原罪について

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前回のあらすじ

 過去三回連載した「不安の概念」に関する記事で、私は主に第一章、第二章の説明を試みた.簡単にまとめると次のような具合になる.

 ・キルケゴールは不安の構造をキリスト教の「原罪」と自身の人生体験から理解しようとした.

 ・原罪論とは、「人類が普遍的に罪を負っている」という説明に根拠を与えるもので、創世記の伝承、アダムの堕罪に基づいている.ただ教義によって解釈が異なる.

 ・不安とは「自由のめまい」であると例えられる.不安とは、人間存在の構造が何の支えもなく揺るがされていることである.不安と恐怖は前者が対象を欠く点で大きく異なる.

 ・罪と不安は表裏一体である.無責の状態から有責の状態へと質的な変化(質的飛躍)が生じるときに不安が生じる.

 これから話す内容はアダムは人類であり、アダムは個人でもある、というキルケゴールの主張を理解する試みになる.「おれがあいつであいつがおれで」という児童文学を思い出す内容である.

 アダムの罪を説明することは原罪を説明することである.そして、アダムを説明しようとするが原罪をしようとはしない説明、あるいは原罪を説明しようとするがアダムを説明しようとしない説明は何も役にも立たないのである.このことは、全人類は個人に、個人は全人類に与るというようにして、人間は個人であり、そしてそのようなものとして自己自身であると同時に全人類でもあるということが、人間の実存における本質的規定のうちに深く根ざしているように思われる.

「不安の概念」第一章、「原罪の前提としての不安」

 「人間は個人である.そしてそのようなものとして自己自身であるとともに全人類でもあるということ、これは人間の実存にとって本質的なものであると思う」という上記を噛み砕いた文章を考えてみる.

 アダムは蛇に唆されたイヴの誘いで禁断の実を食べてしまった.美味しかったのかどうかは兎も角、「(創造主は)食べてはいけないと言われたが、食べようと思えば食べられるではないか」という自由の気づきのもとでアダムは果実を口にする.その自由とは、「食べてしまったらどうなるのだろう、死ぬとはどういうことだろう」という不安に転じる.そして、その不安は堕罪へと至るわけであるが、この罪は、創造主への無自覚な反逆とも理解できるかもしれない.創造主が作り出したアダムとイヴは全く善い人間であったはずだが、全く善いからこそ、無垢であり、無知であった.無知で、自由である故に堕罪したのであった.

 ここで伝統的教義学(ルターやアウグスティヌスの教義)と異なるのは、アダムは「禁断の果実を食べてみたい」と思ったわけではない、ということである.詳しく言えば「欲情」が生じたわけではない.「食ってはいけない」という神の禁止に対して、「禁止されたことをしてみたい」と思ったのではないのである.

「食べてしまったらどうなるのだろう、死ぬとはどういうことだろう?」

 伝統的教義学によると、アダムが堕罪したときに「欲情Concupiscentia」(生来の悪の傾性)が生まれたとする.しかし、アダムが創造されたとき、そもそも彼は無知ではなかったか.そんな彼が欲情などするだろうか.禁止されたことをしてみたい、という悪があるだろうか、とキルケゴールは考える.アダムとイヴは全く善い人間であったのだ.この堕罪の瞬間における解釈が伝統的教義学とキルケゴールで異なるのであり、「食ってはならぬ」という禁止がアダムの中に罪を生み出した過程には「欲情」ではなく、「不安」という力動が内在していたのであるという彼の論理には敬服するほかない.アダムは悪気なく罪を犯したのである.

 さらに伝承にもあるように、知恵の実を口にしてからは二人はスッポンポンであることを羞恥する.互いに木の葉で外性器を隠すキルケゴールも「堕罪によって性が措定された」と述べている.もし二人が欲情するのであれば、それは堕罪した後の話であろう.

 かくして、アダムが堕罪し、楽園を追放されてからは二人は交わる.するとカイン、アベル、セトが生まれ、セトの子孫がノアとなり、ノアの息子のセムの子孫のテラの息子がアブラハムとなり、その息子がイサク、五作、田吾作、与作……と続くわけである.アウグスティヌスから始まる伝統的教義では、原罪はアダムから上のような繁殖によってその後の人類に伝わるとし、それ故に個人は生まれながらにして罪の中にあると考えた.ルターなどプロテスタント派も、罪の原因を生来人が持つ悪の傾性によって説明しようとしている.だがこれは罪の普遍性を説明するにすぎない.我々にはもともと悪の傾性があるという言い分も納得できそうにない.

 伝統的教義学とキルケゴールの考えは次の点でも異なる.伝統的にはアダムは人類を罪に堕とした張本人かつ原因であるが、アダム以後(与作など)の個人の罪は、人類が堕罪した結果として生じるものとして解釈される.つまり、アダムとそれ以降の人間を区別してしまっている.しかし、そうではない.これでは原罪論が個人の罪性と人類の普遍的罪性両方を説明しようとする試みに反してしまう.もう一度キルケゴールの文章を思い起こしていただく.

 アダムの罪を説明することは原罪を説明することである.そして、アダムを説明しようとするが原罪をしようとはしない説明、あるいは原罪を説明しようとするがアダムを説明しようとしない説明は何も役にも立たないのである.このことは、全人類は個人に、個人は全人類に与るというようにして、人間は個人であり、そしてそのようなものとして自己自身であると同時に全人類でもあるということが、人間の実存における本質的規定のうちに深く根ざしているように思われる.

 現代に生きる我々なら理解は容易いだろうが、奇しくも私とあなたのゲノム情報は極めて類似している.どんなにあなたが嫌がったとしても.私と他の70億の人間のゲノム情報も酷似している.ボブ・マーリーもポール・マッカトニーもルーサー・ヴァンドロスもホイットニー・ヒューストンも非常によく似ている.これは我々がホモ・サピエンス・サピエンスというヒト亜族の一つであることで理解される.もとを辿ればかならずご先祖がいる.ご先祖の先祖をさらにさらに遡れば、我々はいつか生物学的「アダム」に到達する.誰でも人類の連続性がある.

 たかだか10万年程度ではゲノム情報は大きく変わらぬ.あなたとあなたの隣人の遺伝情報は99.9%以上一致しているらしい.チンパンジーでさえあなたとも1−2%程度しか変わらないのだ.故にアダムと現代の私たちの生物学的特質もさほど変わらないし、生得的な能力はほぼほぼ変わらないと見ていいだろう.生物学的な視点で、私とアダムは本質的に同じである.これは70億個ある均一な大きさのビー玉から一つ取り出すのと同じだ.セミの死骸に群れるアリを一瞥して、各々の差異に気づくことはできないように、ガルガンチュアのように巨視的な目線で見ると私たちとアダムはなんら変わりはないのだ.

 連載の最初で私は次のように触れたことを思い出す.

「これ(創世記)はもちろん神話なのであるが、多くの人が挙ってこの神話を取り上げるのは、宗教的な意義だけでなく、ある種、アダムを人類のプロトタイプとして考えたときの思考実験として捉えると興味深いからかもしれない」

 アダムもその後の人類も同じ人間である.よって本来同じ性質である両者を区別することは誤りである.前者を特別扱いしたり、例外扱いすることは議論をおかしくする、とキルケゴールは指摘する.アダムは最初の人間であり、彼は自己自身であるとともに人類である.アダムは人類の範型、典型なのだ.アダムの罪は人類の全体が堕罪した原因ではなくて、むしろ同じ人類である個々人がどのようにして堕罪するかを示す例示「Design study&Prototype」である.アダムが質的飛躍によって堕落したように、我々人類は質的に堕落している.その質的堕落とは、私達は無知ないし無垢な状態において不安の萌芽から自身の行為によって堕罪することなのである.我々は生まれつき罪の中にいるのではない.罪を犯す素質=罪性(ポテンシャル)を秘めているのである.そのポテンシャルが世代を経て伝わっていく、という意味で我々は普遍性を持つ.

