八月も半ば過ぎて

 今回もカオスな献立でお送りします.

Photo by Tom D’Arby on Pexels.com

プロアクティブ

 この時期になると戦争という出来事について、小生のような小童でも、私なりに感慨を抱く.戦争というのは無論、第二次世界大戦ないしは太平洋戦争のことだ.これに関連して、私は岩波書店から出された「思考のフロンティア」シリーズにおける高橋哲哉氏の「歴史/修正主義」を何度も興味深く読んだ.同じシリーズからは岡真理氏による「記憶/物語」がある.こちらもブログで紹介するくらい良い読書体験をした.絶版だがおすすめである.ちなみにどちらも妻の所有物で、私が勝手に拝借して読んでいるような状況にある.とは言っても互いに蔵書を好き勝手読み合うような互恵的関係である.

 八月になると、六日から順に広島・長崎の平和記念公園で県知事の演説、県を代表する生徒の演説、そして総理大臣の演説が報道される.十五日になれば、日本武道館で総理大臣と天皇、衆・参議院議長ならびに最高裁判所長官の式辞が述べられる.その中で特に、総理大臣の発言は殊更注目される.斯くの如き一連の流れが毎年毎年繰り返されるように私は理解している.もちろん六月の沖縄での出来事も忘れてはならない.

 多少なりとも、自国の首長がどのような発言をするかは私でも気にするし、表立って口にしなくとも、これまで気にしてきた.式辞の原稿を裏方が用意するにせよ、発言には発言者の意図が見え隠れする.歴代の総理大臣がいかなる内容をもって式辞を述べるか、ということは彼らがどのような歴史認識をしているのか、という理解の助けになると思う.十分条件として彼らが一定の歴史認識を持っていることが前提になるが…… 上記の書籍は、このような時節のお約束事となっている事象に思いを巡らすうえで価値あるものであると信じている.

 確か首相は演説で戦争を二度と繰り返さない、積極的平和主義を行う、ような趣旨を述べたように思う.彼が何を喋って何を言わなかったかについては報道の通りである.積極的平和主義というのは前の総理大臣から用いられている用語らしいが、私には語義がはっきりわからない.戦争を二度と繰り返さない、というのは誰もが願う望みとして自明だとしても、積極的平和とはなんぞや.英語では「Proactive Contributor to Peace」と言わせるようだ.「プロアクティブ」なんてニキビ用洗顔剤の商品名でしか聞いたことがなかった.

 外務省から今年の七月に公表されている「日本の安全保障政策」という資料によれば、積極的平和主義とは国際協調主義に基づく考え方のようで、「現在の世界では、どの国も一国で自らの平和と安全を維持することができない」前提に立っているらしい.ふーん.これに関連する通常国会質問主意書への回答をパラパラ見てみたが、当時の内閣総理大臣の回答は「積極的平和主義とは国際協調主義に基づく考え方である」とほとんど同じであった.このもやっとする感覚は真夏の猛暑と湿気によく似ている.皮脂で汗ばんだ私の顔は「プロアクティブ」なる洗顔剤でゴシゴシ洗ってスッキリさせられるやもしれぬが、スッキリしない疑問は以下の如く尽きない.How can be a peace contributed by such proactive attitude ?

 

 私達が過去の戦争を前にして「戦争責任」を認め、「深い反省」に立つのは、決して私達が子々孫々の末代まで「戦争犯罪」を甘受することではなくて、完全に逆に、現存在たる私がかつての国家との連続性を断ち切ることによって他者の、他国の信頼を回復・獲得してゆく積極的positiveな行為だからである.私達が日本人として引き継ぐのはあくまで法的・政治的連続体としての日本人であり、かつて戦争に加担した人々の罪性を私達があたかも生物学的に継承しているような考えは誤解である、と上述の著者、高橋哲哉は綴る.

 高橋は次のようにも述べている.私達が過去の事象を前にして抱く感情(恥や罪責)自体が問題になるのではない.そうした感情をどのように具体的に戦後責任として為してゆくかが重要なのだ、と.小生も密かに、そして強くそのように思う.もし私が異国の友人に戦争責任について議論するのであれば同じことを言うだろう.その営為の過程で「記憶の継承」はこの先も民間でも政治的次元でも要求され続ける.「記憶の義務;devoir de mémoire」は過去の凄惨な歴史から教訓を引き出し、新たな過ちを繰り返さないために要請される未来志向的意味を含む.この作業は基本的に終わりなき作業である.それだけ過去の事象は忘れがたい暴力性を秘めているのだと染み染み思う.

