002人の”病床日誌”〜」と題したドキュメンタリーは、太平洋戦争において、軍部が日本兵の精神疾患を隠蔽しようとした目論見から辛くも逃れ、約8000例の病床日誌=カルテが千葉県の国府台病院で保存されていたことを明らかにする.その日誌から伺われる内容からは戦争の邪悪さが極まりない.私は形容し難い深い悲しみに包まれた.今でもNHKオンデマンドで110円で視聴することができる.自販機で水を買うつもりで我々はおぞましい歴史に思いをはせることができる.

 先程述べたシェルショックは、第一次世界大戦で顕著だった戦争の傷跡だが、その現象は日本の軍部も承知していたようだ.しかし皇軍にはそんなものは一人もいない、という一種の虚栄によって隠蔽されてしまった.とはいっても戦線の拡大に伴って国府台病院には毎年1000人近い患者が入院した.軍部は密かに優秀な医師を集め、戦争神経症の研究に当たらせたのだという.ここで神経症について軽く触れておくと、神経症とは現在の不安障碍、強迫性障碍、ストレス障碍(適応障碍)、解離性障碍身体表現性障碍、摂食障碍を包摂した症候群と理解するほうが良いだろう.正式な定義はされていないように思う.神経症という言葉は今となっては極めて多義的で曖昧であるために正式な診断には用いない.さきほどの下位分類の病名を用いる.さて、神経症は、ジークムント・フロイトの「ヒステリー」研究から始まった.ヒステリーという言葉は子宮を語源とする現象であり、古くは「子宮に何か悪いものがつかえている、飛び跳ねている」ような理解をされた.明治期の精神医学者、呉秀三は「ヒステリー」を「臓躁病」と訳しているが、これは「金匱要略」という古典にある婦人臓躁=子宮虚血にちなんでいる.こういう命名センスはすごい.

 鋭い方ならお気づきだろうが、ヒステリーは太古に子宮を起源とする現象と考えられたために女性特有の症候とみなされた.しかしながら、第一次世界大戦によって痙攣、失立失歩、転換症状が男性の兵士に続々と出現したことから、ヒステリーは男性にもおこるものだという理解が次第になされた.そして研究視察に訪れた日本の軍医もそのような理解をしつつあった.だが、事態が我が国に及ぶと、すなわち太平洋戦争が勃発し戦線が中国大陸や太平洋に拡大するにつれて、先の大戦におけるシェルショックのような症例が出現した.軍部はこの事実を隠すために、こうした戦争神経症を皆、「臓躁病」として、世間の人々には病態の憶測を困難にさせた.軍部は戦争期に精神疾患に罹患した兵士の一部を国府台陸軍病院に収容させるのであった.現存するカルテは約8000例であるが、それはごく一部であろう.兵站と輸送路の貧しさを考えれば、戦線で見捨てられ診断に至らなかった症例が多くいたはずである.自殺例も多かったであろう.

 その国府台陸軍病院に入院している症例を写した映像がある.まぎれもなくシェルショックである.意識清明だが激しく四肢を痙攣させるものもいれば、腕が震えてしまってコップの水を飲めないものもいる.全く歩けないものもいる.そばにいる軍医は完全に困惑している.こうした症例の処遇にはかなり苦労したであろう.力のある若い男性が痙攣すれば無理にでも鎮静をかけるしかないが、痙攣しては内服も静脈注射もできないために鎮静剤の筋注しかない.1940年代に使用可能な薬剤はかなり限られているだろうから、バルビツールくらいが関の山だろうか.あとは拘束か隔離をするほかなかったはずである.おそらく.治療という治療はほとんどできなかったのではないか.

 ドキュメンタリーを観ると、非常に度し難い過去を知る.戦線に送られる兵士は徴兵制に基づき、徴兵検査を経て、甲乙丙に分けられる.しかし検査で要件を満たさないものがいれば、徴兵にとられることはなかった.建前としては.当時知的障碍に相当するものは精神薄弱や白痴とされ、本来は除外されるべきであった.しかし戦線の長期化と兵力の減少から、そうした人々さえも徴兵にとるようになっていたのだという.当時の診療録には年齢は知能検査で四歳相当とある症例が記録されている.年齢を尋ねても「___わかりません」、人と馬の相違を答えよ「___わかりません」こうした人々はほとんどが温厚かつ優しい性格であり、農業や家事手伝いをしてすごしていたはずだったのに、戦争に駆り出され狂気の渦に飲まれ、ぼろぼろにされてしまった.上官の私的制裁によって理不尽な暴行を受けたものもいた.許されぬ制裁が彼らの心をますます蝕んだ.

