若葉

worms eyeview of green trees
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 私は日米合作ドキュメンタリー「映像の世紀」を観るのが好きで、たまたま第十九回ベルリンオリンピックの回を観ていた.恒例の聖火リレーが始まったのは1936年からで、そもそもは「偉大なアーリア人の血脈が古代ギリシアに遡るのだ」という国威発揚の脚本に基づいたものだった.本来アーリア人というのはイラン近辺に住む集団のことである.全く滅茶苦茶な脚本だ.それはともかくこれに関連して私は最近のオリンピックの動向に少しだけ興味をもったので、オリンピック憲章(Olympic Charter)というものを読んでみた.日本オリンピック委員会(JOC)が公開している憲章は和文と英文が同時に併記されていて、両者の解釈で差異が生じた場合は英文が優先されるという.国際オリンピック委員会(IOC)で規定している言語はフランス語と英語で、フランス語が優越する.総会ではこれらのほかドイツ語、スペイン語、ロシア語、アラビア語が同時通訳されなければならないという.なんだか大変だ.中国語がないのは意外である.決して話者人口に即したものではないのだなと感想をもった.

オリンピズムとは

 オリンピック憲章は憲法のようなもので、これに勝る法規は存在しない.(The Olympic Charter, as a basic instrument of a constitutional nature, sets forth and recalls the Fundamental Principles and essential values of Olympism.)五輪に関与するものは誰もこの憲章に書かれていることに従うのが重要である.

 私がオリンピックに興味を抱いたのは、オリンピック開催とあの新興感染症の予防を如何に両立させるかという議論に着目したからであった.この議論はsensitiveかつdelicateな話題で、取り扱い注意な空気感が漂う.様々な報道では現在の委員会の対応に対する怒りや不安の声、オリンピックを中止を推奨、主張する声が聞こえてくる.一方主催側以外から開催を鼓舞する声は少ないように思う.この理解が私の思い違いではないと思いたい.議論にふれる前にまずは憲章のはじめに記載されているオリンピズムという言葉を考えてみたい.

Olympism is a philosophy of life, exalting and combining in a balanced whole the qualities of body, will and mind. Blending sport with culture and education, Olympism seeks to create a way of life based on the joy of effort, the educational value of good example, social responsibility and respect for universal fundamental ethical principles.

The goal of Olympism is to place sport at the service of the harmonious development of humankind, with a view to promoting a peaceful society concerned with the preservation of human dignity.

 オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、 バランスよく結合させる生き方の哲学である.オリンピズムはスポーツを文化、 教育と融合させ、 生き方の創造を探求するものである. その生き方は努力する喜び、 良い模範であることの教育的価値、 社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする.

 オリンピズムの目的は、 人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである.

 別に美文でもなんでも無いように感じる.私は特に感銘は受けない.嗚呼、なんて素晴らしいんだと感動した方がいれば申し訳ないが、私にとってはオリンピズムを他の固有名詞にすり替えても問題はなさそうな印象を受けた.要はスポーツマンシップに近い.何もオリンピズムに限らず、自分の生き方の一つとしてスポーツに取り組んでいる人はたくさんいるし、趣味のために、健康増進のために、教育のために、共感や共有のためにスポーツを行うことは決して不思議なことではない.オリンピズムという言葉はよくわからない.もう一つ、憲章にある「平和な社会」と「普遍的かつ根本的な倫理規範」とは一体何なのだろうと疑問を持たざるをえないが、本旨を外れそうなため深入りを避けておく.オリンピズムはスポーツ哲学とスポーツの平和貢献、という理解にとどめよう.

