いい車とは

sea dawn landscape nature
Photo by Văn Long Bùi on Pexels.com

乗れない日々

 たまには些事を記載させていただきたい.

 最近は全く自分の車(ABA-981MA122)で走りに行くことができておらず私はブー垂れている.大変残念である.走る、というのはただの通勤ではなくて、自由な運転のことをいう.気の向くままにぶらぶら運転する、ということが最近の感染症事情のためできなくなっている.無論、走りに行くのが好きな人は痺れを切らしてあちこち出掛けているに違いないが、他所は他所、うちはうち、である.早く早くコロナウィルス感染症の収束を願うばかりで、どうもすぐには収束しそうにないのは皆さんもご存知のことかと思う.このままだとスキーにも行けないし、気楽に山岡家にも行けないし、カレー屋さんや美味しいレストランにも人気の少ない景勝地にも行けない.変にウロウロして病原を勤務先に移す訳にいかない.感染症の沈静を祈る他ない.コロナウィルスに対して我が家は既に人事は尽くした.これ以上やりようがない.

 通勤では専ら妻のDBA-NSP-130に乗っている.我が家は二台持ちだ.いつも助かっている.これはこれで結構な車である.何が良いのかといえば、街乗りの気楽さもそうだが、ベタ踏みしてもちっとも加速しない非力さにある.四気筒自然吸気エンジンの悲鳴を聴くと今にも機体がバラバラに四散するかと思うが、いつも元気に動いてくれる.まるで昔の私みたいだ.この鬼哭を聴いて、妻は購入当初、新車なのに壊れているのかと思ったらしい.先日高速道路を走っていて前輪がバーストするという恐ろしい目にあった.死ぬかと思った.よくぞ車がスピンしなかったものだ.車のせいではなく、ウェット路面はタイヤに色んなものが吸い付くらしい.雨の日は危険がいっぱいである.

 まぁ、DBA-NSP-130はなんだかんだ言って法規遵守的にも経済的にも安楽な車である.付言すると後席があって、荷物が積めることも長所だ.真夏でもぐおおおおおおおんと音を立てて冷房がよく効く.当たり前か.だが最近私はもっと経済的な車があることに気づいてしまった.その話はしない.

昨今の車のデザインについて

 DBA-NSP-130に限らず、ここ十年くらいの乗用車の意匠はどれも似てきたように思う.鋭い角度の前灯、大型の吸気口、複雑なプレスライン.もし車の前方を顔と例えるのなら、全体的に怖い顔つきになってきたような気がしている.眩しいLED電灯で照らされた険しい眼光と大きな口.全高、全幅、全長が世代交代を経るにつれ伸びてゆく形状.後ろから大きな怖い顔の車に距離を詰められると、どうもハッとしてしまう.特にかつての枢軸国側の車はどれもギラギラしている.連合国側もギラギラしている.全世界ギンギラギンにさりげなく.「アルファード」や「ヴェルファイア」、「デリカD5」なんて大根が擦りおろせそうなグリルをしている.ジョリジョリジョリ……

 私自身もデザインには好き嫌いがある.銀色に輝くクローム鍍金で加飾された造形や巨大なグリルが放つ威圧感は好きでは無い.大きなグリルの端緒はアウディ株式会社の販売する自動車のA6だと記憶しているが、どこもかしこも挙って真似しだしてグリルが大きくなってしまった.近年はバイエルン発動機製造株式会社のグリルも巨大化してしまい、もはや拡張の余地がないように思う.ここ数年のエキゾーストも見た目だけの造形であるし、角張った意匠は流行をなぞっているに過ぎないから、いずれ廃れるような気がしている。シーケンシャルウインカーも好きではない.いつか私の好きな、丸みを帯びたシンプルな造形が流行ると嬉しいなぁと思う.燃焼を不要とする電気自動車の勢力が増せばグリルの縮小は期待できそうだ.

