重陽の節句を前にして

tall grass under cloudy day sky
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創造的便秘:Creative Constipation

 ドイツ観念論の学者の一人、フリードリヒ・シュライエルマッハー(シュライアマハー)に続くキルケゴールお兄さんの原罪論解釈が思った以上に難しい.原罪論というのは我々人類の罪的普遍性の根拠を示すことである.そしてアダムの罪が本質的に、個々人の罪と同一であることを示さなければならない.なんとなくキルケゴール兄貴が言っていることは理解できなくもないのだが、それをうまく伝えることができなくては理解したうちに入らぬ.私はずうっと原罪論について考えているのに、なかなか良い説明が思いつかなくて悩んでいる.その他現実問題で悩ましいこともある.少し時間がかかりそうである.超やばい.入浴中のアルキメデスが天啓を得たように、私もどうにかしてピピッと気づけたらよいのにと思う.以前、「うんこ」なる記事を書いたが、要するに私は創造性の便秘である.緩下薬や整腸剤をつかってどうにかなる話ではなさそうに思う.またブリブリ放り出すことができればお伝えしたい.大変申し訳無い思いで私は、悪魔ベルフェゴールの如く便座に座している.

心理学への誘い

 とある要請によって私は大学以来等閑であった心理学の勉強を再開することにした.大部分の動機は私への自己投資である.かくして妻の蔵書を拝借して臨床心理学の参考書をはらりはらりとめくると、全く私は「心理学」について何もかも知らないことに愕然とする(一方、妻は心理学にも詳しいし、教育学や人文学、生物学にも大変明るい).本当に自分でもドン引きするくらい何も知らないことに驚愕した.精神医学と心理学は重複するところはあれど、畑が違うのだと思い知らされる.

 心理学という用語は「Psychology」を西周が訳したもので、経験的事実としての意識現象と行動を研究する学問である.かつては精神についての学問として形而上学的な側面をもっていたが、現代へ続く心理学の発端はヴィルヘルム・マクシミリアン・ヴント(Wilhelm Maximilian Wundt)の実験心理研究所にある.これは1879年のことだから比較的新しい学問だ.多くの心理学者がヴントに学び、さらに学派が誕生した.また批判的立場をとる学者も出現して、これにはフランツ・ブレンターノ(Franz C. H. H. Brentano)が知られる.このお兄さんは私も度々取り上げた現象学おじさんエドムント・フッサールの師匠である.そのフッサールの弟子がハイデガーおじさんなわけで、心理学と哲学は多分に連綿と結びついている.

 同時代にジークムント・フロイト(Sigmund Freud)おじさんもいるがこちらは精神分析学の範疇に属する.精神分析学が心理学に属するという主張はおよそ誤解である.では精神分析とは何か、と問われれば現役の精神分析家の十川幸司氏をして「一つの思考の経験」と呼ぶらしい.もっと詳しく言えば、

 精神分析とは自己についての思考というより、分析家という眼前の他者を介した、より一層根源的な他者についての思考の経験なのである.その他者によって自己がどのように規定されているのか、その他者に対してどうあるべきなのかということが精神分析の中心的な問いとなる.

「精神分析」より十川幸司、岩波書店、2003年

 精神分析が思考の経験である、という主題は、嚆矢であるフロイトこそが精神分析を自己の無意識の真理に向った思考経験だと考えたからである.思考を題材にする点で哲学と似た部分はあるが、精神分析は他者を介在した営為である意味でそれと異なると思う.精神分析は別の記事でいつかまとめたい.

 なんだかんだいってフロイトは心理学に多大な影響を与えた人なので、この人は心理学上無視したくともできない.この分析畑の学派を精神力動系学派と呼ぶ.カール・グスタフ・ユング(Karl Gustav Jung)、最近人気の個人主義、アルフレッド・アドラー(Alfred Adler)、新フロイト派のエーリッヒ・フロム(Erich S. Fromm)、ハリー・サリヴァン(Harry S. Sullivan)やメラニー・クライン(Melanie Klein)やドナルド・ウィニコット(Donald W. Winnicott)に代表される対象関係論などが上記のグループに属すると考えて良い.

 その他、認知・行動に関する学派はハンス・アイゼンク(Hans J. Eysenck)やジョセフ・ウォルピ(Joseph Wolpe)などを経て認知行動療法としての技法を完成させているし、人間性心理学の立場はこれらの立場に対抗して発展した学派で、人間の肯定的で健康な側面を強調する.カール・ロジャーズ(Carl R. Rodgers)やヴィクトール・フランクル(Viktor E. Frankl)らが知られる.

 ここまで紹介しただけでも大変な数の心理学者がいる.様々な学派の心理学好きがいるということは試験勉強としては厄介ではあるが、非常に多様性に富んだ学問として魅力もあると肯定的に捉えておこう.もしかすれば、読者の皆様も知っている学者がいるかもしれない.

 改めて、なぜ私が心理学を勉強するのかといえば、私にとって臨床上の必要である.要するに、私は精神療法(心理療法とほぼ同義)を極めたいのである.精神科医は薬だけ処方してバイバイ、のような悪評を突きつけられているように思う.実際、主観だがそのような医者は少なくないのではないか.私はそのような悪評に対抗したい、という気持ちが強い.どんなに薬理が発達しようと、決して、絶対に、薬理だけでは精神疾患の改善は起こり得ない、というのが私の信条である.適切な面接が引き起こす脳内神経物質のポジティブな化学反応はあらゆる薬剤の効果をブースト(augment)する.そもそも何も入っていない錠剤を飲んだだけでも、抑うつ気分が改善するような奇妙な現象は、薬理以外の誘因が関与している.製薬会社の資料を見れば一目瞭然である.これはプラセボ効果とも言われる.「良くなりたい」「良くなるだろう」と思い込ませる、あるいは「この人が処方する薬なら良くなりそうだ」と信憑させる技量、すなわち信頼関係(Rapport)を築く技術の習得は心理学の理解なしはあり得ないだろうと思うようになった.よって、私は現在の技術のみならず、臨床心理技術職としての立場を築いていきたいと目標にしている.幸い役者は揃いつつある.そこからさらにサブスペシャリティを見つけられるならば願ったり叶ったりである.

 精神療法の手がかりとして

 2015年初版の医学書院から出されているオープンダイアローグとは何か」という書籍を私は繰り返し読んでいるが、これまたなかなか良い読書体験を得たと思っている.2021年5月18日の投稿「不確実性へ溶け込め」で紹介したばかりだ.私がライナー・マリア・リルケに出会ったのはこの書籍のおかげである.

 しかしながら私がオープンダイアローグについて語る資格はほとんどないに等しいだろう.というのも、私はこうした方法論を書籍や論文で知ったのみであり、実際に研修や講習会に参加したこともなければ、方法論を知る人から技術を教わったこともないのだから.猛威を振るう世界規模の感染症のため、どうしても外部に赴いて勉強する、ということが当面できそうにない.これは遺憾である.おそらく殆どの学術活動が停滞しているのではないか.オンラインで一応参加することはできるが、会場でポスター展示を眺めつつ、シンポジウムに片足を突っ込んで視聴するだとか、独特の空気感の中で他の講演を聴くことは現場でしかできない.だが悲観してばかりもいられない.おそらくは徐々に感染症の勢力が弱まってくれば、様々な学術活動が息を吹き返すだろう.その折に私はスーパーヴィジョンを受けるとか、認知行動療法や暴露療法・暴露妨害反応法の講習を受けることを強く希望している.いつかスーパーヴィジョンを受けることができた日にはできる範囲で報告をしてみたい.もちろん、オープンダイアローグも.

