ファントムドライブ

オキゴンドウとファントム

 冷たい夜に車を運転をしていてびっくりしたことがある.あるとき前方に巨大な車体を認めた.尾灯の形は見慣れぬもので、自動車診断学の知識を活かしてなんとかロールス・ロイスのそれだとわかったが、夜間だと車種が同定しづらい.前方100mではわからなかった.自然と近づいて追い越してゆく際に横目で見やると、ぎょぎょぎょぎょ!以前取り上げたファントムVIIIであった.なんというデカさ!車体があまりにもでかすぎる.ドレッドノート戦艦を基準にして例えられる「超弩級」という言葉はファントムにふさわしいと思った.だが誤解なくいうと私は決してその車の意匠は好きではないし、ほしいとも思わない.ではなんでそんな話をするのか.本当は好きなんじゃないのか.そう思った方は、ただの小市民が体長5mのオキゴンドウを飼育したいと思うだろうかと考えてほしい.見た目の好みもあってもいいじゃないか.とはいっても水族館で見ればワクワクするものだ.ただ私は同じようにファントムを見てワクワクしただけだ.その夜はオキゴンドウがゆったりと海遊するように、ファントムも悠々と公道を駆け抜けていた.

 同時に私は、密かにリスペクトしている安永浩の、あるエッセイの表題を思い出した.

ファントム空間は疾走する

 こういうことを書くと、中二病だとか、キザだとか、カッコマンだといじめてくる人がいる.これは安永のオリジナルであり、彼はジャン・コクトーらしさを想起して悦に浸っていると述べている.私はジャン・コクトー風情を理解しないのだが、この句が意味するところを以下の文章を引用して説明しよう.

 当時私は、停年後始めた楽しみとして、自動車運転に凝っていたので、ふとこの言葉が頭に浮かんだのである.つまり運転しているときの注意空間は、前後100メートル位、左右が各10メートル位の透明な紡錘状をしているように思えて、この目に見えない空間が、時速40−60キロで車とともに疾走している、というところをイメージしたのである.もちろんどの運転者でも同じだから、路上は無数のファントム空間が疾走し、交錯していることになり、ぶつかる音はしないが大変な混雑ぶり、とこの「目」からは見える…….

 これを見て私は歓喜した.以前の記事で紹介した意識的知覚系Rファントム機能系Ph仮設図式系HSの例えとおよそ同じでは無いか、と.どうか夕方の首都高速6号線小菅ジャンクションのことを考えていただきたい.運転が上手ではない私から言わせてもらうとあれはひどい所だ.あれは左右から無数の車が合流をしかけあう無慈悲な戦場である.まるで海中をアジやイカやカサゴやボラがヒューヒューと泳ぎ回り、お互いにぶつからないように巧みに交錯する.そして時折オキゴンドウやジンベイザメがぬぼーっと周りを威圧して泳ぎ、コバンザメが便乗して右左折をする.はぐれたイワシの身である自分としては緊張する場面である.とはいえ、私の考えていた事、車に例えていたことが同じであったのは僥倖で、一瞬安永と400%くらいシンクロしたような感覚となった.案外思索にふけるのは悪くないなと思った.

 無数の意思が、互いに干渉しないように(時として干渉してしまうが)走り抜けていくさまを見ると、私は背景にファントム機能を意識せずにはいられない.おそらく脳科学の立場からいえば「身体感覚の延長」という表現になるのだろうが、私は「ファントム空間が疾走する」方がしっくりくる.より説明的だと思っている.ではどのように説明的か、というとその説明はなかなか難しい.まずは特集「ファントム空間論」をはじめからご覧になっていただければと思う.いつか脳科学の立場から幻肢を取り上げて説明を試みたいとも思う.

ファントム短縮2.0

 なんどもなんども読み返してもわからない部分というのがあった.彼の著書に図示されているファントム短縮の説明が大変抽象的?(もしくは自分がポンコツ)なので一つの図を理解するのにものすごく時間がかかってしまって、なかなか前に進めない感覚があったのである.「ファントム短縮」というタイトルで昨年の12月25日に投稿をしたときは、その説明は割と表層をなぞるような記事に過ぎず、各論に迫りきれなかった.まずはおさらいをしておく.

 ファントム空間(こころの空間)とは、体験可能な至近点(自分の身近なところ)から至遠点(赤の他人)までの空間のことをいう.その至近極からその時のイメージまでの体験距離をファントム距離、といい(こころの距離)、これを保っている特殊エネルギー実態の働きをファントム機能(こころの機能)と呼称する.ファントム距離はビヨヨ〜ンとゴムまりのように多少伸び縮みする.だがたいていは至適定常距離にある.つまりほどほどの距離感を保つことができている.知的イメージはその端に現れる.知的イメージというのは、「家族」、「友人」、「職場の人間」といった他者の存在と考えてよい.それなりの距離感を自分なりに掴んでいる.それがファントム機能だ.この機能が正常であれば、習慣的に作られた世界の距離的構造の認識図式とファントム機能とはそのファントム距離測定において全く一致している.

