もう一年

green and white mountains near lake under white clouds and blue sky
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 分け入っても分け入っても

 このブログを開設してもうすぐ一年になる.読んでくださっている方、いつもありがとうございます.今後ともご贔屓いただければ幸いである.二年目の目標は特にないので、これまで通り淡々と書いていくことにする.変に気負ってしまうのはだめだ.

 一応、数字で振り返りをすると一年間で7065 PV(ページビュー;記事閲覧数)、 1626人が訪れたらしい.そのうちデスクトップPCユーザーは52.8% モバイルは41.8%、タブレットは5.4%であった(2021年6月2日現在).このサイトの閲覧はデスクトップPCがオススメである.ダークモードで色調を反転させるとなお良いと思う.だらだらしながら鼻をほじったり、背中を掻いたり、眼をこすりながら貧乏ゆすりをして読むとさらに良い.ブログとはそんなもので良い.89%の人が日本からのアクセスで、それ以外は国外からの閲覧であった.物好きにもほどがある.いつもありがとうございます.米領サモアやアゼルバイジャンからのアクセスがあったのは興味深い.上の数値が他のブログと比べてどうなのか、私は全く興味がないのでこれ以上の分析はしない.

 最も多く読まれた記事は「症例アンネ・ラウ」であった.この記事の底となったのはブランケンブルクによる「自明性の喪失」であるが、私にとっても革命的な著作であり、猛烈な感興を得ただけに望外の喜びとなった.実臨床においても、私は統合失調症という疾患群に「自明性と非自明性と弁証法的関係の破綻」という病理を再認識できたのであった.

 私は今までの一度も「あぁ、今回は良い記事が書けたナァ」と感慨に耽ることはなくて、「今度もうまくいかなかったナァ」という気持ちで投稿をする.一つの記事は自分なりに相当下調べをして、何度も何時間も文章を推敲しているはずなのであるが、一つとして「満足する文章」にはなった試しがない.投稿してからまもなく誤字脱字を発見するのは一種のジンクスであり、悲しみである.ともあれ、このブログを読んでいる人がどんな素性の方かさっぱりわからないので、各人がどのような感想を抱いておられるか率直に訊いてみたいところである.私にとって満足いかないものであっても、少なからず誰かを飽きさせないのであれば、筆者冥利に尽きるほかない.

 このようなインターネット記事の書き方については、多くの先達ブロガーの方法論が役に立った.まずブログを書くには「誰の、どんな問題を解決するか」という目標を設定することが重要であるらしい.界隈ではこの人称設定をなぜか「ペルソナ」と呼ぶ.これについてはかなり悩んだのだが、さんざん考えた結果、「私自身の、世界に深く根ざしている精神現象、ひいては精神病理の問題を理解すること」ということに行き着いた.いや、行き着いてしまった.私は、広く遍くすべての(日本語を解する)人々のためになるような記事を目指して書いていたつもりが、やはり、結局は自分自身のために書いていたことに気づいた.これは過去の記事「告白」に詳しい.大乗仏教を目指す僧侶が上座部仏教へ転向するような不思議な現象である.ペルソナは私なのであった.衆生救済はもちろん大切なのだが、一方で自身を研ぎ澄ますことが畢竟大切なのであって、この一種の投影とも言える心理的な動きをきちんと受容しつつ、自身の病理と対峙したいと思う.ユング的に言えば、シャドウとの対決とも言えるのかもしれない.

 ブログの広告収入(Google AdSense)に少し言及する.Googleの規約では収益の金額を詳細に述べてはいけないらしい.「株式会社やおきん」の「うまい棒」で例えることにすると、現時点で一般的な浴槽に「うまい棒」数百本以上が入るくらいになった.これではよくわからない、という方は近所のスーパーマーケットに行って、バラ売りの「うまい棒」の単価を調べていただければ金額の見積もりができるだろう.金銭収入を狙ったブログではないのでこれ以上は触れない.

