不安に駆られて

calm body of water during golden hour
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診察室で

 私が面接をする、とある患者さんはいつも決まって過去形を使う.

「こんにちは.〇〇さん.お元気ですか」

「元気でした

「何か心配なことや気がかりなことはありませんか」

「ありませんでした

 他の質問にも過去の時制で回答をするのだ.この事態が私にとっては非常に理解が難しい現象のように思えている.不思議な気持ちでいつも面接をしている.

 なぜ「元気でした」と過去形の表現なのか.なぜ過去形でしか答えてくれないのか.それが全くわからない.私は診療録に「症例の陳述に時制の不一致を認める」と書いたことがあるが、だから何なのか、それ以外何を記述すべきか、何を考えたらいいか悩んでいる状態である.いわゆる静的了解でも発生的了解の範疇ではないだろう.この方は少なくとも私と時間空間の体験様式が異なる可能性がある.ヤスパース的に言えば、了解不能なのだろうか.そして了解不能となれば、背後に病理が潜んでいることになる.どのような病理か.

 恐らく手がかりとなるのは精神病理学であったり、哲学だとか人文学なのかなぁ、という考えに基づいて、私は複数の本を読んでいる.斜め読み、というわけではないが、義経の八艘飛びのように一つの本から別の本へとあちらこちら飛び移っている始末だ.人には様々な読書の癖があるだろう.どうやら私は一度にいろんな本を読む傾向にある.これを注意散漫とか転導性の問題というのかもしれない.わからないところに当たれば、別の本に当たって了解を得ようとする方法が性に合う.今この記事を書いているとき、私はセーレン・キルケゴールの不安の概念」、マルティン・ハイデガー「存在と時間」を読んでいる.どちらもうんざりするほど難しくて辛くて面白い.炭酸の青汁をありがたく飲んでいるような気持ちだ.

 そして何より、彼らは「実存」を扱う哲人であり「不安」を解明しようとし「時間」について論じた人物で共通している.きっと、上述した症例の言辞を理解する一助になるのではないか、と私は期待を寄せている.

不安とは

 さて、私は以前の記事で、「不安」や「うつ」がわからない、と述べたのだった.「うつ」に関しては「メランコリー」を取り上げてみたが、これで綺麗サッパリわかりました、というわけにはいかない.表層的な話しかしていないのだから.こちらはひとまず保留にするとして、私は「不安」という現象ないし心理的状態についても大きな関心を寄せている.なぜ関心があるのか、といえば私自身の職務上の要請にある.私自身がある程度、不安という概念について通じていない以上、面接を要する人々の「不安」に対して一定の助言を行うことが果てしなく難しいと感じたからである.

 こちらも別の記事で取り上げ、生理学的な立場とフロイトの古典的立場で「不安」を紹介したが、未だによくわからずにいる.そこでキルケゴールの「不安の概念」という本を読んでみることにしたわけだ.そして現象学という興味深い学問に足を踏み入れた私は、フッサールを継承し、より深化させたハイデガーの実存主義の考え方に惹かれるようになった.奇しくもキルケゴールは実存主義の代表的な人物であるし、精神病理学の嚆矢、カール・ヤスパースも医師兼実存主義哲学者の一人だ.私の思い込みにせよ、奇妙な引力が働いているような心持ちがする.私の思想はようやく二十世紀の大陸哲学に差し掛かってきた.

 

 まずはいつもの「精神症候学」を開いて「不安」を調べると、次のようにある.掻い摘んで記そう.

 不安anxietyは、対処不決定の漠然とした恐れの感情で、一般に対象のある恐怖に対して、対象を欠くものを指す.十三世紀のトマス・アクィナスは予測できない恐怖をアゴニアagoniaと呼んだ.フランス語ではリトレによると延髄的・身体的な苦悶angoisseと皮質・精神的な不安anxiétéを使い分けるという.後者のanxiétéもしくはラテン語のanxiusが十六世紀初期には英語のanxietyに訳された.正常な不安としては、生きている限り避けることのできない病や死への恐れ、生活、経済上の諸々の不安があり、原不安Urangst、現実不安Realangst、被造物の不安Angst der Kreaturなどという.キルケゴールによれば、物事や価値を知り、分別をもつと、むしろ不安も増える.これを客観的不安という.ゴールドスタインは、破局状況におかれた生体の主観的経験を不安と呼んだ.

 病的な不安とは、刺激が主体の内部で歪曲・肥大化されるために、客観的な危険に比して不釣り合いに強く反復してあらわれる不安のこと.その処理に神経症的防衛機制を要するので、神経症性不安ともいう.正常な不安との差が量的か質的かについては議論が多い.予期不安とは、未来を先取りして恐れる空想的な不安で、将来起きてほしくないことが起こるのではないかとする.

精神症候学 第二版およびOxford English Dictionaryから引用

 要するに、不安というのは対象なき恐れ、ということらしい.しかし、少し考えてみると「明日のプレゼン、うまくいくか不安なんです」というときは、もちろん対象が定まっている.よって対象なき恐れという語義に反してしまうように思われる.そこで、よくよく考えながら、大辞林を参照すると、以下のように書いてある.

①気がかりなこと.心配なこと.これから起こる事態に対する恐れから、気持ちが落ち着かないこと.また、そのさま.

②(哲学)人間存在の根底にある虚無からくる危機的気分.原因や対象がわからない点で恐れと異なる.実存主義など現代哲学の主要概念.

③(心理学)漠とした恐れの感情動悸、発汗などの身体的兆候を伴うことが多い.

大辞林 第四版

 生理学的な立場で不安を考えてみると、不安「闘争か逃走」の反応の一つであり、不安症の中核的な要素は「恐怖」「憂い」であるという.(ストール精神薬理学エセンシャルズ第四版)もう少し詳しい話は以前の記事にある.

 正直言って、学問の立場によってこんなにも割れるとは思わなかった.特に恐怖をどのように位置づけるかが異なるようである.恐怖の腑分けが異なる、とでも呼ぶべきか.さて、「不安」をどのように考えたものか.

 二つの書籍について

 光文社古典新訳文庫から出ている「存在と時間」の訳本は中山元氏によるものだが、膨大な注釈と解説がついているにも関わらず、いきなりアタックするのは苦痛を伴うことがわかった.(八巻まであるし……)訳の巧拙がどうこうではなくて、純粋にクッソ難しいのである.しかし、この著作が出された経緯や背景だとかを知れば、ある程度気楽に読める気がしてくる.事実、経緯を知ることは極めて重要であった.「存在と時間」がアリストテレス哲学と、当時最先端の哲学である現象学を融合させたものであることを知らずして著作の意義を理解できそうにないと思う.ハイデガー以前に「存在論」を扱ったのはアリストテレスが最後であり、その間、全く人々は「存在の意味を問うこと」をしなかった、と斬り捨てる彼のキレキレ具合には脱帽であった.この論文の入門書・解説書を読んで、私は漸く彼の代表作である「存在と時間」は未完であることや教授昇進のために提出された突貫工事的論文であり、出版までに紆余曲折のある作品であったことを知ったのだった.ちなみに入門書、というのは講談社現代新書から出ている「ハイデガー『存在と時間』入門」のことで、著者の轟孝夫氏はハイデガー一筋三十年の哲学者である.

 「なぁ〜んだ、未完なのか、マルティンおじさんも色々あったんだネ」と思うと、巨大な哲人として立ちはだかるハイデガーも急に人間くさくなってくるし、伝統的な西洋哲学における「存在」の先入観を捨てて「真の存在」を解明しようとする三七歳、マジ気合入ってるっすね、と称賛を贈りたくなる.

 他方、キルケゴールの著作「不安の概念」は1844年に書かれたものだが、1927年の「存在と時間」から随分前の作品である.彼の作品も残念ながら難解だ.いきなり訳本に当たると、それはそれで面白いのだが、「質的飛躍」などの彼独自の術語が使われてしまうと、解釈が大変になってしまう.よって入門書を探してみたが、パッと見てもどうもなさそうである.そして、彼のロジックはキリスト教の教義学や倫理学などの学問を織り交ぜたものになっているため、事前知識として他にも仕入れる必要がありそうである.なんだか哲学の迷宮に入り込んでいるような、いないような.少なくとも創世記のアダムとイブの原罪は、よく理解しておく必要がありそうだ.これはもちろん神話なのであるが、多くの人が挙ってこの神話を取り上げるのは、宗教的な意義だけでなく、ある種、アダムを人類のプロトタイプとして考えたときの思考実験として捉えると興味深いからかもしれない.ただの気の所為かもしれない.

本記事の最終的なねらい

 この記事を大々的に書いた理由は実はもう一つある.安永浩の「ファントム空間論」に関する連載が途中となっているのだが、今の知識では理解が不十分であるという直感から、連載を保留にしている.できればなるべく早く投稿したいと思いつつも、なかなか知識を仕入れる作業に時間がかかってしまい、うまくまとめきれていない.そこでまずは先に紹介した著書を足がかりに、「不安」に関する小連載を行ってから、改めて「ファントム空間論」を完成させたいと思っている.何のためか、と言われれば無論、自身のためである.このブログを投稿する、という作業を通じて(精錬できるかどうかは兎も角)自分の思考を整理して、職務上の必要に還元したいと企んでいるわけである.とは言っても、結局はブログなのだから、こうして偶然目に留めてくださった方にも、お裾分けして、冷やかすなり、面白がるなりして、何かしら感じ取っていただければ良いなと考えている次第である.

 ところどころ雑記を載せつつ、まずは「不安」の構造について自分なりに理解に努めるべく、新連載を開始する予定である.よろしくお願いします.

 

 

ルサンチマン

  

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離脱症状という邪悪さ

罵詈雑言

 処方薬の薬の離脱症状で気分が悪い.吐き気がする.これは邪悪だ.脳に分厚い鉄板を押し付けられている.ぎゅうぎゅうに圧をかけられて「くたばれ」と言われている.だからくたばっている.飲み忘れたのは自分が悪いのだ.それがいけないのは知っている.私は夜勤明けで疲れていた.だがこの仕打はひどすぎる.私だって多分人間だ.間違いは犯す.あらゆる光が眩しい.すべての感覚が不愉快だ.自分がこの感覚を覚えていることが嫌になる.この五感が自分の身体に基づく知覚だと思うと自分自身が心底不愉快だ.このような肉体にした、このような目に合わせた奴らが憎たらしくて、憎たらしくて、心底嫌悪する.軽蔑する.反吐が出る.吐き気がする.この苦しみは知る人以外絶対に味わうことはできない.味わったことのあるものしか感じ得ない苦痛だ.難民の気持ちは難民になってみないとわからないというのは本当にそのとおりで、ビョーキの苦しみというのは、ビョーキにならないとわからない.だがこんな苦しみ、わかりたくなかった!!難民だって、事件の被害者だって、コロナウィルスの罹患者だって、絶対になりたくなかったに決まっている.俺が地獄に行く時は必ず関係者を全員地獄に引きずり込んでやると、自分に誓っている.ちなみに自分が地獄に行くのは確定している.すでに特等席も用意してある.

価値が転倒する

 ある日、私は懊悩とした気分で過ごしていた.間違いなくこの時は神経伝達物質の嵐が起きていて、激烈な感情が私を狂わせ、憎しみをほとばしらせ、怒りに身を窶し、彼らを呪った.これはあとから気づいたが、ルサンチマン(ressentiment)に似ている.私は弱者であり、他者は強者である.ルサンチマンは弱者が強者に抱く、価値を転倒させた感情だ.怨恨、反感、逆恨みという言葉が対応する.ドイツの哲学者マックス・シェーラー(Max Scheler)という男は1913年から1916年に「倫理学における形式主義と実質的価値倫理学」において知性や意志に対する感情 ・情緒の優位性を主張した.彼は現象学の志向性の概念によって、志向感受(Intentionalität)とそうでない感情状態(Gefühlzustände)を区別したという.前者は四段階に分けられるとされ、彼の考え方は、クルト・シュナイダー(Kurt Schneider)により精神病理学に取り入れられた.シェーラーはイマヌエル・カントの形式主義倫理学とフリードリヒ・ニーチェ、アンリ・ベルグソンらの哲学を統合し、感情が知的作用に先行する実質的かつアプリオリな情緒的価値倫理学というものを構想したという.私達が世界と接点をもつのは、知的認識ではなくて、何かしらの価値を感受することによるとのことだ.

 先に述べた志向感受は「①感覚感受」「②生命感受」「③心的感受」「④霊的感受」の順番で高次となるようで、この序列は、価値の序列とも対応しているという.①は快・不快、愉快・不愉快といった、感覚に伴っておこる低次元の感情であり、②は健康、生命、病気、老化、生死といった個人や共同体の幸福に関わる価値と位置づける.③は人間の日常生活に伴う感情で、悲しみ、喜び、怒り、苦しみ、羞恥のように自我全体に広がり、自分自身に直接結びつくとともに、世界を志向し、他者との共同感情や愛を育む感情を指す.美醜の美的価値、正不正の法的価値などの哲学的価値などを含む.④の霊的感受とは、絶望、至福、憧憬、帰依などの特定の対象を持たない高次な感情だ.最上位の価値は超越的、神聖なもの、絶対的な存在に対する価値のことだ.価値の序列は持続するほど、分割されにくいほど、基礎に置かれるほど高くなる.高いほど満足が深く、相対的なものから絶対的なものへ向かう.これら価値の序列は予め決まっているとして、シェーラーはアプリオリな普遍的妥当性をもつことを主張している.

 どうやら、より高い価値を実現する意志が善であり、より低い価値を選ぶ意志は悪であるという.つまり、肉体的快楽、束の間の快楽、小顔メイクをしてインスタ映えを狙うのは悪だという.ときには肉体的快楽を犠牲にして、健康や幸福を求めることは必要である.家系ラーメンを控えて、低糖質の食事を食べるのは大切だ.さらに、時には社会的な幸福も、より高い真理、正義のために失うこともいとわない.玄奘三蔵や空海、最澄、ゴータマ・シッダールタは典型だろう.ということは人間は本質的に、より高い価値を求めて生きようとする存在である.そして時代の要請や状況に応じて、価値の優先順序を変えて、新しい価値を発見する存在でもある、とシェーラーはまとめる.

 さて、ルサンチマンは価値の転倒、である.ニーチェが「道徳の系譜」で取り上げたものらしい.彼によれば、良質(gut)とは強者、高貴な人々が自らに与えた評価であり、その対局は劣悪(schlecht)とされてきた.弱者は強者を憎悪する.現実にはその上下関係を逆転できない.よって強者を悪い(böse)、弱者を良い「gut」と互いの価値を転倒させ、報復しない無力さを善良とし、臆病な卑劣を謙虚として、憎む相手への服従を恭順へすりかえた、という論理である.うーん、今のご時世にある「上級国民」という言葉はルサンチマンを感じる代表格だなぁ.

 これに続いて、さきほどのシェーラーは上記のニーチェに少し批判を加え、「道徳の構造におけるルサンチマン」においてルサンチマンを「魂の自家中毒」「愛の秩序の惑乱現象」としている.ルサンチマンは他者の行為への反感、存在への反感であるが私達は、ただちに手出しできない状況にあるために、これを心のなかに押し込めようとする.これはフロイトのいう無意識の抑圧、という防衛機制であり、どうしても変えられない世界の秩序を内面で価値を転倒させることで自らを騙し、倒錯した復讐を遂げる対処行動ないし自助努力ともいえる、という.