 アダムが無知かつ自由故に堕罪したように、私たち人類も自らの無垢と無知で自由な行為によって罪を犯すのだと.よって罪の責任をどこに求めるべきか、それは個々人なのだ、ということは明らかになってくるように思う.

 今回の記事は以上である.私はずうっとずうっと原罪論について考えてきたが、ようやくキルケゴール兄貴が考えていたことに一定の理解を示せそうである.アダムは人類のプロトタイプである、という仮説は存外悪くない考えであったように思うが、それが自分の中で納得できるまでに大変な時間がかかった.そしてその考えを記事にして世間にお示しするにも時間がかかってしまった.牽強付会のように思われたら残念だが、私なりに錆びついた灰色の脳細胞を駆使して考えたのである.

 さて、「貴方こんなことを考えて一体なにになるの」とか「あんた暇だね」、「そんなこと考えているならもっと実学を勉強しなさい」とかいろんなお褒めの言葉が来るだろうと予想するが、私に言わせればこのような思索は臨床実践において極めて必要である.実際とても役に立っている.当たり前だが、精神医学は哲学ではない.だから精神病理学も哲学ではない.哲学ではないが、哲学の方法論を使わないことには理解できないだろうと思う.外科医にとっての手術室と同じように、私にとって哲学は精神病理を理解する思考の力場であり、外科医にとってメスが道具であるように、心理学は精神療法を実践するための道具である.ともすれば薬理学はある種飛び道具であろうか.

 不安は誰にでもある心的動きである.これがどのような機構で生じるのか、について一定の把握をしておくことは決して悪いことではない.生理学的なアプローチに基づくGABAの機能失調等の仮説も十分理解しておくべきだろう.だからと言って抗不安薬を矢鱈ぶち込めばいいかと言えば決してそうではない!!私はキルケゴールの考えを盲信するつもりはないが、「人間存在の構造が何の支えもなく揺るがされていることが、不安の原因である」という箴言には大変な共感を覚えるし、これを念頭にして面接に望めば不思議とクライエントのむつかしい言辞にも心を沿わせることはできそうなのだ.

いつもありがとうございます.

 余談ですが、当ホームページの用語集、頑張って増やしています.特に心理学関係の用語を充実させていますのでよかったらお立ち寄りください.

 

 

 

質的飛躍

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  セーレン・キルケゴールによる「不安の概念」という著作は不安についての分析を試みたものである.これまで二回ほど彼の著書について取り上げたが、そもそも取り上げた理由は、間接的なものではあるものの臨床で生じた様々な疑問からであった.それらは過去の記事のリンクから御覧いただいて参照して欲しい.一つは、不安の現代の語義に関する話題、もう一つは、罪を「創世記」の伝承から読み解こうとした先人の紹介と、「不安とは自由のめまいである」というキルケゴールの文句を引いた.それに若干の解説を加えたものと記憶している.

 さて、「いかにして罪というものが措定されたか」「不安との関係はいかなるものか」という内容で次の記事を書くことを目標としたが、「不安の概念」の第一章、第二章の理解がとても難しく、殊更にキルケゴールの用語である「質的飛躍」を理解しないことには「堕罪」もひいては「不安」も理解できないことに気づいた.私は時間があるときに何度も何度も頁を往復した.進んでは戻り、進んでは戻り…… どうやら予定変更となりそうだ.

とある漫画から「質的飛躍」を考えてみる

 「ジョジョの奇妙な冒険」第四部、「ダイヤモンドは砕けない: Diamond is Unbreakable」という作品に出てくる広瀬康一小林玉美のやりとりが、罪の「質的飛躍;det qualitative Spring」を理解するのに良いのではないかと私はずっと考えていた.今回はその話をしようと思っている.この小話は物語の核心に迫るものではないのでネタバレはない.安心いただきたい.「ふーん、この筆者はジョジョが好きなんだ」という理解は半分誤解である.そうではなくて、たまたまグレートな例えがジョジョしか思いつかなかっただけだ.作品はまぁまぁ好きだが実際、第五部「黄金の風: Vento Aureo」までしか知らないのだ.そう断っておかないと、本物の通人に失礼だ.

 作品の大筋は以下のようなもので、大河小説(Roman-fleuve)に近い.第四部は宮城県仙台市のとある町をモデルとした架空の町(杜王町)で繰り広げられる、シリアルキラー(連続殺人犯)との戦いを描く.ところで「ジョジョの奇妙な冒険」をご存知ない方に一応、公式の紹介を載せておく.1980−1990年代の週刊漫画の黄金期を築いた作品の一つである.

代々血統が受け継がれ、主人公が交代していく物語

「『ジョジョ』って第何部だとか、主人公が何人もいたりだとか、複雑そう。コミックスも100冊くらい出てるし、タイトルが違うのもあるし、どこから読んでいいかわからない」という方は多いかもしれません。

1987年に週刊少年ジャンプで連載を開始した『ジョジョの奇妙な冒険』は、第1部の主人公ジョナサン・ジョースターと、敵対するディオ・ブランドーとの因縁から始まる物語。その戦いはジョナサンの代だけでは決着せず、その子孫たちも巻き込んで100年以上続きます。主人公や舞台が交代していくのはそういう理由なのです。

JOJO Portal site -ジョジョとは- より

 その作品を語る上で欠かせなくなる概念に「スタンド」がある(「電気スタンド」のスタンドと同じ抑揚である).「スタンド」とは「パワーを持った像」であり、持ち主の傍に出現してさまざまな超常的能力を発揮し、他人を攻撃したり持ち主を守ったりする守護霊のような存在と説明される.人や動物を模したり、飛行機や拳銃、ボディスーツのように持ち主と一体となるものだけでなく、粘体のように姿かたちを自在に変えるものもある.容姿と能力は持ち主固有のものであり、一つとして同じものはない.そして一人一体である.複数はない.基本的に第三部からこの「スタンド」能力で登場人物は戦うことになる.彼らを「スタンド使い」という.第四部も「スタンド」能力の戦いは引き継がれる.

 物語を構成する重要な性質として「スタンド使い」は引かれ合う.多分虫プロダクションに漫画家が自然と集まってくるのと似ている.よって誰かがいれば自然と能力者が集まる.能力者の信念・信条の衝突が能力を駆使した戦いとして表現される.ちなみに「ジョジョの奇妙な冒険」は異能力バトルの先駆けらしい.何を異能力とするのかは定義し難いが.

広瀬康一の災難

 *ここで嬉しい誤算があった.これから説明しようとしていた「罪の質的飛躍」を理解するのに都合の良い場面が、AmazonのKindle版でちょうど試し読みの対象となっている!読者の皆さんが私の茶番に真摯につきあってくれると信じて、以下にリンクを貼っておく.もちろん、私なりに文章に起こして、丁寧、丁寧、丁寧に描写を試みた.とはいってもSeeing is believingであるからぜひ試し読みページをご覧になっていただきたい.

