Pandemic and Persona

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 以下の記事は2020年7月2日に医学誌The New England Journal of Medicine Perspectiveに掲載されたものを翻訳したものです.記事は無料で読めます.https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMp2010377


パンデミックと私のあり方

マイケル W.カーン 医学博士

 誰もがCovid-19のパンデミックとどう向き合っていくか模索していた一方で、私はとある不安げな患者につい最近こんなことを言ったのを思い出した.

「インターネットで『ニューハンプシャー レイクトラウト 記録』で調べてみてはどうでしょうね」

 彼は釣りが好きだった.それで私は先日の新聞記事を思い出したのだった.ちょうど例の感染症が広がる前のころ、にこにこと笑みを浮かべた釣人が誇らしげに超巨大な魚を抱えている記事だった.私は彼がさらっとこの話を流すだろうことはわかっていた.私の言ったことが彼にとって、不吉でもなんでもないのに未だ気になったり、意味深に思われるかもしれない.もしかすれば気晴らしになったか、なんだか落ち着いたかもしれない.釣りに関心のある人なら誰にでも言ったであろうことだった.しかし、医師が患者に言うこととしてそれで良いのだろうか、私のプロ意識は保てるのだろうか.

 精神科医としてのキャリアが40年を迎えるころ、私はコロナウィルスが広がる以前から、私のプロとしてのありよう、つまり患者への姿勢と作法といったものが、徐々に私個人のものへと一層発展してきた.専門的な力量に関する不確かさと疑念が時を経て、より自信と専門性ともよばれるものへ変わってきた.私は患者たちにより自発的に振る舞うことで私はさらに自由になっていくのを感じた.より「ありのままの自分自身のように」、という感じだった.私はある限られた個人の細かなこと、例えば旅行はどこへ行くのか、観たことのある映画などを共有することが心地よくなっている.それと、ユーモアを用いて外部からの調整役と対話の潤滑油を担う心構えがさらにできていると思う.

 こうした緩い関係は私と患者の境界をどっちつかずにするわけではない.当たり前だが、私は個人的な問題を患者に共有することはないし、公にすることもない.例を述べると、家の修理や調べ物について患者の助言を強く頼むこともない.しかしプロとしての私と普段の私の違いというのはなくなってきている.私は一人の温かい専門家であると同時に一人の人間なのだという感じがしている.そういった結びつきこそが、より確かで私を元気づけるのと同様に、しばし患者にとって治療的であるように思われるのだ.

 そしてパンデミックは訪れた.サミュエル・ジョンソン氏の言葉1を言い換えれば、これからウィルスが押し寄せてくるという見通しがあるとなると私の思考は見事研ぎ澄まされた.臨床的な優先事項がより明確になって、実際、パソコンでの遠隔医療面接するという数週間の経験が、そうでもなければ理解にかなり時間を要したであろう、プロであるがゆえのフットワークの軽さが、どれだけ危険であるか、共有されたかがわかったのだ.私は時折、いかほど患者が家族や友人の情緒的かつ身体的な健康について取り合っているか訊くだけでなく、それらについて探りを入れることで面会を始めることがある.次に患者が私が元気か、家族の様子はどうだとか尋ねてくると、私はおおよそ隠さず話すようにしている.私は患者がいくらか体を動かしているのかどうかや、いかに独りぼっちな気持ちを抱えているかを尋ねている.患者の中には日々のルーチンはそれほど変わっておらず、人との距離を取ることはかえって棚ぼたのように思うものもいる.

 私は皆が日々をどのように過ごしているか訊くのが好きだ.ある患者は読んでいる本をパソコン内蔵カメラに映るように抱えていたので私にはその背表紙が見えたことがあった.オンライン面接の間、患者の猫が画面の中に突然飛び出してきて、いかに動物が患者の健康にとってかけがえないものであるかを彼女の顔から読み取れたこともある.私は患者の住まいをビデオツアーすることで思った以上に暮らしぶりが落ち着いていることを知り安心したのであった.時々私はZoom2上の精神科医というより地元のお医者さんのような気持ちになる.

 私はまた、動画面接の締めをしようとするとき、思いがけず小さく手を振ってさよならを伝えようとしていることに気づいた.それは少なくとも悪いことではないように感じている.遠隔医療の身体的な近接感の無さがこうした型破りと新鮮味を生み出し、医師患者関係のぎこちなさをほぐしていくのだろう.医師と患者は歴史を紡ぐ体験を共有している.塹壕の中に無神論者はいない3と言われているように、この大惨事と無縁な人はほとんどいない.

 この危機はそれゆえ一つの機会をもたらす.ウィルスに対する我々の同じ脆さのおかげで、医師にとってそうでなければ何年もかかるであろう事実がすぐに認識できるのだ.事実とはすなわち我々は患者とどこも違うところはなくて、病気でない人とごく自然に付き合うように、そうすることが彼らにとって大変嬉しいことであって、我々を気楽にしてくれるということだ.医師というのはしばしばある種の仰々しい役を演じる職業意識と、そういった態度から逸脱して過度な気さくさや、対人の線引に関する問題が生まれるのではないかと懸念する.これらは考えなければならない現実の問題である(しかし臨床での結びつきを犠牲にすることなく考えなければならない).伝統的な医学の作法や態度というのは確かに学ぶ必要がある.しかし、ジャズの偉人、チャーリー・パーカー4が即興の秘訣とはコード変更を学ぶことであり、忘れることでもあるというのを私は思い出す.私は上手く患者と馴染む一つの方法は医学の職業意識についての標準的な教育を受けることと、それをまさに忘れるのでなく、自分自身の中に溶け込ませ反芻することなのだと思う.

 話はまとまらなかったかもしれないが、私は、パンデミックの行方が、多く謎に包まれ(心の奥底では楽観視できる)中で、皆が『医者らしく振る舞うこと』が型にはまった態度を意味するものではなくて、より心に根ざしたものを理想的には意味するのだとより広く気づくやもしれないと考えている.


 ボストンのハーバード・メディカルスクールおよびベス・イスラエル・ディコネス・メディカルセンターより.