 ところがファントム機能のなんらかの失調により、ファントムエネルギーが低下してしまったとする.だが、自身はそれに気づかない.当人にとって実際のイメージはその「予期された距離」にはなかった.自身はよろめき、錯覚運動が起こる.どのような錯覚運動か.前回の記事で例えたエレベータをもとに考えてみる.エレベータにおいて自分が完全な静止系にいると思っていたら実は自分が等速運動する慣性系にいて、なおかつ突如急制動し、自分が浮き上がるような感覚である.これは「不意打ち」に近い仕打ちだ.当然狼狽するだろう.安永はこのような「不意打ち」をファントム短縮と呼んだ.

 

 この議論はもう少し深堀りすることができるようだ.安永は以下のように議論を進める.知覚体験における意識全体のあり方と、表象体験における意識全体のあり方と、表象体験における意識全体のあり方は異なっている、と.ではどう異なるのか.彼はジャン・ポール・サルトルの現象学的考察を取り上げている.残念ながら私にはサルトルの考えはよくわからない.だが、要するに知覚体験には「外界から流入するたえざる充実」という激しい緊張関係がある一方で、表象世界にはそれがない.おそらくは、視覚のような知覚体験は、失明するか後頭葉を損傷するなどして、神経系を遮断しない限り、無条件に情報が入ってくる.嗅細胞が破壊されなければ、うなぎの蒲焼きの薫香から逃れることができない.それらに対して主体は何らかの想起をする.イメージする、というと曖昧だし、せっかくなので現象学用語のノエシスを使おう.ノエシスが作用してなにがしかのノエマが生じる.つまり、インプットとアウトプットという二つの方向性が生じている.一方、表象というのは、そもそもが抽象的なものだから、知覚情報として入ってくるものではなく、あくまで思念するものである.これは脳内でアウトプットするのみであり、一方向的である.そんなに間違ったことは言っていないだろう.この話は錯視の話にも通ずる.

 ファントム的にいえば、(ファントム的、という表現は安永らしくて好きだ)表象空間は、現実にはないものを指向する、という意味でまさにファントム空間である、と安永はいう.知覚空間では主観的ファントム空間は、さらに現実知覚の流入と充実によって二重の枠付を受けている.この現実の枠付は主観で左右するわけにはいかない独自の源泉をもっている.

 このような相違は「ファントム短縮」の仮定を導入した場合、どのような結果に、どのような現象として現れるだろうか、という問題提起をする.一つは「遠ざかり」、もう一つは「自我収縮」である.ファントム短縮が主観的には、世界自体の錯覚運動=対象距離感の異様の離隔として体験される場合が、「遠ざかり」、自分自身について体験する場合は「自我収縮」となる.……らしいのだが、どうにもこうにもよくわからない.さらに、彼が追補するのは「ファントム短縮」は対象の「遠ざかり」だけでなく、自身の「遠ざかり」が現れてもよいはずだ、という論である.このあたりで私はしばらく躓いていた.

 「この図(図1)を見ていただければわかると思うが」と本には記してあるのだが、私には何度見直してもよくわからなかったことが大きい.何百回見直しただろうか.別に著者を責めるつもりはない.私の理解力を嘆くほかないのか、それとも他の読者にも難解なのか.これは感想を聞いてみたいところだ.

 

図1:置き去りと自我収縮、その両方について安永が考案した図

  あれから幾星霜、なんとかわかったような気がしてきた.自分なりに紙に書いて図示するのが一番良かった.おそらく以下の二つの図として再構成あるいは再解釈すると、わかりやすいのではないかと思う.

 図2を取り上げる.自分と他者がいる.その間は物理的な距離が存在しているとしよう.つまり5メートルや、6フィートだとか、六尺といった具合である.では5メートルとしよう.もしファントム機能が健全であれば、自分と他者の間には5メートルと等しい体感的な距離(ファントム距離)が生成される.通常、ファントムと現実の距離が一致している.そして主体はそのことは自明だとしている.これが健常例である.

 もし、ファントム機能が破綻したとすると、これは無自覚に生じるので、常に主体(R)は気づかないことが前提になる.ファントム空間の射程が文字通り短縮すると、体感可能な空間は他者まで及ぶことはない.及ぶことができない.この場合ファントム距離はそのまま5メートルだと錯覚したままなのであるから、相対的に物理的距離は(そもそもが5メートルにもかかわらず)遠く空虚に感じられる.他者が「他極」から抜け出すような見え方にもなる.この距離感は決して届くことのないもので、たどり着くことのない空隙である.

 もう一つの例は、自己(R)が自極(HS)から「抜け出す」場合である.最初の例は「対象が次第に遠くに離れていく」図式であったが、次の例は「自分(R)」が「自極(HS)から遠ざかっていく」体験といえる.幽体離脱という怪奇現象に似ていると思う.イメージとして「ジョジョの奇妙な冒険」第三部以降に出現するスタンド:幽波紋にも似ている.それから例1と同じように、自身はこのファントム短縮を自覚しない.しかに背後に誰か(HS)がいる感覚.もちろん自分と他人との距離は変わらず5メートルなのだが、自分自身の位置感覚が奇妙に感じられる.