 話を戻すと、精神病理学の問題とはなんだろうか、という問が次に出てくると思う.これは人によって意見が割れるだろうが、私なりの問題を提示すれば、例えば「不安」とはなんだろうか、だとか、「うつ病」とはなんだろうか、という疑問を深堀りすることにある.別の言い方をすると、より解像度を上げるとか、微分する、ということになるのかもしれない.簡単に言えば、もっとよく考えてみたい、ということになる.別に高尚なことをしているわけではない.私にとって生き延びるためには必要なのである.

「お前さぁ、そういう仕事してるんだったらさぁ、『不安』だとか『うつ』を知らないはずがないだろう」

 と誰か偉い先生からお叱りを受けそうではあるが、種田山頭火の言葉を借りれば、精神病理学は「分け入っても分け入っても青い山」であり、知ろうとすればするほどわからなくなる.これは他の学問の求道者でも同じことが言えるだろう.特に精神病理の山は鬱蒼としている.実に「うつ」というのは説明が難しい.私が実際に体験してしまったにも関わらず、である.哀哉.

 たとえ話を考えてみる.「精神医学」という途方も無い山中の道程に分かれ道があったとしよう.どれを選ぼうかと考えてガイドブックを読むと「メランコリの嚆矢、テレンバッハは左を選んだということになっている」、「力動論のヤンツァーリクは右を選んだらしい」、「笠原・木村分類で知られる木村はまっすぐ行ったとされる」、「精神分析家のラカンによれば、一度下山してからやや左向きに進路を取り、更に右に90度向いてから100メートルまっすぐ歩いていったとかそうでないとか……」 

 とにかく私の知らないような学派・学説がゴニョゴニョ存在し、グネグネ枝分かれしていて、よくわからないことになっている.この難解さをどのように形容すべきか.

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
道は僕のふみしだいて來た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何といふ曲りくねり
迷ひまよつた道だらう

高村光太郎、「美の廃墟」より「道程」、一部抜粋、1914年

 道は自分で切り拓くしか無い.しかし登りきった山からの眺望は格別である.一度でも山に登ったことのある人はわかっていただけると思う.ちなみに高村光太郎の「道程」は102行の詩も見事なのでぜひ全文を読んでいただきたい.

知らないことを知らないと言う

 国内外で知名度の高い人が精神疾患を公表する、という事象があると一定の人々はそれなりに無邪気な好奇心と関心を寄せつつ、彼らの関心領域をより広げようとする.病名を公表する、という行動が当人の自由意志に基づくのであればそれは大変勇敢なことであり、公表に至るまで葛藤と逡巡が交錯し緊張に苛まれる日々が続いたであろうと思う.この選択と決断が当事者の事態好転の契機となることを願っている.

 そのことに関して、妻とも議論をしたのだが二人で懸念していることがある.精神科医や産業医、心療内科を標榜する医師・専門家がメディアの取材に応じ、精神疾患について解説を行う場合だ.その専門家が有名人の罹患しているとされる人の疾患について説明する.特に問題なさそうではあるが、一つの陥穽があるように思う.その解説者が有名人の診察を行った人で無い限り、その人について語ることはできないはずである.あくまでも教科書的な概論しか言えないはずだ.その人がどんなに高名な専門家であろうと、その人は当人の一体何を知っているのだろうか、という疑問が生じる.付言すれば、診療に関わった人であれば、当人の守秘義務が生じるため、どの道語ることはできないはずだ.「この人のうつ病は現代人のうつだと思いますねぇ」という発言は全く根拠がない.ただの感想でしかない.その無関係な人物の無責任な発言が流言飛語となってしまうことがあれば、それは災害級の暴力性を持ちかねない.という私の文章もただの感想なのであるから、自己耽溺に陥る可能性は承知している.「語り得ないものには沈黙せねばならない」、ある人の言葉が胸を打つ.