 この記事は2020年5月6日にNEJM.orgに出版されたものです.


訳注:

1: “Depend upon it, sir, when a man knows he is to be hanged in a fortnight, it concentrates his mind wonderfully.” Life of Johnson, Vol. 3, 1776-1780

 「閣下、状況次第です.これから絞首刑になると知れば人は皆見事に思考を研ぎ澄ますものです」(筆者の拙訳).Samuel Johnson (1709-1784) は英国の文筆家.文壇の大御所と言われる.上記の文章をもじったもの.絞首刑をコロナウィルスの猛威に言い換えている.

2: Zoom Video Communications, Inc. が提供するウェブ会議サービスのこと.コロナ禍によってビデオ会議が急速に普及した.

3: “There are no atheists in foxholes.” 「塹壕の中に無神論者はいない」極度の緊張を強いられる場面では誰しも神頼みをする、よって無神論者はいないという格言.出典は不明.

4: Charlie Parker Jr. (1920-1955)は米国の名ジャズプレイヤー.モダンジャズの創始者と言われる.


感想:

 翻訳は実に難しい.日英は主述の形が異なるので、どのように配置するのかは苦心した.原文を読んでいただければわかるが、かなりの超訳(迷訳か誤訳)がある.遠慮なくご指摘いただきたいと思う.一方で、大変勉強になった.私の尊敬する先達が言っていたことが身にしみる.例えば、sportsmanを調べると、運動選手を意味すると思いがちだが、それでは本文で全く意味が通らない.アウトドアを楽しむ人、釣り人のような意味もあると知って、sportの多義性には恐れ入った次第だ.また、Personaの訳は人格といった言葉をよく使うが、語義の解釈を吟味して、かなり訳を柔軟にした.

 この医師は実に気さくな先生なのだろう.かといって本文にもある通り、公私混同をしていない.彼はコロナ禍によって、柔軟な面接をするように意識したと言っているようだが、きっと前から従来の医師の型にはまらないような臨床をおそらく長く続けてきたに違いない.私は精神科における遠隔医療は部分的に有益があると思う.しかし、ビデオ通話だと面接の場の雰囲気が失われる気がするのだ.診察室で繰り広げられる緊張感やある種の張り詰めた空気感というのは臨床での極めて重要な要素だと考える.しかし、カーン医師はかえって患者の日常の一コマが切り取られ画面に映し出されることでより自然な関係性を見い出せると考えているようだ.これは確かにさもありなんである.

 日本における潜在的な需要は極めて多いだろう.精神科医療資源の少ない地域、離島在住、引きこもりや、DVなどの事情により別居を余儀なくさせられている人、災害や事故によって通院ができない人も当てはまる.ただ、その需要をいかに見極めて、その中でどのように必要なインフラを供給していくかが課題だろう.ビデオ会議ツールの使用にあたっては医療と企業の利益相反がないように協議する必要はあるし、面接時間や適応を十分に検討せずに遠隔医療を広げてしまうと、かえって適切な医療の分配が行われず、医療者の多大な疲労が強く懸念されかねない.

 今後も記事を選んで翻訳を行いたいと思っています.ご意見、ご感想いつでもお待ちしております.

私の時間論:急

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 このシリーズでは始めに、古代の人々はそれぞれの生活圏で異なる時間の見方をしているとの指摘を確認し、それぞれ時間を有限の線分、無限の円環、始点があって終点のない無限直線、始点はなく終点のみの無限直線に大別されるとした.人は過去から未来へ流れる直線と、天体運動のように循環する時間をうまく組み合わせ、歴史を紡いできた.特に、時間が過去から未来へ不可逆的に流れる感覚は私達にとって自明であるように思われるが、それは正しいのだろうかという疑問を私はふと思いついてしまったために、こうしてブログに思考過程を開陳した.私なりに書物を読んでいくうちに、なぜかループ量子重力理論に出くわした.そしてトランプカードゲームの大富豪で宇宙を例えるという頓痴気なことを始めた.それは宇宙の「特殊」性を説明するためであって、偶々私達から見ると、世界に時間が流れているように感じているに過ぎない.

 まず、宇宙全体に共通の「今」はない.地球の「今」とアルファ・ケンタウリの「今」は違う.アルファ・ケンタウリは太陽系に最も近い恒星だが4光年の距離があるという.星間電話が確立して、地球からアルファ・ケンタウリにいる異星人に電話をかけたとする(何語で?).信号がアルファ・ケンタウリに届くまで4年かかる.幸運が重なって、異星人が電話に出てくれた!それってアルファ・ケンタウリの今にとっては、地球の4年前のことなのか?これマジ?C. Rovelliによれば、この問は無駄だという.イタリアンレストランに行って、「すみませぇん、ペンネマシマシカラメマシオリーブオイルスクナメニンニクください」とラーメン二郎式で注文するくらいトンチンカンで、「高校の通学にフォーミュラカーで行ってもいいですか、スリックタイヤで」と訊くようなものだという.改めていうと、「今」は大域的ではなく、局所的だ.二人がけのソファに座っているヤングな男女のカップルくらいの距離であれば、「今」は存在する.彼氏の講釈を聞かずスマホをいじっている彼女に、彼氏がいじけて「ねぇ『今』なにしてんの?俺は『今』、宇宙について語っているんだぜ」と問いかけることは意味がある.ちょっと例えが無茶だが.

 時間が流れるリズムは質量や重力場によって異なることをA. Einsteinが説明した.彼の記述する時間と空間は、重力場によってぷるるんっと揺れ動く巨大な黒ごまプリン(ゼリーでもフルーチェでもいい)に私達が内包される一部分であった.ところがどっこい、この世界は量子的.あらゆるものは離散的、すなわち散り散りバラバラに動く.ぷるるんっと動くように見えた巨大な黒ごまプリンは実は白黒のモンタージュが絶えず不規則に動いていて、偶々黒ごまプリンに見えていたにすぎない.もしかすればドラゴンフルーツの断面かもしれないし白米に刻み海苔がかかっているのかもしれない.つまりは時空の記述は近似的で曖昧であったということだ.物理学の根本をたどるとそこには時空はなくて、過去も未来もないということが、ループ量子重力理論が教えてくれることであった.しかし、きっと例の彼女はぶすっとして

 「ふーん.黒ごまプリンでもなんでも良いけどさ.べつに嫌いじゃないし.だからなんなの?」

 ということになるから、もう一度私達の世界に立ち返ってみよう.ちょっと気まずいカップルの世界でもある.私にとって気になるのはどうして自分達の多くは時間が流れているように感じられるのだろうか、ということであった.

