枇杷の木

Loquats and a Mountain Bird, by an anonymous Chinese artist of the Southern Song Dynasty (1127–1279).

  勤務先の病院には居心地の良い中庭があって、そこには背の高い枇杷の木がゆさゆさと揺れている.枇杷の木だとわかったのは小ぶりの橙の実が地面にいくつも落ちているからで、多くは鳥や虫が食べたあとがついていた.回診を終えて中庭を歩くと、涼しい夜風が病棟の隙間の空間を通り抜けて気持ちが良い.こういうときは考え事が捗る.夜皆が寝静まったときには集中力が自然と高まるのを感じる.降り続く雨が屋根を打つ音、湿ったコンクリートの匂い、軋む古い当直室.

 そんな夜にふと、とある症例のことを考えた.

 「わたしは、悪いことはなにもしていません.コロナの犯人なんかじゃありません.キムラタクヤさんがそうやってわたしのことを犯罪者だとか、悪いものにしたてるんです.キムラタクヤさんはお金持ちで有名だからいろんな人に言いふらして、悪いもの扱いするんです.わたしはこうやってがんばってやっているのに、みんなが悪いって言うんです.がんばってるのに、よくならないんです.さっきも○○さんがわたしのせいにしようとしてたんです.わたしは悪くないんです.犯罪もしていません.人殺しも、万引も、いやらしいこともしていません.仕事もせずただ精神科で入院しているだけの……わたしのこと精神病だって言うんです.悪いもの扱いするんです」

 実際の症例に基づいて大幅な改変をしていることを断っておく.よってこの人物は実際に存在しないが、複数の症例を混在させた一人格として話を進めてみたい.この人は常に自分が危害を受けているという確信でいっぱいであるように見える.キムラタクヤ、ときおりフクヤママサハルといった人物が自身の悪評を流している、という空前の状況にあり当人は困惑している.自分は無関係であるのに、コロナウィルス拡散の汚名を着せられて、あらゆる犯罪の冤罪を被っていると感じてしまっている.この架空症例の病歴において犯罪行為・素行不良はない.一般的な家庭で生育し、定型発達のちに青年期にて、とある疾病に罹患したとする.頭部およびその他の器質的病因は指摘されていない.考えられる診断は想像の通りであろう.

 この人物との面接では常に自己不全感、空虚感を顕にする内容が主となる.会話からは被害妄想が推察される.なぜ妄想だといえるのか.それは本人を除く周囲の支援者、医療者が収集した情報によれば、本人の述べる被害内容はまったく事実無根であることが明らかであることが根拠になりうるか.誰もコロナウィルスを発生させた犯人だなどとよもや思いもしないだろう.他方、本人は確信の水準でそれらを物語っていることにある.確信であるからこそ訂正はできない.

 フランスの精神科医、ピエール・ジャネは自分の不全、空虚、強制などの感覚を、他人に客観外在化(Objectivation)することによって被害妄想が生じると考えた人物である.それは人間の社会活動が、つねに命令と服従を基礎にした能動と受動を、自他が互いのなかに表象しながら行うことによるからだ、と記している.保崎秀夫という医師は、おのれを見失った主体が自他の対立関係を明瞭化させておのれを見出そうとする努力が被害妄想をつくるのではないか、としている.

 「妄想の臨床」というグレートな書物がある.新興医学出版社というところから出ている妙な本で、妄想についてその筋の大家が寄稿している珍しい本だ.その中で、以前紹介した「精神症候学」の著者、濱田秀伯という医師がルサンチマンと妄想について大変興味深い記述をしている.

  被害妄想は何の前触れもなく生じるわけではない.統合失調症ないし妄想性障碍の患者には、被害妄想が現れる前に、自分には価値がない、他人に迷惑をかけていると訴える微小妄想、罪業妄想を抱く無力性の段階がある.他人と比較して低い自己評価に苦しむ患者は、ルサンチマンを用いて内面の価値を転倒させ、「わたしは悪くない」、本当は他人から迷惑をかけられていると確信する被害妄想へ転じるのではないか、と濱田は述べる.

 主体は被害妄想を抱くことで、責任を他者(それが実在しようとしまいと)に転嫁し、自責を軽くすることができる.患者が病識を欠くのは、価値の転倒を自らに気づかせてはその目的を達成できないからだ、という論理である.

 この仮説は私にとって非常に得心のいくものであり、上記の症例が語る「わたしは悪くない」という徹底した主張の背後には、自己不全感、無力感が根底にあるのではないか、自身が精神疾患という病魔によって、長期入院を余儀なくされ、行動の自由も制限されている強制力と服従が強力な自己評価の低さを顕にするのではないか.本人も気づかぬ恨み、怨恨、反感といったルサンチマンがいつしか醸成され、内面の価値を転倒させることになるのではないだろうか、と考えてしまう.その際生じる他者は、主体にとって関係のある人物であれば、そうでない全く無縁の他者であることもしばしばである.この「他者」の設定には本人の生活史と思考障碍の程度が影響するのだろうと思う.

 これをもう少し整理してみよう.

  1. わたしは、病気で仕事もできず迷惑をかけている、わたしは何も社会に貢献できない無力な人間だ.わたしは自分を責める.(微小妄想、解釈妄想
  2. わたしは、「キムラタクヤ」や「みんな」から迷惑をかけられている.わたしこそが被害者なんだ.(被害妄想
  3. わたしには、自分の権利を守り、「キムラタクヤ」を責める正当な理由がある.「みんな」が悪いんだ.

 このように考えてみると、一部の妄想形成にはルサンチマンが関わっているようにも思われる.これを見出した学者らは実に卓見だと言わざるを得ない.こうした説明ができるのは精神病理学の真髄だと思う.そしてそのようなロジックが仮に真なのであれば、上記の陳述をした人に向けて行うべき精神療法はやはり支持的精神療法なのではないかと率直に思う.自尊心を高め、自我機能を維持することを目的として、非合理的な思考に陥っていることをさり気なく気づかせていくことが重要なのだろうと思う.

 精神疾患の一部は価値秩序の惑乱であり、妄想というのは主体がそれを病的な方法で転倒させてしまうことで自らの内的安定を図る自助努力である、と濱田は結ぶ.至言であろう.ならば、その自助努力を病的でない方法で修正できるように導くことが医療の務めなのだろうと考える.やはり医療人が患者を治すのではなくて、我々は、主体が自ら治すきっかけを手伝うに過ぎない存在なのだと、しみじみ思う.根気よく、辛抱づよく続けていくことが大事なのだろう.

 木から木の実が落ちるのを見て世紀の大発見をした人もいるようだが、少なくとも凡庸な私は、いくら枇杷の木を眺めても、自分のわずかな経験を追想して先人の知恵を重ね合わせることしかできない.そうであったとしても私が関与できる人に対して能う限りの時間と才能を注ぐための良い心象風景になればそれでいいと心から思った次第である.

 

投稿者:

吾郎

2020年6月にブログ開設.生き延びるための様々な問題を精神病理学に基づいて取り扱っています!ぜひぜひ気軽に遊びに来て下さいね.Our articles include essay, translation, study about literature, psychiatry(psychopathology), humanities.