ファントムドライブ

オキゴンドウとファントム

 冷たい夜に車を運転をしていてびっくりしたことがある.あるとき前方に巨大な車体を認めた.尾灯の形は見慣れぬもので、自動車診断学の知識を活かしてなんとかロールス・ロイスのそれだとわかったが、夜間だと車種が同定しづらい.前方100mではわからなかった.自然と近づいて追い越してゆく際に横目で見やると、ぎょぎょぎょぎょ!以前取り上げたファントムVIIIであった.なんというデカさ!車体があまりにもでかすぎる.ドレッドノート戦艦を基準にして例えられる「超弩級」という言葉はファントムにふさわしいと思った.だが誤解なくいうと私は決してその車の意匠は好きではないし、ほしいとも思わない.ではなんでそんな話をするのか.本当は好きなんじゃないのか.そう思った方は、ただの小市民が体長5mのオキゴンドウを飼育したいと思うだろうかと考えてほしい.見た目の好みもあってもいいじゃないか.とはいっても水族館で見ればワクワクするものだ.ただ私は同じようにファントムを見てワクワクしただけだ.その夜はオキゴンドウがゆったりと海遊するように、ファントムも悠々と公道を駆け抜けていた.

 同時に私は、密かにリスペクトしている安永浩の、あるエッセイの表題を思い出した.

ファントム空間は疾走する

 こういうことを書くと、中二病だとか、キザだとか、カッコマンだといじめてくる人がいる.これは安永のオリジナルであり、彼はジャン・コクトーらしさを想起して悦に浸っていると述べている.私はジャン・コクトー風情を理解しないのだが、この句が意味するところを以下の文章を引用して説明しよう.

 当時私は、停年後始めた楽しみとして、自動車運転に凝っていたので、ふとこの言葉が頭に浮かんだのである.つまり運転しているときの注意空間は、前後100メートル位、左右が各10メートル位の透明な紡錘状をしているように思えて、この目に見えない空間が、時速40−60キロで車とともに疾走している、というところをイメージしたのである.もちろんどの運転者でも同じだから、路上は無数のファントム空間が疾走し、交錯していることになり、ぶつかる音はしないが大変な混雑ぶり、とこの「目」からは見える…….

 これを見て私は歓喜した.以前の記事で紹介した意識的知覚系Rファントム機能系Ph仮設図式系HSの例えとおよそ同じでは無いか、と.どうか夕方の首都高速6号線小菅ジャンクションのことを考えていただきたい.運転が上手ではない私から言わせてもらうとあれはひどい所だ.あれは左右から無数の車が合流をしかけあう無慈悲な戦場である.まるで海中をアジやイカやカサゴやボラがヒューヒューと泳ぎ回り、お互いにぶつからないように巧みに交錯する.そして時折オキゴンドウやジンベイザメがぬぼーっと周りを威圧して泳ぎ、コバンザメが便乗して右左折をする.はぐれたイワシの身である自分としては緊張する場面である.とはいえ、私の考えていた事、車に例えていたことが同じであったのは僥倖で、一瞬安永と400%くらいシンクロしたような感覚となった.案外思索にふけるのは悪くないなと思った.

 無数の意思が、互いに干渉しないように(時として干渉してしまうが)走り抜けていくさまを見ると、私は背景にファントム機能を意識せずにはいられない.おそらく脳科学の立場からいえば「身体感覚の延長」という表現になるのだろうが、私は「ファントム空間が疾走する」方がしっくりくる.より説明的だと思っている.ではどのように説明的か、というとその説明はなかなか難しい.まずは特集「ファントム空間論」をはじめからご覧になっていただければと思う.いつか脳科学の立場から幻肢を取り上げて説明を試みたいとも思う.

ファントム短縮2.0

 なんどもなんども読み返してもわからない部分というのがあった.彼の著書に図示されているファントム短縮の説明が大変抽象的?(もしくは自分がポンコツ)なので一つの図を理解するのにものすごく時間がかかってしまって、なかなか前に進めない感覚があったのである.「ファントム短縮」というタイトルで昨年の12月25日に投稿をしたときは、その説明は割と表層をなぞるような記事に過ぎず、各論に迫りきれなかった.まずはおさらいをしておく.

 ファントム空間(こころの空間)とは、体験可能な至近点(自分の身近なところ)から至遠点(赤の他人)までの空間のことをいう.その至近極からその時のイメージまでの体験距離をファントム距離、といい(こころの距離)、これを保っている特殊エネルギー実態の働きをファントム機能(こころの機能)と呼称する.ファントム距離はビヨヨ〜ンとゴムまりのように多少伸び縮みする.だがたいていは至適定常距離にある.つまりほどほどの距離感を保つことができている.知的イメージはその端に現れる.知的イメージというのは、「家族」、「友人」、「職場の人間」といった他者の存在と考えてよい.それなりの距離感を自分なりに掴んでいる.それがファントム機能だ.この機能が正常であれば、習慣的に作られた世界の距離的構造の認識図式とファントム機能とはそのファントム距離測定において全く一致している.

 ところがファントム機能のなんらかの失調により、ファントムエネルギーが低下してしまったとする.だが、自身はそれに気づかない.当人にとって実際のイメージはその「予期された距離」にはなかった.自身はよろめき、錯覚運動が起こる.どのような錯覚運動か.前回の記事で例えたエレベータをもとに考えてみる.エレベータにおいて自分が完全な静止系にいると思っていたら実は自分が等速運動する慣性系にいて、なおかつ突如急制動し、自分が浮き上がるような感覚である.これは「不意打ち」に近い仕打ちだ.当然狼狽するだろう.安永はこのような「不意打ち」をファントム短縮と呼んだ.

 

 この議論はもう少し深堀りすることができるようだ.安永は以下のように議論を進める.知覚体験における意識全体のあり方と、表象体験における意識全体のあり方と、表象体験における意識全体のあり方は異なっている、と.ではどう異なるのか.彼はジャン・ポール・サルトルの現象学的考察を取り上げている.残念ながら私にはサルトルの考えはよくわからない.だが、要するに知覚体験には「外界から流入するたえざる充実」という激しい緊張関係がある一方で、表象世界にはそれがない.おそらくは、視覚のような知覚体験は、失明するか後頭葉を損傷するなどして、神経系を遮断しない限り、無条件に情報が入ってくる.嗅細胞が破壊されなければ、うなぎの蒲焼きの薫香から逃れることができない.それらに対して主体は何らかの想起をする.イメージする、というと曖昧だし、せっかくなので現象学用語のノエシスを使おう.ノエシスが作用してなにがしかのノエマが生じる.つまり、インプットとアウトプットという二つの方向性が生じている.一方、表象というのは、そもそもが抽象的なものだから、知覚情報として入ってくるものではなく、あくまで思念するものである.これは脳内でアウトプットするのみであり、一方向的である.そんなに間違ったことは言っていないだろう.この話は錯視の話にも通ずる.

 ファントム的にいえば、(ファントム的、という表現は安永らしくて好きだ)表象空間は、現実にはないものを指向する、という意味でまさにファントム空間である、と安永はいう.知覚空間では主観的ファントム空間は、さらに現実知覚の流入と充実によって二重の枠付を受けている.この現実の枠付は主観で左右するわけにはいかない独自の源泉をもっている.

 このような相違は「ファントム短縮」の仮定を導入した場合、どのような結果に、どのような現象として現れるだろうか、という問題提起をする.一つは「遠ざかり」、もう一つは「自我収縮」である.ファントム短縮が主観的には、世界自体の錯覚運動=対象距離感の異様の離隔として体験される場合が、「遠ざかり」、自分自身について体験する場合は「自我収縮」となる.……らしいのだが、どうにもこうにもよくわからない.さらに、彼が追補するのは「ファントム短縮」は対象の「遠ざかり」だけでなく、自身の「遠ざかり」が現れてもよいはずだ、という論である.このあたりで私はしばらく躓いていた.

 「この図(図1)を見ていただければわかると思うが」と本には記してあるのだが、私には何度見直してもよくわからなかったことが大きい.何百回見直しただろうか.別に著者を責めるつもりはない.私の理解力を嘆くほかないのか、それとも他の読者にも難解なのか.これは感想を聞いてみたいところだ.

 

図1:置き去りと自我収縮、その両方について安永が考案した図

  あれから幾星霜、なんとかわかったような気がしてきた.自分なりに紙に書いて図示するのが一番良かった.おそらく以下の二つの図として再構成あるいは再解釈すると、わかりやすいのではないかと思う.

 図2を取り上げる.自分と他者がいる.その間は物理的な距離が存在しているとしよう.つまり5メートルや、6フィートだとか、六尺といった具合である.では5メートルとしよう.もしファントム機能が健全であれば、自分と他者の間には5メートルと等しい体感的な距離(ファントム距離)が生成される.通常、ファントムと現実の距離が一致している.そして主体はそのことは自明だとしている.これが健常例である.

 もし、ファントム機能が破綻したとすると、これは無自覚に生じるので、常に主体(R)は気づかないことが前提になる.ファントム空間の射程が文字通り短縮すると、体感可能な空間は他者まで及ぶことはない.及ぶことができない.この場合ファントム距離はそのまま5メートルだと錯覚したままなのであるから、相対的に物理的距離は(そもそもが5メートルにもかかわらず)遠く空虚に感じられる.他者が「他極」から抜け出すような見え方にもなる.この距離感は決して届くことのないもので、たどり着くことのない空隙である.

 もう一つの例は、自己(R)が自極(HS)から「抜け出す」場合である.最初の例は「対象が次第に遠くに離れていく」図式であったが、次の例は「自分(R)」が「自極(HS)から遠ざかっていく」体験といえる.幽体離脱という怪奇現象に似ていると思う.イメージとして「ジョジョの奇妙な冒険」第三部以降に出現するスタンド:幽波紋にも似ている.それから例1と同じように、自身はこのファントム短縮を自覚しない.しかに背後に誰か(HS)がいる感覚.もちろん自分と他人との距離は変わらず5メートルなのだが、自分自身の位置感覚が奇妙に感じられる.

「えっなんで俺が後ろにいんの?」

 最後は混合例である.この場合は、ファントム空間が自他ともに展開されていない場合で、「置き去り」と「自我収縮」を同時にくらってしまったと考える.自分(R)の背後には自分(に似たような誰か; HS)がいる感覚.そして周りの人々は妙によそよそしい.みんな遠巻きに自分を見ている.この感覚は恐ろしい.

図2:健常のファントムとファントム短縮の一例、置き去り
図3:ファントム短縮の例、自我収縮と混合

 このような体験はあくまで仮定であって、安永は何度も繰り返しているのだが、このように考えると症例が語る言葉が実にTheoreticalに理解できるという.私はようやく同意できる立場になった.症例提示を行おう.安永の症例を原文通り引用してみる.

<症例1>

「私がいましゃべっているのはの声です(自分の後頭部を順々に指しながら)大脳、中脳、小脳、中枢、この中枢の声です.中枢がしゃべらせているのです.私の声ではありません」

あなたの声はどんな声なの?>と治療者がきくと

「ちょっと待って下さい.……(と一息ととのえる感じであらたまって)○○君(自分の名前)しゃべりなさい!……(と自らに向かっていう.)父の墓まいりに行きたいので外泊させて下さい.……(云々)いまの声は私の声です……」

(しかし次の瞬間には)

いましゃべっているのは(もう)私の声ではありません.これは脳の声です……」

 この症例は「脳(HS)の意思が自分(R)をしゃべらせる」という様式になっている.専門用語を用いれば、作為体験やさせられ体験という.もちろん、喋っているのは自分自身にほかならないのだが、その背後に他者であるところの何者(HS)かがあって、これがすべての源泉である.この症例は自我収縮の好例と考えてよいだろう.この症例は自分の後頭部を差すのが象徴的である.自極から抜け出して「他」化する自己.前述した「パターン」の逆転すなわち、A<Bがおきていると考えているのではないか.だんだんつながってきた.

安永あんたすげぇな.あんた何なんだ……

 

ここまで読んでくださりありがとうございます.実のところ彼の著作はまだ半分.続きます.

統合失調症症状機構に関する仮説

ファントム距離

a・μ=K について

 過去の記事において何度も繰り返している様に、このファントム空間論とは、体験的・空間的時間がある生理的障碍仮説をおくことによって、いかなる変化を被るかという推論である.私達の体験世界は「パターン」概念を用いることで定義された「ファントム空間」という実体的機能に担われているとする.ファントムなる呼称は幻影肢が当事者にとって全く実体的であることに由来する.ファントム空間とはいわば「こころの間合い」であり、私達は対象との「間合い」を至適距離に保つべく恒常性が機能しているのではないか、という仮説である.それが何かしらの原因によって至適距離が狂った場合すなわちファントム機能の失調が生じた場合、統合失調症をきたすのではないか、と精神科医の安永浩は考えたのであった.