 ちょうど別の目的で私はE. Husserlの”Die Idee der Phänomenologie” (邦題:現象学の理念)を読んでいるところであった.他にも彼についての解説本を読んでいると、現象学の目指さんとするところが段々明らかになってくる喜びと、ポンティアック・フィエロベースのF40レプリカと本物のフェラーリ・F40の違いを私たちは如何にして認識するかを考えることができた.(現象学的還元をもとにした見分け方はまた記事にする予定だ)そんな中、この時間に関する論考で多いに参考になった”L’ordine del tempo”に奇しくも、Husserlの「時間の構成」について考案した図(図1)が引用されているではないか.私は密かに歓喜した.Rovelliからすれば引用は必然であろうが、私からすれば偶然である.これも量子力学の思し召しか.

図1 Husserlの考案した図はもっとそっけない.

 この図を説明する前に、最初の問に立ち返る.なぜ私達は時間の流れを感じることができるのかと.端的にいえばそれは私達が「記憶」し「予測」することができるからだという.さらにいうと、私達の脳神経系は膨大な神経細胞のネットワークによって、受け取った感覚刺激を処理しその過程でパターンを認識、そこから予測をしようとする生き物だ.私達がいる現在は過去の軌跡の上にいて、それは描こうとしている彗星の尾でもある.お父さんと少年が仲睦まじくキャッチボールができるのはお父さんにも少年にもボールの軌跡がわかるし、どこに落下するか予想がつくからだ.よほど鈍臭くなければ.

 たとえば音楽を聴くとき、一つの音の意味はその前後の音で決まる.もし私達が常に一瞬の存在であれば、音楽は成立し得ない.私達が音楽を聴いて感動するのは記憶して予測するからだ.この例えを用いたのはA. Augustinusで、さらにE. Husserlでもある.いつの世界も偉大なおっさんはいる.Husserlは音楽をヒントに、時間の構成を図式化した.それが図1である.点Aがなぜ点Aなのかはわからない.何かの頭文字かもしれないが、名前は何でも良いんじゃないか.点Aから出発して、任意のある瞬間Eにいるとする.線分AEは時間経過を表したもので、線分EA’は瞬間Eの「記憶または予想」である.感傷的にいうと「思い出や計画」である.もっとキザに言えば「君と夏の終り、将来の夢、大きな希望忘れない 10年後の8月また出会えるの信じて」みたいなものだろう.

 線分EA’では漸進的沈下によって(図次第では浮上でもいいと思うが)AがA’に運ばれる.これらの現象が時間を構成するのはどの瞬間EにもP’やA’が存在するからである.なにが言いたいのかというと、Husserlおじさんは、時間の現象学の源は線分AEという客観的な現象の連続ではなくて、(主観的な)記憶であり、予想、すなわち図の垂直線、線分EA’としているということだ.記憶や予想をかっこよくいえば、過去把持(Rentation)、未来把持(Protention)というらしいがこの際どうでも良いか.一応まとめると、現在(任意の点E)という時間意識は、一様な均質な時間のある一点ではなくて、過去把持と未来把持を含んだ、幅ないし厚みのあるものだとする.厚みってなんだよーって思うかもしれないが、奥行きと表現してもいいと思う.つまり図1における水平方向とは異なる方向へ垂線を引ければどこでもよさそうだ.

 Husserlに続いて別のおっさんであるM. Heideggerは時間について次のように記しているという.「時間は、そこに人間存在がある限りにおいて時間化する」と.

 また、”À la recherche du temps perdu”(邦題:失われた時を求めて)で知られるM. Proustはこういう.「現実は、記憶のみによって形成される」こうした引用はRovelliが引いたものだが、実にはっとさせられる.ここで私からも独自に引用をしてみたい.日本における現象学と精神病理学の立場で知られているのは、自己の存在構造を考察した木村敏である.彼の時間論は簡単に言えば次の通りである.

「時間とは自己存在の意味方向である」

 この文章を見つけたとき、目からウロコというのはこういうことだと思った.なぜ私達が時間の流れを感じるのかという至極明快な答えであると思う.彼は研究者であるけども、もちろん優れた臨床医でもあるから、純粋な思惟だけでなく患者の言葉をもとに論考を発展させる.これは説得力をもつと思う.これまで何度も述べたように、なぜか私達は、過去、現在、未来という方向に時間が流れるように感じている.しかし、何らかの病的な理由によって時間体験が障碍された人々は、時間の方向性を知的に理解しているとはいえ、自己存在のリアリティの喪失感と、通常の時間体験の喪失感を感じざるを得ない.そうした喪失感をもつ人々というのは、離人症という状態にある方々であると木村はいう.離人・離人感というのは精神医学における一現象である.一般的には解離症状に含まれる.解離とは「本来は感覚、記憶、同一性を統合した一人の『私』が「心の安寧を保つ場所が見つからない」ことによって覚醒水準としての意識は保たれているのに、『私』の統合が失われた状態」をいう.よって健忘や遁走、混迷、フラッシュバック、人格交代など様々な症状を呈する.これについては筆者の過去の記事にもあるのでよかったら御覧いただきたい.

 中でも離人感というのは、意識変容によって周囲世界と自己の間に距離が生じた状態で、「何をしていても自分がしているという実感がない」、「生きている実感がない」、「自分の体が生身の人間として感じられない」、などの自己や外界に関するリアリティの喪失を述べる症状である.通常であれば、過去から現在、未来へと一方向になめらかに流れるものとして体験されるはずの時間が、流れを失い、無数の「今」のちらばりとして体験されてしまう.

