不安に駆られて

calm body of water during golden hour
Photo by Abdullah Ghatasheh on Pexels.com

診察室で

 私が面接をする、とある患者さんはいつも決まって過去形を使う.

「こんにちは.〇〇さん.お元気ですか」

「元気でした

「何か心配なことや気がかりなことはありませんか」

「ありませんでした

 他の質問にも過去の時制で回答をするのだ.この事態が私にとっては非常に理解が難しい現象のように思えている.不思議な気持ちでいつも面接をしている.

 なぜ「元気でした」と過去形の表現なのか.なぜ過去形でしか答えてくれないのか.それが全くわからない.私は診療録に「症例の陳述に時制の不一致を認める」と書いたことがあるが、だから何なのか、それ以外何を記述すべきか、何を考えたらいいか悩んでいる状態である.いわゆる静的了解でも発生的了解の範疇ではないだろう.この方は少なくとも私と時間空間の体験様式が異なる可能性がある.ヤスパース的に言えば、了解不能なのだろうか.そして了解不能となれば、背後に病理が潜んでいることになる.どのような病理か.

 恐らく手がかりとなるのは精神病理学であったり、哲学だとか人文学なのかなぁ、という考えに基づいて、私は複数の本を読んでいる.斜め読み、というわけではないが、義経の八艘飛びのように一つの本から別の本へとあちらこちら飛び移っている始末だ.人には様々な読書の癖があるだろう.どうやら私は一度にいろんな本を読む傾向にある.これを注意散漫とか転導性の問題というのかもしれない.わからないところに当たれば、別の本に当たって了解を得ようとする方法が性に合う.今この記事を書いているとき、私はセーレン・キルケゴールの「不安の概念」、マルティン・ハイデガーの「存在と時間」を読んでいる.どちらもうんざりするほど難しくて辛くて面白い.炭酸の青汁をありがたく飲んでいるような気持ちだ.

 そして何より、彼らは「実存」を扱う哲人であり「不安」を解明しようとし「時間」について論じた人物で共通している.きっと、上述した症例の言辞を理解する一助になるのではないか、と私は期待を寄せている.

不安とは

 さて、私は以前の記事で、「不安」や「うつ」がわからない、と述べたのだった.「うつ」に関しては「メランコリー」を取り上げてみたが、これで綺麗サッパリわかりました、というわけにはいかない.表層的な話しかしていないのだから.こちらはひとまず保留にするとして、私は「不安」という現象ないし心理的状態についても大きな関心を寄せている.なぜ関心があるのか、といえば私自身の職務上の要請にある.私自身がある程度、不安という概念について通じていない以上、面接を要する人々の「不安」に対して一定の助言を行うことが果てしなく難しいと感じたからである.

 こちらも別の記事で取り上げ、生理学的な立場とフロイトの古典的立場で「不安」を紹介したが、未だによくわからずにいる.そこでキルケゴールの「不安の概念」という本を読んでみることにしたわけだ.そして現象学という興味深い学問に足を踏み入れた私は、フッサールを継承し、より深化させたハイデガーの実存主義の考え方に惹かれるようになった.奇しくもキルケゴールは実存主義の代表的な人物であるし、精神病理学の嚆矢、カール・ヤスパースも医師兼実存主義哲学者の一人だ.私の思い込みにせよ、奇妙な引力が働いているような心持ちがする.私の思想はようやく二十世紀の大陸哲学に差し掛かってきた.

 

 まずはいつもの「精神症候学」を開いて「不安」を調べると、次のようにある.掻い摘んで記そう.

 不安anxietyは、対処不決定の漠然とした恐れの感情で、一般に対象のある恐怖に対して、対象を欠くものを指す.十三世紀のトマス・アクィナスは予測できない恐怖をアゴニアagoniaと呼んだ.フランス語ではリトレによると延髄的・身体的な苦悶angoisseと皮質・精神的な不安anxiétéを使い分けるという.後者のanxiétéもしくはラテン語のanxiusが十六世紀初期には英語のanxietyに訳された.正常な不安としては、生きている限り避けることのできない病や死への恐れ、生活、経済上の諸々の不安があり、原不安Urangst、現実不安Realangst、被造物の不安Angst der Kreaturなどという.キルケゴールによれば、物事や価値を知り、分別をもつと、むしろ不安も増える.これを客観的不安という.ゴールドスタインは、破局状況におかれた生体の主観的経験を不安と呼んだ.

 病的な不安とは、刺激が主体の内部で歪曲・肥大化されるために、客観的な危険に比して不釣り合いに強く反復してあらわれる不安のこと.その処理に神経症的防衛機制を要するので、神経症性不安ともいう.正常な不安との差が量的か質的かについては議論が多い.予期不安とは、未来を先取りして恐れる空想的な不安で、将来起きてほしくないことが起こるのではないかとする.

精神症候学 第二版およびOxford English Dictionaryから引用

 要するに、不安というのは対象なき恐れ、ということらしい.しかし、少し考えてみると「明日のプレゼン、うまくいくか不安なんです」というときは、もちろん対象が定まっている.よって対象なき恐れという語義に反してしまうように思われる.そこで、よくよく考えながら、大辞林を参照すると、以下のように書いてある.

①気がかりなこと.心配なこと.これから起こる事態に対する恐れから、気持ちが落ち着かないこと.また、そのさま.

②(哲学)人間存在の根底にある虚無からくる危機的気分.原因や対象がわからない点で恐れと異なる.実存主義など現代哲学の主要概念.

③(心理学)漠とした恐れの感情.動悸、発汗などの身体的兆候を伴うことが多い.

大辞林 第四版

 生理学的な立場で不安を考えてみると、不安は「闘争か逃走」の反応の一つであり、不安症の中核的な要素は「恐怖」「憂い」であるという.(ストール精神薬理学エセンシャルズ第四版)もう少し詳しい話は以前の記事にある.

 正直言って、学問の立場によってこんなにも割れるとは思わなかった.特に恐怖をどのように位置づけるかが異なるようである.恐怖の腑分けが異なる、とでも呼ぶべきか.さて、「不安」をどのように考えたものか.

 二つの書籍について

 光文社古典新訳文庫から出ている「存在と時間」の訳本は中山元氏によるものだが、膨大な注釈と解説がついているにも関わらず、いきなりアタックするのは苦痛を伴うことがわかった.(八巻まであるし……)訳の巧拙がどうこうではなくて、純粋にクッソ難しいのである.しかし、この著作が出された経緯や背景だとかを知れば、ある程度気楽に読める気がしてくる.事実、経緯を知ることは極めて重要であった.「存在と時間」がアリストテレス哲学と、当時最先端の哲学である現象学を融合させたものであることを知らずして著作の意義を理解できそうにないと思う.ハイデガー以前に「存在論」を扱ったのはアリストテレスが最後であり、その間、全く人々は「存在の意味を問うこと」をしなかった、と斬り捨てる彼のキレキレ具合には脱帽であった.この論文の入門書・解説書を読んで、私は漸く彼の代表作である「存在と時間」は未完であることや教授昇進のために提出された突貫工事的論文であり、出版までに紆余曲折のある作品であったことを知ったのだった.ちなみに入門書、というのは講談社現代新書から出ている「ハイデガー『存在と時間』入門」のことで、著者の轟孝夫氏はハイデガー一筋三十年の哲学者である.

 「なぁ〜んだ、未完なのか、マルティンおじさんも色々あったんだネ」と思うと、巨大な哲人として立ちはだかるハイデガーも急に人間くさくなってくるし、伝統的な西洋哲学における「存在」の先入観を捨てて「真の存在」を解明しようとする三七歳、マジ気合入ってるっすね、と称賛を贈りたくなる.

 他方、キルケゴールの著作「不安の概念」は1844年に書かれたものだが、1927年の「存在と時間」から随分前の作品である.彼の作品も残念ながら難解だ.いきなり訳本に当たると、それはそれで面白いのだが、「質的飛躍」などの彼独自の術語が使われてしまうと、解釈が大変になってしまう.よって入門書を探してみたが、パッと見てもどうもなさそうである.そして、彼のロジックはキリスト教の教義学や倫理学などの学問を織り交ぜたものになっているため、事前知識として他にも仕入れる必要がありそうである.なんだか哲学の迷宮に入り込んでいるような、いないような.少なくとも創世記のアダムとイブの原罪は、よく理解しておく必要がありそうだ.これはもちろん神話なのであるが、多くの人が挙ってこの神話を取り上げるのは、宗教的な意義だけでなく、ある種、アダムを人類のプロトタイプとして考えたときの思考実験として捉えると興味深いからかもしれない.ただの気の所為かもしれない.

本記事の最終的なねらい

 この記事を大々的に書いた理由は実はもう一つある.安永浩の「ファントム空間論」に関する連載が途中となっているのだが、今の知識では理解が不十分であるという直感から、連載を保留にしている.できればなるべく早く投稿したいと思いつつも、なかなか知識を仕入れる作業に時間がかかってしまい、うまくまとめきれていない.そこでまずは先に紹介した著書を足がかりに、「不安」に関する小連載を行ってから、改めて「ファントム空間論」を完成させたいと思っている.何のためか、と言われれば無論、自身のためである.このブログを投稿する、という作業を通じて(精錬できるかどうかは兎も角)自分の思考を整理して、職務上の必要に還元したいと企んでいるわけである.とは言っても、結局はブログなのだから、こうして偶然目に留めてくださった方にも、お裾分けして、冷やかすなり、面白がるなりして、何かしら感じ取っていただければ良いなと考えている次第である.

 ところどころ雑記を載せつつ、まずは「不安」の構造について自分なりに理解に努めるべく、新連載を開始する予定である.よろしくお願いします.

 

 

枇杷の木

Loquats and a Mountain Bird, by an anonymous Chinese artist of the Southern Song Dynasty (1127–1279).

  勤務先の病院には居心地の良い中庭があって、そこには背の高い枇杷の木がゆさゆさと揺れている.枇杷の木だとわかったのは小ぶりの橙の実が地面にいくつも落ちているからで、多くは鳥や虫が食べたあとがついていた.回診を終えて中庭を歩くと、涼しい夜風が病棟の隙間の空間を通り抜けて気持ちが良い.こういうときは考え事が捗る.夜皆が寝静まったときには集中力が自然と高まるのを感じる.降り続く雨が屋根を打つ音、湿ったコンクリートの匂い、軋む古い当直室.

 そんな夜にふと、とある症例のことを考えた.

 「わたしは、悪いことはなにもしていません.コロナの犯人なんかじゃありません.キムラタクヤさんがそうやってわたしのことを犯罪者だとか、悪いものにしたてるんです.キムラタクヤさんはお金持ちで有名だからいろんな人に言いふらして、悪いもの扱いするんです.わたしはこうやってがんばってやっているのに、みんなが悪いって言うんです.がんばってるのに、よくならないんです.さっきも○○さんがわたしのせいにしようとしてたんです.わたしは悪くないんです.犯罪もしていません.人殺しも、万引も、いやらしいこともしていません.仕事もせずただ精神科で入院しているだけの……わたしのこと精神病だって言うんです.悪いもの扱いするんです」

 実際の症例に基づいて大幅な改変をしていることを断っておく.よってこの人物は実際に存在しないが、複数の症例を混在させた一人格として話を進めてみたい.この人は常に自分が危害を受けているという確信でいっぱいであるように見える.キムラタクヤ、ときおりフクヤママサハルといった人物が自身の悪評を流している、という空前の状況にあり当人は困惑している.自分は無関係であるのに、コロナウィルス拡散の汚名を着せられて、あらゆる犯罪の冤罪を被っていると感じてしまっている.この架空症例の病歴において犯罪行為・素行不良はない.一般的な家庭で生育し、定型発達のちに青年期にて、とある疾病に罹患したとする.頭部およびその他の器質的病因は指摘されていない.考えられる診断は想像の通りであろう.

 この人物との面接では常に自己不全感、空虚感を顕にする内容が主となる.会話からは被害妄想が推察される.なぜ妄想だといえるのか.それは本人を除く周囲の支援者、医療者が収集した情報によれば、本人の述べる被害内容はまったく事実無根であることが明らかであることが根拠になりうるか.誰もコロナウィルスを発生させた犯人だなどとよもや思いもしないだろう.他方、本人は確信の水準でそれらを物語っていることにある.確信であるからこそ訂正はできない.

 フランスの精神科医、ピエール・ジャネは自分の不全、空虚、強制などの感覚を、他人に客観外在化(Objectivation)することによって被害妄想が生じると考えた人物である.それは人間の社会活動が、つねに命令と服従を基礎にした能動と受動を、自他が互いのなかに表象しながら行うことによるからだ、と記している.保崎秀夫という医師は、おのれを見失った主体が自他の対立関係を明瞭化させておのれを見出そうとする努力が被害妄想をつくるのではないか、としている.