 さて、安永はこのファントム空間すなわち個人の体験可能領域の距離(ABmax-ABmin)はμ(ファントム距離)として定義できるという.ABについては過去の記事で取り扱っているからここでは触れないでおく.このμは一般には一定の至適値μoptをとっている.下の図を参照されたい.

図1:ファントム距離

 なんのこっちゃ、と思うかもしれないが、ファントム空間とは何かについて安永が大真面目に考えた図である.本来人間の知覚判断は複雑多岐であるが、その系を単純化すれば、上図のようになるだろうと考えたわけである.μoptはあたかも眼球レンズが焦点をあわせるときに存在するであろう、最も見やすい一定の距離に相当する.こころの機能として考えれば「ほどよい距離」に相当するのである.眼に関して言えば、裁縫針の針穴に糸を通すときに、対象との距離は近いほどよいだろう.しかしレンズの調節にはエネルギーを要する.生理学的なレベルで言えば、毛様体筋だとか、動眼神経の機能に関係する.ずっと近いものを見てばかりでは疲れるのだから、ほどよく遠いところを見ていたほうが良いのは、見当がつくであろう.これがファントム空間でいうところの、ほどよい距離、μoptだ.その距離で、ものを見続けているときの消費エネルギー率aは、至適エネルギーaoptと呼ぶことができる.これは、個人が動員できる最大エネルギーamaxよりも小さく、その差はμoptに対応する.optとはoptimum(最適)のことである.ということは、ある範囲において、

a・μ=K (一定)

ということが成立するものと考えられる.これを二次元座標に図示すれば、縦軸をa、横軸をμにして、図1のようになる.それは双曲線を描く.μ=0の扱いは別個に考えるべき問題であるが、概略を掴むには十分である.Kという値はその個人によってそれぞれ異なる、一定の値であり、精神活動がKが一定の値をとるような範囲で営まれる基本容量のような値であるようだ.さて、この等式から何を考えるか.

 もし、何かの原因で主観的には同じ努力感であるにもかかわらず、エネルギー効率が落ちるとすれば、aの実効値はもちろん低下する.すなわちKも低下する.ただ当人にとってはaは変わらないので、見かけ上μが低下したことと同じことになる.ということは錯覚としては対象の距離がずれる体験として感じられるはずだ.先程の眼球レンズのたとえで言えば、「普段通り新聞に眼を通すも、(毛様体筋が働かずレンズが弛んで扁平となり、網膜像である)文字は小さくなる方向にぼける、つまり感じとしては文字が遠ざかる」ような体験であるという.

 「仮説体系」

図2:ミュラー・リヤ―錯視

  上記の図は錯視の一例として有名な「ミュラー・リヤー錯視」である.二本の水平線はどちらも同じ長さであるが、矢羽の方向によって長さが違うように見える.錯視の立方体である「ネッカーの図形」も平面に記された線分が構成されるとあたかも立方体のように見えてしまうことで知られている.知覚心理学者グレゴリーは、「物体仮説:object hypothesis」という概念を示しているが、どうやら私達は、日常のあるものを見るときに、その立体性や距離、大きさ等を、実は何の証拠もなく、適当に一定のものとして知覚しているようである.それは人間の生理的心理傾向といってもよいかもしれない.レビー小体型認知症の多くは幻視の症状を呈することで知られているが、その患者さんのなかには天井の模様が蜂などの虫に見えたり、人間の顔のように見えることがあると言って、他者に追い払うよう頼むことがある.筆者の経験のなかで印象深いのは、とあるレビー小体型認知症の患者さんにとって、病院のベッドの柵に貼ってある小さなオレンジ色のテープが「サーモンの寿司」に見えたといって、ナースコールを押したという出来事であった.「そんな馬鹿なことがあるか」と思ったのはスタッフだけではない.当人もそうであった.

「そんなはずはないと思ったのですが、どうしてもそう見えるので、おかしいなと思って呼んでしまったのです」

 決して病的な例だけでこうした錯覚が生じるわけでは無いのは、ミュラー・リヤー錯視やネッカーの立方体があることで十分な説明になるだろう.私達は「ルビンの壺」のように、下の図が顔が向き合ったようにも見えるし、大きな壺のようにも見えることを知っている.どうも私達は「見てからの判断」ではなく「見ること」自体にすでに無意識に判断が入っているようなのである.ほんのわずかな手がかりでもあれば、「適当な距離にある適当な大きさの物体」として認知する機構が働く.

 こうした判断図式をグレゴリーは物体仮説と呼ぶことにした.平たく言うと、対象を空間的存在としての「物体」として見る、強い傾向のことである.私達がものを見るときは常に物体仮説を通して、ものを見ている、ということだそうだ.「仮説」であるのは「意識以前の前提」、私達にとってアプリオリな現象であるからである.私達が事実だとして疑わないようなことが、実は全然根拠がない、という点を明示すらしている.

図3:ルビンの壺

  グレゴリーは物体仮説を視覚のみに関する認知で用いている.安永が彼を引用したのには、この物体仮説が視覚だけでなく他の感覚においても拡張できるのではないかと考えたからであった.安永はこれを「空間仮説」ないし「仮説体系」と呼ぶ.対象それぞれのもつ意味合いが主体によって直感的に解釈されるところ=フッサールでいう絶対的所与において「意味仮説」が生じている.サソリを「恐ろしく危険なもの」、青空を「清々しく心地よいもの」などと直截観取するものがそうらしい.世界全体に関する価値観は「世界仮説(体系=システム)」、自我に関するそれには「自我仮説(体系)」として考えてみる.こうした「仮説体系」はアプリオリな生理的基盤であるのに対し、その内容を形成する機能基盤はアポステリオリ、経験による構築であるはずだという.それは不変のものではなく、長期的に変形、修正が行われる.横断的に、つまりある瞬間を切り取るとそれは変わり難い「既製のもの」として機能する.芸術家の作品を横断的に観察すれば作品はみな、作者の変え難い作風として捉えられるが、縦断的にみれば、芸術家の作品群は前期や後期で作風が違う、といったことは例になるだろうか.

 現実の瞬間瞬間において、私達は遭遇する現象に対して「仮説(体系)」にそぐわないことが起きている、と知覚するだろう.これは現実と仮説のずれである.そのずれに対して、私達はさらに「仮説」を動員し、適宜応接するだろう.安永が述べるところ、「仮説体系」は物化した「しかけ」であり、「ファントム」は「仮説」を自らの媒質として形成させる触手、「殻」を分泌する粘膜、いわば意識の「肉体」である、という.ユニークなたとえである.

 なんだかイメージがつかない人がいるかもしれないが私なりに考えてみたところ、イソギンチャクのようなモデルを想起するとよいかもしれない.岩に定着する足盤、口盤は「仮説体系」であり、イソギンチャクの舞台装置である.そこから「ファントム」である触手がウニョウニョうごいて、変化、修正、成長する.(イソギンチャクに殻はないが)触手にある微小な刺胞はプランクトン性の甲殻類などを麻痺させ、口に運んで丸飲みにするのだから意識の肉体として考えても悪くはないかと思った次第である.多分、タコでもイカでもよいのかもしれない.つけ加えて言えば、「ファントム」が「仮説」なしには形をなすことがないように、足盤なしには触手はないし、触手は自らを「触手」だと意識することは(きっと)ないはずである(本当のところどうなのだろう?).

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 オヨギイソギンチャクとキタフウセンイソギンチャク、スナイソギンチャクで触手の長さも太さも違うように、「ファントム」は年齢や素質に応じた一定の「容量」をもつ.外圧変動に反応しつつたえずその恒常的な距離を維持しようとするところは、さながら弾性体のごとしである、と安永はいう.ゴムまりのような存在なのかもしれない.

 もうひとつ別の例をだそう.こちらのほうがしっくりするかもしれぬ.貴方が要人のお抱え運転手であると仮定して、ロールス・ロイス・「ファントム」VIIIの運転席にいるとする.この車は巨大で全長5605mm、幅1985mmである.大体5000万円くらいするので、コツンとぶつけるだけでも肝を冷やす.だが運転に手慣れた貴方は、その巨体を都心の中でも見事に操るとしよう.縦列駐車をするときも後方の死角に配慮して、決して側面をゴリゴリこすることはないし、幅寄せも得意だ.どうして「ファントム」は自分の体でないのに、貴方はその車体感覚がわかるのだろうか.

Phantom VIII
エヴァンゲリオン初号機

 それは安永風にいえば「ファントム機能」が働いているからだろう.決してロールス・ロイスの「ファントム」に限らず、自分で車を運転する方であれば、インプレッサであろうと、スカイラインであろうと、大特トラックにのる運転手だって「幅や長さはだいたいこんな感じだろうな」という感覚が働くはずである.例えばそれは駐車券を取るときに右に車体を寄せる時にハンドルを右にどのくらい舵角するか、という入力に反映される.

 ここでいう車体は安永の「仮説体系」である.「ファントム」は「仮説」である車体を媒質として身体感覚を拡張させる意識の肉体である.公道において貴方の意思は車体の運動と同期する.路面状況、カーブの曲率、周囲の車両の密度に従って貴方は「ファントム」を巧みに機能させる.「ファントム」が「仮説」なしに形をなすことがないのは、車がなければ運転しようがないのと同義である.

 さらにいえば、80mくらいの戦闘ロボットは「仮説体系」であり、身長が170cmくらいのパイロットは「ファントム」を拡張させて正義を行使するだろう.人造人間エヴァンゲリオンは「仮説体系」であり、搭乗員の碇シンジはエヴァンゲリオンと「シンクロ(同期)」させて「ファントム」を延長する.もういいだろうか.

 搭乗員たる主体は外なる無限に広がりのある現実を、自らのファントムの及ぶ範囲で切り取るものであるし、現実とファントムの相互限定の軌跡として、様々な構造をもった「仮説図式」が定着される.安永は以下の三つを因子にあげる.

 意識知覚系(R):現実外界から及ぼす限定の源泉となる.
 ファントム機能系(Ph):精神の「肉体」であり、「媒質」である.
 「仮説図式」の体系(HS):RとPhを媒介する形で定着される.

Rは私、主体であり、運転手やパイロットである.HSは車体や機械であり、RはHSを媒介にPhを機能させる.この三者がうまく機能している時は私達はそれほど意識しない.

 もし、Rだけが失調すると(肢体の切断、意識障碍)、幻影肢や夢幻状態が生じる.HSが損傷すると、装置は動かない.医学では失行や失認が生じる.もし、Phが障碍されれば、離人症や統合失調症のような体験が生じるのではないか、という発想に至る.

 ということは過去の記事で述べた「ファントム短縮」はRとHS体系の間にずれを生じ、R=HS複合体の「遠ざかり」の錯覚として結果する.どういうことか.車を運転していて右に軽くハンドルを切ったつもりが実際はものすごく曲がってしまい、脱輪やスピンをするようなものだ.車両感覚のバグである.初めて車を運転する時、教習場で脱輪ばかりしていてもやがて上手になって免許が取れるように、現実でも「ファントム短縮」が起きていてもファントムは変形し、拡張して、成長する.健康な時は私達のファントムの実体距離と「仮説図式」および知覚される現実の構造、三者は原則よく一致して機能するようである.

 次回はこうした安永の説がどのように、病態と照合するか見ていくことにする.

  いつもありがとうございます.

ファントム短縮

こころの距離、こわれるとき

 前回の記事で私は、錯覚運動の例を独自に解説し、終盤ではファントム距離の失調のためにファントム距離が短縮した状況が、統合失調症の症例において当てはまるのでは、という安永の考えに触れた.ここでファントム機能についてもう一度おさらいしておこう.

 ファントム空間(こころの空間)とは、体験可能な至近点(自分の身近なところ)から至遠点(赤の他人)までの三次元空間のことをいう.その至近極からその時のイメージまでの体験距離をファントム距離、といい(こころの距離)、これを保っている特殊エネルギー実態の働きをファントム機能(こころの機能)と呼称する.

 ファントム距離はビヨヨーンと多少伸び縮みする.だがたいていは至適定常距離にある.つまりほどほどの距離感を保つことができている.知的イメージはその端に現れる.知的イメージというのは、「家族」、「友人」、「職場の人間」といった他者の存在と考えてよい.それなりの距離感を自分なりに掴んでいる.それがファントム機能だ.この機能が正常であれば、習慣的に作られた世界の距離的構造の認識図式とファントム機能とはそのファントム距離測定において全く一致しているはずだ.

 例えば、あなたにとって、家族との至適ファントム距離を取るのに要するエネルギーを4、友人は6、職場の人は15であると仮定しよう.数字が大きければ大きいほどエネルギーが必要になると考えて良い.その至適距離がないとあなたにとっては気持ちの安定、存在的猶予がないと思っていただきたい.