「なんだか時間が経つ感覚が全然ないんです.ばらばらになっちゃって.全然進んでいかないんです」

 彼らが自己存在のリアリティの喪失感と、通常の時間体験の喪失感を同時に感じるのは偶然ではないと木村はいう.その理由は、私達の時間体験に過去が過ぎ去って帰らないものであり、未来が未だこないものであるという「以前」と「以後」の方向性を与えているのは、「私がいつか死んでいく有限な存在である」という自己存在のリアリティから生じる「生の既存性」と「死の未来性」だからである.過去、現在、未来という時間の流れは「自己存在の意味方向」を本質としている.自分が今生きているとわかっていて、なおかつ、いつか死ぬとわかっているからこそ、時間という一方向のベクトルが生じるのである.よって離人症のように自己存在のリアリティが喪失した場合、時間体験の異常は必然となる.

 精神疾患を有する方々において時間空間の認識に困難を生じることは解離性障害に限ったことではないと思う.特に統合失調症は自己存在の危機に直面する特徴的な疾患であると思う.私はある苛烈な陽性症状(幻覚・妄想)を呈した方を止む無く保護室に収容した経験がある.早期に治療介入し、自体が鎮静するまでしばらく時間がかかったのだが、ようやく落ち着いて保護室から一般病室へ移れる許可を出すため、私が保護室を訪ねると、

「あぁ、先生.どうしたんですか.そういえばさっきお願いしたオヤツの件、どうなりましたか」

とケロッとしていて、長らく保護室にいたことに気を留める様子がない.もちろん毎日回診はするからずっと私と会わないわけではない.スタッフも巡回するのだが、「早くここから出してくれ」とも言わず、オヤツのことを訊く.私とその人をつなぐ時間と空間が断絶した印象を持った.そして「今」関心のあるオヤツのことを尋ねるのであった.保護室という特殊な部屋が一つ要因だったかもしれない.しかしそれを加味しても若輩である私の受けた衝撃はとてつもなかった.木村の言葉を借りれば、「既存性としての事実性」が失われており、現在の自己存在の根拠が成立していない状態であったのだと思う(なぜ自分がここにいるのか知らない).

 以上、時間の方向性が生じる理由について論じてきた.私なりの答えはこうだ.

 自分には生きてきた記憶があって、今も生きている実感がある.そしていつか死ぬことを知っている.その存在のあり方に方向づけが生じる.それを時間と呼ぶのだと.

 だから私達が過去から現在、未来へと不可逆的に流れていく感覚がするのは私達が生きている限り自明である.そう感じるのは決して変ではないし、疑問を感じることもおかしなことではない.

 ようやく賢人たちに追いつくことができたとでも言おうか.いやいや追いつくなんておこがましい.正しく言えばなんとか先人たちの巨大な肩に乗って、少し高いところを見渡せるようになったに過ぎないのだろう.でも本当にこれで理解しているのかな、という不安もある.物理学の先端からの検討、哲学者らの見解、病的な状態からの考察.様々な立場から共通のテーマについて考えを巡らせることができたのは有意義であった.私自身の立場としては、やはり「なぜ病的な状態が生じるのか」という疑問に尽きる.ただこれは極めて難題で、分子生物学的な知見と精神病理学的な検討など学問の複合的な連携が不可欠といえる.まぁ、硬い話はここまでにしよう.

 私にとって生きてきた証は、幼い頃からの記憶と撮りためた思い出の写真と手垢で汚れた本であったり、車のオドメータに記録される走行距離でもある.育てている草木が成長していく感覚や、車に乗って風を感じる時、亀吾郎法律事務所のスタッフが楽しげである姿を見る時に生の充足を感じる.そして、それらがいつか露と消える儚さに心做しか胸騒ぎがする.

 ここまで読んでくださってありがとうございました.今後も亀吾郎法律事務所をよろしくお願い申し上げます.

近年の異世界系小説に見る超越と脱出:5

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 過去の連載はこちらをどうぞ.1 2 3 4

 脱出と超越について話をしてきた.日本の伝説、異世界系小説、解離.それらの脱出願望を見出し、文献を引用しつつ私なりに概説を試みた.最後にもう一つ脱出方法を取り上げ、試論を終えようと思う.

 思いつく方法は自ら命を絶つこと、自殺を考えざるを得ない.人には生における耐え難い苦しみや辛さから逃れるため、死を希求する動きがある.また時勢や状況によって死を選択しなければならないこともあった(生きて虜囚の辱めを受けず).

 自殺という言葉を様々な立場から確認してみる.世界保健機関(WHO)によれば「自殺という行為は単一の原因でなく、多くの要因が重層的に関わり合うことで帰結する現象」とする.なお、倫理学者でもあるI. Kantは「自殺は第一に意図的に引き起こされねばならず、第二に当事者自身の行為の直接の結果でなければならない」.一方、近代の自殺研究の嚆矢であるÉ. Durkheim(デュルケーム)は「死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、すべて自殺と名づける」という.

 定義はともかく、自殺は死への脱出と超越と言える.一つとして帰還はない.……ないのだが、転生として新たな生への帰還を成し遂げてしまうことがフィクションではある.実は前に述べた異世界系小説における転移の方法に、「自殺」がかなり多い.かなりといっても全体の何割が、といった概数は生憎示すことはできない.刻一刻と作品は生み出されているからだ.しかし、ランキング上位作品や、完結済みの作品において自ら死を選択するという手段は容易に認められる(メディア化された作品に自殺からの転生は見つからなかった).現世での主人公はブラック企業の社畜として疲労困憊している描写が散見される.悪辣な上司、連日常態化した徹夜勤務.このような状況が続けば大抵の人間は、抑うつ状態、うつ病に陥る可能性は十分にあると考える.過労が自殺のリスク因であることは知られた事実だが、こうしたこととは相反して、上記の記載が見受けられるということは、作者自身の現実を部分的に投影しているとして捉えても考えすぎではなかろう.作者らが自殺を企図したかどうかは明らかではないが、少なくとも自殺念慮が消極的にせよ存在していたのではないかと私は考えてしまう.小説を書く行為ができるならばある程度は生へのエネルギーがあるだろうと思うので、抑うつ状態にしては軽度なのかもしれない.だが自殺を通した異世界転移は歓迎し難い.なぜかと問われれば、もし仮に自殺による転生の物語が完成度が高く好評で、大衆の支持を得たとする.ギャルから高級官僚まで好評だ.ややもすれば自殺という行動に関して一定の誤解が生じる恐れがある.んなわけねーだろポンコツぅ、と思うかもしれないが、どうかんがえてもありえねーだろ、ということを人間は平気でしてしまうし思い込んでしまう.人類史を振り返れば明らかだろう.竹槍を投擲して鋼鉄の飛翔体を落とそうとする帝国があったような.