 私と集英社とAmazonに利益相反はありません.下記に示すイラストは模写であり、作者及び集英社の著作権を侵す意図がないことを明記いたします.

 杜王町に住む高校生、広瀬康一は(スタンド能力を発現させるまでは)純粋でごく平凡な少年であった.そんな彼が新品の自転車にまたがり道を走っていると、急に何かが詰まった袋が路面にあることに気づく.広瀬康一は急ブレーキをかけるが間に合わず、袋を轢いてしまう.袋からは真っ赤な液体が滲み、中からはかすかに「ニャァニャァ」と弱った猫が力なく鳴いているような音が聞こえる.

 広瀬は「猫を轢いてしまった」と直観してしまう.轢くことを意図しなかったにせよ.やがて猫の鳴き声は消えてしまう.

 するとどこからか、チンピラのような男が現れる.彼は小林玉美という二十歳の青年で、どうやら強請り屋(他人を脅して無理やり金品を巻き上げる人)として杜王町にいる.彼は広瀬が行った一連の行為を目撃したと証言し、広瀬を動揺させる.そして「声が聞こえなくなったのだから猫は死んだ.おれの猫が」と付け加え、広瀬を追い詰める.広瀬は自分が轢いた猫がこのチンピラの飼い猫だと聞き、困惑する(飼い主ならば猫を袋に入れて道端に放置するなど考えられないのに).

 「おいおい!フザけてんじゃあねーぞ! 君はたしかに悪くない」

 「だがおれのネコ殺しといて無料(タダ)で行っちまうのかよ!カワイイ顔してよーっ」

 「カワイソーなネコをひき殺したのはニイチャン!おまえだ…」

模写1.漫画の一コマから.
当ブログの趣旨は作品と無関係であり、あくまで当ブログの記事内容が主、引用する作品のコマの模写はそれに従属するという認識で掲載しています.

 (実は)小林玉美は「スタンド使い」であった.その能力は「対象に生じた罪悪感に対応して、相手に『錠前』をつけて心の重圧を与える」ものであった.彼はスタンド能力が発現してからか、自身の能力を使って、言葉巧みに強請りをしていたようである.そんなことを知らない広瀬は袋に入った猫を轢いた罪の意識から、小林のスタンド能力「ザ・ロック」の術中に嵌ってしまう.

模写2.心の錠前が出現する.
当ブログの趣旨は作品と無関係であり、あくまで当ブログの記事内容が主、引用する作品のコマの模写はそれに従属するという認識で掲載しています.

  これが質的飛躍である、と私は考えている.「ザ・ロック」は「罪」が生じた瞬間に錠前として顕現するのである.錠前はこの作品でいう「罪」の表象である.「創世記」におけるアダムの堕罪、すなわち人類が無責から責を負う存在になったことこそが、「質的飛躍」なのであろう.ここでは罪の大小を問うているのではない.罪があるのか、ないのかが問題となっている.キルケゴールはおそらくそれを創世記の伝承から考えたに違いない.

 同様にして広瀬康一は無責から責を負う立場へと一転した.よって彼の心には「錠前」の形で「不安」が現れたともいえよう.なお作中では錠前は「不安」とは明言されていないが、「人によっては自責の念で死んでしまうこともある心理的重圧」と記載がある.前回の記事で「不安とは人間存在の構造を根本から揺るがすもの」と述べた.とすれば、「堕罪」が存在することが「不安」なのであるという理解は、「不安の概念」にある以下の文章とも合致するように思う.

・個体における原罪の結果、言い換えると個々人のなかに原罪が現存すること、それが不安なのである.

・罪は〈最初は〉不安のなかへ入り込んできた.が、こんどもまた罪は、不安を〈道連れ〉にたずさえてきたのである.

「不安の概念」第二章:原罪の結果としての不安、1844年、村上恭一訳

 広瀬はこれまで真面目に素行の良い少年として生きてきた.にも関わらず、突如「猫を自転車で轢く」という罪に等しい行為をしてしまったと感じたが故に、その行為が自身の人生の根本を脅かすものだと直観し「不安」となる.また、彼は袋を轢く瞬間、「これからどのようになるのかわからない」という根源的な「不安」を持っていたともいえる(結果的に猫を轢き殺すことになるが、ただの袋を轢いただけに過ぎない結果もあったかもしれない).そして袋を轢いて、中に猫が入っていたと直観したとき、彼の中に罪が芽生える(罪が措定される).要するに「罪」と「不安」は表裏一体なのだとキルケゴールは考えたのではないか.どうだろうか.

 

次回は

 さて、広瀬康一がこの難局をどのようにして切り抜けたかは、作品の醍醐味であるのでここでは述べないでおく.続きが気になった方は漫画を買うか、アニメをご覧になると良い.

 ここまでで私は広瀬康一の「罪」とアダムの「罪」が同列のような言い方をしているが、これはその通りで、本質的には同じだということである.罪が存在するようになる「質的飛躍」において、その「罪の程度=罪性」は「量的」でしかない.それはキルケゴールと同時代の神学者フリードリヒ・シュライエルマッハー先輩の言わんとする「原罪論:罪の普遍性の根拠」に基づいている.先にネタバレをしておくと、キルケゴールの考えでは「おれがアダムで、アダムがおれで」もしくは「全人類アダム(イヴ)説」のような感じである.

 「てめぇはまだわけわかんねぇことを書くつもりか」

と怒られそうなので、今回はここまでとしておこう.「おれがアダムで、アダムがおれで」とは何のことかについては次回の記事で説明を試みたい.できれば、過去三回の記事の総括を一度行い、それから三章、四章、五章の説明へと順を追って行きたいと思っている.

 ここまでありがとうございました.

アダムの不安

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伝承

 こんな話が知られているらしい.

 主なる神は人であるアダムを創造し、助け手となる女性をも造った.アダムは女性をイヴと名付けた.二人はエデンという園で暮らしていたそうな.以下はその続きである.