 

 

新しい地平へ

.مرحبا! صباح الخير أو صباح النور. أنا طبيب نفسي ياباني

 ここのところ、アラビア語の勉強が深みを増してきた.やっぱり語学の勉強は気持ちが良い.動詞を勉強しだすと、一気に扱う表現の幅が広がった感じがして少し気分が高揚する.大げさに言うと新しい世界が広がる感じである.最近の日本のとある大臣の答弁を使うと、新たな「地平」が開けた気持ちである(これはもともとは哲学の用語だと思う).

 私の知る言語(日本語、英語、わずかに仏語)だと、動詞を学ぶ時は現在形を覚えることから始まると思う.しかし、アラビア語は完了形(過去形)から覚え始めると良いと知った.なぜかと問われると、私の知る答えとして、辞書に載っている動詞の基本形が完了形だからである.それも三人称男性単数の形である.つまり、「彼は〜しました」の形が基本形になり、性別や人称によって形を変えることになる.

 例えば、

كَتَبَ(kataba)

は「書く」の動詞の基本形である.これが辞書に載っている形だが、これは「彼は書いた;he wrote」の意味である.もちろんアラビア語は右から読む.katabaと読む.

もし「彼女が書いた;she wrote」になると、

كَتَبَتْ(katabat)

となる.katabatと読む.「私が書いた;I wrote」にするならば、

كَتَبْتُ(katabtu)

とする.katabtuとなる.ここではアルファベットでKTBに相当する子音كتبが語根(単語の基礎となるもの)とされ、子音にa i u の母音をつけたり、つけないことで区別する.わかりやすい例えをあげると、我々はふりがなをつけなくてもBBQはBarbequeのことだとわかるし、AKB48・NMB48という女性ユニット(?)もAkiba(秋葉原)やNamba(難波)だと察すると思う.アラビア語もおそらく似たような調子なのだと思う.これ以上うまい例えが見つからぬ.

 例で挙げた、كتبの文字の上に「^」や「。」がついているのは初学者向けの発音記号(シャクル)で、現地の人々はもちろん記号をつけずに読めるし理解できるらしい.マジですごいなぁと思う.きっと私達が漢字にルビを振らなくても読めるようなものだろうか.多分、このまま頑張れば読めるようになるのは漢字の読みより容易いはず.「東海林」と書いて「しょうじ」と読むのはズルいし、「蕎麦」を「そば」とは知っていないと読めない.私が日本語を外国語として学ぶ立場であれば、おそらく匙を投げるはずだ.「去年」は「きょねん」、「来年」は「らいねん」と読む.「今年」は「こんねん」じゃねーのかよ!!あーもうめちゃくちゃだヨ!ニポンゴおかしいヨ!

 気を取り直して、さきほどのكتبに別の文字を加えることで、語根を元にした別の単語が生まれる.例をあげると、

مكتب(maktab)

は「事務所」や「机」を表すようになる.他にも、

كتاب(kitāb)

とすると、「本」になるし、「作家」を表すのであれば、

كاتب(kātib)

となる.つまり、語根になんやかんや付け足せば、いろんな語が作れるわけだ.便利ねぇ〜!

 正直に言って、このような言語があるというのは驚き、というかよくできているなぁと思い、感動している.28文字に補助記号を組み合わせて意思疎通がはかれるのは便利だ.もちろんアルファベットもひらがなも漢字も良くできた仕組みだなぁと思っているが、アラビア語は語の性別と数を一致させるので、韻を踏む文章となり、とてもリズミカルである.ヒップホップとの親和性が高そうである.そもそも、礼拝の時に流れるクルアーンの句がすでに音楽的である.まるでお経のように抑揚がついていて、聴き応えがある.かつて私がイスタンブールを旅行した時は、大音量で流れるアザーン(礼拝)の音声が全く煩わしくなく、かえって神妙な心地がしたものだ.これがきっと異国情緒というものだろう.