 先進的・知的・革新的・洗練された、などという商品の飾り文句は陳腐化していて、何も沸るものはない.そもそも自社で知的、と言ってしまう所に珍妙な印象を持つ.とは言いつつ、車の性能は着実に向上する傾向にあるし、先進的かどうかは兎も角、どれを買っても特段の差異はないだろう.極端な性能の車でない限り.音声入力も先進性を謳う機能のようだが、「へい、メルセデス」なんていうのは小っ恥ずかしくて私は嫌だ.「おーけー、BMW」というのも面倒だし、認知してくれなかったときの虚しさは想像を絶する.私に言わせれば、そんなことよりも物理スイッチをきれいに並べてくれた方がはるかに便利である.「『温度を下げて』と命令したら、なんと1℃温度をさげてくれました〜賢い!パチパチ」なんて小芝居を披露する評論家はお世辞にも賢いとは言えまい.スイッチの位置さえ覚えてしまえば運転に集中しつつ操作できるのだから.ただ忘れずにいうと四肢の何らかの障碍等がある人にとっても音声入力は運転支援の重要な肝だろうし、「やめろ」というつもりは全然ない.レクサスは生身のオペレータが24時間待機して、地図設定などあれこれやってくれるようだが、深夜2時や3時にも誰かが待機しているかと思うと、その人の適切な睡眠リズムを奪っているような気持ちがして心苦しい.私には不要だ.あとはアンビエントライトも不要だ.

 なんだかんだブーブー言っているが私としてはみんな好きなものを好きなように買ったら良いと思う.本当に.消費者の特権は大排気量だろうと大根おろしだろうと、電気自動車だろうと選ぶ自由があることだ.いろんな車があるのは喜ばしい、ということにしておこう.脱炭素等の環境への配慮や持続可能性の問題は企業や行政の責任にある.もちろん個々人が意識する分にはとても「セクシー」なのだろうが、消費者があーだこーだいうのも限りがある.自分の生活にあう車が良い車に違いない.だから何も気にせず好きな車を買ったら良い.

SUV人気

 流行といえばSport Utility Vehicle(SUV)の人気は止まらずにいる。新車の販売台数の半分はSUVだという声も聞く.何がスポーツなのかはさておいて、居住性と積載性は確かにあるし、全高が高いので視界が良いのも手伝って運転がしやすい点ではユーティリティがあるといえる。色々なSUVを運転する機会があったが確かに楽だ.なんだか運転している気がしない.メーカーも「車」として売るというよりも「ライフスタイル」を売るような宣伝をしているように思う.キャンプサイトや湖畔、雪山、渓谷、砂浜などの背景に映るSUV.見栄えはしそうだ.

 これは私の邪推ではあるが、人気の理由として比較的大型の体躯ゆえに煽られにくく、(一部にとっては)煽るのに適した車なのだろうと思う.断っておくが煽り運転が言語道断なのは当然である.だが実際に公道で大胆に煽っている姿を未だに目撃してしまう.あれだけ世間で注目された事件があったのに.この現象は、体を大きく見せて威圧する生物の本能を、鉄とアルミの塊に宿した人間の性質のそれのように考えてしまう。どうなのだろう.もう一つは、人間の「投影」という防衛機制が生じているように思う.

 車体を大きくして強度をあげればそれなりに重量は増すし、重くなれば加速は鈍る.重ければその分出力を要する.燃費や電費も悪くなる.その分48V電源(マイルドハイブリッド)や電動化などで工夫はしていると思うが、余計重くなる.特別重心が低いわけでもないから操舵するときの揺さ振りはセダンなどのそれよりも大きい.それでもSUVが人気なのは上述した利点にあるのだろう.自転車やカヤック、原付二輪やらキャンプ道具が積めて、腕白キッズも足を伸ばしてニコニコできるメリットは大きい.高価な車であれば後方にも画面がついていて、テレビやら動画を観ることができるらしい.オットマンのような足掛けもある.車中泊もできる.車両の快適性を高めることと、走破性を両立させるという、矛盾する対立項の止揚があると考えれば、いつしか車は弁証学的過程を経て、完全究極体へと近づくのだろうか.そういう意味では将来が楽しみである.