 「妄想の臨床」というグレートな書物がある.新興医学出版社というところから出ている妙な本で、妄想についてその筋の大家が寄稿している珍しい本だ.その中で、以前紹介した「精神症候学」の著者、濱田秀伯という医師がルサンチマンと妄想について大変興味深い記述をしている.

  被害妄想は何の前触れもなく生じるわけではない.統合失調症ないし妄想性障碍の患者には、被害妄想が現れる前に、自分には価値がない、他人に迷惑をかけていると訴える微小妄想、罪業妄想を抱く無力性の段階がある.他人と比較して低い自己評価に苦しむ患者は、ルサンチマンを用いて内面の価値を転倒させ、「わたしは悪くない」、本当は他人から迷惑をかけられていると確信する被害妄想へ転じるのではないか、と濱田は述べる.

 主体は被害妄想を抱くことで、責任を他者(それが実在しようとしまいと)に転嫁し、自責を軽くすることができる.患者が病識を欠くのは、価値の転倒を自らに気づかせてはその目的を達成できないからだ、という論理である.

 この仮説は私にとって非常に得心のいくものであり、上記の症例が語る「わたしは悪くない」という徹底した主張の背後には、自己不全感、無力感が根底にあるのではないか、自身が精神疾患という病魔によって、長期入院を余儀なくされ、行動の自由も制限されている強制力と服従が強力な自己評価の低さを顕にするのではないか.本人も気づかぬ恨み、怨恨、反感といったルサンチマンがいつしか醸成され、内面の価値を転倒させることになるのではないだろうか、と考えてしまう.その際生じる他者は、主体にとって関係のある人物であれば、そうでない全く無縁の他者であることもしばしばである.この「他者」の設定には本人の生活史と思考障碍の程度が影響するのだろうと思う.

 これをもう少し整理してみよう.

  1. わたしは、病気で仕事もできず迷惑をかけている、わたしは何も社会に貢献できない無力な人間だ.わたしは自分を責める.(微小妄想、解釈妄想)
  2. わたしは、「キムラタクヤ」や「みんな」から迷惑をかけられている.わたしこそが被害者なんだ.(被害妄想)
  3. わたしには、自分の権利を守り、「キムラタクヤ」を責める正当な理由がある.「みんな」が悪いんだ.

 このように考えてみると、一部の妄想形成にはルサンチマンが関わっているようにも思われる.これを見出した学者らは実に卓見だと言わざるを得ない.こうした説明ができるのは精神病理学の真髄だと思う.そしてそのようなロジックが仮に真なのであれば、上記の陳述をした人に向けて行うべき精神療法はやはり支持的精神療法なのではないかと率直に思う.自尊心を高め、自我機能を維持することを目的として、非合理的な思考に陥っていることをさり気なく気づかせていくことが重要なのだろうと思う.

 精神疾患の一部は価値秩序の惑乱であり、妄想というのは主体がそれを病的な方法で転倒させてしまうことで自らの内的安定を図る自助努力である、と濱田は結ぶ.至言であろう.ならば、その自助努力を病的でない方法で修正できるように導くことが医療の務めなのだろうと考える.やはり医療人が患者を治すのではなくて、我々は、主体が自ら治すきっかけを手伝うに過ぎない存在なのだと、しみじみ思う.根気よく、辛抱づよく続けていくことが大事なのだろう.

 木から木の実が落ちるのを見て世紀の大発見をした人もいるようだが、少なくとも凡庸な私は、いくら枇杷の木を眺めても、自分のわずかな経験を追想して先人の知恵を重ね合わせることしかできない.そうであったとしても私が関与できる人に対して能う限りの時間と才能を注ぐための良い心象風景になればそれでいいと心から思った次第である.

 

ルサンチマン

  

Photo by VAZHNIK on Pexels.com

離脱症状という邪悪さ

罵詈雑言

 処方薬の薬の離脱症状で気分が悪い.吐き気がする.これは邪悪だ.脳に分厚い鉄板を押し付けられている.ぎゅうぎゅうに圧をかけられて「くたばれ」と言われている.だからくたばっている.飲み忘れたのは自分が悪いのだ.それがいけないのは知っている.私は夜勤明けで疲れていた.だがこの仕打はひどすぎる.私だって多分人間だ.間違いは犯す.あらゆる光が眩しい.すべての感覚が不愉快だ.自分がこの感覚を覚えていることが嫌になる.この五感が自分の身体に基づく知覚だと思うと自分自身が心底不愉快だ.このような肉体にした、このような目に合わせた奴らが憎たらしくて、憎たらしくて、心底嫌悪する.軽蔑する.反吐が出る.吐き気がする.この苦しみは知る人以外絶対に味わうことはできない.味わったことのあるものしか感じ得ない苦痛だ.難民の気持ちは難民になってみないとわからないというのは本当にそのとおりで、ビョーキの苦しみというのは、ビョーキにならないとわからない.だがこんな苦しみ、わかりたくなかった!!難民だって、事件の被害者だって、コロナウィルスの罹患者だって、絶対になりたくなかったに決まっている.俺が地獄に行く時は必ず関係者を全員地獄に引きずり込んでやると、自分に誓っている.ちなみに自分が地獄に行くのは確定している.すでに特等席も用意してある.

価値が転倒する

 ある日、私は懊悩とした気分で過ごしていた.間違いなくこの時は神経伝達物質の嵐が起きていて、激烈な感情が私を狂わせ、憎しみをほとばしらせ、怒りに身を窶し、彼らを呪った.これはあとから気づいたが、ルサンチマン(ressentiment)に似ている.私は弱者であり、他者は強者である.ルサンチマンは弱者が強者に抱く、価値を転倒させた感情だ.怨恨、反感、逆恨みという言葉が対応する.ドイツの哲学者マックス・シェーラー(Max Scheler)という男は1913年から1916年に「倫理学における形式主義と実質的価値倫理学」において知性や意志に対する感情 ・情緒の優位性を主張した.彼は現象学の志向性の概念によって、志向感受(Intentionalität)とそうでない感情状態(Gefühlzustände)を区別したという.前者は四段階に分けられるとされ、彼の考え方は、クルト・シュナイダー(Kurt Schneider)により精神病理学に取り入れられた.シェーラーはイマヌエル・カントの形式主義倫理学とフリードリヒ・ニーチェ、アンリ・ベルグソンらの哲学を統合し、感情が知的作用に先行する実質的かつアプリオリな情緒的価値倫理学というものを構想したという.私達が世界と接点をもつのは、知的認識ではなくて、何かしらの価値を感受することによるとのことだ.

 先に述べた志向感受は「①感覚感受」「②生命感受」「③心的感受」「④霊的感受」の順番で高次となるようで、この序列は、価値の序列とも対応しているという.①は快・不快、愉快・不愉快といった、感覚に伴っておこる低次元の感情であり、②は健康、生命、病気、老化、生死といった個人や共同体の幸福に関わる価値と位置づける.③は人間の日常生活に伴う感情で、悲しみ、喜び、怒り、苦しみ、羞恥のように自我全体に広がり、自分自身に直接結びつくとともに、世界を志向し、他者との共同感情や愛を育む感情を指す.美醜の美的価値、正不正の法的価値などの哲学的価値などを含む.④の霊的感受とは、絶望、至福、憧憬、帰依などの特定の対象を持たない高次な感情だ.最上位の価値は超越的、神聖なもの、絶対的な存在に対する価値のことだ.価値の序列は持続するほど、分割されにくいほど、基礎に置かれるほど高くなる.高いほど満足が深く、相対的なものから絶対的なものへ向かう.これら価値の序列は予め決まっているとして、シェーラーはアプリオリな普遍的妥当性をもつことを主張している.

 どうやら、より高い価値を実現する意志が善であり、より低い価値を選ぶ意志は悪であるという.つまり、肉体的快楽、束の間の快楽、小顔メイクをしてインスタ映えを狙うのは悪だという.ときには肉体的快楽を犠牲にして、健康や幸福を求めることは必要である.家系ラーメンを控えて、低糖質の食事を食べるのは大切だ.さらに、時には社会的な幸福も、より高い真理、正義のために失うこともいとわない.玄奘三蔵や空海、最澄、ゴータマ・シッダールタは典型だろう.ということは人間は本質的に、より高い価値を求めて生きようとする存在である.そして時代の要請や状況に応じて、価値の優先順序を変えて、新しい価値を発見する存在でもある、とシェーラーはまとめる.

 さて、ルサンチマンは価値の転倒、である.ニーチェが「道徳の系譜」で取り上げたものらしい.彼によれば、良質(gut)とは強者、高貴な人々が自らに与えた評価であり、その対局は劣悪(schlecht)とされてきた.弱者は強者を憎悪する.現実にはその上下関係を逆転できない.よって強者を悪い(böse)、弱者を良い「gut」と互いの価値を転倒させ、報復しない無力さを善良とし、臆病な卑劣を謙虚として、憎む相手への服従を恭順へすりかえた、という論理である.うーん、今のご時世にある「上級国民」という言葉はルサンチマンを感じる代表格だなぁ.

 これに続いて、さきほどのシェーラーは上記のニーチェに少し批判を加え、「道徳の構造におけるルサンチマン」においてルサンチマンを「魂の自家中毒」「愛の秩序の惑乱現象」としている.ルサンチマンは他者の行為への反感、存在への反感であるが私達は、ただちに手出しできない状況にあるために、これを心のなかに押し込めようとする.これはフロイトのいう無意識の抑圧、という防衛機制であり、どうしても変えられない世界の秩序を内面で価値を転倒させることで自らを騙し、倒錯した復讐を遂げる対処行動ないし自助努力ともいえる、という.

妄想とルサンチマン

 ある学者たちはルサンチマンと妄想というのはとても関連がありそうだ、ということを考えた.妄想というのは、簡単にいうと自己と関連した、誤った確信、である.ということは妄想はすべて関係妄想でもある.妄想という現象が生じる精神疾患のなかに、統合失調症がある.妄想は多くは侵襲的で、被害を与えるものである.被害妄想というのは自分が危害を加えられていると確信するものだ.なぜ、妄想というのはそんなテーマなのだろうか.なぜ「あなたは本当にすてきですね」「お前は実に立派なやつだ、誇らしいよ」と褒めるような妄想がないのか、こうした疑問ははるか昔からあるように思うが、いくつかの解釈があるようだ.どのような説があるかは、次でお話したいと思う.

 

On Melancholy Hill

 気分障碍の歴史

Melancholia, Lucas Cranach der Ältere

 前の記事で、私は「うつ」がよくわからない、と述べた.自身の勉強のためにも、様々な書物を平積みにして少しずつ調べることにした.結果、わからないところも新たに増えた一方で、非常に興味深く理解をすることができたように思う.とはいいつつ今回お話するのは、かなり表層的なところになるので難しくはない.病理の話はそんなにしない.

 うつ、抑うつ(Depression)とは、内因性疾患としてのうつ病と、状態像ないし、症候群としての抑うつ状態の両方を指す.「ぼくはなんだか憂鬱なんです」、というのは状態像であり、「あの症例は『うつ』だと考えられます」は疾患を指す.ややこしいのは名詞と補語が混在しているからだろう.以下は弘文堂の「精神症候学:第二版」からの部分引用になる.この書籍は8200円する大変高価な書籍だが、その値打ち以上の価値がある.ありとあらゆる精神現象が解説されている.今っぽくいうと、マジでやばい.濱田秀伯という学者が著した本だが、西丸四方の「精神医学入門」並の意義がある.この二冊は傑出している.西丸四方の本には貴重な写真が掲載されている、というのも見事である.読み物としても面白い.

 まず日本語での「うつ」について触れてみると、「うつ」という言葉はそもそも「鬱蒼とした密林」の「鬱」であり、これは香草をぎゅうぎゅうに容器に入れて発酵させた、という会意文字らしい.キビヤックのような閉塞感は感じられるが、どちらかといえば、「憂鬱」の「憂」が本質を当てているように思う.角川古語辞典を参照すると、「憂ふ(うれふ)」には、①嘆き悲しみを人に訴える;「からい目を見さぶらいひて.誰にかは憂へ申し侍らむ」(枕草子)(ひどい目にあいまして.どなたに訴え申し上げましょうか)②心を悩ます.思いわずらう;「期する所なきものは、憂へながら止まり居り」(方丈記)「将来に望みのないものは、思い煩いながらとどまっている」③病気で苦しむ.わずらう;「昔は身の病を憂へき、今は人の病を癒やしぬ」(今昔物語)「昔は自身の病気で苦しんだ.今は人の病気を治している」というものがある.これ以上の資料が手元にないが、少なくとも十二世紀までには「憂ふ」という言葉が完成し広まっていたと考えていいだろう.それ以前がどうなっていたかはわからないが、中国医学に由来する用語があっただろうし、それなりの学識があったに違いない.余談だが、紀元前200年頃の文献「黄帝内経」の癲狂篇にはうつ状態、躁状態と思われる症状記載があるという.

