虚しさに包まれて

They shall not grow old

 つい最近「They shall not grow old」という映画を観た.ニュージーランド・英国の合作であるこの映画はThe Great War、つまり第一次世界大戦のさなかに撮影された映像を現代に再編集したドキュメンタリーである.監督はPeter Jackson氏.「指輪物語」の映像化で有名な人物である.氏の祖父が大戦に従軍したことも大きいのか、かなりの資料から抽出した映像と音声は語り得ぬものと語り得るものをうまく融合させ、当時の空気感を現代に再帰させている.なにかと「AIでフルカラーに、当時の映像を再現!!」ということばかりに関心が行きがちだが、着色技術は今に始まったことではない.ただ、我々視聴者の映像に対する没入感を一層強化していることに違いは無い.

 戦争の直前から映画は始まる.戦争の始まりは人々にとって唐突であった.戦争と聞いても皆ポカンとせざるを得ない、現実味の薄さがインタビューから伺われる.やがて戦争へ行くことは一種の冒険であるかのように、欧州の青年たちの心を掻き立てた.「クリスマスまでには終わるさ」という淡い期待を粉微塵に破壊する機関銃と毒ガスと塹壕戦が彼らを待っていた.このような台詞はよく知られているだろう.勇み足で戦地へ赴く若者の姿は数多く記録されている.皆ニコニコしているのだ.若者がじゃれ合いふざけ合う姿は軍服を除けば、世界中でどこでもありそうな光景である.

 渡仏した英国兵は戦線が膠着していることを知る.各国が開発した新兵器は、いかに効率的に素早く敵を抹殺するかを考えて作られたはずだった.しかし、これらはかえって戦線が停滞する要因となった.ライフリング機構によって射程と命中率が向上し、弾道学の研究は砲弾の軌道を計算することに寄与した.だから皆塹壕を掘って防ぐことにした.雨でぬかるんだ塹壕は悪質な衛生環境で、凍傷と感染症が兵士を襲い、足が真っ黒になって壊死してしまうものも多くいた.黄色い毒ガスも兵士の恐怖を駆り立てた.繰り返し響く砲弾の爆発音はシェルショックと呼ばれる現象を引き起こし、激しい痙攣と失立失歩の症状は、いわばヒステリーの一つとされた.これは後の戦争神経症や心的外傷の研究の嚆矢となった.いまでもYouTubeでシェルショックの症状を観ることができるが、この症状の苛烈さは凄まじい.

 やがて戦争は終わり、生き残ったものはようやく故郷に帰ることができた.だが証言から語られる言葉は切ない.故郷の人からは一体どの面をさげて帰ってきたのか、というような心無い言葉をかけられ、復員した兵士たちは就労につくことを断られたものもいた.暖かく迎えてくれると思いきや、もはや自分の居場所はなかったのだった.銃後の世界ではまったく戦地の様子は知られなかった.知ろうともしなかったのかもしれない.もちろん歓待した家族も合っただろう.だが全員がそうではなかった.国のため、正義のためという名目で命がけで戦ったはずなのに、どういうわけか何もかもが虚しい.戦争における一つの核心を浮き上がらせているように思う.

 哀愁に満ちて映画は終わる.エンディングで流れる当時の流行曲「Mademoiselle from Armentière」は底抜けに明るい陽気な音楽ではあるが、映像を一通り観終えた直後には「Mademoiselle from Armentière, parlez-vous?」とひたすら繰り返す歌詞に当時の空虚感を感じてしまう.しつこいほどに繰り返されるこの英語とフランス語のごちゃまぜのフレーズは、深い意味もなく延々と続く.

 そういうわけで私は、戦争を題材にした映画を年末年始に続き、胸糞悪い後味とともに興味深く観ることができたのだった.この映画を手放しで賛美するつもりは無いが、いわゆるリアリズムを追求したどこぞの戦争映画よりも見応えがある.