 自殺という行為だけでない.その要因たる社会構造を暗に肯定しかねないと考えるからだ.私は少ない経験ながらも若い人から高齢の方まで、悲痛な面持ちで診察室を訪ねてくる患者さんを相手にしてきた.皆職場を契機にうつ病や適応障害といった診断名になる.どなたも口を揃えて言うのは、休むにも休めなくて……私がいないと……仕事がなくなってしまったら……

 そういった言葉はとてもとても良くわかる.それぞれの言葉に対して私なりに説得力のある説明を試みたつもりだが、それではあまりに時間が足りなかった.一人の診察にかけられる時間は極めてわずかだった.たかが5分ではわずかな時間に何かしたくても神の言葉でない限り、その人を健康な世界へ導き勇気づけることは私にとってはあまりにも難しい.社会資源を目一杯使おうという言葉は聞こえがいいが、私のいたところでは資源は足りていなかった.だが「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」と言われているようで悔しくてたまらなかった.抗うつ薬をいくら出しても真のリカバリには遠いことは目に見えていた.如何に数を捌くかが求められた.私はその職場を離れることになった.今考えただけでも吐き気がする.そして私自身の不甲斐なさと力量不足があったことを認めざるを得ない.私は今でも申し訳ない気持ちでいるし、何か他にできたのではないかとずっと悔やんでいる.恥ずかしい話だが、私は電話相談や面接で「死にたい」という患者さんに「自殺してはいけない理由」をうまく説明できたと思ったことがないことをここに告白する.どう説明したらよいかかれこれ考えているが未だに名案が浮かばない.誓ってこれまで一度たりと手を抜いたことはなかったが、職業人として失格なのではと思うこともある.

 疾患は人の病的な要素を抽出して還元したものを言うだろう.血圧が高い状態で臨床的に問題なものを高血圧症、血糖値が高く様々な合併症を引き起こしうる病態を糖尿病と言ったりする.それはわかる.だが、月の残業時間が120時間以上で休日出勤が当たり前で、給料は良くないし、残業手当はでない.そんなうちに睡眠不足で慢性的に疲労があって、不安や焦りもあるし、死にたくて……そんな貴方はなんと適応障害です!社会に適応できていないから適応障害です.そんな馬鹿な.私はそういう考え方を好まない.社会構造を吟味せず個人の適応能力にゆだねて診断を下さざるを得ない現在の診断基準や社会のあり方は問題だと思う.隠さずに言えば社会の方に病理の比重が大きく存在していると思っている.だが、日本の社会構造を容易に変えられるかと問われると、そうはうまくいかない.これから私自身、社会学、労働研究、日本人の文化的背景をさらに学ぶ必要があると考えている.

 よって私は安易に自殺をしてほしくない.それがフィクションであっても.自殺をさらっと容認する社会はあってはならないと思う.表現の自由に則って好きなように作品を作るのはいい.沢山創作されるべきだ.だが、懸命に魂をすり減らしてもなお生きようと必死でいる方々を貶めるようなことは厳に慎まねばならない.かといって私はなろう系の一部の投稿者を批判するつもりは毛頭ない.ただ一つ言っておくと、自殺によって転生した後、ケロリとして異世界になじむ作品の描き方は葛藤を表出する人間らしくない.自殺を念慮するとき、その人には凄まじい死への欲動と生への渇望(タナトスとエロス)が入り乱れる.相反する考えが思考を支配するほどの強烈な葛藤が生じる.そんな葛藤を経て死を選んだはずの主人公が転生したとしたら、「なぜ俺は死ねなかったのか」と深く絶望しても不思議ではない.

 結局、脱出は困難である.私は論考を書き進めながら、どんな結末になるかは私の筆任せにしていた.まぁ楽観できる結語を期待するのは難しい.一応、一時的な脱出は可能だ.旅行は脱出だが、死ぬまで旅行を続けることは現実的でない.帰還することが前提になる.亡命という手段はあるが、日本人はほとんどその選択肢をとらないだろう.もう一つは空想へ脱出すること.しかしこれは虚構にすぎず儚いものだ.それでもよければ脱出してもいいが、現実への諦念が色濃くなる.解離.これは条件付きの脱出だが、尋常ならざる苦痛が伴う.例外的な手段と考えるべきだ.そして自殺.究極の手段.たった一度きり.すべてが終わるが、本当にすべて終わる.苦しみも悲しみも消える.だが、かけがえのない存在や生きていたとき感じた正の感情、思い出、何もかも消えてしまう.そして死を考え続け、選ぶことはとてつもなく辛い作業だ.残された人にとっても.

 近年の異世界系小説に見る脱出と超越の話はここまでになる.あまりうまくまとまらなかったが、私が長く考えていたことを文章にすることができたのでひとまずほっとしている.言葉足らずのところや言い回しがくどいところもあるかもしれない.そうした批判は真摯に受け止めたい.こうして文章を書くことで私はもっともっと学ばなければならないことに気づく.途方もなく.さぁ、どこから勉強しようかという気にもなる.私の力不足は勉強への動機づけの一つとなっている.

 ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました.皆様の寛容さと忍耐強さには脱帽です.亀吾郎法律事務所は今後も特集を組んで、様々なテーマに果敢に挑んで行きたいと思っています.ご声援よろしくお願い申し上げます.