妄想とルサンチマン

 ある学者たちはルサンチマンと妄想というのはとても関連がありそうだ、ということを考えた.妄想というのは、簡単にいうと自己と関連した、誤った確信、である.ということは妄想はすべて関係妄想でもある.妄想という現象が生じる精神疾患のなかに、統合失調症がある.妄想は多くは侵襲的で、被害を与えるものである.被害妄想というのは自分が危害を加えられていると確信するものだ.なぜ、妄想というのはそんなテーマなのだろうか.なぜ「あなたは本当にすてきですね」「お前は実に立派なやつだ、誇らしいよ」と褒めるような妄想がないのか、こうした疑問ははるか昔からあるように思うが、いくつかの解釈があるようだ.どのような説があるかは、次でお話したいと思う.

 

淡い期待

果報は寝て待つ

 先日、職場でCovid-19の予防接種を受けることができた.私のような業界の末端にいる人間が、ワクチンの恩恵に預かることができて嬉しく思っている.職場の方には感謝である.三角筋にチクッと針が刺さる感覚だけで、痛みはインフルエンザの予防接種となんら変わりはしなかった.早く接種が全国に広がって感染症から解き放たれたいものだ.堂々とマスクを外せる世の中になるといいと思う.連休を使ってとある講習会を受講する予定だったが、緊急事態宣言によってお流れになってしまった.残念.

 もしコロナウィルスが収束したら何をしようか.そういう空想をすることは自由だ.皆さんは何をするだろうか.私は第一に大きな本屋に行きたいなと思う.オンラインで気軽に購入できるのは良いことだが、試し読みができない.一冊の本を巡って、実際に手に取りもっと悩んで悩んで悩み抜いてから決めたい気持ちがある.あとは温泉、スーパー銭湯に行くことくらいだろうか.良い風呂に入って飯を食うのはうまい.外食にも行きたい.焼肉屋、そば屋、ラーメン屋、中華料理屋、東南アジア料理店.嗚呼、期待は膨らむ.冬にはスキーにも行けたらいい.山登りにも行っても良いかもしれない.国内だろうと国外だろうと旅行に行くのも気力とお金はかかるが、できるとしたら楽しみだ.果報は寝て待てというので、ほどほどに寝つつ、今だからこそできることをこっそりやっておくことにしたい.

オープンダイアローグへの期待

 「オープンダイアローグ」という精神科医療における方法論が注目を浴びている.数年前から言葉だけは耳にしていたが、最近まで全く知ることはなかった.精神病理学・病跡学を専門とする斎藤環氏は本邦にこの方法論の普及に貢献した方であるが、この治療法はここ数年で始まったものではないそうだ.1980年代にはフィンランドの西ラップランド地方はトルニオ市、ケロプダス病院で始められ、統合失調症を主とする精神疾患の症状緩和に大きな効果をもたらしているという.

 「オープンダイアローグ」は患者や家族から連絡をもらうと24時間以内にスタッフが訪問し、患者・家族・友人・医師・看護師・セラピストら、患者に関係するすべての人を集めて対話を行う治療法で、基本的に患者の自宅を訪問して行う.この対話は何度も繰り返される.繰り返していくごとに症状が緩和されていくのだそうだからなかなかにびっくりだ.対話の力を信じたい私としてはとても喜ばしい.この対話に集う人々は上下関係などなく、「医師の指導」という煙たい言葉は存在しない.今の診療でも皆平等だという建前はあるが、嫌なヒエラルキーは透けて見える.皆平服で望む.白衣を着ないのは個人的に良いことだ.今までの狭い診察室で患者ー治療者という構造「クローズドモノローグ」はなくなって、「オープン」になるのは実に画期的だと思う.

 この方法論によって必要な薬剤が減り、患者に対する拘束や隔離がかなり減るとされている.適応も統合失調症に限らない.人の基本的人権を超越せずに治療ができるのだからこんなに良いことはない.いいことばかりで聞こえが良すぎると胡散臭い気もするが、もちろん批判的な指摘はあるだろう.私自身、大いに興味をそそられている方法論であるので、勉強してみたいところである.いつかしっかりとご紹介できればいい.下記の書籍はオープンダイアローグを理解する助けになるのではないかと思う.「感じるオープンダイアローグ」は読んでいる途中なのだが、いい意味で期待を裏切られる.精神科医療の曇り空に薄明かりが差していくような、そんな気持ちになる本だ.

 最後に、斎藤氏の言葉を引用しておしまいにしておく.

オープンダイアローグの思想は、ポストモダンの思想に依拠した「人間」と「主体」の復権でもある.その根底には、個人の尊厳、権利、自由の尊重こそが治療的意義を持つという透徹した倫理性がある.

「臨床精神医学」第49巻第1号109頁2020年

 なんかかっこいい.

パンセ・スキゾフレニック・ボーボボ

そんなに脱毛しないとだめですか

 YouTubeの広告を見て思うことがある.正しく言えば、動画視聴中に挿入される広告の中に気になるものがある.やたらと脱毛を勧める広告が多い.漫画のようなイラストが現れ、複数の登場人物の台詞を抑揚のない調子で一人朗読、作画もお世辞には上手とはいえない.見たことがある人もいると思うが、すぐにスキップしたくなる広告に入るだろう.皆さんも同じ意見を持ってくれるだろうか.ただ最近私は敢えてちゃんと最後まで観るようにしている.色々と気づくことがあって興味深い.広告には複数のシナリオがあるものの大体のあらすじはこうだ.

 妙齢の女性が、同窓会や宴会、パーティ等に出ることになった.その会場にはかつて意中の男性がいて、主人公は心を弾ませるのだが、同席した同性の友人に、「ムダ毛が生えていてみっともない」ことを公に指摘され、大いに辱められる.

 傷心の彼女が帰宅し、友人に顛末を打ち明けると「それは指摘されて当然」という評価を受ける.そしてすぐに「医療脱毛」を勧められる.「それは高額ではないのか」と友人に問うと「今どきの医療脱毛は安い!」という理由をいくつか列挙し、想定されるデメリットに対する反論を述べる.そして友人自身が実際に体験して「やって良かった」という経験談を述べて、主人公は定型の誘い文句に乗せられてしまう.ほどなくして脱毛クリニックを訪れた彼女は友人の言う通り、何も抵抗なく脱毛を遂行.体のどこかしかがツルツルになる.

 後日、別の会食の機会が催され、懲りずに参加する主人公.どこかしか可視範囲内でツルツルになった彼女を見て浮足立つ男性たち.その中には意中の男性もおり、彼も実は彼女のことを想っていたことを知る.めでたく二人は交際に至る.彼女は脱毛を実践してよかったと確信する.その後脱毛の宣伝に入る.この話はフィクションである.男女を入れ替えたパターンも存在する.男の場合はヒゲが忌避される.ちなみに男性同士と女性同士というパターンは見たことがない.

 こういうあらすじを書いていて私は途中で気分が悪くなる.だが、このような広告はかなり高頻度で認められるのだ.アプリ内部のアクセス解析によって自動広告の内容が各々変わるらしいのだが、どうして脱毛ばかり出てくるのだろうか.脱毛の広告は電子の海だけではない.もちろん電車の中にもある.商業施設の並ぶ都市ならどこでもある.画像編集ソフトで、つややかに仕上がった女性の顔がこちらを見つめている.

 なんだかこのような風潮はいやだなぁと思ってしまう.脱毛を是とする空気感、「脱毛しないとみっともない」という圧力を感じてしまう.それはお前の感想だろ、と言われてしまえばその通りなのである.しかしこういうサブリミナル効果を思わせる広告導入は、主に若年層の審美眼や美意識に大いに影響を与えるような気がしている.例えば女性誌に載るモデルがあまりにもスレンダーすぎて、病的羸痩(BMI18未満)の姿が美しく思われるように仕掛けられると、私達はその体型を理想として意識してしまう.無意識であったとしても行動として現れることがある.摂食障碍における身体認識の歪みは社会の課す美意識と無縁ではない.脱毛を推す社会は、醜形恐怖を加速させ、美容整形を過度に受診させる構造や、非脱毛の人々を排斥する構造を作り出してしまっているような気がしてならない.美容整形はもちろん個人の自由だ.本人がやりたけりゃ好きなだけやればいい.自分が気になるから自分の意思で脱毛をするのならば止めはしない.とはいってもこれは自由診療の範囲内だから全額自己負担だ.数十万円をはらう必要があるし、ご先祖様から受け継いだ毛母細胞を徹底的に破壊するには何度も通わなければならぬ.こんなことを推す商業と自由診療の結託はなんだかずるいと思ってしまう.

 私が言いたいのは他人の身体的特徴を取り上げて自分の価値観を押し付けるのはいい加減やめてほしい、ということだ.私達はどうしても同調圧力に屈しやすい.どこかに毛髪の自由と平和を守ってくれる人はいないだろうか.

 毛の自由と平和を守る作品

 2001年から「週刊少年ジャンプ」に連載された澤井啓夫氏による漫画に「ボボボーボ・ボーボボ」がある.声調はボボボーボ・ボーボボ(Bobobōbo Bōbobo).幸運にも「週刊少年ジャンプ+」に第三話まで無料掲載されているので、雰囲気をつかみたい人はぜひ閲覧するといい.アニメ化もされ、英訳もされた.よくぞ訳したものだ.まずはあらすじを借用して紹介しよう.

 300X年、地球はマルハーゲ帝国が支配していた.マルハーゲ帝国皇帝ツル・ツルリーナ四世は自分の権力の象徴として全国民をボーズにするべく「毛刈り」を開始した.毛刈りとは頭に生えている新鮮な毛を直にぶち抜くことで、この毛刈りを行うのはマルハーゲ帝国専属部隊「毛狩り隊」だった.マルハーゲ帝国はとても強大でどの国も逆らうことはできず、全国民がこの「毛刈り」によって苦しめられていた.そんな時代に毛の自由と平和を守るため一人マルハーゲ帝国に立ち向かう男がいた……その名もボボボーボ・ボーボボ! 究極の拳法「鼻毛真拳」を使う彼こそ、救世主だといいな!? (原文ママ)

 主人公ボーボボはアフロヘアにサングラスで筋骨隆々の27歳男性という設定で、大きな鼻孔から手綱のような鼻毛をムチの如く操り相手を攻撃する「鼻毛真拳」を駆使する.この拳法を受けたものはなぜか吐血してしまうので、確かに強いのだろう.毛根をぶち抜かれた人々も吐血しているため、単なる作者なりの苦悶の表現技法に過ぎないかもしれない.とりあえず武論尊氏による「北斗の拳」を意識しているようだが、あまりこの設定が深堀りされることはない.一応ボーボボと毛狩り隊との戦いが主題ではある.しかしその対立にとどまらず終始話題が髪の毛のように散らかるのが本作の魅力だろう.

 一見、頭髪に非常に厳しい作風ではある.だがそんなに気にすることはない.作者は登場人物の全員に対して徹底的に理不尽であるからだ.本当の本当に、この作品は背景や舞台、人物の相互関係や文脈、あらゆる連関を破壊する.次から次へと意味不明な人物や偶像が出現しては意味不明な言辞を述べ、作品の全体的なまとまりや整合性が失われていく.伏線やレトリックというもの、表現技法はおそらく一切存在しない.人物描写も失礼だが単調で、特に毛狩り隊の構成員はみな同じにみえる.この圧倒的な不器用さ、極端さ、まとまりのなさ、理不尽さ、ぎこちなさが最後まで貫徹されている点は逆説的に完璧である.読んでいて苦痛はない.むしろ清々しい.仮にこれを分裂気質的と呼ぶなら、作者の脳内は一体どうなっているのだろうか.そんな「ボボボーボ・ボーボボ」は徹頭徹尾スキゾフレニックな作品だ.唯一、毛狩り隊は頭髪を根絶やしにすることに執着するパラノイアックな集団である.このような構造を頭に思い描くと、私は次のような二人を想起する.

パラノ・スキゾ

 1970年代から80年代のフランスにおける哲学のユニット、ドゥルーズ=ガタリ(ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ)の共著である「アンチ・エディプス(英題:Anti-Oedipus、仏題:L’anti Œdipe)」には「パラノ・スキゾ」という概念が登場するらしい.

 パラノというのはパラノイアParanoiaという言葉から、スキゾというのはスキゾフレニアSchizophreniaから来ている.どちらも精神医学用語で、かつて前者は偏執病、後者は分裂病という訳があてられた.偏執というのは大辞林を参照すると「かたよった考えに固執し他人の意見を受け入れないこと」とある.分裂というのはちょっと難しい.分裂というと、なにか形あるものが複数へとバラバラになるようなイメージをもつと思う.一つの考えにとらわれず、他の意見も聞き入れることもあるが不安定で落ち着きがないさまでもある.無秩序でアトランダムな動きをするブラウン運動の如き、野放図といったところか.彼らの頭髪も奇しくも対照的に見事に散らかっている.実にすばらしい.

 さて、ドゥルーズ=ガタリのいう「パラノ・スキゾ」という二項対立は、1980年代に作家の浅田彰氏による「逃走論」の流行で特にもてはやされたようだ.私はそのころ生きていない.要は「みんな、パラノイア的なアイデンティティはもうやめよう!これからはスキゾ的な生き方をしよう!」といった文脈で、社会的な役割や他人の評価に縛られることなく生きていくことを提案していく空気感が醸成されたらしい.

「いいか、タケシ、うちは代々大工だ.お前も中学を出たら大工の跡継ぎとして、俺の手伝いをしろ.いいな!男の癖に裁縫なんかやってるんじゃぁねぇ!」

「まぁ〜お千代さん、よろしくって?東条家の女は皆立派なお家に嫁いで行ったのです.こどもじゃないんだからいつまでも泥だらけで虫なんか捕まえてないでちょうだい.みっともない真似をこれ以上世間様に晒したら承知しませんヨ」

みたいな発言はパラノ的で、アイデンティティを束縛する生き方である.確かに上記の発言は石坂浩二の「金田一耕助シリーズ」でよく眼にした台詞で、あの頃の作品に登場する若者たちは皆それぞれアイデンティティに対する葛藤を胸にしていたように思う.この図式は今でも色褪せないもので、私自身もよく身に沁みて落ちないくらい心に感ずるものだ.

 それはともかく、ドゥルーズ=ガタリで用いられた「パラノ・スキゾ」の二項対立は哲学の入門書にも代表的概念として載っているくらいなので、そんなにわかりやすいのかと思い、私はStanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード哲学百科事典)の門戸を叩いた.このサイトは無料で公開されている哲学の百科事典であり、選任された多くの哲学者が寄稿した記事が別の学者によって現在も何度も何度も査読と修正がされている.言語は英語のみであるが、ウィキペディアなんかよりも遥かに信頼できる情報源といっていいだろう.ただ盲信しているわけではないことを断っておきたい.

 私はわくわくしながらドゥルーズの記事に「パラノ・スキゾ」がないか、探した.何度も何度も探した.しかし見つからなかった.とりあえずスキゾは見つかったがパラノはどこにも書いていなかったのである.よって上記の構造については全く触れられていなかった.あれれれれれれれ?「パラノ・スキゾ」は代表作「アンチ・オイディプス」の記事に書いてあるだろうと思ったが、全くパラノのパの字もなかった.パラッパラッパー!その代わり、凄まじく長い記事が瀑布の如く私の眼に垂直落下してきた.非常に難しい内容であったが、何日もかけて全訳することにした.英文は米国パドゥー大学(Purdue University)のダニエル・W・スミス氏(Daniel W. Smith)とジョン・プロテヴィ氏(John Protevi)によるもので、二人ともドゥルーズを専門とする人物であり、哲学科の教授である.まずは皆さんにも証人になっていただく.ぜひお茶でも飲みながら英文を読んで、それから和訳を見てほしい.

