The Book of Tea: 20

Acknowledgement

謝辞

訳者あとがき

 かねがね私は「訳者あとがき」というものを書きたいと思っていた.ついにその日が来るとは!私にとって初の長編翻訳の完成だ.訳者あとがき、と記すことができ、大変光栄に思う.すごく嬉しくて感慨深い.

 読者の方はどのように感じてくださっただろうか.拙い翻訳だと思われるのも無理はない.天心の英文が素晴らしいと感じてくださったなら、訳者冥利に尽きる.私の目的はほとんど成就したと言ってよいだろう.彼の「茶の本」は七章に分かれている.どれも彼の知識の奥深さを語り、日本文化が海外に正しく評価されていない怒りと、自国ですらも理解されていない嘆きを冷静に、しかし情熱的に語る.

 天心は若くして英文に親しんだ.Ernest Fenollosa(アーネスト・フェノロサ)と知り合い、助手として彼の美術品収集に助力したことはよく知られている.英語との親和性が高い彼の描く文学世界は、美しく格調高く、しめやかであると思う.特に最終章は圧巻である.利休の死を描く最期の茶会は私にとって、彼がやはり日本人なのだと強く思う特徴があった.

 利休が門弟を招いて、彼らが待合に入った瞬間.時制が現在に回帰するのだ.詳しくいえばAs they look into–からである.これまでの評論はもっぱら過去形で説明を行ってきたのだが、この利休の最期の描写は、弟子たちの悲しみと緊張感に溢れる空気感をリアルタイムで説明するものである.

 この時制に関する日本語の特性は、以前の記事で紹介した.せっかくのなので再度掲載しておこう.

 敢えて出来事を時制変化を用いずに表現することは、特に我が国の文学的物語(narrative)の特徴として、多いに知られているものである.日本語について述べれば、そもそも日本語の文法は現在、過去、未来を鋭く区別しない.

 心のうちに祈念して、目を見ひらいひたれば、風も少し吹よはり、扇も射よげにぞなったりける.与一鏑をとってつがひ、よっぴいてひやうどはなつ.

 上記は「平家物語」において、那須与一が沖の波間に揺れる小舟に差し出した扇を海岸から射落とす場面である.過ぎ去った出来事を語りながら、現在形の文を混入させて臨場感を作り出す技法ははるか以前から知られている.矢を放つ主人公の動作のみが現在形である.神仏への祈念と風の静まりから決定的行動へ移る描写の現在形は際立ち、その一瞬の光景を浮かび上がらせる.これは決して暴力的というわけにはいかないだろうが、一気に読み手、聞き手を引き込むという点で、強力な誘導である.強制力を持つわけである.

 一方、近代ヨーロッパ語の場合は、動詞の語尾変化や助動詞と動詞の併用により、出来事の過去・現在・未来を、文法的に明示する.その中でも厳格な文法から一定の緩みを見ることができる.以下の例文を示す.

Alors, une idée l’exaspéra. C’était une saleté que ces dames voulaient lui faire en se conduisant mal chez elle. Oh! Elle voyait clair! …

Émile Zola, Vuillaume, 1876

 その時、一つの考えが頭をよぎって彼女は激しく苛立った.このご婦人方は、彼女の家で無作法に振る舞って、嫌がらせをしたんだ.ああ、はっきりわかるわ.

Dora stopped listening because a dreadful thought had struck her. She ought to give up her seat. She rejected the thought, but it came back. There was no doubt about it. 

Iris Murdoch, The Bell, 1958

 ドーラは恐ろしい考えが急に頭に浮かんできて、会話に耳を傾けるのをやめた.私が席をゆずるのが当然だわ.ドーラはその考えを打ち消したが、再び考えは戻ってきた.譲らなければならない.