 ところがファントム機能のなんらかの失調により、ファントムエネルギーが低下、至適ファントム距離が短縮してしまったとしよう.つまり最大30までのエネルギー幅が出力されるものがなんと3まで低下したとする.だが、自身はそれに気づかない.自分はいつもどおり仕事場へ出勤し、職場の人とあう.だがどうも様子がおかしい.

 当人にとって実際のイメージはその「予期された距離」にはなかったのである!ヒエッ!自身はよろめき、錯覚運動が起こる.どのような錯覚運動か.前回の記事で例えたエレベータをもとに考えてみる.エレベータにおいて自分が完全な静止系にいると思っていたら実は自分が等速運動する慣性系にいて、なおかつ突如急制動し、自分が浮き上がるような感覚である.実際どのような感覚なのかはわからないが、これは「不意打ち」に近い仕打ちだ.当然狼狽する.安永はこれを「ファントム短縮」という.

 本人の気持ちとしては、なぜか皆がものすごく自分を詮索してくるような距離感に感じられるのであろう、全然親密な間柄でもないのに皆が無遠慮なくらい近づいてくる.不気味な感じがするのであろう(妄想知覚).

 衰弱したファントム機能を総動員して、なんとか3に縮小したエネルギーを10まで拡張することが出来たとする.だがそれでも厳しい.距離が近すぎる.それにエネルギーを傾けなければ、すぐに3へ縮んでしまう.あたりは異様な圧迫感で包まれる.あらゆる景色が異様な近さで感じられる.これは異常近影化という急性期の症状として説明できるかもしれない.凄まじい緊張感が走る.ただの職場のハズなのに、実家なのに、友人と飲みに行っているだけなのに、みんなから信じられないくらいの切迫感を感じる.あらゆる人の動作が気になって気になって仕方がないっ!!うわぁぁ!!

俺に近寄るなっ!!!

となるはずである.

 そこで、知覚イメージ(例えば職場の人)はこの場合、「遠ざかり運動」を起こすのだろう、と安永は仮説を述べる.対象を従来のファントム空間の圏外へと、追いやろうとするようなのである.もう少し詳しく言うと、3しかないエネルギーでは如何ともし難いために、ファントム距離の圏外へ対象を絶縁させる代償機構が働くらしい.これは解離や離人といった現象あるいは、自閉、感情鈍麻が考えられそうである.母船を捨てて脱出する船員のような感覚であろうか.ブツッと外界との連絡を断ってしまう.

 まわりからすれば、そのとき自分と対象は異様な裂隙を生じるためによそよしく感じるであろう.非常に冷淡な感覚がするかもしれない.

 「〇〇さん、なんだか様子が変だな……」「すごくよそよそしいな……どうしたんだろう」

 こうした衰弱が慢性化すれば、いかなる代償的努力もファントム機能を補完することはできない.再修正が行われない限り、現実との異様な裂け目、裂隙は半永久的に残るだろう.そして、エネルギーが枯渇すれば本来遠い、弱いはずの刺激が適切な距離に感じられ、強い努力を要する近い距離感の刺激には応じられなくなる.こうなるともはや無力であり、蹂躙されるしか無い.健常者から見ると弱いはずの刺激に過敏となり、強い刺激には無反応あるいは、カタストロフ(おそらく破滅の意味「俺に近寄るなっ!!!」)で反応する.

 安永は、こうしたファントム機能の失調と統合失調症の発病は、外力と脱臼の関係に似ているのではないかという.つまり主体の素質によっては生まれつき脱臼しやすいものがある(臼蓋形成不全や軟骨の形成異常).しかし、通常は発病には外力が必要だという.外力の作用が「発病」を結果するためには力の大きさだけでなく、作用する方向、油断、物の弾みといった要因(うっかり転んでしまいました)が必要だとする.大きな力がかかっても予期してうまく力を流せれば、脱臼を防止することができるだろうとする(柔道の受け身など).このような説明は私にとって概ねなるほど、と思わせるものである.主体の素質に関与しそうなものは、遺伝素因や家族歴であろうか.幼少期の生育環境も考えられそうだ.外力には親からの虐待、いじめ、転居、逆境、出産、就職その他強いストレス因が挙げられる.こうした外力をうけて全員が疾病に罹患するわけではないのだから、外力の受け方、作用方向という点などいくつかの条件が必要そうであることは納得である.

 脱臼と決定的に異なるのは、完全整復がなかなか起こり得ない、ということだ.骨の例でいえば強い習慣性再脱臼(再燃と寛解)の傾向を示す.そして、脱臼でわかるように、レントゲンを撮れば「骨頭が関節窩を外れている」「異常な肢位をとっている」ことがわかるが、統合失調症ではそれがわからない、ということである.つまり「骨頭が関節窩を外れている」に等しい機構論がないのである.何も.それに近いものとしてMinkowskiは「現実との生ける接触の機能」、Binswangerは「体験の自明な一貫性」というのだが言っている意味がそれらの言葉だけでは全くわからないし、扱う問題の次元が高すぎる.(そのためのファントム空間論である)

 さて、ファントムエネルギーという言葉を聞いて、狐につままれた感じがする人は、次のような感覚を考えてほしい.私だったら長い外来診察を終えるといつも、どっと疲れた感覚になって、その日は世の中の誰とも話をしたくない感覚になる.コールセンターに勤務される方であれば、理不尽な苦情を延々と聞くのにはものすごいエネルギーを使うはずだ.行きたくもない職場の飲み会につきあわされると、つまらない話を聞くにも心労が伴うだろう.外回りの営業でお客さんに挨拶をするときにそっけない対応をされると辛いだろう.こういうときは「うまく言い表せないが何かを消費した感覚」なのではないだろうか.私が強調したいのは、このような議論は決してオカルトではない、ということだ.決して「月刊ムー」レベルではないのだ.(「ムー」は好きだ.)

 安永は統合失調症の機構論としてファントム空間論を提唱したわけであったが、決して私達にとって無縁というわけでは無いはずで、私達が感じている心労はおそらく外力の一つなのだろうと思われる.だが、どのような事情で本来正常であったファントム機能が衰弱、破綻してしまうのだろうか、ということは気になるだろう.発病者のファントムには何らかの特性があったのだろうか.

 このような問題に対して、安永は以下の可能性を予想する.統合失調症の定常的ファントム距離は、他の素質者よりも大きい.これを心理学的に言えば、彼・彼女が自然と物事に対して遠い心的距離を取る、ということと同義である.しかし、これには大きな維持エネルギーを要するはずだという.ファントム機能とは、「他者とのほどよい距離感」を保つ機能である.そして遠ければ遠いほど大きなエネルギーを使うと仮定される.そこまで遠くなくても良い人もいれば、遠くでないと落ち着かない人もいるはずだ.満員電車が平気な人と絶対に無理!という人がいる、といえばわかるだろうか.

 もしエネルギーを消費することがファントム機能の失調なのであれば、一般に近い心的距離に暴露される、または持続的に強要される人は、統合失調症の発病をきたし得るだろうという.

 今回はここまでにさせていただきます.少しずつ筆者の本題に踏み込んでいく感じがわかれば嬉しいです.誤解のないように言うと、筆者はこの論を盲信しているわけではありません.ただ稀有な症状機構論として取り上げているだけです.読んでくださりありがとうございました.

 

ファントム機能あれこれ

錯覚運動を考える

 前回の章でついに「ファントム空間」を定義することが出来た.ファントム空間は「幻影肢」や我々が感じる錯覚現象(ミュラー・リヤー錯視など)が確かに生じるという事実から「心的距離」=「こころの距離」を規定するものとして示された.よって「ファントム空間論」とはすなわち「心的距離」をほとんど生理的な機能概念「ファントム機能」として用いよう、とするものである.

 安永によれば、この着想の順序は、神経生理学における錯覚運動の法則を、精神現象に適用しよう、ということが骨子となっている.その一般法則は次のように表現されるそうだ.

一、主体にある「作業意志」が働き、

二、しかるにその運動の最終効果器官Effectorが機能を失っており、(予期したほど反応しない)

三、しかもその機能欠陥を主体が知らなかったならば、結果として次の錯覚のいずれか(あるいは両方)が生じる.

a: 意図と同じ方向へ、「仮現的な外界の運動」の*「能動的」感覚が生ずる.

*自分が外界を動かしているかのように感じる、ということ.

b: 意図と反対方向へ、「仮現的な自己の運動」の*「受動的」感覚が生ずる.

*自分が受け身に動かされているかのように感じる、ということ.

 ……なんだかよくわからない、と思う方がいても不思議ではない.そのために具体例を安永が用意してくれている.これで安心……と言いたいところなのだが、まずは著者の説明をご覧になっていただく.以下は抜粋である.

 この法則のわかりやすい実例を述べよう.一眼のみを実験の対象とする.もし右眼の外転神経が麻痺しているのに(あるいは眼球を機械的に固定して動かないようにしても同じ)、主体が右へ眼球を廻そうと意志したとする.このとき、実際には眼球は動いていない(すなわち視野には何の動きもないはずである).しかるに主体の体験では、外界は右へと旋回運動を起こすように感じられる.これはさながら目が外界を右へ振りまわしてゆくかのようである(同時に、おそらくははるかに弱い程度に、主体事態の身体が左へ廻されてゆくような感覚も伴うだろう).

 正直言って、私にはこの例がわからなかった.単眼を前提に議論をすることが両眼をもつ我々(のほとんど)にとって、すぐには理解し難い景色となる.単眼にとってそれは立体感のない景色であることは、我々が片目を隠せばわかるのだが.

 ちなみに外転神経というのは眼球を外側に向ける筋肉だけを支配する神経のことだ.外転神経麻痺は眼を外側に向けることができなくなった病態である.外側というのは右眼にとって、右であり、左眼にとって左をいう.麻痺してしまうと外側を向きたくても向けない、という状態になる.つまり、主体が右へ眼球を廻そうと意志したとしても、実際には眼球は動いていないのだから、主体が機能欠陥を知らなかったとしても「主体の体験では、外界は右へと旋回運動を起こすように感じられる」なんてことはないはずだ.

 我々は両眼で世界を捉えることが多いので、もし片方の眼が外転神経麻痺になったとすると、ある視野において「複視」という状態になる.ものが二重に見えてしまうことを言う.様々な外転神経麻痺の患者さんと思われるブログを拝見したが、「主体の体験では、外界は右へと旋回運動を起こすように感じられる」ような説明はどこにも見られなかった.せっかくの論考でこの例示は惜しい.

エレベータに乗ろう

 よって、私なりに安永の考察が意図するような具体例を考案してみた.仮にあなたが新築の分譲マンションの見学会に参加したとしよう.そのマンションは全部で三十六階まであり、高性能エレベータが三基稼働している.「いい景色ですから」と不動産屋の口車に乗ってしまい、貴方はエレベータに乗って、最上階の景色を眺めることになる.そのエレベータは、落成前なので地上階と最上階しか往復できない.乗っている間は自分がどの高さにいるかもわからない.完全な密室である.そして、このエレベータ、最新型で加速が極めてなめらかであり、いつ動き出したかわからないくらいである.だからエレベータの中にいる運動系では乗員は静止しているかのように感じられる.

 そして気づかぬうちに到着するのだが、このエレベータ、ブレーキの調整が不十分で、最上階に到着するときは急ブレーキで静止する!

 これでようやく安永の意図する条件が設定出来た.先程の安永がいう錯覚の法則に当てはめてみると、

一、主体にある「作業意志」が働き、→(エレベータに乗ったから加速を感じるはずだ、半規管に存在する耳石が動くことで重力を感知するはずだ)

二、しかるにその運動の最終効果器官Effectorが機能を失っており、(予期したほど反応しない)→(「あれ、全然動いている感じがしないな……」半規管の機能閾値を下回る加速度である)

三、しかもその機能欠陥を主体が知らなかったならば、結果として次の錯覚のいずれか(あるいは両方)が生じる.→(実際は時速60km/hで動いていたところから急速に静止する運動が生じる)→「全く気づかないうちに到着していた!!まじかよぉ!」

 このとき、自分と不動産屋さんの身体は「仮現的な自己の運動」の受動的感覚が生じるはずである.つまり、完全に静止している状態から突如、浮き上がる感覚が急に感じられる.そして「おえっ」となるだろう.「もう二度と乗るかこんなポンコツ!!」

 どうだろうか、厳密にいえば乗員の身体機能は全く問題ないのだが、慣性系が一致することで感覚器官が機能しない、という状態をつくることは可能だということはわかるはずだ.そして現代に生きる我々はエレベータに乗って浮遊感をわずかに味わった経験があるはずだ(なかったら申し訳無い).