 ご存知の通り、古代ギリシアでの大会の間、ギリシア諸国は戦争を休戦する代わりにオリンピアのスタジアムに出場し、数々の競技でしのぎを削ることが求められた.そして勝利した者は多くの称賛を集め名誉を得た.ピエール・ド・フレディ(Pierre de Frédy, Baron de Coubertin)ことクーベルタン男爵はこの古の風習に着想を得て、自らの教育者経験を活かし近代五輪の創設に至ったことはよく知られている.彼のいた時代のフランスには普仏戦争での敗戦、パリ・コミューンというイデオロギー対立の動乱が生じた.その後第三共和政の最中、ドレフュス事件というユダヤ人問題の一端を目の当たりにした.これらが彼に与えた影響と動揺は少なからずあったであろう.教育者の道を選んだ彼が次第に傾倒したのは英国のスポーツ教育であった.そして歴史の好事家でもあった彼は古代ギリシアへのロマンチシズムを膨らませた.かくしてスポーツ教育の振興とオリンピアの祭典の融合が1896年のアテネオリンピックに結実したが、1914年に始まった第一次世界大戦のために1916年に開催予定となったベルリンオリンピックは中止となった.その間、中年の男爵はIOCから離れフランス軍に志願.戦時は銃後教育を行っていた.戦後はIOCの会長職に復帰しているのだが、この間、何があったのだろうか.

 1920年に開催された焦土でのアントワープオリンピックでは大戦の敗戦国は出場停止、1936年の「民族の祭典」はある意味大盛況ではあったが言わずもがな、である.1940年にアジア初の大会として期待された東京オリンピックは戦争の拡大によって開催が返上された .この大会も皇紀2600年という「物語」が挿入され国威発揚の推進剤として消費されてしまっていた.1980年のモスクワオリンピック、1984年のロサンゼルスオリンピックは開催されたものの、冷戦の影響を大いに受けた大会であった.他にも開催されなかった大会はあるが、どれも政治的理由が関与し、戦争のために中止やボイコットを余儀なくされてしまったのは悲しい顛末である.本来の趣旨は開催を理由に戦争を抑止するものであったのに.オリンピズムの「平和」とは一時休戦を要請するものとしての消極的な平和主義という印象を持つ.どうしても根本的な戦争抑止にはなりえない.オリンピックの役割に期待しすぎることは禁物であろう.

中止規定

 私が関心を持ったのは上記のような中止に関する規定がオリンピック憲章にどのように明記されているか、であった.ところが全文を読んでみたがどこにも書いていない、ということがわかった.中止や延期に関する規定はどこにもないのである.これは知らなかった.委員会の構成、大会招致の規定、開会式・閉会式の内容といったことは書いてあるものの、非常時に関する取り決めはこれといって書いておらず、最終的な判断はIOCが行う、と書いてある程度だ.平和を前提にしているからなのだろうか.災害や非常事態が生じた場合の中止・延期に関する取り決めが無いことには正直驚いた.何度も中止をしてきているにも関わらず、だ.そう考えると今回の東京オリンピック延期というのは前例のない事象で超法規的措置、ということになる.しかも戦争が理由でない状況である .1918年から1919年に発生したH1N1亜型インフルエンザ、通称スペインかぜはパンデミックを引き起こしたが、1919年内には欧州で収束したことが幸いして開催に至ったようである.では2021年の例の流行は近く収束するのか、と問われれば「多分すぐには収束しない」という見方が大勢を占めるだろう.では中止にはなるのだろうか、というとそれはわからない.だが歴史によれば憲章に書かれていなくとも中止にはできる.一方で組織委員会は「中止にはしない」という主張を続けている.私の印象を言えば「中止にできない」力学が働いているように見えてしまう.

 さて、新型コロナウィルス感染症は現在も猛威をふるい、世界規模で一日あたり88万人の新規感染者が計上されている(2021日4月30日現在).ワクチンの接種者は少なくとも一回行った人は世界で7.9%、6億人程度で、接種を完了した人は3.6%、2億8000万人しかいない(2021年5月4日現在).その中でもジョン・ホプキンス大学が集計している各国のデータを見ても日本の接種率はすごく低いことがわかる.接種が完了した人は100万人程度である(2021年5月5日現在).こういった数字はGoogleですぐにわかるので、細かい話は皆さんに譲るし、数字をどのように解釈するかはおまかせしたいと思う.

 この感染症の軛から解かれるには世界中の人々が集団免疫を獲得する必要があって、それには長い期間がかかる.どれくらいなのか?それは誰にもわからない.本当にわからないのである.新型コロナウィルスの基本再生産数も明らかでない.私達が集団免疫を獲得する鍵はやはりワクチンにほかならないのだが、上記のような接種率に関する数字を目の当たりにすると、パンデミックと国際競技大会の両立というのは「雨天でも傘をささず濡れないように屋外でバーベキューをするにはどうすればよいのか」に似たような難しさを感じる.バーベキューをやるのは問題ないのだが、その時節が問われている.