「えっなんで俺が後ろにいんの?」

 最後は混合例である.この場合は、ファントム空間が自他ともに展開されていない場合で、「置き去り」と「自我収縮」を同時にくらってしまったと考える.自分(R)の背後には自分(に似たような誰か; HS)がいる感覚.そして周りの人々は妙によそよそしい.みんな遠巻きに自分を見ている.この感覚は恐ろしい.

図2:健常のファントムとファントム短縮の一例、置き去り
図3:ファントム短縮の例、自我収縮と混合

 このような体験はあくまで仮定であって、安永は何度も繰り返しているのだが、このように考えると症例が語る言葉が実にTheoreticalに理解できるという.私はようやく同意できる立場になった.症例提示を行おう.安永の症例を原文通り引用してみる.

<症例1>

「私がいましゃべっているのはの声です(自分の後頭部を順々に指しながら)大脳、中脳、小脳、中枢、この中枢の声です.中枢がしゃべらせているのです.私の声ではありません」

あなたの声はどんな声なの?>と治療者がきくと

「ちょっと待って下さい.……(と一息ととのえる感じであらたまって)○○君(自分の名前)しゃべりなさい!……(と自らに向かっていう.)父の墓まいりに行きたいので外泊させて下さい.……(云々)いまの声は私の声です……」

(しかし次の瞬間には)

いましゃべっているのは(もう)私の声ではありません.これは脳の声です……」

 この症例は「脳(HS)の意思が自分(R)をしゃべらせる」という様式になっている.専門用語を用いれば、作為体験やさせられ体験という.もちろん、喋っているのは自分自身にほかならないのだが、その背後に他者であるところの何者(HS)かがあって、これがすべての源泉である.この症例は自我収縮の好例と考えてよいだろう.この症例は自分の後頭部を差すのが象徴的である.自極から抜け出して「他」化する自己.前述した「パターン」の逆転すなわち、A<Bがおきていると考えているのではないか.だんだんつながってきた.

安永あんたすげぇな.あんた何なんだ……

 

ここまで読んでくださりありがとうございます.実のところ彼の著作はまだ半分.続きます.

統合失調症症状機構に関する仮説

ファントム距離

a・μ=K について

 過去の記事において何度も繰り返している様に、このファントム空間論とは、体験的・空間的時間がある生理的障碍仮説をおくことによって、いかなる変化を被るかという推論である.私達の体験世界は「パターン」概念を用いることで定義された「ファントム空間」という実体的機能に担われているとする.ファントムなる呼称は幻影肢が当事者にとって全く実体的であることに由来する.ファントム空間とはいわば「こころの間合い」であり、私達は対象との「間合い」を至適距離に保つべく恒常性が機能しているのではないか、という仮説である.それが何かしらの原因によって至適距離が狂った場合すなわちファントム機能の失調が生じた場合、統合失調症をきたすのではないか、と精神科医の安永浩は考えたのであった.

 さて、安永はこのファントム空間すなわち個人の体験可能領域の距離(ABmax-ABmin)はμ(ファントム距離)として定義できるという.ABについては過去の記事で取り扱っているからここでは触れないでおく.このμは一般には一定の至適値μoptをとっている.下の図を参照されたい.

図1:ファントム距離

 なんのこっちゃ、と思うかもしれないが、ファントム空間とは何かについて安永が大真面目に考えた図である.本来人間の知覚判断は複雑多岐であるが、その系を単純化すれば、上図のようになるだろうと考えたわけである.μoptはあたかも眼球レンズが焦点をあわせるときに存在するであろう、最も見やすい一定の距離に相当する.こころの機能として考えれば「ほどよい距離」に相当するのである.眼に関して言えば、裁縫針の針穴に糸を通すときに、対象との距離は近いほどよいだろう.しかしレンズの調節にはエネルギーを要する.生理学的なレベルで言えば、毛様体筋だとか、動眼神経の機能に関係する.ずっと近いものを見てばかりでは疲れるのだから、ほどよく遠いところを見ていたほうが良いのは、見当がつくであろう.これがファントム空間でいうところの、ほどよい距離、μoptだ.その距離で、ものを見続けているときの消費エネルギー率aは、至適エネルギーaoptと呼ぶことができる.これは、個人が動員できる最大エネルギーamaxよりも小さく、その差はμoptに対応する.optとはoptimum(最適)のことである.ということは、ある範囲において、

a・μ=K (一定)

ということが成立するものと考えられる.これを二次元座標に図示すれば、縦軸をa、横軸をμにして、図1のようになる.それは双曲線を描く.μ=0の扱いは別個に考えるべき問題であるが、概略を掴むには十分である.Kという値はその個人によってそれぞれ異なる、一定の値であり、精神活動がKが一定の値をとるような範囲で営まれる基本容量のような値であるようだ.さて、この等式から何を考えるか.