 一応、少しだけ著者斎藤の内容を引いて話をすると、どうやらオープンダイアローグは複数の音楽家による即興演奏に似ている.この面接の基本は「不確実性への耐性」「対話主義」そして「ポリフォニー」であるという.ポリフォニーに関しては「ミサ・ソレムニス」を想起していただきたい.治療者と患者、その家族や支援者らが紡ぐ音色はどのような終着へ行き着くか誰にもわからない.精神病症状が生む危機的状況は曖昧さをはらみ、治療者と患者双方にとって緊張感を生む.それは感情的負担である.ゆえに演者と聴者は常に不確実性への耐性が求められる.しかし、それに抗うことができるのが「対話」であり、「対話」こそ治療の糸口なのであるという.基本的に、精神病症状を呈する患者の幻覚・妄想には強烈なトラウマ体験がメタファーとして取り込まれている.それは私の短い経験でも十分に同意できる.症状の暗示する外傷体験が、周囲にとってどれだけ理解しがたいものであったとしても当事者はなんらかの形で現在進行形で情緒的に反応しているはずである.

 最近の私の小目標を述べれば、統合失調症が慢性に経過し人格水準が著しく低下した症例において、どのような面接が効果的なのか.思考が解体し、言語が言葉のサラダとなった人々にとってどのような態度が有効であるのか.こういったことの理解が求められている.急性期の治療や寛解・維持期の症例をどのように進めていくかについてはたくさん議論がなされているけれども、慢性期に関して私はあまり良い方法を知らない.

若き詩人への手紙

 私の中には多くの疑問が生起する.その問いはかくして上記の臨床の問題であったり、時事問題であれば、将来の身辺の問題であることもしばしばだ.あまりにも疑問が多すぎて一見壊れそうである.私は今までこうした問いに速やかに答えを出すことが必要なのだと思い込んできたが、どうやらそうでもないらしい.このような時勢において我々は感情をやたらと消費する場面が多いように思うが、このような時こそ、私達は未解決のものすべてに対して忍耐をもつべきだと.すぐに答えを探そうとしないこと.さらに、生起する疑念に対して批判かつ吟味することが必要なのだと.

 よって私は改めてリルケを引用したい.

 

 あなたはまだ本当にお若い.すべての物語のはじまる以前にいらっしゃるのですから、私はできるだけあなたにお願いしておきたいのです.あなたの心の中の未解決のものすべてに対して忍耐を持たれることを.そうして問い自身を、例えば閉ざされた部屋のように、あるいは非常に未知な言語で書物のように、愛されることを.今すぐ答えを捜さないでください.あなたはまたそれを自ら生きておいでにならないのだから、今与えられることはないのです.すべてを生きるということこそ、しかし大切なのです.今はあなたは問いを生きてください.そうすればあなたは次第に、それと気づくことなく、ある遥かな日に、答えの中に生きて行かれることになりましょう.

若き詩人への手紙、1903年、ブレーメン近郊ヴォルプスヴェーデにて、高安国世

You are so young, all still lies ahead of you, and I should like to ask you, as best as I can…to be patient towards all that is unresolved in you heart and try to love the questions themselves like locked rooms, like books written in a foreign tongue. Do not now strive to uncover answers: they cannot be given you because you have not been able to live them. And what matters is to live everything. Live the questions for now. Perhaps then you will gradually, without noticing it, live your way into the answer, one distant day in the future.

Letters to a Young Poet, 1903, Worpswede near Bremen, Translated by Charlie Louth

Sie sind so jung, so vor allem Anfang, und ich möchte Sie, so gut ich es kann, bitten, lieber Herr, Geduld zu haben gegen alles Ungelöste in Ihrem Herzen und zu versuchen, die Fragen selbst liebzuhaben wie verschlossene Stuben und wie Bücher, die in einer sehr fremden Sprache geschrieben sind. Forschen Sie jetzt nicht nach den Antworten, die Ihnen nicht gegeben werden können, weil Sie sie nicht leben könnten. Und es handelt sich darum, alles zu leben. Leben Sie jetzt die Fragen. Vielleicht leben Sie dann allmählich, ohne es zu merken, eines fernen Tages in die Antwort hinein.

Briefe an einen jungen Dichter, 1903, Worpswede bei Bremen

よく聴くこと

 あなたの懐疑も、あなたがそれを教育されたなら、一つのよい特質となることができます.それは知的なものになり、批判とならなければなりません.それがあなたの何かをそこなおうとするたびに、それに向ってなぜある物が厭わしいのかをお問いなさい.それに向って証明を求め、よく吟味してごらんなさい.そうすれば多分懐疑の方で閉口し、うろたえるのが、おそらくまた食ってかかってくるのが、おわかりになるでしょう.しかし負けてはなりません.討論をお求めになるがよろしい.こうしてそのつど、あなたは慎重に、徹底的に、同じ行動をとられるのならば、いつか、懐疑が破壊者からあなたの一番よい働き手の一人__おそらくあなたの生を築くすべての者の中で一番賢い者となる日がくるでしょう.

若き詩人への手紙、ライナー・マリア・リルケ、1904年、スウェーデン、ヨンセレート、フルボリ、高安国世訳

And your doubts can become a good quality if you school them. They must grow to be knowledgeable, they must learn to be critical. As soon as they begin to spoil something for you ask them why a thing is ugly, demand hard evidence, test them, and you will perhaps find them at a loss and short of an answer, or perhaps mutinous. But do not give in, request arguments, and act with this kind of attentiveness and consistency every single time, and the day will come when instead of being demolishers they will be among your best workers – perhaps the canniest of all those at work on the building of your life.

Letters to a Young Poet, Rainer Maria Rilke, 1904, Furuborg, Jonsered, in Sweden, translated by Charlie Louth

Ihr Zweifel kann eine gute Eigenschaft werden, wenn Sie ihn erziehen. Er muß wissend werden. er muß Kritik werden. Fragen Sie ich, sooft er Ihnen etwas verderben will, weshalb etwas häßlich ist, verlangen Sie Beweise von ihn, prüfen Sie ihn, und Sie werden ihn vielleicht ratlos und verlegen, vielleicht auch aufbegehrend finden. Aber geben Sie nicht nach, fordern Sie Argumente und handeln Sie so. aufmerksam und konsequent, jedes einzelne Mal, und der Tag wird kommen, da er aus einum Zerstörer einer Ihrer besten Arbeiter werden wird, – vielleicht der klügste von allen, die an Ihrem Leben bauen.

Briefe an einen jungen Dichter, Rainer Maria Rilke, 1904, Furuborg, Jonsered, in Schweden

 不確実性への耐性、まずはこれを実践したいと思うこの頃、もうすぐ重陽の節句である.なんでも菊の花が美しく咲く時期なのだとか.私はお酒をやらないから、菊に因んで何かするとすれば、今まで通り、よく「聴く」ことを続けることにしたい.

ご自愛ください.