 これに対して責任者が「濡れないように全力を尽くします、これなら絶対に濡れない、という万全の防水対策で望んでいきたい」という意気込みを語ったとしても、その万全の防水対策とはなんぞや?ということになる.

主催「雨合羽の着用は義務ではありません」

「そんなこといってもい結局バーベキューコンロが濡れるじゃないか」

主催「防水の優先は参加者ですから」

「食材が湿気で傷んだら元も子もないだろう」

主催「あくまで私達は保健所の指導に従ったまでです、参加者が優先です」

「それなら最初から屋根付きの場所でやれよ、それか屋内でやれ」

主催「ですが我々の定款に書いてありませんので」

「雨天中止については検討しなかったのか」

主催「定期的に屋外バーベキューを実施する、という我々の理念に反します.それに巨大なバーベキューコンロを設営済みでこれを今年やらないと赤字になってしまいます、食材も調達済みでもうお得意さんに買ってもらっております.参加費の売上で返さないと」

「いやいや、そんなこと言っても他のバーベキュー会場はみんな取りやめてるぞ、雨の予報はまだ続くし」

主催「開催の最終的な決定権は我々ではなく世界バーベキュー連盟ですので.私達は全力を尽くします」

「うーん」

主催「私達がバーベキューを雨天決行したことで、雨ニモマケズという精神を証明したいと思っています」

「うーん」

主催「健全なバーベキュー実施のため、500人ほど医療ボランティアを募っていますのでよろしくお願いします」

 上記は私のおかしな空想に過ぎない.適当に解釈して貰えればいい.如何に主催者のロジックが奇妙奇天烈だとわかると思う.唖然失笑.仮に上記のバーベキューが雨天決行で催されたとしよう.だが誰が雨の中、参加したいと思うだろうか.小雨ならまだしも大雨である.しかも傘をさしてはいけないという.それなのに万全の対策は明かされぬままである.

怒りに身を窶す前に

 私達が混乱し、不安、怒りを感じるときというのは、矛盾する命題を前にしたときなのかもしれない.あるいは自己の尊厳をないがしろにされた時や自身の信条にそぐわない行動を課せられた場合も当てはまりそうだ.不安はやがて焦燥に、焦燥は怒りに変わることもある.怒りを冷静に対処できれば越したことはないけれどもそれは難しい.とはいえど激越に転じ感情にまかせて行動を起こすことで、周囲に大きな影響を与え自身も他者も迷惑を被ることになりかねない.アンガーマネジメント研修が注目になっているのは、皆怒りの感情をどうにかしたい、という気持ちの現れのようにも思う.

 耳学問的アンガーマネジメントのコツは「六秒間堪える」、「割り切る」、「べき論から離れる」といったものがあるようだ.たしかに言っていることはわかるし、多くは正しいと思う.けれども多くは「それができないから困っているんです」ということなのだろう.それは私自身もよく感じるところだ.薄給でオリンピックの運営に従事させられる求人募集を見てが愕然とした.こんな規約で応募する人がどれだけいるのか.無給で看護師を500人、医師を200人派遣してほしいという要請は無茶だ.つくづくこの国は人を大切にしない.新型コロナウィルス・東京オリンピックをめぐる報道や主張、政策に対する厳しい意見は人々の感じる「もどかしさ」「矛盾」「違和感」の姿であり、緊張感が世界を覆っている.これらが理性なき怒りに変われば容易に誹謗中傷や暴力に変わる.個々人の力では如何ともし難い事象だからからこそ、一部は怒髪天を衝いてしまう.

 別に怒ってもいいと私は思っている.むしろきちんと怒りという情動を認識できないとその他の感情調整に支障をきたす.問題はどのように怒るか、である.