 もし、何かの原因で主観的には同じ努力感であるにもかかわらず、エネルギー効率が落ちるとすれば、aの実効値はもちろん低下する.すなわちKも低下する.ただ当人にとってはaは変わらないので、見かけ上μが低下したことと同じことになる.ということは錯覚としては対象の距離がずれる体験として感じられるはずだ.先程の眼球レンズのたとえで言えば、「普段通り新聞に眼を通すも、(毛様体筋が働かずレンズが弛んで扁平となり、網膜像である)文字は小さくなる方向にぼける、つまり感じとしては文字が遠ざかる」ような体験であるという.

 「仮説体系」

図2:ミュラー・リヤ―錯視

  上記の図は錯視の一例として有名な「ミュラー・リヤー錯視」である.二本の水平線はどちらも同じ長さであるが、矢羽の方向によって長さが違うように見える.錯視の立方体である「ネッカーの図形」も平面に記された線分が構成されるとあたかも立方体のように見えてしまうことで知られている.知覚心理学者グレゴリーは、「物体仮説:object hypothesis」という概念を示しているが、どうやら私達は、日常のあるものを見るときに、その立体性や距離、大きさ等を、実は何の証拠もなく、適当に一定のものとして知覚しているようである.それは人間の生理的心理傾向といってもよいかもしれない.レビー小体型認知症の多くは幻視の症状を呈することで知られているが、その患者さんのなかには天井の模様が蜂などの虫に見えたり、人間の顔のように見えることがあると言って、他者に追い払うよう頼むことがある.筆者の経験のなかで印象深いのは、とあるレビー小体型認知症の患者さんにとって、病院のベッドの柵に貼ってある小さなオレンジ色のテープが「サーモンの寿司」に見えたといって、ナースコールを押したという出来事であった.「そんな馬鹿なことがあるか」と思ったのはスタッフだけではない.当人もそうであった.

「そんなはずはないと思ったのですが、どうしてもそう見えるので、おかしいなと思って呼んでしまったのです」

 決して病的な例だけでこうした錯覚が生じるわけでは無いのは、ミュラー・リヤー錯視やネッカーの立方体があることで十分な説明になるだろう.私達は「ルビンの壺」のように、下の図が顔が向き合ったようにも見えるし、大きな壺のようにも見えることを知っている.どうも私達は「見てからの判断」ではなく「見ること」自体にすでに無意識に判断が入っているようなのである.ほんのわずかな手がかりでもあれば、「適当な距離にある適当な大きさの物体」として認知する機構が働く.

 こうした判断図式をグレゴリーは物体仮説と呼ぶことにした.平たく言うと、対象を空間的存在としての「物体」として見る、強い傾向のことである.私達がものを見るときは常に物体仮説を通して、ものを見ている、ということだそうだ.「仮説」であるのは「意識以前の前提」、私達にとってアプリオリな現象であるからである.私達が事実だとして疑わないようなことが、実は全然根拠がない、という点を明示すらしている.

図3:ルビンの壺

  グレゴリーは物体仮説を視覚のみに関する認知で用いている.安永が彼を引用したのには、この物体仮説が視覚だけでなく他の感覚においても拡張できるのではないかと考えたからであった.安永はこれを「空間仮説」ないし「仮説体系」と呼ぶ.対象それぞれのもつ意味合いが主体によって直感的に解釈されるところ=フッサールでいう絶対的所与において「意味仮説」が生じている.サソリを「恐ろしく危険なもの」、青空を「清々しく心地よいもの」などと直截観取するものがそうらしい.世界全体に関する価値観は「世界仮説(体系=システム)」、自我に関するそれには「自我仮説(体系)」として考えてみる.こうした「仮説体系」はアプリオリな生理的基盤であるのに対し、その内容を形成する機能基盤はアポステリオリ、経験による構築であるはずだという.それは不変のものではなく、長期的に変形、修正が行われる.横断的に、つまりある瞬間を切り取るとそれは変わり難い「既製のもの」として機能する.芸術家の作品を横断的に観察すれば作品はみな、作者の変え難い作風として捉えられるが、縦断的にみれば、芸術家の作品群は前期や後期で作風が違う、といったことは例になるだろうか.

 現実の瞬間瞬間において、私達は遭遇する現象に対して「仮説(体系)」にそぐわないことが起きている、と知覚するだろう.これは現実と仮説のずれである.そのずれに対して、私達はさらに「仮説」を動員し、適宜応接するだろう.安永が述べるところ、「仮説体系」は物化した「しかけ」であり、「ファントム」は「仮説」を自らの媒質として形成させる触手、「殻」を分泌する粘膜、いわば意識の「肉体」である、という.ユニークなたとえである.

 なんだかイメージがつかない人がいるかもしれないが私なりに考えてみたところ、イソギンチャクのようなモデルを想起するとよいかもしれない.岩に定着する足盤、口盤は「仮説体系」であり、イソギンチャクの舞台装置である.そこから「ファントム」である触手がウニョウニョうごいて、変化、修正、成長する.(イソギンチャクに殻はないが)触手にある微小な刺胞はプランクトン性の甲殻類などを麻痺させ、口に運んで丸飲みにするのだから意識の肉体として考えても悪くはないかと思った次第である.多分、タコでもイカでもよいのかもしれない.つけ加えて言えば、「ファントム」が「仮説」なしには形をなすことがないように、足盤なしには触手はないし、触手は自らを「触手」だと意識することは(きっと)ないはずである(本当のところどうなのだろう?).