L’anti-Œdipe

 「アンチ・オイディプス」について考えるとき、はじめに私達はそのパフォーマンス的な効果について論じるべきで、その効果は「私達に思考をさせる」ことをしむける、すなわち、クリシェ(常套句)への傾倒に対する戦いを試みるのである.「アンチ・オイディプス」を読むことは実に衝撃的な体験になる.第一に、私達は情報源の奇妙な集積を目の当たりにする.アントナン・アルトー(Antonin Artaud)のスキゾフレニックな怒号は作品「器官なき身体」(Corps-sans-organes)の基本的概念である.第二に、著作の下品さは無意識(イド)についての悪名高い序文においてと同じようである.「そいつはどこでも動く、時代に適応してちゃんと仕事をする.そいつは熱を発し、飯を食い、糞をしてセックスもする[Ça chie, ça baise]. イドについてなんとまぁ間違ったことが言われてきたことか.」第三のパフォーマンス的効果はユーモアだ.メラニー・クラインの児童に対する分析を誂うのと同じようである.「なぁ、オイディプスって言ってみな、そうすりゃあんたの頭をひっぱたいてやるよ」こうした文章はほかにも沢山ある.「アンチ・オイディプス」ほど多くの冗談、駄洒落、 double entendres(一つの語句に二つの意味があり一つは性的な意味をもつもの)を含んだ荒削りの哲学書は極めて少ないのである.第四の要素はどんちゃん騒ぎの卑猥な論争である.その他多くの例の中でいうと、シニフィアンについて考える奴は暴君の言いなりに成り下がっているとか、フランス共産党党員はファシストにリビドーを注いでいるだとか、さらにフロイトは「仮面をかぶったアル・カポネだ」と描写されるのである.「アンチ・オイディプス」を読むと終始そのパフォーマンス的効果は忘れがたいものになる.

 本著の概念的構造に差し掛かると、「アンチ・オイディプス」の鍵となる用語は「欲望する機械」となる.マルクスとフロイトを縦横に駆けるそれは、欲望を生産という生態社会領域の中に置き、生産を欲望という無意識の領域の中に置くのである.通常の方法でマルクスとフロイトを統合しようとするよりも、欲望する機械は還元主義者の戦略によって次のように機能する.1)フロイトの側に立って、家族の像と様式のリビドー的投資が、それらの原始的投資に昇華することを求めるとするもの、あるいは2)マルクスの側に立って、神経症と精神病を不当な社会の構造上の副産物にすぎないものとして位置づけるものとする.ドゥルーズとガタリは欲望する機械を、表層上は分離している自然的、社会的かつ心理的領域に潜むものを「普遍的一次過程」と呼ぶ.それゆえに欲望する機械は人間中心主義ではなくて、世界のまさに中心なのである.その普遍的視野に加えて、私達は直ちに欲望する機械の二つについて理解する必要がある.1)生産物の背後にある主体はおらず、主体こそが生産を行う.2)欲望する機械の「欲望」は欠如を生むために関心を向けるのではなく、純粋に積極的である.欲望する機械は自律的で、自己建設的かつ創造的である.それはスピノザのnatura naturans(能産的自然)、あるいはニーチェの力への意志である.

 「アンチ・オイディプス」は概念的かつ術語的な技術革新とともにある、壮大な野心をもった作品である.その野心の中には、1)自然・文化の分裂両者を包含する、変化と変形あるいは「変形中」の存在論として機能する、生産の生態社会論と、2)社会形態の「普遍的歴史」ー「野蛮な」あるいは部族的な、「蛮族の」あるいは帝国的な、そして統合的な社会科学として機能する資本主義者.3)そしてこれら機能に対して土壌を築くこと、マルクスとフロイトに関する一般的な意見への批判ーそして応用領域を類比することで統合を試みることが挙げられる.そうした野心を追求する際、「アンチ・オイディプス」はtour de forces(妙技)ゆえの美点と欠点がある.異質な要素と要素の間で想像だにしなかった結合は可能となるが、何らかの緊張を孕んだ概念的な制度が犠牲となる.

 「アンチ・オイディプス」は欲望する機械の二つの主要な記録を識別する.自然または「形而上学的」そして社会的または「歴史的」な記録である.それらは次のような方法で関連付けられる.自然的な欲望する機械は社会という装置が抑制するものであるが、歴史(不確実な歴史、すなわち歴史の弁証法を避けるもの)の終焉に、資本主義において明らかにされるものである.資本主義は欲望する機械を自由に解き放ち、私有財産機構と欲望の家族的または「オイディプス的」様式を伴って統制しようとする.こうして分裂病の人々は欲望する機械の責任下で動き出すのだが、資本主義者社会の提案する限界で失敗する.それゆえに欲望する機械の働きに手がかりを与えるのである.

 ドゥルーズとガタリが分裂病を「生活様式」あるいは政治的プログラムのモデルとして提唱していないことを理解することが第一に重要である.分裂病は、臨床の実体として、欲望する機械のプロセス阻害、障碍の結果である.分裂病は自然と社会から取り出され、現実を成立させる結合を形成するよりも虚空を転回する個人の肉体に縛られているのである.欲望する機械は現実「と」結びついているのではない、欲望する機械は目的に触れるため主観的牢獄へ逃げるように、現実をつくるのである.それこそ現実であり、ラカン派の用語でいうねじれにおいてである.ラカンによれば、現実とは架空のものとして、意義あるシステムへの逆投影された剰余として生み出される.ドゥルーズとガタリにとって、現実とは自己形成のその過程において現実そのものである.分裂病者は助けを必要とする病人であるが、分裂病は無意識への方法であり、無意識は個人のものではなく、「超越的無意識」であり、社会的、歴史的、自然的なものをひとまとめにする.

 分裂病の過程を研究する際、ドゥルーズとガタリは自然かつ社会の記録双方において欲望する機械が三つの統合で成り立っていると論じた.結合、離接そして接続である.統合は三つの機能を果たす.生産、記録、享楽である.私達は生産を生理学的なもの、記録を記号論理学的なもの、そして享楽を心理学的記録と関連付けることができる.「統合」というカント派的響きを捉えることが重要である一方、統合を実行する主体が不在という、我々が先に述べたポスト構造主義者の視点に沿って注意することが等しく重要である.その代わりに主体は統合の生産物の一つそのものである.統合は主体に位置づけられている.それら統合とはただ欲望する機械の内在過程である.統合の背後に主体を位置づけることは統合の超越的用法であろう.ここで我々はカント派の内在の原則について、もう一つの言及を参照できる.ドゥルーズとガタリは「唯物論的精神分析」あるいは「分裂病分析」における統合の内在的用法を研究することを提案する.対照的に、精神分析は統合の超越的用法であり、五つの「パラロジズム」あるいは「超越的幻想」を生み出し、集中的な生産過程への広範囲な実質的な所有物特性を割り振るものとして関与する.すべてのパラロジズムが生産物から派生するアイデンティティに特異な過程を従属させる.

*アントナン・アルトーはフランスの俳優、詩人、演劇家.統合失調症の診断を受け九年間入院したこともあるが、生涯を創作活動に捧げた.「器官なき身体」は彼の言葉.

*パラロジズムとは誤った結論や議論を導く論理および修辞学の技法のこと.誤謬など.

*シニフィアンとは、ソシュールによる言語学用語.言葉のもつ感覚的側面とも言える.文字や音声はシニフィアンに当たる.一方、シニフィエは想起する意味内容や概念を差す.

オイディプスとスフィンクス.命がけのなぞなぞバトルを行う.

 「アンチ・オイディプス」において記された「普遍的歴史」によれば、社会的生活は、生産に対する功績を認める社会組織「socius(同胞)」の三つの形態をとる.部族のための大地、帝国のための君主の体、そして資本主義のための資本家である.ドゥルーズとガタリの人類学的文献の読解によれば、部族社会は入信の儀式で体に印をつける.そうして器官の産物は一族に、大地に神話的に遡るのである.より正確にいえば、神秘的な領域の一部、器官としての機能が大地全体へとたどり着く.物質的流動はこのように「領土化されたもの」で、大地に遡り、すべての産物の源として認められる.部族的な碑文の印はシニフィアンではない.それらは音声に位置付けするのではなくて、「野蛮な三角形:連結された音声、生々しい手、観察力のある眼、これら三つが独立していることを意味する残酷劇」を上演をするといえよう.帝国はこれらの部族的意味の暗号を超コード化し、生産物を聖なる父たる君主に遡及させる.君主制帝国における物質的流動は「脱領土化」(もはや大地に認知されない状態)になり、すぐに君主、あらゆる生産物に対して信用を引き受ける肉体に「再領土化される」のである.部族の印が超コード化されると、シニフィアンは「脱領土化した印」とされ、支配者と被支配者との間のコミュニケーションを可能にする.シニフィアンは「平板化」または「二義化」である.二つの鎖が一対一で並び、書き言葉と話し言葉に対応する(デリダの音声中心主義という考え方を参照).帝国のsocius「同胞」としての君主の肉体は、労働者が君主の「手」であり、密偵はその「眼」であることなどを意味する.

 資本主義は、以前の社会的機械が熱心に大地と君主の体にコード化した物質的流動の根本的な解読と脱領土化である.生産は資本の「肉体」に信用付けられるが、コードに対する「自明なもの」の代替による記録形式である.この文脈において「自明な」という意味は(脱領土化した労働と資本の)流動の間の差異よりもsocius「同胞」における図を流れる定性的な判断に対する精巧な規則というよりもむしろ定量的計算に対する一連の単純な原則を意味する.資本主義の命令はまったく単純である.脱領土化した労働と資本の流動を接続しその接続から余剰を抽出する.このようにして資本主義は巨大な生産的責任を緩和しこれら流動を接続するのである!速く、もっと速く!私有財産機関の余剰は個人の所有物として記録しようとする.今やこれら個人は主に社会的(資本家あるいは労働者の像として)であり次に私的なもの(家族)である.肉体の器官が社会的に以前の体制において顕著である一方、(一族と大地の帰属物として、あるいは皇帝の所属として、jus primae noctis「初夜権」として)肉体の器官は資本主義のもので民営化され家族の一員として人に付帯する.ドゥルーズとガタリの言葉では、資本主義の脱コードされた流動性は「人々」における再領土化であり、それは、オイディプス的三角形における像としての家族なのである.

哲学界のD&G.左がDで右がG.対照的な散らかり具合だ.

In considering Anti-Oedipus we should first discuss its performative effect, which attempts to “force us to think,” that is, to fight against a tendency to cliché. Reading Anti-Oedipus can indeed be shocking experience. First, we find a bizarre collection of sources; for example, the schizophrenic ranting of Antonin Artaud provides one of the basic concepts of the work, the “body without organs.” Second is the book’s vulgarity, as in the infamous opening lines about the unconscious (the Id): “It is at work everywhere, functioning smoothly at times, at other times in fits and starts. It breathes, it heats, it eats. It shits and fucks [Ça chie, ça baise]. What a mistake to have ever said the id” (7 / 1). A third performative effect is humor, as in the mocking of Melanie Klein’s analysis of children: “Say it’s Oedipus, or I’ll slap you upside the head [sinon t’auras un gifle]” (54 / 45; trans. modified). There are many more passages like this; it’s safe to say very few philosophy books contain as many jokes, puns, and double entendres as Anti-Oedipus. A fourth element is the gleeful coarseness of the polemics. Among many other examples, thinkers of the signifier are associated with the lap dogs of tyrants, members of the French Communist Party are said to have fascist libidinal investments, and Freud is described as a “masked Al Capone.” All in all, the performative effect of reading Anti-Oedipus is unforgettable.

Passing to the conceptual structure of the book, the key term of Anti-Oedipus is “desiring-production,” which crisscrosses Marx and Freud, putting desire in the eco-social realm of production and production in the unconscious realm of desire. Rather than attempting to synthesize Marx and Freud in the usual way, that is, by a reductionist strategy that either (1) operates in favor of Freud, by positing that the libidinal investment of social figures and patterns requires sublimating an original investment in family figures and patterns, or (2) operates in favor of Marx by positing neuroses and psychoses as mere super-structural by-products of unjust social structures, Deleuze and Guattari will call desiring-production a “universal primary process” underlying the seemingly separate natural, social and psychological realms. Desiring-production is thus not anthropocentric; it is the very heart of the world. Besides its universal scope, we need to realize two things about desiring-production right away: (1) there is no subject that lies behind the production, that performs the production; and (2) the “desire” in desiring-production is not oriented to making up a lack, but is purely positive. Desiring-production is autonomous, self-constituting, and creative: it is the natura naturans of Spinoza or the will-to-power of Nietzsche.

Anti-Oedipus is, along with its conceptual and terminological innovation, a work of grand ambitions: among them, (1) an eco-social theory of production, encompassing both sides of the nature/culture split, which functions as an ontology of change, transformation, or “becoming”; (2) a “universal history” of social formations—the “savage” or tribal, the “barbarian” or imperial, and the capitalist—which functions as a synthetic social science; (3) and to clear the ground for these functions, a critique of the received versions of Marx and Freud—and the attempts to synthesize them by analogizing their realms of application. In pursuing its ambitions, Anti-Oedipus has the virtues and the faults of the tour de force: unimagined connections between disparate elements are made possible, but at the cost of a somewhat strained conceptual scheme.

Anti-Oedipus identifies two primary registers of desiring-production, the natural or “metaphysical” and the social or “historical.” They are related in the following way: natural desiring-production is that which social machines repress, but also that which is revealed in capitalism, at the end of history (a contingent history, that is, one that avoids dialectical laws of history). Capitalism sets free desiring-production even as it attempts to rein it in with the institution of private property and the familial or “Oedipal” patterning of desire; schizophrenics are propelled by the charge of desiring-production thus set free but fail at the limits capitalist society proposes, thus providing a clue to the workings of desiring-production.

It’s important at the start to realize that Deleuze and Guattari do not advocate schizophrenia as a “lifestyle” or as the model for a political program. The schizophrenic, as a clinical entity, is the result of the interruption or the blocking of the process of desiring-production, its having been taken out of nature and society and restricted to the body of an individual where it spins in the void rather than make the connections that constitute reality. Desiring-production does not connect “with” reality, as in escaping a subjective prison to touch the objective, but it makes reality, it is the Real, in a twisting of the Lacanian sense of the term. In Lacan, the real is produced as an illusory and retrojected remainder to a signifying system; for Deleuze and Guattari, the Real is reality itself in its process of self-making. The schizophrenic is a sick person in need of help, but schizophrenia is an avenue into the unconscious, the unconscious not of an individual, but the “transcendental unconscious,” an unconscious that is social, historical, and natural all at once.

In studying the schizophrenic process, Deleuze and Guattari posit that in both the natural and social registers desiring-production is composed of three syntheses, the connective, disjunctive, and conjunctive; the syntheses perform three functions: production, recording, and enjoyment. We can associate production with the physiological, recording with the semiotic, and enjoyment with the psychological registers. While it is important to catch the Kantian resonance of “synthesis,” it is equally important to note, in keeping with the post-structuralist angle we discussed above, that there is no subject performing the syntheses; instead, subjects are themselves one of the products of the syntheses. The syntheses have no underlying subject; they just are the immanent process of desiring-production. Positing a subject behind the syntheses would be a transcendent use of the syntheses. Here we see another reference to the Kantian principle of immanence. Deleuze and Guattari propose to study the immanent use of the synthesis in a “materialist psychoanalysis,” or “schizoanalysis”; by contrast, psychoanalysis is transcendent use of the syntheses, producing five “paralogisms” or “transcendental illusions,” all of which involve assigning the characteristics of the extensive properties of actual products to the intensive production process, or, to put it in the terms of the philosophy of difference, all the paralogisms subordinate differential processes to identities derived from products.