 上記はいずれも登場人物の意識にのぼった考えを描出した文である.仏文では自由間接話法(Discours Indirect Libre/Style Indirect Libre)とよび、英文では描出話法(Represented Speech)ともいう.こうした技法を意識の流れ手法(Stream of Consciousness Technique)と呼ぶようである.このような技法は伝達動詞の支配から自由になる話法であるが、時制は必ず間接話法と同様に照応を求められる.時制は自由にはならず、時制が日本語のように読者を現在へ引き込むのではない.読者・聴者の意識が、あたかも作中の登場人物の意識であるかのように、過去へ誘うのであろう.強い言い方をすれば過去へ引きずり込むのだろう.

「記憶/物語」を読んで 2

 寡聞にして私は、時制のゆるい英文表現をこれ以外に知らない.おそらくあるのだろうが、限定的なのだろうと思われる.岡倉天心が日本人であるからこそ、彼以外に為し得ない日英ハイブリッドとも言える文学的表現の醍醐味を私達は味わうことができる.少なくとも私はそのように理解し、心躍らせながら作品を読み、翻訳をした.もう一度是非ご覧いただこう.In art the Present is the eternal.という句が沁みる.

–On the day destined for his self-immolation, Rikiu invited his chief disciples to a last tea-ceremony. Mournfully at the appointed time the guests met at the portico. As they look into the garden path trees seem to shudder, and in the rustling of their leaves are heard the whispers of homeless ghosts. Like solemn sentinels before the gates of Hades stand the grey stone lanterns. A wave of rare incense is wafted from the tea-room; it is the summons which bids the guests to enter. One by one they advance and take their places. In the tokonoma hangs a kakenoma, –a wonderful writing by an ancient monk dealing with the evanescence of all earthly things. The singing kettle, as it boils over the brazier, sounds like some cicada pouring forth this woes to departing summer. Soon the host enters the rooms. Each in turn is served with tea, and each in turn silently drains his cup, the host last of all. According to established etiquette, the chief guest now asks permission to examine the tea-equipage. Rikiu places the various articles before them, with the kakemono. After all have expressed admiration of their beauty, Rikiu presents one of them to each of the assembled company as a souvenir. The bowl alone he keeps. ‘Never again shall this cup, polluted by the lips of misfortune, be used by man.” He speaks, and breaks the vessel into fragments.

The ceremony is over; the guest with difficulty restraining their tears, take their last farewell and leave the room. One one only, the nearest and dearest, is requested to remain and the end. Rikiu then removes his tea-gown and carefully folds it upon the mat, thereby disclosing the immaculate white death robe which it had hitherto concealed. Tenderly he gazes on the shining blade of the fatal dagger, and in exquisite verse thus addresses it:

 すべて時制は現在形なのだ.天心はおそらく、このことを意図して書いたのではないか.だとすれば天心は大変な才覚を忍ばせている.ずるいというか恨めしいというか.利休の門弟が入室した瞬間に、時制が現在に回帰するのだ.私達は、利休とその門弟との最期の茶会に参席しているような臨場感に包まれる.ぐいと一気に引き込まれる.そして利休が自刃する瞬間までもが、現在にある.そう、自刃し、辞世の句を読むまでは.

“Welcome to thee,

O sword of eternity!

Through Buddha

And through Dharma alike

Thou hast cleft thy way.”

With a smile upon his face Rikiu passed forth into the unknown.

 利休の絶唱は原文では以下のものとなる.

人生七十 力囲希咄 吾這宝剣 祖仏共殺提る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛

「力囲希咄」(りきいきとつ)とは「腸をしぼって思わず発する一喝、一声」を言う.唐木順三をして「㘞地一声の怒電」というようである.静かな諦念とは相容れない激しい気負いなのだという.

「㘞地一声の怒電はまさに対立の頂点であったが故に、その故を以て対立を超える」

 これはヘーゲルの弁証法的な考えに通ずる命題である.