 ではどうしたらよいか.第一に思いつくのは「エポケー」である.現象学の用語を引っ張り出して恐縮だが、要は判断停止である.怒りという感情が持続する場合、その情動を決定づける状況を排除する努力を行うのが良いだろう.怒りという情動出力を減らすようにする.つまりはメディアとの接点を減らすのはいかがか.メディアの視聴を時間制限にするだとか、対立が構造化するディベート形式の番組は見ないようにする、SNSのインフルエンサー(フォロワー数が多い人、発言力の強い人)の投稿があまり見えないようにブロック・ミュートするのが良いだろう.感情の発露を抑え、易刺激性亢進を防ぐことができると思う.「それじゃあ時事問題についていけなくなってしまいます!」というご意見もあるかもしれないが、別についていかなくてよいのでは無いか.今日の感染者数を知ったところでどうにもならない.考えてくれる人は他にもいる.問題は私達が如何にして予防を行い、自分の不利益にならないように自分に忠を尽くすか、である.

 第二に、「メタ認知」を実践してみる、ということも助けになるかもしれない.メタ、というのは形而上(形ヨリ上)のことだ.「なぜ自分がキレているのか」これを別の冷めた視点で考え直してみると、ときにはクッソくだらない理由で怒っていたことは私自身結構ある.自分が怒っているという知覚は確信であるから不可疑なのだが、なぜ怒っているかについては現象学的にいえば超越なのであるから、どこまでも徹底的に内省可能であり吟味できるはずだ.考え直してもどうしても自分の怒りが真っ当のように思えるのであれば次のステップが役に立つかもしれない.

 第三は、怒りの原因と無関係な第三者に話を聞いてもらう、もしくは自分が怒っている理由・怒った理由を説明してみることだ.これはだいぶ難しい.ある程度気心が知れた人でないと話しづらいかもしれない.だが中立的な第三者の見解を問うことも重要であろうとも思う.話すことによる思考の洗練は思いの外捗る.「でも聞いてくれる人がいないんです」という人はたくさんいる.すごくわかる.こうした窮状はこの時世の課題であろう.コンサルタントとされる諮問業の需要はあいかわらず多い.カウンセリング業の需要も多い.私の勝手な予想だが、これからは「全力で聞く」仕事が重用されると思う.だれか困っている人がいれば自分の発言はまず棚において聞いてあげてくださいね.

 最後のコツは、「攻撃に転じない」ことだ.反撃、逆襲、復讐、報復をしないことと同じである.「やられたらやり返す」文句も流行っているが、あれではいけない.怒りの連鎖は生産的ではないし健康を害する.この考えで有名なのはモハンダス・カラムチャンド・ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi)、通称マハトマ・ガンディーであろう.彼の行動理念は徹底した「非暴力不服従」であった.これを実行できる人は本当に少ないように思うが、私は極めて強力な手段だと信じている.公然と批判しないこと、侮辱しないこと、人格を否定しないこと、論点をすり替えて攻撃しないこと、揚げ足を取らないことは大切だ.罵るのではなく、美味しいごはんを食べて、かわいい猫やアザラシやカメの写真を見て癒やされよう.文芸に昇華するのもいい.私に言わせればSNSのコメントに恨み辛みの長文を投稿するよりも詩歌を吟じたほうがよほど風雅だ.新聞の川柳欄は面白いじゃないか.とある大工の息子も「汝の敵を愛せよ」と言っていた.別に愛さなくてもいいが、攻撃はだけは絶対にだめだ.だめなら逃げよう.

 

 新型コロナウィルスの動向、オリンピックの動向、それほど気にしないようにしよう.待っていなくともいつかその時が来る.雨はいつか止むし、夏も終わり秋が来る.そうすれば私達の関心も飽きが来る.直に冬が来てまた春が来る.感染症は収束していないかもしれないし、しているかもしれない.私達は待たなくていい.速報にやきもきしなくていい.別に待たなくても数ヶ月前まで散っていた街路樹の枝には美しい若葉が茂っている.私は青々とした新緑に感動している.

 

 

 

投稿者:

吾郎

2020年6月にブログ開設.生き延びるための様々な問題を精神病理学に基づいて取り扱っています!ぜひぜひ気軽に遊びに来て下さいね.Our articles include essay, translation, study about literature, psychiatry(psychopathology), humanities.