一. さて主なる神が造られた野の⽣き物のうちで、蛇が最も狡猾であった.蛇は⼥に⾔った、「園にあるどの⽊からも取って⾷べるなと、本当に神が⾔われたのですか、マジですか」
二.⼥は蛇に⾔った、「そうなんです.私たちは園の⽊の実を⾷べることは許されていますが、
三. ただ園の中央にある⽊の実については、これを取って⾷べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は⾔われました」
四.蛇は⼥に⾔った、「へぇ〜.そうなんですね.でもあなたがたは決して死ぬことはないでしょう.
五.それを⾷べると、あなたがたの⽬が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」
六.⼥がその⽊を⾒ると、それは⾷べるに良く、⽬には美しく、賢く、インスタ映えには好ましいと思われたから、その実を取って⾷べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も⾷べた.
七.すると、二人の⽬が開け、⾃分たちがスッポンポンであることがわかったので、無花果の葉をつづり合わせて、腰に巻いた.これがはっぱ隊の起源である.
八.彼らは、⽇の涼しい⾵の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる⾳を聞いた.そこで、⼈とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の⽊の間に⾝を隠した.
九.主なる神は⼈に呼びかけて⾔われた、「あなたはどこにいるのかな」
十. 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる⾳を聞き、私はスッポンポンだったので、恐れて⾝を隠したのです」
一一. 神は⾔われた、「あなたがスッポンポンであるのを、誰が知らせたのか.⾷べるなと、命じておいた⽊から、あなたは取って⾷べちゃったのか」
一二. ⼈は答えた、「私と⼀緒にしてくださったあの⼥が、⽊から取ってくれたので、私は⾷べちゃいました」
一三.そこで主なる神は⼥に⾔われた、「ありゃりゃ~.あなたは、なんということをしたのです」⼥は答えた、「蛇が私をだましたのです.それで私は⾷べました、だから私は悪くないです」
一四. 主なる神は蛇に⾔われた、「おまえは、この事をしたので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最も呪われる.おまえは腹で這い歩き、⼀⽣、塵を⾷べるであろう.
一五.私は恨みをおく、お前と⼥との間に、お前のすえと⼥のすえとの間に.彼はお前のかしらを砕き、お前は彼の踵を砕くであろう」(蛇は塵以外にも色々食べるゾ)
一六. 次に⼥に⾔われた、「私はあなたの産みの苦しみを⼤いに増す.あなたは苦しんで⼦を産む.それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」
一七. 更に⼈に⾔われた、「あなたが妻の⾔葉を聞いて、⾷べるなと、私が命じた⽊から取って⾷べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは⼀⽣、苦しんで地から⾷物を取る.
一八.地はあなたのために、茨と薊とを⽣じ、あなたは野の草を⾷べるであろう.
一九.あなたは顔に汗してパンを⾷べ、ついに⼟に帰る、あなたは⼟から取られたのだから.あなたは、塵だから、塵に帰る」
廿.さて、⼈はその妻の名をイヴと名づけた.彼⼥がすべて⽣きた者の⺟だからである.
二一. 主なる神は⼈とその妻とのために⽪の着物を造って、彼らに着せられた.
二二.主なる神は⾔われた、「⾒よ、⼈は我々の一人のようになり、善悪を知るものとなった。彼は⼿を伸べ、命の⽊からも取って⾷べ、永久に⽣きるかも知れない」
二三.そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、⼈が造られたその⼟を耕させられた.
二四.神は⼈を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎の剣とを置いて、命の⽊の道を守らせられた.

創世記 第三章、日本聖書協会より 1955年 一部改変

 これは旧約聖書の「創世記」の一部を抜粋したものになる.クルアーンにも同じことが書いてある.色々と突っ込みたいところはある.こんな話をどこかで見聞きした人もいるのではないだろうか.私もどこかで知ったような気がするが、忘れてしまった.私は聖書教会から出ている訳文を見るのは初めてである.なぜこんな神話を冒頭に載せたのかというと、どうやらこの伝承、様々な人々が古くから興味を持って論じるテーマ「原罪Original Sin」だからである.特に「『食うな』と神から言われた果実を、蛇に唆されて食ったイヴとアダムが楽園から追い出された」という堕罪の話が哲学者や神学者の関心を惹きつけてきた.特に有名なのは、元ユダヤ教徒で改宗した使徒パウロ兄貴、アウグスティヌスという北アフリカ出身の元マニ教徒のおっさん、そしてカルタゴ出身の教父、テルトゥリアヌスくん、ブリテン島出身の神学者であるペラギウスおじさん.時は進んで、ギリシア正教会やカトリック教会、プロテスタント教会の懲りない面々.キルケゴールはそういった人々の神学上の主張を紹介する.

 パウロ、アウグスティヌスと続く原罪論は「アダムの堕罪によって、人間は普遍的な罪性をもつ」という解釈に基づいている.普遍性の根拠に、アダム以降の子孫は性交によって罪が遺伝・連鎖するという一部生物学的な考えが混ざっている.プロテスタントはパウロやアウグスティヌスの考えを概ね踏襲しているようである.(プロテスタントにも諸派があり教理が厳密には異なることを断っておく)以下、著名人の文献を紹介する.

 ひとりの人(アダム)によって、罪がこの世に入り、また罪によって死が入ってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだのである.

「ローマ信徒への手紙」パウロ

 教父アウグスティヌスによる原罪の中心は以下にある.

 神は全く善い人間を創った.ところが人間(アダム)は、自らの責めによって堕落し、それに対して神によって厳しく罰せられて、堕落した.そして罰せられた子孫を産んだ.

「神の国」アウグスティヌス、五世紀ごろ

 ルターやカルヴァンらに代表されるプロテスタントの教義でも原罪を次のように解釈している.

 アダムの堕罪以降、生まれる人間は全て罪のうちに孕まれ、生まれる.すなわち、全ての人間は、その母親の胎内にいたときから、悪しき欲望と傾向に満ちており、神への真の畏れと真の信仰を生まれながらに持つことはできないのである.さらにこの生まれつきの原罪は、真に罪であり、洗礼と聖霊によって生まれ変わることのない全ての人に対して、神の永遠の怒りを宣告する.

「アウクスブルク信仰告白」1530年

 私はキリスト教徒ではない.よって教義の深奥まで理解することはできないだろうが、生まれた時から「お前は罪深い存在だゾ」と決まってしまっているのは、どうも解せない感じがする.ちなみにペラギウスおじさんは原罪を否定し、人間の自由意志を尊重する立場を取り、神の恩寵は必要ないという説を唱えた人物であった.そこで教父アウグスティヌスと論争となり、418年カルタゴ会議で「異端でしょ」と排斥された.さらに431年エフェソス公会議でも「やっぱり異端でしょ」と退けられたようである.惨め.ペラギウスは謎の失踪を遂げる.

 だがやはり、この普遍的な罪性、というものには陥穽があるようだ.もし全ての人類が生まれながらにして罪深いのであるのなら、個々人の罪は無いだろうと考える.

俺が生まれつきワルだっていうのなら、今から俺が無銭飲食しても構わねーよな?ぶっ殺しても罪は変わらねぇんだよな?立ち小便してもいいんだよな?プールの中でおしっこしてもいいんだよな?そういうことだろ?

という変な輩が出てしまう.これでは倫理が壊れる.さらに、恩寵に対する個々人の主体的努力も不要、個々の努力を励行するものが否定されてしまう.「悪いことしてないのに、罪深いのなら頑張る気なくすわぁ」

 よって神学者らは原罪における罪の普遍性と個人性をいかに両立させるか、に相当苦心したようである.そしてもう一つの問題は、原罪とは人間の本性なのだろうか、という疑問でもある.もし罪を創造したのが神であれば、人間の責任性は回避されてしまう.「おれのせいじゃないゾ!『神は全く善い人間を創った』ってアウグスティヌスが言ってたゾ!罪が『善い』わけがないゾ」

 罪が本性に付随するもの、プラグインや拡張パーツのようなものとして付着するのであれば、罪の根源性はなくなってしまうし、ナザレの大工の息子(キリスト)が十字架を担いで丘まで登って、磔にされて、槍で突かれて死んだことが無駄になってしまう.「グエーッ、無駄死にしたンゴ」

 こうした課題を先に述べておくとして、次に「不安」について述べることとする.

不安というめまい

 前置きが長くなった.今回の記事は前回の続きである.キルケゴールの「不安の概念」における重要なテーマ「原罪」を扱いつつ、「不安」を考えていく.父親から異常なほど厳格にキリスト教を叩き込まれたキルケゴールは、度重なる家族の死に対して、「恐ろしい憂愁の重圧」のもと、「不安」を抱えるようになっていったと述懐している.彼の著作にも緒論でこのように記されている.「不安」を理解するには「罪」の理解が必要であると考えたようである.キルケゴールが罪性をどのように考えているかも気になるところである.