 特に、精神現象を定量する術を知らぬ我々は、人々の病理を症候の観察と記述でしか表現できないのであるから、人が放つ一つひとつの言葉の重みは計り知れない.その計り知れない重さの重みを慮ることのできない人は、私に言わせれば卑劣漢か無能でしかない.知る由のないことは語るべきではない.まずは自身の器量が許す限り、諮問を求める人に自身の能力を注ぐべきだと考えている.一定の影響力を行使する人間はその力の射程を十分に検討しなければならないと、切に思う.

信頼できる先生はいますか

 私が以前の職場にいた頃、医局のボスが臨床実習へ来た医学生への講義で「ぜひ生涯で信頼できる精神科医と知り合いになってください」と言っていたのを盗み聞きしたことが印象に残っている.つまりは「あなた方学生が将来、内科や外科の医者になるとしても、精神科の問題は避けて通れない.だから気軽に相談できて、適切な助言をくれる精神科医と知己になっておくと良いですよ」ということだ.これを聞いた精神科側の自分としては自然と背筋が伸びるような、自律心を鼓舞されるような感覚で、自分が信頼に資するかどうかは私自身のraison d’êtreに関わっているように思った.勝手に私は極めて重要な責務を感じたのであった.

 この言葉は、のちに私にとって別の意味で重要な課題となった.自身が患者として信頼できる精神科の医者を見つける、ということはすごく難しいことであった.一期一会、という言葉よりもより現代的で俗っぽく言えば、ガチャに近い.傷心の中、重い体を引きずってなんとかたどり着いた先の診察室で、信頼できる医師に出会うことができる人は幸運だ.精神科・心療内科クリニック群雄割拠の時代に、存在するすべての精神科医が適当な助言をしてくれるかと問われれば、それは保証し難い.私の根拠なき意見を言うと、その人がどんな大学を出たとか、どんな研究をしたかとか、どんな資格を持っているかは関係がないように思う.資格は持っているに越したことがないが、その人の人情humanityを担保しない.

 *ガチャ:オンラインゲームで導入されるマイクロトランザクション;課金サービスの一つでゲームに登場するアイテムが無作為で提供される抽選の通称.カプセルトイに由来する.

 では、幸運ではない人はそのまま信頼しがたい医師のもとで絶望せよ、というのかというと、そうではないと私は思う.毎回初診料を払うことは癪かもしれないが、条件がゆるせば思い切って主治医を変えてしまった方が良さそうだ.医者への不信感を増長させて新たな神経症を宿すよりも、転医して新しい助言を得たほうが良いかもしれない.するとドクターショッピングという汚名を着せられてしまうのではと恐れる気持ちが出てくる.それはとてもわかる.だがそのような内省が働くのであれば、あまり気にしない方が良い.そんな汚名は「着こなす」くらいのスタンスで良い.初診の度に担当医を変えろとも、別に100点満点の医者を見つけろということを言っているのではない.安心していただきたい.そんな奴は絶対にいない.

 期待∝重圧

 2022年4月から高校の保健体育で40年ぶりに精神疾患に対する項目が復活するらしい.確かに自分の頃は何も教わらなかったな、という気持ちでいる.一体どのようなことを教えるのか、ということについて、平成30年度にされた学習指導要領を閲覧すると、以下のようなことを学習の狙いにしている.

精神疾患の予防と回復
 精神疾患の予防と回復には,運動,食事,休養及び睡眠の調和のとれた生活
を実践するとともに,心身の不調に気付くことが重要であること。また,疾病
の早期発見及び社会的な対策が必要であること。

高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説

 具体的な疾患には、「うつ病,統合失調症,不安症,摂食障碍など」と、四つが挙げられている.個人的な感想を言えば、どれも教えるのは大変だろうな、と心から養護教諭や保健体育の教諭の労苦が偲ばれる.これらの原因ははっきりしていない、というのが厄介だ.