 神妙な心地がしたとしても、決して私はイスラム教徒になるつもりは更々無いし、どう考えても滅茶苦茶旨いあの豚骨ラーメンやサムギョプサルを諦めるわけがない.エスカロップもカツ丼も豚キムチも捨てがたい.もし宗教に関心を寄せたとしてもそれはイスラム教という宗教の論理性に興味を示すのであって、神性だとか、ムハンマドおじさんの神秘的体験を崇めるつもりはない.私は外国人の前では仏教徒بوذيということにしている.仏教では特段超越した存在を想定しなくていいのが宗教臭くなくていい.イスラム世界では下手に無神論者と言うよりもその方が都合が良いらしい.これを便乗仏教という.

 私の「おべんきょうがすすみました」報告は以上である.趣味の範疇ではあるがさらに精進を進めて、以前触れた私の目標に達することができれば嬉しい.もちろん、臨床も哲学も健康増進も抜かりなく.

求道者たち

 アフガニスタンでの政治的動向が注目されている.日本の報道で「タリバン」と称されている集団の幹部が大統領府にぞろぞろ入って、密になりつつ記者会見に応じている様子を動画サイトで観た.私の印象をいえば全員ヒゲモジャのオッサンのせいか、なんだかむさ苦しいのと、何人か銃を携帯しているために不穏な空気が漂っていたように思う.

 政治に関する話はさておいて、おそらく我々の多くが微塵も気にしないであろう、想定しうる誤解を解いておきたい.私は新しい知識を、嬉々として(時にドヤ顔で)誰かに伝えんとする少年少女と同じ次元にいる.もしかすれば以下の内容は知る人にとっては全くの古臭い情報である.つまり香味の抜けた酒と大差はない.しかしそんな酒でも酔うことはできる.

 アフガニスタンはパシュトゥーン人やタジク人、ウズベク人などで構成される多民族国家であり、彼らは主にインド・ヨーロッパ語族に属するパシュトー語やダリー語を話す.隣国のイランで話されるペルシア語やパキスタンでのウルドゥー語に似ているらしい.ちなみにインド・ヨーロッパ語族は英語も含まれる.これらは親戚関係にあるということだ.彼らは(宗教的内容を除いて)アラビア語を話さないのである(アラビア語はアフロ・アジア語族である).ただアラビア文字とアラビア語を借用して表記しているだけだ.アラビア文字にいくつか文字を加えて独自性を出しているに過ぎない.彼らの信奉する宗教がアラビア語を基礎とするイスラム教であるせいで人々を混乱させているのだろう.

 アラビア語を勉強して少しわかったことをいえば「タリバン」よりも「ターリバーン」の方が近い.我々が「タリバン」と縮めていうのは英米の報道機関が「Taliban」と短く発音することに起因しているようと思う.ぶっちゃけ「タリバン」の方が言いやすいのはわかる.彼らの表記を示すと「طالبان」で「Ṭālibān」とラテン文字で当てる.どうやらパシュトー語で「学生」の複数形を指すようだ.ところがどっこい、この言葉はアラビア語の借用である.「求める」「注文する」という動詞の基本形は先に述べたように、アラビア語で、

طلب(ṭalaba)

という.Ṭ, L, Bに相当する三つの語根から成り立っている.これを人称化したものが男性単数の場合、

طالب(ṭālib)

と表記する.一応TとṬは発音が異なるので分けて表記していることを断っておく.これが一般的に「学生」と訳されるのだが、「真実を求める者」故に「学生」と訳されるわけだ.さらに格好良く言ってしまえば「求道者」である.へぇ〜、なんかいい感じじゃん.こういうのを若い世代で「エモい」とか「厨二臭い」というのかな.

 さて、時折「神学生」という訳を見かけるが、個人的には意訳か迷訳もしくは妙訳という気がする.神学生というと若干のキリスト教風味がするのは私だけか.このṬālib(ターリブ)を複数形で表記すると、

طُلاّب(ṭulaab)

と、比較的大きく化ける.「テュラアブ」と「ターリバーン」では全く表記も発音も異なるのは一目瞭然だろう.パシュトー語の名詞の複数形がどのように変化するのかは全く検討がつかないが、アラビア語ではほとんどの名詞が不規則な変化をするらしい.これが初学者に煙たがられる所以の一つである.おそらく日本語よりは遥かにマシだ.とりあえずはパシュトゥーン人なりに発音と用法が最適化された結果が「ターリバーン」なのだろうと推測する.