 あまりイメージがつかない人は、武論尊による「北斗の拳」が大いに参考になるだろう.ケンシロウに経絡秘孔を突かれ敗北する人々は「あべし」、「ひでぶ」といった声をあげて死亡する.これこそ力囲希咄、㘞地一声の怒電であろう.形容しがたい声とでもいうのか.断末魔の叫びともいえる.この声を以て人は死を、諦念を超越しようとする.

 だが、天心の英文にはその「力囲希咄」に相応するものがない.なぜか.様々な訳者のあとがきにもその考察がある.決して、天心にとって利休の死は弁証法的な対立がテーマではなかった.止揚することが本意ではない.利休が彼岸へ渡ることで、

Harmony with the great rhythm of the universe

となることが重要なのであったという.私も強く同調する.天心にとって死の超克などどうでもよかった.従容として死を受け入れ、永遠の世界へ潔く旅立つことを良しとした.それが日本人の、日本文化の真髄なのだと.これは手塚治虫による「火の鳥」が理解の参考になる.登場人物は皆生への希求が甚だしく、死を恐れる.しかし、火の鳥は死を恐れず、一つの超生命体ともいうべき「コスモゾーン」への融合を受け入れるよう優しくも厳しく諭す.おそらく、天心の思い描く世界はこの「コスモゾーン」への融合、死との融和であった.幸いにして、この思想は引き継がれた.

 しかし、不幸にして天心は敗北した.西洋文明の怒涛のロジックに負けた.もちろん、我々も負けた.死をいたずらに美化する我が国の虚飾が作られた.圧倒的な敗北だ.作品には天心の諦観が、ペシミズムが浮かばれる.そして、我々の中に、私のようなものが天心の心情に投影を果たす.だから、天心の労苦は無駄ではない.天心は負けたが、彼の理念は生き続けている.この作品も宇宙の偉大な調律に調和し、世界中で愛され続けているのだ.私もこの調律に調和すべく、拙い翻訳を行ったわけである.翻訳の質としては敗北だが、これはこれでよい.こうして皆さんにお届けできたのだから.

本当にありがとうございました.

私の時間論:序

 ようやく取り組んでいたG. W. F. Hegel(ヘーゲル)の歴史哲学講義を読み終えようとしている.人間の精神が自由に向かって進んでいく過程が世界の歴史である、という彼の考えはその後の歴史哲学を推し進めてゆく一つの偉大な動きだと思う.精神が自由を求めて成長する冒険譚という筋書きは私の好奇心ををくすぐる.しかし私にとっては結局精神とはなんだろうかということが気になっている.以前記事にした、P. Valéry(ヴァレリー)と精神についての拙い私見はHegel(ヘーゲル)後のものなので、彼が精神をどう捉えているかは、別の著作を読むことにしたい.

 彼の歴史観は人間が自由を求めて前進してゆく、歴史的人間中心主義である.これは「日本文化の時間と空間」(加藤周一著)にも言及されている.つまりは近代ヨーロッパの歴史意識を生んだユダヤ・キリスト教的な時間の捉え方をしている.天地創造から始まり、世界の終末を述べる.時間は始めと終わりがある線分、一回限りの有限の非可逆的な時間経過をたどるという.有限の時間はその全体を考え、見透かすことができる.歴史的出来事の意味は過去・未来の出来事との関係において決定される.時間は構造化され、特定の終局へ絶えず前進してゆく考えは目標へ向かう運動としての歴史という観念に結びつく.これは”Exodus”「出エジプト記」に代表されるという.イスラエル人がエジプトを出て約束の地に建国したことは、彼らが彼ら自身の自由意志で選択したことにほかならない.歴史は人間の自由な決断の結果であるとする.イスラエル人は歴史記述の関心を歴史の目標と歴史的出来事の間の関係に注いだのである.この時間概念は現在のヨーロッパ世界の下地となっていることに私は驚いたのであったが、時間の類型に関する彼の著述を読み進めていくと、さらに私の狭量さが浮かび上がる.時間の類型はいくつかの概念に分類して考えられるという.