 戦争神経症だけでなく、精神分裂病として不可逆的な心の傷を負ったものもいた.典型的な例を出そう.結婚してまだ数年.生まれたばかりのこどもがいる20代の父親.彼のもとに召集令状が届き、山東省の戦地に送られる.戦地は中国共産党が率いる八路軍が潜伏しており、市民かゲリラ兵か見分けがつかない状態であった.いつ襲われるかわからない恐怖.周りの人が敵にみえる.こうした極度の緊張感.年端もいかない少年を殺してしまったために、いつまでも殺人の感触がぬぐえない.兵士の日誌には「いつまでも殺した記憶が消えない」と独白している.苦痛を消すことはできない.やがて彼に狂気が訪れる.徐々に幻覚妄想が出現する.「死ね」という声が消えない.「死ね.死ね.死ね____」戦争という緊迫した状況下で分裂病を発病することは、クラウス・コンラートの「分裂病のはじまり」に詳しい.一度精神に破綻をきたせば、突如大声を出すし、刀を振り回すこともあった.幸運にも帰国して実家にかえったとしても、社会は冷たい.「生きて虜囚の辱めを受けず」である社会は生きて帰ることを許さなかったし、ましてや狂人を食わせる飯もない.家族も肩身がせまい.もちろん健康な成人男性だけではなく、さきほどの知的障碍に相当する者の心も容易に蝕まれた.戦争が終わっても彼らには恩給すらなかった.未復員という、帰る先すらないものが数多くいたそうだ.家に帰ったとしても結局は座敷牢に閉じ込められた.私宅監置は1950年まで続いた.戦争は糞だ.

 こうしたことを知るだけでも十分痛ましいのに、これを隠蔽した事実が自分の国にあることは大変な悲しみである.ドン引きである.当時治療方法が無いとはいえ、つくづく人材を大切にしない時代であったと思うし、そういう名残が今でも残っているこの国は過去から学んでいないように思ってしまう.呉秀三の「わがくに十何万の精神病者は実にこのやまいを受けたるの不幸のに、このに生まれたるの不幸をぬるものというべし」という言葉はよく沁みる.この言葉が現代に語り継がれているのは、そういうことなのだろう.自身が当事者や周囲の援助者でないものにとってこの事実は全くと言っていいほど知る機会が無い.自分は決してそうならないであろうという傲慢さが垣間見える.

 私は正食に言って今の精神科医療に対して楽観できていない.誤解なくいえば熱心に従事されている方には心から尊敬している.だが学会や製薬会社のキャッチがかつてよりもはるかに空虚に感じられる.五分で精神療法は提供出来ない.そう思うのは私が病気だからか?現実をみないでものを語っているからか?臨床の前線にいないからか?今の私は到底戦線に復帰できそうも無い.耐え難い屈辱と、私にかけられた悪辣な呪詛がレジリエンスを弱らせているように思う.だがなんとか腐らずに怒りを昇華させて、できる限りの医療を実践するしかない.私は怒りを出すことが苦手だが、怒ることだってある.この数年ずっと怒っている.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

症例アンネ・ラウ

常識とか自明性とか

 世の中で言われている「当たり前のこと」というのは案外とらえがたいもので、わかっているふりをしているようで説明できないものが多い.「自然」だとか「常識」「自明性」というものはひどく扱いが難しい用語だ.

あるとき、私は

 「お前には常識がない」

と最近言われたことがあった.どのような背景でその言葉を言われたのかというと、詳しくはいえないが、私の人生で私が選択したことが相手にとって「非常識」な選択であったように受け止められたようだ.私の選択は少なくともその人に害する行為ではなかったはずなのに.とはいっても本当の本当に私が非常識である可能性は常に残されているが.

 その言葉は私の心をナイフで切り裂き、えぐり出すような侵襲的なものに感じられた.りんごにナイフを突き立て、グリグリと回転させると果汁が染み出してくるように私から嫌な汁がこぼれた.傷はもう閉じない.

 「常識」という普遍的価値をもつようでいて、その価値観が主体によって目まぐるしく変わる概念は、私にとって見えない強制力と暴力をもつように思った.こういうときなぜか胸の奥がざわついて重苦しくなる.不思議な現象だが心身が不分離なものであることを実感する.この胸の奥をえぐられる感覚は二度と感じたくないほど不快なものであるはずなのに、この何年か、数え切れないほど経験してしまった.

 その経験をする前から、私は「当たり前」を当たり前たらしめること、「自然」だとか「すでに明らか」なこと、というものを容赦なく使うことに対して一種の危うさを見出すようになった.

 「ちょっと待ってて」「少しでかけてくるね」

 これらの言葉にある「ちょっと」「少し」の持つ時空間の射程は話者の文脈や関係性から「自然」と浮き上がっていくものであるが、この時空間に対する感覚が「当たり前」であることというのはなかなか説明しがたいのではないか.特に、こうした言葉に対する感受性の高い方々にとってこれらの言葉はひどく不親切でわかりにくい呪詛となる.

 改めていうと「常識」は社会構成員の一人ひとりに規範的強制力を課す概念であるが、それは決して普遍的ではない.私達が全裸で外を歩き回らないのは「常識」だが一万年くらい前は全裸は「常識」だっただろう.私達が人権をもっているのは当たり前かもしれないが、つい百年くらい前までは自由は当たり前ではなかった.タバコを吸うことが害であるならば廃止されるのは当たり前かと思えば、我々は一定の年齢に達すれば無条件で喫煙ができる.必ずしも当たり前ではない.

 「当たり前」というのはひどく使いにくく難解な言葉なのに、多義的で曖昧であるために広く用いられてしまう危険性があるように私は思う.どのような文脈の中で用いられているかを明示しないことには「当たり前」は暴走し、私達のもとに馴致することはできない.そして「当たり前」や「常識」を否定することは、私達の存在を根本から否定する恐ろしさを持つ.だから私はあのとき傷ついたのだろうか.