赤の現象学:IV

九月以来

 現象学のコーナーを立ち上げて、最後に投稿をしたのは去年の九月であった.私の体調があまり良くなくて、ひたすらにクシャクシャな気持ちの方向をブログに向けてなんとか食いしばっていた時期であった.冷たい季節が再び訪れる頃には私の気持ちも少しばかりおとなしくなって、好きな勉強の成果が感じられるようになった.前回の記事、「症例アンネ・ラウ」は思ったよりも沢山の方に読んでいただいた.とても嬉しいことだ.記事は私なりの精神医学へのリスペクトと、患者さんへの敬意を表したのだが、皆さんにはアンネのどのような言葉が琴線に触れただろうか.今回の記事はこれまでとは形式を変えて、いくつか随想を散りばめてから解説を試みたい.

暖かさを感じて

 週末の暖かい日は二月らしからぬ陽気な時間が関東を包んでいた.春のおとずれをますます期待させるような、ワクワクするような日だったと思う.私も早く暖かい季節が来てくれたらいいなと思う.花粉には閉口してしまうが、車の幌は積極的に開けるつもりだ.可怪しいと言われても私には数少ない楽しみなのだから大目に見てほしい.

眩しい声

 以前、別の記事で紹介したラジオ番組の全エピソードを聴き終えた.改めて感想を述べると、稀有で良質な番組だと思っている.COTEN RADIOという番組だ.歴史のデータベースを構築している「株式会社コテン」の代表二人と、福岡県の地域創生を目指している「株式会社BOOK」の代表、計三人が一コマあたり二、三十分程度の放送を毎週放送している.主に世界史の人物・事象に焦点を当てて、「なぜその人物・事象が歴史的に意義があるのか」を固い雰囲気なく楽しそうに深堀りしてゆく.「株式会社コテン」の二人は歴史が好きで大変な物知りである一方、MC役の「株式会社BOOK」代表は歴史に詳しくない立場「歴史弱者」を自称し、謙虚に二人の解説を聴きながら軽妙な合いの手を入れ、核心をついた質問をする.この三人のバランスが良いと私はとても良いと思っている.仲の良い友人が好きな話題で盛り上がるという底抜けに明るい番組かと思えば、歴史上の出来事一つひとつを「一つのケース・スタディ(事例研究)」と捉え、冷静に現代社会にフィードバックする.

 あるエピソードで三人のうち一人が「歴史を学ぶと、個々人の意志とは無関係に社会は変わってゆくことを痛感する、それでも自分は自分のできることをやるしかない」と述べる場面があったように思う.私はこの考えに深く共感したのであった.一歩引いた立場、少し冷めた目線で物事を捉えるような考え方は、自身の被投性を自覚しても先駆的決意で突き進んでいく矜持のように感じられた.ラジオ番組のはずなのに、彼らの存在がとても眩しく感じた.

特別席

 私という存在は社会の中では徹底的に無力であることを自覚するに至ったのは本当につい最近のことである.私という一個体が深刻な機能不全に陥ってから、漸く自分の身の上を理解できた.自分が病気になってからは、この病気の回復を期待しすぎないようにしているし、このまま墓場までに連れ添って一緒に地獄に行けたら良い.

「俺が死んだら、あの世で先生に特別席を用意しておくよ」

 私の担当する、とある患者さんはいつも私に気を遣ってこう言ってくれる.「その時はよろしくお願いします」と私は返す.その方は貴方が考えているよりも遥かに長く入院している方で、五体は満足ではない.痩せた母指球筋が彼の衰弱を物語る.彼の片眼が自身によって失明していることがかつての病態の凄まじさを感じさせる.彼の紡ぐ言葉は文法的に破綻していて、文脈も飛び飛びで前後の連関をなさない.こうした言辞は連合弛緩などで片付けられてしまうかもしれない.しかし彼には彼なりの哲学があることを面接のたびに知る.彼は自分が死にゆく存在であることを常に意識して生きていると思う.彼の言葉には生の諦観と死への期待があるのかもしれない.そうだとしてもその眼差しは会うたびに力強く、私に対する温かみを感じる.なのに私は全く気の利いた言葉を返すことができてさえいない.

 「俺は食べることと眠ることしかできません」(大変立派なことです)

「先生は死後の世界に行ったことある?」「どんなところなんだろうなァ」(案外悪くないのではないですか)

「先生はそばが好きなんだろ?死後の世界で用意しておくよ」(いつもすみません、覚えてくださってありがとうございます)

 私が彼より先に死ぬ可能性は十分ある.誰でもそうだろう.もし彼のあとであったとしても、私にはどうやら特別席があるらしい.だから私はあまり心配していない.特別席にざるそば大盛りで、とろろと蕎麦湯と天ぷらがあればなお嬉しい.

とりあえずエポケーしてみる

 過去に述べた現象学における用語を整理してみる.そもそも現象学というのは、私達が世界の実在をいかにして確信しているかを解明する学問であった.そのために私達は、主体と客観が一致しているということを究明するのではく、近代哲学までの「主客一致」の図式を捨て去る.そして確信している事物に対して、判断停止<エポケー>することで、存在を一旦疑うことを提唱する、すなわち現象学的還元を行うべきだとフッサールは述べた.

 そうすると、貴方の目の前にある、この記事は幻<ファントム>かもしれない.しかし、貴方がこれを見て観取する「白い」「黒い」という知覚的感覚(知覚直観)、「文章だ」「つまらない」「退屈だ」という知識に基づく感覚(本質直観)は貴方の意識に必ずのぼる.眼前の存在は超越であり、どこまでも疑わしい存在だとしても、貴方の感覚は不可疑なのだ.眼前の存在によって貴方の意識にのぼったこれらの感覚は、ブログのごく一部であり、すべてではない.なのに貴方は上記の直観で、文章の存在を、ブログの存在を確信している.知覚直観・本質直観はともに内在と呼び、直観から構成される対象を超越(構成的内在)と呼ぶ.その働きをノエシス、超越そのものをノエマという.こうした意識・思念の性質を志向性とフッサールは呼んだのだった.以上の議論を私は自動車で例えたり、コーヒーに例えもした.ここまでが以前の記事の内容であった.ノエシス・ノエマについて触れていなかったことはお詫びする.

 ここから話す内容はいままでお伝えしていない内容である.先に述べた四つの小論は私の随感である.これは現象学的言い方をすれば、私にとって不可疑な直観に基づく記述である.このブログの存在はどこまでも疑わしいし、読者の存在も疑わしい.私が確信している自身の身体を使って入力した文章も構成的内在に過ぎず、果てしなく疑わしい.しかしながらくどいようだが、私が「嬉しく感じた」こと、「季節外れの暖かさを感じた」こと、「Podcastの番組をいいなと思ったこと」、「患者さんの暖かみを感じた」ことは絶対に疑いようのない確信なのだ.これが貴方にとって超越であろうと.

 

 私と一部の患者さんとの面接は自我と他我を理解する貴重な経験である.なぜか.まずフッサールは、世界が主観の外に実際に存在しているかはわからないし保証できないという.しかし私は何度でもいうが、私は意識にのぼる内在を知り、感動を確信し、志向するノエマを確信している.すなわちこの世界を確信している.世界を確信している、ということは私以外の意思の存在を確信していることでもある.この内在は間主観性とフッサールは呼ぶ.要するに、「お前がそう思っているんだろうと(同じように)私は思う」である.今風にいえば「わかりみが深い」感覚に似ているかもしれない.この対象確信の条件と構造は、誰が内省しても、表現の違いを別として、必ず同じものとして取り外せるはずだ、という理屈である.この確信形成の共通性が自然科学のもつ「客観性」の根拠でもある.