 本書の課題とするところは、原罪についての教義をたえず念頭におき(in mente)、かつ眼前に彷彿とさせながら、「不安」の概念を心理学的に取り扱うことにある.それはたとえ口に出さなくとも、「罪」の概念を問題にしないわけにはいかない.

「不安の概念」緒論 1844年 村上恭一訳

 アダムとその伴侶イヴは善悪を知る木の実を食べることを神によって禁じられていたが、蛇に唆されて神意に背き、エデンの園を追放される羽目になったらしい.トホホ〜.キルケゴールは「なぜアダム(とイヴ)は神意に背いたのか」と考える.堕罪に至る以前のアダムは、無垢であり無知であったはずだと.そもそもアダムは神意を理解するほど知恵があったわけではない.故に無垢で無知なアダムが責ある者に転落する(罪を犯す)ことになるとは、どういうことだろうか.(以下イヴの存在は省略する)

 キルケゴールは次のように考える.「不安」が無垢なアダムの心を捉えたのではないか、アダムは「不安」になったのではないか、と.「善悪を知る木から木の実を取って食べてはならない」という神からの言葉をアダムは無知故に理解することができなかった.この時点でアダムは善悪を知らない.神による禁止がアダムを不安がらせた.禁断がアダムの内なる自由を目覚めさせた、とキルケゴールは考えたようである.「神は『取って食うな』というが、よくわかんねぇけど取ろうと思えば取って食えるじゃないか」という自由の可能性をアダムに示唆したのだろう.不安は自由でもある.人間は精神であり、精神の本質は自由である.自由とは可能性である.

 「不安の概念」第二章でキルケゴールは「不安は、例えて言えば『めまい』のようなものである」と述べている.この言葉はよく引かれる一節として有名である.次に続く.「仮にある人がふと自分の眼で大口を開いた深淵を覗き込んだとすると、その人はめまいを覚えるであろう.ところで、その原因はいったいどこにあるだろうか.それは深淵にもあるといえるし、また当人の眼のうちにあるともいえる.というのも、彼が深淵を凝視することさえしなかったら、めまいを起こすことはなかったろうからである.これと同じようなわけで、不安は自由のめまいなのである」

 めまい、という言葉を医学的に考えず、眼がクラクラして尻込みするような、倒れそうになることだと考えると良い.底が見えないほど深い崖っぷちを覗き込むと誰でも足がすくむはずである.この視点から無限の底までの空間的距離こそが不安であり、かつ自由なのであるとキルケゴールは言っている.不安は自由と紙一重でもあるということだと.

不安と恐怖

 故に不安は恐怖とは異なる.恐怖には対象があるが、不安は対象を欠く.「あのさぁ……崖っぷちを見下ろしたら怖いに決まってるやん!恐怖やん!」とお叱りを受けるかもしれない.一見正しいようではあるが、落ち着いていただきたい.深淵というのは、無限遠の暗黒である.視線の先には対象は定まっていない.人が深淵を見て恐怖を抱くとすれば、「深淵に落ちてしまったら」、「底まで落ちて身体を打って、大怪我をしたら、死んでしまったら」ということだろう.この世の中に深淵と似たような深い裂け目があるにはあるだろうが、経験できる人はおそらく真夜中のダムの巡回をする人や、夜の登頂をする大胆な登山家、停電になったスーパーカミオカンデの点検をする人、鍾乳洞や洞窟のツアーガイド、観光地化されていない遺跡や史跡の調査にあたる学者や土木工事の業者くらいしか思いつかない.他にも「暗闇を覗き込む」に近い状況は存在するが、要するに、現実には「底がある」のである.ということは対象が存在する.それらは水底であったり、針山であったり、コンクリート床であったりする.これ以上想像はしたくないが.

 恐怖とは、ある対象に怯えることである.そして不安には恐怖する対象を欠く.では「対象なき恐怖」という言い方が適当かと言えば、そうではないとキルケゴールは言う.対象がなくなれば恐怖という心理現象は消失する.人が不安になるのは「何もないこと=虚無(Nihil)」に対してでしかない.次の例えを挙げれば、ある程度皆さんも得心してくださるのではないだろうか.

 精神疾患の中に「恐怖症」がある.「広場恐怖」「視線恐怖」「不潔恐怖」「対人恐怖」「色目恐怖」といったものがある.実際に私達の生活に息づく恐怖である.これらは文字通り恐怖の対象があるが「不安」の諸現象について言うと、「予期不安」、「全般性不安障碍」というものがある.こちらは対象が限定されておらず、未確定の事象である.何も対象が定まっていないからこそ不安になる.こうした名称は不安と恐怖を区別する際に明瞭になると思うし、精神医学もやはり(*途中までは)哲学の系譜を歩んでいるような安心した気持ちになる.私達は何の支えもない中途半端な状態にあること自体に不安を覚える.換言すると、人間存在の構造が何の支えもなく揺るがされていることが、不安の原因である、とも言える.

*「おいおい、『社交不安障碍』があるだろう」というご指摘に対して私なりの弁明をしておくと、「社交不安障碍」はもともと「社会恐怖」という名称であったようである.DSM-IV以降にPhobia(恐怖症)からAnxiety Disorder(不安障碍)に変わってしまった.残念ながらこのあたりの歴史的変遷は私にはよくわからない.不安や恐怖の腑分けができていないように思えるのは私だけではないと思うが……どうなのだろう.ところどころ精神医学にはこうした脆さがあるように思う.神経生理学的な立場での不安と恐怖の位置づけも全く異なる.ただ、名称は変わってもその疾患概念は変わっていないらしい.簡単に考えれば「社会的場面に対して恐怖する」現象といえる.実存主義に基づく考え方であれば、従来の「恐怖」の方が適切のように思う.とはいっても私はこれ以上ゴニョゴニョ言うつもりもない.ゴニョゴニョ.

  ここまで、キルケゴールによる「不安」の説明を創世記の伝承を交えて試みた.罪について過去の神学者の立場を紹介し、罪性をどのように取り扱うかという学者らの懸念に触れた.続いて話題を変えて、アダムが禁断の果実を口にしたのは「アダムが無知故に不安だったからではないか」という彼の考えを提示した.さらに「不安とは自由のめまいのようなものである」という彼の比喩を紹介し、恐怖との違いを述べた.以上を紹介するのに6000字を超えてしまったので、続きは後日投稿したいと思っている.次回の主題は「いかにして罪というものが措定されたか、不安との関係はいかなるものか」といったものになりそうである.

 読んでくださりありがとうございました.

 

不安に駆られて

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診察室で

 私が面接をする、とある患者さんはいつも決まって過去形を使う.

「こんにちは.〇〇さん.お元気ですか」

「元気でした

「何か心配なことや気がかりなことはありませんか」

「ありませんでした

 他の質問にも過去の時制で回答をするのだ.この事態が私にとっては非常に理解が難しい現象のように思えている.不思議な気持ちでいつも面接をしている.

 なぜ「元気でした」と過去形の表現なのか.なぜ過去形でしか答えてくれないのか.それが全くわからない.私は診療録に「症例の陳述に時制の不一致を認める」と書いたことがあるが、だから何なのか、それ以外何を記述すべきか、何を考えたらいいか悩んでいる状態である.いわゆる静的了解でも発生的了解の範疇ではないだろう.この方は少なくとも私と時間空間の体験様式が異なる可能性がある.ヤスパース的に言えば、了解不能なのだろうか.そして了解不能となれば、背後に病理が潜んでいることになる.どのような病理か.