Natürlichen Selbsterständlichkeit

 ここで「当たり前」について検討した著作を紹介したい.

 1971年のドイツで出版された本に”Der Verlust der Natürlichen Selbsterständlichkeit. Ein Beitrag zur Psychopathologie symptomarmer Schizophrenien”というものがある.なんだこの題名の長さは!と思うが日本語に直すと「自然な自明性の喪失.症状に乏しい分裂病の精神病理学への一寄与」という.この本の和訳はみすず書房から出版されており、木村敏によって1978年に紹介された.「自明性の喪失」として一部の界隈では知られている名著である.*分裂病という記載があるがこれは現在では統合失調症という呼称が適切である.当時の表現であることをここでお断りする.

 どういう本か.序文は次のように始まる.

 二つの問題領域がこの著作において扱われている.一つは人間が世界の内に根を下ろしていること(碇泊していること)一般についての現象学的解明、より厳密にはフッサールの意味での「間主観的に構成された生活世界」における人間の根のおろしかたである.もう一つは、寡症状性分裂病(単純型分裂病および症状に乏しい破瓜病)においてことにはっきりと露呈されるような、基底的な分裂病性本態変化に関わるものである.

 前者は現象学的人間学の領域、後者は臨床的精神病理学の分野に含められる.この二つの問題を一冊にまとめた理由を筆者は、二つの問題領域の間に重要な関係があり、その関係こそがこの著作の真の主題をなしている.その共通の問題点とは、「常識」(コモン・センス)の病理学であると言う.そしてコモン・センスというのはそれが月並みできわめて自明なものであるという点に目を奪われて、とかくあまりにも見逃されやすいが、哲学的にも経験的にも非常に注目すべき、独特の基底的な機能である、とする.「当たり前」を当たり前たらしむ機能を二つの学問から検討する著作である.ニッチだが、私にとってはジャストミートな問題である.

 アンネ・ラウという症例が紹介される.彼女は二十歳で睡眠薬自殺を図り、筆者であるブランケンブルク(W. Blankenburg)のいる病院に入院してくる.彼はハイデガーの弟子であるが医学に転進した.担当医師らは彼女に対して面接を行い、病歴を構成して詳細な検討を行う.その後、筆者は診断的には「寡症状性分裂病」であるのが最も適当であろう、と考察する.

 さて、寡症状性分裂病とはなんぞや.今日の臨床ではもはや使われない用語である.現代の用語でいえば統合失調症なのだが、寡症状性、つまり症状に乏しいという意味の性質は現在の診断基準(DSM)では存在しない.そもそも症状を当てはめるためには症状ありきなのだから、寡症状というのは今の操作性診断基準にふさわしくないだろう.統合失調症の診断基準を参照すれば、妄想、幻覚、まとまりのない言葉と行動、陰性症状が主なもので、五つのうち二つを満たせば、期間や除外診断を検討した上で診断が確定できるものになっている.寡症状性分裂症はそういった症状に乏しい分裂病であるというのが端的な表現であろう.かつては破瓜型、緊張病型、妄想型、単純型といった病型分類による診断は多かったが、DSMでもはやこのような病型分類存在しない.なぜか.それは本旨を大きく外れることになるのでここでは触れない.まずはアンネの言葉を引用してみよう.彼女の言葉に妄想はないことがわかるだろう.

 私に欠けているのはなんでしょう.ほんのちょっとしたこと、ほんとにおかしなこと、大切なこと、それがなければ生きていけないこと…….家ではお母さんとは人間的にやっていけません.それだけの力がないのです.そこにいるというだけで、ただその家の人だというだけで、ほんとにそこにいあわせているのではないのです.___<中略>___私に欠けているのはきっと、自然な自明さということなのでしょう.

≪それはどういう意味?≫

 だれでも、どうふるまうかを知っているはずです.だれもが道筋を、考え方を持っています.動作とか人間らしさとか対人的関係とか、そこにはすべてルールがあって、だれもがそれを守っているのです.でも私にはそのルールがまだはっきりわからないのです.私には基本が欠けていたのです.

 彼女の言葉は数頁にわたって記載されている.大方は「ごく当たり前のことがわからない」という愁訴が続く.入院時の所見からは一見したところ、外面的には、問題のない、気立てのよい東独生まれの女の子のように思われた、という記載があるが、この印象は誤りであったと続く.鈍重といってもいいほどの平凡な外観の背後に、極度に敏感でもろい精神構造と、人格の著名な部分的未熟さが潜んでいると評している.彼女の話し方は一生懸命に言葉を探そうとし、同じことを繰り返したり途切れたりで、まるで支離滅裂に近いものになる.一定のテーマでまとまった文章をつくることはできなかった.自分では考えが途切れる、急に何もわからなくなるといっていたが、真の意味の思考奪取は確認できなかったとされる.知能検査(ウェクスラー式)では言語性107,動作性98,総指数103で年齢相応の平均的な知能を示した.しかし、行動の緩慢化、要領の悪さ、情熱的な囚われのために成績は悪くなっていたという.ロールシャッハ・テストでは解釈意欲の低下を示した.反応数は115と異常な多さだが、明らかな保続傾向があり、コンプレックス反応の典型的なものがほとんどみられなかった.この検査では診断はできなかったと記載がある.