 ファントム機能と統合失調症

 もう一度いうが安永はこうした生理学現象を精神現象にも当てはまるのではないか、と考えたのであった.精神現象における機能、それがファントム機能である.

 前回の記事の内容を改めて述べると、ファントム空間とは、体験可能な至近点から至遠点までの三次元空間のことをいう.その至近極からその時のイメージまでの体験距離をファントム距離、といい(こころの距離)、これを保っている特殊エネルギー実態の働きをファントム機能と呼称する.

 ファントム距離は多少伸び縮みする.だがたいていは至適定常距離にある.つまりほどほどの距離感を保つことができている.知的イメージはその端に現れる.知的イメージというのは、「家族」、「友人」、「職場の人間」といった他者の存在と考えてよい.それなりの距離感を自分なりに掴んでいる.それがファントム機能だ.この機能が正常であれば、習慣的に作られた世界の距離的構造の認識図式とファントム機能とはそのファントム距離測定において全く一致しているはずだ.

 しかし、統合失調症において、このファントム機能が急激に衰弱したと仮定しよう.安永は錯覚運動と似たような現象が起こるのではないかと考える.

 ファントム機能のなんらかの失調により、ファントム距離が短縮してしまった!だが、自身はそれに気づかない.自分はいつもどおり、あるファントム距離を測定した.しかし、イメージはその「予期された距離」にはなかった!!!!!自身はよろめき、錯覚運動が起こる.知覚イメージはこの場合、「遠ざかり運動」を起こす.従来のファントム空間の圏外へと、逃れようとする.

 この説明も急に言われてしまうとよくわからないかもしれない.なので亀吾郎法律事務所のスタッフが頑張ってこの論考に対して、まぁまぁな例を用意することにした.どうか楽しみに待っていただきたいな、と思う.ファントム空間論、なんとなく興味を持っていただけたら嬉しいです.

 

「こころ」の実体

ファントム機能の仮説

 少し時間が空いたので、これまでの論考のまとめをしておこう.精神科医の安永浩による精神病理学的仮説に「ファントム空間論」というものがある.世の中にあまり知られていない.これは安永がとある哲学理論をもとに独自に打ち立てた斬新な仮説であり、統合失調症の病理を理解しようとする奇特な試みである.

 その論考の骨子には、「パターン:実存的二元論」という考え方がある.詳しくは過去の記事をご覧になっていただくか、書籍を購入し熟読していただくことになるが、簡単に言えば、相応する二つの概念「全体」と「部分」、「生」と「死」、「自」と「他」といったものが世の中には存在する.この概念は、本来不可逆的な方向性を持っている.そしてその方向性は論理的必然性(Logical necessary)として自明なものとして機能している.これを「パターン」と安永はいう.

 ところが、統合失調症の患者らの症候をつぶさに観察すると、こうした公理が完全に逆転しているのでは無いか、という懸念が生じる.つまりは条件的偶然性(Contingency)の方向に論理がゆくのではないかと仮定せざるをえない、という.安永はこの仮説に基づいて、幻覚、妄想といった基本的な障碍の説明を試みてゆく.もちろん、自閉や作為体験、感情鈍麻といった症候も「パターン」が逆転することで生じるというものだった.

 こうした論考に否定的な人々がいることは予想される.批判も慎んで受けなければならないだろう.この論考は単なる思弁で都合よく辻褄をあわせたものに過ぎないと.私はすべての人と理解し合えるとは思っていないが、安永は「バリバリ」の臨床医であったという評価を聞く.それにこのような「思弁」を体系づけるには膨大な調査と臨床経験が必要であるのは、素人の私でも理解できる.安永が病理学的理論を構築した意図には、統合失調症を理解したい、患者さんを理解したいという純粋な願いであろうことは決して私の邪推ではなかろう.

 現代の病因論や治療論には生物学的、薬理学的理論の仮説が大きく台頭し、その理論は完全ではないものの大きな成果を上げていることは事実であり、筆者の経験から言っても間違いない.ドパミンやその他モノアミンといった神経伝達物質の相互作用が幻覚妄想に関与しているという仮説は非常に説明的であり、現在これを超える理論体系は存在しないといっても良いだろう.

 だが、しかし、である.アリピプラゾールを使おうが、ブレクスピプラゾールを使おうが、ルラシドンを使おうが、どんな新薬を使ったとしても「なぜ疾患が生じたのか」の解明にはまだまだ近づけないだろうと思う(と言っているうちにブレークスルーがあったりする).例えばカルボニルストレス代謝障碍と統合失調症、といった生化学的なアプローチで原因を捉えようとする方法論も私は承知している.しかしながら、こうした生物学的研究手法はどうしても診断体系を画一しなければならない一方で、そもそもの精神疾患の診断基準とされる「DSM-5」には多くの批判が挙げられている実態は無視できないだろう.DSM-5やICD-10の話をするときりがないので、ここまでにしておくが、要するに解明まで「あと数手及ばない」感じなのだと思う.にしてもその数手は遠い.ここでこの連載の第一話の引用を思い起こしていただきたい.

 そう、三島由紀夫の「鏡子の家」に出てくる、夏雄である.彼のような統合失調症発病過程の機微を如実に表すことは、おそらく分子生物学的立場では限界があるだろう.

 だが幸運なことに、かつて日本では安永が独自の「症状機構論」において精神病理学の貢献可能性を見出した.それが「ファントム空間論」であった.

 統合失調症は一般に器質的疾患ではなく、機能的疾患であるとされる(慢性の経過ではMRIで局所に体積減少が指摘されることもある).つまり脳の一部が大きく欠けているとか変性しているから生じているのではないとされる.だから患者の頭部MRIを撮ってもほとんど健常人と見分けがつかない.さて、機能失陥であれば脳の「何」が統合失調症を起こすのだろうか、という疑問が生じる.その「何」を安永はEffectorと呼んでいるが、要するに身体でいう器官のようなものだ.その器官を安永は「心的距離を保つ基体」と仮定し、論考をすすめる.

こころの距離感

 私達の体験的空間はある「距離」に張られているという.私達の表象イメージ、知覚イメージは脳の中で作られているのだが、「一定距離」をおいたその端に投影される.どういうことか.

 あなたは会議室で聴衆の前でプレゼンテーションを行うとする.ノートパソコンをプロジェクタに接続し、プロジェクタが映写してスクリーンに映像が現れる.その映像は「爬虫類:クサガメの神秘」についてであり、聴衆はもっとよく見たいと意見をいう.あなたはパソコンを操作し、ズームアップすると、クサガメの手足が大きく写り、そのしなやかな肢体が悠々と動くのを見て、聴衆はうっとりする.

 ここで言いたいのはスクリーンに映る映像が例え拡大されようと、遠影に見えようと、聴衆とスクリーンの距離は変わらないのは自明だということだ.この距離は主体と投影される写像とのそれであり、基本的に「至適」な距離である.上記で述べた「一定距離」=心的距離とはこの距離のことをいう.物理的な距離ではない.

 さらにいうと、「一定距離」は主体にとっての実存的余裕、空間的、時間的間合いという意味であり、私達は「一定距離」を保つことによって「存在的猶予」=安心感をもつことができる.中央線の満員電車の中と、幌加内のそば畑では、後者の方が安心するはずだ.どんなものでも近づきすぎれば危険、苦痛、不快を感じる機能をもつ.試しにボールペンや尖ったものを手にとって、触れないように先端を自分の眉間に近づけてみてほしい.「ジーン」とした感覚がするはずだ.近接することによる「不快」がわかると思う.

 もう一つ、例を出す.例えば、あなたは生物学的に男性であると仮定する.駅でも空港でもいいが、公共施設の男性トイレに行き、小便をするとしよう.決して下品な話をしたいわけではない.小便器は横一列に五台並んでいるとする.左から二番目に誰かが用を足しているとき、あなたはどこで用を足すだろうか.

 おそらく右から二番目か、一番右だろう.わざわざ用を足している人の隣にいくことはないと思われる.空いているトイレで、知らぬ人が隣で用を足し始めたら、かなり気味が悪いだろう.これも「心的距離」で説明がつくのではないか.電車の座席も同じことが言える.私達は自然に、自ー他の距離を「のばす」、遠くへ「保つ」機能があるのだと考えてもよさそうだ.近づきすぎているものを押し留めておくには、より多くのエネルギーを必要とする.「緊張感」、「気疲れ」といったものが生じる.

 以上は私の例えだが、これでも「抽象的な議論だ」、と思う人がいるかもしれない.とはいっても事実世の中には「幻肢痛」(Phantom limb pain)という現象が存在する.四肢切断や乳房切除など、外傷・外科手術により身体の一部を失ったあとも、失った四肢が存在するかのように温痛覚障害やしびれを生じる感覚経験をいう.目に見えないのに、確かにそこにあった空間として痛覚を感じることができる現象が生じているのだ(人気ゲーム「メタルギアシリーズ」の現行タイトルも「Phantom Pain」であったはずで、決して世間で認知されていない現象ではないと思う).この議論は空論ではないことを強調しておく.やはり実存は本質に先行する.

 強調しておきたいがために、もう一つ例を出す.安永もほとんど似た例を出していたので、論を強固にできるだろう.

 例えば、あなたが誰かと二人で話をしながら、どこかの階段を降りているとする.話は盛り上がり、あなたは目線を相手に向けていて、階段をどのくらい降りているかわからない.ふと、あなたのどちらかの脚が一番下まで着いたとき、あなたは無意識に反対の脚を長く伸ばしておろそうとするはずだ.しかし、ただちにあなたは地面が沈み込むような、脚が短縮したような錯覚をいだくはずである(事務所の掃除夫はこうした経験を何度もした).

 この現象は次のように還元できる.

 習慣的に作られた世界の距離的構造の認識図式と「一定距離」を保とうとする機能は、その距離感において全く一致している.しかし、もし「不意に」その心的距離が何らかのきっかけで短縮したとすれば、錯覚運動がおきる(のではないか).

 何らかのきっかけ=病的状態だと仮定すると、もしかすれば、私達は統合失調症の体験する空間認識を説明することができるのではないか.統合失調症の理解に寄与できるのではないか、と安永は考えたわけである.安永は先に述べた「幻肢」にならって、その空間をファントム(Phantom)と呼び、「心的距離」に相当するものはファントム距離、その距離を保つ特殊エネルギー実態の働きをファントム機能と呼ぶことを提唱した.そしてそのファントム機能を説明する仮説を「ファントム空間論」というわけである.(ここまで長かった……)ではどのようにして統合失調症の機能障碍を説明するのか.それは別の記事に譲るとしよう.これまでの論考で散々述べてきた「パターン」の話がようやく生きてくる.

 

 

妄想の問題

はじめに

 安永浩によるファントム空間論の序論を追っている.これで六回目だ.だというのに、まだファントム空間の話をしていないのはどういうことだ!と怒られるかもしれないが、どうか辛抱強く待っていただきたい.なぜなら、我々は安永のいう「パターン:実存的二元論」を理解せずにファントム空間を理解することはできないからだ.これは安永の親切心である.はじめて見るかたはぜひ、始めから見ていただきたい.

 今回は、妄想について扱ってみる.その前に自我障害の章があるのだが、それはまた別の論考で取り扱うことにしたい.かくいう私も早くファントム空間論を扱いたいのだ.

 妄想とはなにか

 これをうまく説明することは難しい.説明できたとしても、Bertrand Russel(バートランド・ラッセル)が1+1=2の証明に膨大な紙面を費やしたのと同じように、大変な注釈をつける必要がある.いくら目の前の真摯な読者でも、それは苦行でしかない.だがなんとかしてこの記事においてだけでも定義しておきたい.妄想を誤解していただきたくないからである.

 世間でよく知られたものとして、「訂正不能な言辞」「了解不能な言葉」「誤った確信」などがあるだろうと思う.これらはいかにもそれらしいが、幾分の弱点がある.

 日本精神病理学会(私、吾郎も学会員であるが利益相反はない)の「精神科用語シソーラス」から引用するのが最も簡潔であるように思うので、ありがたく引用させていただこう.リンクフリーである.

 妄想とは患者の教育的,文化的,社会的背景に一致しない誤った揺るぎない観念ないし信念であり,明らかな反証があっても確信は保持される。妄想と真の信念と区別は,患者が主観的に行いうるものではなく,外部の観察者によって行われる。すなわち,その内容が非蓋然的であることに対する患者の判断が誤っている場合,その確信は妄想とされる。この誤った判断は必然的にその体験に対する病識欠如を生じる。

針間博彦

 コペルニクス的転回が起こる前の世界の人々の多くは天動説を信憑していたが、Galileo Galilei(ガリレオ・ガリレイ)は科学的観察に基づいて地動説を主張した.よく知られているように彼は妄言を言っているとして異端扱いされた.彼の主張は妄想だったのだろうか.現代の我々からすれば、彼の主張は妄想では無い.だが、当時の人々からすればどうか.彼の思想は教育的、文化的、社会的背景には一致しなかっただろう.明らかな反証かどうかはともかく、宗教的に強力な反論があっても彼は確信しつづけた(それでも地球は動いている).私は現世のクサガメなので、彼らの立場から「妄想だ」というわけにはいかない.妄想というのは、時勢によって、立場によって、解釈が異なる可能性がある.そのことを念頭に入れて論考を追いかけていただきたい.