 

 

近年の異世界系小説に見る超越と脱出:4

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 これまでにわたって、私は日本では古来よりムラ社会構造が個人の脱出願望に関係しているという考察を引用し、近年盛り上がりをみせる異世界系小説(なろう系とも)の構造を検討した.日本のファンタジーゲーム人気により浸透したであろう共通の世界観は人をひきつけ、様々な媒体へ、経済活動へつながっており、小説家ブームに火をつけている.異世界転移は古来からありふれた筋書きだが、この脱出はいずれも虚構に過ぎない.といっては元も子もないのだが.

過去の連載はこちらからどうぞ. 1 2 3

 脱出と超越の方法は私たち(亀吾郎法律事務所)が考えつく限り、あと2通り存在する.亡命や羇旅ではない.一つは解離という現象.もう一つは自ら命を絶つこと.だが過程においては耐え難い苦痛が生じ、社会的にも医学的にも問題をはらむ.

 解離とは、なにかが離れてゆくこと、剥がれることをいう.その何かは様々だが、医学的には人体の組織が剥がれること(大動脈解離など)、もう一つは人格が離れてゆくこと.ここでは後者の方を扱う(正常な現象としての解離もある;つまらない話の間、聞いていたことを覚えていない、好きなことに没頭して周りに気づかない、大切な人を失った悲しみで気を失ってしまう).もう少し詳しく言えば、「意識が、外傷的事象(トラウマ)を切り離す」という文脈で用いられる.

 病的な解離は精神科の臨床でよく認める現象だ.医学的には解離性同一性障害(Dissociative Identity Disorder: DID)と言われる.この考えは解離概念の始祖であるP. Janet(フランスの精神科医)に始まる.解離性障害では健忘や人格交代、離人感といった症状・現象が生じる.全生活史健忘といって、自分の生い立ちや名前など個人情報を忘れてしまうことがある.離人感は自分が自分でないような感覚、どこか別の場所から自分を見ているような感覚.多重人格は一個人一人格の状態から、人格を切り離して別の人格に交代させてしまう現象をいう.自分が自分でなくなる、アイデンティティの危機である.

 なぜこのような事態が生じるのか.取り上げられる成因として、性的虐待、情緒的、言語的、身体的虐待、ネグレクト、親の保護の欠如、安全な愛着の欠如などが知られている.多くは家族など大切な人の人間関係に由来する外傷体験とされる.学校でのいじめも大きな要因だ.本来、傷を癒やすものとして機能されるべき愛着関係での虐待は筆舌に尽くしがたい心の傷を生み出す.使われた自分、原因である自分、汚い自分、未来のない自分.

 否定的な自己意識は自分を傷つける.自殺とも無縁ではない.こんな自分でいたくない、認めたくない.絶対に認められない.こんな場所にいたくない、こんな時間が早く過ぎ去ってほしい.辛くて辛くてたまらないと.当人の感じる苦痛は計り知れない.

 私達は、どこか自分の居場所を求める.居心地がいい場所.自分が自分らしくいられる場所.現実であろうと幻想であろうと.解離の本態は安心できる現実の居場所がないことにあるだろう.そういった場合、幻想の居場所を求めてもおかしくはない.幻想を求めれば現実との結びつきは希薄になる.自己同一性の危機に陥った場合、私達は自分を守る働きがあるとされる.これは「防衛機制」という.これはS. Freudがもともと心的葛藤を対処する術語を、軍事用語である防衛から転用したようだ.カッコつけたくなるよね.つまり、自分自身の立場が脅かされると、自分を守ろうと、自分を空間的に、時間的に自分自身から切り離す.「解離」という防衛が働いていると精神科職業人は考える.エヴァンゲリオンを観たことがある人は、機体(人造人間エヴァンゲリオン)に搭乗するパイロットの生命が脅かされた場合、パイロットをエヴァンゲリオンから強制射出するシーンを思い出していただきたい.私はあんな感じを考える.観たことのない方はYouTubeで新劇場版が公開されているので、よければどうぞ.エヴァンゲリオンは人の心の動きのメタファーを巧みに描写しているような感じがする.私見だが.十代の承認に関する問題も内包しているように思う.

 さぶちゃん.ぁ.

 話をもとに戻そう.解離は脱出と超越の一つなのではないかと、事務所のさぶちゃんが教えてくれた.それには私も全面的に同意である.解離で「こころ」は現実から隔てられた空間へ超越する.これをdetachment(離隔)とよび、現実感の喪失、離脱体験、離人感になる.時間的に超越する場合、これをcompartmentalisation(区画化)と呼ぶ.記憶をなくす(健忘)、人格を交代させること(人格交代)で、それまで自身がたどってきた人生の軌跡を断絶してしまう.だが、これらはだいぶ好ましくない.数ある防衛機制の中でも未熟な段階とされる.切り離された人格は容易に統合されない.どのようにして治療を行っていくかは医師にとっても難しい分野だと考える.そもそも人格の統合が治療目標かどうかは議論されている最中である.

 治療の上で私が考える大切なことを一つ言っておくとすれば、それは患者の安全保障を重視することだろうと思う.その意味で入院は安全保障の契機になる.居心地の良い場所を見出すことで、人格を切り離す必要がなくなるかもしれない.そのためには治療者と患者の治療同盟が欠かせないのだが、これはこれで難しい.いつまでも入院するわけにもいかないので、患者と彼らを取り巻く関係者との折衝技術は勿論、適切な対人関係の構築を身につけていただかなくてはならない.マナー講習会を受けてもマナーが身につかないのと同じように、簡単なことではない.

 解離に関する研究は、神経心理学的な基盤において、意識のニューラルネットワークという見地からも盛んに議論されている.解離に関する話は一度保留して、いつかご紹介できればと思う.

次回、最終回! いい加減終わらせないとね……

 

 

 

亀吾郎法律事務所が目指すとこ

About a month has passed since we founded Kamegoro law office.
Posting articles continuously makes us realise that we could gradually see things we aimed for.
Now we would like to reconsider our weblog statement.

Our mottos are set out as follows.

Firstly, To make the blog as lucid, peaceful and cozy place for anyone who visit.
The site should be joyful, healthy and humorous.