 こうした精神保健衛生の項目を教育することは歓迎される一方、教育側の重圧と負担はいかばかりかと邪推してしまう.彼らは彼らで慢性的な残業を強いられ、調和のとれた実践と心身の不調への気付きが困難なキャリアにいるのだから.労働環境という社会的な対策が急務であることは現場が一番わかっているはずだ.期待や応援したい気持ちはすごくあるのだが、矛盾した命題に挟まれている人々に向かって、外部の人間がヤンヤヤンヤいうのもためらわれるし、複雑な気持ちでいる.

今後とも宜しくお願いします

 さて、いつも通り好き勝手なことを色々書いてみたところで、ここで今回はおしまいにしたいと思う.ゆっくりとダラダラしながら、二年目を過ごすことにしたい.ここまで読んでくださりありがとうございました.

 

 

 

 

 

 

 

 

症例アンネ・ラウ

常識とか自明性とか

 世の中で言われている「当たり前のこと」というのは案外とらえがたいもので、わかっているふりをしているようで説明できないものが多い.「自然」だとか「常識」「自明性」というものはひどく扱いが難しい用語だ.

あるとき、私は

 「お前には常識がない」

と最近言われたことがあった.どのような背景でその言葉を言われたのかというと、詳しくはいえないが、私の人生で私が選択したことが相手にとって「非常識」な選択であったように受け止められたようだ.私の選択は少なくともその人に害する行為ではなかったはずなのに.とはいっても本当の本当に私が非常識である可能性は常に残されているが.

 その言葉は私の心をナイフで切り裂き、えぐり出すような侵襲的なものに感じられた.りんごにナイフを突き立て、グリグリと回転させると果汁が染み出してくるように私から嫌な汁がこぼれた.傷はもう閉じない.

 「常識」という普遍的価値をもつようでいて、その価値観が主体によって目まぐるしく変わる概念は、私にとって見えない強制力と暴力をもつように思った.こういうときなぜか胸の奥がざわついて重苦しくなる.不思議な現象だが心身が不分離なものであることを実感する.この胸の奥をえぐられる感覚は二度と感じたくないほど不快なものであるはずなのに、この何年か、数え切れないほど経験してしまった.

 その経験をする前から、私は「当たり前」を当たり前たらしめること、「自然」だとか「すでに明らか」なこと、というものを容赦なく使うことに対して一種の危うさを見出すようになった.

 「ちょっと待ってて」「少しでかけてくるね」

 これらの言葉にある「ちょっと」「少し」の持つ時空間の射程は話者の文脈や関係性から「自然」と浮き上がっていくものであるが、この時空間に対する感覚が「当たり前」であることというのはなかなか説明しがたいのではないか.特に、こうした言葉に対する感受性の高い方々にとってこれらの言葉はひどく不親切でわかりにくい呪詛となる.

 改めていうと「常識」は社会構成員の一人ひとりに規範的強制力を課す概念であるが、それは決して普遍的ではない.私達が全裸で外を歩き回らないのは「常識」だが一万年くらい前は全裸は「常識」だっただろう.私達が人権をもっているのは当たり前かもしれないが、つい百年くらい前までは自由は当たり前ではなかった.タバコを吸うことが害であるならば廃止されるのは当たり前かと思えば、我々は一定の年齢に達すれば無条件で喫煙ができる.必ずしも当たり前ではない.

 「当たり前」というのはひどく使いにくく難解な言葉なのに、多義的で曖昧であるために広く用いられてしまう危険性があるように私は思う.どのような文脈の中で用いられているかを明示しないことには「当たり前」は暴走し、私達のもとに馴致することはできない.そして「当たり前」や「常識」を否定することは、私達の存在を根本から否定する恐ろしさを持つ.だから私はあのとき傷ついたのだろうか.

Natürlichen Selbsterständlichkeit

 ここで「当たり前」について検討した著作を紹介したい.

 1971年のドイツで出版された本に”Der Verlust der Natürlichen Selbsterständlichkeit. Ein Beitrag zur Psychopathologie symptomarmer Schizophrenien”というものがある.なんだこの題名の長さは!と思うが日本語に直すと「自然な自明性の喪失.症状に乏しい分裂病の精神病理学への一寄与」という.この本の和訳はみすず書房から出版されており、木村敏によって1978年に紹介された.「自明性の喪失」として一部の界隈では知られている名著である.*分裂病という記載があるがこれは現在では統合失調症という呼称が適切である.当時の表現であることをここでお断りする.