According to the “universal history” undertaken in Anti-Oedipus, social life has three forms of “socius,” the social body that takes credit for production: the earth for the tribe, the body of the despot for the empire, and capital for capitalism. According to Deleuze and Guattari’s reading of the anthropological literature, tribal societies mark bodies in initiation ceremonies, so that the products of an organ are traced to a clan, which is mythically traced to the earth or, more precisely, one of its enchanted regions, which function as the organs on the full body of the earth. Material flows are thus “territorialized,” that is, traced onto the earth, which is credited as the source of all production. The signs in tribal inscription are not signifiers: they do not map onto a voice, but enact a “savage triangle forming … a theater of cruelty that implies the triple independence of the articulated voice, the graphic hand and the appreciative eye” (189). Empires overcode these tribal meaning codes, tracing production back to the despot, the divine father of his people. Material flows in despotic empires are thus “deterritorialized” (they are no longer credited to the earth), and then immediately “reterritorialized” on the body of the despot, who assumes credit for all production. When tribal signs are overcoded, the signifier is formed as a “deterritorialized sign” allowing for communication between the conquered and the conquerors. Signifiers are a “flattening” or “bi-univocalization”: two chains are lined up, one to one, the written and the spoken (205–6; cf. Derrida’s notion of “phonocentrism”). The body of the despot as imperial socius means that workers are the “hands” of the emperor, spies are his “eyes,” and so on.

Capitalism is the radical decoding and deterritorialization of the material flows that previous social machines had zealously coded on the earth or the body of the despot. Production is credited to the “body” of capital, but this form of recording works by the substitution of an “axiomatic” for a code: in this context an “axiomatic” means a set of simple principles for the quantitative calculation of the difference between flows (of deterritorialized labor and capital) rather than elaborate rules for the qualitative judgments that map flows onto the socius. Capitalism’s command is utterly simple: connect deterritorialized flows of labor and capital and extract a surplus from that connection. Thus capitalism sets loose an enormous productive charge—connect those flows! Faster, faster!—the surpluses of which the institutions of private property try to register as belonging to individuals. Now those individuals are primarily social (as figures of capitalist or laborer) and only secondarily private (family members). Whereas organs of bodies were socially marked in previous regimes (as belonging to the clan and earth, or as belonging to the emperor, as in the jus primae noctis), body organs are privatized under capitalism and attached to persons as members of the family. In Deleuze and Guattari’s terms, capitalism’s decoded flows are reterritorialized on “persons,” that is, on family members as figures in the Oedipal triangle.

難解を極めるD&G

  お疲れ様でした.確かに「パラノ」という言葉は出てこなかった.翻訳をなるべくスムーズに読めるように苦心したが私にはこれが限界である.兎にも角にも「アンチ・オイディプス」という作品で示されているのは、フロイトの唱えた「オイディプス・コンプレックス」に対する強い批判であり、オイディプス王の呪いの図式の如く、欲望をなんでもかんでもオイディプス・コンプレックスの図式に当てはめてしまうのはやめませんか、というものだ.そして資本主義社会のコード化(ルール)を免れているのは、分裂病の人々だ、彼らこそ資本主義に抗うことのできる欲望機械なのだ!彼らに続け!という主張である.ここでいうコードというのは規律や法が相当する.それにしても非常にわかりにくい解説である.おそらく記事を書いた人たちのせいではなくて、ドゥルーズとガタリが難しすぎるのだろう.「コード化」「脱領土化」「三角形」これらの言葉の持つ射程がでかすぎる.ポスト構造主義はこういうものなのかな.「ドゥルーズの理解が難しいのは彼の文体が難解であるからだ、彼の散文はかなり意味深で新語を交えるせいでもある(One of the barriers to Deleuze’s being better read among mainstream philosophers is the difficulty of his writing style in his original works (as opposed to his historical works, which are often models of clarity and concision). Deleuze’s prose can be highly allusive, as well as peppered with neologisms)」とされているので、やはりドゥルーズのせいだ.

 ここまできて私の意見を言っておくと、確かに.私自身いたずらに「オイディプス」の図式に当てはめて葛藤を解釈するのはどうかと思うことはずっとあったから部分的に納得はできる.かつて「この症例にオイディプス的葛藤はありますか」と他の先生に訊かれたことがあったが、誰もが父親を殺し、母親と交わるという呪いがかかっているとは思えなかったので「どうなんでしょうね」と自分でも糞みたいな返事をしたのを覚えている.孤児だったらどうするんだ、とか片親だったらどう説明するのか、と私はいつもひねくれたことを考えている.

 もう一つ、おそらくドゥルーズ=ガタリはアントナン・アルトーの例に感化されたのだろうか、分裂病、今で言う統合失調症に対する期待が大きすぎるように思う.まぁこの解説でも注意書きがあるように、「ドゥルーズとガタリが分裂病を「生活様式」あるいは政治的プログラムのモデルとして提唱していないことを理解することが第一に重要である.(It’s important at the start to realize that Deleuze and Guattari do not advocate schizophrenia as a “lifestyle” or as the model for a political program. )」としているのだが、分裂病は、対象の人格・知覚・思考を大いに脅かす疾患であり、適切な治療なしには時間経過とともに人格の解体を引き起こすことはいうまでもない.資本主義から逃れることは確かにできるだろうが、そもそもの社会に適応できないリスクが大きすぎて、このモデルはどう考えても推奨できない.「ボボボーボ・ボーボボ」をご覧になればわかるが、話がどんどん脱線して収集がつかなくなっているような分裂状態は歓迎できない.かろうじてセリフの文法は破綻していないので、完全な解体ではないにせよ.あの状態が続くと疲れてしまう.

ケツ毛ごと愛する

 さてさて、パラノvsスキゾという構造がそこまで重要なものではなさそうだということをようやく確認できたところで、脱毛の話に戻る.私は脱毛を押し付ける社会は喜べないと述べた.そして毛髪への脅威に対抗する英傑にボボボーボ・ボーボボを求めた.脱毛を勧める社会をパラノ的とすれば、ボボボーボ・ボーボボの住む世界はスキゾ的であり、かつて浅田彰氏が提唱した「パラノ・スキゾ」の二項対立を経て、スキゾ的生き方が推奨されるのではないか、とボーボボに期待した.ドゥルーズ=ガタリにも期待した.しかしボーボボの世界はかなりとっ散らかっているし、ドゥルーズの頭髪もかなり散らかっていた.ポスト構造主義の識者の意見を求めたが、そもそもパラノとスキゾの対立はドゥルーズ=ガタリの根幹ではないように感じた.きっと浅田彰氏の文脈に多くの人が、時代が影響を受けたのだろうと推察する.この記事を書き始めた私は、「スキゾ的生き方バンザイ!!」で文末を終わらせようとしていたが、嬉しいことに目論見が外れた.これがわかっただけでもよかった.スキゾ的生き方も大変なのだ.

 皆さんは脱毛についてどのようにお考えだろうか.「そんなの考えすぎだ」という人のために言っておくと、この問題は考えすぎたほうがいいくらい重要である.あなたに高校生の息子・娘がいたと仮定して、たまたまあなたの剛毛な遺伝形質が受け継がれたとする.その表現型に悩むあなたのご子息ないしご息女はあなたに「医療用脱毛したいから現ナマ30万円貸してくれ」という.即座に「ホイ、30万やで.気をつけて行っといで〜」と言うだろうか.そうではないはずだ.なにかしら逡巡するはずなのだ.このあなた方に芽生える葛藤が消失しない限り、私達はとことんルッキズムや価値観、審美性、美意識や表現の自由について議論を行うべきだ.ずるい言い方だが私達は「パーシャル・パラノイアック」かつ「パーシャル・スキゾフレニック」であればいい.自分自身の最大幸福と公共の利益の天秤をグラグラ揺らしつつも、自分にとってかけがえのないもの(アイデンティティ)は譲らず、許せるところは優しい気持ちでとことん譲ればいい.双極において極端な思考は良くない.

 最後に、同じく週刊少年ジャンプで連載されていた漫画「銀魂」より、すべての葛藤を凌駕するであろう象徴的なコマを紹介しておきたい.とある男性がキャバクラに来客する.接客してくれる女性スタッフに、

「彼氏のケツが毛だるまだったらどーするよ?」

 と尋ねる(無論毛だるまなのは本人なのだが).これに対し、女性は以下のように答える.

「ケツ毛ごと愛します」

 この仏性漂う言葉に心弾ませた男性は以来、この女性に惚れてしまうのである.自分が密かに劣等感を感じているものを受容してくれるような器量.これは私見だが、このような無条件歓待の態度が衆生救済につながるような気がしてならない.価値観の相克でなく、受容と共感.何かに固執することもせず、奔走することもなく、受け入れること.たとえブサイクでも、禿でも、毛深くても、持病があっても、整形していても、すっぴんと化粧後のビジュアルがでかくても、鼻毛がちらっと飛び出ていようと、うなじの毛が散らかっていようと、足の親指に毛が三本生えていようと、ケツ毛が毛だるまだとしても、ピーマンが苦手でも、ナイフとフォークが使えなくても、受け入れられるならばそれでいい.愛せるならばそれでいいのだ.愛せないのならば通り過ぎればいい.それ以上は野暮だ.Wo man nicht mehr lieben kann, da soll man – vorübergehen!

「銀魂」第二巻八訓「粘り強さとしつこさは紙一重」より

 

症例アンネ・ラウ

常識とか自明性とか

 世の中で言われている「当たり前のこと」というのは案外とらえがたいもので、わかっているふりをしているようで説明できないものが多い.「自然」だとか「常識」「自明性」というものはひどく扱いが難しい用語だ.

あるとき、私は

 「お前には常識がない」

と最近言われたことがあった.どのような背景でその言葉を言われたのかというと、詳しくはいえないが、私の人生で私が選択したことが相手にとって「非常識」な選択であったように受け止められたようだ.私の選択は少なくともその人に害する行為ではなかったはずなのに.とはいっても本当の本当に私が非常識である可能性は常に残されているが.

 その言葉は私の心をナイフで切り裂き、えぐり出すような侵襲的なものに感じられた.りんごにナイフを突き立て、グリグリと回転させると果汁が染み出してくるように私から嫌な汁がこぼれた.傷はもう閉じない.

 「常識」という普遍的価値をもつようでいて、その価値観が主体によって目まぐるしく変わる概念は、私にとって見えない強制力と暴力をもつように思った.こういうときなぜか胸の奥がざわついて重苦しくなる.不思議な現象だが心身が不分離なものであることを実感する.この胸の奥をえぐられる感覚は二度と感じたくないほど不快なものであるはずなのに、この何年か、数え切れないほど経験してしまった.

 その経験をする前から、私は「当たり前」を当たり前たらしめること、「自然」だとか「すでに明らか」なこと、というものを容赦なく使うことに対して一種の危うさを見出すようになった.

 「ちょっと待ってて」「少しでかけてくるね」

 これらの言葉にある「ちょっと」「少し」の持つ時空間の射程は話者の文脈や関係性から「自然」と浮き上がっていくものであるが、この時空間に対する感覚が「当たり前」であることというのはなかなか説明しがたいのではないか.特に、こうした言葉に対する感受性の高い方々にとってこれらの言葉はひどく不親切でわかりにくい呪詛となる.

 改めていうと「常識」は社会構成員の一人ひとりに規範的強制力を課す概念であるが、それは決して普遍的ではない.私達が全裸で外を歩き回らないのは「常識」だが一万年くらい前は全裸は「常識」だっただろう.私達が人権をもっているのは当たり前かもしれないが、つい百年くらい前までは自由は当たり前ではなかった.タバコを吸うことが害であるならば廃止されるのは当たり前かと思えば、我々は一定の年齢に達すれば無条件で喫煙ができる.必ずしも当たり前ではない.

 「当たり前」というのはひどく使いにくく難解な言葉なのに、多義的で曖昧であるために広く用いられてしまう危険性があるように私は思う.どのような文脈の中で用いられているかを明示しないことには「当たり前」は暴走し、私達のもとに馴致することはできない.そして「当たり前」や「常識」を否定することは、私達の存在を根本から否定する恐ろしさを持つ.だから私はあのとき傷ついたのだろうか.

Natürlichen Selbsterständlichkeit

 ここで「当たり前」について検討した著作を紹介したい.

 1971年のドイツで出版された本に”Der Verlust der Natürlichen Selbsterständlichkeit. Ein Beitrag zur Psychopathologie symptomarmer Schizophrenien”というものがある.なんだこの題名の長さは!と思うが日本語に直すと「自然な自明性の喪失.症状に乏しい分裂病の精神病理学への一寄与」という.この本の和訳はみすず書房から出版されており、木村敏によって1978年に紹介された.「自明性の喪失」として一部の界隈では知られている名著である.*分裂病という記載があるがこれは現在では統合失調症という呼称が適切である.当時の表現であることをここでお断りする.

 どういう本か.序文は次のように始まる.

 二つの問題領域がこの著作において扱われている.一つは人間が世界の内に根を下ろしていること(碇泊していること)一般についての現象学的解明、より厳密にはフッサールの意味での「間主観的に構成された生活世界」における人間の根のおろしかたである.もう一つは、寡症状性分裂病(単純型分裂病および症状に乏しい破瓜病)においてことにはっきりと露呈されるような、基底的な分裂病性本態変化に関わるものである.

 前者は現象学的人間学の領域、後者は臨床的精神病理学の分野に含められる.この二つの問題を一冊にまとめた理由を筆者は、二つの問題領域の間に重要な関係があり、その関係こそがこの著作の真の主題をなしている.その共通の問題点とは、「常識」(コモン・センス)の病理学であると言う.そしてコモン・センスというのはそれが月並みできわめて自明なものであるという点に目を奪われて、とかくあまりにも見逃されやすいが、哲学的にも経験的にも非常に注目すべき、独特の基底的な機能である、とする.「当たり前」を当たり前たらしむ機能を二つの学問から検討する著作である.ニッチだが、私にとってはジャストミートな問題である.

 アンネ・ラウという症例が紹介される.彼女は二十歳で睡眠薬自殺を図り、筆者であるブランケンブルク(W. Blankenburg)のいる病院に入院してくる.彼はハイデガーの弟子であるが医学に転進した.担当医師らは彼女に対して面接を行い、病歴を構成して詳細な検討を行う.その後、筆者は診断的には「寡症状性分裂病」であるのが最も適当であろう、と考察する.

 さて、寡症状性分裂病とはなんぞや.今日の臨床ではもはや使われない用語である.現代の用語でいえば統合失調症なのだが、寡症状性、つまり症状に乏しいという意味の性質は現在の診断基準(DSM)では存在しない.そもそも症状を当てはめるためには症状ありきなのだから、寡症状というのは今の操作性診断基準にふさわしくないだろう.統合失調症の診断基準を参照すれば、妄想、幻覚、まとまりのない言葉と行動、陰性症状が主なもので、五つのうち二つを満たせば、期間や除外診断を検討した上で診断が確定できるものになっている.寡症状性分裂症はそういった症状に乏しい分裂病であるというのが端的な表現であろう.かつては破瓜型、緊張病型、妄想型、単純型といった病型分類による診断は多かったが、DSMでもはやこのような病型分類存在しない.なぜか.それは本旨を大きく外れることになるのでここでは触れない.まずはアンネの言葉を引用してみよう.彼女の言葉に妄想はないことがわかるだろう.