臓躁病

この映画を観て私は日本における、ある特集を思い出した.2018年にNHKスペシャルで放映された番組は私の中で強く印象深い.「隠された日本兵のトラウマ〜陸軍病院8002人の”病床日誌”〜」と題したドキュメンタリーは、太平洋戦争において、軍部が日本兵の精神疾患を隠蔽しようとした目論見から辛くも逃れ、約8000例の病床日誌=カルテが千葉県の国府台病院で保存されていたことを明らかにする.その日誌から伺われる内容からは戦争の邪悪さが極まりない.私は形容し難い深い悲しみに包まれた.今でもNHKオンデマンドで110円で視聴することができる.自販機で水を買うつもりで我々はおぞましい歴史に思いをはせることができる.

 先程述べたシェルショックは、第一次世界大戦で顕著だった戦争の傷跡だが、その現象は日本の軍部も承知していたようだ.しかし皇軍にはそんなものは一人もいない、という一種の虚栄によって隠蔽されてしまった.とはいっても戦線の拡大に伴って国府台病院には毎年1000人近い患者が入院した.軍部は密かに優秀な医師を集め、戦争神経症の研究に当たらせたのだという.ここで神経症について軽く触れておくと、神経症とは現在の不安障碍、強迫性障碍、ストレス障碍(適応障碍)、解離性障碍身体表現性障碍、摂食障碍を包摂した症候群と理解するほうが良いだろう.正式な定義はされていないように思う.神経症という言葉は今となっては極めて多義的で曖昧であるために正式な診断には用いない.さきほどの下位分類の病名を用いる.さて、神経症は、ジークムント・フロイトの「ヒステリー」研究から始まった.ヒステリーという言葉は子宮を語源とする現象であり、古くは「子宮に何か悪いものがつかえている、飛び跳ねている」ような理解をされた.明治期の精神医学者、呉秀三は「ヒステリー」を「臓躁病」と訳しているが、これは「金匱要略」という古典にある婦人臓躁=子宮虚血にちなんでいる.こういう命名センスはすごい.

 鋭い方ならお気づきだろうが、ヒステリーは太古に子宮を起源とする現象と考えられたために女性特有の症候とみなされた.しかしながら、第一次世界大戦によって痙攣、失立失歩、転換症状が男性の兵士に続々と出現したことから、ヒステリーは男性にもおこるものだという理解が次第になされた.そして研究視察に訪れた日本の軍医もそのような理解をしつつあった.だが、事態が我が国に及ぶと、すなわち太平洋戦争が勃発し戦線が中国大陸や太平洋に拡大するにつれて、先の大戦におけるシェルショックのような症例が出現した.軍部はこの事実を隠すために、こうした戦争神経症を皆、「臓躁病」として、世間の人々には病態の憶測を困難にさせた.軍部は戦争期に精神疾患に罹患した兵士の一部を国府台陸軍病院に収容させるのであった.現存するカルテは約8000例であるが、それはごく一部であろう.兵站と輸送路の貧しさを考えれば、戦線で見捨てられ診断に至らなかった症例が多くいたはずである.自殺例も多かったであろう.

 その国府台陸軍病院に入院している症例を写した映像がある.まぎれもなくシェルショックである.意識清明だが激しく四肢を痙攣させるものもいれば、腕が震えてしまってコップの水を飲めないものもいる.全く歩けないものもいる.そばにいる軍医は完全に困惑している.こうした症例の処遇にはかなり苦労したであろう.力のある若い男性が痙攣すれば無理にでも鎮静をかけるしかないが、痙攣しては内服も静脈注射もできないために鎮静剤の筋注しかない.1940年代に使用可能な薬剤はかなり限られているだろうから、バルビツールくらいが関の山だろうか.あとは拘束か隔離をするほかなかったはずである.おそらく.治療という治療はほとんどできなかったのではないか.