 さて、内因うつ病は誘引のない生物学的発症をし、精神運動制止が強く、体重減少や早朝覚醒、症状の日内変動を伴うという.精神病性うつ病もこれと同義だが、幻覚・妄想、錯乱を伴う重症例に用いることがあると思う.アメリカ精神医学会の編纂したDSM-3以降では内因性うつ病を大うつ病(Major depressive disorder)と呼んでいる.では小うつ病があるかといえば、ない.いい加減である.軽度うつ病(Mild Depression)という言い方はあるようだが、なんだかタバコの銘柄みたいだ.中国ではうつ病を抑郁症、台湾では憂鬱症というらしい.

 内因性うつ病にうつ病相のみを繰り返す単極うつ病、躁のみあるいは躁うつ二つの病相を併せ持つ、双極うつ病・双極感情障碍という区別をしたのは、レオンハルトという人物が初めてで、それは1959年のことだという.以来、アングスト、ペリスらが多数例の調査から単極性・双極性の区別を確立した.双極うつ病を、躁病相を伴うⅠ型と軽躁を伴うII型に区分する見方は、ダナーの1970年の発表以来であり、後者はDSM-4以降、双極II型障碍として独立項となった.1983年発表のアキスカルという人の概念からは双極II型障碍、気分変調症、気分循環症などを連続体(スペクトラム)と見ることもある.さて、たくさんの人名が出てきて「これはブラウザバックだなァ」と辟易する人がいるかもしれないが全く気にしなくていい.音楽好きが「カート・コバーンが……、キース・リチャードが……、ポール・マッカトニーが……」と言うのと同じ次元にある.

 キールホルツは1971年の発表で、うつ病を身体因、心因、内因の三つに分け、内因を身体因と心因の間に位置づけたが、一般的にはこれを基準にして考えることが多いようだ.つまり、脳卒中のあとに抑うつをきたした場合は身体因を考えるし、軍隊に入って、厳しい教練を機に抑うつをきたせば心因を考える.ではそれ以外何も思い当たらない、いやはやわからないぞ、という場合に内因性を考える、という具合だ.すごく曖昧だから気にしなくていい.日本では1975年に発表された病前性格、発病状況、病像、治療への反応、経過を踏まえた六型に分けた、笠原・木村分類が知られている.これは、みすず書房の「うつ病臨床のエッセンス」に詳しい.良い本だ.参考までに分類をあげておくと、メランコリー性格型うつ病、循環型うつ病、葛藤反応型うつ病、偽循環病型分裂病、悲哀反応、その他にわかれる.ちなみに現在では積極的に用いられていない.メランコリー新和型が生き残っているくらいか.ではメランコリーとはなんであろうか、ということになる.

Melancholia I, Albrecht Dürer

 メランコリー(Melancholie)は抑うつ、うつ病の別名、というのが歴史的経緯を加味して考えると妥当だろう.古代ギリシアのmelancholia、μελαγχολίαから来ている.これは黒胆汁(black bile)のことであり、黒胆汁が鬱滞して症状が起こる、という体液説に基づいている.心配と悲しみの続く患者は黒い胆汁を「ぐぉお’’え’’ぇ~~~!!」と吐いたらしく、そういう人は黒胆汁ともたらす思考と感情の病気にあると考えられた(それどころではないはず).現代の認識で言うと、正常な胆汁の色は黄褐色である.ビリルビン結石ならば真っ黒な色だが、口から出ることは無い.そして胆汁の異常な色は緑や混濁したものになる.今の時代に黒いものを吐いた人がいた場合は、イカスミパスタを食べ過ぎたため…ではなくて、凝固した血液成分が混ざったものを吐いた可能性が考えられるから、医療機関への相談がよさそうだ.

 黒い色、というのは胆汁だけではなく、気分そのものを表象するようになった.おフランスでメランコリーという言葉が用いられたのは十二世紀らしいが、憂鬱をさす表現に、idees noires, broyer du noir, ドイツではSchwarz sehen, イタリアではvedere tutto neroなどがある.青も憂鬱を代表する色で「マリッジブルー」「マタニティブルー」「ブルーマンデー」はよく知られているし、音楽ジャンルの「Blues」はまさに憂いを歌っている.そしてメランコリー(Melancholie)と青い花であるオダマキ(Ancolie)の語呂合わせは詩の定番であったようだ.邦楽のポップスでも「メランコリニスタ」という曲があるし、冒頭の歌詞は「メランコリニスタ 静かなハイで眠れない」という絶妙なセンスである.

 メランコリーという言葉は次第に多義性を帯びる.悲しみだけでなく、あらゆる情熱の過剰と同義語となり、この延長としてピネルという医師の文脈では、一徹な考えに支配された部分精神病を意味し、クレペリンのいうメランコリーは、退行期うつ病の別名となり、コタール症候群や緊張病に発展する妄想性障碍の一種を示した.ややこしいのは有名なフロイトおじさんが、喪失体験の悲哀・憂いをメランコリーと呼んでいることだ.これはややこしい.なぜややこしいのかといえば、シュナイダーというおっさんによる区別のためだ.シュナイダーというのは統合失調症における一級症状というのを提案した人で有名である.メランコリーというのはこれまで述べたテクストでいう内因性のうつに相当する言葉で、原因不明なのに気持ちが晴れ晴れしない状態をいう.一方、1917年にフロイトが行ったのは、愛や依存を喪失する体験に伴う感情をメランコリーと呼んだことであった.気にしないで次へ進もう.

 では現代ではメランコリーはどのように扱うのか.多義性を帯びつつある現代のメランコリーは定義が難しいので、DSM-5の診断基準にも記載(メランコリアの特徴を伴う)がある「メランコリー親和型」を述べておこう.

 テレンバッハ(1961)や下田(1932)という人らは「うつ」になりやすい性格、とうのがあるのではないかと考えた人で、こういう人らは力動的にうつ病になると論じ、執着性性格、メランコリー型(Typus Melancholicus)という気質を挙げた.凝り性、苦労性、律儀、実直な人、秩序志向で良心的な性格が代表的で、この傾向が破綻する主体環境事情即ち状況におかれると、うつ病に至ると考えたのであった.先程述べた笠原・木村分類に出てきたメランコリー性格型うつ病は、下田・テレンバッハの文脈を踏襲している.これは結構説得的で、いまでも一般に流布するうつ病のイメージ像に近いように思う.テレンバッハの指摘したのは、こうした人は「秩序愛」が大きな特徴だ、と述べたことであった.背後には「他者との円満な関係の維持」が中核にあり、その具体的表現は、人と争わない、人と衝突しそうになるときは自分が引く、いやといえない、義理人情、慣習、挨拶を大切にする、などである.彼らは発病以前はなんら内的葛藤を経験しておらず、場合によっては過剰適応といえるくらいの「いい子ちゃん」であるという.仕事などには精力的で凝り性なエネルギーは、発病時には臨床像的には軽躁的、躁的に見えるくらいになる(躁的防衛).発病状況に関してまとめると、転勤・昇進・転職、結婚、転居、負傷、負担の増加、出産、愛するもの・財産の喪失が挙げられるそうで、多くは多重的に起こるという.一般のうつ病は一つの理由で起こるのではないことがわかる.あなたの周りにこのような人はいませんか.

 他方、「マニー」という言葉がある.Moneyのことではなくて、Manie, Maniaのことである.日本でも、何かに熱中して造詣が深いことを「マニア」というだろう.今ではオタクという言い方をするのかな.オタクもだいぶ民主化してきたように思う.「マニアックな言い方をすると……」という言い方も耳にするかもしれない.これは厳密には躁病の病相のことをいう.気分高揚と意欲増進を主徴とする状態像で、観念奔逸、誇大妄想、刺激性、転導性、抑制消失、逸脱行為を伴う.難しい言葉が並ぶがとりあえず保留しておく.マニーという言葉も古代ギリシアに由来するようで、mania, μανιαはヒポクラテス以前から慢性に経過する発熱のない精神の乱れ、隔離を要する激しい興奮状態をさしたらしい.濱田によればフランス語には十四世紀末に登場するが、十七世紀初頭からは乱暴で奇異な行動に導く、理に合わない極端な考えという意味も併せ持つようになったという.

 Areteo di Cappadocia

 さてさて、マニーとメランコリーの関連を考えてみると、どうやら「カッパドキアのアレタイオス」という人まで遡るようだ.彼は紀元後二世紀ごろの人物で、現在のトルコにあるカッパドキアの市民であったらしく、かつてはローマ帝国の属州であった.広くはギリシア人という理解で良いようだ.この人は精神に限らず様々な症状に関する考察を残しており、糖尿病やセリアック病、喘息、てんかん、肝臓悪性腫瘍に対する記述があるようである.すごいね!十七世紀のウィリス、十九世紀のホーンバウムという人は一人の患者に長短さまざまな周期で悲哀と爽快が交代する、という例を報告している.精神医学においてマニーとメランコリーが一つの疾患体系に組み入れられたのは1854年のファルレーという人物の発表が始まりで、循環狂気と名付けられていたが、バイアルジェという人は重複精神病という言い方をした.同時期に、カールバウムというおじさんが気分循環症として同様の病態を記載した.1899年にクレペリンが躁うつ病という概念を確立してからは、この呼名が現在も残っている.病院に残っている古いカルテを見ると、MDIという略語があるが、これはドイツ語でいう躁うつ病、Manisch-Depressives Irreseinの略であり、ドイツ医学の名残が感じられる.とはいっても今どきMDIという人はほとんどいないように思うから知っても仕方がない.断っておくと、現在は双極性障碍という言い方がベターだ.

 この双極性障碍という名称は1980年のDSM-3からで、これまでは統合失調症と双璧をなす精神疾患の一つとしての躁うつ病から変貌を遂げ、感情調整の障碍の症候群として位置づけられた.上述したように、DSM-4では双極性障碍はI型とII型に分けられているが、このII型という分類はかなり曖昧な枠付であり、おそらく医師の間でもII型の診断には議論が生じるであろう.I型とII型がどのように異なるかはここでは触れないでおく.少なくとも積極的に診断を下すような病名ではないと思う.現在はDSM-5が学会、臨床、法学で多く用いられているが、行政の基準はWHOの策定したICD-10である.すでにICD-11というものがバージョンアップして存在しているが、いまだにICD-10なのだ.DSM-5では双極性障碍の分類はI型、II型に分類されているのに対し、古いICD-10では分類されておらず、双極性障碍はひとくくりとなっている.行政の書類と言えば、診断書はもちろん、非自発的入院の届け出、障碍年金や障碍手帳などであるが、臨床の名称と行政での名称が異なるのは大変な不都合である.最後の方は私のただの愚痴だ.

というわけで

 こうして振り返ると実に多くの人が登場し、闊達に学説を唱えてきたように思う.紀元前から中世、近代までは大きく進歩したわけではなかったが、近代からの学問の発達が凄まじいように感じる.特にフランス・ドイツのブーストが著しいが、私のぼんやりとした感想を言えば、哲学や思想の発展が大きく関与していると思う.それだけではなく、合理主義や科学技術の進歩が宗教性・魔術性、体液説を退けたことも大きいだろう.そこで一つ私が気になっているのは、中東世界における精神医学の歩みである.古代ギリシアの学問が中東に輸入され、以来、イスラム世界はそれをユナニ医学(ギリシアの医学)として発展させたようである.確かにイスハーク・イブン・イムラン、アリー・アル・アッバース・アル・マジュスィらがメランコリーの概念をコンスタンティヌス・アフリカヌスを経て西洋に広めた功績は目覚ましいし、イブン・シーナーのような人物は十一世紀に「医学典範」を著し、この医学が十九世紀まで実践されたというのだから、なかなかあっぱれなのであるが、「本当にそんなものなのか??」という疑問が生じてしまっている.つまり、イスラム世界はずっとガレノスの体液説を信じ続けてきた、というのはにわかには信じがたい、というのが私の率直な感想である.彼らには彼らなりのロジックがあったのではないか?今で言う精神病理学があったのではないか、という気がしているのだ.狂気は悪霊ジンが取り憑いているからだ、という説明では私は満足しない.彼らには彼らの知られざる叡智があるのではないかと私は勝手に期待している.私達がアクセスできる文献で知ることができるのは、西欧と我が国の医学史がほとんどで中東やアフリカはかなり少ないように思う.インドのアーユルヴェーダももちろん気になる.だがインド世界は一度保留しておこう.ではどうするのか、と言われれば自分で調べるしかあるまい.まぁ、ひらがなとカタカナと数千文字の漢字の音訓を覚え、複雑な格助詞の使い方をマスターした我々日本人にとって、正則アラビア語はなんとかなりそうだ、という前向きな気持ちで捉えておこう.アラビア文字はたった28文字しかないのだから.まずはコツコツと地固をして、準備をしておくことにする.