 恐らく手がかりとなるのは精神病理学であったり、哲学だとか人文学なのかなぁ、という考えに基づいて、私は複数の本を読んでいる.斜め読み、というわけではないが、義経の八艘飛びのように一つの本から別の本へとあちらこちら飛び移っている始末だ.人には様々な読書の癖があるだろう.どうやら私は一度にいろんな本を読む傾向にある.これを注意散漫とか転導性の問題というのかもしれない.わからないところに当たれば、別の本に当たって了解を得ようとする方法が性に合う.今この記事を書いているとき、私はセーレン・キルケゴールの「不安の概念」、マルティン・ハイデガーの「存在と時間」を読んでいる.どちらもうんざりするほど難しくて辛くて面白い.炭酸の青汁をありがたく飲んでいるような気持ちだ.

 そして何より、彼らは「実存」を扱う哲人であり「不安」を解明しようとし「時間」について論じた人物で共通している.きっと、上述した症例の言辞を理解する一助になるのではないか、と私は期待を寄せている.

不安とは

 さて、私は以前の記事で、「不安」や「うつ」がわからない、と述べたのだった.「うつ」に関しては「メランコリー」を取り上げてみたが、これで綺麗サッパリわかりました、というわけにはいかない.表層的な話しかしていないのだから.こちらはひとまず保留にするとして、私は「不安」という現象ないし心理的状態についても大きな関心を寄せている.なぜ関心があるのか、といえば私自身の職務上の要請にある.私自身がある程度、不安という概念について通じていない以上、面接を要する人々の「不安」に対して一定の助言を行うことが果てしなく難しいと感じたからである.

 こちらも別の記事で取り上げ、生理学的な立場とフロイトの古典的立場で「不安」を紹介したが、未だによくわからずにいる.そこでキルケゴールの「不安の概念」という本を読んでみることにしたわけだ.そして現象学という興味深い学問に足を踏み入れた私は、フッサールを継承し、より深化させたハイデガーの実存主義の考え方に惹かれるようになった.奇しくもキルケゴールは実存主義の代表的な人物であるし、精神病理学の嚆矢、カール・ヤスパースも医師兼実存主義哲学者の一人だ.私の思い込みにせよ、奇妙な引力が働いているような心持ちがする.私の思想はようやく二十世紀の大陸哲学に差し掛かってきた.

 

 まずはいつもの「精神症候学」を開いて「不安」を調べると、次のようにある.掻い摘んで記そう.

 不安anxietyは、対処不決定の漠然とした恐れの感情で、一般に対象のある恐怖に対して、対象を欠くものを指す.十三世紀のトマス・アクィナスは予測できない恐怖をアゴニアagoniaと呼んだ.フランス語ではリトレによると延髄的・身体的な苦悶angoisseと皮質・精神的な不安anxiétéを使い分けるという.後者のanxiétéもしくはラテン語のanxiusが十六世紀初期には英語のanxietyに訳された.正常な不安としては、生きている限り避けることのできない病や死への恐れ、生活、経済上の諸々の不安があり、原不安Urangst、現実不安Realangst、被造物の不安Angst der Kreaturなどという.キルケゴールによれば、物事や価値を知り、分別をもつと、むしろ不安も増える.これを客観的不安という.ゴールドスタインは、破局状況におかれた生体の主観的経験を不安と呼んだ.

 病的な不安とは、刺激が主体の内部で歪曲・肥大化されるために、客観的な危険に比して不釣り合いに強く反復してあらわれる不安のこと.その処理に神経症的防衛機制を要するので、神経症性不安ともいう.正常な不安との差が量的か質的かについては議論が多い.予期不安とは、未来を先取りして恐れる空想的な不安で、将来起きてほしくないことが起こるのではないかとする.

精神症候学 第二版およびOxford English Dictionaryから引用

 要するに、不安というのは対象なき恐れ、ということらしい.しかし、少し考えてみると「明日のプレゼン、うまくいくか不安なんです」というときは、もちろん対象が定まっている.よって対象なき恐れという語義に反してしまうように思われる.そこで、よくよく考えながら、大辞林を参照すると、以下のように書いてある.

①気がかりなこと.心配なこと.これから起こる事態に対する恐れから、気持ちが落ち着かないこと.また、そのさま.

②(哲学)人間存在の根底にある虚無からくる危機的気分.原因や対象がわからない点で恐れと異なる.実存主義など現代哲学の主要概念.

③(心理学)漠とした恐れの感情.動悸、発汗などの身体的兆候を伴うことが多い.

大辞林 第四版

 生理学的な立場で不安を考えてみると、不安は「闘争か逃走」の反応の一つであり、不安症の中核的な要素は「恐怖」「憂い」であるという.(ストール精神薬理学エセンシャルズ第四版)もう少し詳しい話は以前の記事にある.

 正直言って、学問の立場によってこんなにも割れるとは思わなかった.特に恐怖をどのように位置づけるかが異なるようである.恐怖の腑分けが異なる、とでも呼ぶべきか.さて、「不安」をどのように考えたものか.

 二つの書籍について

 光文社古典新訳文庫から出ている「存在と時間」の訳本は中山元氏によるものだが、膨大な注釈と解説がついているにも関わらず、いきなりアタックするのは苦痛を伴うことがわかった.(八巻まであるし……)訳の巧拙がどうこうではなくて、純粋にクッソ難しいのである.しかし、この著作が出された経緯や背景だとかを知れば、ある程度気楽に読める気がしてくる.事実、経緯を知ることは極めて重要であった.「存在と時間」がアリストテレス哲学と、当時最先端の哲学である現象学を融合させたものであることを知らずして著作の意義を理解できそうにないと思う.ハイデガー以前に「存在論」を扱ったのはアリストテレスが最後であり、その間、全く人々は「存在の意味を問うこと」をしなかった、と斬り捨てる彼のキレキレ具合には脱帽であった.この論文の入門書・解説書を読んで、私は漸く彼の代表作である「存在と時間」は未完であることや教授昇進のために提出された突貫工事的論文であり、出版までに紆余曲折のある作品であったことを知ったのだった.ちなみに入門書、というのは講談社現代新書から出ている「ハイデガー『存在と時間』入門」のことで、著者の轟孝夫氏はハイデガー一筋三十年の哲学者である.

 「なぁ〜んだ、未完なのか、マルティンおじさんも色々あったんだネ」と思うと、巨大な哲人として立ちはだかるハイデガーも急に人間くさくなってくるし、伝統的な西洋哲学における「存在」の先入観を捨てて「真の存在」を解明しようとする三七歳、マジ気合入ってるっすね、と称賛を贈りたくなる.

 他方、キルケゴールの著作「不安の概念」は1844年に書かれたものだが、1927年の「存在と時間」から随分前の作品である.彼の作品も残念ながら難解だ.いきなり訳本に当たると、それはそれで面白いのだが、「質的飛躍」などの彼独自の術語が使われてしまうと、解釈が大変になってしまう.よって入門書を探してみたが、パッと見てもどうもなさそうである.そして、彼のロジックはキリスト教の教義学や倫理学などの学問を織り交ぜたものになっているため、事前知識として他にも仕入れる必要がありそうである.なんだか哲学の迷宮に入り込んでいるような、いないような.少なくとも創世記のアダムとイブの原罪は、よく理解しておく必要がありそうだ.これはもちろん神話なのであるが、多くの人が挙ってこの神話を取り上げるのは、宗教的な意義だけでなく、ある種、アダムを人類のプロトタイプとして考えたときの思考実験として捉えると興味深いからかもしれない.ただの気の所為かもしれない.