 要するにこうした所見からは、患者は自分の力では対処できない状況につねにあるということが示された.知能や想像力は優れている一方、実生活での対処能力が全般に及んで低下していること、周囲とのつながりが表層的で非人格的なものになってしまっていること、人生とのあらゆる種類とのつながりがひどく貧困化していることが記述された.

 当初ブランケンブルクは、彼女が人格の発達遅滞に伴う異常な体験反応であるか、神経症圏の範囲で理解されるものと考えていたが、精神病圏なかでも統合失調症を鑑別に考えるようになったのは、経過から唐突でしばしば不適切な感じのする感情の動き、移り気な振る舞い、軽度の衒奇症、著しい思考障碍が見られたからだという.治療について述べれば1970年代における薬物療法をはじめとする医療は有効でなかった.電気けいれん療法も有効でなかったとされる.精神療法も支持的なものを除けば、彼女はひどく抵抗し自殺念慮を増すばかりであった.彼女は部分寛解を経て一年後に退院した.デイケアでの作業療法を行ってから家政婦として働くまでになったが、根本的な変化は生じていなかったと担当医は考えたようである.やがて急激な病状の悪化、彼女は自殺念慮が増していき、家人の目を盗んで自殺した.

 惜しむらくは彼女を救命できなかったこと、寛解に導けなかったことであろうと私は思う.もし、アンネ・ラウのような症例が現代の日本に現れたとするならば、私達はどのような考察を行うだろうか.どのような診断を下すだろうか.もしかすれば彼女の振る舞いからアンネは発達障碍という広義な篩の上にかけられて、その診断に基づく治療がなされたかもしれない.統合失調症の診断を下す医師は少ないのではないかという印象ももつ.彼女は現代においてリカバリーに導くことができるだろうか.こういう問いかけは歴史のIFのような、「もし高杉晋作が病死していなかったら」といった反則技にあたるので、考えすぎるのもよくない.だが現代においてアンネ・ラウの病理に接近することができる医師はどれだけいるだろうか、という疑問を持たざるをえない.「自然な自明性の喪失」という言葉を診療録に書き留めて、それを検討するだけの精神的余裕があるだろうか.彼女を癒せるだろうか?

 ルートヴィヒ・ビンスワンガー(L. Binswanger)のような立場から述べると、私達はもともと自明性と非自明性の弁証法的な動きが備わっている存在だという.自明性が止揚することによって新たな自明性に取って代わる.そうして私達現存在はその単一性を保つことができる.これを人間学的均衡という.それは常に弁証法的関係性を意味する.不均衡はその均衡の破綻である.「自然な自明性の喪失」というのは現存在「Dasein」における自明性と非自明性との弁証法が後者の側に引き寄せられることと同義である.つまり、私達を取り囲むすべての事物とのかかわりを根本的に支えている自明性が、疑わしいものとなる、ということになる.

なにもかも、ほんとになにもかもがとても疑わしいのです.私にはなにがなんだかちっともわからないのです…….なんとなく生きることなんてできないことですもの……なんとなく生きることということにすっぽり浸かっているなんて、とてもできないことです.

ブランケンブルクは現象学的検討において、「自然な自明性の喪失」を以下の四つの観点から究明できると述べた.

・世界との関わりの変化(世界の意味指示性が全体に不確実になる)

 いまはもう、いろんな感じが痛く感じられるだけになってしまいました……いろんなことのつながりというのか、ほかの人たちと同じ一つの感じを__世界の感じというようなものでしょうか__もっているというそんな感じがしないんです.以前はなんにもできないっていう感じだったのです.

・時熟の変化(時間構成の問題、時間を経験するということができない)

 現実のうちにとどまることがとてもむつかしいのです.毎日毎日、新たに、はじめからやりなおさなければなりません.

・自我構成の変化.(自然な自明性と自立の弁証法的関係の破綻)

 ここの生活の流れに自分をどのようにあわせたらいいのかわかりません.私にはピンとこないんです……作業療法のときも病棟でも、自主的に働くということができません.

・間主観的構成の変化.他者との関わり.

 どうしてほかの人もやはりそうであるのかが、全然感じられないんです.なにもかも、ほんとになにもかもがとても疑わしいのです__生きているということも!

 繰り返しになるが、私達は自明性と非自明性の弁証学的な動きによって存在している.止揚(アウフヘーベン)というヘーゲルでいう、否定・保存・揚上という三つの意味を含んだ機能があって、新たな自明性を作り出す.これは「疑問をもつ」ということによって現存在を統合させる一つの契機でもある.だが、アンネのような統合失調症において、この疑問が過剰になりすぎる<何もかもが疑問になる>と、それは侵襲となり、身体と心と精神とからなる人間存在の全体へ向かって入り込んでくる.これは私達には大変な侵襲であり、現存在を脅かす根本的な、荒々しい身体に迫るような形で起こる.アンネのいう「痛み」というのはメルロ・ポンティ的<受肉化した主観性としての身体>が知覚する侵襲なのであろう.私が傷ついたときも、私という現存在を脅かす侵襲に対する反応なのかもしれない.