妄想とは患者の教育的,文化的,社会的背景に一致しない誤った揺るぎない確信である.

 賛否はあれど、概括的理解ならばこれで良いだろう.では安永はどのように考察をするか.彼は妄想について、我々がどのようにして「意味づけ」をするか.これが重要であるとしている.ほほ〜

 「意味づけ」の重要な点は、「自分はこの事態をこう予測し、それ故こうこうすべきである」という「行動の要請」に関わる局面であるとする.この局面は生命体にとって大変な意義を持つ.というのは、我々が体験の各瞬間に出会うものを「何かの兆候」とみなしているからである.人間だって「雨が降っているから傘をさそう」「曇ってきたから洗濯物を取り込もう」「パトカーが近くにいるからおとなしく走ろう」「遅刻してはいけないから早めに家を出よう」「赤信号だから止まろう」と判断する.それらは「放置すればより危険な、由々しき現実となるであろう事態を、未然に感知しうる、そして行動によって回避しうる」ということであり、この「予感」がないと、生物はあらゆる偶然の危険、環境変化に対応することは出来ない.クサガメだって、脅威があれば首を引っ込めて守りに徹するし、食餌と掃除をしてくれる掃除夫が近づけば、喜んで近づく(なんて賢いんだろうか!).

 ここには体験における「時間」というものが必要になってくると安永はいう.しかしもう少し丁寧にいえば、「現在の意識がこういう構造をとることが、『未来』という時間性をつくる」という方が正しい、と安永はいう.ここで私は木村敏の言葉を思い出す.

 時間とは自己存在の意味方向である

 私達は何かを絶えず予想する.増大する「危険」を感じれば、何らかの行動によって回避する、安全ならばほおっておく.逆にエネルギーがあまれば、ただそれを放散するための手がかりとしてのみ、予感される(湖畔のほとりでキャンプをするとしよう.火をおこし、飯盒炊爨を待っている間、手持ち無沙汰なので丸くて平な小石を探す.それを水平に投擲する.小石を投げるものとして意味づけする).

 これまでの話を「パターン」に応用するとどうなるか.「意味づけ」の方向性A→Bは常に「現在」に立って、「未来」を望む方向にある.原因があるから、結果がある.「原因」の主体性、先行性は自明だ.そして、とある現象を「結果」とみなし、あるいは「過去」にさかのぼって「過去」に生きることもできる.「ここに結果があったのであれば、原因があったに違いない」と、後方視するのは「論理的必然性:logical necessity」である.

「右下腹部を主とする圧痛が生じている、腹部超音波検査で虫垂に相当する位置で輝度が高い.これは腹部臓器の炎症が急激に生じたに違いない;虫垂炎かもしれない」

「夏季の猛暑にとある独居住宅からご遺体が発見された.角膜は白濁し、透見できない;死体現象が生じ、24時間ほど前に死亡したのだろう」

といった具合で、医学において論理的必然性は極めて重要である.だが、こうしたロジックは、原因→結果が前提にあるからこそ、その上で、結果→原因を想定することができる.さきほどの例も、「虫垂炎や付属器疾患かもしれないから、右下腹部に疼痛が生じている」、という論理が先行しているし、経験的に「夏季に、人が亡くなり24時間経過すると角膜が白濁する」ことが知られているから「条件的必然性:contingency」が成立するのだ.

 では統合失調症において「パターン」が逆転するとどうなるのか.我々は彼らの体験を直接追体験できないから、限られた知性によって想像することが必要となる.さしあたり、「原因」が従属し、「結果」が主体となる.つまりは「過去」が支配者で、「未来」が従属する.なんてこったい.ここで安永はK. Schneiderの例をあげる.

 「犬が一方の前脚を高くあげた……これは明らかに天の啓示に違いない……」

 う〜ん、これわかんねぇな状態である.ここで重要なのは、「そうはならんやろ」と切り捨てるのではなく、「どうしてこうなった」と考えることが大切だ.この意味づけは「結果」→「原因」という逆転であった.安永の考察では、このベクトルは絶えずさかのぼって原刺激に向かう流れだという.ここでは犬が前脚をあげたことに相当する.「犬が前脚をあげた」という現象を説明しうるが故にのみ重大である、という形になる.難しいね.安永は、患者は一つの知覚事態に対して、「それには必然の理由が存在しなければならない」という方向を第一義として常に意味づけするように見える、という.私達が前脚をひょいとあげる犬を見て「どうしたんだろう」と未来志向の考えを働かせるのに対して、統合失調症においては「前脚をあげちゃった、大変なことになった!もう取り返しがつかない!」という過去志向の考えを取る、ということになるのだろう.だが、なんとかしてそれを取り繕う(この表現が適当かは私自身疑問だが)ために、啓示や運命、といった予定調和的な言葉遣いになるのだと思われる.そうせざるを得ないのである.よって、このB→Aの体験は「ふと;plötzlich」生じる.予期できない性質をもつ.あとで安永は「不意打ち」という表現を使う.

 彼らは未来形の助動詞使用を封印されているようなものだ.「……でないかもしれない」という疑いはできず、「……に違いない」となる.まるで推理小説に出てくる早合点の刑事のようである.「わかりました!犯人はあいつに違いありません!」

 が、感情的先入観のある正常人とはやはり性質が違う.彼らは結論を先に出して、それから推理をするようにみえる.これは継時的行為である.彼らの論は誤っていようとロジカルである.それ原因→結果のベクトルが正常だからである.ただ考えが浅いだけだ.統合失調症の人々にとってそれは起こり得ない.過去が未来を従属しているので「もう間に合わない」のだ.

 「もう間に合わない」からこそ、「夫が別の女と寝てしまった;夫婦妄想」、「妻とそっくりの偽物にすり替わってしまった;カプグラ症候群」が生じる.「世界が破滅してしまったような感じがする;世界没落体験」、「私のからだはどろどろに溶けて死んでしまった;コタール症候群」といった取り返しのつかない体験を述べるのであろう.

 自己関係づけ

 統合失調症に置いて、かなり普遍的にみられる現象として、「自己関係づけ;Eigenbeziehung」がある.これは「注察妄想」、「あいつが私のことを見ている」といった陳述からも知られている.自意識過剰では無い.

 もともと我々は厳密には違うが「客観的な態度」をとることができる、というのは「主体」が十分に「客体」を統制しているからこそできる.そのことを経験的に我々は知っている.この主従関係が逆転すれば、「客体」が「主体」を支配する.すなわち「他人が自分を見る」、ということが自明である.しかもそこに「結果」→「原因」の逆転が起きているから、「なにかとりかえしのつかないことが自分におきてしまった」となるし、それは「自分に起因するのだ」と信憑せざるを得なくなる.これが外延すると、一切の外界の現象がすべて自分に基づいている、とまで意味づけられる.

 ここで、安永の話す妄想の論考は終わりになるのだが、私達にとって、特にHighly Sensitive Person/People; HSPの方々にとって重要だと思われる注釈があるので、言及しておきたい.以下の神経症という言葉は多義的で難しい用語だが、ひとまず不安障害、社交不安障害、対人恐怖症、視線恐怖症、広場恐怖症といった言葉に置き換えて貰えればと思う.HSPが疾患ではないことを十分理解した上で、置き換えて頂いてもよいと思う.

 (これまで述べた論考において)これらは神経症者にみられるような関係念慮とどんな対照にあるだろうか?

と安永は疑問を投げかける.関係念慮というのは、例えば

「電車の中で、さっき男の人が『チッ』と舌打ちをしたように思う.私のことを見て舌打ちしたのではないかしら」

「職場の上司が、私の方を見てわざと咳払いをした.私がこの前仕事でミスをしたことのあてつけではないか」

といったようなものである.もちろん架空の例である.彼らが他人のまなざしを感じるとしても、それは統合失調症におけるような絶対的所与では無い.正常の了解では他人の「自我」とは自分の「自我」を前提としてその中に含まれ理解されるような順序である.ちょっとややこしいがA,Bのパターンを使って表してみる.

「他人が自分を見ている」了解というのは自分の体験の了解にすぎない、というところがミソである.

A→(A’→B’)→B

→は条件的必然性:contingencyの方向、A’、B’は他者の、A、Bは自分の「パターン」である.自己から発する他人の了解、他人の目を通じて自己了解、と還帰する.流れは正常だ.ただ過剰なのである.強い感情の発露、過剰に「予期」することにより始まり、悩み、悪化する.これは森田正馬でいう「生の欲望」でもある.死の恐怖、病気を恐れる強い力動には、健康でありたい、元気でいたい、しっかり振る舞いたいと努めようとする「生への欲動」が根底にある.

 私は恥ずかしながら森田療法で知られる森田正馬をよく知っていない.しかし彼の説く、「ありのままに生きる」というモットーは多くの人を勇気づけ、共感を与えるものだと思っている.しかし社会がそれを許さない構造になっているようにも思う.完璧主義を求める労働体系、社会規範.緊張感が漂う.公私の分別が曖昧となり自我境界も見えなくなってしまっているようにさえ感じる.A→Bの関係において、Bが力を増しているような社会である.AとBが近接しつつあり、我々はAを強めようと感情を、予期能力を、不安を強めるのだと思う.「繊細さん」は持ち前の素晴らしい才能があるにも関わらずそうした危機に瀕している.この時勢における新型コロナウィルス感染症の大流行が、少しずつ旧態依然であった社会のあり方を見直す機運となっているように感じていることは私だけではないと思う.コロナ禍が収束することを願う気持ちは私も皆さんと同じだが、この混乱を運ぶ災厄が、世界に変革をもたらすトリックスターであらんことをひそかに祈っている.

 

 

 

フォン・ドマルスの原理

統合失調症の思考特性とは

 安永浩の著した「ファントム空間論」に関する話はこれで五回目になる.前回までは序論や幻覚について、著者の論考を追いかけたつもりだ.これからは思考障害に立ち入る.立ち入るにはかなり難しい領域で、しかもブログとなればなかなか表現が難しい.安永自身は、自分の仮説であれば、これも説明可能だと述べている.が、その説明の前に大幅な注釈がついている.そう、フォン・ドマルスの原理(von Domarus’s Principle)である.こちらの方が考察としては興味深いかもしれない.聞いたことがある人はいるだろうか.きっといないだろう.私も知らなかった.興味深いといった理由とはそういうことである.「たぶん誰も知らない」.

 原理というのは事象が成立するための根本となる仕組みのことだ.そして、この原理は精神医学のものだそうだ.つまり、精神現象の根本の根拠だということになる.マジか.

 Eilhard von Domarusという人物はドイツの精神科医である.だがその原理以上のことが一般によく知られていない.どうやら1925年に発表した論文によれば、その原理は多くの統合失調症の患者から帰納的に導き出したものであるとされる.さて、どのような原理か、と言われれば次のようになる.

 統合失調症の患者は『述語が同一であるとその主語を同一視するようになる』という原則に従って行動する.(XがZである、YはZである、故にXはYである)

 読者の中には「へぇ〜、そうなんだ」派と、「ほんとぉ?」派がいると思う.その感覚は間違っていない筈で、信憑するにはいささかアヤシイ.精神医学のメインストリームにはない概念である.(メインストリームでは無いが、重要な黒子である)

 これはこれで興味深い思考様式である.もし上記のX、Y、Zが代数であれば、数学的には成立するのである.以下のようになる.

$$X=Z, Y=Z$$ $$∴X=Y$$

 では、つぎのような文章はどうだろうか.

甲「私は処女です.聖母マリアは処女です.だから私は聖母マリアです」

乙「太陽は一つです.私は一人っ子です.だから私は太陽です」

(そうはならんやろ)

上記二つは実際の症例の言辞である.甲は海外の症例で乙は日本の症例だという.海を超えて奇妙な一致があるのは不思議である.()内は私の心の声だ.

何かがおかしい.どちらともおかしいのはわかるが、何がおかしいのか.数学的な方法であれば成立した関係が、言語ではそうはいかなくなる.なぜおかしいのか皆さんは説明できるだろうか.まずは私なりの見解を説明してみよう.

 前述のXYZは数学的な特性が前提にある.代数と言ったのはそのためだ.だから同じ属性として不等号が成立しうる.だが言語になると、「わたし」「聖母マリア」「太陽」は皆、主部である.「太陽」「処女」「一人っ子」は述部である.単語に課せられた言語的性質がすでに違うため、独立した主・述を等式でしめすことが文章として破綻してしまうのだろう.そしてなにより私たちは単語が属する性質を自明なものとして理解している.