本記事の最終的なねらい

 この記事を大々的に書いた理由は実はもう一つある.安永浩の「ファントム空間論」に関する連載が途中となっているのだが、今の知識では理解が不十分であるという直感から、連載を保留にしている.できればなるべく早く投稿したいと思いつつも、なかなか知識を仕入れる作業に時間がかかってしまい、うまくまとめきれていない.そこでまずは先に紹介した著書を足がかりに、「不安」に関する小連載を行ってから、改めて「ファントム空間論」を完成させたいと思っている.何のためか、と言われれば無論、自身のためである.このブログを投稿する、という作業を通じて(精錬できるかどうかは兎も角)自分の思考を整理して、職務上の必要に還元したいと企んでいるわけである.とは言っても、結局はブログなのだから、こうして偶然目に留めてくださった方にも、お裾分けして、冷やかすなり、面白がるなりして、何かしら感じ取っていただければ良いなと考えている次第である.

 ところどころ雑記を載せつつ、まずは「不安」の構造について自分なりに理解に努めるべく、新連載を開始する予定である.よろしくお願いします.

 

 

不確実性へ溶け込め

フロイトの家、ロンドンで

リルケに震える

 オープンダイアローグに関する書籍を読んでいると、「不確実性への耐性」という言葉が出てくる.これはオープンダイアローグのポリフォニーが紡ぐ、対話という「不確実性」に関連している.多人数によって響き合う音色がジャズセッションのように、どのような着地点にたどり着くかは誰にもわからない.何も決まらないのかもしれないし、重要なことが決まるかもしれない.思わぬ言葉が語られるかもしれなければ、期待通りの展開で終わるかもしれぬ.私達は究極的には全関係者の最大幸福を願っているのだけれど、そこでは治療というゴールを急がないし、焦ってはいけない.大事なことはいかに語りを途絶えさせないことかにかかっている.医療者はクライエントの意見を誘導してはいけないし、できるだけ中立であり続けなければならない.こうした不確実性に耐えることができるのは、この治療が安全だと感じられる場合だ.そして安全を感じるための「アリアドネの糸」は対話を続けることなのだ.

 「オープンダイアローグとは何か」の著者・訳者である斎藤環氏は日本にこの方法論を伝えた第一人者であるが、この「不確実性への耐性」という言葉を詩人リルケを引いて表現する.

 あなたはまだ本当にお若い.すべての物語のはじまる以前にいらっしゃるのですから、私はできるだけあなたにお願いしておきたいのです.あなたの心の中の未解決のものすべてに対して忍耐を持たれることを.そうして問い自身を、例えば閉ざされた部屋のように、あるいは非常に未知な言語で書物のように、愛されることを.今すぐ答えを捜さないでください.あなたはまたそれを自ら生きておいでにならないのだから、今与えられることはないのです.すべてを生きるということこそ、しかし大切なのです.今はあなたは問いを生きてください.そうすればあなたは次第に、それと気づくことなく、ある遥かな日に、答えの中に生きて行かれることになりましょう.

リルケ「若き詩人への手紙」、Briefe an einen Jungen Dichter, 1903 高安国世訳

 そう、私達は「すべての物事のはじまる以前にいる」のだ.今すぐ答えを捜すことはせずに、問いを生きろという.まったく正鵠を射た心持ちがする.これはオープンダイアローグに限らず、すべての事象に対して重要な言葉なのではないか.殊更、今の新興感染症の災厄の中においては.

 この文章はリルケからとある若手詩人に向けられたもので、上記は長い長い手紙のほんの一節に過ぎない.彼は一人の人間を念頭に手紙を書いているはずなのに、私だけでなく、多くの人の心を掴んでいるのはなぜだろうか.言葉を超えて、時を超えて感興をかきたてるのは、彼の言葉にある深い洞察と豊穣な感性に依るのだろう.

不安とどう取り合うか

 そもそも、私達が不確実性に対して生来耐性があるのかと考えてみると、それほどなさそうである.この不確実性という言葉は「不安感」に置き換えられるだろう、もちろん不安の感じやすさは個人差があるにせよ、全く不安のない人は絶対にいない.私達は性質上、未来という時制に投企する生き物である.そして医学というのは不安との戦いともいえる.医学は如何に不安と折衝するかに尽きるのではないか.胸が苦しくなるのはどうしてなのだろう、その後どうなるのだろう、この腫れ物はどうなるのだろう、熱はいつになったら下がるのだろう、どうしたら傷が治るのだろう、いつになれば退院できるのだろう.どちらの薬をどのくらいつかえばいいのだろう、血液検査や画像検査で調べても原因が見つからないのに体が震えるのはどうしてなのだろう.最後に、私達はいつ死ぬのだろうか、と.

 科学は不安に対する一つの方策だと言えそうだ.数学や統計学、疫学は世界の公衆衛生の発展に寄与したし、化学、物理学の進歩は言わずとも外科治療や薬理治療、救急医療に貢献したはずである.科学はそうした分野における様々な不安を解消してきた.だが、それで私達の不安は和らいだかと言われると、どうだろう?医療を受ける側も提供する側も不安は尽きないのではないか.これまでの医学において不安をどう理解してきたかを考えてみると、おそらく十九世紀近くまでは、体液病理説に基づく理解が支配的で、不安の解釈も体液(血液、粘液、胆汁、黒胆汁)の不均衡に由来すると考えられたはずで、精神疾患は超自然的な現象のしわざと理解する傾向が多かった.

 二十世紀の重要人物、フロイトの理論をおさらいしてみる.彼によれば、私達は原則、現実を無視して本能的に快楽を求めようとする性質があるという(エス、イド).他方、自我というのは苦痛や苦悩を体験する情動を無意識へ追いやることによって、心の安定を図ろうとする.これをフロイトは軍事用語にあやかって、防衛機制と呼んだ.人間は防衛機制を働かせることによって、苦悩を追い払い、心の安定を得て現実の世界に適応することができると考えた.しかし、快楽を得ようとする欲動(エス、イド)と、それを押し留めようとする力(超自我)の間で葛藤が生じると不安が生じる.この不安で自分自身が崩れてしまうことを防ぐべく、防衛機制が働くのだが、これが過剰に機能したり失調が起こると精神的な症状(失声、失立失歩、解離、転換など)が生じると考えたのである.これをフロイトは「神経症」と呼んだ.ノイローゼ、というのは神経症のドイツ語読みであり、今でも慣例的に使用されている.この神経症の治療方法が精神分析と呼ばれる.

 神経生理学的な立場で不安を考えてみると、不安は「闘争か逃走」の反応の一つであり、不安症の中核的な要素は「恐怖」「憂い」だとされる.うつ病の中核的要素が「抑うつ気分」と「興味の喪失」である点で対比されることに注意だ.不安の中核要素のうち、「恐怖」とは海馬近傍に存在するアーモンド型の脳中枢、扁桃体を中心とする神経回路により調節され、「憂い」は仮説上、皮質ー線条体ー視床ー皮質(Cortico-Striato-Thalamo-Cortical、CSTC)神経回路に関係するという.不安の基礎となるこれらの神経回路の調節には多くの神経伝達物質が関与している.なかでもγ-アミノ酪酸、通称GABAは不安における鍵となる神経伝達物質で、抗不安薬はこの神経伝達系に作用する.ほかにもセロトニン、ノルアドレナリン、α2σリガンドといったものが発見されている.恐怖の条件づけと恐怖の消去という相反する概念は、不安の症状形成と維持に関与しているとされる.これら仮説は認知行動療法という精神療法と、薬物療法を組み合わせる現代の治療法の基盤となっている.