 どういう本か.序文は次のように始まる.

 二つの問題領域がこの著作において扱われている.一つは人間が世界の内に根を下ろしていること(碇泊していること)一般についての現象学的解明、より厳密にはフッサールの意味での「間主観的に構成された生活世界」における人間の根のおろしかたである.もう一つは、寡症状性分裂病(単純型分裂病および症状に乏しい破瓜病)においてことにはっきりと露呈されるような、基底的な分裂病性本態変化に関わるものである.

 前者は現象学的人間学の領域、後者は臨床的精神病理学の分野に含められる.この二つの問題を一冊にまとめた理由を筆者は、二つの問題領域の間に重要な関係があり、その関係こそがこの著作の真の主題をなしている.その共通の問題点とは、「常識」(コモン・センス)の病理学であると言う.そしてコモン・センスというのはそれが月並みできわめて自明なものであるという点に目を奪われて、とかくあまりにも見逃されやすいが、哲学的にも経験的にも非常に注目すべき、独特の基底的な機能である、とする.「当たり前」を当たり前たらしむ機能を二つの学問から検討する著作である.ニッチだが、私にとってはジャストミートな問題である.

 アンネ・ラウという症例が紹介される.彼女は二十歳で睡眠薬自殺を図り、筆者であるブランケンブルク(W. Blankenburg)のいる病院に入院してくる.彼はハイデガーの弟子であるが医学に転進した.担当医師らは彼女に対して面接を行い、病歴を構成して詳細な検討を行う.その後、筆者は診断的には「寡症状性分裂病」であるのが最も適当であろう、と考察する.

 さて、寡症状性分裂病とはなんぞや.今日の臨床ではもはや使われない用語である.現代の用語でいえば統合失調症なのだが、寡症状性、つまり症状に乏しいという意味の性質は現在の診断基準(DSM)では存在しない.そもそも症状を当てはめるためには症状ありきなのだから、寡症状というのは今の操作性診断基準にふさわしくないだろう.統合失調症の診断基準を参照すれば、妄想、幻覚、まとまりのない言葉と行動、陰性症状が主なもので、五つのうち二つを満たせば、期間や除外診断を検討した上で診断が確定できるものになっている.寡症状性分裂症はそういった症状に乏しい分裂病であるというのが端的な表現であろう.かつては破瓜型、緊張病型、妄想型、単純型といった病型分類による診断は多かったが、DSMでもはやこのような病型分類存在しない.なぜか.それは本旨を大きく外れることになるのでここでは触れない.まずはアンネの言葉を引用してみよう.彼女の言葉に妄想はないことがわかるだろう.

 私に欠けているのはなんでしょう.ほんのちょっとしたこと、ほんとにおかしなこと、大切なこと、それがなければ生きていけないこと…….家ではお母さんとは人間的にやっていけません.それだけの力がないのです.そこにいるというだけで、ただその家の人だというだけで、ほんとにそこにいあわせているのではないのです.___<中略>___私に欠けているのはきっと、自然な自明さということなのでしょう.

≪それはどういう意味?≫

 だれでも、どうふるまうかを知っているはずです.だれもが道筋を、考え方を持っています.動作とか人間らしさとか対人的関係とか、そこにはすべてルールがあって、だれもがそれを守っているのです.でも私にはそのルールがまだはっきりわからないのです.私には基本が欠けていたのです.