最後に

 今後彼らがどのような政治的決断をしてゆくかはほどほどに注視しておくとして、願わくはこれ以上、爆風で埃と血飛沫が舞い、人々が阿鼻叫喚する様を映像で観たくない.最近は不幸なニュースが多すぎる.幾多もの王朝や文明の交差した山岳地帯の要衝アフガニスタンとして、卓越した文化や価値観の交じる賑やかな風景が、報道で再び映し出されることを私は心から祈念している.

ありがとうございました.

 

 

 

Memory/Narrative: 1

Photo by Pixabay on Pexels.com

 この記事は「記憶/物語」を読んでの英訳になります.

This essay is an English translation of “「記憶/物語」を読んで”.

Event, History, Memory and Narrative

When I was a junior high school student, there was a assembly in the school gym on the hottest day of summer, the holiday was close to came. The assembly was a talk about “The Pacific War”, spoken by a former school girl, the survivor of the Battle of Okinawa, June, 1945.  I personally thought that it was an invaluable talk. I was hugely expecting to listen to her talk, because she had survived the war, also vaguely I was curious about World Modern history. I believe that there must be few students who willingly listened to the talk like me. The reason is that it would be impossible for youngsters to put up with the tales of the old stranger in the sultry school gym. I knew that there were people asleep. But I am not apt to blame on them at all. I was one of the guy who simply listened to the talk for just satisfying own curiosity of the war, although I sympathised the cruelty of the war on the ground. So, I admit that I was a student who was not appropriate for the talk that ought to be, that I have no right to denounce other students who were asleep. It would rather be a majority if I were indifferent with the testimony of the war as a student of junior high school living in the remote city from Okinawa. I wonder that the estrangement from the situation must be extraordinary that present day students wishing to enjoy summer vacation and the former boys and girls seventy-five years ago resign themselves to fate who were given hand grenades which suggest them to suicide against their will in the trench, in the same summer.

I strongly believe that everyone should remember these tragedies had happened in the past, and the opportunities to know the facts must be given through the public place. But, it may be a difficult matter to discuss when to have opportunity, I personally guess that it would be better to let them know in the term of compulsory education. The time flies, the survivors of the war live out their natural life span, so that it would be getting difficult to ask for a testify the memory of tragedy even if we obtained their consent. It has been 75 years since the war was over.

Why the war happened ? I think people who can answer this question are very few. Why the war must not be occurred forever? This question also can be answered by very few number of people, I guess. In our country, the lesson that the war must not be repeated is broadcasted in June, and August. Memorial service for the war is held every year, mourning ceremony is reported in the TV.  The mourning is the work of reminiscence of dead. The process of universal healing for those who involved and died in the war(it is different nuance with ‘worshipping the souls of the war dead’). It is good thing for mass-media to broadcast these events. But what should they report the most is that to listening to the whispers of ‘narratives’ suggested by the behaviour of people praying in June 23rd, August 6th, 9th and 15th, I believe. Why happened the general mobilisation that enforce people to service an absurd event?  I have been questioning myself about this since I was a child. I knew tentatively the logics and a complete history of Japan but I could not learn any more while I was taking the class of social study. I did not expected at any rate, but evening TV news never taught me the answer. The news always dispassionately tells us only truth likely facts. 

“Do not repeat the war, never to happen the tragedy.” 

Okay, okay, I understood. but tell me why you say so.

“Because It is tragic.” I knew it! That is not what I want to know. When I was a kid, I thought like that. Is that a common knowledge for adults? That’s why they won’t tell me.

But later on, I could feel the reason to deny the war by watching overflowing insanity of war, suggested from documentary film, such as “NHK special” at 9 o’clock, and “The 20th century on film(Eizo no Seiki)”, which was collaborated with ABC Television.  Moreover, I found that this “Event” is in truly complicated situation. I also found the difficulty to speak of the reason why we Japanese had began the Pacific War. Then I thought that the sequence of “Memories” would gradually fade out, and the handing down of narratives might not succeed.