 

 こんな時でも運転を楽しむ

筑波サーキット.こんな日がまた来るといいな.

 時折、バッテリー維持や空気圧点検のために、少しだけABA-981MA122に乗ることもあるが、やはり運転はいいな、と思わせてくれる.流石に猛暑で幌をあけるわけにはいかない.しかし茜色の空にオープンドライブを敢行すると周囲の風景や匂い、音響が鋭敏に感じられる.アクセルペダルを踏み込んで後方のエンジンの乾音の周波数が高くなり、目に見えない粒が一斉にそろい出す感覚は自分の神経系にある作動をニューロモジュレート(Neuromodulate)させるに十分で、あらゆるものを地平の彼方に置き去ってくれる気がする.疲れた身体とともに渋滞を抜けて一息つきながら夕暮れを仰ぐときの感慨は私だけのものである.この時の私は無心でいて、遠く離れた空間に目をやる間だけは世間の喧騒だとか、自分の雑念がすっと抜けてしまう.美しいとか気持ちがいいという安直な形容では済ませられないのだとわかる.

 車に乗っていると無条件に光と音が入ってくる.そのせいで私達は万華鏡の如く感情が揺れる.渋滞や悪質な運転に出くわしたときに抱く陰性感情はときにして避けがたい.単調な人はこうした情動に動かされていたずらにアクセルペダルを踏み込んで最高速を上げるしか無い.それでは運転を享楽することはできぬ.私なりの提案をさせてもらうと、運転を楽しむ、というのは車への信頼を高めることに直結しそうだ.逆を言えば「自分(や家族)にとって」信用できる車に乗ることが楽しむ秘訣といえよう.これは車両の金額と相関することはなくて、DBA-NSP-130でも涅槃に近づいてゆく気持ちで運転することができる.二輪車でも同じことがいえる.眼前の視界に集中しつつ周りの風土に思いを馳せていく.世俗の問題などにとらわれず、静かな気持ちでひたすら内省に徹する.そしていつしか到着地の近くに着いている.そんな車がいい車で、運転を楽しむことができる車なのだろう.その車の構成要素には優れたエンジン、シャーシ、サスペンション、トランスミッション、そして優れたデザインといったものが黒子としてある.だが、市場に出回る車の多くは優れた黒子だ.心配はいらない.要するに、「考え事しながら淡々と移動していたら、いつの間にか着いてしまっていた」ような車がいい車で、実は楽しい車なのだ.

 私にとって車内とは書斎のようなものに等しい.一冊も本はないが.車窓から季節の移ろいを感じ、風の運ぶ景色や温度、光の調度を感じて、考え事にふける.それができるのは私が車を信頼しているからに限る.信頼しているからこそ愛着が湧く.そうなって初めて車は愛車になる.

 

Does the scorpion venom make us dream bright side of Electric vehicle?

Venomous Expect

There are a few things I am curious about. According to the requirement of world society, the internal combustion engines are got rid of as unfit cars these days. As a way of dealing with the environmental issues, I personally think that this is owing to an unavoidable circumstance. However, what worries me is that by this situation suggest that the delight of driving a petrol-powered car may be lost forever. Would I forget the rapturous moment, when throttling an engine the tachometer jumps up high revolution and my sensation when the engine cries with joy? Would I lose memories of the excitement that car and myself accelerates together continuously?

I love the way I insert a key in dashboard and set a starter, then wakes up my partner. For me, it is a bit boring only to push a button, which is quite an easy though. This ritual of starting an engine may gradually fades away, like the sadness that coloured leaves fall from their branch, apart from some automobile manufacturer. But we take for granted that from the tree branch there sprouts young leaves. We are looking forward to see future sprouts. This time, I would like to write about a one of new leaves.