 もし確信条件が違うならどうなるだろうか.それは私と他者の確信構造が異なるにほかならない.「世界の現実性と秩序」=世界・内・存在(ハイデガー)を共有していないことになる.私と他者で生きている世界が異なるのである.これは決してレトリックではない.私と赤ん坊の対象確信は異なるだろうし、統合失調症や高次機能障害などとそうでない方々の確信形成の条件が異なるだろうことは理解できるのではないか.アンネ・ラウという好例を先日示したばかりだ.もう一度、ブランケンブルクの考察を引用しよう.

・世界との関わりの変化(世界の意味指示性が全体に不確実になる)

 いまはもう、いろんな感じが痛く感じられるだけになってしまいました……いろんなことのつながりというのか、ほかの人たちと同じ一つの感じを__世界の感じというようなものでしょうか__もっているというそんな感じがしないんです.以前はなんにもできないっていう感じだったのです.

・時熟の変化(時間構成の問題、時間を経験するということができない)

 現実のうちにとどまることがとてもむつかしいのです.毎日毎日、新たに、はじめからやりなおさなければなりません.

・自我構成の変化.(自然な自明性と自立の弁証法的関係の破綻)

 ここの生活の流れに自分をどのようにあわせたらいいのかわかりません.私にはピンとこないんです……作業療法のときも病棟でも、自主的に働くということができません.

・間主観的構成の変化.他者との関わり.

どうしてほかの人もやはりそうであるのかが、全然感じられないんです.なにもかも、ほんとになにもかもがとても疑わしいのです__生きているということも!

 アンネが他者との間に世界の深い断絶を感じたように、私は医療面接において私と一部の患者さんらの両者に「世界の現実性と秩序」を共有していないであろうことを理解する.ノエマに対する連続的調和が保たれていないのだ.断っておくがそれは正常とか異常とかいう馬鹿に野蛮な手続きで済ませてはいけないと思う.もし貴方が彼らを異常と呼ぶのであれば、それはあまりにも失礼である.だれが好きで精神を病むというのか.面接において私にできる唯一の方法は古典的手法だが、やはり今のところ精神療法しかないと思う.薬物治療は大々前提の治療法であるからここでは述べないことにする.

 私と他者の間に世界確信の断絶を感じた場合、私は私なりになんとか彼らの体験世界を理解しようと努める.いわゆる妄想とされる言辞は彼らなりの世界を構成する要素なのであるから、これを否定することは彼らの存在を脅かすことになる.可能な限り共感と歓待の気持ちで歩み寄ろうとする.それははてしてなく困難である.転移の問題もあるのかもしれない.転移についてはいつか触れたい.

 間主観性こそが世界の存在を基礎づける、というフッサールの考えは私にとって非常に新鮮であった.現象学的還元という方法は本質解明の唯一の強力な手法であり、とりあえずエポケーして疑ってみることは誰でもできる美しい考えであると思う.現象学的な方法で精神病理学を理解する意義も徐々に納得できるようになったし、現在も悪戦苦闘している「ファントム空間論」の最終章の理解に役立つだろうと思う.安永も述べていたが、求められるは精神病理学と神経生理学の架け橋となるものである.この二つの学問をクロスオーバーする何かが、いわばミッシング・リンクのように欠けているのかもしれない.

 と、私はいままで思ってきたが、それは実は大きな誤解なのかもしれないと今では考えている.精神病理学と神経生理学という学問の二項対立の図式で考えるからこそ解明できないのあって、一旦判断中止してみて別の切り口で考えてみることによって新たな突破口ができる可能性が残されている.それは今後の課題に残しておくとして、私はコツコツと精神療法の修練に邁進したいと思う.私にとってはこの現象学という学問は、精神療法を行ううえでの患者さんとの架橋を行うためのかけがえのない橋頭堡であると思っている.

ここまでありがとうございました.

 

 

 

症例アンネ・ラウ

常識とか自明性とか

 世の中で言われている「当たり前のこと」というのは案外とらえがたいもので、わかっているふりをしているようで説明できないものが多い.「自然」だとか「常識」「自明性」というものはひどく扱いが難しい用語だ.

あるとき、私は

 「お前には常識がない」

と最近言われたことがあった.どのような背景でその言葉を言われたのかというと、詳しくはいえないが、私の人生で私が選択したことが相手にとって「非常識」な選択であったように受け止められたようだ.私の選択は少なくともその人に害する行為ではなかったはずなのに.とはいっても本当の本当に私が非常識である可能性は常に残されているが.

 その言葉は私の心をナイフで切り裂き、えぐり出すような侵襲的なものに感じられた.りんごにナイフを突き立て、グリグリと回転させると果汁が染み出してくるように私から嫌な汁がこぼれた.傷はもう閉じない.

 「常識」という普遍的価値をもつようでいて、その価値観が主体によって目まぐるしく変わる概念は、私にとって見えない強制力と暴力をもつように思った.こういうときなぜか胸の奥がざわついて重苦しくなる.不思議な現象だが心身が不分離なものであることを実感する.この胸の奥をえぐられる感覚は二度と感じたくないほど不快なものであるはずなのに、この何年か、数え切れないほど経験してしまった.

 その経験をする前から、私は「当たり前」を当たり前たらしめること、「自然」だとか「すでに明らか」なこと、というものを容赦なく使うことに対して一種の危うさを見出すようになった.

 「ちょっと待ってて」「少しでかけてくるね」

 これらの言葉にある「ちょっと」「少し」の持つ時空間の射程は話者の文脈や関係性から「自然」と浮き上がっていくものであるが、この時空間に対する感覚が「当たり前」であることというのはなかなか説明しがたいのではないか.特に、こうした言葉に対する感受性の高い方々にとってこれらの言葉はひどく不親切でわかりにくい呪詛となる.

 改めていうと「常識」は社会構成員の一人ひとりに規範的強制力を課す概念であるが、それは決して普遍的ではない.私達が全裸で外を歩き回らないのは「常識」だが一万年くらい前は全裸は「常識」だっただろう.私達が人権をもっているのは当たり前かもしれないが、つい百年くらい前までは自由は当たり前ではなかった.タバコを吸うことが害であるならば廃止されるのは当たり前かと思えば、我々は一定の年齢に達すれば無条件で喫煙ができる.必ずしも当たり前ではない.

 「当たり前」というのはひどく使いにくく難解な言葉なのに、多義的で曖昧であるために広く用いられてしまう危険性があるように私は思う.どのような文脈の中で用いられているかを明示しないことには「当たり前」は暴走し、私達のもとに馴致することはできない.そして「当たり前」や「常識」を否定することは、私達の存在を根本から否定する恐ろしさを持つ.だから私はあのとき傷ついたのだろうか.

Natürlichen Selbsterständlichkeit

 ここで「当たり前」について検討した著作を紹介したい.

 1971年のドイツで出版された本に”Der Verlust der Natürlichen Selbsterständlichkeit. Ein Beitrag zur Psychopathologie symptomarmer Schizophrenien”というものがある.なんだこの題名の長さは!と思うが日本語に直すと「自然な自明性の喪失.症状に乏しい分裂病の精神病理学への一寄与」という.この本の和訳はみすず書房から出版されており、木村敏によって1978年に紹介された.「自明性の喪失」として一部の界隈では知られている名著である.*分裂病という記載があるがこれは現在では統合失調症という呼称が適切である.当時の表現であることをここでお断りする.

 どういう本か.序文は次のように始まる.