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 オヨギイソギンチャクとキタフウセンイソギンチャク、スナイソギンチャクで触手の長さも太さも違うように、「ファントム」は年齢や素質に応じた一定の「容量」をもつ.外圧変動に反応しつつたえずその恒常的な距離を維持しようとするところは、さながら弾性体のごとしである、と安永はいう.ゴムまりのような存在なのかもしれない.

 もうひとつ別の例をだそう.こちらのほうがしっくりするかもしれぬ.貴方が要人のお抱え運転手であると仮定して、ロールス・ロイス・「ファントム」VIIIの運転席にいるとする.この車は巨大で全長5605mm、幅1985mmである.大体5000万円くらいするので、コツンとぶつけるだけでも肝を冷やす.だが運転に手慣れた貴方は、その巨体を都心の中でも見事に操るとしよう.縦列駐車をするときも後方の死角に配慮して、決して側面をゴリゴリこすることはないし、幅寄せも得意だ.どうして「ファントム」は自分の体でないのに、貴方はその車体感覚がわかるのだろうか.

Phantom VIII
エヴァンゲリオン初号機

 それは安永風にいえば「ファントム機能」が働いているからだろう.決してロールス・ロイスの「ファントム」に限らず、自分で車を運転する方であれば、インプレッサであろうと、スカイラインであろうと、大特トラックにのる運転手だって「幅や長さはだいたいこんな感じだろうな」という感覚が働くはずである.例えばそれは駐車券を取るときに右に車体を寄せる時にハンドルを右にどのくらい舵角するか、という入力に反映される.

 ここでいう車体は安永の「仮説体系」である.「ファントム」は「仮説」である車体を媒質として身体感覚を拡張させる意識の肉体である.公道において貴方の意思は車体の運動と同期する.路面状況、カーブの曲率、周囲の車両の密度に従って貴方は「ファントム」を巧みに機能させる.「ファントム」が「仮説」なしに形をなすことがないのは、車がなければ運転しようがないのと同義である.

 さらにいえば、80mくらいの戦闘ロボットは「仮説体系」であり、身長が170cmくらいのパイロットは「ファントム」を拡張させて正義を行使するだろう.人造人間エヴァンゲリオンは「仮説体系」であり、搭乗員の碇シンジはエヴァンゲリオンと「シンクロ(同期)」させて「ファントム」を延長する.もういいだろうか.

 搭乗員たる主体は外なる無限に広がりのある現実を、自らのファントムの及ぶ範囲で切り取るものであるし、現実とファントムの相互限定の軌跡として、様々な構造をもった「仮説図式」が定着される.安永は以下の三つを因子にあげる.

 意識知覚系(R):現実外界から及ぼす限定の源泉となる.
 ファントム機能系(Ph):精神の「肉体」であり、「媒質」である.
 「仮説図式」の体系(HS):RとPhを媒介する形で定着される.

Rは私、主体であり、運転手やパイロットである.HSは車体や機械であり、RはHSを媒介にPhを機能させる.この三者がうまく機能している時は私達はそれほど意識しない.

 もし、Rだけが失調すると(肢体の切断、意識障碍)、幻影肢や夢幻状態が生じる.HSが損傷すると、装置は動かない.医学では失行や失認が生じる.もし、Phが障碍されれば、離人症や統合失調症のような体験が生じるのではないか、という発想に至る.

 ということは過去の記事で述べた「ファントム短縮」はRとHS体系の間にずれを生じ、R=HS複合体の「遠ざかり」の錯覚として結果する.どういうことか.車を運転していて右に軽くハンドルを切ったつもりが実際はものすごく曲がってしまい、脱輪やスピンをするようなものだ.車両感覚のバグである.初めて車を運転する時、教習場で脱輪ばかりしていてもやがて上手になって免許が取れるように、現実でも「ファントム短縮」が起きていてもファントムは変形し、拡張して、成長する.健康な時は私達のファントムの実体距離と「仮説図式」および知覚される現実の構造、三者は原則よく一致して機能するようである.

 次回はこうした安永の説がどのように、病態と照合するか見ていくことにする.

  いつもありがとうございます.

ファントム短縮

こころの距離、こわれるとき

 前回の記事で私は、錯覚運動の例を独自に解説し、終盤ではファントム距離の失調のためにファントム距離が短縮した状況が、統合失調症の症例において当てはまるのでは、という安永の考えに触れた.ここでファントム機能についてもう一度おさらいしておこう.

 ファントム空間(こころの空間)とは、体験可能な至近点(自分の身近なところ)から至遠点(赤の他人)までの三次元空間のことをいう.その至近極からその時のイメージまでの体験距離をファントム距離、といい(こころの距離)、これを保っている特殊エネルギー実態の働きをファントム機能(こころの機能)と呼称する.