 統合失調症というと、表層的な人々はやれ妄想だ、やれ幻覚だという.現代の診断基準をことさら否定するつもりはないが、ブランケンブルクが本著で言わんとしたことは極めて重要なことであり、私達を私達として確かに存在せしめているものこそ、統合失調症の患者にとってはそれが自身を危機に晒すものなのだということだと私は思う.一臨床の立場として感服の思いである.分裂病、現代における統合失調症は人間的な疾患であり、現存在の根幹に関わってくる病である.自明性というのはそれ自身が間主観的に構築されるものだから、自明性が喪失するということは、必ず自己と世界との関係性に関わってくる.統合失調症において、自明性が喪失するという問題は「コモン・センス」に対する判断の動揺である.

 「当たり前」だとか「常識」、「コモン・センス」というのは虚ろな空のように移り変わるエピステーメー的な言葉であることを今一度考えることができた.その性質ゆえに、「コモン・センス」は自身に対して脅威になることもあれば、止揚を経て新たな自明性を築く機会にもなる.近年、「自分らしさ」という実存的な言葉が大手を振って世界中に浸透しつつあるような気配がするが、それは自明性の喪失に対する恐れの裏返しなのかもしれない.きっとアンネ・ラウのような症例は決して少なくないはずであって、もしかすると隆盛を極める発達障碍という診断の影に埋没し、声なき声を上げているのだろうか.私にできることは極めて限られているが、謙虚に自分の力量を超えずに、静かに耳を澄ますことはかろうじてなんとかできそうである.

 ここまでありがとうございました.「自明性の喪失」を買った当初は全くもって本書の内容のがわからないという苦しい思いをしましたが、フッサールやハイデガーといった現象学者の理解に努めることでようやく本書の全体的俯瞰ができたと思っています.とはいっても理解は微々たるものですが.こうした知識の獲得は私の数少ない喜びです.この美しい風景は私だけのもの!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

統合失調症症状機構に関する仮説

ファントム距離

a・μ=K について

 過去の記事において何度も繰り返している様に、このファントム空間論とは、体験的・空間的時間がある生理的障碍仮説をおくことによって、いかなる変化を被るかという推論である.私達の体験世界は「パターン」概念を用いることで定義された「ファントム空間」という実体的機能に担われているとする.ファントムなる呼称は幻影肢が当事者にとって全く実体的であることに由来する.ファントム空間とはいわば「こころの間合い」であり、私達は対象との「間合い」を至適距離に保つべく恒常性が機能しているのではないか、という仮説である.それが何かしらの原因によって至適距離が狂った場合すなわちファントム機能の失調が生じた場合、統合失調症をきたすのではないか、と精神科医の安永浩は考えたのであった.

 さて、安永はこのファントム空間すなわち個人の体験可能領域の距離(ABmax-ABmin)はμ(ファントム距離)として定義できるという.ABについては過去の記事で取り扱っているからここでは触れないでおく.このμは一般には一定の至適値μoptをとっている.下の図を参照されたい.

図1:ファントム距離

 なんのこっちゃ、と思うかもしれないが、ファントム空間とは何かについて安永が大真面目に考えた図である.本来人間の知覚判断は複雑多岐であるが、その系を単純化すれば、上図のようになるだろうと考えたわけである.μoptはあたかも眼球レンズが焦点をあわせるときに存在するであろう、最も見やすい一定の距離に相当する.こころの機能として考えれば「ほどよい距離」に相当するのである.眼に関して言えば、裁縫針の針穴に糸を通すときに、対象との距離は近いほどよいだろう.しかしレンズの調節にはエネルギーを要する.生理学的なレベルで言えば、毛様体筋だとか、動眼神経の機能に関係する.ずっと近いものを見てばかりでは疲れるのだから、ほどよく遠いところを見ていたほうが良いのは、見当がつくであろう.これがファントム空間でいうところの、ほどよい距離、μoptだ.その距離で、ものを見続けているときの消費エネルギー率aは、至適エネルギーaoptと呼ぶことができる.これは、個人が動員できる最大エネルギーamaxよりも小さく、その差はμoptに対応する.optとはoptimum(最適)のことである.ということは、ある範囲において、

a・μ=K (一定)

ということが成立するものと考えられる.これを二次元座標に図示すれば、縦軸をa、横軸をμにして、図1のようになる.それは双曲線を描く.μ=0の扱いは別個に考えるべき問題であるが、概略を掴むには十分である.Kという値はその個人によってそれぞれ異なる、一定の値であり、精神活動がKが一定の値をとるような範囲で営まれる基本容量のような値であるようだ.さて、この等式から何を考えるか.

 もし、何かの原因で主観的には同じ努力感であるにもかかわらず、エネルギー効率が落ちるとすれば、aの実効値はもちろん低下する.すなわちKも低下する.ただ当人にとってはaは変わらないので、見かけ上μが低下したことと同じことになる.ということは錯覚としては対象の距離がずれる体験として感じられるはずだ.先程の眼球レンズのたとえで言えば、「普段通り新聞に眼を通すも、(毛様体筋が働かずレンズが弛んで扁平となり、網膜像である)文字は小さくなる方向にぼける、つまり感じとしては文字が遠ざかる」ような体験であるという.