 二つの問題領域がこの著作において扱われている.一つは人間が世界の内に根を下ろしていること(碇泊していること)一般についての現象学的解明、より厳密にはフッサールの意味での「間主観的に構成された生活世界」における人間の根のおろしかたである.もう一つは、寡症状性分裂病(単純型分裂病および症状に乏しい破瓜病)においてことにはっきりと露呈されるような、基底的な分裂病性本態変化に関わるものである.

 前者は現象学的人間学の領域、後者は臨床的精神病理学の分野に含められる.この二つの問題を一冊にまとめた理由を筆者は、二つの問題領域の間に重要な関係があり、その関係こそがこの著作の真の主題をなしている.その共通の問題点とは、「常識」(コモン・センス)の病理学であると言う.そしてコモン・センスというのはそれが月並みできわめて自明なものであるという点に目を奪われて、とかくあまりにも見逃されやすいが、哲学的にも経験的にも非常に注目すべき、独特の基底的な機能である、とする.「当たり前」を当たり前たらしむ機能を二つの学問から検討する著作である.ニッチだが、私にとってはジャストミートな問題である.

 アンネ・ラウという症例が紹介される.彼女は二十歳で睡眠薬自殺を図り、筆者であるブランケンブルク(W. Blankenburg)のいる病院に入院してくる.彼はハイデガーの弟子であるが医学に転進した.担当医師らは彼女に対して面接を行い、病歴を構成して詳細な検討を行う.その後、筆者は診断的には「寡症状性分裂病」であるのが最も適当であろう、と考察する.

 さて、寡症状性分裂病とはなんぞや.今日の臨床ではもはや使われない用語である.現代の用語でいえば統合失調症なのだが、寡症状性、つまり症状に乏しいという意味の性質は現在の診断基準(DSM)では存在しない.そもそも症状を当てはめるためには症状ありきなのだから、寡症状というのは今の操作性診断基準にふさわしくないだろう.統合失調症の診断基準を参照すれば、妄想、幻覚、まとまりのない言葉と行動、陰性症状が主なもので、五つのうち二つを満たせば、期間や除外診断を検討した上で診断が確定できるものになっている.寡症状性分裂症はそういった症状に乏しい分裂病であるというのが端的な表現であろう.かつては破瓜型、緊張病型、妄想型、単純型といった病型分類による診断は多かったが、DSMでもはやこのような病型分類存在しない.なぜか.それは本旨を大きく外れることになるのでここでは触れない.まずはアンネの言葉を引用してみよう.彼女の言葉に妄想はないことがわかるだろう.

 私に欠けているのはなんでしょう.ほんのちょっとしたこと、ほんとにおかしなこと、大切なこと、それがなければ生きていけないこと…….家ではお母さんとは人間的にやっていけません.それだけの力がないのです.そこにいるというだけで、ただその家の人だというだけで、ほんとにそこにいあわせているのではないのです.___<中略>___私に欠けているのはきっと、自然な自明さということなのでしょう.

≪それはどういう意味?≫

 だれでも、どうふるまうかを知っているはずです.だれもが道筋を、考え方を持っています.動作とか人間らしさとか対人的関係とか、そこにはすべてルールがあって、だれもがそれを守っているのです.でも私にはそのルールがまだはっきりわからないのです.私には基本が欠けていたのです.

 彼女の言葉は数頁にわたって記載されている.大方は「ごく当たり前のことがわからない」という愁訴が続く.入院時の所見からは一見したところ、外面的には、問題のない、気立てのよい東独生まれの女の子のように思われた、という記載があるが、この印象は誤りであったと続く.鈍重といってもいいほどの平凡な外観の背後に、極度に敏感でもろい精神構造と、人格の著名な部分的未熟さが潜んでいると評している.彼女の話し方は一生懸命に言葉を探そうとし、同じことを繰り返したり途切れたりで、まるで支離滅裂に近いものになる.一定のテーマでまとまった文章をつくることはできなかった.自分では考えが途切れる、急に何もわからなくなるといっていたが、真の意味の思考奪取は確認できなかったとされる.知能検査(ウェクスラー式)では言語性107,動作性98,総指数103で年齢相応の平均的な知能を示した.しかし、行動の緩慢化、要領の悪さ、情熱的な囚われのために成績は悪くなっていたという.ロールシャッハ・テストでは解釈意欲の低下を示した.反応数は115と異常な多さだが、明らかな保続傾向があり、コンプレックス反応の典型的なものがほとんどみられなかった.この検査では診断はできなかったと記載がある.

 要するにこうした所見からは、患者は自分の力では対処できない状況につねにあるということが示された.知能や想像力は優れている一方、実生活での対処能力が全般に及んで低下していること、周囲とのつながりが表層的で非人格的なものになってしまっていること、人生とのあらゆる種類とのつながりがひどく貧困化していることが記述された.

 当初ブランケンブルクは、彼女が人格の発達遅滞に伴う異常な体験反応であるか、神経症圏の範囲で理解されるものと考えていたが、精神病圏なかでも統合失調症を鑑別に考えるようになったのは、経過から唐突でしばしば不適切な感じのする感情の動き、移り気な振る舞い、軽度の衒奇症、著しい思考障碍が見られたからだという.治療について述べれば1970年代における薬物療法をはじめとする医療は有効でなかった.電気けいれん療法も有効でなかったとされる.精神療法も支持的なものを除けば、彼女はひどく抵抗し自殺念慮を増すばかりであった.彼女は部分寛解を経て一年後に退院した.デイケアでの作業療法を行ってから家政婦として働くまでになったが、根本的な変化は生じていなかったと担当医は考えたようである.やがて急激な病状の悪化、彼女は自殺念慮が増していき、家人の目を盗んで自殺した.

 惜しむらくは彼女を救命できなかったこと、寛解に導けなかったことであろうと私は思う.もし、アンネ・ラウのような症例が現代の日本に現れたとするならば、私達はどのような考察を行うだろうか.どのような診断を下すだろうか.もしかすれば彼女の振る舞いからアンネは発達障碍という広義な篩の上にかけられて、その診断に基づく治療がなされたかもしれない.統合失調症の診断を下す医師は少ないのではないかという印象ももつ.彼女は現代においてリカバリーに導くことができるだろうか.こういう問いかけは歴史のIFのような、「もし高杉晋作が病死していなかったら」といった反則技にあたるので、考えすぎるのもよくない.だが現代においてアンネ・ラウの病理に接近することができる医師はどれだけいるだろうか、という疑問を持たざるをえない.「自然な自明性の喪失」という言葉を診療録に書き留めて、それを検討するだけの精神的余裕があるだろうか.彼女を癒せるだろうか?

 ルートヴィヒ・ビンスワンガー(L. Binswanger)のような立場から述べると、私達はもともと自明性と非自明性の弁証法的な動きが備わっている存在だという.自明性が止揚することによって新たな自明性に取って代わる.そうして私達現存在はその単一性を保つことができる.これを人間学的均衡という.それは常に弁証法的関係性を意味する.不均衡はその均衡の破綻である.「自然な自明性の喪失」というのは現存在「Dasein」における自明性と非自明性との弁証法が後者の側に引き寄せられることと同義である.つまり、私達を取り囲むすべての事物とのかかわりを根本的に支えている自明性が、疑わしいものとなる、ということになる.

なにもかも、ほんとになにもかもがとても疑わしいのです.私にはなにがなんだかちっともわからないのです…….なんとなく生きることなんてできないことですもの……なんとなく生きることということにすっぽり浸かっているなんて、とてもできないことです.

