フォン・ドマルスの原理

統合失調症の思考特性とは

 安永浩の著した「ファントム空間論」に関する話はこれで五回目になる.前回までは序論や幻覚について、著者の論考を追いかけたつもりだ.これからは思考障害に立ち入る.立ち入るにはかなり難しい領域で、しかもブログとなればなかなか表現が難しい.安永自身は、自分の仮説であれば、これも説明可能だと述べている.が、その説明の前に大幅な注釈がついている.そう、フォン・ドマルスの原理(von Domarus’s Principle)である.こちらの方が考察としては興味深いかもしれない.聞いたことがある人はいるだろうか.きっといないだろう.私も知らなかった.興味深いといった理由とはそういうことである.「たぶん誰も知らない」.

 原理というのは事象が成立するための根本となる仕組みのことだ.そして、この原理は精神医学のものだそうだ.つまり、精神現象の根本の根拠だということになる.マジか.

 Eilhard von Domarusという人物はドイツの精神科医である.だがその原理以上のことが一般によく知られていない.どうやら1925年に発表した論文によれば、その原理は多くの統合失調症の患者から帰納的に導き出したものであるとされる.さて、どのような原理か、と言われれば次のようになる.

 統合失調症の患者は『述語が同一であるとその主語を同一視するようになる』という原則に従って行動する.(XがZである、YはZである、故にXはYである)

 読者の中には「へぇ〜、そうなんだ」派と、「ほんとぉ?」派がいると思う.その感覚は間違っていない筈で、信憑するにはいささかアヤシイ.精神医学のメインストリームにはない概念である.(メインストリームでは無いが、重要な黒子である)

 これはこれで興味深い思考様式である.もし上記のX、Y、Zが代数であれば、数学的には成立するのである.以下のようになる.

$$X=Z, Y=Z$$ $$∴X=Y$$

 では、つぎのような文章はどうだろうか.

甲「私は処女です.聖母マリアは処女です.だから私は聖母マリアです」

乙「太陽は一つです.私は一人っ子です.だから私は太陽です」

(そうはならんやろ)

上記二つは実際の症例の言辞である.甲は海外の症例で乙は日本の症例だという.海を超えて奇妙な一致があるのは不思議である.()内は私の心の声だ.

何かがおかしい.どちらともおかしいのはわかるが、何がおかしいのか.数学的な方法であれば成立した関係が、言語ではそうはいかなくなる.なぜおかしいのか皆さんは説明できるだろうか.まずは私なりの見解を説明してみよう.

 前述のXYZは数学的な特性が前提にある.代数と言ったのはそのためだ.だから同じ属性として不等号が成立しうる.だが言語になると、「わたし」「聖母マリア」「太陽」は皆、主部である.「太陽」「処女」「一人っ子」は述部である.単語に課せられた言語的性質がすでに違うため、独立した主・述を等式でしめすことが文章として破綻してしまうのだろう.そしてなにより私たちは単語が属する性質を自明なものとして理解している.

 安永は「パターン」を用いて説明可能とする.ちなみに上記の二例のような述語の同一性を前提にしている論法を述語論法というらしい.人がある「概念」的把握、ある「判断」作用を行う瞬間、それがあっているかどうかはともかく、その体験には厳たる統一、「全体」の感覚があり、その差別相、「部分」はこれに従属するのみだ、ということが自明になっていなければならない.「概念」や「判断」は全体的把握があるからこそ、「概念」、「判断」である.しかしその概念の明確な限界づけ、判断の分化構造は通常必ずしも完璧ではない.つまり前述のパターンで言えば、Aに対してBが弱すぎる.甘すぎる関係にあるという.だから「概念」、「判断」理解には曖昧さと不正確さがでる.なるほど.たしかに我々は事象の理解、把握をできるだけ正確につとめようとするが、完璧さは日常の絶対条件では無い.スーパーマーケットでうっかり買い物袋を忘れたときにレジ袋を何枚頼むかは、買った品物のすべての体積を理解する必要は決してなく、大雑把な見通しを立てられるかで決まる.