 私に欠けているのはなんでしょう.ほんのちょっとしたこと、ほんとにおかしなこと、大切なこと、それがなければ生きていけないこと…….家ではお母さんとは人間的にやっていけません.それだけの力がないのです.そこにいるというだけで、ただその家の人だというだけで、ほんとにそこにいあわせているのではないのです.___<中略>___私に欠けているのはきっと、自然な自明さということなのでしょう.

≪それはどういう意味?≫

 だれでも、どうふるまうかを知っているはずです.だれもが道筋を、考え方を持っています.動作とか人間らしさとか対人的関係とか、そこにはすべてルールがあって、だれもがそれを守っているのです.でも私にはそのルールがまだはっきりわからないのです.私には基本が欠けていたのです.

 彼女の言葉は数頁にわたって記載されている.大方は「ごく当たり前のことがわからない」という愁訴が続く.入院時の所見からは一見したところ、外面的には、問題のない、気立てのよい東独生まれの女の子のように思われた、という記載があるが、この印象は誤りであったと続く.鈍重といってもいいほどの平凡な外観の背後に、極度に敏感でもろい精神構造と、人格の著名な部分的未熟さが潜んでいると評している.彼女の話し方は一生懸命に言葉を探そうとし、同じことを繰り返したり途切れたりで、まるで支離滅裂に近いものになる.一定のテーマでまとまった文章をつくることはできなかった.自分では考えが途切れる、急に何もわからなくなるといっていたが、真の意味の思考奪取は確認できなかったとされる.知能検査(ウェクスラー式)では言語性107,動作性98,総指数103で年齢相応の平均的な知能を示した.しかし、行動の緩慢化、要領の悪さ、情熱的な囚われのために成績は悪くなっていたという.ロールシャッハ・テストでは解釈意欲の低下を示した.反応数は115と異常な多さだが、明らかな保続傾向があり、コンプレックス反応の典型的なものがほとんどみられなかった.この検査では診断はできなかったと記載がある.

 要するにこうした所見からは、患者は自分の力では対処できない状況につねにあるということが示された.知能や想像力は優れている一方、実生活での対処能力が全般に及んで低下していること、周囲とのつながりが表層的で非人格的なものになってしまっていること、人生とのあらゆる種類とのつながりがひどく貧困化していることが記述された.

 当初ブランケンブルクは、彼女が人格の発達遅滞に伴う異常な体験反応であるか、神経症圏の範囲で理解されるものと考えていたが、精神病圏なかでも統合失調症を鑑別に考えるようになったのは、経過から唐突でしばしば不適切な感じのする感情の動き、移り気な振る舞い、軽度の衒奇症、著しい思考障碍が見られたからだという.治療について述べれば1970年代における薬物療法をはじめとする医療は有効でなかった.電気けいれん療法も有効でなかったとされる.精神療法も支持的なものを除けば、彼女はひどく抵抗し自殺念慮を増すばかりであった.彼女は部分寛解を経て一年後に退院した.デイケアでの作業療法を行ってから家政婦として働くまでになったが、根本的な変化は生じていなかったと担当医は考えたようである.やがて急激な病状の悪化、彼女は自殺念慮が増していき、家人の目を盗んで自殺した.

 惜しむらくは彼女を救命できなかったこと、寛解に導けなかったことであろうと私は思う.もし、アンネ・ラウのような症例が現代の日本に現れたとするならば、私達はどのような考察を行うだろうか.どのような診断を下すだろうか.もしかすれば彼女の振る舞いからアンネは発達障碍という広義な篩の上にかけられて、その診断に基づく治療がなされたかもしれない.統合失調症の診断を下す医師は少ないのではないかという印象ももつ.彼女は現代においてリカバリーに導くことができるだろうか.こういう問いかけは歴史のIFのような、「もし高杉晋作が病死していなかったら」といった反則技にあたるので、考えすぎるのもよくない.だが現代においてアンネ・ラウの病理に接近することができる医師はどれだけいるだろうか、という疑問を持たざるをえない.「自然な自明性の喪失」という言葉を診療録に書き留めて、それを検討するだけの精神的余裕があるだろうか.彼女を癒せるだろうか?

 ルートヴィヒ・ビンスワンガー(L. Binswanger)のような立場から述べると、私達はもともと自明性と非自明性の弁証法的な動きが備わっている存在だという.自明性が止揚することによって新たな自明性に取って代わる.そうして私達現存在はその単一性を保つことができる.これを人間学的均衡という.それは常に弁証法的関係性を意味する.不均衡はその均衡の破綻である.「自然な自明性の喪失」というのは現存在「Dasein」における自明性と非自明性との弁証法が後者の側に引き寄せられることと同義である.つまり、私達を取り囲むすべての事物とのかかわりを根本的に支えている自明性が、疑わしいものとなる、ということになる.

なにもかも、ほんとになにもかもがとても疑わしいのです.私にはなにがなんだかちっともわからないのです…….なんとなく生きることなんてできないことですもの……なんとなく生きることということにすっぽり浸かっているなんて、とてもできないことです.

ブランケンブルクは現象学的検討において、「自然な自明性の喪失」を以下の四つの観点から究明できると述べた.

・世界との関わりの変化(世界の意味指示性が全体に不確実になる)

 いまはもう、いろんな感じが痛く感じられるだけになってしまいました……いろんなことのつながりというのか、ほかの人たちと同じ一つの感じを__世界の感じというようなものでしょうか__もっているというそんな感じがしないんです.以前はなんにもできないっていう感じだったのです.

・時熟の変化(時間構成の問題、時間を経験するということができない)

 現実のうちにとどまることがとてもむつかしいのです.毎日毎日、新たに、はじめからやりなおさなければなりません.

・自我構成の変化.(自然な自明性と自立の弁証法的関係の破綻)

 ここの生活の流れに自分をどのようにあわせたらいいのかわかりません.私にはピンとこないんです……作業療法のときも病棟でも、自主的に働くということができません.

・間主観的構成の変化.他者との関わり.

 どうしてほかの人もやはりそうであるのかが、全然感じられないんです.なにもかも、ほんとになにもかもがとても疑わしいのです__生きているということも!

 繰り返しになるが、私達は自明性と非自明性の弁証学的な動きによって存在している.止揚(アウフヘーベン)というヘーゲルでいう、否定・保存・揚上という三つの意味を含んだ機能があって、新たな自明性を作り出す.これは「疑問をもつ」ということによって現存在を統合させる一つの契機でもある.だが、アンネのような統合失調症において、この疑問が過剰になりすぎる<何もかもが疑問になる>と、それは侵襲となり、身体と心と精神とからなる人間存在の全体へ向かって入り込んでくる.これは私達には大変な侵襲であり、現存在を脅かす根本的な、荒々しい身体に迫るような形で起こる.アンネのいう「痛み」というのはメルロ・ポンティ的<受肉化した主観性としての身体>が知覚する侵襲なのであろう.私が傷ついたときも、私という現存在を脅かす侵襲に対する反応なのかもしれない.

 統合失調症というと、表層的な人々はやれ妄想だ、やれ幻覚だという.現代の診断基準をことさら否定するつもりはないが、ブランケンブルクが本著で言わんとしたことは極めて重要なことであり、私達を私達として確かに存在せしめているものこそ、統合失調症の患者にとってはそれが自身を危機に晒すものなのだということだと私は思う.一臨床の立場として感服の思いである.分裂病、現代における統合失調症は人間的な疾患であり、現存在の根幹に関わってくる病である.自明性というのはそれ自身が間主観的に構築されるものだから、自明性が喪失するということは、必ず自己と世界との関係性に関わってくる.統合失調症において、自明性が喪失するという問題は「コモン・センス」に対する判断の動揺である.

 「当たり前」だとか「常識」、「コモン・センス」というのは虚ろな空のように移り変わるエピステーメー的な言葉であることを今一度考えることができた.その性質ゆえに、「コモン・センス」は自身に対して脅威になることもあれば、止揚を経て新たな自明性を築く機会にもなる.近年、「自分らしさ」という実存的な言葉が大手を振って世界中に浸透しつつあるような気配がするが、それは自明性の喪失に対する恐れの裏返しなのかもしれない.きっとアンネ・ラウのような症例は決して少なくないはずであって、もしかすると隆盛を極める発達障碍という診断の影に埋没し、声なき声を上げているのだろうか.私にできることは極めて限られているが、謙虚に自分の力量を超えずに、静かに耳を澄ますことはかろうじてなんとかできそうである.

 ここまでありがとうございました.「自明性の喪失」を買った当初は全くもって本書の内容のがわからないという苦しい思いをしましたが、フッサールハイデガーといった現象学者の理解に努めることでようやく本書の全体的俯瞰ができたと思っています.とはいっても理解は微々たるものですが.こうした知識の獲得は私の数少ない喜びです.この美しい風景は私だけのもの!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

妄想の問題

はじめに

 安永浩によるファントム空間論の序論を追っている.これで六回目だ.だというのに、まだファントム空間の話をしていないのはどういうことだ!と怒られるかもしれないが、どうか辛抱強く待っていただきたい.なぜなら、我々は安永のいう「パターン:実存的二元論」を理解せずにファントム空間を理解することはできないからだ.これは安永の親切心である.はじめて見るかたはぜひ、始めから見ていただきたい.

 今回は、妄想について扱ってみる.その前に自我障害の章があるのだが、それはまた別の論考で取り扱うことにしたい.かくいう私も早くファントム空間論を扱いたいのだ.

 妄想とはなにか

 これをうまく説明することは難しい.説明できたとしても、Bertrand Russel(バートランド・ラッセル)が1+1=2の証明に膨大な紙面を費やしたのと同じように、大変な注釈をつける必要がある.いくら目の前の真摯な読者でも、それは苦行でしかない.だがなんとかしてこの記事においてだけでも定義しておきたい.妄想を誤解していただきたくないからである.

 世間でよく知られたものとして、「訂正不能な言辞」「了解不能な言葉」「誤った確信」などがあるだろうと思う.これらはいかにもそれらしいが、幾分の弱点がある.

 日本精神病理学会(私、吾郎も学会員であるが利益相反はない)の「精神科用語シソーラス」から引用するのが最も簡潔であるように思うので、ありがたく引用させていただこう.リンクフリーである.

 妄想とは患者の教育的,文化的,社会的背景に一致しない誤った揺るぎない観念ないし信念であり,明らかな反証があっても確信は保持される。妄想と真の信念と区別は,患者が主観的に行いうるものではなく,外部の観察者によって行われる。すなわち,その内容が非蓋然的であることに対する患者の判断が誤っている場合,その確信は妄想とされる。この誤った判断は必然的にその体験に対する病識欠如を生じる。

針間博彦

 コペルニクス的転回が起こる前の世界の人々の多くは天動説を信憑していたが、Galileo Galilei(ガリレオ・ガリレイ)は科学的観察に基づいて地動説を主張した.よく知られているように彼は妄言を言っているとして異端扱いされた.彼の主張は妄想だったのだろうか.現代の我々からすれば、彼の主張は妄想では無い.だが、当時の人々からすればどうか.彼の思想は教育的、文化的、社会的背景には一致しなかっただろう.明らかな反証かどうかはともかく、宗教的に強力な反論があっても彼は確信しつづけた(それでも地球は動いている).私は現世のクサガメなので、彼らの立場から「妄想だ」というわけにはいかない.妄想というのは、時勢によって、立場によって、解釈が異なる可能性がある.そのことを念頭に入れて論考を追いかけていただきたい.

妄想とは患者の教育的,文化的,社会的背景に一致しない誤った揺るぎない確信である.

 賛否はあれど、概括的理解ならばこれで良いだろう.では安永はどのように考察をするか.彼は妄想について、我々がどのようにして「意味づけ」をするか.これが重要であるとしている.ほほ〜

 「意味づけ」の重要な点は、「自分はこの事態をこう予測し、それ故こうこうすべきである」という「行動の要請」に関わる局面であるとする.この局面は生命体にとって大変な意義を持つ.というのは、我々が体験の各瞬間に出会うものを「何かの兆候」とみなしているからである.人間だって「雨が降っているから傘をさそう」「曇ってきたから洗濯物を取り込もう」「パトカーが近くにいるからおとなしく走ろう」「遅刻してはいけないから早めに家を出よう」「赤信号だから止まろう」と判断する.それらは「放置すればより危険な、由々しき現実となるであろう事態を、未然に感知しうる、そして行動によって回避しうる」ということであり、この「予感」がないと、生物はあらゆる偶然の危険、環境変化に対応することは出来ない.クサガメだって、脅威があれば首を引っ込めて守りに徹するし、食餌と掃除をしてくれる掃除夫が近づけば、喜んで近づく(なんて賢いんだろうか!).

 ここには体験における「時間」というものが必要になってくると安永はいう.しかしもう少し丁寧にいえば、「現在の意識がこういう構造をとることが、『未来』という時間性をつくる」という方が正しい、と安永はいう.ここで私は木村敏の言葉を思い出す.

 時間とは自己存在の意味方向である

 私達は何かを絶えず予想する.増大する「危険」を感じれば、何らかの行動によって回避する、安全ならばほおっておく.逆にエネルギーがあまれば、ただそれを放散するための手がかりとしてのみ、予感される(湖畔のほとりでキャンプをするとしよう.火をおこし、飯盒炊爨を待っている間、手持ち無沙汰なので丸くて平な小石を探す.それを水平に投擲する.小石を投げるものとして意味づけする).

 これまでの話を「パターン」に応用するとどうなるか.「意味づけ」の方向性A→Bは常に「現在」に立って、「未来」を望む方向にある.原因があるから、結果がある.「原因」の主体性、先行性は自明だ.そして、とある現象を「結果」とみなし、あるいは「過去」にさかのぼって「過去」に生きることもできる.「ここに結果があったのであれば、原因があったに違いない」と、後方視するのは「論理的必然性:logical necessity」である.

「右下腹部を主とする圧痛が生じている、腹部超音波検査で虫垂に相当する位置で輝度が高い.これは腹部臓器の炎症が急激に生じたに違いない;虫垂炎かもしれない」

「夏季の猛暑にとある独居住宅からご遺体が発見された.角膜は白濁し、透見できない;死体現象が生じ、24時間ほど前に死亡したのだろう」

といった具合で、医学において論理的必然性は極めて重要である.だが、こうしたロジックは、原因→結果が前提にあるからこそ、その上で、結果→原因を想定することができる.さきほどの例も、「虫垂炎や付属器疾患かもしれないから、右下腹部に疼痛が生じている」、という論理が先行しているし、経験的に「夏季に、人が亡くなり24時間経過すると角膜が白濁する」ことが知られているから「条件的必然性:contingency」が成立するのだ.

 では統合失調症において「パターン」が逆転するとどうなるのか.我々は彼らの体験を直接追体験できないから、限られた知性によって想像することが必要となる.さしあたり、「原因」が従属し、「結果」が主体となる.つまりは「過去」が支配者で、「未来」が従属する.なんてこったい.ここで安永はK. Schneiderの例をあげる.