ブランケンブルクは現象学的検討において、「自然な自明性の喪失」を以下の四つの観点から究明できると述べた.

・世界との関わりの変化(世界の意味指示性が全体に不確実になる)

 いまはもう、いろんな感じが痛く感じられるだけになってしまいました……いろんなことのつながりというのか、ほかの人たちと同じ一つの感じを__世界の感じというようなものでしょうか__もっているというそんな感じがしないんです.以前はなんにもできないっていう感じだったのです.

・時熟の変化(時間構成の問題、時間を経験するということができない)

 現実のうちにとどまることがとてもむつかしいのです.毎日毎日、新たに、はじめからやりなおさなければなりません.

・自我構成の変化.(自然な自明性と自立の弁証法的関係の破綻)

 ここの生活の流れに自分をどのようにあわせたらいいのかわかりません.私にはピンとこないんです……作業療法のときも病棟でも、自主的に働くということができません.

・間主観的構成の変化.他者との関わり.

 どうしてほかの人もやはりそうであるのかが、全然感じられないんです.なにもかも、ほんとになにもかもがとても疑わしいのです__生きているということも!

 繰り返しになるが、私達は自明性と非自明性の弁証学的な動きによって存在している.止揚(アウフヘーベン)というヘーゲルでいう、否定・保存・揚上という三つの意味を含んだ機能があって、新たな自明性を作り出す.これは「疑問をもつ」ということによって現存在を統合させる一つの契機でもある.だが、アンネのような統合失調症において、この疑問が過剰になりすぎる<何もかもが疑問になる>と、それは侵襲となり、身体と心と精神とからなる人間存在の全体へ向かって入り込んでくる.これは私達には大変な侵襲であり、現存在を脅かす根本的な、荒々しい身体に迫るような形で起こる.アンネのいう「痛み」というのはメルロ・ポンティ的<受肉化した主観性としての身体>が知覚する侵襲なのであろう.私が傷ついたときも、私という現存在を脅かす侵襲に対する反応なのかもしれない.

 統合失調症というと、表層的な人々はやれ妄想だ、やれ幻覚だという.現代の診断基準をことさら否定するつもりはないが、ブランケンブルクが本著で言わんとしたことは極めて重要なことであり、私達を私達として確かに存在せしめているものこそ、統合失調症の患者にとってはそれが自身を危機に晒すものなのだということだと私は思う.一臨床の立場として感服の思いである.分裂病、現代における統合失調症は人間的な疾患であり、現存在の根幹に関わってくる病である.自明性というのはそれ自身が間主観的に構築されるものだから、自明性が喪失するということは、必ず自己と世界との関係性に関わってくる.統合失調症において、自明性が喪失するという問題は「コモン・センス」に対する判断の動揺である.

 「当たり前」だとか「常識」、「コモン・センス」というのは虚ろな空のように移り変わるエピステーメー的な言葉であることを今一度考えることができた.その性質ゆえに、「コモン・センス」は自身に対して脅威になることもあれば、止揚を経て新たな自明性を築く機会にもなる.近年、「自分らしさ」という実存的な言葉が大手を振って世界中に浸透しつつあるような気配がするが、それは自明性の喪失に対する恐れの裏返しなのかもしれない.きっとアンネ・ラウのような症例は決して少なくないはずであって、もしかすると隆盛を極める発達障碍という診断の影に埋没し、声なき声を上げているのだろうか.私にできることは極めて限られているが、謙虚に自分の力量を超えずに、静かに耳を澄ますことはかろうじてなんとかできそうである.

 ここまでありがとうございました.「自明性の喪失」を買った当初は全くもって本書の内容のがわからないという苦しい思いをしましたが、フッサールやハイデガーといった現象学者の理解に努めることでようやく本書の全体的俯瞰ができたと思っています.とはいっても理解は微々たるものですが.こうした知識の獲得は私の数少ない喜びです.この美しい風景は私だけのもの!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

肌寒い雨の日

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ブログ開設七ヶ月目を迎えて

 2020年6月4日に亀吾郎法律事務所を立ち上げて半年がたった.12月5日現在で七ヶ月目となる.まだまだ七ヶ月か.という気持ちと、もう七ヶ月かという気持ちが4:6くらいで混合し一つの名状しがたい感慨となっている.

 半年が経過したところで、簡単にこれまでを振り返ってみることにする.以下は亀吾郎法律事務所を訪れた人、表示数(PV)、記事投稿数である.

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Table 1

 基本的に各項目は右肩あがりで表示数が増えている.フォロワーもWordpressだけで32人、ソーシャルメディアで10人.純粋に嬉しく思う.特に驚いているのが海外からの訪問数が安定して増えていることである.カナダ、アメリカ、オーストラリア、インド、中国あたりが特に多い.やはり英語での記事投稿が貢献しているのだろうか、それとも翻訳記事が目を引くのだろうか.この辺の考察はもうしばらく時間をかけてみないとわからないが、良い兆候のように思うので、このまま外国語記事も増やしてみたいと思う.目指すはオリエント世界である.アッサラーム・アライクム.

 投稿数は10月を除けば、一応は一ヶ月に14記事投稿している.概算すれば5000〜6000文字の記事をコンスタントに書いているので、記事の質はさておき、厚みとしては適当なものを続けられているように思う.このままのペースで淡々と続けられれば良い.

成功報酬型広告について

 亀吾郎法律事務所は広告を掲載して報酬を得る仕組みとして、Google Adsenseというものを申請している.掲載を始めたのは10月くらいだったか、当時50記事も満たなかった状態だったが、幸運にも審査は一度で通過することができた.あまりにも個性が強すぎたせいかもしれない.ちなみに広告収入の総計は$1.31(邦貨換算で136円)である.これならば駄菓子が買えるのだから、なかなか文章の力というのはすごいものだと驚かされる. 広告収入は二次的な目的である.私の真の企ては、自分の思考の整理と自分が勉強したことや考察の可視化である.そこにちょっとしたお小遣いが入るのであれば、様々な脳内報酬系が刺激されるのだから、決して悪くはない.広告が邪魔だと思う方は面目ないと思う.AdBlockなどを導入して広告を消していただくのは自由である.

 さらに弊事務所は成功報酬型広告にも足を突っ込むことにした.通常の法律事務所にはできないことをするのが、亀吾郎法律事務所の圧倒的な強みである.つまりは事務所の記事にAmazon Japanの広告を掲載、広告を通じて購買に至った顧客がいた場合に、吾郎ちゃんとさぶちゃんに成功報酬が支払われる、という具合である.実はこれはまだ始めたばかりで、180日以内に一定の実績を積まないと継続できないため、正式な運用では無い.広告とはいってもその形式はこちらである程度選べるので、主張が強くないものを記事の最後にまとめて掲載するようにしている.ほとんどは書籍である.亀吾郎法律事務所が選んだ主題に関連する書籍を掲載している程度であり、視覚的な邪魔にはあまりならないと思う.書籍の画像をクリックするとAmazon.co.jpにジャンプする.他の読者の批評、値段、関連書籍を見比べてぜひ参考にしていただければと思っている.弊事務所では成功報酬型広告を文末の参考文献程度に扱っていると考えてほしい.

今後の連載について

 初見以外の読者の方ならご存知だろうが、そろそろ「The Book of Tea」の翻訳が終焉を迎える.最後は千利休が力囲希咄の〇〇をするようだからぜひ楽しみにしてほしいと思っている.