 一つは上に述べた、有限の線分を前進する時間である.二つ目は、古代ギリシア人による円周上を無限に循環する時間、三つ目は古代中国での無限の直線を一定方向に流れる時間、第四は始めなく終わりある時間.弥勒信仰による一種の終末論が挙げられる.第五は始めあり終わりない時間で、唐代の中国で現れた末法思想に基づく考えである.

 どれもそれぞれの文化的背景に沿った怜悧な分析である.では実際のところ私達はどんな時間の中に生きているのだろうか.私は高校物理学でニュートン力学を学んだ.この力学はユークリッド空間で規定され、時間は過去から未来へ均一に進む.数学においても時間は均一に進行するものとして取り扱った.でなければ到底私では理解できなくなってしまう.相対性理論は知識として知っている.光速は不変の速度であるから異なる慣性系では時空間が歪む.日常の物理学で光速に近い速度のものは想定しないから近似してニュートン力学を用いてよいことはおおよそ分かる.だいたい地球に住んでいる人にとっては時間の進み方は均一なのであろう.ただ時間の始原と終末については言及がない.言及がないのは当然であろう.任意の時間を考えれば問題は設定できるのだから.よほど凝った問題を作る場合を除く.しかし、始原は気になるだろう.始めが気になる人は終わりも気になるだろう.始めに関してはビッグバン(膨張宇宙説)のこと、というのはおそらく教養として広く知られていると思う.では終局はどうなのか.A. Augustinus(アウグスティヌス)に言わせれば「私は知らない」.知っている人は極めて少ないと思う.確信の水準で知っている人は何か深刻な問題を抱えている可能性がある.私にそっと教えてほしい.

 私達の暮らす世界の時間がどのようなものかよくわからない以上、歴史の記述もそれが本当に正しいのか、ちょっと怪しくなってくる.いや、決してオカルト的話に帰結させたいのではなくて、私達がごく当たり前に思っているであろう、「時間は過去から未来へ直線を前進する流れ」が至極受け入れやすくて、説明も容易すぎるのである.感覚的に正しい感じはする.いい香りのするご飯は美味しいに違いないという直感と似ている.フェラーリのつくる新型V型8気筒エンジンは素晴らしい音を奏でるに決まっているという感覚でもある.薫香を黄昏に溶かす葉巻の味は格別なのかもしれない.しかし、当たり前のことを少しうがった見方で捉えてみるのが私の癖である.ただこうした疑問に取り合ってくれる人は少ない.そもそも問題提起できる場所も少ないように思う.「いいからさっさとご飯たべちゃいなさい」「そういうのいいから仕事終わった?」「でも君は〇〇卒だよねぇ、それじゃあいくら考えてもだめさ」「吾郎クン、変わってるよネ」そんなことを言われる気がしてしまう.話を戻す.では、循環する時間を考えると説明しやすいものはあるか.天体運動や四季の移ろいがある地域では説得力があるかもしれない.循環するのに円運動である必要はあるか.楕円か.富士スピードウェイのような複合する曲線か.ボロメオの輪でもいいじゃないか.歴史は繰り返すという言葉もある.栄枯盛衰、盛者必衰の理.火葬場で燃えた私の遺骨は埋葬されてから大地の微生物によって分解され、土壌を豊かにする.新たな生命の糧となる.これでは輪廻になってしまう.しかし輪廻では歴史を記述することは難しそうである.できなくはないが手塚治虫くらいである.何を言いたいのかわからない方はぜひ「火の鳥」をご覧になってほしい.兎にも角にもあらゆる事象を一元的に説明できる強い言説が必要だ.私の頭の中も駄菓子の超ひもQが絡み合ってしまうかのようにこんがらがってしまった.

 こういうときはどうするか.とりあえず寝るに限る.その後に新しい著作を読んで知識を得る.できれば議論をする.ということになりそうだ.このテーマはシリーズ化してみようと思っているので、自分なりに理解を深めてから思考を整理すべく文章に出力したい次第である.次作にご期待頂ければ幸いである.