 「犬が一方の前脚を高くあげた……これは明らかに天の啓示に違いない……」

 う〜ん、これわかんねぇな状態である.ここで重要なのは、「そうはならんやろ」と切り捨てるのではなく、「どうしてこうなった」と考えることが大切だ.この意味づけは「結果」→「原因」という逆転であった.安永の考察では、このベクトルは絶えずさかのぼって原刺激に向かう流れだという.ここでは犬が前脚をあげたことに相当する.「犬が前脚をあげた」という現象を説明しうるが故にのみ重大である、という形になる.難しいね.安永は、患者は一つの知覚事態に対して、「それには必然の理由が存在しなければならない」という方向を第一義として常に意味づけするように見える、という.私達が前脚をひょいとあげる犬を見て「どうしたんだろう」と未来志向の考えを働かせるのに対して、統合失調症においては「前脚をあげちゃった、大変なことになった!もう取り返しがつかない!」という過去志向の考えを取る、ということになるのだろう.だが、なんとかしてそれを取り繕う(この表現が適当かは私自身疑問だが)ために、啓示や運命、といった予定調和的な言葉遣いになるのだと思われる.そうせざるを得ないのである.よって、このB→Aの体験は「ふと;plötzlich」生じる.予期できない性質をもつ.あとで安永は「不意打ち」という表現を使う.

 彼らは未来形の助動詞使用を封印されているようなものだ.「……でないかもしれない」という疑いはできず、「……に違いない」となる.まるで推理小説に出てくる早合点の刑事のようである.「わかりました!犯人はあいつに違いありません!」

 が、感情的先入観のある正常人とはやはり性質が違う.彼らは結論を先に出して、それから推理をするようにみえる.これは継時的行為である.彼らの論は誤っていようとロジカルである.それ原因→結果のベクトルが正常だからである.ただ考えが浅いだけだ.統合失調症の人々にとってそれは起こり得ない.過去が未来を従属しているので「もう間に合わない」のだ.

 「もう間に合わない」からこそ、「夫が別の女と寝てしまった;夫婦妄想」、「妻とそっくりの偽物にすり替わってしまった;カプグラ症候群」が生じる.「世界が破滅してしまったような感じがする;世界没落体験」、「私のからだはどろどろに溶けて死んでしまった;コタール症候群」といった取り返しのつかない体験を述べるのであろう.

 自己関係づけ

 統合失調症に置いて、かなり普遍的にみられる現象として、「自己関係づけ;Eigenbeziehung」がある.これは「注察妄想」、「あいつが私のことを見ている」といった陳述からも知られている.自意識過剰では無い.

 もともと我々は厳密には違うが「客観的な態度」をとることができる、というのは「主体」が十分に「客体」を統制しているからこそできる.そのことを経験的に我々は知っている.この主従関係が逆転すれば、「客体」が「主体」を支配する.すなわち「他人が自分を見る」、ということが自明である.しかもそこに「結果」→「原因」の逆転が起きているから、「なにかとりかえしのつかないことが自分におきてしまった」となるし、それは「自分に起因するのだ」と信憑せざるを得なくなる.これが外延すると、一切の外界の現象がすべて自分に基づいている、とまで意味づけられる.

 ここで、安永の話す妄想の論考は終わりになるのだが、私達にとって、特にHighly Sensitive Person/People; HSPの方々にとって重要だと思われる注釈があるので、言及しておきたい.以下の神経症という言葉は多義的で難しい用語だが、ひとまず不安障害、社交不安障害、対人恐怖症、視線恐怖症、広場恐怖症といった言葉に置き換えて貰えればと思う.HSPが疾患ではないことを十分理解した上で、置き換えて頂いてもよいと思う.

 (これまで述べた論考において)これらは神経症者にみられるような関係念慮とどんな対照にあるだろうか?

と安永は疑問を投げかける.関係念慮というのは、例えば

「電車の中で、さっき男の人が『チッ』と舌打ちをしたように思う.私のことを見て舌打ちしたのではないかしら」

「職場の上司が、私の方を見てわざと咳払いをした.私がこの前仕事でミスをしたことのあてつけではないか」

といったようなものである.もちろん架空の例である.彼らが他人のまなざしを感じるとしても、それは統合失調症におけるような絶対的所与では無い.正常の了解では他人の「自我」とは自分の「自我」を前提としてその中に含まれ理解されるような順序である.ちょっとややこしいがA,Bのパターンを使って表してみる.

「他人が自分を見ている」了解というのは自分の体験の了解にすぎない、というところがミソである.

A→(A’→B’)→B

→は条件的必然性:contingencyの方向、A’、B’は他者の、A、Bは自分の「パターン」である.自己から発する他人の了解、他人の目を通じて自己了解、と還帰する.流れは正常だ.ただ過剰なのである.強い感情の発露、過剰に「予期」することにより始まり、悩み、悪化する.これは森田正馬でいう「生の欲望」でもある.死の恐怖、病気を恐れる強い力動には、健康でありたい、元気でいたい、しっかり振る舞いたいと努めようとする「生への欲動」が根底にある.

 私は恥ずかしながら森田療法で知られる森田正馬をよく知っていない.しかし彼の説く、「ありのままに生きる」というモットーは多くの人を勇気づけ、共感を与えるものだと思っている.しかし社会がそれを許さない構造になっているようにも思う.完璧主義を求める労働体系、社会規範.緊張感が漂う.公私の分別が曖昧となり自我境界も見えなくなってしまっているようにさえ感じる.A→Bの関係において、Bが力を増しているような社会である.AとBが近接しつつあり、我々はAを強めようと感情を、予期能力を、不安を強めるのだと思う.「繊細さん」は持ち前の素晴らしい才能があるにも関わらずそうした危機に瀕している.この時勢における新型コロナウィルス感染症の大流行が、少しずつ旧態依然であった社会のあり方を見直す機運となっているように感じていることは私だけではないと思う.コロナ禍が収束することを願う気持ちは私も皆さんと同じだが、この混乱を運ぶ災厄が、世界に変革をもたらすトリックスターであらんことをひそかに祈っている.

 

 

 

フォン・ドマルスの原理

統合失調症の思考特性とは

 安永浩の著した「ファントム空間論」に関する話はこれで五回目になる.前回までは序論や幻覚について、著者の論考を追いかけたつもりだ.これからは思考障害に立ち入る.立ち入るにはかなり難しい領域で、しかもブログとなればなかなか表現が難しい.安永自身は、自分の仮説であれば、これも説明可能だと述べている.が、その説明の前に大幅な注釈がついている.そう、フォン・ドマルスの原理(von Domarus’s Principle)である.こちらの方が考察としては興味深いかもしれない.聞いたことがある人はいるだろうか.きっといないだろう.私も知らなかった.興味深いといった理由とはそういうことである.「たぶん誰も知らない」.

 原理というのは事象が成立するための根本となる仕組みのことだ.そして、この原理は精神医学のものだそうだ.つまり、精神現象の根本の根拠だということになる.マジか.

 Eilhard von Domarusという人物はドイツの精神科医である.だがその原理以上のことが一般によく知られていない.どうやら1925年に発表した論文によれば、その原理は多くの統合失調症の患者から帰納的に導き出したものであるとされる.さて、どのような原理か、と言われれば次のようになる.

 統合失調症の患者は『述語が同一であるとその主語を同一視するようになる』という原則に従って行動する.(XがZである、YはZである、故にXはYである)

 読者の中には「へぇ〜、そうなんだ」派と、「ほんとぉ?」派がいると思う.その感覚は間違っていない筈で、信憑するにはいささかアヤシイ.精神医学のメインストリームにはない概念である.(メインストリームでは無いが、重要な黒子である)

 これはこれで興味深い思考様式である.もし上記のX、Y、Zが代数であれば、数学的には成立するのである.以下のようになる.

$$X=Z, Y=Z$$ $$∴X=Y$$

 では、つぎのような文章はどうだろうか.

甲「私は処女です.聖母マリアは処女です.だから私は聖母マリアです」

乙「太陽は一つです.私は一人っ子です.だから私は太陽です」

(そうはならんやろ)

上記二つは実際の症例の言辞である.甲は海外の症例で乙は日本の症例だという.海を超えて奇妙な一致があるのは不思議である.()内は私の心の声だ.

何かがおかしい.どちらともおかしいのはわかるが、何がおかしいのか.数学的な方法であれば成立した関係が、言語ではそうはいかなくなる.なぜおかしいのか皆さんは説明できるだろうか.まずは私なりの見解を説明してみよう.

 前述のXYZは数学的な特性が前提にある.代数と言ったのはそのためだ.だから同じ属性として不等号が成立しうる.だが言語になると、「わたし」「聖母マリア」「太陽」は皆、主部である.「太陽」「処女」「一人っ子」は述部である.単語に課せられた言語的性質がすでに違うため、独立した主・述を等式でしめすことが文章として破綻してしまうのだろう.そしてなにより私たちは単語が属する性質を自明なものとして理解している.

 安永は「パターン」を用いて説明可能とする.ちなみに上記の二例のような述語の同一性を前提にしている論法を述語論法というらしい.人がある「概念」的把握、ある「判断」作用を行う瞬間、それがあっているかどうかはともかく、その体験には厳たる統一、「全体」の感覚があり、その差別相、「部分」はこれに従属するのみだ、ということが自明になっていなければならない.「概念」や「判断」は全体的把握があるからこそ、「概念」、「判断」である.しかしその概念の明確な限界づけ、判断の分化構造は通常必ずしも完璧ではない.つまり前述のパターンで言えば、Aに対してBが弱すぎる.甘すぎる関係にあるという.だから「概念」、「判断」理解には曖昧さと不正確さがでる.なるほど.たしかに我々は事象の理解、把握をできるだけ正確につとめようとするが、完璧さは日常の絶対条件では無い.スーパーマーケットでうっかり買い物袋を忘れたときにレジ袋を何枚頼むかは、買った品物のすべての体積を理解する必要は決してなく、大雑把な見通しを立てられるかで決まる.

 ある正確な、それ以上説明の余地のない境界と分化をそなえた「概念」、「判断」はAとBが一応限界的な平衡状態にあるという.この場合は、a=bである.その前はa>bであることはわかるだろう.私見になるが全体と部分が非常に近接する状態というのは、HSPとよばれる人たちの先天的特性を表しうるのではないか、つまり、彼らの

「Depth」深く考える

「Overstimulation」過剰に刺激を受けやすい

「Empathy & Emotional」共感力が高く、感情豊か

「Subtlety」わずかな刺激を察知

という特性は部分が全体に迫っているようなAとBが接近している状態であれば説明的であると思うのだ.

 さて、なぜ上記の甲乙の文章がおかしいと我々が感じるのか.言語学的な立場からの考えがあればぜひコメントを頂戴したいが、健常な人が一つの命題を作る時、述部というものは、主部がこの命題をつくる前に持っていたところの「概念」を、何らかの意味でより細かく、より具体的に規定、制約、分化せしめるために要求され、用いられるからだ、と安永はいう.その結果もとの主語概念が損なわれるだけでは無い.棄却されるわけでもない.「よりよく分化された全体」になっただけだ.例えば、

 わかいほは みやこのたつみ しかぞすむ よをうちやまと ひとはいふなり

 (我が庵は 都の巽 しかぞ住む 世を宇治山と 人は言うなり)

喜撰法師

の「わかいほは」から「みやこのたつみ」へと分化されるが、自分の家が京都の東南(巽であり宇治)にあって穏やかな場所(巽)だ、という全体を為している.お上手.

 ではa<bとなった場合、どのような状態になるか.この場合、全体が部分のために要求されてしまう.全体が部分に従属するという異常事態だ.我々は追体験することが出来ないが、「部分」が自明な出発点となる.このために無作為な任意の「全体」が「部分」から誘導される.だが「全体」のようにみえるものは「全体」の意味をもたない仮現の従属的全体であり、むしろ形骸的な結合である.死んだものが生き返って動き出すゾンビである(ゾンビも生と死が逆転した関係といえそうだ.死が生に超克した存在がゾンビであるからだ.だが安永式論考で言えば、これも形骸的結合であろう.つまり私に言わせれば結局ゾンビもその結合であり、「生きている」ようにみえるものは「生きている」意味をもたない仮現の従属的全体である).

 このような異常な判断体験においては、「パターン」の「量的」側面が支配し「質的」面は付随するのみだ.もう少し例を出そう.「メーガン」という女性がなぜかゾンビになったとする.生気がなくなるが肉を求めて生き物に食らいつく.異常な代謝で身体は腐り果て、みるも無残なゾンビになってしまえば、彼女はもはや「メーガン」では無い.「メーガンだったゾンビ」になるだけで、「メーガン」の主体性は失われ、ゾンビという「死>生」の存在の一つになりさがる.(*メーガンに恨みはない)

 このような判断を異常、と記しているが、このようなものはどうやら迷信における命題に多いらしい.例えば、「衣服を左前に着ない」のは日本人なら当たり前だのクラッカーであるが、これも述語論法だ.「死者は左前に衣服を着る」命題に対して、「私が左前に衣服を着る」と、「私=死者」となってしまうから、みんな温泉旅館では右前に浴衣を着るのである.よって異常というのは安永の言葉だが、決してそうも限らない.

 先の「私は聖母マリアです」「私は太陽です」という命題において正常な「全体」は崩壊している可能性がある.安永に言わせればまとまった命題というよりは数式のような並列のようなものである.数というのは極限までに「質」を取り払って、物事の「量」のみをとらえた抽象のことであるから、「太陽が一つ」「私が一つ」という次元で等式は成り立つ.しかし私達は日常で、質をおろそかにすることはないだろう.

 別の症例の対話を出そう.これはDomarusと同時期の精神科医、Silvano Arietiにより報告されたものだ.症例は高等学校相当の学歴である.

問「『書物』とはなんですか」

答「それはどんな書物をあなたが言っているかによります」

問「『テーブル』とは」

答「どんな種類のテーブルですか?木製ですか、磁器、外科用テーブル、それともあなたが食事したいと思っているテーブルのことですか?」

問「人生(Life)とは」

答「私はどんなLifeをさしているのか―雑誌の『LIFE』か、それとも他人を明朗にさせる恋人をさしているのかを知る必要があります」

 採用面接であれば(うわぁ、大変なの来ちゃったよぉ)となるような悲劇だが、精神科臨床ではよくある問答である.非常に奇妙な答えだと思うだろう.基本的には質問の回答として「書物とは、紙片に記された文字、文章をまとめたものです」、「テーブルとはものを乗せるための台です」「人生とは人の生涯です」といったものがあると思う.つまり、共通性抽象を問ういている.その語が何を意味しているか、何を内包しているかを問ういているのだ.だから木製だとか、外科用だとかはどうでもいいのに、症例は部分ばかり気にしてしまっている.これが奇妙さたる所以である.パターンの逆転によって、「非共通」「差別」「量」「具体」といったものが自明に先行する.よって内包するものは二次的な意味しかもたなくなる.安永はこの思考形式は認知症では出現しえないという.統合失調症の患者において言葉が

「それがそういう意味であるから」ではなくて、

「それがそういう意味でなくてはならないから

使われるのだ、といえばより強制力がわかりやすくなるだろう.断言的、妙な言い回しが多く、「…のようだ」「…のように思われる」という比喩や比較表現が苦手だ.ここで安永の注釈について言及しておこう.

 私達は何か感動し、感極まることがあれば、これを他の人にもわかるように伝えたい、と思うことがある.「ブログ」はまさにそういう手段であろう.だが、そうした衝動があるとはいえ、実践が難しいことはよく知っていると思う.感情や漠然とした把握の予感はここでいうa>bであり、本来言葉ではいいえないものがあることを知っている.”「記憶/物語」を読んで”でも深く言及してきた.言葉を無理につかっても表現しても何か表現しえないものが残る、という感じがあるに違いない.表現し得ないけれども、そこにあるのだ、という充実、満足の体験は必ず存在する.私達はインターネットの世界でも「小並感」や(語彙力)という卑下した表現で感興の非分有性を明示することがある.「それはそうだけど、どうしても最後まで表現したい!(あの名工の味を再現したい!)」ということはあまり考えないはずである.なぜなら「言い表せなくてもあるのだ」という実感は何かしら自己完結的なものがあるからだ.