 ある正確な、それ以上説明の余地のない境界と分化をそなえた「概念」、「判断」はAとBが一応限界的な平衡状態にあるという.この場合は、a=bである.その前はa>bであることはわかるだろう.私見になるが全体と部分が非常に近接する状態というのは、HSPとよばれる人たちの先天的特性を表しうるのではないか、つまり、彼らの

「Depth」深く考える

「Overstimulation」過剰に刺激を受けやすい

「Empathy & Emotional」共感力が高く、感情豊か

「Subtlety」わずかな刺激を察知

という特性は部分が全体に迫っているようなAとBが接近している状態であれば説明的であると思うのだ.

 さて、なぜ上記の甲乙の文章がおかしいと我々が感じるのか.言語学的な立場からの考えがあればぜひコメントを頂戴したいが、健常な人が一つの命題を作る時、述部というものは、主部がこの命題をつくる前に持っていたところの「概念」を、何らかの意味でより細かく、より具体的に規定、制約、分化せしめるために要求され、用いられるからだ、と安永はいう.その結果もとの主語概念が損なわれるだけでは無い.棄却されるわけでもない.「よりよく分化された全体」になっただけだ.例えば、

 わかいほは みやこのたつみ しかぞすむ よをうちやまと ひとはいふなり

 (我が庵は 都の巽 しかぞ住む 世を宇治山と 人は言うなり)

喜撰法師

の「わかいほは」から「みやこのたつみ」へと分化されるが、自分の家が京都の東南(巽であり宇治)にあって穏やかな場所(巽)だ、という全体を為している.お上手.

 ではa<bとなった場合、どのような状態になるか.この場合、全体が部分のために要求されてしまう.全体が部分に従属するという異常事態だ.我々は追体験することが出来ないが、「部分」が自明な出発点となる.このために無作為な任意の「全体」が「部分」から誘導される.だが「全体」のようにみえるものは「全体」の意味をもたない仮現の従属的全体であり、むしろ形骸的な結合である.死んだものが生き返って動き出すゾンビである(ゾンビも生と死が逆転した関係といえそうだ.死が生に超克した存在がゾンビであるからだ.だが安永式論考で言えば、これも形骸的結合であろう.つまり私に言わせれば結局ゾンビもその結合であり、「生きている」ようにみえるものは「生きている」意味をもたない仮現の従属的全体である).

 このような異常な判断体験においては、「パターン」の「量的」側面が支配し「質的」面は付随するのみだ.もう少し例を出そう.「メーガン」という女性がなぜかゾンビになったとする.生気がなくなるが肉を求めて生き物に食らいつく.異常な代謝で身体は腐り果て、みるも無残なゾンビになってしまえば、彼女はもはや「メーガン」では無い.「メーガンだったゾンビ」になるだけで、「メーガン」の主体性は失われ、ゾンビという「死>生」の存在の一つになりさがる.(*メーガンに恨みはない)

 このような判断を異常、と記しているが、このようなものはどうやら迷信における命題に多いらしい.例えば、「衣服を左前に着ない」のは日本人なら当たり前だのクラッカーであるが、これも述語論法だ.「死者は左前に衣服を着る」命題に対して、「私が左前に衣服を着る」と、「私=死者」となってしまうから、みんな温泉旅館では右前に浴衣を着るのである.よって異常というのは安永の言葉だが、決してそうも限らない.

 先の「私は聖母マリアです」「私は太陽です」という命題において正常な「全体」は崩壊している可能性がある.安永に言わせればまとまった命題というよりは数式のような並列のようなものである.数というのは極限までに「質」を取り払って、物事の「量」のみをとらえた抽象のことであるから、「太陽が一つ」「私が一つ」という次元で等式は成り立つ.しかし私達は日常で、質をおろそかにすることはないだろう.

 別の症例の対話を出そう.これはDomarusと同時期の精神科医、Silvano Arietiにより報告されたものだ.症例は高等学校相当の学歴である.