 ファントム距離はビヨヨーンと多少伸び縮みする.だがたいていは至適定常距離にある.つまりほどほどの距離感を保つことができている.知的イメージはその端に現れる.知的イメージというのは、「家族」、「友人」、「職場の人間」といった他者の存在と考えてよい.それなりの距離感を自分なりに掴んでいる.それがファントム機能だ.この機能が正常であれば、習慣的に作られた世界の距離的構造の認識図式とファントム機能とはそのファントム距離測定において全く一致しているはずだ.

 例えば、あなたにとって、家族との至適ファントム距離を取るのに要するエネルギーを4、友人は6、職場の人は15であると仮定しよう.数字が大きければ大きいほどエネルギーが必要になると考えて良い.その至適距離がないとあなたにとっては気持ちの安定、存在的猶予がないと思っていただきたい.

 ところがファントム機能のなんらかの失調により、ファントムエネルギーが低下、至適ファントム距離が短縮してしまったとしよう.つまり最大30までのエネルギー幅が出力されるものがなんと3まで低下したとする.だが、自身はそれに気づかない.自分はいつもどおり仕事場へ出勤し、職場の人とあう.だがどうも様子がおかしい.

 当人にとって実際のイメージはその「予期された距離」にはなかったのである!ヒエッ!自身はよろめき、錯覚運動が起こる.どのような錯覚運動か.前回の記事で例えたエレベータをもとに考えてみる.エレベータにおいて自分が完全な静止系にいると思っていたら実は自分が等速運動する慣性系にいて、なおかつ突如急制動し、自分が浮き上がるような感覚である.実際どのような感覚なのかはわからないが、これは「不意打ち」に近い仕打ちだ.当然狼狽する.安永はこれを「ファントム短縮」という.

 本人の気持ちとしては、なぜか皆がものすごく自分を詮索してくるような距離感に感じられるのであろう、全然親密な間柄でもないのに皆が無遠慮なくらい近づいてくる.不気味な感じがするのであろう(妄想知覚).

 衰弱したファントム機能を総動員して、なんとか3に縮小したエネルギーを10まで拡張することが出来たとする.だがそれでも厳しい.距離が近すぎる.それにエネルギーを傾けなければ、すぐに3へ縮んでしまう.あたりは異様な圧迫感で包まれる.あらゆる景色が異様な近さで感じられる.これは異常近影化という急性期の症状として説明できるかもしれない.凄まじい緊張感が走る.ただの職場のハズなのに、実家なのに、友人と飲みに行っているだけなのに、みんなから信じられないくらいの切迫感を感じる.あらゆる人の動作が気になって気になって仕方がないっ!!うわぁぁ!!

俺に近寄るなっ!!!

となるはずである.

 そこで、知覚イメージ(例えば職場の人)はこの場合、「遠ざかり運動」を起こすのだろう、と安永は仮説を述べる.対象を従来のファントム空間の圏外へと、追いやろうとするようなのである.もう少し詳しく言うと、3しかないエネルギーでは如何ともし難いために、ファントム距離の圏外へ対象を絶縁させる代償機構が働くらしい.これは解離や離人といった現象あるいは、自閉、感情鈍麻が考えられそうである.母船を捨てて脱出する船員のような感覚であろうか.ブツッと外界との連絡を断ってしまう.

 まわりからすれば、そのとき自分と対象は異様な裂隙を生じるためによそよしく感じるであろう.非常に冷淡な感覚がするかもしれない.

 「〇〇さん、なんだか様子が変だな……」「すごくよそよそしいな……どうしたんだろう」

 こうした衰弱が慢性化すれば、いかなる代償的努力もファントム機能を補完することはできない.再修正が行われない限り、現実との異様な裂け目、裂隙は半永久的に残るだろう.そして、エネルギーが枯渇すれば本来遠い、弱いはずの刺激が適切な距離に感じられ、強い努力を要する近い距離感の刺激には応じられなくなる.こうなるともはや無力であり、蹂躙されるしか無い.健常者から見ると弱いはずの刺激に過敏となり、強い刺激には無反応あるいは、カタストロフ(おそらく破滅の意味「俺に近寄るなっ!!!」)で反応する.

 安永は、こうしたファントム機能の失調と統合失調症の発病は、外力と脱臼の関係に似ているのではないかという.つまり主体の素質によっては生まれつき脱臼しやすいものがある(臼蓋形成不全や軟骨の形成異常).しかし、通常は発病には外力が必要だという.外力の作用が「発病」を結果するためには力の大きさだけでなく、作用する方向、油断、物の弾みといった要因(うっかり転んでしまいました)が必要だとする.大きな力がかかっても予期してうまく力を流せれば、脱臼を防止することができるだろうとする(柔道の受け身など).このような説明は私にとって概ねなるほど、と思わせるものである.主体の素質に関与しそうなものは、遺伝素因や家族歴であろうか.幼少期の生育環境も考えられそうだ.外力には親からの虐待、いじめ、転居、逆境、出産、就職その他強いストレス因が挙げられる.こうした外力をうけて全員が疾病に罹患するわけではないのだから、外力の受け方、作用方向という点などいくつかの条件が必要そうであることは納得である.