 彼女の言葉は数頁にわたって記載されている.大方は「ごく当たり前のことがわからない」という愁訴が続く.入院時の所見からは一見したところ、外面的には、問題のない、気立てのよい東独生まれの女の子のように思われた、という記載があるが、この印象は誤りであったと続く.鈍重といってもいいほどの平凡な外観の背後に、極度に敏感でもろい精神構造と、人格の著名な部分的未熟さが潜んでいると評している.彼女の話し方は一生懸命に言葉を探そうとし、同じことを繰り返したり途切れたりで、まるで支離滅裂に近いものになる.一定のテーマでまとまった文章をつくることはできなかった.自分では考えが途切れる、急に何もわからなくなるといっていたが、真の意味の思考奪取は確認できなかったとされる.知能検査(ウェクスラー式)では言語性107,動作性98,総指数103で年齢相応の平均的な知能を示した.しかし、行動の緩慢化、要領の悪さ、情熱的な囚われのために成績は悪くなっていたという.ロールシャッハ・テストでは解釈意欲の低下を示した.反応数は115と異常な多さだが、明らかな保続傾向があり、コンプレックス反応の典型的なものがほとんどみられなかった.この検査では診断はできなかったと記載がある.

 要するにこうした所見からは、患者は自分の力では対処できない状況につねにあるということが示された.知能や想像力は優れている一方、実生活での対処能力が全般に及んで低下していること、周囲とのつながりが表層的で非人格的なものになってしまっていること、人生とのあらゆる種類とのつながりがひどく貧困化していることが記述された.

 当初ブランケンブルクは、彼女が人格の発達遅滞に伴う異常な体験反応であるか、神経症圏の範囲で理解されるものと考えていたが、精神病圏なかでも統合失調症を鑑別に考えるようになったのは、経過から唐突でしばしば不適切な感じのする感情の動き、移り気な振る舞い、軽度の衒奇症、著しい思考障碍が見られたからだという.治療について述べれば1970年代における薬物療法をはじめとする医療は有効でなかった.電気けいれん療法も有効でなかったとされる.精神療法も支持的なものを除けば、彼女はひどく抵抗し自殺念慮を増すばかりであった.彼女は部分寛解を経て一年後に退院した.デイケアでの作業療法を行ってから家政婦として働くまでになったが、根本的な変化は生じていなかったと担当医は考えたようである.やがて急激な病状の悪化、彼女は自殺念慮が増していき、家人の目を盗んで自殺した.

 惜しむらくは彼女を救命できなかったこと、寛解に導けなかったことであろうと私は思う.もし、アンネ・ラウのような症例が現代の日本に現れたとするならば、私達はどのような考察を行うだろうか.どのような診断を下すだろうか.もしかすれば彼女の振る舞いからアンネは発達障碍という広義な篩の上にかけられて、その診断に基づく治療がなされたかもしれない.統合失調症の診断を下す医師は少ないのではないかという印象ももつ.彼女は現代においてリカバリーに導くことができるだろうか.こういう問いかけは歴史のIFのような、「もし高杉晋作が病死していなかったら」といった反則技にあたるので、考えすぎるのもよくない.だが現代においてアンネ・ラウの病理に接近することができる医師はどれだけいるだろうか、という疑問を持たざるをえない.「自然な自明性の喪失」という言葉を診療録に書き留めて、それを検討するだけの精神的余裕があるだろうか.彼女を癒せるだろうか?

 ルートヴィヒ・ビンスワンガー(L. Binswanger)のような立場から述べると、私達はもともと自明性と非自明性の弁証法的な動きが備わっている存在だという.自明性が止揚することによって新たな自明性に取って代わる.そうして私達現存在はその単一性を保つことができる.これを人間学的均衡という.それは常に弁証法的関係性を意味する.不均衡はその均衡の破綻である.「自然な自明性の喪失」というのは現存在「Dasein」における自明性と非自明性との弁証法が後者の側に引き寄せられることと同義である.つまり、私達を取り囲むすべての事物とのかかわりを根本的に支えている自明性が、疑わしいものとなる、ということになる.

なにもかも、ほんとになにもかもがとても疑わしいのです.私にはなにがなんだかちっともわからないのです…….なんとなく生きることなんてできないことですもの……なんとなく生きることということにすっぽり浸かっているなんて、とてもできないことです.