 最後に

 最近はうつ病にも様々なタイプが提唱されている.アキスカル、内海らのSoft Bipolor、非定型うつ病(DSM)、現代型うつ病(松浪)、未熟型うつ病(阿部)、職場結合型うつ病(加藤)、ディスチミア新和型うつ病(樽味、神庭)など.様々な知見が増えていき、議論が活発になるのは良い.だがこれだけあるとなんだかよくわからなくなってくる.いや、ぶっちゃけよくわからない.うつ病百花繚乱にもほどがある.

 だが世界に70億人以上人間がいれば、それだけ呈する気分の波も異なって当然だ.性格や気質は人それぞれだ.似た所もあれば、似てないところもある.あなたの体にコードされている遺伝情報、一塩基がほんの少し違うだけで発病しやすさや、抗うつ薬の反応性も予後も異なるであろうことは、現代の医学が教えてくれている.だから、百年前にすでにうつ病になりやすい性格や気質を試論したテレンバッハや下田らは実に見事であるように思う.ともかく皆さんはメランコリーについてなんとなくわかっていただけただろうか.ここまでお疲れ様でした.ありがとうございました.

 

 

 

不確実性へ溶け込め

フロイトの家、ロンドンで

リルケに震える

 オープンダイアローグに関する書籍を読んでいると、「不確実性への耐性」という言葉が出てくる.これはオープンダイアローグのポリフォニーが紡ぐ、対話という「不確実性」に関連している.多人数によって響き合う音色がジャズセッションのように、どのような着地点にたどり着くかは誰にもわからない.何も決まらないのかもしれないし、重要なことが決まるかもしれない.思わぬ言葉が語られるかもしれなければ、期待通りの展開で終わるかもしれぬ.私達は究極的には全関係者の最大幸福を願っているのだけれど、そこでは治療というゴールを急がないし、焦ってはいけない.大事なことはいかに語りを途絶えさせないことかにかかっている.医療者はクライエントの意見を誘導してはいけないし、できるだけ中立であり続けなければならない.こうした不確実性に耐えることができるのは、この治療が安全だと感じられる場合だ.そして安全を感じるための「アリアドネの糸」は対話を続けることなのだ.

 「オープンダイアローグとは何か」の著者・訳者である斎藤環氏は日本にこの方法論を伝えた第一人者であるが、この「不確実性への耐性」という言葉を詩人リルケを引いて表現する.

 あなたはまだ本当にお若い.すべての物語のはじまる以前にいらっしゃるのですから、私はできるだけあなたにお願いしておきたいのです.あなたの心の中の未解決のものすべてに対して忍耐を持たれることを.そうして問い自身を、例えば閉ざされた部屋のように、あるいは非常に未知な言語で書物のように、愛されることを.今すぐ答えを捜さないでください.あなたはまたそれを自ら生きておいでにならないのだから、今与えられることはないのです.すべてを生きるということこそ、しかし大切なのです.今はあなたは問いを生きてください.そうすればあなたは次第に、それと気づくことなく、ある遥かな日に、答えの中に生きて行かれることになりましょう.

リルケ「若き詩人への手紙」、Briefe an einen Jungen Dichter, 1903 高安国世訳

 そう、私達は「すべての物事のはじまる以前にいる」のだ.今すぐ答えを捜すことはせずに、問いを生きろという.まったく正鵠を射た心持ちがする.これはオープンダイアローグに限らず、すべての事象に対して重要な言葉なのではないか.殊更、今の新興感染症の災厄の中においては.

 この文章はリルケからとある若手詩人に向けられたもので、上記は長い長い手紙のほんの一節に過ぎない.彼は一人の人間を念頭に手紙を書いているはずなのに、私だけでなく、多くの人の心を掴んでいるのはなぜだろうか.言葉を超えて、時を超えて感興をかきたてるのは、彼の言葉にある深い洞察と豊穣な感性に依るのだろう.

不安とどう取り合うか

 そもそも、私達が不確実性に対して生来耐性があるのかと考えてみると、それほどなさそうである.この不確実性という言葉は「不安感」に置き換えられるだろう、もちろん不安の感じやすさは個人差があるにせよ、全く不安のない人は絶対にいない.私達は性質上、未来という時制に投企する生き物である.そして医学というのは不安との戦いともいえる.医学は如何に不安と折衝するかに尽きるのではないか.胸が苦しくなるのはどうしてなのだろう、その後どうなるのだろう、この腫れ物はどうなるのだろう、熱はいつになったら下がるのだろう、どうしたら傷が治るのだろう、いつになれば退院できるのだろう.どちらの薬をどのくらいつかえばいいのだろう、血液検査や画像検査で調べても原因が見つからないのに体が震えるのはどうしてなのだろう.最後に、私達はいつ死ぬのだろうか、と.

 科学は不安に対する一つの方策だと言えそうだ.数学や統計学、疫学は世界の公衆衛生の発展に寄与したし、化学、物理学の進歩は言わずとも外科治療や薬理治療、救急医療に貢献したはずである.科学はそうした分野における様々な不安を解消してきた.だが、それで私達の不安は和らいだかと言われると、どうだろう?医療を受ける側も提供する側も不安は尽きないのではないか.これまでの医学において不安をどう理解してきたかを考えてみると、おそらく十九世紀近くまでは、体液病理説に基づく理解が支配的で、不安の解釈も体液(血液、粘液、胆汁、黒胆汁)の不均衡に由来すると考えられたはずで、精神疾患は超自然的な現象のしわざと理解する傾向が多かった.

 二十世紀の重要人物、フロイトの理論をおさらいしてみる.彼によれば、私達は原則、現実を無視して本能的に快楽を求めようとする性質があるという(エス、イド).他方、自我というのは苦痛や苦悩を体験する情動を無意識へ追いやることによって、心の安定を図ろうとする.これをフロイトは軍事用語にあやかって、防衛機制と呼んだ.人間は防衛機制を働かせることによって、苦悩を追い払い、心の安定を得て現実の世界に適応することができると考えた.しかし、快楽を得ようとする欲動(エス、イド)と、それを押し留めようとする力(超自我)の間で葛藤が生じると不安が生じる.この不安で自分自身が崩れてしまうことを防ぐべく、防衛機制が働くのだが、これが過剰に機能したり失調が起こると精神的な症状(失声、失立失歩、解離、転換など)が生じると考えたのである.これをフロイトは「神経症」と呼んだ.ノイローゼ、というのは神経症のドイツ語読みであり、今でも慣例的に使用されている.この神経症の治療方法が精神分析と呼ばれる.

 神経生理学的な立場で不安を考えてみると、不安は「闘争か逃走」の反応の一つであり、不安症の中核的な要素は「恐怖」「憂い」だとされる.うつ病の中核的要素が「抑うつ気分」と「興味の喪失」である点で対比されることに注意だ.不安の中核要素のうち、「恐怖」とは海馬近傍に存在するアーモンド型の脳中枢、扁桃体を中心とする神経回路により調節され、「憂い」は仮説上、皮質ー線条体ー視床ー皮質(Cortico-Striato-Thalamo-Cortical、CSTC)神経回路に関係するという.不安の基礎となるこれらの神経回路の調節には多くの神経伝達物質が関与している.なかでもγ-アミノ酪酸、通称GABAは不安における鍵となる神経伝達物質で、抗不安薬はこの神経伝達系に作用する.ほかにもセロトニン、ノルアドレナリン、α2σリガンドといったものが発見されている.恐怖の条件づけと恐怖の消去という相反する概念は、不安の症状形成と維持に関与しているとされる.これら仮説は認知行動療法という精神療法と、薬物療法を組み合わせる現代の治療法の基盤となっている.

 この半世紀近くで生理学・薬理学の研究は加速度的に進行したし、精神分析療法も小規模だが行われている.神経症の名前は身体表現性障碍や解離性障碍などに姿を変えて、フロイトの理論は現在も診断体系の重要な基礎である.こうした科学や理論の進歩は不安に対する理解や解釈を行うのに極めて有益ではあるものの、これらは不安を緩和し、消退させようとする方向にある.上記で述べた不安を神経症として扱えば、全人類神経症として、ソファの上で横になり、無意識を引き出す羽目になる.あるいは皆が全般性不安症と診断され、全人類ベンゾジアゼピン系薬剤のお世話になるとすれば、滑稽を通り越してディストピア感があふれる.これではいけない.葛藤を抽出して現実的なアプローチを行い、神経回路の調節を薬剤で行うのももちろん重要なことなのだが、今後不安と折衝するにあたって肝となるのはきっと、不確実性への耐性を高めることではないだろうか.不安に対する耐性(レジリエンス)を高めるような研究はこの四半世紀で始まったばかりだと思う.だが、オープンダイアローグの方法論は必ずや、レジリエンスの獲得に寄与するはずである.参加者全員が.

不安は不安を呼ぶ

 私事で恐縮だが、つい先日、私は二回目の新型コロナウィルスワクチン接種を受けることができた.本当に、本当に、ありがたい限りだ.とは言っても接種後の副反応は予想以上に辛いものであった.二回目の接種後に予定を入れることはおすすめできない.既知の報告で知られている副反応に、倦怠感や関節痛、発熱がある.私の体験に関していうと、発熱なしに強烈なだるさと悪寒、大関節の違和感が生じたのだった.接種後半日くらい経ってからか、本当に全く何もできなくなってしまったのは久々であった.うつ病でぶっ倒れたのとはまた違う.ほとんどの人が一日くらいで回復すると知っていたので希望は持てていたが、もし万が一このまま何もできずにいたらどうしよう、仕事が続けられなくなってしまったらどうしようかと不安になっていたし、この辛い症状を感じていた瞬間がものすごく長く感じられた.上記は私の肉体に関する憂慮であるが、世間ではもっと切迫した不安にかられているし、そんな私事を述べても「あっそ」と言われるのがオチである.今、感染症によりこの苦しみのさらに途方も無い大きさで苦しんでいる方々が毎日六千人くらい日本で報告されていて、一定の割合で命を落とす方がいると思うと、遺された家族や恋人、経営縮小を余儀なくされている業界人、日々全力を尽くす医療人の全身の苦悩は計り知れない.世界規模で捉えればさらに凄まじい数の不安が計上されることになる.

 このような事実を知るとさらに健康や行政、究極は未来に対する不安は増してゆく.報道はそんな私達の不安を反映しているように映る.前回の記事では、刺激を避けて、なるべく怒らず、期待せず、日々できることに注力するのが良さそうだ、といったことを書いた.その考えは変わってはいない.とはいっても不安は尽きない人も多いだろう.私自身、大いに不安を感じている.今、この時代に生きる多くの文明人は皆、昨今の技術革新と逆相関して「不確実性への耐性」が落ちてきているのだろうか、と半信半疑になったり、耐性が落ちやすい社会構造になっているような気もしている.ひょっとして私達は脆くなっているのか.それは私だけだろうか.2017年にWHOが発表している不安障碍人口が増えていることも関係があるのだろうか?

古きを訪ねて新しきを知る

 冒頭に立ち返ろう.私達はできるだけ、忍耐を持って、未解決の問題に対して今すぐ答えを捜そうとしないこと.これが大事だ.きっとリルケの言葉はこれまでも、これからも私達の一つの真理であり、光であるように思う.だから不安を感じて疑問を抱いたとしても、結論を急がないことにしよう.

 はるかはるか昔、伊邪那岐と伊邪那美の二柱が天の沼矛で地上の混沌をコネコネすることによって大八島、すなわち日本が生まれたわけだが、どういうわけか神々は我々に試練をお与えくださった.日本は地質学的性質から天災に見舞われやすい土地だ.地震・雷・火事・親父という災害で被災する人々にとって必要なことは、いかに人々に孤立感を味合わせないようにするかが第一に重要であったと、中井久夫は述べている.中井は日本精神医学の巨人であり、彼は阪神淡路大震災の際、被災地の精神科医療に大きく貢献されている.第二には体験の分かち合いが大切だという.被災地にせよ、避難所にせよ、人々が集って語り合うということに意義があるという.自分はどういう状態だったのか、こういう事態に巻き込まれて、こういう体験を味わった、という事実を縷々として話し、どのような気持ちになったかを語る.そして最後に、どのような結果になったのか、という事実を語る.事実ー感情ー事実という順序が良いようで、感情を開きっぱなしにせず、最後にしっかり現実に帰還することが大切なのだという.私達が今味わっているこの苦痛や不安、思い出したくないのに思い出してしまう映像・記憶、感情の高ぶりや麻痺は決して異常なことではなくて、人々が異常な状況において起こす一般的な反応なのだ、ということを共有できるといいという.