 安永は「パターン」を用いて説明可能とする.ちなみに上記の二例のような述語の同一性を前提にしている論法を述語論法というらしい.人がある「概念」的把握、ある「判断」作用を行う瞬間、それがあっているかどうかはともかく、その体験には厳たる統一、「全体」の感覚があり、その差別相、「部分」はこれに従属するのみだ、ということが自明になっていなければならない.「概念」や「判断」は全体的把握があるからこそ、「概念」、「判断」である.しかしその概念の明確な限界づけ、判断の分化構造は通常必ずしも完璧ではない.つまり前述のパターンで言えば、Aに対してBが弱すぎる.甘すぎる関係にあるという.だから「概念」、「判断」理解には曖昧さと不正確さがでる.なるほど.たしかに我々は事象の理解、把握をできるだけ正確につとめようとするが、完璧さは日常の絶対条件では無い.スーパーマーケットでうっかり買い物袋を忘れたときにレジ袋を何枚頼むかは、買った品物のすべての体積を理解する必要は決してなく、大雑把な見通しを立てられるかで決まる.

 ある正確な、それ以上説明の余地のない境界と分化をそなえた「概念」、「判断」はAとBが一応限界的な平衡状態にあるという.この場合は、a=bである.その前はa>bであることはわかるだろう.私見になるが全体と部分が非常に近接する状態というのは、HSPとよばれる人たちの先天的特性を表しうるのではないか、つまり、彼らの

「Depth」深く考える

「Overstimulation」過剰に刺激を受けやすい

「Empathy & Emotional」共感力が高く、感情豊か

「Subtlety」わずかな刺激を察知

という特性は部分が全体に迫っているようなAとBが接近している状態であれば説明的であると思うのだ.

 さて、なぜ上記の甲乙の文章がおかしいと我々が感じるのか.言語学的な立場からの考えがあればぜひコメントを頂戴したいが、健常な人が一つの命題を作る時、述部というものは、主部がこの命題をつくる前に持っていたところの「概念」を、何らかの意味でより細かく、より具体的に規定、制約、分化せしめるために要求され、用いられるからだ、と安永はいう.その結果もとの主語概念が損なわれるだけでは無い.棄却されるわけでもない.「よりよく分化された全体」になっただけだ.例えば、

 わかいほは みやこのたつみ しかぞすむ よをうちやまと ひとはいふなり

 (我が庵は 都の巽 しかぞ住む 世を宇治山と 人は言うなり)

喜撰法師

の「わかいほは」から「みやこのたつみ」へと分化されるが、自分の家が京都の東南(巽であり宇治)にあって穏やかな場所(巽)だ、という全体を為している.お上手.

 ではa<bとなった場合、どのような状態になるか.この場合、全体が部分のために要求されてしまう.全体が部分に従属するという異常事態だ.我々は追体験することが出来ないが、「部分」が自明な出発点となる.このために無作為な任意の「全体」が「部分」から誘導される.だが「全体」のようにみえるものは「全体」の意味をもたない仮現の従属的全体であり、むしろ形骸的な結合である.死んだものが生き返って動き出すゾンビである(ゾンビも生と死が逆転した関係といえそうだ.死が生に超克した存在がゾンビであるからだ.だが安永式論考で言えば、これも形骸的結合であろう.つまり私に言わせれば結局ゾンビもその結合であり、「生きている」ようにみえるものは「生きている」意味をもたない仮現の従属的全体である).

 このような異常な判断体験においては、「パターン」の「量的」側面が支配し「質的」面は付随するのみだ.もう少し例を出そう.「メーガン」という女性がなぜかゾンビになったとする.生気がなくなるが肉を求めて生き物に食らいつく.異常な代謝で身体は腐り果て、みるも無残なゾンビになってしまえば、彼女はもはや「メーガン」では無い.「メーガンだったゾンビ」になるだけで、「メーガン」の主体性は失われ、ゾンビという「死>生」の存在の一つになりさがる.(*メーガンに恨みはない)

 このような判断を異常、と記しているが、このようなものはどうやら迷信における命題に多いらしい.例えば、「衣服を左前に着ない」のは日本人なら当たり前だのクラッカーであるが、これも述語論法だ.「死者は左前に衣服を着る」命題に対して、「私が左前に衣服を着る」と、「私=死者」となってしまうから、みんな温泉旅館では右前に浴衣を着るのである.よって異常というのは安永の言葉だが、決してそうも限らない.

 先の「私は聖母マリアです」「私は太陽です」という命題において正常な「全体」は崩壊している可能性がある.安永に言わせればまとまった命題というよりは数式のような並列のようなものである.数というのは極限までに「質」を取り払って、物事の「量」のみをとらえた抽象のことであるから、「太陽が一つ」「私が一つ」という次元で等式は成り立つ.しかし私達は日常で、質をおろそかにすることはないだろう.

 別の症例の対話を出そう.これはDomarusと同時期の精神科医、Silvano Arietiにより報告されたものだ.症例は高等学校相当の学歴である.

問「『書物』とはなんですか」

答「それはどんな書物をあなたが言っているかによります」

問「『テーブル』とは」

答「どんな種類のテーブルですか?木製ですか、磁器、外科用テーブル、それともあなたが食事したいと思っているテーブルのことですか?」

問「人生(Life)とは」

答「私はどんなLifeをさしているのか―雑誌の『LIFE』か、それとも他人を明朗にさせる恋人をさしているのかを知る必要があります」

 採用面接であれば(うわぁ、大変なの来ちゃったよぉ)となるような悲劇だが、精神科臨床ではよくある問答である.非常に奇妙な答えだと思うだろう.基本的には質問の回答として「書物とは、紙片に記された文字、文章をまとめたものです」、「テーブルとはものを乗せるための台です」「人生とは人の生涯です」といったものがあると思う.つまり、共通性抽象を問ういている.その語が何を意味しているか、何を内包しているかを問ういているのだ.だから木製だとか、外科用だとかはどうでもいいのに、症例は部分ばかり気にしてしまっている.これが奇妙さたる所以である.パターンの逆転によって、「非共通」「差別」「量」「具体」といったものが自明に先行する.よって内包するものは二次的な意味しかもたなくなる.安永はこの思考形式は認知症では出現しえないという.統合失調症の患者において言葉が

「それがそういう意味であるから」ではなくて、

「それがそういう意味でなくてはならないから

使われるのだ、といえばより強制力がわかりやすくなるだろう.断言的、妙な言い回しが多く、「…のようだ」「…のように思われる」という比喩や比較表現が苦手だ.ここで安永の注釈について言及しておこう.

 私達は何か感動し、感極まることがあれば、これを他の人にもわかるように伝えたい、と思うことがある.「ブログ」はまさにそういう手段であろう.だが、そうした衝動があるとはいえ、実践が難しいことはよく知っていると思う.感情や漠然とした把握の予感はここでいうa>bであり、本来言葉ではいいえないものがあることを知っている.”「記憶/物語」を読んで”でも深く言及してきた.言葉を無理につかっても表現しても何か表現しえないものが残る、という感じがあるに違いない.表現し得ないけれども、そこにあるのだ、という充実、満足の体験は必ず存在する.私達はインターネットの世界でも「小並感」や(語彙力)という卑下した表現で感興の非分有性を明示することがある.「それはそうだけど、どうしても最後まで表現したい!(あの名工の味を再現したい!)」ということはあまり考えないはずである.なぜなら「言い表せなくてもあるのだ」という実感は何かしら自己完結的なものがあるからだ.

 しかし思考障害が生じている統合失調症の例ではそうしたことの逆転が生じる.表現は被強制的に起こる(しなければならない).形式的命題がでっち上げられるだけで、人間的体験の深み、情感の余韻がないであろう、というのが安永の論である.

 もちろん、これは仮説の域を出ない.統合失調症の病勢が弱まっているとする現代では、こうした派手な症例はほとんど目にすることはないからイメージしづらいかもしれない.「私の知っている人はこうではない」という意見もあるだろう.それはそれで結構だと思う.これですべてが説明できると思っているほど私もぼんくらでは無い.統合失調症がヘテロジニアスな疾患群であることは現代では自明である.とは言っても安永のロジックは見事だと思う.読者の方には、世の中こういうことを考えている人もいるんだな、程度に思ってもらって良いのだが、これは決して衒学的まやかしではなくて、真に病理を理解したいがための血のにじむような思弁の結果であることは述べておかねばならない.

ここまで読んでくださりありがとうございました!

 リンクを多数貼ってありますので、気になったら他の記事も読んでくださいね.こういう議論がお好きな方は西田幾多郎がおすすめです.

 

日々のあれこれ

茶の本について

 記事を投稿してようやく80になった.サイトの連載も少しずつ増えてきたので、伴って徐々に整理をしている.主にURLのスラッグである.それからメニューに過去連載のまとめ(記憶/物語超越・脱出現象学時間論茶の本饗宴)を設けた.ぜひ利用していただきたい.

 思った以上に「茶の本」の反響が多く、主に外国の方の訪問が多い.実に興味深いことだ.一つ、翻訳について説明をしておくと、「茶の本」の原題である「The Book of Tea」はすでに著作権が失効している.だからといって好き勝手して良いというわけではないのは知っていて、著者に敬意を払いつつ翻訳をさせてもらっているということになる.商用に使う気は毛頭なく、もし全翻訳が終わった暁には、青空文庫へのリンクを申請しようかと思っている.もちろん、翻訳に粗があるので全体を読み直して研磨するつもりだ.

アラブ文学について

 大学書林で買った「現代アラブ文学選」は、私にとって貴重なアラビア語のテキストである.現在はハリール・ジブラーンの「預言者」とアブドゥル・ラティーフ・ラアビーの「監獄の手紙」を教材にして翻訳をしながら勉強をしている.アラビア語を勉強して思うことは、アブジャドと呼ばれる子音のみによる文字表記法の普遍性である.我々のうちインターネット・ミームに明るいものは「TDN表記法」という独特の呼名法があることを知っている.これはヘブライ語やアラビア語と同じアブジャドである.この偶然の一致には恐れ入った.

中東精神医学について

 私が医学を志した理由の一つに「狂気」の理解がある.つまり「おかしい」とはどういうことか、ということである.それは精神医学という分野で説明をしようとするのが現代人の理解である.さらにそれは独仏の病理学理論が大いに下地になっていて、我が国でも有数の病理学的考察が勃興した.「ファントム空間論」はその一つである.

 私が考えているのは現代の精神医学の理論体系には西洋アメリカ、一部日本のものが大変であり、そこに中東、アフリカ、アジアが含まれていない.彼らはどのような理解をしてどのようにして精神病病理を捉えているのかは大いなる疑問である.我々と同じ理論体系なのだろうか.それとも中東なりの精神病理学があるのだろうか.

 精神病における言辞として「アッラーAllah」に関する内容、「ムハンマドMuhammad」の血統妄想などはありそうだが、こうした話題は宗教上かなりタブーなはずである.彼らは狂気をどのように取り扱うのだろうか.「ジンJinn」による憑依、とでも今更言うつもりだろうか.すぐに断罪してしまうのでは無いか.

 日本における「対人恐怖症」、朝鮮の「ファビョン火病」、東アジアの「アモックamok」、「コロkoro」の他にポルトガルでは「サンゲ・ドルミドsangue dormido」、ラテンアメリカでは「アタケ・デ・ネルビオスataque de nervious」といった文化結合症候群というものがあるのだから、中東にあっても良さそうである.

 結婚は個人恋愛というより家族、部族の政治的結婚といった印象を持つ.現代であればそれほどないのかもしれないが、結納金が絡んでくる以上、結婚には政治的な権謀術数が尽きないだろう.となれば女性の意向は無視される可能性も高そうだ.フェミニストも激おこぷんぷん丸である.一部は神経症になっても無理はなかろう.だがこれは疾患なのか.彼らはどうやって事態を躱しているのか.

 私はそうしたことを勉強してみたいと思っている.たぶんこの領域でそうした人はだれもいないはずであるか、極めて少ないはずだ.玄奘三蔵のように、私はいつか留学をして文献の理解をしてみたい.いうなれば中東精神医学史、である.

運転について

 自動車の運転をすると気分が落ち着く.考え事をするにはよい空間だと思う.背中から優しく押し出す水平六気筒MA-122型エンジンの動力.サッとキックダウン、意に答えるべく猛チャージするときの美しい音色といったら.PDKは電光の速さでシフトダウンする.コーナーは無駄なブレーキを踏まずに進入し丁寧なステアリングで素早く脱出する.車内全般ものすごく静かでは無いが、なにか優しくも堅牢な殻に包まれている感がある.居心地が良い.外観も素晴らしい.メタリック塗装の光沢はきらめきではなく、ゆったりとした淡い輝きを放つ.空模様によって鈍色になれば青ざめることもある.