 「仮説体系」

図2:ミュラー・リヤ―錯視

  上記の図は錯視の一例として有名な「ミュラー・リヤー錯視」である.二本の水平線はどちらも同じ長さであるが、矢羽の方向によって長さが違うように見える.錯視の立方体である「ネッカーの図形」も平面に記された線分が構成されるとあたかも立方体のように見えてしまうことで知られている.知覚心理学者グレゴリーは、「物体仮説:object hypothesis」という概念を示しているが、どうやら私達は、日常のあるものを見るときに、その立体性や距離、大きさ等を、実は何の証拠もなく、適当に一定のものとして知覚しているようである.それは人間の生理的心理傾向といってもよいかもしれない.レビー小体型認知症の多くは幻視の症状を呈することで知られているが、その患者さんのなかには天井の模様が蜂などの虫に見えたり、人間の顔のように見えることがあると言って、他者に追い払うよう頼むことがある.筆者の経験のなかで印象深いのは、とあるレビー小体型認知症の患者さんにとって、病院のベッドの柵に貼ってある小さなオレンジ色のテープが「サーモンの寿司」に見えたといって、ナースコールを押したという出来事であった.「そんな馬鹿なことがあるか」と思ったのはスタッフだけではない.当人もそうであった.

「そんなはずはないと思ったのですが、どうしてもそう見えるので、おかしいなと思って呼んでしまったのです」

 決して病的な例だけでこうした錯覚が生じるわけでは無いのは、ミュラー・リヤー錯視やネッカーの立方体があることで十分な説明になるだろう.私達は「ルビンの壺」のように、下の図が顔が向き合ったようにも見えるし、大きな壺のようにも見えることを知っている.どうも私達は「見てからの判断」ではなく「見ること」自体にすでに無意識に判断が入っているようなのである.ほんのわずかな手がかりでもあれば、「適当な距離にある適当な大きさの物体」として認知する機構が働く.

 こうした判断図式をグレゴリーは物体仮説と呼ぶことにした.平たく言うと、対象を空間的存在としての「物体」として見る、強い傾向のことである.私達がものを見るときは常に物体仮説を通して、ものを見ている、ということだそうだ.「仮説」であるのは「意識以前の前提」、私達にとってアプリオリな現象であるからである.私達が事実だとして疑わないようなことが、実は全然根拠がない、という点を明示すらしている.

図3:ルビンの壺

  グレゴリーは物体仮説を視覚のみに関する認知で用いている.安永が彼を引用したのには、この物体仮説が視覚だけでなく他の感覚においても拡張できるのではないかと考えたからであった.安永はこれを「空間仮説」ないし「仮説体系」と呼ぶ.対象それぞれのもつ意味合いが主体によって直感的に解釈されるところ=フッサールでいう絶対的所与において「意味仮説」が生じている.サソリを「恐ろしく危険なもの」、青空を「清々しく心地よいもの」などと直截観取するものがそうらしい.世界全体に関する価値観は「世界仮説(体系=システム)」、自我に関するそれには「自我仮説(体系)」として考えてみる.こうした「仮説体系」はアプリオリな生理的基盤であるのに対し、その内容を形成する機能基盤はアポステリオリ、経験による構築であるはずだという.それは不変のものではなく、長期的に変形、修正が行われる.横断的に、つまりある瞬間を切り取るとそれは変わり難い「既製のもの」として機能する.芸術家の作品を横断的に観察すれば作品はみな、作者の変え難い作風として捉えられるが、縦断的にみれば、芸術家の作品群は前期や後期で作風が違う、といったことは例になるだろうか.

 現実の瞬間瞬間において、私達は遭遇する現象に対して「仮説(体系)」にそぐわないことが起きている、と知覚するだろう.これは現実と仮説のずれである.そのずれに対して、私達はさらに「仮説」を動員し、適宜応接するだろう.安永が述べるところ、「仮説体系」は物化した「しかけ」であり、「ファントム」は「仮説」を自らの媒質として形成させる触手、「殻」を分泌する粘膜、いわば意識の「肉体」である、という.ユニークなたとえである.

 なんだかイメージがつかない人がいるかもしれないが私なりに考えてみたところ、イソギンチャクのようなモデルを想起するとよいかもしれない.岩に定着する足盤、口盤は「仮説体系」であり、イソギンチャクの舞台装置である.そこから「ファントム」である触手がウニョウニョうごいて、変化、修正、成長する.(イソギンチャクに殻はないが)触手にある微小な刺胞はプランクトン性の甲殻類などを麻痺させ、口に運んで丸飲みにするのだから意識の肉体として考えても悪くはないかと思った次第である.多分、タコでもイカでもよいのかもしれない.つけ加えて言えば、「ファントム」が「仮説」なしには形をなすことがないように、足盤なしには触手はないし、触手は自らを「触手」だと意識することは(きっと)ないはずである(本当のところどうなのだろう?).

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 オヨギイソギンチャクとキタフウセンイソギンチャク、スナイソギンチャクで触手の長さも太さも違うように、「ファントム」は年齢や素質に応じた一定の「容量」をもつ.外圧変動に反応しつつたえずその恒常的な距離を維持しようとするところは、さながら弾性体のごとしである、と安永はいう.ゴムまりのような存在なのかもしれない.