 おそらく震災に限らず、このパンデミックという厄災においても、誰かと語りを交えるというのはきっと大切な作業なのではないかと思う.同じ屋根の下で食事を摂る家族や友人・同棲相手がいれば、それでいい.オープンダイアローグの本を読むと、参加者が同じ場所・同じ空気感に居合わせるのが最善だ、ということは十分わかるのだが、そこまで構造的にやらなくてもいいと思うし、感染予防上どうしても難しいこともある.今の時代ならば、双方向性のグループチャットがある.LINE、ZoomやGoogle Meet、FaceTimeはよく知られた手段だ.顔をあわせなくてもTwitterSpaceやClubhouse、その他の音声配信サービスがある.同時空間性というわけにはいかないが、百年前からあるラジオはよくあるメディアだし、最近はAnchorやSpotifyのようにPodcastを個人でラジオ番組を配信できるサービスもあれば、ニコニコ生放送やYouTube Liveのように視聴者参加型のサービスがある.どのような媒体を用いて共有をするかは個人の都合に任せるとして、どんな形であれ、語りを共有できればいいと思う.巣ごもりをしていても、孤立化しないようにできることもあるはずだ.

 一応言っておくと、昨今のメディアに親和性の低い人々や何らかの事情によりメディアが使えない人がいることは重々承知している.注意すべきはこうした孤立化のリスクが高い方々が軽んじられ、疎まれる事態だろうと思う.地域の住民、民生委員や、行政・保健・福祉の方々の力なくして彼らの可視化は難しい.いつか何らかの形で機動的に、柔軟に、迅速に対応できる精神保健福祉ネットワークの構築に携われたらいいなと思うこの頃である.まずは私自身の健康を取り戻すところから始めよう.

 人は他者と意志の伝達がはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない.それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである.

 かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にして__自分自身に語りかけることを覚えたのだ.

 自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である.

ヴァレリー「カイエ」Cahier, 1979 恒川邦夫訳

ありがとうございました.

 以下の書籍はとても素敵な内容になっています.ぜひ読んでみて下さい.

ファントムドライブ

オキゴンドウとファントム

 冷たい夜に車を運転をしていてびっくりしたことがある.あるとき前方に巨大な車体を認めた.尾灯の形は見慣れぬもので、自動車診断学の知識を活かしてなんとかロールス・ロイスのそれだとわかったが、夜間だと車種が同定しづらい.前方100mではわからなかった.自然と近づいて追い越してゆく際に横目で見やると、ぎょぎょぎょぎょ!以前取り上げたファントムVIIIであった.なんというデカさ!車体があまりにもでかすぎる.ドレッドノート戦艦を基準にして例えられる「超弩級」という言葉はファントムにふさわしいと思った.だが誤解なくいうと私は決してその車の意匠は好きではないし、ほしいとも思わない.ではなんでそんな話をするのか.本当は好きなんじゃないのか.そう思った方は、ただの小市民が体長5mのオキゴンドウを飼育したいと思うだろうかと考えてほしい.見た目の好みもあってもいいじゃないか.とはいっても水族館で見ればワクワクするものだ.ただ私は同じようにファントムを見てワクワクしただけだ.その夜はオキゴンドウがゆったりと海遊するように、ファントムも悠々と公道を駆け抜けていた.

 同時に私は、密かにリスペクトしている安永浩の、あるエッセイの表題を思い出した.

ファントム空間は疾走する

 こういうことを書くと、中二病だとか、キザだとか、カッコマンだといじめてくる人がいる.これは安永のオリジナルであり、彼はジャン・コクトーらしさを想起して悦に浸っていると述べている.私はジャン・コクトー風情を理解しないのだが、この句が意味するところを以下の文章を引用して説明しよう.

 当時私は、停年後始めた楽しみとして、自動車運転に凝っていたので、ふとこの言葉が頭に浮かんだのである.つまり運転しているときの注意空間は、前後100メートル位、左右が各10メートル位の透明な紡錘状をしているように思えて、この目に見えない空間が、時速40−60キロで車とともに疾走している、というところをイメージしたのである.もちろんどの運転者でも同じだから、路上は無数のファントム空間が疾走し、交錯していることになり、ぶつかる音はしないが大変な混雑ぶり、とこの「目」からは見える…….

 これを見て私は歓喜した.以前の記事で紹介した意識的知覚系Rファントム機能系Ph仮設図式系HSの例えとおよそ同じでは無いか、と.どうか夕方の首都高速6号線小菅ジャンクションのことを考えていただきたい.運転が上手ではない私から言わせてもらうとあれはひどい所だ.あれは左右から無数の車が合流をしかけあう無慈悲な戦場である.まるで海中をアジやイカやカサゴやボラがヒューヒューと泳ぎ回り、お互いにぶつからないように巧みに交錯する.そして時折オキゴンドウやジンベイザメがぬぼーっと周りを威圧して泳ぎ、コバンザメが便乗して右左折をする.はぐれたイワシの身である自分としては緊張する場面である.とはいえ、私の考えていた事、車に例えていたことが同じであったのは僥倖で、一瞬安永と400%くらいシンクロしたような感覚となった.案外思索にふけるのは悪くないなと思った.

 無数の意思が、互いに干渉しないように(時として干渉してしまうが)走り抜けていくさまを見ると、私は背景にファントム機能を意識せずにはいられない.おそらく脳科学の立場からいえば「身体感覚の延長」という表現になるのだろうが、私は「ファントム空間が疾走する」方がしっくりくる.より説明的だと思っている.ではどのように説明的か、というとその説明はなかなか難しい.まずは特集「ファントム空間論」をはじめからご覧になっていただければと思う.いつか脳科学の立場から幻肢を取り上げて説明を試みたいとも思う.

ファントム短縮2.0

 なんどもなんども読み返してもわからない部分というのがあった.彼の著書に図示されているファントム短縮の説明が大変抽象的?(もしくは自分がポンコツ)なので一つの図を理解するのにものすごく時間がかかってしまって、なかなか前に進めない感覚があったのである.「ファントム短縮」というタイトルで昨年の12月25日に投稿をしたときは、その説明は割と表層をなぞるような記事に過ぎず、各論に迫りきれなかった.まずはおさらいをしておく.

 ファントム空間(こころの空間)とは、体験可能な至近点(自分の身近なところ)から至遠点(赤の他人)までの空間のことをいう.その至近極からその時のイメージまでの体験距離をファントム距離、といい(こころの距離)、これを保っている特殊エネルギー実態の働きをファントム機能(こころの機能)と呼称する.ファントム距離はビヨヨ〜ンとゴムまりのように多少伸び縮みする.だがたいていは至適定常距離にある.つまりほどほどの距離感を保つことができている.知的イメージはその端に現れる.知的イメージというのは、「家族」、「友人」、「職場の人間」といった他者の存在と考えてよい.それなりの距離感を自分なりに掴んでいる.それがファントム機能だ.この機能が正常であれば、習慣的に作られた世界の距離的構造の認識図式とファントム機能とはそのファントム距離測定において全く一致している.

 ところがファントム機能のなんらかの失調により、ファントムエネルギーが低下してしまったとする.だが、自身はそれに気づかない.当人にとって実際のイメージはその「予期された距離」にはなかった.自身はよろめき、錯覚運動が起こる.どのような錯覚運動か.前回の記事で例えたエレベータをもとに考えてみる.エレベータにおいて自分が完全な静止系にいると思っていたら実は自分が等速運動する慣性系にいて、なおかつ突如急制動し、自分が浮き上がるような感覚である.これは「不意打ち」に近い仕打ちだ.当然狼狽するだろう.安永はこのような「不意打ち」をファントム短縮と呼んだ.

 

 この議論はもう少し深堀りすることができるようだ.安永は以下のように議論を進める.知覚体験における意識全体のあり方と、表象体験における意識全体のあり方と、表象体験における意識全体のあり方は異なっている、と.ではどう異なるのか.彼はジャン・ポール・サルトルの現象学的考察を取り上げている.残念ながら私にはサルトルの考えはよくわからない.だが、要するに知覚体験には「外界から流入するたえざる充実」という激しい緊張関係がある一方で、表象世界にはそれがない.おそらくは、視覚のような知覚体験は、失明するか後頭葉を損傷するなどして、神経系を遮断しない限り、無条件に情報が入ってくる.嗅細胞が破壊されなければ、うなぎの蒲焼きの薫香から逃れることができない.それらに対して主体は何らかの想起をする.イメージする、というと曖昧だし、せっかくなので現象学用語のノエシスを使おう.ノエシスが作用してなにがしかのノエマが生じる.つまり、インプットとアウトプットという二つの方向性が生じている.一方、表象というのは、そもそもが抽象的なものだから、知覚情報として入ってくるものではなく、あくまで思念するものである.これは脳内でアウトプットするのみであり、一方向的である.そんなに間違ったことは言っていないだろう.この話は錯視の話にも通ずる.

 ファントム的にいえば、(ファントム的、という表現は安永らしくて好きだ)表象空間は、現実にはないものを指向する、という意味でまさにファントム空間である、と安永はいう.知覚空間では主観的ファントム空間は、さらに現実知覚の流入と充実によって二重の枠付を受けている.この現実の枠付は主観で左右するわけにはいかない独自の源泉をもっている.

 このような相違は「ファントム短縮」の仮定を導入した場合、どのような結果に、どのような現象として現れるだろうか、という問題提起をする.一つは「遠ざかり」、もう一つは「自我収縮」である.ファントム短縮が主観的には、世界自体の錯覚運動=対象距離感の異様の離隔として体験される場合が、「遠ざかり」、自分自身について体験する場合は「自我収縮」となる.……らしいのだが、どうにもこうにもよくわからない.さらに、彼が追補するのは「ファントム短縮」は対象の「遠ざかり」だけでなく、自身の「遠ざかり」が現れてもよいはずだ、という論である.このあたりで私はしばらく躓いていた.

 「この図(図1)を見ていただければわかると思うが」と本には記してあるのだが、私には何度見直してもよくわからなかったことが大きい.何百回見直しただろうか.別に著者を責めるつもりはない.私の理解力を嘆くほかないのか、それとも他の読者にも難解なのか.これは感想を聞いてみたいところだ.

 

図1:置き去りと自我収縮、その両方について安永が考案した図

  あれから幾星霜、なんとかわかったような気がしてきた.自分なりに紙に書いて図示するのが一番良かった.おそらく以下の二つの図として再構成あるいは再解釈すると、わかりやすいのではないかと思う.

 図2を取り上げる.自分と他者がいる.その間は物理的な距離が存在しているとしよう.つまり5メートルや、6フィートだとか、六尺といった具合である.では5メートルとしよう.もしファントム機能が健全であれば、自分と他者の間には5メートルと等しい体感的な距離(ファントム距離)が生成される.通常、ファントムと現実の距離が一致している.そして主体はそのことは自明だとしている.これが健常例である.

 もし、ファントム機能が破綻したとすると、これは無自覚に生じるので、常に主体(R)は気づかないことが前提になる.ファントム空間の射程が文字通り短縮すると、体感可能な空間は他者まで及ぶことはない.及ぶことができない.この場合ファントム距離はそのまま5メートルだと錯覚したままなのであるから、相対的に物理的距離は(そもそもが5メートルにもかかわらず)遠く空虚に感じられる.他者が「他極」から抜け出すような見え方にもなる.この距離感は決して届くことのないもので、たどり着くことのない空隙である.

 もう一つの例は、自己(R)が自極(HS)から「抜け出す」場合である.最初の例は「対象が次第に遠くに離れていく」図式であったが、次の例は「自分(R)」が「自極(HS)から遠ざかっていく」体験といえる.幽体離脱という怪奇現象に似ていると思う.イメージとして「ジョジョの奇妙な冒険」第三部以降に出現するスタンド:幽波紋にも似ている.それから例1と同じように、自身はこのファントム短縮を自覚しない.しかに背後に誰か(HS)がいる感覚.もちろん自分と他人との距離は変わらず5メートルなのだが、自分自身の位置感覚が奇妙に感じられる.

「えっなんで俺が後ろにいんの?」

 最後は混合例である.この場合は、ファントム空間が自他ともに展開されていない場合で、「置き去り」と「自我収縮」を同時にくらってしまったと考える.自分(R)の背後には自分(に似たような誰か; HS)がいる感覚.そして周りの人々は妙によそよそしい.みんな遠巻きに自分を見ている.この感覚は恐ろしい.

図2:健常のファントムとファントム短縮の一例、置き去り
図3:ファントム短縮の例、自我収縮と混合

 このような体験はあくまで仮定であって、安永は何度も繰り返しているのだが、このように考えると症例が語る言葉が実にTheoreticalに理解できるという.私はようやく同意できる立場になった.症例提示を行おう.安永の症例を原文通り引用してみる.