 私は近年のフロントグリルが醜悪な車にどうしても親近感を持てない.グリルがでかくなり周りをクロームメッキで覆う趣向はできればみたくない.所有している人には恐縮だし、皆好きな車を買えばいいのは大賛成である.だがそれらがかっこいいという人と私は話が合わないだろう.私は曲線で構成される艷やかなボディの方が好みだ.私は最近、国内の自動車の番組を見なくなった.YouTubeもそうであるが、彼らの抱えている自己欺瞞に満ちた言動が見え透いてしまって、どうも真面目に見れなくなってしまった.じゃあ見なくていいぞ、という声があるかもしれないが、私は本当に最近見ていない.安心していただきたい.YouTubeでは最近は80sや90sのポップスを聞いている.音作り、打ち込みや歌詞の雰囲気が好きだ.あとは陳建一氏と三國清三氏の料理動画、それからクサガメの日光浴動画が多い.

実存について

 最近、亀吾郎法律事務所の三郎(さぶちゃん)が吾郎(ごろうちゃん)に発情していることを知る.お尻の匂いをクンクン嗅いだり、頭突きを食らわせている.なぜ頭突きをするか.私が知りたい.学問的理解でいえば求愛であろう.頭突きをされたメスは性交渉合意のサインを出すと、オスはメスの後方に周り、動物界の例ポージングで交尾を始める.

 さぶちゃんはいささか性急で合意形成が出来ていないのに、交尾をしようとするものだから凸が凹に入らなくて困った顔をしている.ごろうちゃんもごろうちゃんで、無頓着で全く気づく素振りがない.恋愛マンガにおける鈍感な立場だ.頭突きをされてるのだから気づいても良さそうである.頭突きを喰らいすぎて流石にキレているときもある.我々としてはさぶちゃんの恋路を応援したい.

頭突き

 もう一つの応援したい恋路は、某国の王女である.婚約者の母親に関する金銭がらみのスキャンダルが知られ、人々は結婚に反対しているとか.していないとか.少なくともメディアでは結婚に好意的でない印象を持つ.醜聞への食いつきは凄まじい.

 私が当事者であれば、溜まったものでは無い.しょーがねぇだろ好きなんだから.といった具合で、J. P. Sartre によれば実存は本質に先行するようである.好きになった理由を語る術はない.王女の家系をたどるとどうやら伝説級の血脈であるから、権威付けが高まるのだろう、それに媚びる人やそれで生きている人にとって反感を買うのかもしれない.ともかく王室、王家というのは神経症の巣窟のような気がしてならない.侍医は何というのだろうか.「姫、これは試練ですぞ」

 どうか心安らかに万事がうまくいくことを願っているばかりである.

 

ファントム空間への誘い

適用と応用の可能性

 前回、安永浩の仮説である統合失調症理論の序論を説明した.その中でも彼の理論の骨子である「パターン」は英国の幻の哲学者、ウォーコップの考えに大いに影響を受けている.

 我々の生きる世界には「全体」と「部分」、「自分」と「他者」といった対になる概念が存在する.彼に言わせれば実存的二元論ともいうようだが、それはともかく前項をA、後者をBとすればABの関係は次のようになるだろうと述べた.

一つの方向(BのAへの関係)においては「論理的必然性」の関係である.

他の方向(AのBへの関係)においては「条件的偶然性」の関係である.

 AからBへの方向は自明、「どうかんがえてもそうなるでしょ」という関係、論理的必然性だ.

 全体が部分を支配する、という文章は整合性を保つし、実際にそのとおりである.自分があるから他人がいる.これも整合性を保つ.逆の、他人がいるから自分がいる、という文は奇妙だし、そうとはかぎらないだろう.「他人がいるからなんだというのだ」ということになる.「ある条件を満たすと、そのようになってしまう」のが条件的偶然性である.この他、「生」「死」、「質」「量」といったカテゴリーも同様だ.

 この論理関係にあるA、Bという概念対の対立構造を、またさらにそれを生み出す基盤となり、それによって記述されうるような体験の構造を、一般に「パターン」と呼ぶ.

 小高い山を考えてみる.Aの山とそれより低いB山がある.AからBへと川が流れている.と、いえば予想がつくだろう.水流は重力によって従うからだ.これは一つの秩序である.一方向的でもある.我々の感じる論理の自明さは重力の働きに似ている.A>Bが常に成り立つのが我々の世界だ.

 しかしながらなぜかBからAへ水が流れる事態が、統合失調症の病理だと安永は述べるのである.つまりはB>Aである.そして安永は、A、Bは連続変数的な挙動をするという.これを代数に置き換えて、a, bとすればa→0、 b→0ということもありうるという.これは混迷や解離、器質的な疾患による意識障害といえるだろう.ちなみに0になった場合は死んでしまうことと同義だ.ではA=Bはあるのか、と言われれば理屈としてあり得るが(部分の総和が全体ということはある)、これは生命体として非常に緊張を孕んだ危ない状態を示す.自明な論理関係が今にも逆転しそうだからである.だからA>Bでなければならない.

 Aが強いとは主体的体験の切実さ(快にせよ苦にせよ)を、Bが強いとはその「パターン」の分化度の高さ、精密さを、ほぼ意味するであろう.

とも述べている.

 おそらく、これは私の考えであるが、HSP(Hyper Sensitive Person/People)と呼ばれる人々は先天的・後天的によらず、aとbの値が近いのではないだろうか.

 a, bの変動の起る契機について安永は説明を試みているが、私見ではHSPたる敏感さは後者のほうだろう.以下の通りである.

一、abに対する相対的余剰が動因となって変化が起こる場合.

 これは俗にいう、生命的エネルギーに溢れた余りの行動形式がこれにあたる.この際主体はただエネルギー消費のためにのみ、その相手としてB面が求められる.その行動の結果、aが減少しbが増大して、一種の平衡に達して動きが止む.「そうしたいからした」という理解.

二、逆にbの増大傾向のために、(aの余剰が不足を告げ)これが動因となって変化が起る場合.

 この場合は危急に迫られたためのやむを得ない回避行動である.人は健康に生きている限りa≥bであらねばならぬからこのようなB側の強要によってこの釣り合いが破れることは絶対に阻止せねばならない.それはaを増やすか、bを減らすかである.「不安」とは一般にこの補償能力が危殆に瀕したことの信号である.その最後のエネルギー動因過程でもある.「不安」を持ちうる間は均衡はまだまったく破れてはいない.これは「死・回避行動」であり、不快である.「したくてするのではない」という理解.この際、我々は予感される将来の大きな苦痛を、現在の小さなbの段階で回避しようとする.この予感の究極は「死」である.この予感の能力が大きいほど、事態はより小さなbの段階で回避され、「死」からの遠い「合間=時間」を作る.

さて、HSPの話を少ししたが、以下のような特徴があるようだ.出典はこちらである.(当事務所はいかなるサイトとの利益相反はない)

「Depth」深く考える

「Overstimulation」過剰に刺激を受けやすい

「Empathy & Emotional」共感力が高く、感情豊か

「Subtlety」わずかな刺激を察知

 こうした特徴は、前述の「そうしたいからした」、「したくてするのではない」という観念の持ちようによって肯定的にも否定的にも取れるのだろう.この特徴を深堀りするのは、ファントム空間論の詳細に踏み込んだ時にするので、まずは簡単な理解でよい.HSP(Hyper Sensitive Person/People)と呼ばれる人々は先天的・後天的によらず、aとbの値が近いのではないだろうか、という考えは私の仮説として、捉えていただいて、今後の安永の論考に期待したいと思う.

 さて、安永はこれまでの説明をもとに、統合失調症理解の応用を行おうとする.彼によれば、真に「統合失調症」なる本質は(正常およびその他の病的事態には決して怒らぬところの次のこと、すなわち)、

 体験の「パターン」において、A、Bの秩序が逆転すること(a<b)、によってほぼ正確、統一的に表しうる、と考える

 と安永はいう.具体的には前回の議論ですべてABを入れ替えれば、新しい体験事態の構造が得られるというのである.この理解は、ユークリッド幾何の公理に対して非ユークリッド幾何の公理が果たす役割に似ているという.よくわかんねぇなこれ、というZ世代の方には「ポケットモンスターダイヤモンド・パール(プラチナ)」におけるギラティナの棲む「やぶれたせかい」である.もっとわかんねぇなこれ…… 同じくゲーム、「サイレント・ヒル」における異世界でもあるか.「SIREN」の屍人や闇人の棲む世界観でも良い(よくない).なにがいいたいのかというと通常の体験様式が通用しない世界ということだ.

幻覚の問題

 統合失調症における主要な症状を順番に扱ってゆく.とはいっても順番は関係ない.まずは幻覚について扱う.幻覚はどのような状態か、という点について安永は「知覚」あるいは「表象」と共通するものを持つところの一特殊事態、という.なんだそれは?

 まずは正常例のパターンを考える.Aは「みる」主体、Bは「みられる」対象である.Aは体験として「私の」知覚・表象であり、Bは「なにかの」知覚・表象である.「表象」、俗っぽくいえば「イメージする」体験の特性は、Aの支配的な性質によりすべて誘導される、と述べる.

 逆に「知覚」の特徴はBが場面の力動を支配している.それは刺激として外界から流入するものである.それは表象のように主体的緊張に依存しない.しかし絶えず、主体の予期しなかった新奇な面を供給するという.とはいっても、主体にとっては主体の予期したもの以外は見えない.新奇性の発見はない.Aの力動はどちらかといえば、見えているから見ている、といったやむを得ず動因された因子である.しかしながらこの関係は決してA、Bの関係を破るものではない.

 さて、統合失調症における幻覚は、ある種のパターンを持つのでは、と考えてよさそうである.つまりはa<b である.まずは特徴を確認しておこう.

一、それは全く意識清明と思われる状態において現れる.

二、患者は病識をもたない.

三、その「事実」性が異常に強烈である.

四、にもかかわらず、いわゆる感覚性はうすいようで、内容は一般に断片的で、意味はわかるがはっきり細部まで再生は困難である.

五、多くは自己に向けられた呼びかけとしてきかれる.

六、「直接頭に聞こえる」「腹にきこえる」など常人に想像のつかない奇妙な説明、定位がなされる、等々.

 一、二について、これは臨床家なら納得の症候である.失神や脳血管疾患の意識障碍は病識を持つ.「急にバットで頭をなぐられたような頭痛がしてそのあと…」「あれ、私いままでどうしたんでしょうか」もし、本当に一過性の意識障碍であれば、上記のような病識を持つはずなのだ.よって広義の意識の問題は生じていない.

 症例の声に耳を澄ますと、その「声」は圧倒的に外部の声である.とても図々しい.声が図々しいのではなく、その起こり方が図々しいのである.荻窪のラーメン店の行列で並んでいたら横入りしてくる図々しさである.体験を自分の体験、として支配する力はなく、その蹂躙にまかせるのみである.まさに圧倒的支配.

 となるともはや正常のパターンが通用しなさそうだ.a≥bが通用しないのである.a<bとなっている方が説明的である.ただし、我々がこの事態をそのままに「追体験」することはできない.我々はa≥bだからである.対称性が主体性に先行する、という異常事態が起る.まじで.この事態を体験している人はBから理解すれば、Aもわかる筈だ!というに違いにないと安永はいう.

 自分がいて、他人がいるとわかる.という論理から他人がいて、自分がいるとわかる、といったトンチキな理解になってしまう.ソビエト式倒置法以上のカオスである.(ソビエトでは人がテレビを見るのではない!テレビが人を見るのだ!)

 幻覚では、Bがすべての前提であり、支配者である.これは外的な実在ともいえる.これがあたかも普通の知覚体験であるかのように「声をきいた」と意味づけるしか方法がないのだ.これは彼らなりの応急手段である.

 確かにこれまでの安永の論考を見れば、統合失調症の定義がa<bであることがわかり、生理的幻覚や夢幻状態はa=bであり、bがaを超えることはない.意識障碍では0へと変数が縮小してゆくと考える.

 さらになぜ統合失調症においては幻視よりも幻聴が目立つのか、という問いにも一応の解釈を示している.おそらく幻聴は「言語的」機能問題であること.そしてそれが完全に機能するには、「パターン」の分極がかなり強いという生理学的・生物学的特性をもつこと.さらに統合失調症の発病の侵襲によって逆転しやすい破綻性をもつ、ということが想定される.一方、視覚的情報を用いる直観的思考はそれほど「パターン」分極がつよくないらしい.よってa, bが小さくなっても幻視は生じるし.統合失調症の発病においてもこの機構が逆転することはあまりなく、安定しているのであろうという.なかなかに見事なロジックである.ただし、幻視がないのではない.錯覚というよりも強制力を持った現象が生じる.「一つの”顔”が頭につく……」それも無機的で蒼古的な変容を帯びる.これはa<bの萌芽なのだろうと安永はいう.そして徐々に奇怪な幻視の訴えに発展する.