 この半世紀近くで生理学・薬理学の研究は加速度的に進行したし、精神分析療法も小規模だが行われている.神経症の名前は身体表現性障碍や解離性障碍などに姿を変えて、フロイトの理論は現在も診断体系の重要な基礎である.こうした科学や理論の進歩は不安に対する理解や解釈を行うのに極めて有益ではあるものの、これらは不安を緩和し、消退させようとする方向にある.上記で述べた不安を神経症として扱えば、全人類神経症として、ソファの上で横になり、無意識を引き出す羽目になる.あるいは皆が全般性不安症と診断され、全人類ベンゾジアゼピン系薬剤のお世話になるとすれば、滑稽を通り越してディストピア感があふれる.これではいけない.葛藤を抽出して現実的なアプローチを行い、神経回路の調節を薬剤で行うのももちろん重要なことなのだが、今後不安と折衝するにあたって肝となるのはきっと、不確実性への耐性を高めることではないだろうか.不安に対する耐性(レジリエンス)を高めるような研究はこの四半世紀で始まったばかりだと思う.だが、オープンダイアローグの方法論は必ずや、レジリエンスの獲得に寄与するはずである.参加者全員が.

不安は不安を呼ぶ

 私事で恐縮だが、つい先日、私は二回目の新型コロナウィルスワクチン接種を受けることができた.本当に、本当に、ありがたい限りだ.とは言っても接種後の副反応は予想以上に辛いものであった.二回目の接種後に予定を入れることはおすすめできない.既知の報告で知られている副反応に、倦怠感や関節痛、発熱がある.私の体験に関していうと、発熱なしに強烈なだるさと悪寒、大関節の違和感が生じたのだった.接種後半日くらい経ってからか、本当に全く何もできなくなってしまったのは久々であった.うつ病でぶっ倒れたのとはまた違う.ほとんどの人が一日くらいで回復すると知っていたので希望は持てていたが、もし万が一このまま何もできずにいたらどうしよう、仕事が続けられなくなってしまったらどうしようかと不安になっていたし、この辛い症状を感じていた瞬間がものすごく長く感じられた.上記は私の肉体に関する憂慮であるが、世間ではもっと切迫した不安にかられているし、そんな私事を述べても「あっそ」と言われるのがオチである.今、感染症によりこの苦しみのさらに途方も無い大きさで苦しんでいる方々が毎日六千人くらい日本で報告されていて、一定の割合で命を落とす方がいると思うと、遺された家族や恋人、経営縮小を余儀なくされている業界人、日々全力を尽くす医療人の全身の苦悩は計り知れない.世界規模で捉えればさらに凄まじい数の不安が計上されることになる.

 このような事実を知るとさらに健康や行政、究極は未来に対する不安は増してゆく.報道はそんな私達の不安を反映しているように映る.前回の記事では、刺激を避けて、なるべく怒らず、期待せず、日々できることに注力するのが良さそうだ、といったことを書いた.その考えは変わってはいない.とはいっても不安は尽きない人も多いだろう.私自身、大いに不安を感じている.今、この時代に生きる多くの文明人は皆、昨今の技術革新と逆相関して「不確実性への耐性」が落ちてきているのだろうか、と半信半疑になったり、耐性が落ちやすい社会構造になっているような気もしている.ひょっとして私達は脆くなっているのか.それは私だけだろうか.2017年にWHOが発表している不安障碍人口が増えていることも関係があるのだろうか?

古きを訪ねて新しきを知る

 冒頭に立ち返ろう.私達はできるだけ、忍耐を持って、未解決の問題に対して今すぐ答えを捜そうとしないこと.これが大事だ.きっとリルケの言葉はこれまでも、これからも私達の一つの真理であり、光であるように思う.だから不安を感じて疑問を抱いたとしても、結論を急がないことにしよう.

 はるかはるか昔、伊邪那岐と伊邪那美の二柱が天の沼矛で地上の混沌をコネコネすることによって大八島、すなわち日本が生まれたわけだが、どういうわけか神々は我々に試練をお与えくださった.日本は地質学的性質から天災に見舞われやすい土地だ.地震・雷・火事・親父という災害で被災する人々にとって必要なことは、いかに人々に孤立感を味合わせないようにするかが第一に重要であったと、中井久夫は述べている.中井は日本精神医学の巨人であり、彼は阪神淡路大震災の際、被災地の精神科医療に大きく貢献されている.第二には体験の分かち合いが大切だという.被災地にせよ、避難所にせよ、人々が集って語り合うということに意義があるという.自分はどういう状態だったのか、こういう事態に巻き込まれて、こういう体験を味わった、という事実を縷々として話し、どのような気持ちになったかを語る.そして最後に、どのような結果になったのか、という事実を語る.事実ー感情ー事実という順序が良いようで、感情を開きっぱなしにせず、最後にしっかり現実に帰還することが大切なのだという.私達が今味わっているこの苦痛や不安、思い出したくないのに思い出してしまう映像・記憶、感情の高ぶりや麻痺は決して異常なことではなくて、人々が異常な状況において起こす一般的な反応なのだ、ということを共有できるといいという.

 おそらく震災に限らず、このパンデミックという厄災においても、誰かと語りを交えるというのはきっと大切な作業なのではないかと思う.同じ屋根の下で食事を摂る家族や友人・同棲相手がいれば、それでいい.オープンダイアローグの本を読むと、参加者が同じ場所・同じ空気感に居合わせるのが最善だ、ということは十分わかるのだが、そこまで構造的にやらなくてもいいと思うし、感染予防上どうしても難しいこともある.今の時代ならば、双方向性のグループチャットがある.LINE、ZoomやGoogle Meet、FaceTimeはよく知られた手段だ.顔をあわせなくてもTwitterSpaceやClubhouse、その他の音声配信サービスがある.同時空間性というわけにはいかないが、百年前からあるラジオはよくあるメディアだし、最近はAnchorやSpotifyのようにPodcastを個人でラジオ番組を配信できるサービスもあれば、ニコニコ生放送やYouTube Liveのように視聴者参加型のサービスがある.どのような媒体を用いて共有をするかは個人の都合に任せるとして、どんな形であれ、語りを共有できればいいと思う.巣ごもりをしていても、孤立化しないようにできることもあるはずだ.

 一応言っておくと、昨今のメディアに親和性の低い人々や何らかの事情によりメディアが使えない人がいることは重々承知している.注意すべきはこうした孤立化のリスクが高い方々が軽んじられ、疎まれる事態だろうと思う.地域の住民、民生委員や、行政・保健・福祉の方々の力なくして彼らの可視化は難しい.いつか何らかの形で機動的に、柔軟に、迅速に対応できる精神保健福祉ネットワークの構築に携われたらいいなと思うこの頃である.まずは私自身の健康を取り戻すところから始めよう.

 人は他者と意志の伝達がはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない.それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである.

 かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にして__自分自身に語りかけることを覚えたのだ.

 自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である.

ヴァレリー「カイエ」Cahier, 1979 恒川邦夫訳

ありがとうございました.

 以下の書籍はとても素敵な内容になっています.ぜひ読んでみて下さい.