The time goes by, I grew up a bit, I had a chance to visit the United Kingdom. The news program on TV that I watched in hotel on September 2nd was the broadcast of “Victory over Japan day”, as the stance of a victorious nation. I rapidly felt uneasiness like a cold breeze in the UK, reminded me of the feeling that I was in the country which used to fight against our country, even now they celebrated the victory over us. Probably It may be the first time for me to touch the shadow of the war. What I knew were fragments memory that my grand-grandfather served in the battlefield of Manchuria, and my grandfather was nearly expelled from school due to lese majesty. Another grandfather wished to enrol as navy officer but he failed in examination for admission. The more change of generation takes place, the less reliability of spoken tales, and they get short, sometimes surprising punch line appears, otherwise the narrative turns into the record which only tells that one went there and there, Even the memories of my true family fades away.

I have began to answer and find the question by reading books of Modern history of Japan written by specialities like Ms. Kato Yoko and so-on.  It is true that some writing of her has the same questioning as me. She tries to make a discussion with high school students on the case as if we were the statesmen of Japan at the era of Pacific war, standing on an equal footing. Of course I have read the book, but it has been a quite long time since I finished it, so that I cannot tell you right now in detail. However, I am sure that the writing was worth reading in that she considers how the Japanese executives made decision in the critical moment of history, and she tries to describe how they felt at that moments as much as possible. 

During my reading, I found that some beings insisting sharp remarks and (it may be all very reasonable for them to)confront the books which were written by highly specialised authors, based on thousands of references and former controversial studies. They speak aloud and we cannot ignore them.  By all means we should listen to what they are saying. Their voices echo regarding negative “events” such as the Nanjing massacre, comfort women, saying “There were no such things.” History revisionism, desertification of memories, letting past be bygones. Various words are rushing through my mind. Although we are sure to have walked one straight line of “History”,   there seems to be tracks of two, three or more lines when we look back. Which line did we walk through? Suddenly I am likely to be suspicious of the “narrative”  that I have believed a little while ago. The voices inflame our self-esteem, attempting to conserve the dignity of one’s country from the past to the present. The voices echo with loudly speaking of authenticity of following timeline of our history. Sometimes they are comfortable to our ears, and attracting. I wonder  I am a traveler walking among the woods seduced by a whisper of pixie, or a sailor who voyage around the sea yield to the temptation of a sing of Siren.

All of a sudden, everything turned to chaos that I felt like that I cannot understand whole things mentioned above. How should I understand history, narrative and folklore? Survivors who lived “Events” are ageing gradually and passing away, memories are fading as time goes by, they are spreading into branches, and turned into narratives. In order to appreciate why would “Event” has happened, we must think of the royal way of handing down narratives. If the way exists.

Recently, I have read a book(which belongs to my wife), written by Oka Mari, titled as “Memory/Narrative”, published by Iwanami Shoten. This discussion was written in 2000, what I own is noted that it is printed in 2014, as 14th edition. I think it suggests that this book are widely read. It has about 110 pages, I found it is a good amount for me to read carefully. Her insight starts from the “Event” that massacre of Palestines took place in August 12th, 1976, where the place named “thymes thriving hill”, “Tel al-Zaatar, تل الزعتر”. She mentions the questions occurred by reading the work of Liana Badr, who is a Palestine writer, “The Eye of the Mirror”, written about the massacre. Then she proceeds her questions as follows.

 How could we share the memory of “Event’? In order to possess Memory of “Event”, the “Event” should firstly be told, should be handed down. What is the mean of telling  memory of “Event” as it is shared genuinely with others? Is it possible to exist such narrative? Will it be consisted as we expected? If it exists, is that a matter of precision of realism? Numerous questions occurs.

There must be a critical meaning for thinking about the possibility of sharing memory of “Event”, when we are involved with the struggle of memory regarding various ”Events”, in the present. I would like to think of these questions by starting following discussion.

The verb “share” means “have a portion of (something) with another or others”. Her questions like these are quite stimulating for me, I am not sure that I can solve them anyway, I found that this could be the utmost opportunity to reflect on these matters of mine.

Thanks for reading so far.