Secondly, with a humble mind, to correctly understand Psychiatry and Psychopathology as a medical profession. In order to achieve this object, I will widely cultivate my knowledge for Humanities and Natural science. And I will earnestly exert myself to master not only English but other languages such as French, German and Arabic.

Thirdly, to cherish my family.

Should you need the detail of second statement, I, (Goro) have to say that I’ve believed the intense possibility of the study of Psychopathology. For understanding its essence and position, I think that it is not sufficient to learn only Natural science but necessary to study the time flow started from Phenomenology proposed by E. Husserl, to K. Jaspers who dedicated his passion to Descriptive Psychiatry. Moreover, clear understanding is required for the academic stream continues to present, and knowing how the criticisms occurred. We elaborately set an ultimate goal to learn the thoughts of J. Lacan, who is still influential on present Psychoanalysis, originated by S. Freud. Then I solemnly and humbly wish to translate their wisdoms to non-professional people.

 

 亀吾郎法律事務所を開設して1ヶ月になりました.

 ある程度勢いに任せて記事を投稿すると、少しずつ自分の目指すところが見えてきたような感じがします.ここでブログの方向性を確認したいと思っています.

 内容は以下の通りです.

 一つは、このブログを誰にとってもわかりやすく心安らぐ場所とすること.楽しく健康的にユーモアを尊重した場であること.

 

二つは、医師として謙虚に精神医学・精神病理学を正しく理解すること.そのために自然科学・人文科学の知識を十分に得ること.英語のみならず仏語、独語、亜語の勉強を真摯に行います.

 

三つは、家族を愛すること.

 特に二番目について詳しく述べると、私、吾郎は精神病理学という学問の強い可能性を感じてきました.その学問を理解し、学問が置かれている立場を知るためには自然科学を学ぶだけでなく、E. Husserl(フッサール)の唱える現象学からK. Jaspers(ヤスパース)の記述精神医学、そして現在に至る流れと為される批判を理解する必要があると思っています.S. Freud(フロイト)に始まる精神分析学の系譜を辿り、現在も多大な影響力をもつJ. Lacan(ラカン)の思想を理解することを大々的に究極的な目標として掲げています.そして願わくば、専門としない方々に控えめに思いを伝えたいと思っています.

精神の危機について

 私が仕事を初めて数年経ってから「精神」という言葉を強く考えるようになった.しかし考えるよりも優先しないといけないことが多く、以前は取り組むのが難しい課題であった.今でもとてもとても難しいことに違いないが、私自身少しましになった.改めて考えるだけのものでもあると思う.さて、少しだけ考えてみよう.建学の精神、精神論、精神的、精神病、精神と肉体.言葉は一緒なのにどれ一つ意味合いが何となく異なる.この何となくが引っかかる.人間にとって精神とは何だろうか、動物の精神という言葉はあまり聞かない.建学の精神.学校の入学式や卒業式で聞いたり額縁に飾ってある言葉だ.たとえば私の学校は質実剛健、文武両道であった.精神論.あの人はいつも精神論ばかり説く.ではあの人は肉体論ばかり言う、という用法があるだろうか.殆ど聞いたことがない.敬虔な筋肉の信奉者か.そもそも精神と肉体を対立させていいのか.昔から議論されている命題だ.精神的.この言葉は日常的によく使う.精神的にきついだとか、精神的に強い、といった使い方をする.しかし精神的な強さとはなんだろう.精神病.精神の病気というと色々あるが精神病というとおおよそ統合失調症を主とする一つの疾患群を指すだろう.とはいっても精神が病むというのはどういう状況だろうか.そもそも精神という臓器はないが、精神は人間のどこで働いているか、すなわち精神の座を探求する取り組みは有史以来行われてきた.結局は脳ということになり、大体の人が納得している.もちろん、脳が一義的に精神の機能を果たしているわけでもないことは承知しているが、大多数の人と会話するときには上記を念頭において私は言葉を選ぶ.精神は人間の生活において大きく存在するものだとも考える.建学の精神という言葉は人間が学び舎を建てるときに精神的支柱として掲げるものであろう.わざと精神的という言葉を用いたが、建学の精神という言葉を引くと、自立、知性、社会、滋養などといった単語を学是としているところが多い.どれも目に見えなくて捉えどころのないものを大切にしている、機能させているといって良さそうだ.掴み難くて難解な言葉を私はどのように理解したら良いのだろうか.

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 亀吾郎法律事務所に上記のような問い合わせが来た.当事務所はこのような相談を受けることもある.私は何冊かの書物を選んで次のような返答を行った.