<症例1>

「私がいましゃべっているのはの声です(自分の後頭部を順々に指しながら)大脳、中脳、小脳、中枢、この中枢の声です.中枢がしゃべらせているのです.私の声ではありません」

あなたの声はどんな声なの?>と治療者がきくと

「ちょっと待って下さい.……(と一息ととのえる感じであらたまって)○○君(自分の名前)しゃべりなさい!……(と自らに向かっていう.)父の墓まいりに行きたいので外泊させて下さい.……(云々)いまの声は私の声です……」

(しかし次の瞬間には)

いましゃべっているのは(もう)私の声ではありません.これは脳の声です……」

 この症例は「脳(HS)の意思が自分(R)をしゃべらせる」という様式になっている.専門用語を用いれば、作為体験やさせられ体験という.もちろん、喋っているのは自分自身にほかならないのだが、その背後に他者であるところの何者(HS)かがあって、これがすべての源泉である.この症例は自我収縮の好例と考えてよいだろう.この症例は自分の後頭部を差すのが象徴的である.自極から抜け出して「他」化する自己.前述した「パターン」の逆転すなわち、A<Bがおきていると考えているのではないか.だんだんつながってきた.

安永あんたすげぇな.あんた何なんだ……

 

ここまで読んでくださりありがとうございます.実のところ彼の著作はまだ半分.続きます.

ファントム短縮

こころの距離、こわれるとき

 前回の記事で私は、錯覚運動の例を独自に解説し、終盤ではファントム距離の失調のためにファントム距離が短縮した状況が、統合失調症の症例において当てはまるのでは、という安永の考えに触れた.ここでファントム機能についてもう一度おさらいしておこう.

 ファントム空間(こころの空間)とは、体験可能な至近点(自分の身近なところ)から至遠点(赤の他人)までの三次元空間のことをいう.その至近極からその時のイメージまでの体験距離をファントム距離、といい(こころの距離)、これを保っている特殊エネルギー実態の働きをファントム機能(こころの機能)と呼称する.

 ファントム距離はビヨヨーンと多少伸び縮みする.だがたいていは至適定常距離にある.つまりほどほどの距離感を保つことができている.知的イメージはその端に現れる.知的イメージというのは、「家族」、「友人」、「職場の人間」といった他者の存在と考えてよい.それなりの距離感を自分なりに掴んでいる.それがファントム機能だ.この機能が正常であれば、習慣的に作られた世界の距離的構造の認識図式とファントム機能とはそのファントム距離測定において全く一致しているはずだ.

 例えば、あなたにとって、家族との至適ファントム距離を取るのに要するエネルギーを4、友人は6、職場の人は15であると仮定しよう.数字が大きければ大きいほどエネルギーが必要になると考えて良い.その至適距離がないとあなたにとっては気持ちの安定、存在的猶予がないと思っていただきたい.

 ところがファントム機能のなんらかの失調により、ファントムエネルギーが低下、至適ファントム距離が短縮してしまったとしよう.つまり最大30までのエネルギー幅が出力されるものがなんと3まで低下したとする.だが、自身はそれに気づかない.自分はいつもどおり仕事場へ出勤し、職場の人とあう.だがどうも様子がおかしい.

 当人にとって実際のイメージはその「予期された距離」にはなかったのである!ヒエッ!自身はよろめき、錯覚運動が起こる.どのような錯覚運動か.前回の記事で例えたエレベータをもとに考えてみる.エレベータにおいて自分が完全な静止系にいると思っていたら実は自分が等速運動する慣性系にいて、なおかつ突如急制動し、自分が浮き上がるような感覚である.実際どのような感覚なのかはわからないが、これは「不意打ち」に近い仕打ちだ.当然狼狽する.安永はこれを「ファントム短縮」という.

 本人の気持ちとしては、なぜか皆がものすごく自分を詮索してくるような距離感に感じられるのであろう、全然親密な間柄でもないのに皆が無遠慮なくらい近づいてくる.不気味な感じがするのであろう(妄想知覚).

 衰弱したファントム機能を総動員して、なんとか3に縮小したエネルギーを10まで拡張することが出来たとする.だがそれでも厳しい.距離が近すぎる.それにエネルギーを傾けなければ、すぐに3へ縮んでしまう.あたりは異様な圧迫感で包まれる.あらゆる景色が異様な近さで感じられる.これは異常近影化という急性期の症状として説明できるかもしれない.凄まじい緊張感が走る.ただの職場のハズなのに、実家なのに、友人と飲みに行っているだけなのに、みんなから信じられないくらいの切迫感を感じる.あらゆる人の動作が気になって気になって仕方がないっ!!うわぁぁ!!

俺に近寄るなっ!!!

となるはずである.

 そこで、知覚イメージ(例えば職場の人)はこの場合、「遠ざかり運動」を起こすのだろう、と安永は仮説を述べる.対象を従来のファントム空間の圏外へと、追いやろうとするようなのである.もう少し詳しく言うと、3しかないエネルギーでは如何ともし難いために、ファントム距離の圏外へ対象を絶縁させる代償機構が働くらしい.これは解離や離人といった現象あるいは、自閉、感情鈍麻が考えられそうである.母船を捨てて脱出する船員のような感覚であろうか.ブツッと外界との連絡を断ってしまう.

 まわりからすれば、そのとき自分と対象は異様な裂隙を生じるためによそよしく感じるであろう.非常に冷淡な感覚がするかもしれない.

 「〇〇さん、なんだか様子が変だな……」「すごくよそよそしいな……どうしたんだろう」

 こうした衰弱が慢性化すれば、いかなる代償的努力もファントム機能を補完することはできない.再修正が行われない限り、現実との異様な裂け目、裂隙は半永久的に残るだろう.そして、エネルギーが枯渇すれば本来遠い、弱いはずの刺激が適切な距離に感じられ、強い努力を要する近い距離感の刺激には応じられなくなる.こうなるともはや無力であり、蹂躙されるしか無い.健常者から見ると弱いはずの刺激に過敏となり、強い刺激には無反応あるいは、カタストロフ(おそらく破滅の意味「俺に近寄るなっ!!!」)で反応する.

 安永は、こうしたファントム機能の失調と統合失調症の発病は、外力と脱臼の関係に似ているのではないかという.つまり主体の素質によっては生まれつき脱臼しやすいものがある(臼蓋形成不全や軟骨の形成異常).しかし、通常は発病には外力が必要だという.外力の作用が「発病」を結果するためには力の大きさだけでなく、作用する方向、油断、物の弾みといった要因(うっかり転んでしまいました)が必要だとする.大きな力がかかっても予期してうまく力を流せれば、脱臼を防止することができるだろうとする(柔道の受け身など).このような説明は私にとって概ねなるほど、と思わせるものである.主体の素質に関与しそうなものは、遺伝素因や家族歴であろうか.幼少期の生育環境も考えられそうだ.外力には親からの虐待、いじめ、転居、逆境、出産、就職その他強いストレス因が挙げられる.こうした外力をうけて全員が疾病に罹患するわけではないのだから、外力の受け方、作用方向という点などいくつかの条件が必要そうであることは納得である.

 脱臼と決定的に異なるのは、完全整復がなかなか起こり得ない、ということだ.骨の例でいえば強い習慣性再脱臼(再燃と寛解)の傾向を示す.そして、脱臼でわかるように、レントゲンを撮れば「骨頭が関節窩を外れている」「異常な肢位をとっている」ことがわかるが、統合失調症ではそれがわからない、ということである.つまり「骨頭が関節窩を外れている」に等しい機構論がないのである.何も.それに近いものとしてMinkowskiは「現実との生ける接触の機能」、Binswangerは「体験の自明な一貫性」というのだが言っている意味がそれらの言葉だけでは全くわからないし、扱う問題の次元が高すぎる.(そのためのファントム空間論である)

 さて、ファントムエネルギーという言葉を聞いて、狐につままれた感じがする人は、次のような感覚を考えてほしい.私だったら長い外来診察を終えるといつも、どっと疲れた感覚になって、その日は世の中の誰とも話をしたくない感覚になる.コールセンターに勤務される方であれば、理不尽な苦情を延々と聞くのにはものすごいエネルギーを使うはずだ.行きたくもない職場の飲み会につきあわされると、つまらない話を聞くにも心労が伴うだろう.外回りの営業でお客さんに挨拶をするときにそっけない対応をされると辛いだろう.こういうときは「うまく言い表せないが何かを消費した感覚」なのではないだろうか.私が強調したいのは、このような議論は決してオカルトではない、ということだ.決して「月刊ムー」レベルではないのだ.(「ムー」は好きだ.)

 安永は統合失調症の機構論としてファントム空間論を提唱したわけであったが、決して私達にとって無縁というわけでは無いはずで、私達が感じている心労はおそらく外力の一つなのだろうと思われる.だが、どのような事情で本来正常であったファントム機能が衰弱、破綻してしまうのだろうか、ということは気になるだろう.発病者のファントムには何らかの特性があったのだろうか.

 このような問題に対して、安永は以下の可能性を予想する.統合失調症の定常的ファントム距離は、他の素質者よりも大きい.これを心理学的に言えば、彼・彼女が自然と物事に対して遠い心的距離を取る、ということと同義である.しかし、これには大きな維持エネルギーを要するはずだという.ファントム機能とは、「他者とのほどよい距離感」を保つ機能である.そして遠ければ遠いほど大きなエネルギーを使うと仮定される.そこまで遠くなくても良い人もいれば、遠くでないと落ち着かない人もいるはずだ.満員電車が平気な人と絶対に無理!という人がいる、といえばわかるだろうか.

 もしエネルギーを消費することがファントム機能の失調なのであれば、一般に近い心的距離に暴露される、または持続的に強要される人は、統合失調症の発病をきたし得るだろうという.

 今回はここまでにさせていただきます.少しずつ筆者の本題に踏み込んでいく感じがわかれば嬉しいです.誤解のないように言うと、筆者はこの論を盲信しているわけではありません.ただ稀有な症状機構論として取り上げているだけです.読んでくださりありがとうございました.

 

ファントム機能あれこれ

錯覚運動を考える

 前回の章でついに「ファントム空間」を定義することが出来た.ファントム空間は「幻影肢」や我々が感じる錯覚現象(ミュラー・リヤー錯視など)が確かに生じるという事実から「心的距離」=「こころの距離」を規定するものとして示された.よって「ファントム空間論」とはすなわち「心的距離」をほとんど生理的な機能概念「ファントム機能」として用いよう、とするものである.

 安永によれば、この着想の順序は、神経生理学における錯覚運動の法則を、精神現象に適用しよう、ということが骨子となっている.その一般法則は次のように表現されるそうだ.

一、主体にある「作業意志」が働き、

二、しかるにその運動の最終効果器官Effectorが機能を失っており、(予期したほど反応しない)

三、しかもその機能欠陥を主体が知らなかったならば、結果として次の錯覚のいずれか(あるいは両方)が生じる.

a: 意図と同じ方向へ、「仮現的な外界の運動」の*「能動的」感覚が生ずる.

*自分が外界を動かしているかのように感じる、ということ.

b: 意図と反対方向へ、「仮現的な自己の運動」の*「受動的」感覚が生ずる.

*自分が受け身に動かされているかのように感じる、ということ.

 ……なんだかよくわからない、と思う方がいても不思議ではない.そのために具体例を安永が用意してくれている.これで安心……と言いたいところなのだが、まずは著者の説明をご覧になっていただく.以下は抜粋である.

 この法則のわかりやすい実例を述べよう.一眼のみを実験の対象とする.もし右眼の外転神経が麻痺しているのに(あるいは眼球を機械的に固定して動かないようにしても同じ)、主体が右へ眼球を廻そうと意志したとする.このとき、実際には眼球は動いていない(すなわち視野には何の動きもないはずである).しかるに主体の体験では、外界は右へと旋回運動を起こすように感じられる.これはさながら目が外界を右へ振りまわしてゆくかのようである(同時に、おそらくははるかに弱い程度に、主体事態の身体が左へ廻されてゆくような感覚も伴うだろう).

 正直言って、私にはこの例がわからなかった.単眼を前提に議論をすることが両眼をもつ我々(のほとんど)にとって、すぐには理解し難い景色となる.単眼にとってそれは立体感のない景色であることは、我々が片目を隠せばわかるのだが.

 ちなみに外転神経というのは眼球を外側に向ける筋肉だけを支配する神経のことだ.外転神経麻痺は眼を外側に向けることができなくなった病態である.外側というのは右眼にとって、右であり、左眼にとって左をいう.麻痺してしまうと外側を向きたくても向けない、という状態になる.つまり、主体が右へ眼球を廻そうと意志したとしても、実際には眼球は動いていないのだから、主体が機能欠陥を知らなかったとしても「主体の体験では、外界は右へと旋回運動を起こすように感じられる」なんてことはないはずだ.