 脱臼と決定的に異なるのは、完全整復がなかなか起こり得ない、ということだ.骨の例でいえば強い習慣性再脱臼(再燃と寛解)の傾向を示す.そして、脱臼でわかるように、レントゲンを撮れば「骨頭が関節窩を外れている」「異常な肢位をとっている」ことがわかるが、統合失調症ではそれがわからない、ということである.つまり「骨頭が関節窩を外れている」に等しい機構論がないのである.何も.それに近いものとしてMinkowskiは「現実との生ける接触の機能」、Binswangerは「体験の自明な一貫性」というのだが言っている意味がそれらの言葉だけでは全くわからないし、扱う問題の次元が高すぎる.(そのためのファントム空間論である)

 さて、ファントムエネルギーという言葉を聞いて、狐につままれた感じがする人は、次のような感覚を考えてほしい.私だったら長い外来診察を終えるといつも、どっと疲れた感覚になって、その日は世の中の誰とも話をしたくない感覚になる.コールセンターに勤務される方であれば、理不尽な苦情を延々と聞くのにはものすごいエネルギーを使うはずだ.行きたくもない職場の飲み会につきあわされると、つまらない話を聞くにも心労が伴うだろう.外回りの営業でお客さんに挨拶をするときにそっけない対応をされると辛いだろう.こういうときは「うまく言い表せないが何かを消費した感覚」なのではないだろうか.私が強調したいのは、このような議論は決してオカルトではない、ということだ.決して「月刊ムー」レベルではないのだ.(「ムー」は好きだ.)

 安永は統合失調症の機構論としてファントム空間論を提唱したわけであったが、決して私達にとって無縁というわけでは無いはずで、私達が感じている心労はおそらく外力の一つなのだろうと思われる.だが、どのような事情で本来正常であったファントム機能が衰弱、破綻してしまうのだろうか、ということは気になるだろう.発病者のファントムには何らかの特性があったのだろうか.

 このような問題に対して、安永は以下の可能性を予想する.統合失調症の定常的ファントム距離は、他の素質者よりも大きい.これを心理学的に言えば、彼・彼女が自然と物事に対して遠い心的距離を取る、ということと同義である.しかし、これには大きな維持エネルギーを要するはずだという.ファントム機能とは、「他者とのほどよい距離感」を保つ機能である.そして遠ければ遠いほど大きなエネルギーを使うと仮定される.そこまで遠くなくても良い人もいれば、遠くでないと落ち着かない人もいるはずだ.満員電車が平気な人と絶対に無理!という人がいる、といえばわかるだろうか.

 もしエネルギーを消費することがファントム機能の失調なのであれば、一般に近い心的距離に暴露される、または持続的に強要される人は、統合失調症の発病をきたし得るだろうという.

 今回はここまでにさせていただきます.少しずつ筆者の本題に踏み込んでいく感じがわかれば嬉しいです.誤解のないように言うと、筆者はこの論を盲信しているわけではありません.ただ稀有な症状機構論として取り上げているだけです.読んでくださりありがとうございました.

 

ファントム機能あれこれ

錯覚運動を考える

 前回の章でついに「ファントム空間」を定義することが出来た.ファントム空間は「幻影肢」や我々が感じる錯覚現象(ミュラー・リヤー錯視など)が確かに生じるという事実から「心的距離」=「こころの距離」を規定するものとして示された.よって「ファントム空間論」とはすなわち「心的距離」をほとんど生理的な機能概念「ファントム機能」として用いよう、とするものである.

 安永によれば、この着想の順序は、神経生理学における錯覚運動の法則を、精神現象に適用しよう、ということが骨子となっている.その一般法則は次のように表現されるそうだ.

一、主体にある「作業意志」が働き、

二、しかるにその運動の最終効果器官Effectorが機能を失っており、(予期したほど反応しない)

三、しかもその機能欠陥を主体が知らなかったならば、結果として次の錯覚のいずれか(あるいは両方)が生じる.

a: 意図と同じ方向へ、「仮現的な外界の運動」の*「能動的」感覚が生ずる.

*自分が外界を動かしているかのように感じる、ということ.

b: 意図と反対方向へ、「仮現的な自己の運動」の*「受動的」感覚が生ずる.

*自分が受け身に動かされているかのように感じる、ということ.

 ……なんだかよくわからない、と思う方がいても不思議ではない.そのために具体例を安永が用意してくれている.これで安心……と言いたいところなのだが、まずは著者の説明をご覧になっていただく.以下は抜粋である.

 この法則のわかりやすい実例を述べよう.一眼のみを実験の対象とする.もし右眼の外転神経が麻痺しているのに(あるいは眼球を機械的に固定して動かないようにしても同じ)、主体が右へ眼球を廻そうと意志したとする.このとき、実際には眼球は動いていない(すなわち視野には何の動きもないはずである).しかるに主体の体験では、外界は右へと旋回運動を起こすように感じられる.これはさながら目が外界を右へ振りまわしてゆくかのようである(同時に、おそらくははるかに弱い程度に、主体事態の身体が左へ廻されてゆくような感覚も伴うだろう).

 正直言って、私にはこの例がわからなかった.単眼を前提に議論をすることが両眼をもつ我々(のほとんど)にとって、すぐには理解し難い景色となる.単眼にとってそれは立体感のない景色であることは、我々が片目を隠せばわかるのだが.