 最近、私はP. Valéryの著したLa Cries de l’esprit(邦題:精神の危機)なる作品集を読んだ.彼は多くの戦争を経験し、人々が切迫した時代と混乱に飲み込まれる状況を見て危機感を抱いた.ヨーロッパは果たしてあらゆる分野における優位性を保つことができるのかと.有史から世界中で賛嘆すべき幾多の文明が栄え、また滅びた.そのような淘汰の中で最強の入力と最強の出力という物理的特性を備えた領域はヨーロッパを除いて存在しなかったと彼は序文で述べる.地球儀でも世界地図でもご覧になっていただきたいが、これは人間が住む土地の総体が描かれており、天然資源、豊穣な土地、豊かな地下資源、様々な特性が観察される.ここから彼は、「人間が住む地球の現状は、人間が居住する諸地域を対象とした一つの不平等系によって、定義することができる」という.Sid Meier’s Civilization という世界文明史ゲームをやったことがある人であれば、1ターン目で砂漠ばかりの土地や、氾濫原の広がる初期立地に嘆息することはよくある話であり、土地の不平等性には一定の納得を示していただけるだろう.荒涼とした山岳地帯よりも河川の流れる盆地のほうが文明は栄えやすかろう.かといってヨーロッパがそこまで資源豊かではないし地形的にも狭溢している.ヨーロッパが優位性を保ってきた一例についてValéryはギリシアの存在を挙げる.ギリシアによって発展を遂げた思想を例に、少しずつすべての学問が幾何学のように論理を厳密にし、即時的な敷衍可能性、徹底した夾雑物の排除を行うことを余儀なくされたとし、近代科学はそこから生まれたと指摘する.Hegelも似たようなことを述べている. 科学が発展し、その物質面の応用が進むと、どちらかというと、資本活用の刺激剤として科学は商品や貿易品と化する.学者の研究材料に過ぎなかった硝石がいつしか化学エネルギーを爆発に換えて火薬となりマスケット銃の弾丸を発射する手段となる.商品は模倣され、世界中で作られる.資源が採れる土地のほうが生産は容易い.人口が多ければその分力は富む.ヨーロッパが占めていた優位性は科学水準等の地域格差がなくなっていくごとに失われてゆく.パワーバランスが逆転しつつある.Valéryはここで拡散という物理現象を用いてさらなる説明を試みる.インクを水に垂らすとそれは一瞬色づいて忽ち消えてゆく.これが拡散である.しかし、もし水槽の中に垂らしたはずのインクが姿を現したら・・・といって物理学でありえない話をするが、この現象は人間においてはありえないことではない.我々は液体系が、自然発生的に、均質系から不均質系に移行しているのを目の当たりしているという.この逆説的なイメージこそ、私達が何千年も前から「精神」の世界における役割であると.ヨーロッパの奇妙な優位性はその「精神」によって、軽い方の秤が傾くように働かしむのであった.なかなか難しい説明であるが、別の小論、La liberté de l’esprit (精神の自由)を参照してみる.そこでは「精神」という言葉を我々の体の動きに必要な、身体機能の最適化を目指すようなものではない思想や行為を分離・発展させる可能性、あるいは欲求、あるいはエネルギーとしている.すでに私達の生命はある種の変形力、すなわち我々の体と周囲の環境が我々に課す生命維持に必要な問題を解決するための能力を持っている.これは他の動物もそうである.しかし、なぜか我々は生命維持の不可欠な欲求が満足してしまうと生命保存とは別の作業を自分に課そうと思うようになる.彼の表現を借りればこれは途方もない冒険である.彼が「精神」と呼ぶものはその冒険に瞬間的な方向づけ、行動の指針、刺激、推進力を与えると同時に行動に必要な口実、幻想のすべてを与える.口実や幻想は時代とともに変わる.この精神的な力と動物的力(生命維持の能力)はよく似ている.同じ歩行であっても、ただ歩くのと踊るのは、同じ器官、同じ神経回路の産物で、ちょうど私達の言語能力が欲求や観念を表現するのに役立つと同時に同じ言葉・形式が詩をつくるにも役立つのと同じであると.両者は同じメカニズムであるが、目的は全く異なる.生命維持か大いなる冒険か.もう少し別の簡潔な文章を引用してみる.彼のCahier (カイエ)の冒頭は、「精神とは作業である.それは運動状態でしか存在しない」から始まる.またこうも述べている.「精神は一度には一つのことしか見ることができない」「精神にはきっと然るべきメカニズムがあると私は確信している.精神のすべてがそのメカニズムに還元されるとは言わない.私が言いたいのはそうした基本的メカニズムが解明されない限り、それより先へ行こうとしても無駄ということである」Politique de l’esprit(精神の政策)からも引用しよう.おそらくこれが最も端的な表現であろう.「私の意味するところはごく単純に、一つの変換する力のことである」、「精神はまさに賢者の石、物心両面にわたる一切のものを変換させる動因である」と.そして先に述べたような叙述が続く.「精神は我々の周囲にある影響を及ぼし、我々を取り巻く環境を変化させるものであるが、其の働きは既知の自然エネルギーの作用とはかなり違ったところに求めるべきものであると.その働きは、与えられたエネルギーを対立させたり、結集させたりすることに存するものだからである.この対立あるいは結集の結果として、時間の節約ができたり、我々自身の力の節約ができたり、力や精度、自由や生命時間の増大がはかられるのである.〈中略〉かく見れば、精神とは、純粋に客観的な観察の総体をいわば象徴的に表したものの謂いである」

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 ここで少しまとめてみたい.精神とは一つの変形力であり、作業でもある.それは動的な状態である.それは自然の営みに逆らうこともできれば収束させることが可能な推進力である.例えば文字を書くということを考えてみる.薄っぺらい物体の表面に異なる物質を一定の浸透力で染み込ませ、これを規則的に延々と続ける.これは生命維持とは関係のない動的な状態と考えられる.さらに一定の様式で平面にインクなり墨なりを染み込ませるためには、「書く」主体の意志、すなわち推進力や行動の指針、もしかすれば冒険心が必要である.この営みによって、主体の思考は収束するかもしれないし、同じ文字を認識することのできる客体すなわち読み手がいれば自然の法則に則らない思考の伝達が行われるともいえよう.考えは収束するかもしれないが、読み手がどのように刺激を受けるかによってそれはさらに他者に伝播する可能性も持つ.もし扇動的であったり挑発的であればその思想に抗おうとする別の推進力が出現することも考えられる.音楽や絵画にも同じことがいえるだろう.こうしたところで、冒頭の問に答えられただろうか.建学の精神は、学び舎を興すときに創設者たちが掲げた教育の原動力(motive)となるキーワードとでもいえばよいだろうか.精神論とは主体に与えられたエネルギーに依拠すれば艱難辛苦に耐えうることができるであろう考え方と言えそうだ.精神を病むとすれば、何かを起こすための推進力に問題のある状態を考える.動的な状態を前提とすれば、それが緩慢な状態に陥ったり静止すればいわゆるうつ状態、暴走ないし危険な冒険を選ぶのは躁状態とも考えられる.このように彼の主張を演繹すると実に明快である.

 ValéryがLa Cries de l’espritを著したのは1919年だから今から100年以上前になる.彼の著作を読んでいてあまりそういう気がしなかったせいか抵抗なく読みすすめることができた.おそらく翻訳が優れていることが大きいのだろう.まだ自分の中でうまく落とし込めていない部分はあるが、一応の読了と総括をすることで、別の著作に取り組みたいと思う.