 しかし思考障害が生じている統合失調症の例ではそうしたことの逆転が生じる.表現は被強制的に起こる(しなければならない).形式的命題がでっち上げられるだけで、人間的体験の深み、情感の余韻がないであろう、というのが安永の論である.

 もちろん、これは仮説の域を出ない.統合失調症の病勢が弱まっているとする現代では、こうした派手な症例はほとんど目にすることはないからイメージしづらいかもしれない.「私の知っている人はこうではない」という意見もあるだろう.それはそれで結構だと思う.これですべてが説明できると思っているほど私もぼんくらでは無い.統合失調症ヘテロジニアスな疾患群であることは現代では自明である.とは言っても安永のロジックは見事だと思う.読者の方には、世の中こういうことを考えている人もいるんだな、程度に思ってもらって良いのだが、これは決して衒学的まやかしではなくて、真に病理を理解したいがための血のにじむような思弁の結果であることは述べておかねばならない.

ここまで読んでくださりありがとうございました!

 リンクを多数貼ってありますので、気になったら他の記事も読んでくださいね.こういう議論がお好きな方は西田幾多郎がおすすめです.

 

ファントム空間への誘い

適用と応用の可能性

 前回、安永浩の仮説である統合失調症理論の序論を説明した.その中でも彼の理論の骨子である「パターン」は英国の幻の哲学者、ウォーコップの考えに大いに影響を受けている.

 我々の生きる世界には「全体」と「部分」、「自分」と「他者」といった対になる概念が存在する.彼に言わせれば実存的二元論ともいうようだが、それはともかく前項をA、後者をBとすればABの関係は次のようになるだろうと述べた.

一つの方向(BのAへの関係)においては「論理的必然性」の関係である.

他の方向(AのBへの関係)においては「条件的偶然性」の関係である.

 AからBへの方向は自明、「どうかんがえてもそうなるでしょ」という関係、論理的必然性だ.

 全体が部分を支配する、という文章は整合性を保つし、実際にそのとおりである.自分があるから他人がいる.これも整合性を保つ.逆の、他人がいるから自分がいる、という文は奇妙だし、そうとはかぎらないだろう.「他人がいるからなんだというのだ」ということになる.「ある条件を満たすと、そのようになってしまう」のが条件的偶然性である.この他、「生」「死」、「質」「量」といったカテゴリーも同様だ.

 この論理関係にあるA、Bという概念対の対立構造を、またさらにそれを生み出す基盤となり、それによって記述されうるような体験の構造を、一般に「パターン」と呼ぶ.

 小高い山を考えてみる.Aの山とそれより低いB山がある.AからBへと川が流れている.と、いえば予想がつくだろう.水流は重力によって従うからだ.これは一つの秩序である.一方向的でもある.我々の感じる論理の自明さは重力の働きに似ている.A>Bが常に成り立つのが我々の世界だ.

 しかしながらなぜかBからAへ水が流れる事態が、統合失調症の病理だと安永は述べるのである.つまりはB>Aである.そして安永は、A、Bは連続変数的な挙動をするという.これを代数に置き換えて、a, bとすればa→0、 b→0ということもありうるという.これは混迷や解離、器質的な疾患による意識障害といえるだろう.ちなみに0になった場合は死んでしまうことと同義だ.ではA=Bはあるのか、と言われれば理屈としてあり得るが(部分の総和が全体ということはある)、これは生命体として非常に緊張を孕んだ危ない状態を示す.自明な論理関係が今にも逆転しそうだからである.だからA>Bでなければならない.

 Aが強いとは主体的体験の切実さ(快にせよ苦にせよ)を、Bが強いとはその「パターン」の分化度の高さ、精密さを、ほぼ意味するであろう.

とも述べている.

 おそらく、これは私の考えであるが、HSP(Hyper Sensitive Person/People)と呼ばれる人々は先天的・後天的によらず、aとbの値が近いのではないだろうか.

 a, bの変動の起る契機について安永は説明を試みているが、私見ではHSPたる敏感さは後者のほうだろう.以下の通りである.

一、abに対する相対的余剰が動因となって変化が起こる場合.

 これは俗にいう、生命的エネルギーに溢れた余りの行動形式がこれにあたる.この際主体はただエネルギー消費のためにのみ、その相手としてB面が求められる.その行動の結果、aが減少しbが増大して、一種の平衡に達して動きが止む.「そうしたいからした」という理解.

二、逆にbの増大傾向のために、(aの余剰が不足を告げ)これが動因となって変化が起る場合.

 この場合は危急に迫られたためのやむを得ない回避行動である.人は健康に生きている限りa≥bであらねばならぬからこのようなB側の強要によってこの釣り合いが破れることは絶対に阻止せねばならない.それはaを増やすか、bを減らすかである.「不安」とは一般にこの補償能力が危殆に瀕したことの信号である.その最後のエネルギー動因過程でもある.「不安」を持ちうる間は均衡はまだまったく破れてはいない.これは「死・回避行動」であり、不快である.「したくてするのではない」という理解.この際、我々は予感される将来の大きな苦痛を、現在の小さなbの段階で回避しようとする.この予感の究極は「死」である.この予感の能力が大きいほど、事態はより小さなbの段階で回避され、「死」からの遠い「合間=時間」を作る.

さて、HSPの話を少ししたが、以下のような特徴があるようだ.出典はこちらである.(当事務所はいかなるサイトとの利益相反はない)

「Depth」深く考える

「Overstimulation」過剰に刺激を受けやすい

「Empathy & Emotional」共感力が高く、感情豊か

「Subtlety」わずかな刺激を察知

 こうした特徴は、前述の「そうしたいからした」、「したくてするのではない」という観念の持ちようによって肯定的にも否定的にも取れるのだろう.この特徴を深堀りするのは、ファントム空間論の詳細に踏み込んだ時にするので、まずは簡単な理解でよい.HSP(Hyper Sensitive Person/People)と呼ばれる人々は先天的・後天的によらず、aとbの値が近いのではないだろうか、という考えは私の仮説として、捉えていただいて、今後の安永の論考に期待したいと思う.

 さて、安永はこれまでの説明をもとに、統合失調症理解の応用を行おうとする.彼によれば、真に「統合失調症」なる本質は(正常およびその他の病的事態には決して怒らぬところの次のこと、すなわち)、

 体験の「パターン」において、A、Bの秩序が逆転すること(a<b)、によってほぼ正確、統一的に表しうる、と考える

 と安永はいう.具体的には前回の議論ですべてABを入れ替えれば、新しい体験事態の構造が得られるというのである.この理解は、ユークリッド幾何の公理に対して非ユークリッド幾何の公理が果たす役割に似ているという.よくわかんねぇなこれ、というZ世代の方には「ポケットモンスターダイヤモンド・パール(プラチナ)」におけるギラティナの棲む「やぶれたせかい」である.もっとわかんねぇなこれ…… 同じくゲーム、「サイレント・ヒル」における異世界でもあるか.「SIREN」の屍人や闇人の棲む世界観でも良い(よくない).なにがいいたいのかというと通常の体験様式が通用しない世界ということだ.

幻覚の問題

 統合失調症における主要な症状を順番に扱ってゆく.とはいっても順番は関係ない.まずは幻覚について扱う.幻覚はどのような状態か、という点について安永は「知覚」あるいは「表象」と共通するものを持つところの一特殊事態、という.なんだそれは?

 まずは正常例のパターンを考える.Aは「みる」主体、Bは「みられる」対象である.Aは体験として「私の」知覚・表象であり、Bは「なにかの」知覚・表象である.「表象」、俗っぽくいえば「イメージする」体験の特性は、Aの支配的な性質によりすべて誘導される、と述べる.

 逆に「知覚」の特徴はBが場面の力動を支配している.それは刺激として外界から流入するものである.それは表象のように主体的緊張に依存しない.しかし絶えず、主体の予期しなかった新奇な面を供給するという.とはいっても、主体にとっては主体の予期したもの以外は見えない.新奇性の発見はない.Aの力動はどちらかといえば、見えているから見ている、といったやむを得ず動因された因子である.しかしながらこの関係は決してA、Bの関係を破るものではない.

 さて、統合失調症における幻覚は、ある種のパターンを持つのでは、と考えてよさそうである.つまりはa<b である.まずは特徴を確認しておこう.

一、それは全く意識清明と思われる状態において現れる.

二、患者は病識をもたない.

三、その「事実」性が異常に強烈である.

四、にもかかわらず、いわゆる感覚性はうすいようで、内容は一般に断片的で、意味はわかるがはっきり細部まで再生は困難である.

五、多くは自己に向けられた呼びかけとしてきかれる.

六、「直接頭に聞こえる」「腹にきこえる」など常人に想像のつかない奇妙な説明、定位がなされる、等々.

 一、二について、これは臨床家なら納得の症候である.失神や脳血管疾患の意識障碍は病識を持つ.「急にバットで頭をなぐられたような頭痛がしてそのあと…」「あれ、私いままでどうしたんでしょうか」もし、本当に一過性の意識障碍であれば、上記のような病識を持つはずなのだ.よって広義の意識の問題は生じていない.

 症例の声に耳を澄ますと、その「声」は圧倒的に外部の声である.とても図々しい.声が図々しいのではなく、その起こり方が図々しいのである.荻窪のラーメン店の行列で並んでいたら横入りしてくる図々しさである.体験を自分の体験、として支配する力はなく、その蹂躙にまかせるのみである.まさに圧倒的支配.

 となるともはや正常のパターンが通用しなさそうだ.a≥bが通用しないのである.a<bとなっている方が説明的である.ただし、我々がこの事態をそのままに「追体験」することはできない.我々はa≥bだからである.対称性が主体性に先行する、という異常事態が起る.まじで.この事態を体験している人はBから理解すれば、Aもわかる筈だ!というに違いにないと安永はいう.

 自分がいて、他人がいるとわかる.という論理から他人がいて、自分がいるとわかる、といったトンチキな理解になってしまう.ソビエト式倒置法以上のカオスである.(ソビエトでは人がテレビを見るのではない!テレビが人を見るのだ!)

 幻覚では、Bがすべての前提であり、支配者である.これは外的な実在ともいえる.これがあたかも普通の知覚体験であるかのように「声をきいた」と意味づけるしか方法がないのだ.これは彼らなりの応急手段である.

 確かにこれまでの安永の論考を見れば、統合失調症の定義がa<bであることがわかり、生理的幻覚や夢幻状態はa=bであり、bがaを超えることはない.意識障碍では0へと変数が縮小してゆくと考える.

 さらになぜ統合失調症においては幻視よりも幻聴が目立つのか、という問いにも一応の解釈を示している.おそらく幻聴は「言語的」機能問題であること.そしてそれが完全に機能するには、「パターン」の分極がかなり強いという生理学的・生物学的特性をもつこと.さらに統合失調症の発病の侵襲によって逆転しやすい破綻性をもつ、ということが想定される.一方、視覚的情報を用いる直観的思考はそれほど「パターン」分極がつよくないらしい.よってa, bが小さくなっても幻視は生じるし.統合失調症の発病においてもこの機構が逆転することはあまりなく、安定しているのであろうという.なかなかに見事なロジックである.ただし、幻視がないのではない.錯覚というよりも強制力を持った現象が生じる.「一つの”顔”が頭につく……」それも無機的で蒼古的な変容を帯びる.これはa<bの萌芽なのだろうと安永はいう.そして徐々に奇怪な幻視の訴えに発展する.

 解離性障碍における離人感についても安永は言及しているが、この辺の考察は結構難しいのでまた理解がおいついた時にでもご説明しようと思う.

ここまで読んでくださりありがとうございます!

 

 

ファントム空間論に到る前に

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了解について

 本編の前にこちらからご覧いただくとよいかもしれません.その続きはこちらにあります.

  分裂病(統合失調症)の基本障碍とはなにか.という問いかけから著者、安永浩の論考は始まる.だから統合失調症を避けずしてファントム空間論を語ることは出来ないのだが、なるべくこの辺りの論理をしっかり抑えつつも適度に流していこうと思う.

 K. Schneiderは統合失調症には一級症状として6-8つの用法があることを指摘した(考想化声、思考奪取、作為体験、対話性幻聴、考想吹入、考想伝播、妄想知覚など).

 こうした症状から他の症状を導き出すことを理想としているのだが、「導き出す」とはどういうことか、という問いかけが残っており、さらなる追求が必要であると述べた.この問題に対する考え方はW. Dilthey, E. Husserlらがもたらした方法的反省の立場が有用だとして、これらをK. Jaspersが精神病理学に導入した.ここで「了解」「説明」という方法の体系が組織付けられた.

 「説明」的な方法論では、無限に仮説的中項を設けることになってしまい、心理現象を本質的に検証することができないという.基本障碍は「説明」的になってはならないと安永はいう.なんのこっちゃ.続けてみよう.

 一方、「記述的分析的」ないし「了解的」な心理現象の理解は「心的連関の直接所与の上に安らって」いる為、前者のような矛盾をもたない、という.どゆこと?心的所与の「全体」から出発して「部分」が分解されていくのであってその逆ではない.「基本障碍」とはこの場合その「全体」をつかむことになるが、それはここの事実の認識を契機とし、土台とはしても、それから構成されるのではなく、そのつど、一次的に把握されるのである.こうした「全体」から「部分」を導き出すことは正当な権利を似て言われ得る、とする.

 そうすると、この立場は「了解不能」という壁に突き当たる.Jaspersによれば、「了解」が限界に行き当たる時は因果的「説明」に到るものとされる.しかしもし「説明」が上記の限界を免れぬとすれば、これは統合失調症の心理学的理解の終末を意味し、統合失調症の症状は、ただの忠実な外面的記載と平面的羅列にとどまってしまうのだろうか.となると、「基本」的な追求も無駄になってしまう.

 これは序文に過ぎないのだが、最初から難解である.私からなんとか大意を抜き出そうとしてみれば、次のようになる.

 ある架空の症例が、「頭のなかで自分と誰かが大声で喧嘩をしている」と述べたとする.K. Schneiderの一級症状の考え方をすると、これはVoices heard arguing、すなわち対話性幻聴である.では対話性幻聴から他の症状を「導く」とはどういうことか、これがよくわからない.そこで、現象学的な考え方を使ってみることになる、K. Jaspersがまとめた方法には、「了解」「説明」という二つの考え方が用いられた.

 了解というのは精神現象を把握する方法である.「悔しくて怒る」というのは「悔しい」という精神現象と「怒っている」という精神現象の連続である.これらは感情移入的、共感的なものとして了解できる、という.(インターネット用語でいえば『わかりみが深い』かな?)「悔しい」と「怒っている」はそれぞれ関連がある.それゆえに怒っている人を見て、「悔しがっているんだろうな」、だとか悔しがっている人を見て「怒ってるのかな」と思うのは自然だ、ということだ.「心的連関の直接所与の上に安らっている」というのはそういうことである.だがこれらは因果律とは似ていて、異なるもので、「悲しいから泣く」という現象は連関と因果律を思わせるが、「嬉し泣き」も存在する.「嬉しい」と「泣く」という意味の連関はその人をとりまく状況や本人の発言との関連においてその都度了解できるのだ.

 しかし、ゲラゲラ笑っている人を見て、「この人、さぞかし悔しいんだろうなぁ」とは思わない.フヒヒヒヒと笑っている人に「なぜ笑っているの?」と尋ねて「悔しいからに決まってるでしょ!フヒヒヒヒ」と言われたら、「エッ???」となるはずだ.