 私が考えているのは、次回作のことだ.次の翻訳は何にしようかな、と思案している最中で、既に翻訳されたものよりは、未翻訳の珍品を発掘して翻訳したいという邪な考えが私の脳内を占拠している.Rabindranath Tagoreも良いのだが既に高良とみによる優れた翻訳がある.Iris Murdochもなかなか面白そうであるが、長編小説の翻訳であるとこちらの気力が持たない可能性がある.う〜ん、難しい.

 おいおい、現象学ファントム空間論が残ってるじゃないか、という熱心な読者もいるかもしれない.その通りである.こちらは同時進行でちびちびやっていく.現象学がご無沙汰であるのは、やはり扱うテーマが重厚だからで、決してサボりではない.Edmund Husserlのみで現象学を扱うのはいささか無理があるように思っていて、ネタを収集するべく現在渉猟に出かけているのである.まずはMartin Heideggerの「存在と時間」を読んでから構想を練るつもりだ.決して中途半端にはしないのでどうか楽しみに待ってもらえれば幸いだ.そもそも「確信成立条件」をブログで示そうなどという目的は壮大にもほどがあるだろう.時間がかかるに決まっている.

記事の英訳について

 翻訳といえば、岡真理による「記憶/物語」の評論を英訳してみようと思って、すでに一話は英訳してみたのだった.正直にいえば自信がない.突然聖人君子のような人がスッと現れて無償で添削してくれる、なんてことがあればいいが、あるわけないので、どんどん突き進むのみである.この特集も最後まで完結させて、日英の記事として海外にも分有したいと思う.

 というわけで、私にとっては書きたいことが土山のようにある.ネタがつきることはないだろう.書くことも辛くない.むしろ作品が完成すると一種のカタルシスすら感じる.だが、私の凡庸な頭脳ではこれ以上の投稿スピードは出せないし、記事をまとめる力もそこまでない.千手観音くらい手があればなぁ、なんてことも考えたが、それはそれで大変だろう.

最後に 

 本記事はとある楽曲を紹介して締めくくりたい.私にとって今日のような肌寒い冬の曇天には宇多田ヒカルの曲が特にしっくりくるのである.

♪心の電波 届いてますか 罪人たちの Heart Station

 亀吾郎法律事務所が皆さんのHeart Stationであればいいなと密かに願っております.ここまで読んでくださりありがとうございました.

 

 

ファントム空間論に到る前に

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了解について

 本編の前にこちらからご覧いただくとよいかもしれません.その続きはこちらにあります.

  分裂病(統合失調症)の基本障碍とはなにか.という問いかけから著者、安永浩の論考は始まる.だから統合失調症を避けずしてファントム空間論を語ることは出来ないのだが、なるべくこの辺りの論理をしっかり抑えつつも適度に流していこうと思う.

 K. Schneiderは統合失調症には一級症状として6-8つの用法があることを指摘した(考想化声、思考奪取、作為体験、対話性幻聴、考想吹入、考想伝播、妄想知覚など).

 こうした症状から他の症状を導き出すことを理想としているのだが、「導き出す」とはどういうことか、という問いかけが残っており、さらなる追求が必要であると述べた.この問題に対する考え方はW. Dilthey, E. Husserlらがもたらした方法的反省の立場が有用だとして、これらをK. Jaspersが精神病理学に導入した.ここで「了解」「説明」という方法の体系が組織付けられた.

 「説明」的な方法論では、無限に仮説的中項を設けることになってしまい、心理現象を本質的に検証することができないという.基本障碍は「説明」的になってはならないと安永はいう.なんのこっちゃ.続けてみよう.

 一方、「記述的分析的」ないし「了解的」な心理現象の理解は「心的連関の直接所与の上に安らって」いる為、前者のような矛盾をもたない、という.どゆこと?心的所与の「全体」から出発して「部分」が分解されていくのであってその逆ではない.「基本障碍」とはこの場合その「全体」をつかむことになるが、それはここの事実の認識を契機とし、土台とはしても、それから構成されるのではなく、そのつど、一次的に把握されるのである.こうした「全体」から「部分」を導き出すことは正当な権利を似て言われ得る、とする.

 そうすると、この立場は「了解不能」という壁に突き当たる.Jaspersによれば、「了解」が限界に行き当たる時は因果的「説明」に到るものとされる.しかしもし「説明」が上記の限界を免れぬとすれば、これは統合失調症の心理学的理解の終末を意味し、統合失調症の症状は、ただの忠実な外面的記載と平面的羅列にとどまってしまうのだろうか.となると、「基本」的な追求も無駄になってしまう.

 これは序文に過ぎないのだが、最初から難解である.私からなんとか大意を抜き出そうとしてみれば、次のようになる.

 ある架空の症例が、「頭のなかで自分と誰かが大声で喧嘩をしている」と述べたとする.K. Schneiderの一級症状の考え方をすると、これはVoices heard arguing、すなわち対話性幻聴である.では対話性幻聴から他の症状を「導く」とはどういうことか、これがよくわからない.そこで、現象学的な考え方を使ってみることになる、K. Jaspersがまとめた方法には、「了解」「説明」という二つの考え方が用いられた.

 了解というのは精神現象を把握する方法である.「悔しくて怒る」というのは「悔しい」という精神現象と「怒っている」という精神現象の連続である.これらは感情移入的、共感的なものとして了解できる、という.(インターネット用語でいえば『わかりみが深い』かな?)「悔しい」と「怒っている」はそれぞれ関連がある.それゆえに怒っている人を見て、「悔しがっているんだろうな」、だとか悔しがっている人を見て「怒ってるのかな」と思うのは自然だ、ということだ.「心的連関の直接所与の上に安らっている」というのはそういうことである.だがこれらは因果律とは似ていて、異なるもので、「悲しいから泣く」という現象は連関と因果律を思わせるが、「嬉し泣き」も存在する.「嬉しい」と「泣く」という意味の連関はその人をとりまく状況や本人の発言との関連においてその都度了解できるのだ.

 しかし、ゲラゲラ笑っている人を見て、「この人、さぞかし悔しいんだろうなぁ」とは思わない.フヒヒヒヒと笑っている人に「なぜ笑っているの?」と尋ねて「悔しいからに決まってるでしょ!フヒヒヒヒ」と言われたら、「エッ???」となるはずだ.

これが了解不能という現象で、ある精神現象と関係のない精神現象が生じた場合は、「これもうわかんねぇな」という状態に陥る.

 こうなった場合、私たちは、その背後に病的な身体的過程(精神病)を想定し因果的な説明を求めることにした.したというか、そうせざるを得ない.「なにか病気だからこうなっちゃったのかな」という推理が働く.通常の意味連関が共有されず、精神現象とのつながりに異質さを生じさせるのが、了解不能である.

 説明というのは、病的な身体過程を想定するのではなく、心理現象として、「この人は過去にこういう体験があったからそれがきっかけで、ゲラゲラ笑っているのだろう」という仮説を挟んでいくものである.つまり、可能性は無限大になる.あらゆる可能性が考えられてしまう.

「ゲラゲラ笑っているのに悔しがっているというのは、実は心理学的には否認の状態で、実際、彼の心的状態はどちらかというと悲哀の反応に近く……」

 なんてごちゃごちゃしてくると、もはや取り付く島もない.無限に仮説的中項を設けることで本質上検証ができない、というのはそういうことである.