 ちなみに外転神経というのは眼球を外側に向ける筋肉だけを支配する神経のことだ.外転神経麻痺は眼を外側に向けることができなくなった病態である.外側というのは右眼にとって、右であり、左眼にとって左をいう.麻痺してしまうと外側を向きたくても向けない、という状態になる.つまり、主体が右へ眼球を廻そうと意志したとしても、実際には眼球は動いていないのだから、主体が機能欠陥を知らなかったとしても「主体の体験では、外界は右へと旋回運動を起こすように感じられる」なんてことはないはずだ.

 我々は両眼で世界を捉えることが多いので、もし片方の眼が外転神経麻痺になったとすると、ある視野において「複視」という状態になる.ものが二重に見えてしまうことを言う.様々な外転神経麻痺の患者さんと思われるブログを拝見したが、「主体の体験では、外界は右へと旋回運動を起こすように感じられる」ような説明はどこにも見られなかった.せっかくの論考でこの例示は惜しい.

エレベータに乗ろう

 よって、私なりに安永の考察が意図するような具体例を考案してみた.仮にあなたが新築の分譲マンションの見学会に参加したとしよう.そのマンションは全部で三十六階まであり、高性能エレベータが三基稼働している.「いい景色ですから」と不動産屋の口車に乗ってしまい、貴方はエレベータに乗って、最上階の景色を眺めることになる.そのエレベータは、落成前なので地上階と最上階しか往復できない.乗っている間は自分がどの高さにいるかもわからない.完全な密室である.そして、このエレベータ、最新型で加速が極めてなめらかであり、いつ動き出したかわからないくらいである.だからエレベータの中にいる運動系では乗員は静止しているかのように感じられる.

 そして気づかぬうちに到着するのだが、このエレベータ、ブレーキの調整が不十分で、最上階に到着するときは急ブレーキで静止する!

 これでようやく安永の意図する条件が設定出来た.先程の安永がいう錯覚の法則に当てはめてみると、

一、主体にある「作業意志」が働き、→(エレベータに乗ったから加速を感じるはずだ、半規管に存在する耳石が動くことで重力を感知するはずだ)

二、しかるにその運動の最終効果器官Effectorが機能を失っており、(予期したほど反応しない)→(「あれ、全然動いている感じがしないな……」半規管の機能閾値を下回る加速度である)

三、しかもその機能欠陥を主体が知らなかったならば、結果として次の錯覚のいずれか(あるいは両方)が生じる.→(実際は時速60km/hで動いていたところから急速に静止する運動が生じる)→「全く気づかないうちに到着していた!!まじかよぉ!」

 このとき、自分と不動産屋さんの身体は「仮現的な自己の運動」の受動的感覚が生じるはずである.つまり、完全に静止している状態から突如、浮き上がる感覚が急に感じられる.そして「おえっ」となるだろう.「もう二度と乗るかこんなポンコツ!!」

 どうだろうか、厳密にいえば乗員の身体機能は全く問題ないのだが、慣性系が一致することで感覚器官が機能しない、という状態をつくることは可能だということはわかるはずだ.そして現代に生きる我々はエレベータに乗って浮遊感をわずかに味わった経験があるはずだ(なかったら申し訳無い).

 ファントム機能と統合失調症

 もう一度いうが安永はこうした生理学現象を精神現象にも当てはまるのではないか、と考えたのであった.精神現象における機能、それがファントム機能である.

 前回の記事の内容を改めて述べると、ファントム空間とは、体験可能な至近点から至遠点までの三次元空間のことをいう.その至近極からその時のイメージまでの体験距離をファントム距離、といい(こころの距離)、これを保っている特殊エネルギー実態の働きをファントム機能と呼称する.

 ファントム距離は多少伸び縮みする.だがたいていは至適定常距離にある.つまりほどほどの距離感を保つことができている.知的イメージはその端に現れる.知的イメージというのは、「家族」、「友人」、「職場の人間」といった他者の存在と考えてよい.それなりの距離感を自分なりに掴んでいる.それがファントム機能だ.この機能が正常であれば、習慣的に作られた世界の距離的構造の認識図式とファントム機能とはそのファントム距離測定において全く一致しているはずだ.

 しかし、統合失調症において、このファントム機能が急激に衰弱したと仮定しよう.安永は錯覚運動と似たような現象が起こるのではないかと考える.

 ファントム機能のなんらかの失調により、ファントム距離が短縮してしまった!だが、自身はそれに気づかない.自分はいつもどおり、あるファントム距離を測定した.しかし、イメージはその「予期された距離」にはなかった!!!!!自身はよろめき、錯覚運動が起こる.知覚イメージはこの場合、「遠ざかり運動」を起こす.従来のファントム空間の圏外へと、逃れようとする.

 この説明も急に言われてしまうとよくわからないかもしれない.なので亀吾郎法律事務所のスタッフが頑張ってこの論考に対して、まぁまぁな例を用意することにした.どうか楽しみに待っていただきたいな、と思う.ファントム空間論、なんとなく興味を持っていただけたら嬉しいです.