 ドキュメンタリーを観ると、非常に度し難い過去を知る.戦線に送られる兵士は徴兵制に基づき、徴兵検査を経て、甲乙丙に分けられる.しかし検査で要件を満たさないものがいれば、徴兵にとられることはなかった.建前としては.当時知的障碍に相当するものは精神薄弱や白痴とされ、本来は除外されるべきであった.しかし戦線の長期化と兵力の減少から、そうした人々さえも徴兵にとるようになっていたのだという.当時の診療録には年齢は知能検査で四歳相当とある症例が記録されている.年齢を尋ねても「___わかりません」、人と馬の相違を答えよ「___わかりません」こうした人々はほとんどが温厚かつ優しい性格であり、農業や家事手伝いをしてすごしていたはずだったのに、戦争に駆り出され狂気の渦に飲まれ、ぼろぼろにされてしまった.上官の私的制裁によって理不尽な暴行を受けたものもいた.許されぬ制裁が彼らの心をますます蝕んだ.

 戦争神経症だけでなく、精神分裂病として不可逆的な心の傷を負ったものもいた.典型的な例を出そう.結婚してまだ数年.生まれたばかりのこどもがいる20代の父親.彼のもとに召集令状が届き、山東省の戦地に送られる.戦地は中国共産党が率いる八路軍が潜伏しており、市民かゲリラ兵か見分けがつかない状態であった.いつ襲われるかわからない恐怖.周りの人が敵にみえる.こうした極度の緊張感.年端もいかない少年を殺してしまったために、いつまでも殺人の感触がぬぐえない.兵士の日誌には「いつまでも殺した記憶が消えない」と独白している.苦痛を消すことはできない.やがて彼に狂気が訪れる.徐々に幻覚妄想が出現する.「死ね」という声が消えない.「死ね.死ね.死ね____」戦争という緊迫した状況下で分裂病を発病することは、クラウス・コンラートの「分裂病のはじまり」に詳しい.一度精神に破綻をきたせば、突如大声を出すし、刀を振り回すこともあった.幸運にも帰国して実家にかえったとしても、社会は冷たい.「生きて虜囚の辱めを受けず」である社会は生きて帰ることを許さなかったし、ましてや狂人を食わせる飯もない.家族も肩身がせまい.もちろん健康な成人男性だけではなく、さきほどの知的障碍に相当する者の心も容易に蝕まれた.戦争が終わっても彼らには恩給すらなかった.未復員という、帰る先すらないものが数多くいたそうだ.家に帰ったとしても結局は座敷牢に閉じ込められた.私宅監置は1950年まで続いた.戦争は糞だ.

 こうしたことを知るだけでも十分痛ましいのに、これを隠蔽した事実が自分の国にあることは大変な悲しみである.ドン引きである.当時治療方法が無いとはいえ、つくづく人材を大切にしない時代であったと思うし、そういう名残が今でも残っているこの国は過去から学んでいないように思ってしまう.呉秀三の「わがくに十何万の精神病者は実にこのやまいを受けたるの不幸のに、このに生まれたるの不幸をぬるものというべし」という言葉はよく沁みる.この言葉が現代に語り継がれているのは、そういうことなのだろう.自身が当事者や周囲の援助者でないものにとってこの事実は全くと言っていいほど知る機会が無い.自分は決してそうならないであろうという傲慢さが垣間見える.

 私は正食に言って今の精神科医療に対して楽観できていない.誤解なくいえば熱心に従事されている方には心から尊敬している.だが学会や製薬会社のキャッチがかつてよりもはるかに空虚に感じられる.五分で精神療法は提供出来ない.そう思うのは私が病気だからか?現実をみないでものを語っているからか?臨床の前線にいないからか?今の私は到底戦線に復帰できそうも無い.耐え難い屈辱と、私にかけられた悪辣な呪詛がレジリエンスを弱らせているように思う.だがなんとか腐らずに怒りを昇華させて、できる限りの医療を実践するしかない.私は怒りを出すことが苦手だが、怒ることだってある.この数年ずっと怒っている.