問「『書物』とはなんですか」

答「それはどんな書物をあなたが言っているかによります」

問「『テーブル』とは」

答「どんな種類のテーブルですか?木製ですか、磁器、外科用テーブル、それともあなたが食事したいと思っているテーブルのことですか?」

問「人生(Life)とは」

答「私はどんなLifeをさしているのか―雑誌の『LIFE』か、それとも他人を明朗にさせる恋人をさしているのかを知る必要があります」

 採用面接であれば(うわぁ、大変なの来ちゃったよぉ)となるような悲劇だが、精神科臨床ではよくある問答である.非常に奇妙な答えだと思うだろう.基本的には質問の回答として「書物とは、紙片に記された文字、文章をまとめたものです」、「テーブルとはものを乗せるための台です」「人生とは人の生涯です」といったものがあると思う.つまり、共通性抽象を問ういている.その語が何を意味しているか、何を内包しているかを問ういているのだ.だから木製だとか、外科用だとかはどうでもいいのに、症例は部分ばかり気にしてしまっている.これが奇妙さたる所以である.パターンの逆転によって、「非共通」「差別」「量」「具体」といったものが自明に先行する.よって内包するものは二次的な意味しかもたなくなる.安永はこの思考形式は認知症では出現しえないという.統合失調症の患者において言葉が

「それがそういう意味であるから」ではなくて、

「それがそういう意味でなくてはならないから

使われるのだ、といえばより強制力がわかりやすくなるだろう.断言的、妙な言い回しが多く、「…のようだ」「…のように思われる」という比喩や比較表現が苦手だ.ここで安永の注釈について言及しておこう.

 私達は何か感動し、感極まることがあれば、これを他の人にもわかるように伝えたい、と思うことがある.「ブログ」はまさにそういう手段であろう.だが、そうした衝動があるとはいえ、実践が難しいことはよく知っていると思う.感情や漠然とした把握の予感はここでいうa>bであり、本来言葉ではいいえないものがあることを知っている.”「記憶/物語」を読んで”でも深く言及してきた.言葉を無理につかっても表現しても何か表現しえないものが残る、という感じがあるに違いない.表現し得ないけれども、そこにあるのだ、という充実、満足の体験は必ず存在する.私達はインターネットの世界でも「小並感」や(語彙力)という卑下した表現で感興の非分有性を明示することがある.「それはそうだけど、どうしても最後まで表現したい!(あの名工の味を再現したい!)」ということはあまり考えないはずである.なぜなら「言い表せなくてもあるのだ」という実感は何かしら自己完結的なものがあるからだ.

 しかし思考障害が生じている統合失調症の例ではそうしたことの逆転が生じる.表現は被強制的に起こる(しなければならない).形式的命題がでっち上げられるだけで、人間的体験の深み、情感の余韻がないであろう、というのが安永の論である.

 もちろん、これは仮説の域を出ない.統合失調症の病勢が弱まっているとする現代では、こうした派手な症例はほとんど目にすることはないからイメージしづらいかもしれない.「私の知っている人はこうではない」という意見もあるだろう.それはそれで結構だと思う.これですべてが説明できると思っているほど私もぼんくらでは無い.統合失調症がヘテロジニアスな疾患群であることは現代では自明である.とは言っても安永のロジックは見事だと思う.読者の方には、世の中こういうことを考えている人もいるんだな、程度に思ってもらって良いのだが、これは決して衒学的まやかしではなくて、真に病理を理解したいがための血のにじむような思弁の結果であることは述べておかねばならない.

ここまで読んでくださりありがとうございました!

 リンクを多数貼ってありますので、気になったら他の記事も読んでくださいね.こういう議論がお好きな方は西田幾多郎がおすすめです.

 

投稿者:

吾郎

2020年6月にブログ開設.生き延びるための様々な問題を精神病理学に基づいて取り扱っています!ぜひぜひ気軽に遊びに来て下さいね.Our articles include essay, translation, study about literature, psychiatry(psychopathology), humanities.