There is an automobile manufacturer in Italy called FIAT. the car maker also known for building “Cinquecento”. We also call it 500 as well. FIAT announced that they produced the brand-new 500. It is a pure electric vehicle. The design very resembles with former 500. I believe that their policy of A segment city car does not change by comparing the width and length of former one and the new one. It is a bit wider and longer than previous model. The body colours shown us were sensual deep navy, pearly shiny sky-blue and sparkling blossom of rose, etcetera. They are all my favourite colours. I am relieved to see its tender design by contrast to the modern car design of sharp gaze like front light, gigantic grill and insensitive angular shape. The new 500 remains coupé! Good-looking car is essential to our mentality. Needless to say that comfy seat, seat position easy to adjust my body are important for me, but I do not care for an ottoman, nor do I need table and television. All I want is just cupholders and battery charging equipment for smartphone, and cruise control. I think that the new 500 is matured and well sophisticated with its price. She is a chic as a whole. My taste for car fit nicely with the electrified 500 in this point of view. I fancy driving a tiny briskly nimble cars. The former one had these characteristics(I will not write about the primary 500 which is known as the car that grandson of Arsène Lupin drove in the japanese film). Cinquecento novantacinque; 595 by Abarth & C. S.p.A has been a spectacularly awesome car. I love the lowest rumbling noise like the stomach groans when drinking down a cup of cooled milk, the machine accelerates with incurable pressure of sounds. The car reminds me of the sense that makes me feel the harmony and unity when changing gears roughly, which share the same perception with us who are naturally brutal, and feels like that the machine car controls its fuel injection system with boldness.

Perhaps I cannot help thinking that the debut of new 500 suggests that Abarth will produce its high performance version of the 500 in the future. But, in order to unleash the power, the more batteries are needed. The more batteries it contains the more weight it has. The lightness gives advantage of driving performance. If it weighs too much, all the goodness of 500 would be spoiled. Internal combustion engine cannot be applied so far. How will they try to modify the vehicle? I must confess that there are a few pessimism in my mind though I am almost looking forward to see the electrified version. There is also an anxiety that my expectation will not come true. If the product will be announced and introduced to Japan, Would the driving pleasure of EV be nice as well as that of petrol vehicle? The one thing, the overwhelming acceleration due to the EV, which can be easily imagined. However, I am not sure about the lingering sensation, which I expect, when stepping on the accelerator.

The symbol of Abarth is the scorpion. Owners and enthusiasts happily speaks “I got poisoned”, The harshness of machine compares with a poison of scorpion. The venom brings us pleasant effects by revving up the rpm with low gear, or groaning sound of idling like troubled intestine. These are our honour to the glories of motorsport legend. So, we would be unhealthily detoxed if these turn to the sound of silence. Otherwise, there might be another venomous effect that is brought by electrification. Is that a new poison that makes us to think we would not need any petrol engines. If it may be true, that would be nice. Polar bears living on the thin ice would also agree with me. It is not true to say that I have no anxiety with electrified vehicle, but I am also expecting the new wave coming with new stimulant. If it is spicy as the Japanese pepper, which is pungent and lingering aroma sprouts in the spring, that must be superb.

I wish that some works which make me think to own someday will arrive in the world.

Thank you for reading so far.

サソリの毒は私達に電気自動車の夢を見せてくれるのか

サソリの毒に期待すること

 気になっていることがある.車から内燃機関が消えていくという時代の要請に従い、世界的に電動化の動きが着々と進んでいる.環境問題に対応するための手段として、私はやむを得ないことだと感じている.しかし、そこに内燃機関が持つ、自動車の官能は損なわれないのだろうか.アクセルペダルを踏み込んだときにレブカウンターが高回転を刻み、エンジンが切なく哭くときに生じる私の感興を、連続的に加速してゆく自分の躯体と興奮を、忘れてしまうことになるのだろうか.