 もうひとつ別の例をだそう.こちらのほうがしっくりするかもしれぬ.貴方が要人のお抱え運転手であると仮定して、ロールス・ロイス・「ファントム」VIIIの運転席にいるとする.この車は巨大で全長5605mm、幅1985mmである.大体5000万円くらいするので、コツンとぶつけるだけでも肝を冷やす.だが運転に手慣れた貴方は、その巨体を都心の中でも見事に操るとしよう.縦列駐車をするときも後方の死角に配慮して、決して側面をゴリゴリこすることはないし、幅寄せも得意だ.どうして「ファントム」は自分の体でないのに、貴方はその車体感覚がわかるのだろうか.

Phantom VIII
エヴァンゲリオン初号機

 それは安永風にいえば「ファントム機能」が働いているからだろう.決してロールス・ロイスの「ファントム」に限らず、自分で車を運転する方であれば、インプレッサであろうと、スカイラインであろうと、大特トラックにのる運転手だって「幅や長さはだいたいこんな感じだろうな」という感覚が働くはずである.例えばそれは駐車券を取るときに右に車体を寄せる時にハンドルを右にどのくらい舵角するか、という入力に反映される.

 ここでいう車体は安永の「仮説体系」である.「ファントム」は「仮説」である車体を媒質として身体感覚を拡張させる意識の肉体である.公道において貴方の意思は車体の運動と同期する.路面状況、カーブの曲率、周囲の車両の密度に従って貴方は「ファントム」を巧みに機能させる.「ファントム」が「仮説」なしに形をなすことがないのは、車がなければ運転しようがないのと同義である.

 さらにいえば、80mくらいの戦闘ロボットは「仮説体系」であり、身長が170cmくらいのパイロットは「ファントム」を拡張させて正義を行使するだろう.人造人間エヴァンゲリオンは「仮説体系」であり、搭乗員の碇シンジはエヴァンゲリオンと「シンクロ(同期)」させて「ファントム」を延長する.もういいだろうか.

 搭乗員たる主体は外なる無限に広がりのある現実を、自らのファントムの及ぶ範囲で切り取るものであるし、現実とファントムの相互限定の軌跡として、様々な構造をもった「仮説図式」が定着される.安永は以下の三つを因子にあげる.

 意識知覚系(R):現実外界から及ぼす限定の源泉となる.
 ファントム機能系(Ph):精神の「肉体」であり、「媒質」である.
 「仮説図式」の体系(HS):RとPhを媒介する形で定着される.

Rは私、主体であり、運転手やパイロットである.HSは車体や機械であり、RはHSを媒介にPhを機能させる.この三者がうまく機能している時は私達はそれほど意識しない.

 もし、Rだけが失調すると(肢体の切断、意識障碍)、幻影肢や夢幻状態が生じる.HSが損傷すると、装置は動かない.医学では失行や失認が生じる.もし、Phが障碍されれば、離人症や統合失調症のような体験が生じるのではないか、という発想に至る.

 ということは過去の記事で述べた「ファントム短縮」はRとHS体系の間にずれを生じ、R=HS複合体の「遠ざかり」の錯覚として結果する.どういうことか.車を運転していて右に軽くハンドルを切ったつもりが実際はものすごく曲がってしまい、脱輪やスピンをするようなものだ.車両感覚のバグである.初めて車を運転する時、教習場で脱輪ばかりしていてもやがて上手になって免許が取れるように、現実でも「ファントム短縮」が起きていてもファントムは変形し、拡張して、成長する.健康な時は私達のファントムの実体距離と「仮説図式」および知覚される現実の構造、三者は原則よく一致して機能するようである.

 次回はこうした安永の説がどのように、病態と照合するか見ていくことにする.

  いつもありがとうございます.

温故知新

安佚ならざる日々

 ここ数日、私にとって重苦しい時間が過ぎている.陰鬱で重苦しい一秒一秒は容赦なくて、ひたすら食べては寝てを繰り返す日常は悲しい.私の慰みであったものがそう感じられなくなる日々.かつて当たり前だったものがそうでなくなる現在.そうなっているのは私個人の問題だけでなく社会の状況も密接に関与している.似たような境遇をお過ごしの方もおられるかもしれない.

 ここ最近知られる「自粛要請」という言葉は自他の境界が不明瞭になりつつある感覚がして変な気持ちになる.「自ら粛む」ことを「(他者が)要請する」のはなんだか烏滸がましい気がする.だがそうでもしないと世間が粛然としないのは、世の中の自律機能が脆弱になっていることの裏返しなのか.とはいっても皆が粛々としている現況でもない.

 昨年の暮れから私は本当に必要最低限の事以外はでかけることがなくなってしまった.気晴らしにどこかでかけようとか、すこし寄り道しようか、そういう気概が一切ない.一医療人として人一倍気を遣っているのももちろんある.出かけるとしても、印鑑を押したものをどうしても外部に出しに行かねばならないような、私的にも公的にも重要かつ碌でもない行為であったり、生活必需品を買い出しに行くくらいだ.例えば車庫証明や車検証の手続きはほとほとうんざりする悪習だ.警察署や陸運局の喧騒にあらゆるリスクを冒して、手書きの文書を提出する行為は馬鹿馬鹿しかった.先日妻のもとに免許更新の通知が来ていたが、三十分だろうと警察署に赴いて自ら新型ウィルスの危険に身を晒さなければならないことは、奇妙な現実だ.無駄に感情を消費するだけだ.