これが了解不能という現象で、ある精神現象と関係のない精神現象が生じた場合は、「これもうわかんねぇな」という状態に陥る.

 こうなった場合、私たちは、その背後に病的な身体的過程(精神病)を想定し因果的な説明を求めることにした.したというか、そうせざるを得ない.「なにか病気だからこうなっちゃったのかな」という推理が働く.通常の意味連関が共有されず、精神現象とのつながりに異質さを生じさせるのが、了解不能である.

 説明というのは、病的な身体過程を想定するのではなく、心理現象として、「この人は過去にこういう体験があったからそれがきっかけで、ゲラゲラ笑っているのだろう」という仮説を挟んでいくものである.つまり、可能性は無限大になる.あらゆる可能性が考えられてしまう.

「ゲラゲラ笑っているのに悔しがっているというのは、実は心理学的には否認の状態で、実際、彼の心的状態はどちらかというと悲哀の反応に近く……」

 なんてごちゃごちゃしてくると、もはや取り付く島もない.無限に仮説的中項を設けることで本質上検証ができない、というのはそういうことである.

 だが、了解不能なものに対しては説明を試みるしか無いのである.Jaspersは、わからないもの<了解不能>は、因果的説明にいきつく、という.ところでもし、「説明」がさきほどの統合失調症心理の探求限界に行き当たらない、なんてことがあったとすると、もはや統合失調症を理解することはできなくなってしまうのでは?という恐れが生じかねないと安永は言う.それは「了解」に関する誤解であるとし、以下重要なことを述べる.

 心理現象界の作用形式を掴み、秩序付ける認識は体験から直接導き出されてゆく方向になされるべきで、(そうすれば「説明」的認識の意義もその中で正当に-「了解」を限定規制するものとして-位置づけられてくるが)

もしこの順序を逆にすると(「説明」だけから出発すると「了解」は永久に現れてこないから)背理となる.

 以下、吾郎なりの理解を以下に記してみる.

 こころの世界がどのように私達に働いているかを理解し、その世界の法則がどのようなものかを感じるということは、実際に経験したことから直にわかっていく(了解→説明)流れが大事である.(そうすれば、「説明」することで理解できる、という立場もまっとうに「了解」の立場を自然と決めることとして位置づけられるから)もしこの順番が逆になると、「悲しいから泣いている」という現象を理解するときに、説明が先行してしまうと、無限の注釈がつくことになってしまう.つまりいつまでたっても「了解」が出てこなくなってしまう(畢竟おかしい話になる)から、逆説的に正しいのだ.

 ここで要点をまとめておきたい.

 精神現象は「了解」していくことで、こころの世界の働きを知ることができるが、もし「了解不能」となった場合は、因果律に基づいて「説明」することが必要となる.そういうわけで「了解」→「説明」という流れが大筋となるがその逆は決してありえない.

 K. Schneiderの提示した一級症状というのは、「思考奪取」「考想化声」「作為体験」などである.これらは教科書的にも統合失調症の症候として現代もよく掲載されている.だが、これらがあるからといって、決して統合失調症とは限らないのである.脳腫瘍によってもこのような状態は起きるし、ステロイド多量服用でもそうなる.エリテマトーデスでもそうなるのだ.これが一次的な症状、根幹の症状として他のすべての症候を網羅できるかと言うと、大きな誤りだ、ということを安永は言いたいのである.これはファントム空間論への布石である.彼はもっと大きな「基本障碍」があるのではないかと考えるのである.E. MinkowskiやH. Bergson, L. Binswanger, E. Straus, J. Zutt, K. Goldstein, K. Conrad, 西丸四方らの考えを紹介してゆく.だが、どれも基本障碍を説明するものとしては、扱いが難しかったり、安易な説明的概念になってしまうとした.もし、「基本障碍」があるとすれば、それは相当抽象度が高い次元のものだろうと、彼は想定している.そこで彼は以下の考え方を紹介する.

パターンとは

 彼は「パターン」と呼ぶ概念を提唱する.暫定的訳語に「実存的二元構造」と注を付けているが、この際「パターン」で良い.

「パターン」とはなにか.彼は英国の哲学者、O. S. Wauchope(ウォーコップ)の考え方に示唆を受けているという.私は全く知らないし、哲学史で輝く人物では無い.生年没年も不詳、著作は唯一”Deviation into Sense – The Nature of Explanation”のみであり、英文学者である深瀬基寛(1895-1966)がいなければ、我が国には知られることがなかったであろう、「幻のポケモン」のような人物である.

 私達は、「自」「他」、「質」「量」、「全体」「部分」、「統一」「差別」といったカテゴリーの一対を知っている.これらは基本的に論理学的定着された形式的概念として使われることがほとんどであるが、安永はもう少し突っ込んで考えている.

 これらは皆違ったものではあるが、各々の対の内部構造においてなにか特異なものを共通にもつように思わないだろうか、と読者に問いかける.これらにはなにかある相互連帯的関係が感じられないだろうか、と.どうしたんだ安永くん、急に.

 彼はこうした特異性を以下のように抽出する.「自」「他」の前者をA、後者をBとする.他の三対も同様である.すると、次のような形でAとBは一般化できるという.

一、 A, Bは各々の見地において完全な分極をなし、第三のものCが介在する余地はない.また一方を欠いては成立しない.

二、 体験にAという面の存在すること、それを理解しうることの根拠は、もはや他に求めることは出来ない.それは人が体験自体から出発すれば直接「わかる」というほかない.自らが議論の出発点になりうるのみである(この意味で公理的、明証的である).

三、 上の前提さえあればBは「Aでない方の面」といえばこれに対立し、衝突してくるものとして必ず体験にあらわれてくるゆえ、導かれ、理解されうる.

四、 その逆は成立しない(!)すなわちBを公理として出発することはできないし、また「Bでない方」といったのでは、Aの本質を理解するわけにはいかない.

 この第四項は特に重要であるとする.それはこれらの対が、単純に相対的な、可換的に平等な対立とは言い得ないことを意味している.そしてこのことの承認こそが、この論文で主張する方法論の背骨となる.

 私達が生きている限り、「自」という意味がどんなものかなんとなく知っている.「意識的に」では無いが、「体験的に」知っている.自分のことは自分なのだから直接「わかる」だろう、そうしてわかる以外にない、という理屈だ.だが、「自」でないものが必ず存在する.「他」である.「自」があるからこそ、「自」でないものを「他」ということができるから、命題一、二は理解できるだろう.

 「自」があるからこそ、「他」が理解できる.この流れがすごく大切である.この順序が逆転すると、おかしくなる.私達は「純粋な他」というものを想起できない.「他」を考えれば考えるほど、気が遠くなり「体験の彼岸へ遠ざかるため」理解できない.これは、R. Descartesの「我思う故に我あり」と同じように、どこまでも疑いに疑い抜いた挙げ句、自分だけは疑いようがない、ということと結局は同じである.

 自分とは、私達の体験にとって「他でもない、という以上のなにか」である.「体験世界は自我・非自我でできている」という命題は「了解」できる.しかし次はどうだろうか.

 「体験世界は他・非他」で出来ている」

非他ってなんだよ?ってことになる.意味不明である.つまりどういうことか.もともとの体験構造に、「自」の支配性、優越性を見るのである.ベクトルで表記すると次のようになるだろうか.

$$\overrightarrow{ 自他 }$$ はあり得るが、$$\overrightarrow{ 他自 }$$ はあり得ない.

別の言い方をすれば、

一つの方向(BのAへの関係)においては「論理的必然性」の関係である.

他の方向(AのBへの関係)においては「条件的偶然性」の関係である.

故に$$\overrightarrow{ AB }$$ は「実存」的な方向である.

 もちろん、「自」「他」だけでなく、「質」「量」、「全体」「部分」、「統一」「差別」といった対も同様に考えることができる.こうしたカテゴリに着目し一般化したのはどうもウォーコップが初めてらしい.

 以上を総括しよう.

 前述のような論理関係にあるA、Bという概念対の対立構造を、またさらにそれを生み出す基盤となり、それによって記述されうるような体験の構造関係を、一般に「パターン」と呼ぶ.

 安永はこの「パターン」の説明に相当な紙面を割いている.詳しく知りたくなった人はぜひ書店へ!と言ってもこの本は書店にはほとんどないだろうし、知りたくなった人もあまりいなさそうだから、本論で追補したいと思う.

 次回、統合失調症への適用について.いつも読んでくださりありがとうございます.

ファントム空間論の応用性についての検討

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まえがき

 前の記事で、私は統合失調症に関して沈黙することにした、と述べた.だが疾患の内容や治療方法にはあまり触れず、別の形でファントム空間を取り上げることはできないか、と私は考えた.以下はその言い訳と、これからの抱負である.

 近年、統合失調症は罹患数が減少しているだとか、病勢が弱まっているという指摘がなされることがある.事実かどうかはともかく、それは実臨床でも感じることは多いかもしれない.最近の傾向は気分障碍、不安障碍発達障碍、認知症、物質使用障碍(アルコール・違法薬物等)なのだろう.だからといって統合失調症の治療がおろそかになってよいわけでは決してないのだが、他に考えなければならぬ疾患群が極めて多様である、ということで良いと思う.

 精神疾患は社会と密接な関わりがあることは多くの指摘がなされている.社会のあり方を無視して疾患の総体を掴むことはできないだろう.流行り廃りがあるといえばやや語弊があるが、発達障碍への関心は年々強まっているし、「自分が発達障碍なのでは」という関心をもって、診察室を訪れる人は多い.

 精神病理学的な考察には、発達障碍圏は自身への志向性に無関心である一方、統合失調症圏は志向性に敏感であるというものもあり、それはなるほど明快な要素ではある.だから自身の志向性に無関心である傾向が多い人々がはたして発達障碍なのかというと、直観ではあまりそんな感じはしないのだが、実際に心理学検査を行うと、有意なDiscrepancyが指摘されることはしばしばである.

 また、先輩の医師が「発達障碍統合失調症かもしれない」という申し送りや紹介をするとき、「一体どういう文脈で言っているんだ」という疑問を持たざるを得ないことは頻回であった.どうも専門の中でも考えの混在あるいは、区別のついていない医師がいるようである.教科書的な区分が通用しない症例がいるのは重々理解しているが、基本的な症候がわかっているのかどうかアヤシイ先生がいるのは嘆かわしいことだ.

 キーワードとなるのは何らかの「敏感な状態」であるのかもしれない.体系だった幻覚妄想状態はあまりないが、発達障碍圏でも幻覚妄想状態が示唆されることはあるし、いわんや統合失調症をや、である.外界とのつながりが突如断絶し、周囲の世界が大きく変容した感覚を得るようだ.こうした感覚妄想気分、妄想知覚として説明される.

 とある若い人が目をギラギラさせて、

「アマテラスオオミカミが勅命をくだした声がわたしだけに聞こえるような特定の音声周波数を通して聞こえたのだ!わたしはヨモツヒラサカからイザナミノミコトを帰還させてニニギノミコトとして国産みをすすめるのだ!」

 とかなんとか言っているのは、一次妄想から発展してある種体系だった妄想である(上記は私がつくったデタラメだが).

 一方で、真面目な会社員が次のように言ったとする.「仕事に行くとどうも会社の職員がヒソヒソ話をしている.よく聞こえないので話の内容はわからないが、おそらく私のことに決まっている.私の会社でのミスを知っていて、皆が私を嘲笑し、非難しているだ」というものは、状況によっては、理解できる愁訴である.こうしたものは二次性妄想として、妄想知覚と区別される.

 現象学的な知識を動員してみると、前者は突発的な意味不明な内容について確信している可能性を考える.本来、絶対的所与性である「内在」に深刻な機能不全・機能失調が起きている恐れがある.道端に咲く花をみて、「あれはうんこです」という人はなにかの酷い冗談か深刻な確信形成の病理を抱えていると思う.

 後者の方はある程度合点がいく内容である.周りが話をしているのを見て、「自分の話をしている」という理解が正しいかはどうかとして、「話をしている」という知覚は妥当のように思う.だが、それが自己を巻き込んだものかどうかは、状況によりけりだが、かなり疑わしい.これも「内在」に部分的失調があるのだろう.やはり確信形成に問題があるものとして妄想は存在する.

 最近は、テレビのワイドショー、一般人のインタビューなどで個人が自分の空想を語ることを「妄想する」と言うことを耳にする.

「もし宝くじがあたったら一生働かないですむ妄想しちゃいますよね~」

 これは妄想の使い方として正しくない.妄想は空想ではない.妄想は簡単にいえば、「訂正不可能な確信水準の言辞」である.とはいっても、こんなことを真面目に指摘して論破したつもりになるのは非常に痛痛しい人になってしまうのはよくわかっているので人前ではこうしたことは言わないが、私はそう思っている.

 だが、妄想という言葉が誤って広まり、妄想の語義が弱まったと考えると、妄想が世間に親和的になったのかもしれない.妄想の民主化といったらよいのか.前に私は、精神疾患は社会の動きと密接だと述べた.こうした言葉の捉え方の変化が一つの病勢の弱まりに関係しているのではないかとこっそり思っている.決してこの考えを確信しているわけでないことはご理解いただきたい.

 さて、私は社会のもう一つの趨勢として「敏感さ」があるのではないかと思っている.勿論、統合失調症には特有の敏感さがあるのだが、私の言いたいのは疾患とは言えないまでも、「繊細さん」や「Hyper Sensitive Person/People」と呼ばれる人々のことである.どちらかというと、先に挙げた例の後者である.こうした悩みを抱えている方は大変多いのではないか.何しろ書店にいけばこうした「HSP」関連の書籍がとても多い.インターネットの特集やコラムでも「HSP」に関する記事を目にすることもある.

 私も割と、「Sensitive」(敏感)な人種だ.HSPの定義は今後の記事に譲るが、私はこうした「繊細な人」がとても困っているのではないか、生きづらさを感じているのではないか、と常々思っている.

 私はとてもとても膨大な理論を提唱する知恵もなければ経験もないので、大それたことはできないのだが、かつての統合失調症の論理的精神病理であるファントム空間論がその理解の助けになるのではないかと考えた.一体お前は何を言っているんだ.これは統合失調症の病理じゃないか、という批判はあるだろう.それは別に良い.そんなことは知っている.だが、ファントム空間論は、人が取りうる心的距離のことを広くいう仮説である.心的距離、心の間合いとでも言おうか.心の距離感の学問仮説といえば、統合失調症に限らずとも学問的理解を経て、他の心的問題に関する理解に応用できるのではないか.

 少し学問から離れた話をしてみよう.

 「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメ・映画を観た私は、エヴァンゲリオン初号機と第四の使徒「サキエル」が死闘を繰り広げるのを観て、「これは心と心の距離感の比喩ではないのかな」と素人ながら感じたものである.特に初号機が使徒の「A.T. フィールド」(絶対不可侵領域・絶対恐怖領域)を破って攻撃する描写は十代の青少年に対する暴力的な心の侵入をよく描写したもののように思った.A. T. フィールドの展開範囲や強度は、ファントム空間論の理解の助けになりそうである(と思ったのだ).

 よってこうしたアニメ作品も積極的に援用して自分の考えを述べてみたい.エヴァンゲリオンに興味のある方は勿論、自分が「HSP」ではないかと思う方、様々な「敏感さ」に思いをはせている方にとって、少しでも安らぎの場となればと思い、私は前回の記事を一部撤回し、ファントム空間論の応用的解釈を目指すこととする.

 ここまで読んでくださりありがとうございます.今後も興味をもってくだされば幸いです.これは長期連載の予感……!?