ブランケンブルクは現象学的検討において、「自然な自明性の喪失」を以下の四つの観点から究明できると述べた.

・世界との関わりの変化(世界の意味指示性が全体に不確実になる)

 いまはもう、いろんな感じが痛く感じられるだけになってしまいました……いろんなことのつながりというのか、ほかの人たちと同じ一つの感じを__世界の感じというようなものでしょうか__もっているというそんな感じがしないんです.以前はなんにもできないっていう感じだったのです.

・時熟の変化(時間構成の問題、時間を経験するということができない)

 現実のうちにとどまることがとてもむつかしいのです.毎日毎日、新たに、はじめからやりなおさなければなりません.

・自我構成の変化.(自然な自明性と自立の弁証法的関係の破綻)

 ここの生活の流れに自分をどのようにあわせたらいいのかわかりません.私にはピンとこないんです……作業療法のときも病棟でも、自主的に働くということができません.

・間主観的構成の変化.他者との関わり.

 どうしてほかの人もやはりそうであるのかが、全然感じられないんです.なにもかも、ほんとになにもかもがとても疑わしいのです__生きているということも!

 繰り返しになるが、私達は自明性と非自明性の弁証学的な動きによって存在している.止揚(アウフヘーベン)というヘーゲルでいう、否定・保存・揚上という三つの意味を含んだ機能があって、新たな自明性を作り出す.これは「疑問をもつ」ということによって現存在を統合させる一つの契機でもある.だが、アンネのような統合失調症において、この疑問が過剰になりすぎる<何もかもが疑問になる>と、それは侵襲となり、身体と心と精神とからなる人間存在の全体へ向かって入り込んでくる.これは私達には大変な侵襲であり、現存在を脅かす根本的な、荒々しい身体に迫るような形で起こる.アンネのいう「痛み」というのはメルロ・ポンティ的<受肉化した主観性としての身体>が知覚する侵襲なのであろう.私が傷ついたときも、私という現存在を脅かす侵襲に対する反応なのかもしれない.

 統合失調症というと、表層的な人々はやれ妄想だ、やれ幻覚だという.現代の診断基準をことさら否定するつもりはないが、ブランケンブルクが本著で言わんとしたことは極めて重要なことであり、私達を私達として確かに存在せしめているものこそ、統合失調症の患者にとってはそれが自身を危機に晒すものなのだということだと私は思う.一臨床の立場として感服の思いである.分裂病、現代における統合失調症は人間的な疾患であり、現存在の根幹に関わってくる病である.自明性というのはそれ自身が間主観的に構築されるものだから、自明性が喪失するということは、必ず自己と世界との関係性に関わってくる.統合失調症において、自明性が喪失するという問題は「コモン・センス」に対する判断の動揺である.

 「当たり前」だとか「常識」、「コモン・センス」というのは虚ろな空のように移り変わるエピステーメー的な言葉であることを今一度考えることができた.その性質ゆえに、「コモン・センス」は自身に対して脅威になることもあれば、止揚を経て新たな自明性を築く機会にもなる.近年、「自分らしさ」という実存的な言葉が大手を振って世界中に浸透しつつあるような気配がするが、それは自明性の喪失に対する恐れの裏返しなのかもしれない.きっとアンネ・ラウのような症例は決して少なくないはずであって、もしかすると隆盛を極める発達障碍という診断の影に埋没し、声なき声を上げているのだろうか.私にできることは極めて限られているが、謙虚に自分の力量を超えずに、静かに耳を澄ますことはかろうじてなんとかできそうである.

 ここまでありがとうございました.「自明性の喪失」を買った当初は全くもって本書の内容のがわからないという苦しい思いをしましたが、フッサールやハイデガーといった現象学者の理解に努めることでようやく本書の全体的俯瞰ができたと思っています.とはいっても理解は微々たるものですが.こうした知識の獲得は私の数少ない喜びです.この美しい風景は私だけのもの!