 解離性障碍における離人感についても安永は言及しているが、この辺の考察は結構難しいのでまた理解がおいついた時にでもご説明しようと思う.

ここまで読んでくださりありがとうございます!

 

 

ファントム空間論に到る前に

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了解について

 本編の前にこちらからご覧いただくとよいかもしれません.その続きはこちらにあります.

  分裂病(統合失調症)の基本障碍とはなにか.という問いかけから著者、安永浩の論考は始まる.だから統合失調症を避けずしてファントム空間論を語ることは出来ないのだが、なるべくこの辺りの論理をしっかり抑えつつも適度に流していこうと思う.

 K. Schneiderは統合失調症には一級症状として6-8つの用法があることを指摘した(考想化声、思考奪取、作為体験、対話性幻聴、考想吹入、考想伝播、妄想知覚など).

 こうした症状から他の症状を導き出すことを理想としているのだが、「導き出す」とはどういうことか、という問いかけが残っており、さらなる追求が必要であると述べた.この問題に対する考え方はW. Dilthey, E. Husserlらがもたらした方法的反省の立場が有用だとして、これらをK. Jaspersが精神病理学に導入した.ここで「了解」「説明」という方法の体系が組織付けられた.

 「説明」的な方法論では、無限に仮説的中項を設けることになってしまい、心理現象を本質的に検証することができないという.基本障碍は「説明」的になってはならないと安永はいう.なんのこっちゃ.続けてみよう.

 一方、「記述的分析的」ないし「了解的」な心理現象の理解は「心的連関の直接所与の上に安らって」いる為、前者のような矛盾をもたない、という.どゆこと?心的所与の「全体」から出発して「部分」が分解されていくのであってその逆ではない.「基本障碍」とはこの場合その「全体」をつかむことになるが、それはここの事実の認識を契機とし、土台とはしても、それから構成されるのではなく、そのつど、一次的に把握されるのである.こうした「全体」から「部分」を導き出すことは正当な権利を似て言われ得る、とする.

 そうすると、この立場は「了解不能」という壁に突き当たる.Jaspersによれば、「了解」が限界に行き当たる時は因果的「説明」に到るものとされる.しかしもし「説明」が上記の限界を免れぬとすれば、これは統合失調症の心理学的理解の終末を意味し、統合失調症の症状は、ただの忠実な外面的記載と平面的羅列にとどまってしまうのだろうか.となると、「基本」的な追求も無駄になってしまう.

 これは序文に過ぎないのだが、最初から難解である.私からなんとか大意を抜き出そうとしてみれば、次のようになる.

 ある架空の症例が、「頭のなかで自分と誰かが大声で喧嘩をしている」と述べたとする.K. Schneiderの一級症状の考え方をすると、これはVoices heard arguing、すなわち対話性幻聴である.では対話性幻聴から他の症状を「導く」とはどういうことか、これがよくわからない.そこで、現象学的な考え方を使ってみることになる、K. Jaspersがまとめた方法には、「了解」「説明」という二つの考え方が用いられた.

 了解というのは精神現象を把握する方法である.「悔しくて怒る」というのは「悔しい」という精神現象と「怒っている」という精神現象の連続である.これらは感情移入的、共感的なものとして了解できる、という.(インターネット用語でいえば『わかりみが深い』かな?)「悔しい」と「怒っている」はそれぞれ関連がある.それゆえに怒っている人を見て、「悔しがっているんだろうな」、だとか悔しがっている人を見て「怒ってるのかな」と思うのは自然だ、ということだ.「心的連関の直接所与の上に安らっている」というのはそういうことである.だがこれらは因果律とは似ていて、異なるもので、「悲しいから泣く」という現象は連関と因果律を思わせるが、「嬉し泣き」も存在する.「嬉しい」と「泣く」という意味の連関はその人をとりまく状況や本人の発言との関連においてその都度了解できるのだ.

 しかし、ゲラゲラ笑っている人を見て、「この人、さぞかし悔しいんだろうなぁ」とは思わない.フヒヒヒヒと笑っている人に「なぜ笑っているの?」と尋ねて「悔しいからに決まってるでしょ!フヒヒヒヒ」と言われたら、「エッ???」となるはずだ.

これが了解不能という現象で、ある精神現象と関係のない精神現象が生じた場合は、「これもうわかんねぇな」という状態に陥る.

 こうなった場合、私たちは、その背後に病的な身体的過程(精神病)を想定し因果的な説明を求めることにした.したというか、そうせざるを得ない.「なにか病気だからこうなっちゃったのかな」という推理が働く.通常の意味連関が共有されず、精神現象とのつながりに異質さを生じさせるのが、了解不能である.

 説明というのは、病的な身体過程を想定するのではなく、心理現象として、「この人は過去にこういう体験があったからそれがきっかけで、ゲラゲラ笑っているのだろう」という仮説を挟んでいくものである.つまり、可能性は無限大になる.あらゆる可能性が考えられてしまう.

「ゲラゲラ笑っているのに悔しがっているというのは、実は心理学的には否認の状態で、実際、彼の心的状態はどちらかというと悲哀の反応に近く……」

 なんてごちゃごちゃしてくると、もはや取り付く島もない.無限に仮説的中項を設けることで本質上検証ができない、というのはそういうことである.

 だが、了解不能なものに対しては説明を試みるしか無いのである.Jaspersは、わからないもの<了解不能>は、因果的説明にいきつく、という.ところでもし、「説明」がさきほどの統合失調症心理の探求限界に行き当たらない、なんてことがあったとすると、もはや統合失調症を理解することはできなくなってしまうのでは?という恐れが生じかねないと安永は言う.それは「了解」に関する誤解であるとし、以下重要なことを述べる.

 心理現象界の作用形式を掴み、秩序付ける認識は体験から直接導き出されてゆく方向になされるべきで、(そうすれば「説明」的認識の意義もその中で正当に-「了解」を限定規制するものとして-位置づけられてくるが)

もしこの順序を逆にすると(「説明」だけから出発すると「了解」は永久に現れてこないから)背理となる.

 以下、吾郎なりの理解を以下に記してみる.

 こころの世界がどのように私達に働いているかを理解し、その世界の法則がどのようなものかを感じるということは、実際に経験したことから直にわかっていく(了解→説明)流れが大事である.(そうすれば、「説明」することで理解できる、という立場もまっとうに「了解」の立場を自然と決めることとして位置づけられるから)もしこの順番が逆になると、「悲しいから泣いている」という現象を理解するときに、説明が先行してしまうと、無限の注釈がつくことになってしまう.つまりいつまでたっても「了解」が出てこなくなってしまう(畢竟おかしい話になる)から、逆説的に正しいのだ.

 ここで要点をまとめておきたい.

 精神現象は「了解」していくことで、こころの世界の働きを知ることができるが、もし「了解不能」となった場合は、因果律に基づいて「説明」することが必要となる.そういうわけで「了解」→「説明」という流れが大筋となるがその逆は決してありえない.

 K. Schneiderの提示した一級症状というのは、「思考奪取」「考想化声」「作為体験」などである.これらは教科書的にも統合失調症の症候として現代もよく掲載されている.だが、これらがあるからといって、決して統合失調症とは限らないのである.脳腫瘍によってもこのような状態は起きるし、ステロイド多量服用でもそうなる.エリテマトーデスでもそうなるのだ.これが一次的な症状、根幹の症状として他のすべての症候を網羅できるかと言うと、大きな誤りだ、ということを安永は言いたいのである.これはファントム空間論への布石である.彼はもっと大きな「基本障碍」があるのではないかと考えるのである.E. MinkowskiやH. Bergson, L. Binswanger, E. Straus, J. Zutt, K. Goldstein, K. Conrad, 西丸四方らの考えを紹介してゆく.だが、どれも基本障碍を説明するものとしては、扱いが難しかったり、安易な説明的概念になってしまうとした.もし、「基本障碍」があるとすれば、それは相当抽象度が高い次元のものだろうと、彼は想定している.そこで彼は以下の考え方を紹介する.

パターンとは

 彼は「パターン」と呼ぶ概念を提唱する.暫定的訳語に「実存的二元構造」と注を付けているが、この際「パターン」で良い.

「パターン」とはなにか.彼は英国の哲学者、O. S. Wauchope(ウォーコップ)の考え方に示唆を受けているという.私は全く知らないし、哲学史で輝く人物では無い.生年没年も不詳、著作は唯一”Deviation into Sense – The Nature of Explanation”のみであり、英文学者である深瀬基寛(1895-1966)がいなければ、我が国には知られることがなかったであろう、「幻のポケモン」のような人物である.

 私達は、「自」「他」、「質」「量」、「全体」「部分」、「統一」「差別」といったカテゴリーの一対を知っている.これらは基本的に論理学的定着された形式的概念として使われることがほとんどであるが、安永はもう少し突っ込んで考えている.

 これらは皆違ったものではあるが、各々の対の内部構造においてなにか特異なものを共通にもつように思わないだろうか、と読者に問いかける.これらにはなにかある相互連帯的関係が感じられないだろうか、と.どうしたんだ安永くん、急に.

 彼はこうした特異性を以下のように抽出する.「自」「他」の前者をA、後者をBとする.他の三対も同様である.すると、次のような形でAとBは一般化できるという.

一、 A, Bは各々の見地において完全な分極をなし、第三のものCが介在する余地はない.また一方を欠いては成立しない.

二、 体験にAという面の存在すること、それを理解しうることの根拠は、もはや他に求めることは出来ない.それは人が体験自体から出発すれば直接「わかる」というほかない.自らが議論の出発点になりうるのみである(この意味で公理的、明証的である).

三、 上の前提さえあればBは「Aでない方の面」といえばこれに対立し、衝突してくるものとして必ず体験にあらわれてくるゆえ、導かれ、理解されうる.

四、 その逆は成立しない(!)すなわちBを公理として出発することはできないし、また「Bでない方」といったのでは、Aの本質を理解するわけにはいかない.

 この第四項は特に重要であるとする.それはこれらの対が、単純に相対的な、可換的に平等な対立とは言い得ないことを意味している.そしてこのことの承認こそが、この論文で主張する方法論の背骨となる.

 私達が生きている限り、「自」という意味がどんなものかなんとなく知っている.「意識的に」では無いが、「体験的に」知っている.自分のことは自分なのだから直接「わかる」だろう、そうしてわかる以外にない、という理屈だ.だが、「自」でないものが必ず存在する.「他」である.「自」があるからこそ、「自」でないものを「他」ということができるから、命題一、二は理解できるだろう.

 「自」があるからこそ、「他」が理解できる.この流れがすごく大切である.この順序が逆転すると、おかしくなる.私達は「純粋な他」というものを想起できない.「他」を考えれば考えるほど、気が遠くなり「体験の彼岸へ遠ざかるため」理解できない.これは、R. Descartesの「我思う故に我あり」と同じように、どこまでも疑いに疑い抜いた挙げ句、自分だけは疑いようがない、ということと結局は同じである.

 自分とは、私達の体験にとって「他でもない、という以上のなにか」である.「体験世界は自我・非自我でできている」という命題は「了解」できる.しかし次はどうだろうか.

 「体験世界は他・非他」で出来ている」

非他ってなんだよ?ってことになる.意味不明である.つまりどういうことか.もともとの体験構造に、「自」の支配性、優越性を見るのである.ベクトルで表記すると次のようになるだろうか.

$$\overrightarrow{ 自他 }$$ はあり得るが、$$\overrightarrow{ 他自 }$$ はあり得ない.

別の言い方をすれば、

一つの方向(BのAへの関係)においては「論理的必然性」の関係である.

他の方向(AのBへの関係)においては「条件的偶然性」の関係である.

故に$$\overrightarrow{ AB }$$ は「実存」的な方向である.

 もちろん、「自」「他」だけでなく、「質」「量」、「全体」「部分」、「統一」「差別」といった対も同様に考えることができる.こうしたカテゴリに着目し一般化したのはどうもウォーコップが初めてらしい.

 以上を総括しよう.

 前述のような論理関係にあるA、Bという概念対の対立構造を、またさらにそれを生み出す基盤となり、それによって記述されうるような体験の構造関係を、一般に「パターン」と呼ぶ.

 安永はこの「パターン」の説明に相当な紙面を割いている.詳しく知りたくなった人はぜひ書店へ!と言ってもこの本は書店にはほとんどないだろうし、知りたくなった人もあまりいなさそうだから、本論で追補したいと思う.

 次回、統合失調症への適用について.いつも読んでくださりありがとうございます.