 我々は両眼で世界を捉えることが多いので、もし片方の眼が外転神経麻痺になったとすると、ある視野において「複視」という状態になる.ものが二重に見えてしまうことを言う.様々な外転神経麻痺の患者さんと思われるブログを拝見したが、「主体の体験では、外界は右へと旋回運動を起こすように感じられる」ような説明はどこにも見られなかった.せっかくの論考でこの例示は惜しい.

エレベータに乗ろう

 よって、私なりに安永の考察が意図するような具体例を考案してみた.仮にあなたが新築の分譲マンションの見学会に参加したとしよう.そのマンションは全部で三十六階まであり、高性能エレベータが三基稼働している.「いい景色ですから」と不動産屋の口車に乗ってしまい、貴方はエレベータに乗って、最上階の景色を眺めることになる.そのエレベータは、落成前なので地上階と最上階しか往復できない.乗っている間は自分がどの高さにいるかもわからない.完全な密室である.そして、このエレベータ、最新型で加速が極めてなめらかであり、いつ動き出したかわからないくらいである.だからエレベータの中にいる運動系では乗員は静止しているかのように感じられる.

 そして気づかぬうちに到着するのだが、このエレベータ、ブレーキの調整が不十分で、最上階に到着するときは急ブレーキで静止する!

 これでようやく安永の意図する条件が設定出来た.先程の安永がいう錯覚の法則に当てはめてみると、

一、主体にある「作業意志」が働き、→(エレベータに乗ったから加速を感じるはずだ、半規管に存在する耳石が動くことで重力を感知するはずだ)

二、しかるにその運動の最終効果器官Effectorが機能を失っており、(予期したほど反応しない)→(「あれ、全然動いている感じがしないな……」半規管の機能閾値を下回る加速度である)

三、しかもその機能欠陥を主体が知らなかったならば、結果として次の錯覚のいずれか(あるいは両方)が生じる.→(実際は時速60km/hで動いていたところから急速に静止する運動が生じる)→「全く気づかないうちに到着していた!!まじかよぉ!」

 このとき、自分と不動産屋さんの身体は「仮現的な自己の運動」の受動的感覚が生じるはずである.つまり、完全に静止している状態から突如、浮き上がる感覚が急に感じられる.そして「おえっ」となるだろう.「もう二度と乗るかこんなポンコツ!!」

 どうだろうか、厳密にいえば乗員の身体機能は全く問題ないのだが、慣性系が一致することで感覚器官が機能しない、という状態をつくることは可能だということはわかるはずだ.そして現代に生きる我々はエレベータに乗って浮遊感をわずかに味わった経験があるはずだ(なかったら申し訳無い).

 ファントム機能と統合失調症

 もう一度いうが安永はこうした生理学現象を精神現象にも当てはまるのではないか、と考えたのであった.精神現象における機能、それがファントム機能である.

 前回の記事の内容を改めて述べると、ファントム空間とは、体験可能な至近点から至遠点までの三次元空間のことをいう.その至近極からその時のイメージまでの体験距離をファントム距離、といい(こころの距離)、これを保っている特殊エネルギー実態の働きをファントム機能と呼称する.

 ファントム距離は多少伸び縮みする.だがたいていは至適定常距離にある.つまりほどほどの距離感を保つことができている.知的イメージはその端に現れる.知的イメージというのは、「家族」、「友人」、「職場の人間」といった他者の存在と考えてよい.それなりの距離感を自分なりに掴んでいる.それがファントム機能だ.この機能が正常であれば、習慣的に作られた世界の距離的構造の認識図式とファントム機能とはそのファントム距離測定において全く一致しているはずだ.

 しかし、統合失調症において、このファントム機能が急激に衰弱したと仮定しよう.安永は錯覚運動と似たような現象が起こるのではないかと考える.

 ファントム機能のなんらかの失調により、ファントム距離が短縮してしまった!だが、自身はそれに気づかない.自分はいつもどおり、あるファントム距離を測定した.しかし、イメージはその「予期された距離」にはなかった!!!!!自身はよろめき、錯覚運動が起こる.知覚イメージはこの場合、「遠ざかり運動」を起こす.従来のファントム空間の圏外へと、逃れようとする.

 この説明も急に言われてしまうとよくわからないかもしれない.なので亀吾郎法律事務所のスタッフが頑張ってこの論考に対して、まぁまぁな例を用意することにした.どうか楽しみに待っていただきたいな、と思う.ファントム空間論、なんとなく興味を持っていただけたら嬉しいです.

 

「こころ」の実体

ファントム機能の仮説

 少し時間が空いたので、これまでの論考のまとめをしておこう.精神科医の安永浩による精神病理学的仮説に「ファントム空間論」というものがある.世の中にあまり知られていない.これは安永がとある哲学理論をもとに独自に打ち立てた斬新な仮説であり、統合失調症の病理を理解しようとする奇特な試みである.

 その論考の骨子には、「パターン:実存的二元論」という考え方がある.詳しくは過去の記事をご覧になっていただくか、書籍を購入し熟読していただくことになるが、簡単に言えば、相応する二つの概念「全体」と「部分」、「生」と「死」、「自」と「他」といったものが世の中には存在する.この概念は、本来不可逆的な方向性を持っている.そしてその方向性は論理的必然性(Logical necessary)として自明なものとして機能している.これを「パターン」と安永はいう.

 ところが、統合失調症の患者らの症候をつぶさに観察すると、こうした公理が完全に逆転しているのでは無いか、という懸念が生じる.つまりは条件的偶然性(Contingency)の方向に論理がゆくのではないかと仮定せざるをえない、という.安永はこの仮説に基づいて、幻覚、妄想といった基本的な障碍の説明を試みてゆく.もちろん、自閉や作為体験、感情鈍麻といった症候も「パターン」が逆転することで生じるというものだった.

 こうした論考に否定的な人々がいることは予想される.批判も慎んで受けなければならないだろう.この論考は単なる思弁で都合よく辻褄をあわせたものに過ぎないと.私はすべての人と理解し合えるとは思っていないが、安永は「バリバリ」の臨床医であったという評価を聞く.それにこのような「思弁」を体系づけるには膨大な調査と臨床経験が必要であるのは、素人の私でも理解できる.安永が病理学的理論を構築した意図には、統合失調症を理解したい、患者さんを理解したいという純粋な願いであろうことは決して私の邪推ではなかろう.

 現代の病因論や治療論には生物学的、薬理学的理論の仮説が大きく台頭し、その理論は完全ではないものの大きな成果を上げていることは事実であり、筆者の経験から言っても間違いない.ドパミンやその他モノアミンといった神経伝達物質の相互作用が幻覚妄想に関与しているという仮説は非常に説明的であり、現在これを超える理論体系は存在しないといっても良いだろう.

 だが、しかし、である.アリピプラゾールを使おうが、ブレクスピプラゾールを使おうが、ルラシドンを使おうが、どんな新薬を使ったとしても「なぜ疾患が生じたのか」の解明にはまだまだ近づけないだろうと思う(と言っているうちにブレークスルーがあったりする).例えばカルボニルストレス代謝障碍と統合失調症、といった生化学的なアプローチで原因を捉えようとする方法論も私は承知している.しかしながら、こうした生物学的研究手法はどうしても診断体系を画一しなければならない一方で、そもそもの精神疾患の診断基準とされる「DSM-5」には多くの批判が挙げられている実態は無視できないだろう.DSM-5やICD-10の話をするときりがないので、ここまでにしておくが、要するに解明まで「あと数手及ばない」感じなのだと思う.にしてもその数手は遠い.ここでこの連載の第一話の引用を思い起こしていただきたい.

 そう、三島由紀夫の「鏡子の家」に出てくる、夏雄である.彼のような統合失調症発病過程の機微を如実に表すことは、おそらく分子生物学的立場では限界があるだろう.

 だが幸運なことに、かつて日本では安永が独自の「症状機構論」において精神病理学の貢献可能性を見出した.それが「ファントム空間論」であった.

 統合失調症は一般に器質的疾患ではなく、機能的疾患であるとされる(慢性の経過ではMRIで局所に体積減少が指摘されることもある).つまり脳の一部が大きく欠けているとか変性しているから生じているのではないとされる.だから患者の頭部MRIを撮ってもほとんど健常人と見分けがつかない.さて、機能失陥であれば脳の「何」が統合失調症を起こすのだろうか、という疑問が生じる.その「何」を安永はEffectorと呼んでいるが、要するに身体でいう器官のようなものだ.その器官を安永は「心的距離を保つ基体」と仮定し、論考をすすめる.

こころの距離感

 私達の体験的空間はある「距離」に張られているという.私達の表象イメージ、知覚イメージは脳の中で作られているのだが、「一定距離」をおいたその端に投影される.どういうことか.

 あなたは会議室で聴衆の前でプレゼンテーションを行うとする.ノートパソコンをプロジェクタに接続し、プロジェクタが映写してスクリーンに映像が現れる.その映像は「爬虫類:クサガメの神秘」についてであり、聴衆はもっとよく見たいと意見をいう.あなたはパソコンを操作し、ズームアップすると、クサガメの手足が大きく写り、そのしなやかな肢体が悠々と動くのを見て、聴衆はうっとりする.

 ここで言いたいのはスクリーンに映る映像が例え拡大されようと、遠影に見えようと、聴衆とスクリーンの距離は変わらないのは自明だということだ.この距離は主体と投影される写像とのそれであり、基本的に「至適」な距離である.上記で述べた「一定距離」=心的距離とはこの距離のことをいう.物理的な距離ではない.

 さらにいうと、「一定距離」は主体にとっての実存的余裕、空間的、時間的間合いという意味であり、私達は「一定距離」を保つことによって「存在的猶予」=安心感をもつことができる.中央線の満員電車の中と、幌加内のそば畑では、後者の方が安心するはずだ.どんなものでも近づきすぎれば危険、苦痛、不快を感じる機能をもつ.試しにボールペンや尖ったものを手にとって、触れないように先端を自分の眉間に近づけてみてほしい.「ジーン」とした感覚がするはずだ.近接することによる「不快」がわかると思う.

 もう一つ、例を出す.例えば、あなたは生物学的に男性であると仮定する.駅でも空港でもいいが、公共施設の男性トイレに行き、小便をするとしよう.決して下品な話をしたいわけではない.小便器は横一列に五台並んでいるとする.左から二番目に誰かが用を足しているとき、あなたはどこで用を足すだろうか.

 おそらく右から二番目か、一番右だろう.わざわざ用を足している人の隣にいくことはないと思われる.空いているトイレで、知らぬ人が隣で用を足し始めたら、かなり気味が悪いだろう.これも「心的距離」で説明がつくのではないか.電車の座席も同じことが言える.私達は自然に、自ー他の距離を「のばす」、遠くへ「保つ」機能があるのだと考えてもよさそうだ.近づきすぎているものを押し留めておくには、より多くのエネルギーを必要とする.「緊張感」、「気疲れ」といったものが生じる.

 以上は私の例えだが、これでも「抽象的な議論だ」、と思う人がいるかもしれない.とはいっても事実世の中には「幻肢痛」(Phantom limb pain)という現象が存在する.四肢切断や乳房切除など、外傷・外科手術により身体の一部を失ったあとも、失った四肢が存在するかのように温痛覚障害やしびれを生じる感覚経験をいう.目に見えないのに、確かにそこにあった空間として痛覚を感じることができる現象が生じているのだ(人気ゲーム「メタルギアシリーズ」の現行タイトルも「Phantom Pain」であったはずで、決して世間で認知されていない現象ではないと思う).この議論は空論ではないことを強調しておく.やはり実存は本質に先行する.

 強調しておきたいがために、もう一つ例を出す.安永もほとんど似た例を出していたので、論を強固にできるだろう.

 例えば、あなたが誰かと二人で話をしながら、どこかの階段を降りているとする.話は盛り上がり、あなたは目線を相手に向けていて、階段をどのくらい降りているかわからない.ふと、あなたのどちらかの脚が一番下まで着いたとき、あなたは無意識に反対の脚を長く伸ばしておろそうとするはずだ.しかし、ただちにあなたは地面が沈み込むような、脚が短縮したような錯覚をいだくはずである(事務所の掃除夫はこうした経験を何度もした).

 この現象は次のように還元できる.

 習慣的に作られた世界の距離的構造の認識図式と「一定距離」を保とうとする機能は、その距離感において全く一致している.しかし、もし「不意に」その心的距離が何らかのきっかけで短縮したとすれば、錯覚運動がおきる(のではないか).