 私にとっての救いは、やはり本を読むことに尽きる.お正月は久々に20年前のゲームをしたが、楽しかったとはいえ、懐かしさを楽しんだといったほうが正確であったように思う.ゲームをやり終えた(クリアした)あとの虚脱感は年齢を重ねるほどに大きい.その分、哲学書や随筆は心が落ち着く.己の無能さを嘆く以外は眼光紙背に徹すればよく、ひたすら真っすぐ読み込めば良いのだから.現在はマルティン・ハイデガーの「存在と時間」を光文社古典新訳文庫で読んでいる.哲人の作品を解説付きで、しかも日本語で読める幸運!なぜハイデガーか.前に読んだエドムント・フッサールときたら現象学の系譜をたどれば次はハイデガーかな、と思っただけだ.きっとその次はヤスパースかメルロ・ポンティだろうか.やはり現象学という「本質観取」、「確信形成」の理解を追求することは密かに楽しい.

 参考書として併せて「哲学用語辞典」というものを買った.パラパラ頁を繰るだけでも面白い.お高く止まっているように思えるかもしれないが、お気に入りのソファでせんべい(ばかうけ)やロッテのチョコパイを食べ、無糖のコーラを飲んだり、コーヒーをがぶ飲みしながらぐうたら読んでいるだけだ.ブルボンのシルベーヌやレザンヌも美味しくてお気に入りだ.

 ポッドキャストと仏教

 最近、私は音楽も聴かなくなった.もともとは音楽を好んで聴く方だが、最近の歌謡曲を聴いても全然ぐっとこないし、昔のヒット曲を発掘する気力もなくなってしまった.十年前のように新奇性を求めることはもはやない.歳を取るということはそんなものだろうか.その代わりにポッドキャストを聴くようになった.二人以上の司会が日本語や英語で議論を繰り広げる様子を聴くのは案外苦ではなかったことに気づいた.もちろん番組を選ぶが.私は歴史の薀蓄や語学の表現に関心があるので、そのような議題を扱う番組があることは幸運であった.

 車通勤中にポッドキャストを聴くことは私の習慣になりつつある.iPhoneがある限り無料で聴くことができるのはありがたいことだ.司会進行の発言に共感することもあれば、疑義を感じることもある.今の表現を英語で言うとしたらなんて表現するだろうか、と考えながら私の目線ははるか水平面を捉え、両手でステアリングを支えている.アクセルペダルを微調整しながら高速道路を走行するからこそできる芸当かもしれないと思う.

 そんな通勤の片手間、ある歴史番組で仏教の出自に関する議論がなされた.声色からすればおそらく私と同世代の人々で、歴史を専門にしているわけではなさそうな話しぶりだが、皆ものすごく勉強して番組を作っているのだなぁ、と感じるくらい濃厚な議論が繰り広げられ、車内一人でたまげていた.変に司会者の経歴が出ないところがいい.肩書がつくとでしゃばる人もいる.皆偉ぶらず、謙虚に各々の解説を聞くし、わからないものはわからないと素直にいう正直なところに私はものすごく好感をもった.私が聴いた議論の内容というのは、ゴータマ・シッダールタが仏教を創始するに至った経緯、仏陀とは何か、上座部仏教、大乗仏教などの分派、日本への伝来.政治哲学として仏教を利用する中央政府の狙い、中国への留学、空海や最澄の登場であったように思う.そこに「空」の概念、「唯識論」の説明すなわち、末那識、阿頼耶識の注釈が加わる.厳密な定義を外れるだろうが、彼らの説明を聴いて、末那識、阿頼耶識は無意識・潜在意識のような概念に近いと私は思った.即座に、私はジークムント・フロイトのことを想起した.無論、フロイトは無意識という概念を心理学や精神医学に応用した人物である.まったく、それよりもはるかはるか前に仏教が無意識という領域に踏み込んでいたとは!精神医学の教科書にも心理学の教科書にもそんなことは書いていなかったはずだ.自分の無知を嘆く以上に目からウロコの感動を覚えた.この感動は井上円了が迷信を打破するべく「妖怪学」を打ち立てたと知ったときと同等であった.

 仏教という、宗教と呼ぶよりもむしろ体系化された緻密な哲学といえる学問の先駆性と深淵をポッドキャストで感じてしまうとは思わなかった.仏教哲学はもしかすれば、認識論や認知科学さては精神病理学のさらなる理解の助けになるのではないか.私はそんな心持ちがした.私の考えが正しいかどうかはともかく、すでに東洋哲学に関心を抱く(精神)医学者がいても不思議ではないだろうとも思った.もはやとっくに調べつくされているかもしれない.とは言っても学会誌でそのような投稿を見ることは殆どないし、書店でも並んでいるのを私は見かけたことはない.

 この閉塞感漂うご時世での私の癒やしは結局、知的好奇心の刺激に他ならないのだろうと思う.このような時に出来ることと出来ないことの分別を明確にして、個々人の出来る範囲で好奇心を絶やさないようにすることが、有事で枯れ果てないコツなのかもしれない.

 そうはいっても長続きしなくてくよくよするし、がっかりもする.度し難い現実を突きつけられて当惑もする.最近はあまり高望みせず、出来る限り黙々と課題をこなして、かろうじて生き延びているくらいの体裁を保っている方が、今の私の身の丈に合っているように感じる.皆さんにとっても癒やしの時間があれば幸いです.

 ここまで読んでくださりありがとうございました.