 私は自動車の鍵を差し込んで車のスターターを動かし、エンジンを起動する過程が好きだ.ただボタンを押し込むのはちょっと味気ない.簡単でいいのだが.今後、一部のメーカーを除いて、キーを差し込む儀式もなくなってゆくだろう.色づいた葉が散ってしまうような寂しさを私は感じてしまう.しかし、枝からは再び若葉が出てくることを私達は知っている.どんな若葉が出てくるのかはこれから楽しみだ.今回はそんな若葉の話をしたい.

 FIATというイタリアの自動車会社がある.Cinquecentoという名車で知られるメーカーだ.500とも言う.そのメーカーが新たな500を発表した.電気自動車である.意匠は先代の500によく似ている.わずかに全長や全幅が広がった程度でコンパクトカーとしての思想はぶれていないと思う.発表された外装色は艷やかな濃紺と真珠のような反射の水色、そしてきらめく桜色などである.どれも好みの落ち着いた色だ.全体的に丸みを帯びた姿は、現代の角ばった骨格と鋭い眼光のようなフロントライト、巨大なフロントグリルに抗うような優しい意匠で、私は安心した.しかもクーペだ.やはり見た目は大事だ.座り心地のよい座席、運転姿勢が楽に取れる座面も大切だが、私にオットマンは不要だ.テーブルもテレビも不要だ.ドリンクホルダーと携帯電話の充電機構が備わっていれば良い.内装も幼くない.価格相応の洗練さがある.全体として瀟洒だ.そういう観点で、新型500は私の嗜好に合致していると思う.私は小さくて小気味の良い運転ができる車が好きなのだ.先代はそういう車であった(日本の映画でアルセーヌ・ルパンの孫が運転することで知られる初代500には触れない).そのチューンドカーであるAbarth社のCinquecento novantacinque; 595は特に素晴らしかった.冷たい牛乳を一気に飲んだ時に鳴る腹の音のような唸る低音、度し難い音圧とともに加速する車体.なんとなく雑に燃料を噴射しているような、粗雑なギアチェンジの感覚が元来野放な我々と知覚を共有しているような、親密さと一体感を感じさせる車であった.

 新型の500が登場したということはおそらく、そのチューニングを手掛けるAbarthが何かしらハイパワーモデルを出すのではないかと私は思っている.だが出力を出すにはバッテリーを多く積まないとならない.積むと重量が増す.車にとって軽さは武器だ.せっかくの小気味よさが損なわれてしまう.内燃機関は今後採用出来ない.では一体どのように対策を講じるのだろうか.楽しみであるとともにわずかに不安がよぎる.もしかすれば発表されないかもしれない.仮に発表されて日本に導入されたとしても、その走りは楽しいのだろうか.先に述べた官能とは異なる楽しみがあるのか.期待しても良いのだろうか.電気自動車ゆえのすさまじい加速、それは期待できそうである.しかしアクセルを踏んだ時の加速の伸びは私の期待する感覚に一致するのか.

 Abarthの象徴はサソリだ.そのサソリのもつ猛毒にたとえて、通人や所有者は「毒を浴びた」と嬉しそうに語る.その毒性は消化不良の腸蠕動音のような低音のアイドリング、低速ギアで高回転域を回すときの乾いた爆音といった効能をもたらすのである.これらは過去のモータースポーツの栄光への敬意でもある.それらが静寂に帰するとなると、人々は不健康に解毒してしまうだろう.だがもしかすれば電動化による新たな猛毒があるのかもしれない.それはどんな毒性を持つのだろうか.もう内燃機関に戻らなくてもいいと思わせる新手の毒性だろうか.だとすれば、それは実に喜ばしい.薄い氷の上で暮らすホッキョクグマにも喜ばしいかもしれぬ.不安はあるが、私は電動化の波にまじり新たな刺激も押し寄せてくることを期待している.それが春に芽を出す山椒の若葉のように、香り高くてピリリとするのであれば、なおさら素晴らしい.

 いつか事務所の車として所有したい、そう思わせるような作品が世の中に出てくることを願っている.