 何らかのきっかけ=病的状態だと仮定すると、もしかすれば、私達は統合失調症の体験する空間認識を説明することができるのではないか.統合失調症の理解に寄与できるのではないか、と安永は考えたわけである.安永は先に述べた「幻肢」にならって、その空間をファントム(Phantom)と呼び、「心的距離」に相当するものはファントム距離、その距離を保つ特殊エネルギー実態の働きをファントム機能と呼ぶことを提唱した.そしてそのファントム機能を説明する仮説を「ファントム空間論」というわけである.(ここまで長かった……)ではどのようにして統合失調症の機能障碍を説明するのか.それは別の記事に譲るとしよう.これまでの論考で散々述べてきた「パターン」の話がようやく生きてくる.

 

 

妄想の問題

はじめに

 安永浩によるファントム空間論の序論を追っている.これで六回目だ.だというのに、まだファントム空間の話をしていないのはどういうことだ!と怒られるかもしれないが、どうか辛抱強く待っていただきたい.なぜなら、我々は安永のいう「パターン:実存的二元論」を理解せずにファントム空間を理解することはできないからだ.これは安永の親切心である.はじめて見るかたはぜひ、始めから見ていただきたい.

 今回は、妄想について扱ってみる.その前に自我障害の章があるのだが、それはまた別の論考で取り扱うことにしたい.かくいう私も早くファントム空間論を扱いたいのだ.

 妄想とはなにか

 これをうまく説明することは難しい.説明できたとしても、Bertrand Russel(バートランド・ラッセル)が1+1=2の証明に膨大な紙面を費やしたのと同じように、大変な注釈をつける必要がある.いくら目の前の真摯な読者でも、それは苦行でしかない.だがなんとかしてこの記事においてだけでも定義しておきたい.妄想を誤解していただきたくないからである.

 世間でよく知られたものとして、「訂正不能な言辞」「了解不能な言葉」「誤った確信」などがあるだろうと思う.これらはいかにもそれらしいが、幾分の弱点がある.

 日本精神病理学会(私、吾郎も学会員であるが利益相反はない)の「精神科用語シソーラス」から引用するのが最も簡潔であるように思うので、ありがたく引用させていただこう.リンクフリーである.

 妄想とは患者の教育的,文化的,社会的背景に一致しない誤った揺るぎない観念ないし信念であり,明らかな反証があっても確信は保持される。妄想と真の信念と区別は,患者が主観的に行いうるものではなく,外部の観察者によって行われる。すなわち,その内容が非蓋然的であることに対する患者の判断が誤っている場合,その確信は妄想とされる。この誤った判断は必然的にその体験に対する病識欠如を生じる。

針間博彦

 コペルニクス的転回が起こる前の世界の人々の多くは天動説を信憑していたが、Galileo Galilei(ガリレオ・ガリレイ)は科学的観察に基づいて地動説を主張した.よく知られているように彼は妄言を言っているとして異端扱いされた.彼の主張は妄想だったのだろうか.現代の我々からすれば、彼の主張は妄想では無い.だが、当時の人々からすればどうか.彼の思想は教育的、文化的、社会的背景には一致しなかっただろう.明らかな反証かどうかはともかく、宗教的に強力な反論があっても彼は確信しつづけた(それでも地球は動いている).私は現世のクサガメなので、彼らの立場から「妄想だ」というわけにはいかない.妄想というのは、時勢によって、立場によって、解釈が異なる可能性がある.そのことを念頭に入れて論考を追いかけていただきたい.

妄想とは患者の教育的,文化的,社会的背景に一致しない誤った揺るぎない確信である.

 賛否はあれど、概括的理解ならばこれで良いだろう.では安永はどのように考察をするか.彼は妄想について、我々がどのようにして「意味づけ」をするか.これが重要であるとしている.ほほ〜

 「意味づけ」の重要な点は、「自分はこの事態をこう予測し、それ故こうこうすべきである」という「行動の要請」に関わる局面であるとする.この局面は生命体にとって大変な意義を持つ.というのは、我々が体験の各瞬間に出会うものを「何かの兆候」とみなしているからである.人間だって「雨が降っているから傘をさそう」「曇ってきたから洗濯物を取り込もう」「パトカーが近くにいるからおとなしく走ろう」「遅刻してはいけないから早めに家を出よう」「赤信号だから止まろう」と判断する.それらは「放置すればより危険な、由々しき現実となるであろう事態を、未然に感知しうる、そして行動によって回避しうる」ということであり、この「予感」がないと、生物はあらゆる偶然の危険、環境変化に対応することは出来ない.クサガメだって、脅威があれば首を引っ込めて守りに徹するし、食餌と掃除をしてくれる掃除夫が近づけば、喜んで近づく(なんて賢いんだろうか!).

 ここには体験における「時間」というものが必要になってくると安永はいう.しかしもう少し丁寧にいえば、「現在の意識がこういう構造をとることが、『未来』という時間性をつくる」という方が正しい、と安永はいう.ここで私は木村敏の言葉を思い出す.

 時間とは自己存在の意味方向である

 私達は何かを絶えず予想する.増大する「危険」を感じれば、何らかの行動によって回避する、安全ならばほおっておく.逆にエネルギーがあまれば、ただそれを放散するための手がかりとしてのみ、予感される(湖畔のほとりでキャンプをするとしよう.火をおこし、飯盒炊爨を待っている間、手持ち無沙汰なので丸くて平な小石を探す.それを水平に投擲する.小石を投げるものとして意味づけする).

 これまでの話を「パターン」に応用するとどうなるか.「意味づけ」の方向性A→Bは常に「現在」に立って、「未来」を望む方向にある.原因があるから、結果がある.「原因」の主体性、先行性は自明だ.そして、とある現象を「結果」とみなし、あるいは「過去」にさかのぼって「過去」に生きることもできる.「ここに結果があったのであれば、原因があったに違いない」と、後方視するのは「論理的必然性:logical necessity」である.

「右下腹部を主とする圧痛が生じている、腹部超音波検査で虫垂に相当する位置で輝度が高い.これは腹部臓器の炎症が急激に生じたに違いない;虫垂炎かもしれない」

「夏季の猛暑にとある独居住宅からご遺体が発見された.角膜は白濁し、透見できない;死体現象が生じ、24時間ほど前に死亡したのだろう」

といった具合で、医学において論理的必然性は極めて重要である.だが、こうしたロジックは、原因→結果が前提にあるからこそ、その上で、結果→原因を想定することができる.さきほどの例も、「虫垂炎や付属器疾患かもしれないから、右下腹部に疼痛が生じている」、という論理が先行しているし、経験的に「夏季に、人が亡くなり24時間経過すると角膜が白濁する」ことが知られているから「条件的必然性:contingency」が成立するのだ.

 では統合失調症において「パターン」が逆転するとどうなるのか.我々は彼らの体験を直接追体験できないから、限られた知性によって想像することが必要となる.さしあたり、「原因」が従属し、「結果」が主体となる.つまりは「過去」が支配者で、「未来」が従属する.なんてこったい.ここで安永はK. Schneiderの例をあげる.

 「犬が一方の前脚を高くあげた……これは明らかに天の啓示に違いない……」

 う〜ん、これわかんねぇな状態である.ここで重要なのは、「そうはならんやろ」と切り捨てるのではなく、「どうしてこうなった」と考えることが大切だ.この意味づけは「結果」→「原因」という逆転であった.安永の考察では、このベクトルは絶えずさかのぼって原刺激に向かう流れだという.ここでは犬が前脚をあげたことに相当する.「犬が前脚をあげた」という現象を説明しうるが故にのみ重大である、という形になる.難しいね.安永は、患者は一つの知覚事態に対して、「それには必然の理由が存在しなければならない」という方向を第一義として常に意味づけするように見える、という.私達が前脚をひょいとあげる犬を見て「どうしたんだろう」と未来志向の考えを働かせるのに対して、統合失調症においては「前脚をあげちゃった、大変なことになった!もう取り返しがつかない!」という過去志向の考えを取る、ということになるのだろう.だが、なんとかしてそれを取り繕う(この表現が適当かは私自身疑問だが)ために、啓示や運命、といった予定調和的な言葉遣いになるのだと思われる.そうせざるを得ないのである.よって、このB→Aの体験は「ふと;plötzlich」生じる.予期できない性質をもつ.あとで安永は「不意打ち」という表現を使う.

 彼らは未来形の助動詞使用を封印されているようなものだ.「……でないかもしれない」という疑いはできず、「……に違いない」となる.まるで推理小説に出てくる早合点の刑事のようである.「わかりました!犯人はあいつに違いありません!」

 が、感情的先入観のある正常人とはやはり性質が違う.彼らは結論を先に出して、それから推理をするようにみえる.これは継時的行為である.彼らの論は誤っていようとロジカルである.それ原因→結果のベクトルが正常だからである.ただ考えが浅いだけだ.統合失調症の人々にとってそれは起こり得ない.過去が未来を従属しているので「もう間に合わない」のだ.

 「もう間に合わない」からこそ、「夫が別の女と寝てしまった;夫婦妄想」、「妻とそっくりの偽物にすり替わってしまった;カプグラ症候群」が生じる.「世界が破滅してしまったような感じがする;世界没落体験」、「私のからだはどろどろに溶けて死んでしまった;コタール症候群」といった取り返しのつかない体験を述べるのであろう.

 自己関係づけ

 統合失調症に置いて、かなり普遍的にみられる現象として、「自己関係づけ;Eigenbeziehung」がある.これは「注察妄想」、「あいつが私のことを見ている」といった陳述からも知られている.自意識過剰では無い.

 もともと我々は厳密には違うが「客観的な態度」をとることができる、というのは「主体」が十分に「客体」を統制しているからこそできる.そのことを経験的に我々は知っている.この主従関係が逆転すれば、「客体」が「主体」を支配する.すなわち「他人が自分を見る」、ということが自明である.しかもそこに「結果」→「原因」の逆転が起きているから、「なにかとりかえしのつかないことが自分におきてしまった」となるし、それは「自分に起因するのだ」と信憑せざるを得なくなる.これが外延すると、一切の外界の現象がすべて自分に基づいている、とまで意味づけられる.

 ここで、安永の話す妄想の論考は終わりになるのだが、私達にとって、特にHighly Sensitive Person/People; HSPの方々にとって重要だと思われる注釈があるので、言及しておきたい.以下の神経症という言葉は多義的で難しい用語だが、ひとまず不安障害、社交不安障害、対人恐怖症、視線恐怖症、広場恐怖症といった言葉に置き換えて貰えればと思う.HSPが疾患ではないことを十分理解した上で、置き換えて頂いてもよいと思う.

 (これまで述べた論考において)これらは神経症者にみられるような関係念慮とどんな対照にあるだろうか?

と安永は疑問を投げかける.関係念慮というのは、例えば

「電車の中で、さっき男の人が『チッ』と舌打ちをしたように思う.私のことを見て舌打ちしたのではないかしら」

「職場の上司が、私の方を見てわざと咳払いをした.私がこの前仕事でミスをしたことのあてつけではないか」

といったようなものである.もちろん架空の例である.彼らが他人のまなざしを感じるとしても、それは統合失調症におけるような絶対的所与では無い.正常の了解では他人の「自我」とは自分の「自我」を前提としてその中に含まれ理解されるような順序である.ちょっとややこしいがA,Bのパターンを使って表してみる.

「他人が自分を見ている」了解というのは自分の体験の了解にすぎない、というところがミソである.

A→(A’→B’)→B

→は条件的必然性:contingencyの方向、A’、B’は他者の、A、Bは自分の「パターン」である.自己から発する他人の了解、他人の目を通じて自己了解、と還帰する.流れは正常だ.ただ過剰なのである.強い感情の発露、過剰に「予期」することにより始まり、悩み、悪化する.これは森田正馬でいう「生の欲望」でもある.死の恐怖、病気を恐れる強い力動には、健康でありたい、元気でいたい、しっかり振る舞いたいと努めようとする「生への欲動」が根底にある.

 私は恥ずかしながら森田療法で知られる森田正馬をよく知っていない.しかし彼の説く、「ありのままに生きる」というモットーは多くの人を勇気づけ、共感を与えるものだと思っている.しかし社会がそれを許さない構造になっているようにも思う.完璧主義を求める労働体系、社会規範.緊張感が漂う.公私の分別が曖昧となり自我境界も見えなくなってしまっているようにさえ感じる.A→Bの関係において、Bが力を増しているような社会である.AとBが近接しつつあり、我々はAを強めようと感情を、予期能力を、不安を強めるのだと思う.「繊細さん」は持ち前の素晴らしい才能があるにも関わらずそうした危機に瀕している.この時勢における新型コロナウィルス感染症の大流行が、少しずつ旧態依然であった社会のあり方を見直す機運となっているように感じていることは私だけではないと思う.コロナ禍が収束することを願う気持ちは私も皆さんと同じだが、この混乱を運ぶ災厄が、世界に変革をもたらすトリックスターであらんことをひそかに祈っている.