 だが、了解不能なものに対しては説明を試みるしか無いのである.Jaspersは、わからないもの<了解不能>は、因果的説明にいきつく、という.ところでもし、「説明」がさきほどの統合失調症心理の探求限界に行き当たらない、なんてことがあったとすると、もはや統合失調症を理解することはできなくなってしまうのでは?という恐れが生じかねないと安永は言う.それは「了解」に関する誤解であるとし、以下重要なことを述べる.

 心理現象界の作用形式を掴み、秩序付ける認識は体験から直接導き出されてゆく方向になされるべきで、(そうすれば「説明」的認識の意義もその中で正当に-「了解」を限定規制するものとして-位置づけられてくるが)

もしこの順序を逆にすると(「説明」だけから出発すると「了解」は永久に現れてこないから)背理となる.

 以下、吾郎なりの理解を以下に記してみる.

 こころの世界がどのように私達に働いているかを理解し、その世界の法則がどのようなものかを感じるということは、実際に経験したことから直にわかっていく(了解→説明)流れが大事である.(そうすれば、「説明」することで理解できる、という立場もまっとうに「了解」の立場を自然と決めることとして位置づけられるから)もしこの順番が逆になると、「悲しいから泣いている」という現象を理解するときに、説明が先行してしまうと、無限の注釈がつくことになってしまう.つまりいつまでたっても「了解」が出てこなくなってしまう(畢竟おかしい話になる)から、逆説的に正しいのだ.

 ここで要点をまとめておきたい.

 精神現象は「了解」していくことで、こころの世界の働きを知ることができるが、もし「了解不能」となった場合は、因果律に基づいて「説明」することが必要となる.そういうわけで「了解」→「説明」という流れが大筋となるがその逆は決してありえない.

 K. Schneiderの提示した一級症状というのは、「思考奪取」「考想化声」「作為体験」などである.これらは教科書的にも統合失調症の症候として現代もよく掲載されている.だが、これらがあるからといって、決して統合失調症とは限らないのである.脳腫瘍によってもこのような状態は起きるし、ステロイド多量服用でもそうなる.エリテマトーデスでもそうなるのだ.これが一次的な症状、根幹の症状として他のすべての症候を網羅できるかと言うと、大きな誤りだ、ということを安永は言いたいのである.これはファントム空間論への布石である.彼はもっと大きな「基本障碍」があるのではないかと考えるのである.E. MinkowskiやH. Bergson, L. Binswanger, E. Straus, J. Zutt, K. Goldstein, K. Conrad, 西丸四方らの考えを紹介してゆく.だが、どれも基本障碍を説明するものとしては、扱いが難しかったり、安易な説明的概念になってしまうとした.もし、「基本障碍」があるとすれば、それは相当抽象度が高い次元のものだろうと、彼は想定している.そこで彼は以下の考え方を紹介する.

パターンとは

 彼は「パターン」と呼ぶ概念を提唱する.暫定的訳語に「実存的二元構造」と注を付けているが、この際「パターン」で良い.

「パターン」とはなにか.彼は英国の哲学者、O. S. Wauchope(ウォーコップ)の考え方に示唆を受けているという.私は全く知らないし、哲学史で輝く人物では無い.生年没年も不詳、著作は唯一”Deviation into Sense – The Nature of Explanation”のみであり、英文学者である深瀬基寛(1895-1966)がいなければ、我が国には知られることがなかったであろう、「幻のポケモン」のような人物である.

 私達は、「自」「他」、「質」「量」、「全体」「部分」、「統一」「差別」といったカテゴリーの一対を知っている.これらは基本的に論理学的定着された形式的概念として使われることがほとんどであるが、安永はもう少し突っ込んで考えている.

 これらは皆違ったものではあるが、各々の対の内部構造においてなにか特異なものを共通にもつように思わないだろうか、と読者に問いかける.これらにはなにかある相互連帯的関係が感じられないだろうか、と.どうしたんだ安永くん、急に.

 彼はこうした特異性を以下のように抽出する.「自」「他」の前者をA、後者をBとする.他の三対も同様である.すると、次のような形でAとBは一般化できるという.

一、 A, Bは各々の見地において完全な分極をなし、第三のものCが介在する余地はない.また一方を欠いては成立しない.

二、 体験にAという面の存在すること、それを理解しうることの根拠は、もはや他に求めることは出来ない.それは人が体験自体から出発すれば直接「わかる」というほかない.自らが議論の出発点になりうるのみである(この意味で公理的、明証的である).

三、 上の前提さえあればBは「Aでない方の面」といえばこれに対立し、衝突してくるものとして必ず体験にあらわれてくるゆえ、導かれ、理解されうる.

四、 その逆は成立しない(!)すなわちBを公理として出発することはできないし、また「Bでない方」といったのでは、Aの本質を理解するわけにはいかない.

 この第四項は特に重要であるとする.それはこれらの対が、単純に相対的な、可換的に平等な対立とは言い得ないことを意味している.そしてこのことの承認こそが、この論文で主張する方法論の背骨となる.

 私達が生きている限り、「自」という意味がどんなものかなんとなく知っている.「意識的に」では無いが、「体験的に」知っている.自分のことは自分なのだから直接「わかる」だろう、そうしてわかる以外にない、という理屈だ.だが、「自」でないものが必ず存在する.「他」である.「自」があるからこそ、「自」でないものを「他」ということができるから、命題一、二は理解できるだろう.

 「自」があるからこそ、「他」が理解できる.この流れがすごく大切である.この順序が逆転すると、おかしくなる.私達は「純粋な他」というものを想起できない.「他」を考えれば考えるほど、気が遠くなり「体験の彼岸へ遠ざかるため」理解できない.これは、R. Descartesの「我思う故に我あり」と同じように、どこまでも疑いに疑い抜いた挙げ句、自分だけは疑いようがない、ということと結局は同じである.

 自分とは、私達の体験にとって「他でもない、という以上のなにか」である.「体験世界は自我・非自我でできている」という命題は「了解」できる.しかし次はどうだろうか.

 「体験世界は他・非他」で出来ている」

非他ってなんだよ?ってことになる.意味不明である.つまりどういうことか.もともとの体験構造に、「自」の支配性、優越性を見るのである.ベクトルで表記すると次のようになるだろうか.

$$\overrightarrow{ 自他 }$$ はあり得るが、$$\overrightarrow{ 他自 }$$ はあり得ない.

別の言い方をすれば、

一つの方向(BのAへの関係)においては「論理的必然性」の関係である.

他の方向(AのBへの関係)においては「条件的偶然性」の関係である.

故に$$\overrightarrow{ AB }$$ は「実存」的な方向である.

 もちろん、「自」「他」だけでなく、「質」「量」、「全体」「部分」、「統一」「差別」といった対も同様に考えることができる.こうしたカテゴリに着目し一般化したのはどうもウォーコップが初めてらしい.

 以上を総括しよう.

 前述のような論理関係にあるA、Bという概念対の対立構造を、またさらにそれを生み出す基盤となり、それによって記述されうるような体験の構造関係を、一般に「パターン」と呼ぶ.

 安永はこの「パターン」の説明に相当な紙面を割いている.詳しく知りたくなった人はぜひ書店へ!と言ってもこの本は書店にはほとんどないだろうし、知りたくなった人もあまりいなさそうだから、本論で追補したいと思う.

 次回、統合失調症への適用について.いつも読んでくださりありがとうございます.